読んだ本 Feed

2019年7月 8日 (月)

TBSラジオ アナウンサー 林美雄

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■『長野医報6月号』にぼくが書いた文章を、こちらにも転載させていただきます。

【ラジオは友だち】

 いつだって「これは!?」と耳をそばだてた楽曲は、決まってラジオから流れてきたように思います。

ぼくが中学・高校生だった1970年代は、ラジオの深夜放送が大人気でした。糸居五郎の「オールナイト・ニッポン」、落合恵子の「セイ!ヤング」そして、林美雄の「パック・イン・ミュージック」。初期にはラジオ局の専属アナウンサーがDJを務めていました。皆が寝静まった深夜、彼らはラジオから僕だけに語りかけてくれているように感じたものです。

伝奇漫画の巨匠、諸星大二郎の新作『オリオンラジオの夜』(小学館)では、深夜の星空の下、主人公が「異次元ラジオ」に耳を傾けると、昔懐かしい音楽が次々と流れてきます。しかし、いつしか時空はねじ曲がり、読者は不思議な諸星ワールドに引き込まれて行きます。

最近では、パソコンやスマホで「radiko」「らじる★らじる」を通じて雑音のないクリアな音でラジオ番組を聴くことができるようになりました。しかも、過去1週間さかのぼった放送まで、いつでもどこでも何度でも聴けるのです。夢のような時代がやって来ました。一方、AM電波は廃止される憂き目にあります。

 懐かしき「ラジオデイズ」の想い出、今のラジオの楽しみ方、おすすめのラジオ番組など、ラジオの魅力を再発見していただけたら幸いです。

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『東京人 2011年3月号 No.294』12〜13ページ

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YouTube: Booker T. & The MG's - Time Is Tight

【TBSラジオアナウンサー 林美雄】

 1973年11月20日。荒井由実のデビューアルバム『ひこうき雲』が満を持してリリースされた。アルファの社長で、「翼をください」の作曲者でもある村井邦彦は、当時彼女にこう言ったという。「荒井由実というルーレットの目に会社ごと賭ける」と。それから6年後、村井は「YMO」の世界進出のため更なる大博打に打って出ることになる。

 ところが、社長の期待に反し彼女のレコードはまったく売れなかった。歌謡曲でもフォークでもアイドルでもない荒井由実の歌を、どう売ったらよいのか誰も分からなかったのだ。当時はまだ、ニューミュージックやシティポップというジャンルは存在しなかった。

 アルファ宣伝担当の布井育夫は困ってしまい、学生時代から愛聴していたTBSラジオの深夜放送「パック・イン・ミュージック」金曜日第2部(午前3時〜5時)担当だった林美雄アナウンサーにサンプル盤を届ける。彼なら荒井由実の魅力をラジオを通じて拡散してくれるに違いない。林はすぐにアルバムを聴き、直感で素晴らしいと思った。その翌週から自分の番組で「八王子の歌姫。この人は天才です!」と絶賛し、毎週『ひこうき雲』から3曲、4曲とかけまくった。特に「ベルベット・イースター」がイチオシで、半年間毎週かけ続けた。

 当時ぼくは中学3年生で、受験勉強にも身が入らず、深夜ダラダラとただラジオを聴いていた。すると突然、聴いたこともない歌声が聞こえてきたのだ。「ベルベット・イースター」だった。「誰?これ!」衝撃的だった。その少し後だったか、林美雄のラジオに荒井由実がナマ出演し、スタジオのピアノで「ベルベット・イースター」「ひこうき雲」「雨の街を」をライブで弾き語りした回のことを今でも鮮烈に記憶している。翌朝学校に行って「ねえねえ、荒井由実って知ってる?」と訊いても、誰も知らなかった。当時は、吉田拓郎や井上陽水、カーペンターズ、ミッシェル・ポルナレフが全盛だったのだ。 

 

 ぼくがラジオの深夜放送を本格的に聴き始めたのは中学2年生の頃だ。部活に疲れて帰宅し、夕飯を食べ終わるとまずは寝る。夜11時過ぎに母親に起こしてもらい、それから午前4時くらいまで勉強。もう一度寝て、朝8時に登校。そんな毎日だった。

 皆が寝静まった深夜に、一人だけで起きているととても淋しい。居たたまれなくなってラジオをつける。すると、DJの声が僕だけに語りかけてくるのです。「おい、元気かい? 大丈夫だよ、明日も頑張れよ!」と。

 あの頃からアマノジャクだったぼくは、SBCラジオでネットされていた「オールナイト・ニッポン」は聴かずに、東京都港区赤坂六本木TBSのスタジオから東京タワーの電波塔を介して山越え谷越え南アルプスも越えて届いた「パック・イン・ミュージック」954kHzのAM電波を、長野県上伊那郡高遠町でキャッチしていた。深夜3時過ぎにになると、不思議と電波状況が良くなって、案外聴きやすかったのだ。

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 林美雄アナは、マイナーな日本映画が大好きで、特に藤田敏八監督の『八月の濡れた砂』に惚れ込んでいた。石川セリが歌う主題歌は、まだレコード化されていなかったので、日活でサントラからテープにダビングしてもらい「パック」の冒頭で毎週しつこくかけ続けた。荒井由実の前は、石川セリ。自分で「これはイイ!」と感じた映画、音楽、芝居を、林はとにかくラジオで熱くプッシュしまくっていたのだ。そんな林美雄にぼくは圧倒的な影響を受けた。中学2年生の夏休み、「新宿文化」の地下にあった「アンダーグラウンド蠍座」で『八月の濡れた砂』のリバイバル上映を観ている。以来ずっと日本映画大好き人間だ。

 林が次に惚れた映画が、神代辰巳監督、長谷川和彦脚本、東宝映画『青春の蹉跌』だった。ぼくは伊那映劇で観た。檀ふみの水着姿がまぶしかった。テーマ曲を作曲したのは、元ザ・スパイダースの井上堯之。以降「林美雄パック」のエンディングでは、まず『青春の蹉跌のテーマ』が流され、続いてミア・ファロー主演、キャロル・リード監督作品の映画『フォロー・ミー』の主題歌(ジョン・バリー作曲)が流れて番組が終わるというフォーマットが出来上がった。

