■若松英輔『魂にふれる』で紹介されている、先人たちの「オリジナル本」にはどんな本があるのか、読後興味を持った。わが家にある池田晶子の本は『14歳からの哲学』のみ。小林秀雄に至っては一冊もないという有様。この本にも登場する、小林秀雄の講演テープは図書館から借りてきて聴いたことがあるが。
■そしたらちょうど、著者の若松英輔氏自身が「関連図書」を解説付きで紹介している紀伊國屋書店のサイトを見つけた。
【じんぶんや第81講】:若松英輔「魂にふれる 死者がひらく、生者の生き方」 だ。
■あと、ネット上で読める 若松英輔氏のエッセイ。
■それから、本書の読後感想が書かれたブログをいくつか読んだのだが、いちばん「なるほど」と思ったのが、 「どこかあるところで、終わりなきままに」。 重要なことは、若松氏の以下の言葉にある。
哲学者池田晶子は、こう言った。「死の床にある人、絶望の底にある人を救うことができるのは、医療ではなくて言葉である。宗教でもなくて、言葉である」(『あたりまえなことばかり』)
ここで池田がいう「言葉」は、必ずしも言語とは限らない。それは、ときに色であり音であり、光でもあるだろう。それは人間に意味を告げ知らせる働きであり、また、人間に存在の根源を開示する導きとなる実在である。
井筒俊彦は、そうした存在の深みにある「言葉」を「コトバ」と書いて、言語とは異なる存在の位相があることを明示した。池田にとって、「言葉」(あるいは「コトバ」)は、自己を表現する道具ではない。むしろ彼女は、自己が「言葉」の道具になることを願った。「言葉」は、時代の要求に従って、自ずと語り始めると信じたからである。
死を経験した人はいない。しかし、文学、哲学、あるいは宗教が死を語る。一方、死者を知る者は無数にいるだろう。人は、語らずとも内心で死者と言葉を交わした経験を持つ。だが、死者を語る者は少なく、宗教者ですら事情は大きくは変わらない。
死者を感じる人がいても、それを受けとめる者がいなければ、人はいつの間にか、自分の経験を疑い始める。ここでの「死者」とは、生者の記憶の中に生きる残像ではない。私たちの五感に感じる世界の彼方に実在する者、「生ける死者」である。(中略)
死者が接近するとき、私たちの魂は悲しみにふるえる。悲しみは、死者が訪れる合図である。それは悲哀の経験だが、私たちに寄り添う死者の実在を知る、慰めの経験でもある。
既に空が青くそこに在り、また、そうとして知っていたならば、再びそれを自身につぶやく必要はない。それではそのつぶやきは、一体誰に向けられたものなのか。私が私につぶやくのではない。私がつぶやきによぎられるのだ。つぶやきは「絶対」の自己確認であり、無私の私がその場所となる。(『事象そのものへ!』)
池田晶子の初めての本にある一節である。無私の私になったとき、私たちは悲しみと共に死者と出会う。。男性が「今日は、悲しい」、と言ったのは、テレビカメラに向かってではない。彼がそうつぶやいたのは、死者を傍らに感じていたからである。
(悲しむ生者と寄り添う死者『魂にふれる』p6〜9)
■集英社の季刊誌『kotoba』vol.7(2012年春号) の中に、「死者と共に生きる、ということ」と題して、中島岳志 × 若松英輔 の対談が載っている。
■ぼくが、信濃毎日新聞に載った、中島岳志氏の論説に関して書いたのは、2011年4月19日(火)のこと。この時はじめて、中島岳志氏を知ったのだった。
■いとうせいこう『想像ラジオ』(河出書房新社)を読んで、DJアークがかけた楽曲が気になって仕方がない。
知ってる曲ならばね、頭の中でも想像でいつでも鳴らすことはできるんだ。でも、聴いたことのない曲は、さすがに想像だけでは響いてこない。
だから「YouTube」で確認すればよい訳なのだが、実はそこに「落とし穴」があって、楽曲だけ聴いただけでは、作者いとうせいこう氏が意図する「選曲の意味」は理解できない。つまりは「歌詞」をちゃんと判ってあげないと、ダメなんだよ。
さらには、その楽曲が収録されたCDを最初から最後までトータルで聴いた上での「その楽曲」が選択された意味を理解しないとね。ここは重要。「この本」が書かれた意味を理解しようとする上では、それくらいの個人的努力と実際的な時間と場所と金銭的な労苦は惜しまない。ぼくはね。
