ジャズ Feed

2022年11月 3日 (木)

クリエイティブハウス『AKUAKU』のこと

『長野医報』11月号「特集:一杯のコーヒーから」が発刊されました。

 11月号は県医師会広報委員のぼくが編集担当で、テーマもぼくが決めたのですが、原稿がなかなか集まらず、自分も書かなければならなくなってしまいました。

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クリエイティブハウス『AKUAKU』のこと

上伊那医師会 北原文徳

 

 中央自動車道を飯田方面に南へ下って座光寺SAで下車し、西の山麓へずんずん上って行くと「信州たかもり温泉」にたどり着き、その北隣にちょっと硬派なジャズ喫茶「リデルコーヒーハウス」があります。店主こだわりの自家焙煎コーヒーをメインにアルコール類の提供はなし。小学生以下、3名以上での来店お断り。おしゃべり禁止。完全禁煙。店内には、高級オーディオシステムの巨大スピーカーからジャズが大音量で鳴り響いています。

 令和4年9月16日付の読売新聞14面に、1960〜70年代に流行したジャズ喫茶が再び注目を集めているという特集記事が掲載されました。最近のレコードブームでアナログ特有の暖かい深みのある音色に魅せられた海外の音楽ファンや日本の若者たちが、イヤホンでサブスク音源を聴くのが当たり前の現代、高級オーディオで大音量の音と向き合うことに新鮮な喜びを感じたのではないかと分析していました。

 ああ懐かしのジャズ喫茶。1977年〜1983年3月まで大学生だった僕もジャズ沼にはまり全国各地のジャズ喫茶探訪の旅に出て、記事に載っている東北の名店「ベイシー」「カウント」「オクテット」も実際に訪れました。土浦から常磐線経由青森行き夜行列車に乗ると東北方面は案外アクセスが良いのです。

 僕は筑波大の4期生で、当時の研究学園都市は茨城県新治郡桜村の地籍にあり、あちらこちら工事中。一雨降れば道路に水があふれ長靴は必需品でした。東大通り(ひがしおおどおり)沿いに中華丼が美味い「珍来」はありましたが、ジャズ喫茶みたいな文化的施設は皆無でした。「つくば万博」が開催されるまであと8年、「つくばエクスプレス」の開業は28年後なので、東京へ出るにはバスに30分以上揺られて土浦に出てから常磐線で上野までさらに70分かかりました。

 ジャズと映画に飢えていた僕は、週末になると上京して、池袋文芸座の土曜オールナイト上映で「大島渚特集」や「寺山修司特集」を観ました。夜明けの映画館を出て、始発の山手線に乗り込みそのまま熟睡して2〜3周もすれば、街はすでに賑やかになっていました。

 午前9時半からやっているジャズ喫茶は渋谷百軒店の奥にあった「ブレイキー」だけで、ここにはよく通いました。日曜日でも安価なモーニング(たまごサンド付き)をやっていて、暗い座席で煙草を吸いながら2〜3時間ねばれば、レコード片面ずつ5〜6枚を聴くことができました。ビリー・ホリデイ『レディ・イン・サテン』、ワーデル・グレイ、ウディ・ショウ。ここで初めて聴いて大好きになったレコード、演奏家がなんと多いことか! まさに僕にとってのジャズ道場でした。

 所持金にゆとりがある時は、大槻ケンヂ『行きそで行かないとこへ行こう』(新潮文庫)にも登場するカレーの老舗「ムルギー」でムルギー玉子入りカリーを食べました。美食家の山本益博氏が絶賛したラーメンの「喜楽」と共に、なんと今でも現役営業中です。

 新宿ではもっぱら「DIG」です。二幸(今の新宿アルタ)裏の雑居ビル3Fにありました。和歌山県新宮市の出身で日大芸術学部写真学科卒業のオーナー中平穂積氏が、植草甚一氏と知り合い1961年に開業した老舗のジャズ喫茶です。ビルの1階はレストラン「アカシア」。ホワイトソースのロールキャベツが有名で、当時確か380円でした。「DIG」の不味いコーヒーは400円しました。