 この頃、林美雄を通じて長谷川和彦と知り合った菅原文太は、沢田研二と組んで『太陽を盗んだ男』を撮ることになる。原田芳雄と松田優作は、二人してよく深夜のTBSスタジオに顔を出し、林の前で「リンゴ追分」や「プカプカ」をギターを弾きながらナマで唄っては帰って行ったものだ。

 1974年8月30日。スポンサーの付かない「パック・イン・ミュージック」金曜日第2部は廃止されてしまう。憤懣やるかたない思いでラジオを降板した林のために、荒井由実は感謝の気持ちを込めて曲を書いた。それが『ミスリム』に収録されている「旅立つ秋」だ。

 

 1975年6月11日。熱烈な林美雄リスナーたちの署名運動が実を結び、林は「パック」に復帰する。今度は水曜日の午前1時〜3時。ぼくは高校2年生になっていた。以前より聴き易い時間帯に移ったので、毎週欠かさず聴いた。

 この頃の人気コーナーに「苦労多かるローカルニュース」がある。ちょうど今の『虚構新聞』のような風刺を効かせた冗談記事を、林美雄がNHKのアナウンサーのように真面目くさって読むのだ。ニュースの前後には、下落合本舗(これも架空の会社)のパロディCMが流された。どちらもリスナーからの投稿葉書で作られていて、ぼくも試しに投稿してみた。そしたら何と採用され、ぼくのCMがラジオから聞こえてきたのだ。たまげた。聴きながら心臓がバクバクした。

いや大して面白くはない。国鉄のストライキで飯田線が遅れて皆困っていた。電車の車体にはアジテーションの文字がペンキで大きく描かれた。これ消すの大変だろうなあと思い、時間で消える「ストラインキ」を使った「遵法塗装」はいかが? というくだらないCM。

採用されると、TBSのネーム入りライターがプレゼントされる。ぼくは友達に自慢しようと学校へ持って行き、廊下で見せびらかしていたら、ちょうど通りかかった現国の伊藤先生に見つかって、ライターは取り上げられてしまった。

 タモリをラジオで初めて聴いたのも「林パック」だ。博多のビジネスホテルで、山下洋輔トリオに偶然発見されたタモリは、この年の7月に上京し、赤塚不二夫のマンションに居候しながら、夜な夜な新宿「ジャックの豆の木」で密室芸を披露していた。10月22日、漫画家の高信太郎に連れられて「林パック」に登場したタモリは、林が読む「苦労多かるローカルニュース」をデタラメの中国語やドイツ語で同時通訳した。さらにお得意の四カ国親善麻雀も披露。まだテレビ・ラジオに出演していない頃のことだ。

 おすぎとピーコを知ったのも「林パック」だ。山崎ハコ、上田正樹、憂歌団、南佳孝、橋本治『桃尻娘』、野田秀樹、ムーンライダーズ、RCサクセション、そして佐野元春。みんな林美雄が教えてくれた。

 

 1977年2月。毎年受験シーズンになると、林は黄色い短冊に緑色のマジックで「みどりブタ大明神」の御札を自ら手書きして希望する受験生に送っていた。ぼくも返信用封筒に切手を貼って同封し御札を送ってもらった。何でも合格率80%以上を誇るありがたい御札だ。そしたら、模試ではずっとD判定だった大学に奇跡的に合格することができた。ぼくは今でも林美雄のおかげだと思っている。

 しかし現金なもので、大学生になると彼への恩もすっかり忘れ「林パック」をほとんど聴かなくなってしまった。映画情報は『ぴあ』を見れば載っていたし、知らないレコードを友達が次々と貸してくれた。ジャズ喫茶に入り浸り、ジャズばかり聴くようになった。もう林美雄の「目利き情報」は必要でなくなったのだ。

 

 1980年9月30日。この日「林美雄パック」は最終回を迎える。ぼくは聴いていない。エンディングが近づくと「青春の蹉跌のテーマ」が流れ出す。このテーマに乗せて林は毎週自分の個人的な思いをマイクに向けて話すのが恒例となっていた。しかし、最終回のこの日「3分16秒間」林は沈黙した。音楽が終わったあと、林はおもむろにこう言った。「音としては(音声に)出ていませんでしたけれど、いろんなことを言いました」と。

 ぼくより2つ年上の劇作家・宮沢章夫は、1970年代が終焉し1980年代の波に乗ることが出来なかった林美雄の無念と絶望が、その沈黙にあったのではないかと分析する。彼が構成したラジオ番組『林美雄 空白の3分16秒』が、2013年12月27日にTBSラジオで放送された。ぼくはradikoでエンディングの「フォローミーのテーマ」を聴きながら、ただオイオイと泣いた。林アナ。ごめんなさい。今でもYouTube で聴くことが出来るので、興味を持って下さったなら是非聴いてみて欲しい。

 1970年代。かつて林美雄という深夜放送のカリスマ・アナウンサーがいた。林はいつもラジオのリスナーに向かってこう言っていた。「いい音楽を自分の耳と感性で探し出せ! 芝居を観ろ!映画を観ろ! 本当にいいものは隠れている。だから自分で探さないといけない。自分でいいと思ったものを信じて、それを追いかけるんだ」

 

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『東京人 2011年3月号 No.294』40〜41ページ

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YouTube: 林美雄 空白の3分16秒

2019年3月 3日 (日)

昨年読んだ本、観た映画、お芝居、聴いたCD

■YouTube で「第9回ツイッター文学賞」の発表を見た。今回は、投票できる本がなかった。

それで思い出して、1月初めにツイートしたものを、一部補足して、こちらにも残しておきます。

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■2018年に読んで、印象に残ってる本。ベスト本は、チムニク『熊とにんげん』。あと、図書館の本なので書影はないが『甘粕正彦乱心の曠野』は面白かったな。それから、寺尾紗穂さんが編纂した『音楽のまわり』。

