死者とともに生きるということ
■ハンバートハンバートの代表曲『おなじ話』が、なぜ「おなじ話」というタイトルなのか? ということに言及した発言を未だ読んだことがない。
でも、じつは答は意外と簡単で、主人公の男性が、死んでしまったかつての恋人と会話をする設定だから、そこには全く意外性も未来もなくて、発展性のない主人公サイドだけの「いつもの同じはなし」にならざろう得ないのだね。つまりはそういうことだ。
■今日の「信濃毎日新聞」朝刊文化欄に興味深い記事が載っていた。「死者と生きる ---生者と死者の新たな関係を紡ぐ言葉---」と題されたその記事は、共同通信の配信か、それとも信毎独自の記事なのか、検索してもネット上ではまだ読めないみたいなので、勝手にここで転載させていただきます。
多くの死者、行方不明者を出した東日本大震災から2度目の夏。時がたつにつれ、大切な人を亡くした被災者の喪失、その悲しみを置き去りにして、「復興」ばかりが声高に叫ばれてはいないだろうか。今、生者と死者の新たな関係を紡ぐ言葉が、静かに浸透し始めている。私たちは、死者とともに生きている、と。
大学職員の小原武久さん(56)は、宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区の自宅にいた27歳の息子を津波で亡くした。「現実を受け入れられず、夢を見ているような毎日でした」。職場の大学の准教授に手記の執筆を依頼されたのは、震災から3ヵ月がたったころ。同僚が帰った夕暮れ時の職場で、一人パソコンに向かった。在りし日の面影、必死で行方を捜した日々がよみがえり、悲しみが胸を満たしていく。「そのとき、息子が語りかけてくれるような感覚があったんです。息子と2人の時間を過ごし、一緒に書いている。そんな気がして」
死者とは、協同する不可視な「隣人」である--- 。批評家の若松英輔さんは著書「魂にふれる」でそうつづった。「人は死者を思うとき、決して一人で悲しむことはできない。なぜなら、そこには必ず死者がいるから」
若松さん自身も一昨年、妻をがんで亡くした。「死者は存在するという問いは大きな仮説。でも私に取っては実感です」。そこにあるのは「死者によって終わるのではなく、死者として生まれる」という感覚だ。悲しみとは「死者が近づいてくる」合図であり、逆に言えば「悲しみこそが死者の存在を保証している」。
今この瞬間も、言葉も音も持たない死者の「声」を待ち続け、沈黙の渦中にある人々がたくさんいる。その沈黙そのもにに大きな意味がある、と若松さん。「沈黙に至らざるを得ない経験、その苦しみを1歩生きたとき、自分の横に死者がいると感じるのだと思う」
同書で若松さんは「死者と生きることは、死者の思い出に閉じこもることではない。今を、生きることだ」と書いた。死者とは困難を解決してくれる人ではなく、困難とともに歩いてくれる人だと。「死者に支えられ、助けられた人間はいつか必ず誰かを助ける。悲しみ尽くした人は誰よりも人の悲しみを分かってあげられる。今、これ以上の希望があるでしょうか」
哲学者の森岡正博さんは著書「生者と死者をつなぐ」で「死者とともに生きているというリアルな感覚」をこう描いた。「ふとした街角の光景や、たわいない日常や、自然の移りゆきのただ中に、私たちは死んでしまった人のいのちの存在をありありと見出すのだ」
宗教も、肉体から抜け出る魂の存在も信じていないという森岡さんは、近代以降の日本の死生観に不備があったと指摘する。「われわれは言葉になる以前の感覚として多くの人が持っているものに、言葉を与えられてこなかった」。むしろ、魂の存在や、お盆に死者が帰ってくるという儀式は、この「原体験の感覚」が基本にあり、それを説明するため、後から「発明」されたと考えることもできるのではないか。
生者と死者が出会い、交わるということ。それは一方で「われわれが大切にしてきた伝統的な感受性」だという。例えば、世阿弥の「夢幻能」は、死者が能面をかぶって生者の前に現れ、語りかけ、舞う。「死者の声をどう聞くかというテーマを能は描いてきた。そうした感受性をもとに、死者とともにあるということを、今の視点から言葉に置き換えていく作業が必要です」と森岡さん。
「いわく言い難い感覚であるため、口にしたり、考えたりするのはおかしいのではないかと思っている人々に、それはあり得るんだよ、そこから開けてくる生命観もあるんだよ、と伝えたい」(2012年8月8日付、信濃毎日新聞朝刊13面より)
■ところで、同じようなことを、ずいぶんと昔から繰り返し言ってきた人が他にもいた。
内田樹先生だ。
今日の午後、伊那の TSUTAYA で買ってきた『昭和のエートス』内田樹(文春文庫)を読んでいたら、「死者とのコミュニケーション」(p209) というパートがあった。読んでみたら、過去に同じ文章を読んで「うんうん、そのとおり!」と思った記憶がある。
そうさ。死者とともに生きることができるということが、人間という生物の最も高貴な性質に違いないのだから。
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