 

 そんな僕が大学3年生になった夏の終わり、1979年9月9日のこと。筑波大学平砂学生宿舎共用棟の東側に隣接する商用地の2階に、突如『クリエイティブハウス AKUAKU』は出現しました。縦長の店内には、巨大なスピーカーJBL4343が左側面に設置され、中央にはグランドピアノ、奥は一段高くステージになっていました。昼間はジャズ喫茶、夜は食事もできるカフェバーで、遅くまで多くの学生たちで賑わいました。

 オーナーの野口修さんは地元桜村の出身で、音楽に限らず演劇・映画・現代美術にも造詣が深く、オープン1年前から当時まだ筑波大3期生の学生だった吉川洋一郎さん(作曲家・編曲家)岩下徹さん(舞踏「山海塾」ダンサー)浅野幸彦さん(アート・プロデューサー)の3人と協力して、この文化不毛の地にサブカルチャーの発信基地を立ち上げたのでした。「アクアク」というのは南太平洋の孤島イースター島の言葉で「何かを創造しようとする欲求」を意味するのだそうです。野口さんは当時「個人的な自由を離れた自由な場所が欲しかった」と語っています。

 オープニングライヴには山下洋輔トリオが呼ばれました。以後9月9日の山下トリオ公演は毎年の恒例となります。週末にはジャズに限らずロック、フォーク、ブルース、パンクの有名ミュージシャンたちが東京から海外からもライヴに訪れました。またギャラリーとして幾多のアーティストが個展を開き、スズキコージ氏や森川幸人氏はライヴペインティングのイベントを開催したりしました。さらに、演劇、舞踏、ダンス公演やワークショップ、詩の朗読会、各種講演会、映画上映など、その活動は実に多岐にわたります。

 

 当然のごとく、僕は「アクアク」に入り浸ることになります。いつしかスタッフの末席に加えてもらって、ライヴの手伝いをしながらタダで演奏を聴かせてもらい、打ち上げの宴会にもちゃっかり参加して、持参のレコードにサインしてもらいました。写真は、武田和命、森山威男、山下洋輔のサインが入った僕の大切なレコードたちです。

Img_2904(写真をクリニックすると、大きく拡大されます)

 マスターの野口さんは「アクアク」という空間を使って新たに何かやってみたい学生が持ち込む企画を寛大に積極的に受け入れました。僕が提案した「日活ロマンポルノ上映会」も、映写技術がある野口さんが16ミリフィルムと映写機を借りてきて難なく実現しました。特設スクリーンに映し出されたのは、僕が大好きな映画『㊙色情めす市場』(1974年/監督:田中登 キャスト:芹明香、花柳幻舟、宮下順子)です。客席も満員になり嬉しかったなあ。

 演劇では「転形劇場」を主宰する太田省吾氏が劇団員の佐藤和代、大杉漣と共に訪れて、無言劇『小町風伝』の一部を上演してくれました。能舞台をさらに超スローモーションにした役者さんの緊張感溢れる身体の動きは驚異的でした。

 僕が一番忘れられないのは、若松孝二監督をゲストに迎え彼が監督した映画『性賊 /セックスジャック』(1970年)を上映した時のことです。たしか野口さん自身のセレクトで「いまの学生たちにぜひ見てもらいたい映画」と言っていました。「あさま山荘事件」の2年前に作られた映画です。赤軍派の学生たちを模した武装革命グループが敗走して潜伏した先は、川向こうの貧民窟に住むまだ十代の青年の木造アパート。彼らは「薔薇色の連帯」と称してセックスに明け暮れる日々。青年は決して加わらず夜な夜な一人どこかへ出かけて行きます。彼はなんと孤独なテロリストだったのです。青年は河原でグループの男に呟きます。「天誅って、いい言葉ですよね」と。ラストで画面はモノクロからカラーに変わり、青年が真っ赤なジャンパーを着て颯爽と橋を渡って行くシーンで終わります。