2018/09/12

「赤石商店」で買ってきた、寺尾紗穂さんが編集して自費出版した『音楽のまわり』を読んだ。10人の個性的なミュージシャンが、音楽以外のエッセイを書いている。ユザーンや浜田真理子さんみたいに、よく知っている人やぜんぜん知らない人もみな読ませる文章だ。伊賀航、植野隆司、折坂悠太、知久寿焼、マヒトゥ・ザ・ピーポーの文章は初めて読んだが、感心したな。ユザーンや浜田真理子さんは期待通りの安定感。寺尾さんは、読者の期待の外し方が絶妙で、めちゃくちゃ上手い。各執筆者への編者からのコメントも面白い。

あと、『心傷んでたえがたき日に』上原隆(幻冬舎)、『颶風の王』河崎秋子(角川書店)もよかった。

■2018年に観て、印象に残ってるお芝居。木ノ下歌舞伎舞踊公演『三番叟(SAMBASO )・娘道成寺』まつもと大歌舞伎(市民芸術館 6/18)。ケラリーノ・サンドロヴィッチ作・演出『百年の秘密』(まつもと市民芸術館 5/13)。同『修道女たち』(兵庫県立芸術文化センター 11/23)。ケラさんて、凄いな。

2018/10/10

今日は、飯島町文化館大ホールで『ペテカン』のコント9本+スペシャル・ゲスト柳家喬太郎師の落語2題。いや面白かった!以前観た「 ザ・ニュースペーパー」や「鉄割アルバトロスケット」とは違って、健全でほのぼのした笑いに場内は満たされた。4人の女優陣が頑張ってたな。あと喬太郎師も超熱演。

喬太郎師匠は、あと、毎年駒ヶ根市の安楽寺である「駒喬落語会」。今年は師匠「柳家さん喬」師との「親子会」だった。8月27日(月) よかったなあ。柳家さん喬師をナマでそう何回も聴いているワケではないけれど、さん喬師のベスト3と言えば「妾馬」「幾代餅」「片棒」だと思っていて(軽いネタ「棒鱈」とか「初天神」も絶品だが)

この日、さん喬師は「幾代餅」と「妾馬」をかけてくれたのだ。うれしかったなあ。涙が出たよ。

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■2018年に観て、印象に残ってる映画。見た順。『ラモツォの亡命ノート』『タレンタイム』(これは二度目の鑑賞)。『わたしたちの家』『枝葉のこと』『菊とギロチン』『カメラを止めるな!』『日々是好日』。7本のうち、何と!5本を「赤石商店」の蔵のミニシアターで観た。

あ、忘れてた! 是枝裕和監督の『万引き家族』は、岡谷スカラ座と伊那旭座で2度見ている。安藤サクラに惚れた映画だ。それから、佐藤健に驚いたのが、瀬々監督の『8年越しの花嫁』。これは伊那映劇(昔の)でみた。脚本もよかったな。『ひよっこ』の岡田惠和。じつに丁寧に作られていたな。

2018/08/16

昨日は、伊那通町商店街「旧シマダヤ」で、マイトガイ小林旭主演、浅丘ルリ子共演の日活映画『大森林に向かって立つ』野村孝監督(1961年・未DVD化)を見てきた。意外と面白かった。美和ダム、伊那市駅前での盆踊り大会、旧八十二銀行伊那支店に浅丘ルリ子が入っていくシーンなどが登場し、会場が湧いた。

出演者が豪華。敵役に金子信雄、深江章喜、安部徹。そして「キイハンター」の出で立ちそのままの丹波哲郎。脇役で高品格、長門勇、下条正巳。あと、スパイダース以前の、ムッシュ・かまやつひろしがギターを担いで登場。これには笑った『居酒屋兆治』の細野晴臣さんみたいで。

当時同棲していた小林旭と浅丘ルリ子。この映画が公開された頃にどうも別れたらしい。ホンモノの大型トラックを谷底に転落させたり、ちょっと『恐怖の報酬』みたいな感じで、結構お金をかけて作っていて驚いた。こちらのサイトに紹介記事が。

若かりし頃の金子信雄を見ていて、誰かに似てる? と思ったのだが、あそうか。爆笑問題の田中だ。

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■2018年によく聴いたCD。七尾旅人の『STRAY DOGS』は、結局CD買ってしまった。これは良いわ。ハンバートハンバートの『 FOLK2』も、さんざん聴いたが、CDが見つからない。誰かに貸したっけ?

それから、南佳孝の『ボッサ・アレグレ』。このCDには救われた。

2019年1月23日 (水)

村井邦彦の友人であり、ビジネス・パートナーであった川添象郎


YouTube: YMO 40 TALK ABOUT YMO 村井邦彦×川添象郎

■この動画を見て、ぼくは「誰?これ。脳天から発せられたような、かん高い声して、脳梗塞後の古今亭志ん生みたいな喋りをしている爺さんは?」そう思った。彼が『音楽家 村井邦彦の時代』に何度も登場した「川添象郎」だったのか。いや、驚いた。初めて見た。 (じきに続きを書きます。)

2019年1月 6日 (日)

『長野医報』2017年10月号(あとがき)に書いたこと

 月刊誌『文藝春秋』(2016年12月号)に掲載された、脚本家・橋田壽賀子さん(92歳)のエッセイ「私は安楽死で逝きたい」は、読者の大きな反響を呼びました。

28年前にご主人を亡くし、子供もなく、親しい友人もいない天涯孤独の身で、いまも元気で熱海の田舎に独り住まいの橋田さん。仕事はすでにやり尽くし、世界一周旅行は3回、北極点にも南極へも行った。やり残したことはもう何もない。とうに断捨離は済ませ、エンディング・ノート(死んだことも公表せず、葬式や偲ぶ会もしない)も完璧です。

 ただ、病気になったり、認知症になったりして、人さまに迷惑をかけながら死んでゆくことだけは耐えられないと彼女は言います。そうなる前に、合法的に安楽死が認められているスイスへ渡航して、逝かせてもらいたいと。「生まれる自由はないのだから、せめて死ぬ自由は欲しい」そう彼女は結んでいます。

 もちろん、日本では「安楽死」は認められていません。積極的延命治療は行わないが、苦痛を和らげるために十分な緩和ケアは施す「尊厳死」も日本では法制化されておらずグレーゾーンのままです。しかし安易な制度化は、家族による「姥捨て」や自殺の推奨、さらには相模原障害者施設殺傷事件の犯人の主張「役に立たない人間は死ぬべきだ」という優生思想とも結びつく恐れもあります。

 経済的にも健康面でも恵まれた橋田さんはレアケースです。認知症や持病を抱え、経済的にも貧窮した高齢者が多くを占めるようになる超高齢者社会を目前にして、これからの終末期医療はどうあるべきなのか?

