絵本 Feed

2022年3月26日 (土)

戦争反対! 待合室と自宅にあった絵本から

■3月6日:戦争反対! 手持ちの絵本も、これでおしまい。そっちもお終いにして欲しい。

『こどもたちはまっている』荒井良二の表紙は、ウクライナの国旗の色だ!

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■3月3日:戦争反対の絵本(その3)

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(写真をクリックすると大きくなります)

■2月27日:

ロシア軍のウクライナ侵攻に反対します。古い絵本が多くなってしまったけど『もっと おおきな たいほうを』二見正直・作(福音館書店)は、おすすめデス!


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■2月25日: 戦争反対!

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■以上、ツイッター上に2月25日〜3月6日にかけてアップした我が家にあった絵本たちです。

あと、『へいわってすてきだね』安里 有生/長谷川義史(ブロンズ新社)『せかいでいちばんつよい国』デビッド・マッキー(光村教育図書)を持っているはずなのだが、どうしても見つからなかったのでした。

2021年8月18日 (水)

伊那のパパズ絵本ライヴ(その 139 )飯島町図書館 2021/05/01

■じつは今年の5月、なんと1年半ぶりに「伊那のパパズ絵本ライヴ」があった。

アップするのをすっかりサボってしまっていました。すみません。呼んでくれたのは「飯島町図書館」。このコロナ禍の中、万全の対策を取って(家族限定15組?)開催して下さったのだ。ありがたいことだ。

われわれも十分な距離を取って、フェイスシールドを付けての読み聞かせ。

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【本日のメニュー】

 1)『はじめまして』新沢としひこ(鈴木出版)→ 全員

 2)『うえきばちです』川端誠(BL出版)→ 伊東

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 3)『これなーんだ?』のむらさやか 文、ムラタ有子 絵(福音館書店:こどものとも012 /2006/1月号)→ 北原

 4)『かごからとびだした』いぬかいせいじ文、藤本ともひこ絵(アリス館)→全員

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 5)『まわる おすしやさん』
藤重ヒカル(福音館書店こどものとも/2020/1月号)→坂本

 6)『おーい かばくん』中川ひろたか(ひさかたチャイルド)→全員


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 7)『ようようしょうてんがい』環 ROY(こどものとも2020年12月号)→倉科


YouTube: 絵本『ようようしょうてんがい』プロモーション動画

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 8)『ふうせん』湯浅とんぼ/作 森川百合香/絵(アリス館)→ 全員

 9)『世界中のこどもたちが』中川ひろたか・新沢としひこ(ポプラ社)→全員

■フェイスシールドしてると、自分の声がシールド内にこもっちゃって、ちゃんと客席まで声が届いているのかどうか、すごく不安でした。

早くこんなの付ける必要ない「絵本ライヴ」が行いたいものです。

2020年11月 3日 (火)

『物語を売る小さな本屋の物語』鈴木潤(晶文社)

■このところずっと、元気のいい女性が書いた「エッセイ」を続けて読んでいる。

ブレイディみかこさん、伊藤比呂美さん、そして、鈴木潤さん。

『物語を売る小さな本屋の物語』鈴木潤(晶文社)を 110ページまで読む。四日市のメリーゴーランド本店店主の、増田善昭さんとの掛け合いが面白いな。少林寺の師匠にして、はちゃめちゃな上司。苦労が絶えない。(2020/10/31 のツイートより)
 
■でも、落語家の一門と同じなんだね。入門が許された弟子は、師匠から芸と作法を習い教えてもらって、自分流にアレンジし、その芸をさらに高く発展させて行く。ただ、あくまでもオリジナルの基本を身につけ、それを継承してゆくことも大事。
 
だけれども、師匠をそっくり真似してたんじゃあダメだ。師匠の完全コピーなんて、誰も期待しない。
私と増田さんは性格が似ているところがあって、お互いの言い分をぶつけて喧嘩になることがしょっちゅうだった。(中略)天真爛漫ですぐに調子のいいことを言ってあとで自分やスタッフの首を絞める社長にイライラしつつも、(少林寺拳法の)道場ではやっぱり尊敬すべき存在ということを再認識できるのだ。(p83〜84)
 長く一緒にいたからなのか、私と増田さんは呆れるくらい似ているところがある(p87)
しょっちゅう喧嘩をするし、ぶつかり合うけれど増田さんの思想や思いは私の中にしっかりと詰まっている。
 
私たちはとにかくよく働き、よく遊び、よく旅をし、よく話し、よく読み、よく食べ、たくさんの人に会った。増田さんは社長で少林寺拳法の師匠である。そして本に対する情熱、子どもの本専門店として在り続ける意義、縁を大切にすること、恩義を忘れないことなど本当にたくさんのことを増田さんから学んだ。
 
気が付けば全て自分らしく生きることに繋がっているのだ。私にとって増田さんは父親のようであり、親戚の叔父さんのようでもあり、憧れの先輩のような存在でもあり、今でも一番のライバルなのだと思っている。(p89)
 
 

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■京都一の繁華街「四条河原町」を南へ少し下った東側の「寿ビル5F」に、鈴木潤さんが経営する『メリーゴーランド京都』はある。河原町通りに面した一等地。でも、地元京都の人たちはこう言う。

「河原町でも、四条より下へはよう行かへんわ」

■増田善昭さんがやっている、三重県四日市にある児童書専門店『メリーゴーランド』の初めての支店として、2007年9月17日に『メリーゴーランド京都』はオープンした。従業員兼店長の鈴木潤さんが、ひとりだけで業務(現在は2人体制)する。

支店とはいえ、まったくの独立採算制。本店からの経済的支援はない。

赤字が続いて、店長がくじけてしまえば、それでお終い。キビシイ世界だ。

  だけど彼女はくじけない。

  泣くのはイヤだ、笑っちゃお

  進め〜〜!