 この赤いジャンパーは若松孝二監督が撮影時に着ていたもので、頭でっかちで何も出来ない学生たちを嘲笑うかの如く去って行く青年は、若松監督自身であり野口さんの分身であったに違いありません。僕は頭をハンマーで殴られたような衝撃を覚えました。

 

 卒業すると直ちに信州大学小児科学教室へ入局させていただいたので、僕はその後の「アクアク」の様子は分かりません。マスターの野口さんは、学生だけでなく地元地域住民との交流を深める中で、文化的活動をさらに広範囲に展開するためには直接政治にコミットする必要があると思い立ち、1992年につくば市議会議員選挙に初当選。以後8年にわたり市議会議員を務めつつ店を経営しました。ただ彼は、当初から「アクアク」は20世紀のうちにお終いにすると決めていて、2000年12月に数々の伝説を生んだ名店「アクアク」は、出演者からも観客からも惜しまれつつ閉店しました。

 

 今年の2月末のことです。ツイッターのDMに野口さんから連絡が入りました。「アクアクのスタッフだった横沢紅太郎が、串田和美『キング・リア』の舞台監督を務めるから、松本まで観に行こうと思っている。おい北原、折角だから会えないかな?」そうして茨城から奥さんと軽自動車に乗って、はるばる松本まで野口さんはやって来ました。

 お会いするのは実に40年ぶり!でも、気さくで飄々とした佇まいは昔とぜんぜん変わらない。同期生の山登敬之君と以前アクアクの話をしていて、彼が「野口さんて、1955年生まれだから僕らと年そんなに違わないんだよ」と教えてくれて驚いたのを思い出しました。

 観劇のあとロビーにいたピアニストの谷川賢作さんとヒカシューの巻上公一さんを見つけると、野口さんは「よう」と気軽に声をかけ、彼らも「あれ、野口さん!」と旧知の親しい間柄であることが知れました。暫し話し込んだあと彼らとは別れて「しづか」に場所を移し、郷土料理を食べながら昔話に花が咲きます。じつに楽しい一夜でした。

(『長野医報』11月号 p14〜18 より転載。一部改変あり)

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長野医報11月号用 医師会会員にFAXで送った「原稿募集のための招請文」


YouTube: 一杯のコーヒーから 霧島昇・ミスコロムビア

 

特集「一杯のコーヒーから」

 

 「一杯のコーヒーから、夢の花咲くこともある〜」ミス・コロンビアと霧島昇が昭和14年に歌ってヒットしたこの曲は、服部良一が作った明るく爽やかな曲調が今聴いてもモダンで新鮮に感じます。日中戦争は泥沼化し、日本が太平洋戦争へ突き進もうとしていた当時の流行歌とは、とても信じられないです。

 現在に目を向ければ、新型コロナウイルスの流行は一向に収まらず、ロシアのウクライナ侵攻は長期化、国内情勢も円安と統一教会問題で揺れていて、ますます不安で暗い気分の毎日です。

 さて皆さん。ここはひとつ美味しいコーヒーでも飲みながら「ほっ」とひと息入れませんか? 毎朝ぼくは、ケニアかエチオピアの豆を碾いて実験用のフラスコみたいなケメックスのコーヒーメーカーで入れた一杯を飲み干してから「よし」と診察室に向かいます。

 コーヒー関連の楽曲には他にも「コーヒールンバ」ザ・ピーナッツ、「学生街の喫茶店」ガロ、高田渡が京都イノダコーヒーのことを唄った「珈琲不演唱」、海外では「Black Coffee」ペギー・リーがありますね。

 

 という訳で、コーヒーにまつわる投稿を募集します。お気に入りのコーヒー豆について。スタバでスマートに注文する方法。隠れ家にしている喫茶店。むかし通った名曲喫茶。文筆家の平川克美氏は荏原中延で『隣町珈琲』を営みながら新たな「共有地」の可能性を模索しています。

 いろんな切り口があるかと思います。皆様のご投稿を切にお待ちしております。

 

広報委員 北原文徳

2022年9月25日 (日)