 力のこもった投稿が多数寄せられた今月の特集「終末期医療について思うこと」は、たいへん読み応えのあるものとなりました。ご執筆頂いた皆様ありがとうございました。

 さて私事、この7月から新しく広報委員を拝命いたしました。長年広報委員を務められた春日謙一先生、そして先輩広報委員の先生方から優しくご指導いただきながらも、任務の重責に緊張しています。どうぞよろしくお願いいたします。11月号の特集は「私の好きなことば」12月号は「在宅医療と介護の先に見えるもの」です。ふるってのご寄稿をお待ちしております。

 広報委員 北原文徳

2018年12月31日 (月)

『音楽家 村井邦彦の時代』(その2:『キャンティ』の続き)

すっかり更新が遅れてしまいました。

なんと、大晦日の夜です。石川さゆりが「天城越え」を歌っています。

■「キャンティ」のことを、村井邦彦氏が書いた文章がある。『村井邦彦の LA日記』(Rittor Music)193~232ページに載っている。

2015年9月27日28日に渋谷 Bunkamura オーチャードホールで開催された『ALFA MUSIC LIVE』のプログラムのために、アルファの始まりから終わりまでを彼自身が書いた「この美しい星、アルファ」という文章だ。

 川添浩史・梶子夫妻もアルファの先祖だ。そもそもバークレイ・レコードへの道筋をつけてくれたのも川添さんだった。イタリアンレストラン、キャンティの創業者として知られているが、レストランは副業で、本業は国際文化交流だった。

 川添さんは、1930年代のパリに遊学し、ロバート・キャパやアンリ・カルティエ・ブレッソンといった写真家を始め、多くの芸術家たちとの交友を深めた。戦争後、日本が独立を取り戻すと、早くも1954年には、舞踏家・吾妻徳穂の「アヅマ・カブキ・ダンス」の団長として一行を率い、ニューヨークを始め7都市のアメリカ・ツアーを成功させた。翌年は10ヵ月かけてイタリア、イギリス、ドイツ、アメリカなどをツアーしている。

 イタリアでエミリオ・グレコに師事して彫刻を学んでいた梶子さんと会い、十二単衣(ひとえ)を着て舞踏の内容を手短にイタリア語でナレーションする役を頼んだら、観客に大好評だったので、引き続きパリ、ロンドンでも頼み、結局全行程を共にした。日本に戻って結婚している。

 以前、川添さんは戦前のパリで出会ったピアニストの原智恵子さんと結婚していた。川添象郎・光郎の兄弟は原さんと結婚していた時の子だ。僕は川添兄弟と知り合って高校生の時からキャンティに出入りしていた。梶子さんは(中略)何かと相談相手になってくれた。

 川添さんはその後、文楽のアメリカ公演、『ウエスト・サイド・ストーリー』のオリジナル、ブロードウェイ・キャストによる日生劇場の1ヵ月公演など、数えきれないほどのイベントをプロデュースしている。ファッション界では、クリスチャン・ディオールやディオールの後継者でのちに独立したイヴ・サン=ローランを日本に紹介し、梶子さんはサン=ローランの日本代表を務めた。

 僕や川添象郎にはそうした川添夫妻のDNAが流れているから、現代日本のコンピューター音楽、YMOを世界ツアーに出すという発想はごく自然なものだった。細野やユーミンもよくキャンティに来ていた。

 梁瀬さん、古垣さん、川添さんご夫妻はそれぞれに個性があったが、共通項を挙げれば、世界中に真の友人を持っていたこと、どの国のどんな人にも等しく接し、正々堂々としていながら、偉ぶるようなことは一切なかったことだ。それで僕のような若輩の者でも、一人の友人として扱ってもらえたのだと思う。持つべきものは良き先輩たちだ。(『村井邦彦 LA日記』p226〜228)

2018年8月12日 (日)

最近読み終わった本(2)『レコードと暮らし』田口史人(夏葉社)

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「赤石商店」で、田口史人「出張レコード寄席」を聴いてきた。いやあ、面白かった。最後まで聴いてみないと判らないさまざまなドラマが、人知れず作られたシングル盤レコード、ソノシート、ラッカー盤一枚ごとに確かにあった。あと、ポータブル・レコードプレーヤーの音が案外良くって驚いた。

昨日「明石商店」で、高円寺「円盤」店主:田口史人さんのお話を聴いていて、TBSテレビ『マツコの知らない世界』に呼ばれるんじゃないかと思った。そしたら「タモリ俱楽部」に既に出演されていたのだね。

7月13日

先日「赤石商店」で聴いた、田口史人さんの「レコード寄席」の最後にかけてくれたレコード、豊中市立第五中学校校長・田渕捨夫先生が退職する時の、あの感動的な言葉が、36ページに書き起こされて載っていたよ!『レコードと暮らし』

続き)田渕捨夫校長先生のことば抜粋「いつも言う『過去』というものはみなさんの記憶にあるだけである。『将来未来』っちゅうものはみなさんの想像にだけある。実際に存在する実在は、今そこにあるみなさんそれだけなんだ」(『レコードと暮らし』田口史人著・夏葉社 37ページより)