 「私のモットーは『当たって砕けろ』だ。」

■もともと、京都の店も、社長の増田さんがある日突然「京都に店出すぞ。潤、京都に行くやろ?」と言い出して、彼ひとりだけの突然の思いつきで始まったプロジェクトだ。

 増田さんはきっと今までだって目に見えない何かに突き動かされて、まだ見えないどこかに向かってきたのだろう。書店の経験も全くない25歳の増田青年がある日突然「子どもの本屋をやりたい!」と言い出し、どんどんいろんな人を巻き込みながら店を作ってきたことだってきっとそういうことなのだ。

 私にはこの「根拠のない自信」がとてもよくわかる。(中略)

 私たちは目の前に波があったらとりあえず乗りたいタイプで、その波が大したことなくても、怪我をしたとしても「乗った」ことが大事。「逃した」ことで後悔したくないのだ。

そういえば増田さんはサーファーでもあった。(p97)

■本の後半、京都での仕事・生活が落ち着いてきた彼女は、京都の男性と出会い恋をし、結婚した。そして2人の男の子の母親になる。

ただ普通の人とちょっと違っていたのは、その男性が「徳正寺」という有名なお寺さんの後継ぎであったことだ。住職で父親の秋野等氏は陶芸家で、その母「秋野不矩」(あきのふく)は大変有名な日本画家という芸術一家だ。

■おおっ! 秋野不矩。以前に浜松を訪れたさい、旧天竜市にある「秋野不矩美術館へ行ってきたのだ。不思議な外観、内装の超個性的な美術館で、設計はあの藤森照信氏。

ちなみに、京都「徳正寺」にも、藤森照信氏が設計した茶室「矩庵」がある。

■大変な芸術一家のお寺さんだから、当然、潤さんの夫「迅くん」もただ者ではない。彼は僧侶という本業のかたわら、

文章を書いたり本の編集やデザインをしたりしている。古本屋めぐりが大好きで、仲間内から「ブッダハンド」と呼ばれている。古書善行堂の山本善行さんさんが古本屋の均一台から煌めくような本を探し出すことから、「ゴッドハンド」と呼ばれていていたことがあり、迅くんも時々そんなことがあったので神に対して仏ということで「ブッダハンド」と呼ばれるようになったのだとか。(p154)

 お互いに好きな作家も読む本も全く違うのだけれど、私は迅くんの言葉や本に対する思い、縁を大切にする人との付き合い方などとても尊敬している。なので時々私の書いた文章を「ええやん」「面白かったわ」と言ってもらえるととても嬉しいのだ。違うけれど同じ方向を向いている。同じだけれど時々違う方向も向く。

わたしたちはそんな夫婦だと思っている。(p157)

その続きを読んで行くと「荻原魚雷さん」の名前が!

おお、迅くんと友だちなのか。しかも、荻原魚雷氏は潤さんと同郷(三重県)なのだ。さらに、ぼくはいまちょうど『中年の本棚』荻原魚雷(紀伊國屋書店)を読み始めていたところだったのだ。

なんか、妙なシンクロニシティだな。

よのなか、不思議な縁でつながっているのかな? 

 ■以下、付箋を貼ったところなど。

もし学校生活に満足していたら、彼氏ができてバイトで稼いだお金で楽しく遊んで暮らしていたら、今のように本屋をやっていなかったかもしれない。

 人生は間違いなく繋がっている。「一生の汚点」と思い出したくないようなできごとも、「一生の不覚」と誰にも話せないようなできごとも含めて、その点と点が繋がって蛇行する川の流れだ。ボタン一つでリセットなんてできるわけがないのだけれど、人は良くも悪くも「忘れる」のだ。

私は自分に都合の悪いことや嫌だったことはちょっと隅っこに置いておいていつもは忘れているのかもしれない。「忘れたいこと」「絶対忘れたくないこと」「自慢したいこと」「つまらなかったこと」などなど全部ひっくるめて私の人生なのだ。(p47〜48)

美味しい料理の条件はまず第一に素材の良さ。次にどんな器に盛り付けるか、つまり見せ方。そして場の雰囲気だろうと思う。

 つまり、味はほどほどであれば良い。どんなに美味しい料理だって重苦しい雰囲気の中でそんなに好きでもない人たちと食べれば味も半減だろう。(p174)

 親は子どもが独り立ちするまでに色んなことを伝えたいと思うだろう。それには様々な方法がある。野生動物ならそれが狩りの仕方だったり、安全な寝ぐらを確保する生き抜くための術なのだろう。

 けれど本で伝えたいのは目には見えないものだ。それは薄ぼんやりした気持ちの揺らぎだったり、人に話さずにはいられないような感動だったりするだろう。それを言葉で話して伝えようとするのはとても難しい。けれど本でなら、すぐには確信できないかもしれないけれど心のどこかにそっと種をまくことができるのだと、私はブッククラブや店に来てくれるお客さんから教わったのだ。(p180)

 本は決して特効薬ではない。けれど行き場のない思いやどうしようもない悲しみ、何だか落ち込んでしまっている状況を少しだけ方向転換するきっかけをもらえたりするのだ。(p186)

 何気ない会話だったけれどみなさんとても仲よさそうで、楽しげで私までなんだか嬉しくなった。こんな風に一言二言だけでいいのだ。旅行で訪れた人も地元の人もさり気無いやりとりだけでいい一日が過ごせるような気持ちになるものだ。

道ですれ違う人みんなと会話するわけにはいかないけれど、店に来てくれた人が「今日は良い一日だった」と思えるひとかけらをメリーゴーランドで感じてもらえたらこんなにうれしいことはないと思う。(p229)

■「おわりに」を読むと、これまた驚いたことに NHKの歴史番組でよく拝見する磯田道史先生とは、息子さんたちの小学校で兄弟ともに「同じクラス」で、家族ぐるみのお付き合いをしているとのこと。

■それから、これは最初にツイートして失礼かと削除してしまったことだけれど、「この本」の表紙の色が、何とも懐かしい見覚えのある色合いなのだ(思い出した! ぼくの実家の便所の便器の色と同じ色なのだった。失礼いたしました、ごめんなさい。 あと、うちのブログの背景色も、なんだ同じ色じゃん!)