海よ
荘厳な海よ、あなたは
全てを壊し
全てを砕き
全てを洗い浄め
私の全てを
呑み込んでくれるのね
(コリーヌ・ベイリー・レイ「あの日の海」のラスト・フレーズ)
さて、次は「ストラヴィンスキー」を入手しなければ。
おっと、演奏するピアニストは、ポリーニじゃなきゃ、絶対にダメなんだよね。(以下、『想像ラジオ』より抜粋)
「さっきからうっすら耳の奥に届いている曲があって、カーラジオ付けてたんかなと途中まで思ってたんやけど、チャラい放送やってることの方が多いし聴くのやめようってナオ君が決めたからスイッチは絶対切ってるんですよ。でも、明らかに聞こえてきてるんです、ラジオから。雑音混じりで。飛び飛びに。
信じて下さい。聴こえるのはアントニオ・カルロス・ジョビンってボサノバの巨匠の『三月の水』って曲で、原題は water of march って言うて、『三月の雨』とか訳されてたりするんやけど、僕とかボサノバが好きな人はあえて『三月の水』って直訳することもあって。それの、エリス・レジーナって歌姫とジョビン本人がデュエットしてる、ガチに定番なバージョンなんです。
考えてみたら、皮肉なタイトルにもほどがありますよ、被災地からの帰り道に。けど、何回もかかってます。繰り返し繰り返しです。」(中略)
では、ここで一曲、あなたに。マイケル・フランクスで『アバンダンド・ガーデン』。打ち棄てられた庭。
いやはや、生楽器とボーカルがしみる一曲でした。昨日、と一応は認識している日の放送で何回もリピートしたブラジルのアントニオ・カルロス・ジョビン。その死を悼んで、彼をこの上もなく敬愛していた米国人マイケル・フランクスが急遽制作したアルバムの中の、これはタイトル曲でありました。1996年の作品。(中略)
ええと、リスナーの皆さんには一曲聴いてもらっていいですか? 少々僕にも気持ちの整理が必要なようです。
あの、そうですね、ここでイギリスの若い女性歌手コーリーヌ・ベイリー・レイのしっとりとした声をお送りします。彼女、デビューアルバムが世界的に成功したあと、夫の突然の死があってしばらく音楽から離れるんですよね。
しばらくして出来上がったアルバムが 2010年の『The Sea』。おじいさんが海難事故で亡くなったのを、彼女の叔母が岸辺から見ているしかなかったという事実をモチーフにした表題作をどうぞ。邦題は『あの日の海』。(中略)
では、本当にここで音楽を。
コーリーヌ・ベイリー・レイで『あの日の海』。
想像して下さい。(いとうせいこう『想像ラジオ』より引用)
■いとうせいこう『想像ラジオ』(河出書房新社)の単行本が発売になった。昨日の土曜日、伊那の TSUTAYA へ行ったら、一冊だけだったが、ちゃんと入荷していた。うれしかった。
この本の後の章では、亡くなった人々の存在をはっきりと感じ、そうした死者たちと新しい関係性を築いていった人々の経験が紹介されている。そこには、哲学者や詩人、批評家、民俗学者、精神科医の肉声がある。また、ハンセン病を患い、療養所で生涯を終えた人もいる。
ここに登場する人は、誰ひとり、聞き書きや調べものによって死者を語ってはいない。みんな、自分が大切にしている経験を礎に、言葉を紡いでいる。そのなかに一つでも、君と死者の関係に呼応する言葉があることを願っている。
■こどものとも0.1.2.『ひよこさん』征矢清 さく、林明子 え(福音館書店)には、「絵本のたのしみ」という「折り込みふろく」が付いているのだけれど、近々単行本として発売された際には添付されない「貴重な文章」なので、以下にスキャンしてアップすることにした。勝手な転載ごめんなさい。
でも、この2つの文章を読んで頂かないことには、若松英輔『魂にふれる』(トランスビュー)の話ができないので、テキストではなく画像で転載させていただきます。
「死者が私のこのふるまいを見たら、どう思うだろう」という問いがことあるごとに回帰して、そこにいない死者の判断をおのれの行動の規矩とする人にとって、死者は「存在しないという仕方で存在する」。それどころかしばしば死者は「生きているときよりもさらに生きている」。