続き)でも、田渕校長の言葉は、文字に起こした活字を目で追って読んでいても、伝わって来ないんだよなあ。ソノシートのレコードを、あの小さなポータブル・プレーヤーに乗せて、田口さんが神妙に神社の神主みたいな感じで、厳かにレコード針を落とすと、聞こえてくるのです。あの、田渕校長の声がね。

続き)先だって「赤石商店」にカレーを食いに行ったら、店主の埋橋さんが言った。「田口史人さんが帰る時、飯田線の時間がまだあったから、伊那北駅近くのレコード店『マルコー』に寄ってみたんです。そしたら、2階に案内されて、引き出しから「お宝」のレコードが次々と見つかった!」とのことです。

(以上は、ツイッターでの発言より再録)

■高円寺で、インディーズ・レコードや自作の自費出版本を扱う店「円盤」を経営する田口史人さんは、1967年の生まれだ。ぼくより9つも若いのが信じられないような、年期を重ねたこだわりのアナログ盤愛好家だった。肩まではかからない中途半端な長髪で、牛乳瓶の底のようなメガネをかける田口さんは、どことなく早川義夫の雰囲気があった。

レコード店に勤務したあと、音楽ライターとして活躍されていただけあって、とにかく文章が読ませる。淡々と書いているようでいて、対象物への限りない愛と慈しみが溢れ、内に秘めた熱情がメラメラと燃え出すような、読者のココロを鷲づかみする文章を書く人だったのだ。

■田口さんは車の運転免許を持っていない。だから、全国津々浦々、フーテンの寅さんみたいに、売り物のCDと本を詰め込んだトランクをぶら下げ、肩にはポータブル・レコードプレーヤーやレコードがたくさん入ったショルダーバッグという大変な出で立ちで、電車で移動巡業販売の旅を続けている。

営業の旅でありながら、レコードの仕入れ買取の旅でもある。その地方ならではの貴重な「出物」があるからだ。でも、彼が探しているレコードは、駅から遠く離れた郊外の「古道具屋」でしか扱っていない。古物商は、売れない在庫をたくさん抱えているから、その保管場所が必要だ。当然、地代の高い市街中心地に倉庫は持てない。へんぴな郊外にバラック仕立ての店を構えることになる。

伊那でいえば「グリーンファーム」であり、西春近広域農道沿いの古道具屋がそれだ。車を運転できない田口さんが、いったいどうやって「そんな店」を見つけ実際に訪れているのか、謎だ。そのあたりのヒントが、当日購入した「ホチキスでとめただけの簡易自主製作本:店の名はイズコ」に書かれています。この冊子も実に面白かった!

■前日の松本から飯田線に乗って伊那を訪れた田口さんは、赤石商店の埋橋さんに駅まで迎えに来てもらって、そのまま「グリーンファーム」へ。田口さんは以前にも訪れて中古レコードを多数見つけたのだそうで、今回も一枚 100円で購入したシングル盤を、当日の「レコード寄席」の始まりでまずはかけてくれた。

でも、激レア盤はそうは見つからない。田舎でも全国的に膨大な量が流通したソノシートがあふれている。中でもよく見かけるのが「佐渡交通」が製作して配った、佐渡観光記念ソノシートだ。全国各地から佐渡旅行に来た人たちが、地元へ帰って想い出にはじゃまなレコードだけ処分する。レコードの内容はほぼ同じなのだが、レコードジャケットは何故か100種類以上存在するという。

『レコードと暮らし』41ページには6枚だけカラーで載っている。切手収集みたいな感じなのか。田口氏は「全ジャケット」収集を目指していて、今回帰りに寄った「イチコー」で持っていなかった「佐渡交通レコード」を1枚見つけたのだそうだ。

田口さんの探究心は凄まじい。実際に佐渡まで行って佐渡交通本社を訪れ、いったいどんな人たちが「このレコード」を作っていたのか訊きに行ったのだそうだ。ところが、本社にはすでに担当者は勤務しておらず、分かる人が誰もいなくて「なんだか変な人が東京からやって来て困ったぞ」というドン引きの冷たい空気に包まれた田口さんは、結局「佐渡交通」では何も情報を得ることができず、淋しく会社を後にしたのだそうだ。せっかくはるばる佐渡までやって来たのにね。

そんな『レコードと暮らし』には載っていないエピソードの数々を、田口さんの「出張レコード寄席」で聴くことができます。瀬戸内海の直島で、村木謙吉の「おやじの海」が生まれた裏話も傑作だった。本には p106〜p114 まで大々的にフィーチャーされているけれど、当日の話では、それらのレコードにまつわる、さらに不思議なエピソードを披露してくれた。

という訳で、この本を読む前に田口史人さんの『出張レコード寄席』を実際に聴いてみると、本が10倍楽しめると思うワケです。

■いずれにしても、今年読んだ本の中では一番印象に残った「傑作本」です。(おわり)

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■追伸)本の表紙絵は、加藤休ミさんだ。彼女の細密クレヨン画はほんとうに凄い。絵本『きょうのごはん』(偕成社)以来のファンだ。

2018年8月 4日 (土)

最近読み終わった本。『幸福書房の四十年』『レコードと暮らし』

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■『幸福書房の四十年 ピカピカの本屋でなくちゃ!』岩楯幸雄(左右社)を読んだ。

今年の2月に代々木上原駅南口店を閉店した、街の本屋さんの語りおろし本。『ガケ書房の頃』山下賢二(夏葉社)もよかったけど、この本もしみじみよいなあ。

「小田急線代々木上原駅前で、20坪の小さな書店「幸福書房」を、この2月で閉店することにしました。約40年前、私と弟の2人ではじめた店を閉める直接のキッカケは、店舗の賃貸契約の終了なのですが、やはり売上不振が決断した一番の理由です。

「本が売れない」。専門家がいろいろいっていますが、全部当たっていると、店番でお客様の様子などを見ているとそう感じます。

 閉店のお知らせのポスターを店舗に貼りだしたところ、思っていた以上の反響がありました。驚いた。残念だ。続けてくれ。何とかならないか。少しならお金は出す。これらの言葉がこれからの人生にどれほどのはげましになるでしょう。」(p6〜7)