Blue In Green」は、マイルス・デイヴィスの名盤『カインド・オブ・ブルー』A面3曲目に収録された、ビル・エヴァンス作の印象的な楽曲だが、「それ」に「薄い灰色」を混ぜた感じの色なんだな。

どうして「この地味な色」が表紙のカラーに選ばれたのか? その答は 115ページに載っていた!

「メリーゴーランド京都」のお店に並ぶ本棚の色がみな、この色なのだった。

■前回京都へ行ったときは「古書善行堂」と「ホホホ座」には行ったのに、「メリーゴーランド京都」は訪れなかった。すぐ近くの、四条河原町の高島屋前にはいたのにね。残念。

追記)2020/12/09 

■録画してあった NHKBSP『英雄達の選択』「100年前のパンデミック〜“スペイン風邪”の教訓〜」を見る。大正時代、パンデミック下の京都で 12歳の少女が日記を付けていた。司会の磯田道史氏が訪れたのは、京都市の徳正寺。応対する住職は、井上迅(扉野良人)さん。なんとも優しそうで穏やかな風情の人だ。

続き)そう「メリーゴーランド京都」店主、鈴木潤さんの夫で、磯田道史先生とは家族ぐるみで友だち付き合いをしてるって、本にも書いてあったな。扉野良人(とびらのらびと)さんて、後ろから読んでも同じトマトみたいな回文になっているんだ!

『絵本といっしょに まっすぐまっすぐ』鈴木潤(アノニマ・スタジオ)を読んでいる。こんなふうに読み手に届く文章を書きたいものだ。例えばこんな文章。 「私が本を好きな理由のひとつに、『しあわせなため息』があります。一冊の本を読み終わり、本を閉じるのと同時に、体の中に言葉がおさまっていく

続き)というか、染み込んでいくのをじっと待つとき、思わずもれるため息。この感覚を何度も味わいたいけれど、なかなか出会えるものではありません。」32ページより。(2020/11/10)

『中年の本棚』荻原魚雷(紀伊國屋書店)を読んでいる。面白い! これは!と思ったのが「上機嫌な中年になるには」p32〜40。取り上げられている本は、田辺聖子の『星を撒く』。中でも「余生について」と「とりあえずお昼」それと、1つしかない不機嫌の椅子を夫婦で椅子取りゲームしてること。(2020/11/05)

ある程度の長さの文章を、毎日書き続けることが案外大事なんだな。ジムに通って筋トレするみたいに、日々の鍛錬が「読んでもらえる文章」を書くコツなのかもしれない。そのことは、黒猫の田口さんの文章を読んでいて、しみじみ実感することだ。見習わなければな。

140字以内のツイートばかりじゃ、ダメなんだよ。(2020/11/05)

2020年5月30日 (土)

演者と観客とが「息を合わせる」ことについて

■気がついたら、前回の更新から1ヵ月以上過ぎてしまった。

最近「書きたい」って思うことが何もないのだ。情けない。

コロナのせいだ。

この3ヵ月、小説がまったく読めなくなってしまった。

漠然とした不安に常時覆われていて、小説世界に没入することが出来なくなってしまったからだ。それと、フィクションなら有り得ないような信じられないくらい「くだらない、人をバカにしたような」(アベノマスクとか、スピード感をもってとか、賭け麻雀とか、ブルーインパルスとか)不条理でリアルな毎日の堪え難い苦痛を連日我慢していたら、いつしかすっかり慣れてしまって、小説世界の「リアルさ」が、逆に嘘っぽく思えてきたからかもしれない。悲しい。

■そんな中でちょっと「これは!」と思った文章。

「斎藤環氏の note」

山田ズーニー「おとなの小論文教室」Lesson 966 失われた「息」

■「息を合わせる」ためには、ステージ上の演者同士、それから演者と客席の観客とが、同時に息を吸ってそれから吐く動作が必要だ。

その簡単な例が「お笑い」だ。息を吸いながら笑うのは、明石家さんましかいない。普通、人は笑う時、息を吸って貯め込んでから思い切り「わはは!」と息を吐き出す。それが「笑い」だ。

それで思い出したのが、国立こども図書館の松岡享子さんが、語りの「間」について語っている文章だ。『お話しを語る』松岡享子(日本エディターススクール)98〜101ページ。

ずいぶんと前に書いた(本文を引用・抜粋した)文章(2005/04/05)だが、以下に再録します。

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●彼女は、「間」には基本的にふたつの働きがあると言っている (p98)


 ひとつは、語り手がそれまでに語ったことを、聞き手に受けいれさせる働きです。語り手が、「おじいさんとおばあさんがいました」といえば、聞き手は、「ああ、おじいさんとおばあさんがいたんだな」と思い、心のスクリーンに、おじいさんとおばあさんを描きだします。これに必要な時間が間です。(中略)

 間のもうひとつの働きは、聞き手の気持ちを話の先へつなげていく働きです。さきほどの例でいえば、聞き手が、「ああ、おじいさんとおばあさんがいたんだな」と、その事実をのみこんで、さらに「そして、その人たちがどうしたの?」と、問いかける時間です。つまり、聞き手が、語り手に、話を先へすすめるよううながす時間です。(中略)