■『ひよこさん』林明子(こどものとも 0.1.2. / 福音館書店)は傑作だと思う。
■読み終わって、いとうせいこうさんは何て真摯な人なんだろう、って思った。テレ朝「シルシルミシル」に、居なくてもいいのに何となく画面に映っているだけの人かと思ったら、大違いだった。
YouTube: Bob Marley - Redemption Song Live In Dortmund, Germany
■それから、『文藝 2013』p126 で、いとうせいこう氏がこう言っているのだ。
でちょうど調べて読んでいたものだったからありがたかったんですね。
不安で仕方なかったから。もちろん「死者と生者が抱きしめ合って生きていくしかないだろう」というのは自分の感覚をベースにしてますけど、何も分からず死者の話を書いてしまったらまずいなとも思っていた。』
で、中島岳志氏は、どの本を挙げたのだろう? 気になるなぁ。
これはたぶん確信をもって言えるのだが、その中の1冊は、『魂にふれる』若松英輔(トランスビュー)だったに違いない。
この本のことは、以前ぼくも取り上げたことがある。
死者は観念ではなく。実在である。
それは思われる対象であるよりも、
思う主体であり、
呼びかけを待つ者ではなく、
呼びかける者なのである。
『魂にふれる』若松英輔(64ページより)
■未だ浮かばれぬ「死者たち」が、聴く耳を持つ「生者たち」と混然となりながら、DJアークの一人語りにポリフォニックに呼応し合うラストは、何だか凄く感動的だったりした。
そして、あぁ、それでいいんだ。
そう思った。
■追伸:昨日の夕方、伊那市立図書館に行って『群像3月号』を読んだんだ。創作合評で、野崎歓氏、町田康氏、片山社秀氏が『想像ラジオ』を批評していると、ツイッターで知ったからね。
でも、残念だったなぁ。町田康氏は、この小説を「オカルト」や「スピリチュアル」という言葉で括ろうとしていたから。
そうじゃないと思うよ。これほど論理的でリアルで、オカルトとも
スピリチュアルとも、最も遠くにある(作者は注意深く、そう誤解されることを避けるように書いている)小説はないんじゃないかな。■伊那市のNPO法人「こどもネットいな」が年に一度出している『ひとなる』という小冊子のために書いた文章なのだが、途中で書き進めなくなってしまい、自分でボツにしてしまったものです。でも、せっかく書いたのでここにアップしておくことにしました。お目汚し失礼致します。
小説に登場する「父親の子育て」
北原こどもクリニック 北原文徳
平成10年4月23日に伊那市境区で小児科医院を開業して、今年で15年になります。それにしても早いものです。あっという間でした。15年という年月が正直信じられません。ただ、開業時にまだ妻のお腹の中にいた次男がいま中学2年生で、当時1歳だった長男も高校1年生となり、今にも父親の背丈を追い越す勢いなのだから、子供たちの成長が、この15年の確かな証しなのだなあと、しみじみ感じています。
本当に、子供はあれよあれよと大きくなります。6年前の夏、当時8月の終わりに鳩吹公園で毎年開催されていた「まほらいな地球元気村」に何回か親子4人で参加し、その機関誌『元気村通信』(2006年秋号 vol.42)に「父親の子育て」に関して文章を載せてもらったことがありました。個人的にすごく思い入れのある文章なので、すみませんが以下に再録させて頂きます。
ぼくの父は、映画『東京物語』で山村聰が演じていたような町医者だった。夜中でも、日曜日でも、急患があれば年中無休で往診に出かけた。それが当たり前の時代だったのだ。だから、年の離れた二人の兄たちは、父親に何処かに連れて行ってもらった記憶があまりないという。でも、三男のぼくは違った。父は日曜日になると、ぼくを車に乗せてあちこちよく出かけたのだ。11年前に亡くなった父にその真意を確かめることはできないが、自分が父親になってみると、当時の父の気持ちが何となく判るような気がする。
子供はあれよあれよと大きくなってゆく。長男は10歳になった。小2の次男もこの半年でぐんと背が伸びた。あと10年もしないうちに、二人ともわが家から巣立っていってしまう。一つ屋根の下、親子水入らずでいっしょに暮らす期間というのは案外短いのだ。ぼくの父はそのことに気が付いたに違いない。