■「幸福書店」の営業時間は、午前8時から夜23時まで。お休みは正月元旦のみ。あとの364日は休まず営業。店主の岩楯幸雄さんと奥さん、それに岩楯さんの弟夫婦の4人で家族経営を続けてきました。北口店と南口店を営んでいた時は、正社員2人とアルバイトを雇っていた時期もありました。

Koufuku

「昔も今も小さい書店へは本があまり入って来ません。書店の要望が通らないということです。そのため私たちは、最初の仕入れの段階からトーハンの店売というものに行きました。」(p17)

「書棚の一番下は引き出しになっています。店が元気な頃は在庫でぎゅうぎゅうになっていました。現在は、返品がはばかれるような『しょれた本』が入っています。もう時間が経ちすぎて返品が不能の本を『しょれた本』と呼んでいます。」(p28)

「仕入れについては、店の傾向、お客様の好み、自分の好みなど、結局は全てさじ加減です。お客様の顔を思い浮かべながら仕入れたからといって、『○○さん! この本入れておきましたよ!』なんてことはやりません。そんなのは嫌ですよね。行く度に声をかけられたり、定期購読を提案されたりしたらたまったものではありません。私がお客様ならそれは嫌です。」(p31)

「それと、当たりが良いのはやはり鉄道ファンの方々です。幸福書房のお客様で鉄道ファンの方は現在26人か27人です。顔もすぐ思い浮かびます。そして、雑誌が軒並み部数を減らしている中で、鉄道ファンの方々は絶対といっていいほど買ってくださる。とてもありがたいですね。」(p32)

「約40年の時代の時代の中で、出版業界は盛り上がり、そして苦しくなってきました。それは、私たち書店にも同じ事がいえます。ピカピカでなくなってしまったのは、本や雑誌が売れず仕入れのお金がないからです。ただ、それだけです。

 ここ10年で、雑誌の売上部数は驚くほど減り、様々な雑誌が廃刊となりました。」(p40)

「10年前まではとても文庫がよく売れました、いや、5年前までは文庫は売れました。そのよく売れた文庫本のスリップを正直に出版社に送ると、がんばりましたと文庫がたくさん送られてきます。しかし、最近では文庫が売れません。逆に、送られてくると困ります。どうしても欲しい本なら良いのですが、いらない本まで送られてきて、売れるかどうかも分かりません。なので、スリップは送らないのです。

 過去に送ったスリップの数によって、出版社からの本の入りやすさが決まります。幻冬舎には1回も送ったことがないので、入ってきにくいです。」(p53)

「本屋にもよりますが、毎日坪1万円売ることができたなら優秀な本屋といわれます。

この基準で幸福書房を考えるとどうなるか。幸福書房(20坪)の家賃は35万円です。2017年での1日あたりの平均売上は15万円なので、2日分の売り上げでは家賃を支払うことができません。これが今の幸福書房の現実です。とにかく苦しいのです。」(p55)

「幸福書房ではみすず書房、白水社、青土社の書籍をよく置いています。けれども、その置き場所は最初あった場所から徐々に移動して現在のレジ前の位置になりました。なぜ、場所が変わったのかといいますと、プロがいるのです。万引きのプロが。」(p71)

「大型書店でも(万引きが)結構頻発しているという事をいわれました。しかも、みすず書房の棚の担当の人がお休みの時を狙って万引きをされるそうです。(中略)

「万引きされて困るのは書店です。幸福書房で万引きが起こったら、幸福書房が売上として計上するだけです。それが出版社の売上になるので、損をするのは書店。」(p73)

2018年4月11日 (水)

『地下鉄道』コルソン・ホワイトヘッド著(早川書房)を読む

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■最近、ブログの更新が苦痛になってしまった。そうなってしまってはダメなのだ。たとえ月イチでも継続こそ大事。

という訳で、一ヶ月ぶりの更新です。

■『地下鉄道』コルソン・ホワイトヘッド著(早川書房)は、ほんとうに面白かった!

ただ、ネタバレなしで読後感想を書くことを拒絶する本なのだな。だから困ってしまう。仕方ないから、読みながらツイートしたものを再録しておきます。 みなさん! ぜひ読んでください。

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このところ読書がちっとも進まない。仕事が忙しいせいもある。『地下鉄道』コルソン・ホワイトヘッド(早川書房)は未だ66ページ。主人公逃亡前夜。文章が濃くて、書いてある内容がめちゃくちゃリアルだから、1行も読み飛ばせないのだ。

続き)それにしても驚くのは『地下鉄道』の舞台が、今から200〜150年前のアメリカであることだ。日本では幕末〜明治維新の時代。少なくとも中世ではない。近代だ。それなのになんだ! 白人たちが黒人奴隷に対して日常的に平気で行っていたこと。

続き)そういえば、コーマック・マッカーシーの『ブラッド・メリディアン』はもう少し前の西部開拓時代の話だったが、こちらはネイティブ・アメリカンを虐殺しまくったアメリカ暗黒史が描かれていた(まだ半分も読まずに途中で止まったままなのだけれど)。

続き)で、言いたかったことは、自らの先祖たちが行った忘れてしまいたい過去の残虐な行為を、こうして「小説」として後世に語り継ぐことの大切さをアメリカ人はちゃんと認識していて、しかも、その小説がベストセラーになるっていう事実は、素直に凄いことだと羨ましく思う。

続き)「地下鉄道 UnderGround RailRoad」に関しては、ハリエット・タブマンに関して描かれた絵本『ハリエットの道』(日本キリスト教団出版局)に詳しい。感想を以前こちらに書いた。

http://kita-kodomo.dcnblog.jp/top/2014/05/post-b39d.html

 
 