語り手に話の先をうながす間は、同時に、聞き手に能動的な聞き方をうながす間でもあることがおわかりいただけるでしょう。間が与えられてはじめて、聞き手は、疑問をもったり、予想をしたり、期待したり、要するに、自分の中で話についてさまざまに、思いめぐらすことが出来るのです。これは、聞き手の側からの話への参加です。


『子どもへの絵本の読みかたり』古橋和夫(萌文書林)を伊那市立図書館から借りてきて読んでたら、また、間の働きのはなしがでてきた。「読みかたりでの「間」について 『間で聞き手を魔法にかける』 



「人間的感動の大部分は人間の内部にあるのではなく、人と人との間にある」

フルトヴェングラー、芦津丈夫訳『音楽ノート』(白水社)

◆2つの「間」について
「間」の取り方というのは、休止のことです。この休止については、「論理的休止」と「心理的休止」があると言ったのは、演出家のスタニスラフスキー(『俳優の仕事』千田是也・訳、理論社)です。(中略)

スタニスラフスキーによりますと、「論理的休止」とは、「いろいろの小節や文を機械的に分けて、その意味をはっきりさせる」休止のことです。文章には、句読点がありますが、それが意味のひとまとまりをつくっています。論理的休止とは、この句読点のところに置かれる「間」のことです。

もうひとつの「心理的休止」とは、「思想や文や言語小節に生命を吹きこみ、その台詞の裏にあるものがそとにあらわれるようにする」「間」のことです。(中略)

たとえば、『おおきなかぶ』を例にとりますと、「おじいさんは かぶをぬこうとしました。『うんとこしょ どっこいしょ』……」というところで、「間」をとります。「うんとこしょ どっこいしょ」という言い方は、おじいさんが力を込めてかぶをにいている様子です。それにつられて、聞き手の方も思わず力が入ってしまいます。「ぬけるかな」という期待が高まります。

このような「間」を置いてから、「ところが かぶは ぬけません」といふうに語りますと、その場のイメージに力を感じていた分、抜けないという事実との落差に意外性を感じていくのです。また、それが楽しくおもしろい読みの体験です。このような「間」が「心理的休止」であるといってよいでしょう。(p64 ~ p74)

●何だか、分かったようなわからんような解説だが、またまた出ました、有名なスタニスラフスキー・システム。このあたりのことを、松岡享子さんは、もっと直感的に分かりやすく説明してくれます。例えば、こんなふうに……


 ところで、間には、ここに述べたふたつの基本的な働きのほかに、もっと微妙な、もっとおもしろい働きがあります。たとえば、場面転換に使われる間とか、聞き手の気持ちをひとつにまとめる間などです。


 お話には、パッと場面が変わるとか、長い時間が経過するとかいったように、そこで話が大きく変わるときや、生まれたときある予言をされていた女の子が、時が経ってその予言の成就する年頃になりました……といったときなど。これは、お芝居でいえば、いったん幕が下がったり、暗転したりするところです。

ただ、お話では、それができませんから、そこで十分に間をとることで、場面の転換を表現します。こうした間は、いわば聞き手の心のスクリーンをいちど白紙にして、そこに新しいイメージを迎え入れる準備をする働きをしているといえるでしょう。


 もっと強力な、もっと効果的な間は、話のクライマックスで用いられる間です。これは、緊張を盛りあげるための間といえばよいでしょうか。たとえば、風船をふくらますときなど、強く息を吹きたいとき、わたしたちは、いったん息をとめて、それから勢いをつけて息を吐きだします。

それと同じように、話のおしまいなどで、だんだん積みあげられていったサスペンスが一挙にくずれるとき、あるいは大きなどんでんがえしがあるときなど、もちあげられ、ふくらんだエネルギーが一気に開放される場面では、この「息をとめる」間がとられます。「エパミナンダス」の話のおしまいで、「エパミナンダスは、足のふみ場に気をつけましたよ、気をつけましたとも」のあとに来る間などがそれです。

 この間は、語り手と聞き手の呼吸を共調させる動きをもっています。わたしは、音楽の演奏でも、物語の語りでも、演劇でも、演者と聴衆が時間を共有して行う芸術では、両者の間に一体感が生み出されるときには、両者は同じ呼吸をしているのではないかと思います。

ともあれ、少なくとも、さきの述べたような、”劇的”瞬間には、両者の呼吸は一致していなければなりません。聞き手は、このときの語り手の一言で、ホーッと緊張をといたり、「ワァーッ」と笑ったりするわけで、そのときには、そろって息を吐かなければなりません。そのための時間、それが間なのです。つまり固唾をのむ時間というわけです。

 このことについて、亡くなった落語家の柳家金語楼が、たいへんおもしろいことをいっていました。金語楼は、あるインタビューで、「人を笑わせるこつはなんですか?」と聞かれたのに対し、言下に、「それは、人が息を吐く寸前におかしなことをいうことです」と、こたえていました。そして、「人間というものは、息を吸いながらでは笑えないものですよ」と、いっていましたが、なるほどと思いました。

そういえば、落語の下げの前には、必ず、たっぷりした間があります。その瞬間、聴衆が揃って、「……?……」と息をとめるからこそ、次の瞬間、一斉にドッと笑えるのです。間には、まちまちに吸ったり吐いたりしている聴衆の呼吸を一致させる働きもあるわけです。(p99 ~ p101)『お話を語る』(日本エディタースクール)

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■この柳家金語楼のはなしが大切なことの「すべて」を「たったひと言」で言い表していて素晴らしいですね。

■同じ頃(2005/1月)書いた文章を読んでたら、こんなのもあった。

「落語」と「絵本」の読み聞かせは、よく似てる?(その1)2005/01/04

松岡享子さんの『お話を語る』については、このページの 2005/01/20、01/21 にも記載があります。

2019年12月24日 (火)