父が死んだ翌年の夏、ぼくの長男は生まれた。父親になったぼくは、赤ん坊を抱っこしながら、親子でキャッチボールをしたり、本気でプロレスごっこに興じる姿を思い浮かべた。さらには、渓流に二人して黙って釣り糸を垂れ、夜にはテント横の焚き火を囲んで、少し日焼けした息子の顔を見ながら「わんぱくでもいい。たくましく育ってほしい」そう思っている自分をイメージした。教条的な父親にだけはなりたくないな、そう思っていた。大好きな椎名誠さんの『岳物語』に多分に影響されていたからだ。
あれから10年が経つが、現実は理想通りにはゆかない。4の字固めですら息子にかけられないし、コントロールの悪いぼくの投球は、息子のグローブの1m上空を越えて行く。先日の尾白川キャンプでは、満足にテントも設営できなかった。格好悪い父親だった。次男は一生懸命、彼なりに慰めてくれた。思春期の手前にさしかかった長男は、ちょっと冷ややかな目でぼくを見上げた。彼が父親を越えて行く日も近いのかもしれない。『十五少年漂流記』を息子が寝る前に読み聞かせしながら、ぼくはふとそう感じた。
この夏、『川の名前』川端裕人(ハヤカワ文庫)を読み終わり、カヤックで川下りする話を思い出し、久しぶりに『続岳物語』を手に取った。やはりこの本は傑作だ。既に椎名私小説の最新作『かえっていく場所』を読んでいただけに、しみじみしてしまう。そうだ、俺は野田知佑さんを目指せばよいのだ。伊那のパパ'sにはうちの息子たちの他に元気のいい男の子が5人いる。彼らの「モ・ノンクル(僕のおじさん)」になろう! ちょっと不良な小父さんにね。
そう思ったら、少し気が楽になった。
いま読むと、多分にアウトドアを意識した文章が可笑しいですが、あの時に西町の「アウトドアショップK」で購入した小川のテントも、長男が中学に入学した後は部活が忙しくて、結局一度も使われることなく裏のイナバ物置に収納されたままです。中学生になると、父親とはもう遊んでくれません。淋しいものですね。
『続 岳物語』椎名誠(集英社文庫)も、椎名誠氏の長男「岳君」の中学入学式当日の場面で終わっています。愛読者としては『続々岳物語』を読んでみたかったのですが、さすがの椎名氏も、思春期の嵐真っ直中の中学生時代の「岳君」を小説の題材にすることはできなかったようです。やはり、父と子の蜜月時代は小学校までなのですね。
この小説の中で僕が特に好きなのは、巻頭の「あかるい春です」と中盤の「チャンピオン・ベルト」。地の果てパタゴニアで椎名さんが息子のために手作りしたチャンピオン・ベルトを巡って、父と子で壮絶なプロレスの死闘が繰り広げられるのです。この部分、最初に読んだ時、ものすごくうらやましかった。
【図1】『チリ最南端の町、プンタアレナスの金物屋「アギラ」で材料を調達した椎名誠氏自家製のチャンピオン・ベルト 』
岳君は10歳になり、小学校高学年を通して、野田知祐氏から釣りやカヌーの手ほどきを受けます。野田さんは、この本の解説で「いい父親であるのは難しいが、いいおじさんであるのはやさしい」と書いていて、父と子の縦の関係よりも、小父と子の「斜めの関係」が案外重要であることを示唆しています。
父親と息子が登場する小説で印象的なのが『川の名前』川端裕人(ハヤカワ文庫)です。この作者は少年が主人公の話が本当に上手い。NHKでアニメにもなった『銀河のワールドカップ』(集英社文庫)もそう。
『川の名前』は、東京都内に住む夏休み前の小学生の主人公が、教室からふと窓の外を眺めると、多摩川支流のその川に「小さな恐竜」を一瞬見たような気がした。そして……というお話。これ面白いです。一気に読めます。川端さんの小説はどれもいいですが、ぼくが一番好きなのは『手のひらの中の宇宙』(角川文庫)。やはり父親と息子の物語ですが、時間と空間、生命と死といった深淵で壮大な世界を垣間見せてくれる不思議な小説です。
いま、ふと思い出した「父と息子」の短篇小説がありました。それは、昨年生誕100年を迎えた高遠町出身の小説家、島村利正の私小説『妙高の秋』です。これもいい。すごくいい。江戸末期、高遠城下で御用商人を務めた老舗海産物商の長男として生まれた島村氏は、文学への道をどうしても捨てきれず、父親の期待を裏切って家出のようにして高遠の家を捨てるのです。まだ14歳の3月初めのことでした。