3月7日

コルソン・ホワイトヘッド『地下鉄道』は現在 218ページ。主人公はノース・カロライナまで来た。むかしNHKで見た海外ドラマ『タイムトンネル』の感じだ。主人公はいきなり別世界へ放り込まれ苦難の日々が続き、危機一髪のところで別世界へ跳ばされる。リチャード・キンブル『逃亡者』みたいでもあるな

 
 

『地下鉄道』コルソン・ホワイトヘッド著、谷崎由依・訳(早川書房)読み終わった。圧倒された。凄い本だ。州名の章にはさまれた「人名」の章は短いが、とにかく読ませる。みな哀れだけれど愛しい。あの残虐な奴隷狩り人リッジウェイでさえ、読み終わればイイ奴だったような気がしてくるから不思議だ。

2018年2月21日 (水)

司馬遼太郎『胡蝶の夢(一)』を読み始める

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■大学の同級生だった菊池君が、正月に久々のメールをくれて、この司馬遼太郎の『胡蝶の夢』を教えてくれたのだ。主人公は、順天堂大学医学部の創始者、佐藤泰然の次男で、江戸幕府御医師の家系「松本家」の養子となった松本良順と、その弟子の島倉伊之助(のちの司馬凌海)。

これは面白いぞ!

ちょうど、月刊誌『東京人』(2018年2月号) の特集が「明治を支えた幕臣・賊軍人士たち」で、医療分野の偉人たちとして、佐藤泰然、佐藤尚中、松本良順、司馬凌海のイラスト・紹介記事が載っている。順天堂は、170年以上の歴史があったのか。驚きだ。

佐藤泰然が天保14年(1843) に開いた佐倉順天堂は、東国一の蘭方医学(外科)と蘭学の養成所だった。同じ頃、大阪では緒方洪庵が「適塾」を開き『花神』の主人公大村益次郎や福沢諭吉らが学んでいた。東の順天堂、西の適塾と言われ、日本の2大蘭学養成学校だった。

■佐藤泰然の父、藤介の出自は、山形庄内藩の農民だった。兇悍(きょうかん)としか言いようのない不良で、このままでは、やがてこの子は鶴岡城外の処刑場の露になるだけだと思った母親が、息子の将来を憂い「ひょっとすると江戸が適うかもしれない」と思い、あり金を集めて旅費として懐中にさせ、郷村からひっぺがすようにして旅に出した。(189ページ)

江戸までの道中15日間、藤介は旅籠に泊まる毎夜女郎を買った。で、江戸の入り口「千住」に着いた時にはすっからかんだった。困った藤介は宿の女衒に相談した。「おれのような男を、どこかへ嵌めこむ腕はあるか」と。で、紹介された先が貧乏旗本・伊奈遠江守の妾が囲われている家の下男の職だ。

住み着いた3日目、妾が用人と密通している現場を目撃。主人殿様の伊奈遠江守に直訴した。その功績で、藤介は伊奈遠江守の用人になってしまうという、うそのような離れわざをやった男である。

そんな策士の息子が佐藤泰然だ。父親の後を継いで伊奈氏の用人となったが、藤介のように巧みな権謀術数を駆使する力はないことを、父親とは正反対の温厚な性格の彼自身が熟知していた。

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■主人公の一人である佐渡の裕福な質屋(町民)の長男「伊之助」は、本を読み始めて直ちにわかる典型的な「高機能自閉症児」だ。幼少の頃から近所の子供たちとは隔離され、蔵の2階で祖父に漢文などの学問を教わり、小便の時以外はハシゴを外され、強制的に勉強するしかない環境の中で育った。だがその驚異的な記憶力は化け物級で、近所でも評判の神童だった。ただ、性格・社会性・空気を読む力が欠落している高IQ児童。

自閉症児には「カメラアイ」と呼ばれる、見えている物をまるで写真で撮ったかのように瞬時に頭の中に焼きつける能力がある。サヴァン症候群とも呼ばれる障害児に時に認められる超人的で不思議な力だ。司馬遼太郎氏も、資料を読むときは「カメラアイ」を駆使していたらしい。

自閉症児が小説の主人公というのは本当に珍しい。しかも日本の時代・歴史小説でね。海外小説でも少ないぞ。『ぼくはレース場の持ち主だ!』パトリシア・ライトソン(評論社)ぐらいじゃないか?

■『胡蝶の夢』が、朝日新聞で連載されていたのは、司馬遼太郎が『翔ぶが如く』を書き終わった、昭和50年代前半だ。当時は自閉症児もアスペルガー症候群も誰も知らなかったはずなのに、司馬遼太郎氏は不思議なことに「高機能自閉症児」の特徴を、まるで見てきたかのように正確に描写する。これは驚きだ! 

あくまで個人的な感想だが、司馬遼太郎氏の身近に「伊之助」そっくりのモデルとなる人物が実際に存在していたのであろうな。

2017年12月 7日 (木)

解剖学者・三木成夫先生のことば

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 『解剖学者・三木成夫先生のことば』       上伊那医師会 北原文徳

 

 

 もう10年以上前のことですが、茂木健一郎氏の『脳と仮想』を読んでいて、突然「あっ!」と思ったのです。もしかして「この人」のこと知っている。確か講義も受けたことがあるぞ! と。そこには、こう書かれていました。

 「昔、東京藝術大学に三木成夫(みきしげお)という生物学の人がいたらしい、ということは薄々知っていた。数年前から、ことあるごとに、『三木成夫という人がね』と周囲の人々が噂するのを聞いていた。解剖学の先生で、生物の形態や進化の問題について、ずいぶんユニークなことを言っていたらしい、ということも理解していた。人間の胎児が、その成長の過程で魚類や両生類や爬虫類などの形態を経る、ということを『生命記憶』という概念を用いて議論していたらしいという知識もあった。」(『脳と仮想』新潮文庫 p182 )

 あれは大学2年生の時だから、1978年か。当時、筑波大学医学専門学群・解剖学教室の助教授だった河野邦雄先生が、東京医科歯科大学時代の恩師を毎年初夏に藝大から呼んで、2コマ連続で系統解剖学の特別講義を行っていました。あの時聴いた講師の先生が、まさにその三木成夫先生だったのです。