伊那のパパズ絵本ライヴ(その138)箕輪町役場「子ども未来課」

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■箕輪町「子ども未来課」は、毎年12月欠かさずに「伊那のパパズ」を呼んでくださる。ありがたいことです。12月は「クリスマス・バージョン」のコスプレでの登場だ。去年も呼ばれたはずだが、このブログには記録がない(その134回)。ということは、僕が欠席だったのだ。インフルエンザ・ワクチンの「まとめ接種」の日だったかもしれない。

■それからやはり毎年11月に呼んでくれているのが、飯島町「子育て支援センター」だ。今年も呼ばれた。11月17日(日)。「ぼくも出席OKで〜す!」と皆に返信してあったのだが、なんと「その日は当番医」だった。スケジュール帳の記載もれだったのだ。ごめんなさい。ぼくは欠席でした。

■で、今年は12月15日(日)午前10時〜11時に「松島コミュニティセンター」で絵本ライヴが行われたのでした。

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           ■ <本日のメニュー> ■

1)『はじめまして』新沢としひこ →全員

2)『らくがきボール』鈴木のりたけ(小学館)→伊東

3)『たいこ』樋勝朋巳ぶん・え(福音館書店)→北原

4)『かごからとびだした』→全員

5)『まわる おすしやさん』藤重ヒカル(こどものとも 2020年1月号)→坂本

6)『おならまんざい』長谷川義史(小学館)→倉科&坂本

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7)『どうぶつれっしゃ』しのだこうへい(ひさかたチャイルド)→全員

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8)『へんなおでん』はらぺこめがね(グラフィック社)→伊東

9)『じゃない!』チョーヒカル(フレーベル館)→北原

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10)『ねこガム』(福音館書店)→坂本

11)『メリークリスマスおおかみさん』みやにしたつや(女子パウロ会)→倉科

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12)『ふうせん』(アリス館)

13)『世界中のこどもたちが』新沢としひこ&中川ひろたか(ポプラ社)

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2018年11月19日 (月)

伊那のパパズ絵本ライヴ(その135 ?)飯島町子育て支援センター

■昨日は、まるまる1年ぶりの「パパズ」。あ、それは僕個人的な話。僕が参加しなかった「パパズ」は、1月に山梨県石和でもあった。今年はオファーも実際少なかったのだけれど、メンバー皆が忙しく、折角オファーがあっても、ほとんど断ってきたのも事実。5人のうち3人がダメなら請けられないのだ。

今日は久々に3人だけ(伊藤パパは手良小の収穫祭で欠席、宮脇さんも市役所のお仕事で欠席)そろってのライヴと相成った。

< 本日のメニュー >

1)『はじめまして』

2)『たたんぱたたんぱ』のむらさやか・文、川本幸・製作、塩田正幸・写真(こどものとも 0.1.2. 2018年9月号) →北原

3)『もりのおふとん』(こどものとも年少版 2018年12月号)西村敏夫→坂本

4)『かごからとびだした』(アリス館)

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5)『あれこれたまご』(福音館書店) →倉科

6)『おかおみせて』ほしぶどう(福音館書店) →北原

7)『パンツのはきかた』岸田今日子(福音館書店)

8)『けっこんしき』鈴木のりたけ(ブロンズ新社) →坂本

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■なんだか、水野晴郎みたいな坂本さん。妙に似合ってるなあ。

9)『山んばあさんとむじな』山姥が登場する怖い絵本。→倉科

10)『ふうせん』(アリス館)

11)『世界中のこどもたちが』(ポプラ社)

12)『おーいかばくん』(アンコール)

■ほんと久しぶりで、三線もギターもさわるのもメチャクチャ久しぶり。歌を歌うのも久しぶりで、歌詞も間違えてしまったよ。ダメだな。ごめんなさい。

2017年11月 6日 (月)

伊那のパパス絵本ライヴ(その133)上伊那郡「飯島町・子育て支援センター」

■11月3日(金)文化の日は、飯島町図書館の東側に新しくできた「飯島町・子育て支援センター」へ。

   <本日のメニュー>

1)『はじめまして』新沢としひこ →全員

2)『どっとこ どうぶつえん』中村至男・さく(福音館書店)→北原

3)『いろいろおんせん』増田裕子・文、長谷川義史・絵(そうえん社)→全員

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4)『万次郎さんとおにぎり』本田 いづみ 文 / 北村 人 絵(こどものとも年少版)→坂本

5)『かごからとびだした』(アリス館)→全員

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5)『へんしんおてんき』あきやまただし(金の星社)→宮脇

6)『おーいかばくん』(うた)→全員

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7)『なんでやねん』中川ひろたか・文(世界文化社)→倉科

8)『おふろで なんでやねん』鈴木翼・文、あおきひろえ・絵(世界文化社)→倉科

9)『ふうせん』(アリス館)→うた全員

10)『世界中のこどもたちが』(ポプラ社)→うた全員

11)『うんこしりとり』(白泉社)→うた全員

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(写真をクリックすると、もう少し大きくなります)

平成29年11月5日(日)付「長野日報」より

2017年9月10日 (日)

伊那のパパス絵本ライヴ(その132)下伊那郡「豊丘村」

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2017年9月 1日 (金)

絵本作家「のむらさやか」さんが新作絵本を届けに、わざわざ石川県から当院を訪ねて来てくれたのだ!