そうした父と子の確執と和解を綴っていて、淡々とした文章でありながら、著者の胸の裡に去来する様々な思いを、読者は否応なく体感させられます。『仙酔島』『庭の千草』も、決して幸せではなかった祖母や叔母の人生を「あれでいいのだ」と肯定してあげる著者の優しさが心に沁みます。
伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』(新潮文庫)は映画版もよかったですね。ある日突然、首相暗殺の犯人に仕立て上げられた堺雅人が仙台の街中を逃げ回ります。彼の実家に押し寄せたTVレポーターに向かって、父親の伊東四朗が言い放った言葉に泣けました。父親はこうでなきゃいけない。
「おまえ、雅春のことをどれだけ知ってるんだ?言えよ。どれだけ詳しいんだよ。信じたい気持ちは分かる? おまえに分かるのか? いいか、俺は信じたいんじゃない。 知ってんだよ。俺は知ってんだ。あいつは犯人じゃない。雅春、ちゃっちゃと逃げろ!」
小説ではありませんが、向田邦子『父の詫び状』(文春文庫)を読むと、明治生まれの頑固な父親像が、娘の目を通して様々なエピソードと共に印象的に描かれていて実に読み応えがあります。向田さんの文章は、読んでいて読者の五感に直接訴えてきます。食べ物の美味しそうなにおい、写真館で担任の先生の手が彼女の肩に触れた感触など、視覚聴覚以外の感覚(嗅覚、触覚、味覚など)もリアルに刺激されるのです。
戦前の一家の家長として暴君のように威張って君臨した父親の人生。私生児として生まれ、親戚からは村八分にあいながら、母親の賃仕事で大きくなった惨めな少年時代。高等小学校卒で給仕として保険会社(第一徴兵保険)に就職。しかしその後、誰の引き立てもなしに会社始まって以来といわれる昇進を果たし、保険会社の支店長にまで登りつめるのです。以後、宇都宮→東京→高松→鹿児島→東京→仙台と各支店を家族と共に転勤してまわります。
中でも、鹿児島時代のエピソードが出色で、「ねずみ花火」「記念写真」「細長い海」あたりが実にすばらしい。向田邦子は、9〜10歳頃の前思春期時代のことを実に鮮明に記憶していてほんと驚いてしまいます。
せっかちで、空威張りで、それでいて涙もろく子供っぽいところもある父親のことを、向田邦子さんは一見すごく鬱陶しく嫌っているようでいて、その実ほんとうは愛おしく思っているのですね。
そして、彼女の振るまいの其処此処に父親の影を感じる自分がいる。父と娘。じつはよく似た二人だったのです。(未完)
■追記■
<取り上げる予定だった本>
・『なずな』堀江敏幸(集英社)
・『きつねのつき』北野勇作(河出書房新社)
・『13日で「名文」を書けるようになる方法』高橋源一郎(朝日新聞出版)
■『東京ジャズメモリー』の著者は、ぼくより4つ年下だ。だから微妙に「同じ渋谷」でも印象・記憶が少し違うのかもしれない。
なお、ピクニック気分でビールを飲みながらジャズを楽しむというコンセプトの斑尾高原ジャズフェスティバルが(バドワイザーがスポンサー)、田コロにおけるライブ・アンダーの終焉に合わせたかのように、1982年から開催されたのは偶然なのであろうか。(中略)
2010年代に至っては、バーはもちろん、居酒屋、食堂、ラーメン屋、すし屋といった飲食店以外にも、本屋、雑貨屋、美容院、床屋、ホテルのエレベータ内などなど日本中いたる所にジャズが溢れかえっている。
しかしジャズブーム、ジャズライブが盛況、CD販売好調、ジャズファンが増加といったニュースは聞いたことがない。あくまでも手軽で耳あたりの良いBGMになりさがってしまっている。
一方、昔ながらの大音量でジャズを聴かせるジャズ喫茶に至っては、全くの瀕死状態だ。たまに本格派ジャズ喫茶に行くと客はほとんどが中高年の男性で、若い男女はほとんど見られない。というよりそもそも客がいないことが多い。
残念ながらジャズ喫茶はすでに過去の遺物、化石、マイク・モラスキー氏の『ジャズ喫茶論』で言うところの ”博物館” となりつつあるというか、なってしまった。(p91〜92)