さようなら ファラオ・サンダース

■旧「しろくま通信」今月のこの一曲 に載せた、ファラオ・サンダースの文章です。

 2003年10月14日 に書いたものです。

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よく言う「無人島に持っていく1枚のレコード」ってヤツがあるでしょ。ぼくは迷わず(いや、たぶん(^^;)コレを選びます。

それほど、人生のある時期、一番大切にしていたアーティスト&レコードでありました。間違いなく。それがこの、 新宿西口「オザワレコード」で買った、2枚組輸入盤『Journey To The One』Pharoah Sanders( Theresa Records)。   

あれは、1980年代の初頭。いつものように新宿西口を出て、「オザワ」でジャズ・レコードを物色。それから地下道を潜って東口に向かいます。二幸ビル(今のアルタ)裏にある雑居ビルの1F「アカシア」 で、¥380の「ロールキャベツ定食」を食べて腹を満たしたあと、同じビルの狭い階段を上りはじめました。すると、3Fのジャズ喫茶「DIG」からピアノの音が聞こえてくるワケですよ、 ジョン・ヒックス のピアノが。もの凄くスイングして。

階段を駆け上がってドアを開けると、レイ・ドラモンドのベースが「ブンブンブンブン」と、地響きのように「ずんずん」おなかに振動してきます。そこに被さって、突然、ファラオ・サンダースの吹っ切れたサックスが咆吼しました。「パパラ、パパッパー、パパッ! パパラ、パパッパー!!」 って。これって、ものすごく気持ちいい!!

この曲が、『Journey To The One』(Side Three) 1曲目に収録された、かの名曲!『 You've Got To Have Freedom 』だったのです。

当時、ファラオ・サンダースって、ほとんど注目されていませんでした。23年前のことです。ぼくは、ごうを煮やして、「スイングジャーナル」に
投稿しました。それはこんな文章でした。(つづく)
(2003年10月14日 記)

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■気分はファラオ・サンダース

ジャズを聴いていると、急に力が湧いてきて、何かしなきゃという気持ちになるとおっしゃったのは植草甚一氏であった。でも最近はそういうのが少ないんだよねぇと、わしは森山威男ばかり聴いておった。去年の夏のことだ。

そんなある日、相変わらずの新宿の人混みに驚きながら『DIG』の狭い階段を昇って行くと、熱い音がゆっくりとうねりながら降りてくる。実に久々の快感。

「おぉっ、なんだこれは」とかけ上がってみると、ファラオ・サンダースの新作『Journey To The One』。わしは驚いた。これがあのファラオ? 実に大らかに、ゆったりと吹いている。しかも力強く。何かスパッと吹っ切れた感じだ。

今までなんでコルトレーンはファラオなんか使ったんだろうと、わしは陰口をたたいていた。実際、彼はいつの間にかジャズ界から消されてしまっていた。でも一番悩んでいたのは彼自身だったんだな。

この春にでた「Rejoice」にはこんなことが書いてある。
「ジョー・ヘンダーソンみたいにもっとテクのあるヤツはいくらでもいただろうに、何で彼は俺なんかが良かったんだろうって、不思議に思ったよ。でも、彼には一度も聞いてみなかったな。なぜって、俺たち二人ともとても無口だったからさ。」

(後略)
『スイングジャーナル』1981年7月号より(なんだか、当時愛読していた椎名誠さんの文体のモロまねですねぇ(^^;;)

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●そんなファラオだが、不思議なことにここへ来てにわかに活気づいてきた。先月と今月、インパルス時代の傑作3枚、テレサ時代の名盤『Journey To The One』を含む4枚が、国内盤でCD発売されたのだ。しかも、『Meditation - Pharoah Sanders Selections Take 2 』は、その「テレサレコード」のベスト盤になっていて、もちろん『 You've Got To Have Freedom 』も収録されています。紙ジャケのデザインもなかなかだし、このベスト盤はお買い得だな。(2003年10月20日追記)

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2022年3月24日 (木)