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■長年ファンだった絵本作家さんに会いに、各地の「絵本美術館」でのサイン会とか、図書館の講演会とか、ずいぶんと足を運んだものだが、まさか、ぼくが昔からファンである絵本作家さんが自ら、当院「北原こどもクリニック」をたずねてくださるとは。

しかも、わざわざ石川県白山市から、軽自動車を運転して、富山県→岐阜県高山市→安房峠→松本市→中央道→伊那市と、めちゃくちゃ長距離なのに訪ねてきて下さるとは、思いもよらなかった。なんという光栄であろう!

■のむらさやかさんは、福音館書店(こどものとも)から4冊絵本を出している。

1)『これなーんだ?』のむらさやか・文、ムラタ有子・絵

    (こどものとも 0.1.2. /2006/1月号)

2)『かんかんかん』のむらさやか・文、川本幸・制作、塩田正幸・写真

    (こどものとも 0.1.2. /2007/2月号)

3)『はなびがあがりますよ』のむらさやか・文、折茂恭子・絵

    (こどものとも年少版 /2014/8月号)

4)『ぐるぐるぐるーん』のむらさやか・文、サイトウマサミツ・絵

    (こどものとも 0.1.2. /2015/9月号)

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■のむらさやかさんのご実家は上越市だ。御尊父の市川信夫氏は、養護学校・盲学校で教鞭を執りながら児童文学作家として数々の作品を世に出した。中でも児童福祉文学賞を受賞した『ふみ子の海』(理論社)は映画化もされている。(すみません、ぼくは未見)

■夏休みの息子さんを連れて実家に帰るなら、日本海沿いに北陸自動車道を走れば2時間もかからずに到着するはずだ。でも、ニンジャと亀好きの息子さんが「忍者村へ行きたい!」と言ったんだそうだ。忍者村は戸隠にある。戸隠は長野県だ。北原こどもクリニックがある「伊那市」も長野県だ。じゃあ、伊那市に寄ってから忍者村、そのあと上越ならいいんじゃないか? そう思ったのだそうだ。

西から、上越・中越・下越と連なる新潟県も案外広いけど、長野県は南北にメチャクチャ大きい。忍者村は、長野県の北の端、当院は、そこから100km以上南に離れた南信地区に位置する。あのね、とんでもなく遠回りなんですけど。

でも、どうしても「北原こどもクリニック」に寄って、彼女の新作絵本『なかよしなかよし』を届けたかったんだって。ありがたいなぁ。どうして「うち」なんだろう?

のむらさんにお訊きしたら、彼女の処女作絵本『これ なーんだ?』(こどものとも 0.1.2. /2006/1月号)に関して、ネットで取り上げてくれたのが「北原こどもクリニック」のホームページだけだったんだって。それがとってもうれしかったのだそうだ。

■で、自分のサイト内を「のむらさやか」で検索してみたんだよ。こちらです。

おぉ、旧サイトでは10回も取り上げているではないか! 最初はどれ?

「これ」の一番下(2006年2月1日)か。なんだ、たいして大きく取り上げてはいないじゃないか。こんなんで、作家さんは喜んで下さったのか。ありがたいなあ。あと、2006年5月25日にも記載があった。

その次に取り上げたのは、2007年1月20日の「これ」か。

■久しぶりにむかし書いた文章を読んでいたら、2006年2月5日の日記にこんなことが書いてあった。

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●先日送られてきた『母の友 2006/3月号』(福音館書店)をめくっていたら、毎月楽しみにしていた連載「絵本のとびら」伊藤明美(浦安市中央図書館司書)が、今月号で最終回だった。残念だなぁ。その一部を引用させていただきます。

ゆたかな本の世界へ

子どもが本を好きになるためには大人の力が必要です。その一つは心の栄養になる本を選ぶこと。もう一つは、子どもに本を読んであげること。三つめは、共に楽しむこと。最後は、本を身近においてやることです。(中略)

 今、目の前にないものを想像すること、今この瞬間に違う人生を生きている人々がいること、自分と違う考えを持っている人がいること、どうしてそうなったか思い巡らすこと、それが想像力です。本のなかに描かれたたくさんの人生は、子どもたちに、自立した人生を生きてゆくエネルギー=想像する力を養います。

 ちいさいおうちをたてたひとはいいます。
「どんなに たくさんの おかねを くれるといっても、このいえを うることは できないぞ。わたしたちの まごの まごの そのまた まごのときまで、このいえは、きっと りっぱに たっているだろう」

 この「いえ」は、「想像する力」と置き換えることはできないでしょうか。お金では買えず、どんな権力でも曲げることのできない、想像する力こそ、人間を真に自由にします。孫の孫のそのまた孫のときまでも、しっかりと心の中に、想像する力が育っているように、子どもたちに本の扉を開き、さあ、本の世界に一緒に行こうと誘うことができるのは、子どもたちの身近にいる大人、わたしたちです。

 どうぞ、子どもたちに、本を。 (p84)

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写真をクリックすると、もう少し大きくなります

■さて、新作『なかよし なかよし』(こどものとも 0.1.2. / 2017年9月号)だ。これまでの4作と違って、今回は のむらさやかさんが一人で絵も文も担当した。しかも絵は描いたのではなくて、さまざまな素材の紙を探してきて、切り絵・貼り絵で造形してある。

その抽象的な形は、ちょっと元永定正の絵本を思わせるが「色合い」がね、ぜんぜん違う。なんかね「和菓子」のような、渋い「和のテイスト」なのだ。

それぞれの「かたち」を「ことば」にしたテキストも楽しい。

  のっとりさん と とことこさん、ぱっくりさん と もじゃもじゃさん。

  もくもくさん と ちゃぷちゃぷさん、ぐるんぐさん と るるんぐさん。

ここで想い出すのは、シェル・シルヴァスタインの『ぼくを探しに』なのだけれど、ちょっと待てよ。お互いの「欠落」を補完するはずの相手は、のむらさんの『なかよし なかよし』の場合、完全には一致していない。ずれているんだよ。

このことは案外重要なんじゃないかって思ったんだ。

しょせん他人なんだから、完全に一致するワケないじゃん!