 いまから40年も前に聴いた学生時代の講義の内容なんて、皆さんほとんど記憶に残っていないしょう? ところが、あの日三木先生が板書したシェーマやスライド、それに妙に熱のこもった先生の言葉が、断片的ではありますが、僕の頭の中には鮮明な映像として今でも焼き付いているのです。それほど強烈なインパクトがあったんですね。『内臓とこころ』三木成夫(河出文庫)の解説の中で、東大医学部解剖学教室の12年後輩にあたる養老孟司氏はこう言っています。

 「三木先生の語り口は独特で、それだけで聴衆を魅了する。東京大学の医学部である年に三木先生に特別講義を依頼したことがある。シーラカンスの解剖に絡んだ話をされたが、講義の終わりに学生から拍手が起こった。後にも先にも、東大医学部の学生を相手にしてそういう経験をしたことは他にない。三木先生の話は、そういうふうに人を感動させるものだった。」

 三木先生は、東大助手から医科歯科大の解剖学教室助教授として転出。ゆくゆくは教授就任と誰もが思った矢先、47歳の若さで突如、東京藝大の「保健センター長」に赴任します。この転身は未だ謎のままですが、当時の藝大生は、難関受験を突破した途端に精神を病んで自殺する学生が多発していたのだそうです。

 これではいけないと危機感を抱いた大学関係者が「いのちの尊さ」を学生たちに実感してもらうべく、医科歯科大から藝大へ芸術解剖学の講義に来ていた三木先生に、学生への個別の精神衛生相談に加え、保健理論と生物学の講義を託したのでした。三木先生は東大学生時代に医学の道を捨てて、バイオリニストとしてプロの音楽家を目指そうとしたことがあり、また医科歯科時代には、自身の不眠と鬱病を克服した経験があったのです。

 

 当時、三木先生から多大な影響を受けた藝大生はたくさんいました。布施英利(1980年入学)村上隆(1986年卒)会田誠(1989年卒)などなど。ただ、三木先生は1987年に61歳の若さで脳出血のために急逝します。したがって、三木先生の講義を直接聴いた学生はそれほど多くはなく、藝大では伝説の名物教授として今でも語り継がれているのです。

 僕が聴いた講義では、三木先生はまず黒板に横長の「土管」と、その断面図を描きこう言いました。「人間はもともと1本の管(くだ)だったのです」と。その管の外側を構成しているのが、体壁系(筋肉・神経・皮膚)で「動物器官」、管の内側は内臓系(腸管・循環・腎泌尿器・生殖)で「植物器官」。その入り口が「くち」であり、その出口が「肛門」です。

 「この口と肛門を同じキャンバス内に納めた人物画を僕は今まで一度もお目にかかったことがないんですよ。描けば間違いなく傑作になるって、藝大の学生たちには言っているんですけどね。」そう言って、三木先生は笑いました。

 ヒトのからだは、地球生命5億年の進化の過程で、ちょうど古い温泉旅館が何度も建て増しして増築と改築を繰り返すように、部位によっては何重にも変形し姿を変えて出来上がっています。例えば、人間の顔の表情筋は魚の鰓(えら)の筋肉が変化したものなのだそうです。

 三木先生は言います。人間の顔は解剖学的には内臓が露出(脱肛)している部分であり、特に唇は感覚がものすごく鋭敏で、いわば内臓の触覚であると。その話を聴いた藝大彫刻科の女子学生が講義のあと教壇にやってきて、三木先生の顔をまじまじと眺め、こう言ったのだそうです。「やっぱり、キスって本物なんですね」

 

 講義の中で、最も印象に残ったスライドがありました。それは、受精38日目のヒトの胎児の顔を三木先生が顕微鏡を覗きながら、正面からスケッチしたイラストです。ちょうど『内臓とこころ』(河出文庫)の獅子頭みたいな表紙イラストが、まさに「それ」でした。

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 「個体発生は系統発生を繰り返す」そのことを実証したのが三木先生です。地球生命5億年の進化を、ヒトは受精32日目~38日目のわずか1週間で駆け抜けます。実際に三木先生がスケッチした胎児の顔貌を見てみると、32日は鰓も露わなフカ(古代魚類)の顔、36日がムカシトカゲ(両生類)、そして38日目はもう哺乳類の顔へと変化している。それは、アマゾンの密林奥深くに生息するミツユビナマケモノの赤ん坊の容貌そっくりなのでした。

 30億年の昔から、30億回春夏秋冬を経験してきた我々の祖先。地球の自転・公転、月の満ち欠け、その太古から変わらない「宇宙のリズム」が、ヒトと共鳴し「内臓感覚」として今でも確かに保存されている。つまり、ヒトのからだの中には、宇宙の広がりと、遙かなる悠久の時の流れが共存しているのだと。それが三木先生が提唱する「生命記憶」なのです。

 没後30年になる今年、三木先生の最後の弟子であった布施英利氏は『人体 5億年の記憶 解剖学者・三木成夫の世界』(海鳴社)を出版しました。表紙のイラストは「うんこ」色をした人体に、口から肛門にかけて「裂け目」が入っていて、カバーを外すと真っ青な海(もしくは宇宙?)が広がっています。すでに5刷の注目本で、三木成夫の世界観を分かりやすく解説した格好の入門書となっています。

 ただ、あの独特の「三木節」を体感するには、埼玉県深谷市にある「さくらんぼ保育園」で、園児の保護者に向けて語られた三木先生の講演録『内臓とこころ』三木成夫(河出文庫)こそ読まれるべきです。この本は本当に素晴らしい! 子供の発達成長の様子が、そのまま人類進化の過程と重なって語られているのです。三木成夫先生のことを、吉本隆明氏から教わった糸井重里さんは、子供が生まれたばかりの知り合いに、よく「この本」をプレゼントしていたとツイートしていました。なんか、ちょっといい話ですよね。

(『長野医報』665号/2017年11月号 p17〜p20 より。一部改変あり)

 

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