■この本『東京ジャズメモリー』のことを知ったのは、例によって『週刊文春』の読書欄「文春図書館」最終ページの連載『文庫本を狙え!』坪内祐三のコーナーでだった。以下、少しだけ引用する。
文芸社というのは自費出版を中心に刊行している版元で、文庫サイズのこの本も自費出版かもしれない。
だがとても面白い。
まず渋谷を中心とした東京本として楽しめる。
<僕が高校入学した昭和53年(1978年)は、渋谷三角地帯がまさに再開発され、109 が建設されている最中であった> と書いているから著者は昭和37年生まれ、私の4歳下だ。だから私の見て来た風景と重なる。(中略)
渋谷の百軒店にあった BLAKEY というジャズ喫茶(1977年開店 82年閉店)。「扉を閉めて外部からの光を遮断してしまうと、大袈裟ではなく真っ暗で何も見えないのである。一般に暗いとされる『占いの館』や遊園地のお化け屋敷よりも暗い」。
「目が慣れるまで暗くて全く何も見えないにも係わらず、マスターが席まで誘導するというごく当たり前な行為も一切なかったので、一応客であるはずの僕らは中腰で自ら手探り・足探り? で空いている席にたどりつかねばならなかった」。
「店内のところどころに客の気配、人影を感じるのだが基本的にほとんど動かず石のように固まっている。」
1980年代の渋谷は白くピカピカしたイメージがあるがまだこのような空間も残っていたのか。(後略)
4月。久しぶりの渋谷。ハチ公口からスクランブル交差点を斜めにつっきって 109 方面へ。つぎつぎとすれ違う、都会のねぇちゃん達の群に感動したり、ため息ついたり。考えてみると、初めて、JAZZ を聴きにこの街へ来た5年前には 109 なんてなかったし、「道頓堀ヌード劇場」のわきの坂を登っていっても、すれ違うのは、上役サラリーマン風の男と、まだ顔のほてりを隠しきれない OL の2人づれぐらいだった。
百軒店界隈もどんどん変わっていくねぇ、などと感心しながら、まずは『ムルギー』のたまご入りカレーで腹を満たす。よし、ここだけはまだ大丈夫。おっと、それからもう一軒。『音楽館』のかどを右へ折れると、目指す JAZZ喫茶『ブレイキー』。
……と、あれっ、ない。『ブレイキー』が無い! 音のしない2階の方をただポカンと見上げていると、人の良さそうなおじさんが階段を下りてきた。
「あ、ここ、今度、ふつーの喫茶店になるんだよ」 「つぶれちゃったんですか?」
「……そーいう言い方しちゃいけないな。都合でやめたんだ。あんた、よく来てたの、そう、じゃあこれからもよろしくね」おじさんは忙しそうに、また2階へ消えていってしまった。
「エ~~、ウッソ~~」ほんとうにそう言いたかった。日本じゅう、いろんな所を旅したけど、やっぱりここが一番、いつもそう思っていた。レイ・ブライアント、ジュニア・マンス、ワーデル・グレイ、リー・モーガン、ビリー・ホリデイの『レディ・イン・サテン』。それに、もちろん、ドルフィー、アイラー、コルトレーンにロリンズ。それからマレイ、アダムス、ビリー・バング。僕のレコード棚はみんな『ブレイキー』で聴いたレコードばっかしだ。
ミンガスが消えた時も、モンクがいなくなった時も、ちっとも悲しくなんかなかった。だって、いつでもレコードで会えるもの。一体、どうしてくれるんだい、えっ、『ブレイキー』さん! JAZZ もとうとうおしまいだね、なんて深刻に考えてしまったではないですかい、えっ。わざわざ東京へ出ていっても、もう行くところがないんですよ、えっ。
取り乱しちゃって失礼しました。最近、ちょっと酒乱ぎみなもので。まあ、でも、いつか知らない街角からあの ALTEC 612-C モニターのハード・ドライビング・サウンドが再び聞こえてくることを、切に願っている今日、このごろのわけで。
(Jazz Life/ 1982年8月号)より
■ただ、ちょっと気になるのは、ぼくが通っていた頃は(1977年〜79年)何も見えないほど「真っ暗」ではなかったことと、マスターは小柄だけれど痩せていて、角刈り(五分刈り?)で黒縁の四角いメガネをかけていた。
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