2017年7月29日 (土)

まつもと市民芸術館で『空中キャバレー』を体感。

■先週の日曜日、まつもと市民芸術館で『空中キャバレー』を観劇、じゃなくて「体験」してきた。凄かったなぁ。面白かったなぁ。まつもと大歌舞伎と交互に隔年で開催されていて、今回で4回目とのこと。ぼくらは今回初めて。

去年は、ここの小ホールで「木ノ下歌舞伎」の『勧進帳』を観たんだ。あれも衝撃的な演劇体験だったが、『空中キャバレー』には、主宰する串田和美さんの「演劇」に対する思いの丈のすべてが詰まっていて、感動してしまったんだよ。

■これは以前にも何度か書いたけれど、ぼくの演劇体験のベースは、オンシアター自由劇場の『上海バンスキング』なんだ。観たのは、取り壊された「長野市民会館」。1984年だったと思う。串田和美さんがクラリネットを吹き、笹野高史さんがトランペットを吹いた。音楽はすべて自由劇場の役者さんたちが生演奏。そのセンター・ステージで、吉田日出子さんが唄う唄う。何曲も何曲もね。

これには感動したなぁ。

しかも、終演後に劇場をあとにする我々観客を、市民会館の入り口ホールで当日の出演者全員が待ち受けていて、生演奏しながら見送ってくれたのだ。

これって、映画館では絶対に味わえない、演者と観客が「いま・ここ(劇場)」でいっしょに共有する「空気であり時間」だったのだと思った。「お芝居って、凄いな!」それが、ぼくの演劇体験の原点なのだ。


YouTube: 空中キャバレー2017 スポット


YouTube: 空中キャバレー2015年ダイジェスト映像


YouTube: 『空中キャバレー2017』(石丸幹二さんコメント)

■今回の『空中キャバレー』もまた、音楽はすべて「ナマ演奏」。しかも、音楽監督があの世界的アコーディオン奏者「coba」さんなのだ。以下は当日のツイートから。

開演の初っ端は、世界的アコーディオン奏者COBA氏が、ピアソラの「リベルタンゴ」を熱演。しかも、ぼくらから1mも離れていない場所で演奏してくれたよ。そうだなぁ見終わった全体のイメージとしては「スズキコージ」の絵本の実写版か。スリル、笑い、感動。めくるめく体感。こんなの初めて。

続き)一番感動したのは、第二部になって後ろの幕が上がった時だ。なんと!観客の僕らが実はステージ上にいて、大ホールの真っ赤な客席を見上げていた。あぁ、役者さんは毎回「この眺め」を味わっていたのか。そりゃぁ、辞められないよな。

続き)フランス語で「元気?」は、サヴァ?「サバだサバサバだ、サバサバだ。サバだサバサバだ、サバサバだ。サバだ、だーだぁー、サバだだぁー」これを、フランス映画『男と女』の曲(フランシス・レイ作曲)の節にのせて歌うと? 一匹の雌鯖に群がる幾多の雄鯖。このエチュードは以前にもあったの?

『空中キャバレー』の画期的なことは、客席とステージの区別がないことだ。観客は役者さんたちと同じ舞台上にいて、観客の間をぬうように役者さんが動き、その役者さんが近くの観客の手を取ったかと思うと、次の瞬間にはいっしょに踊っていたりするのだ。これほど至近距離で役者さんを見た記憶は、ぼくにはない。

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(写真をクリックすると、もう少し大きくなります)

■自由劇場からの役者さん、片岡正二郎・内田伸一郎・小西康久の3人。バチカン・ブラザーズ。今回は「サボテン・ブラザーズ」を演じて、マリアッチをナマ演奏で奏でてくれた。いっしょに登場したのは、松本出身で、初回公演からずっと出演している秋本奈緒美さんだ。前回までは「西部劇」の設定で、スザンナ役で彼女は登場したのだが、今回は「宇宙の果て」の話。(以下、ツイートのつづき)

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続き)あと好きなのは「サボテン・ブラザーズ」。おならの推進力で宇宙に飛び出すってのは、『怪傑ゾロリ』じゃん。でも、ゾロリが凄いのは、おならの力で地球滅亡を救ったこと。分かる人にだけ分かればいい話。

続き)串田和美さんと大森博史さんの二人が、核戦争後の放射能汚染で誰も居なくなった地球上に立ち、ウラディミールとエストラゴンみたいな会話を交わしている時に突如登場するのは「ゴドー」ではなくて、高田聖子演じる笠置シズ子だ。おばはんパワー凄すぎるぞ。ふと北村想の『寿歌』を思い出したよ。

続き)ただ、家族連れで訪れた人たちが多かった日曜日マチネ回では、幼少の子供たちには「退屈で長すぎる」スケッチだったようにも感じた。実際、当日この場面で飽き飽きしてしまった子供たちが奇声を上げてたし、バックヤードを走り回っていたよ。

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■お芝居は、サーカスや大道芸、歌やダンスの合間にショートコントのように挟まれている。

・ブランコ乗りの少女に恋してしまった兵隊のはなし「チョコレートあげるよ!」

・鼻にとまった蝶々を3拍子で踊りながら逃がさずにいる男たちのエチュード。なんと! そしたら、鼻の頭をクワガタに挟まれた男(吉野圭吾)が登場だ。

・「千拍子のうた」ヘイ!ヘイ!ヘイ!

・第一部のラストは「怪力男オクタゴン」の歌。好きで一緒になった花売り女。結婚式のその日に、オクタゴンは彼女を抱きしめた。しかし、怪力男の哀しさ。花嫁はあまりの圧迫で死んでしまう。「人にはそれぞれ才能がある。その才能は放棄できない!」って、片岡正二郎さんが歌のサビで熱唱するのだが、聴いているその時は「そうだ、そうだ!」って凄く気分が高揚してきたんだけれど、この曲の歌詞をしみじみ聴くと、ちょっと何とも言えず辛い気分になってしまったよ。

・片岡正二郎さん等「バチカン・ブラザーズ(撥管兄弟)」の「この歌」は、じつはApple Music に登録されていて、いつでも聴くことができるのだよ。ただ、あの時歌ってくれた「ヘーデルワイス」と「サボテン海へ行く」は収録されていなかったな。

・歌では、第二部でまずは秋本奈緒美さんが「It’s Only A Paper Moon」を歌った。さすがジャズ歌手でデビューしただけのことはある歌唱力。観客で座っている小さな女の子の手を取って立たせ、彼女をクルクルと回しながら歌ってくれた。続いて吉野圭吾さんが「アムステルダム」を歌った。こちらも流石のミューカル俳優。聴かせたなぁ。

おなじく、今回のゲスト高田聖子さんは、笠置シズ子の「買い物ブギ」を熱唱したよ。

それから、あの「サバ」のコント。これは笑ったなぁ。

■今回の公演の重要パートを担うのが、フランスから来たジュロさん率いる「サーカス・チーム」だ。ジョアネスのジャグリング、ジェームス・ヨギの自転車曲芸。茉莉花さんの「上海雑伎団」真っ青の軟体動物的人体の驚異。金井ケイスケ氏の軽業とダンシング。

マットさんの「綱渡り」を観ていて、あの、ニューヨーク貿易センタービルのツイン・タワー最上階に綱を張って「綱渡り」した絵本を思い出したよ。

そうして、ジュロさんのフラフープのスリル溢れる妙技。ジュロさん、命綱付けていないんじゃない?

タルザナとアメリーの「綱芸」も凄かったけれど、やっぱりラストの空中ブランコにすべてを持って行かれた。そのブランコ乗りアメリーの演技はほんと凄かった。

ぼくが体感したイメージを、最も端的に表現してくれているのが、nono さんのツイート「スケッチ・ブック」だ。

それから、7月30日(日)の「こぐれみわぞう」さんの「千穐楽」連続ツイートが楽しい。キャストのみなさんのバックヤードでの写真が多数あり。

■今回の『空中キャバレー』ではなくて、2年前の時の感想では、「休むに似たり」さんの感想が、場内の雰囲気をよく表していて優れていると思った。

今年の感想では、「松本ジャグリングクラブ」と、「夢ならいつまでも二人きりなのに」さんが素晴らしい。

■先達て亡くなった扇田昭彦氏の観劇録『こんな舞台を観てきた』を読むと、2013年の『空中キャバレー』評が載っている(299ページ)。

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(前略)『空中キャバレー』は普通の演劇でもミュージカルでもない。サーカス、大道芸、演劇、音楽、ダンスなどを混ぜ合わせ、娯楽色豊で、だれもが楽しめるショーを目指している。それは19世紀末にフランスで生まれ、20世紀前半にヨーロッパ各地で流行した「キャバレー文化」の新しい形を探る試みでもある。

 約380人の観客は普通の劇場の入口からではなく、大道具などを運び込む搬入口から場内に案内された。上演が行われる特設会場は、ミュージシャンが演奏する小さな移動式舞台以外は何もない広場のような空間だった。

面白いのは、ここには舞台と客席の境目がないことで、観客は立ったり、床に座ったり、手をつないで踊るなど、自由に動きながら演技を見守る。

 cobaがアコーディオンで奏でるサーカス風の曲と、タップダンス(RON×II)とアコーディオンの競演で始まった舞台は、まさに心浮き立つ楽しさだった。(中略)

 アクロバット、エアリエル、ジャグリングなど、串田がパリでオーディションをして招聘したというサーカスのアーティストたちの演技も楽しめた。特にベテランのジュロが、不安定に揺れ動く高いポールの上で、フラフープを使って見せた離れ業はとてもスリリングだった。

 演出の串田和美は物語の語り手を務めると同時に、ルンペン役なども軽妙に演じて活躍し、じつに楽しげだった。

 その姿を見ながら、『空中キャバレー』は『上海バンスキング』『スカパン』『クスコ』などと並ぶ、演出家・串田和美の代表作だと思えてきた。

 初期の音楽劇『もっと泣いてよ、フラッパー』(1977年初演)や、1989年にシアターコクーンで始まった『ティンゲルタンゲル』シリーズなど、串田の演出にはもともと祝祭的な娯楽性、サーカス芸、道化的な笑いを重視する傾向が見られる。とくに『空中キャバレー』では、舞台と客席の区別をなくし、観客を演技者と同じ空間に包み込む大胆な設定に踏み込んだ。つまり、これは串田流の実験劇なのだ。

一部の知的エリートのための実験劇ではなく、子どもも楽しめる敷居の低い実験劇である。地方の公共劇場で生まれた画期的なレパートリーだ。

 舞台を観ながら同時に感じたのは、串田演出らしい強い手作り感と等身大感覚だった。同じサーカス芸でも、シルク・ド・ソレイユのような精密な完璧主義ではなく、どこかユーモラスなすきまがあるような芸がここにはある。

 心に残る光景がある。乳幼児を抱いた若い母親が数人、立ったまま、何とも楽しげにパフォーマンスに見入っていた姿である。なかには途中で泣き出す赤ん坊もいたが、それもこのにぎやかな空間ではほとんど気にならなかった。だれをも受け入れる、大きな祭りのような劇場空間が成立していたのだ。

『こんな舞台を観てきた』扇田昭彦(河出書房新社)より

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