ジャズ喫茶、渋谷「DIG」にレコード泥棒が入った!! その顛末

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■『BRUTUS 特別編集:完本 音楽と酒。』を買った。ピーター・バラカンが選んだ 96枚のレコード紹介がまずは読みどころだが、p202〜p207 には「60s - 90s 時代を象徴する music & drink な4軒」として、古い順に「新宿DIG & DUG」「渋谷ブラック・ホーク」「西麻布レッド・シューズ」「渋谷公園通り カフェ・アプレミディ」の4軒が紹介されている。

■新宿DIG & DUG に関して語るのは、オーナーの中平穂積氏だ。和歌山県新宮市出身(中上健次や児童精神科医 小倉清先生と同郷)日大芸術学部写真学科に入学後は、高校生の頃から大好きだったジャズが聴きたくて東京のジャズ喫茶巡りの日々。大学5年生の時、植草甚一氏と知り合い、彼のバックアップもあって、かねてからの夢であった自分の店「DIG」を新宿二幸ビル裏の3階にオープンする。1961年11月7日のことだった。翌年3月に挙げた結婚式では、植草甚一夫妻が仲人を務めた。

BRUTUS には「そして 1967年、紀伊國屋裏にジャズバー<DUG>をオープン。」と書かれていて、中平氏が 1963年7月10日に、渋谷百軒店にオープンさせた「DIG渋谷店」の事には一切触れられていない。

じつはこの「DIG渋谷店」が、以前にも紹介したように、そのまま「ロック喫茶ブラック・ホーク」となる。1969年のことだ。BRUTUS では<ブラック・ホーク>のことを萩原健太氏(1956年2月生まれ)が紹介している。彼が高校生の時(1973年)に初めて渋谷百軒店を訪れ、大学生になると、この界隈に入りびたることになるのだった。

中平穂積氏が、なぜ「渋谷DIG」を手放したのか? これは以前にも少し書いたが、その詳細は『新宿DIG DUG物語』高平哲郎編(三一書房)に載っていて、たしか持っていたはずなのだが探しても見つからずあきらめていたら、先だって「戦争関連の絵本」をいろいろと探して納戸の奥の方から絵本を引っ張り出したりしていて、偶然その本がいっしょに見つかったのだった。以下、その真相部分を転載する。(p60〜p62)

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 1966年秋のことでした。渋谷店のレコードが大量に盗難にあったんです。あのころ、渋谷店には2000枚のレコードを三段の棚に整理してありました。ある日、出勤した従業員の鈴木彰一が、二段目の棚の1000枚が消えていることに気づいたんです。鈴木は、現在は中野の「ジニアス」のオーナーです。そのときは、鈴木も、犯人は手の届きそうなところにあったレコードを無差別に持っていったと思っていました。

 連絡を受けて駆けつけてみると、二段目の棚にケニー・ドーハムの『マタドール』一枚だけが残っていました。このレコードは幻の名盤といわれていて、1964年にケニー・ドーハムが来日したときに、本人からサインをもらったものだったんです。売ったって高い価値のある名盤なのに、その価値が判らなかったのかあわてて残していったのかは判りませんでした。

 これはメッセージじゃないかって、ぼくは冗談半分に言いました。「『マタドール』を残したのは『また盗る』の意味じゃないのかな。怪盗ルパンみたいに」

 でも、この事件は幸いなことに解決するんです。事件から3ヵ月が過ぎたころ、「DIG」渋谷店近くの寿司屋に行ったときの話です。その店の主人がこんな話をしたんです。

 「そういえば、3ヵ月前の朝方、店の前に白い車を止めて、荷物を運んでいたのがいたよ。運転していたのは、そこの喫茶店の男だったよ」

 この目撃情報を聞いて、すぐに渋谷署に連絡して、喫茶店の男が捕まって、一挙に事件が解決しました。男は「ある人に頼まれてレコードを運んだ」と自供しました。それから間もなく犯人グループ4人が逮捕されました。「DIG」渋谷店に一時期、出入りしていた不良グループが犯人だったんです。事件の後、ぱったり来なくなったんで怪しいとにらんでいた男たちでした。1000枚のレコードも無事帰ってきました。

盗難事件の直後に、渋谷署から「盗まれたレコードのリストを作って欲しい」と言われて、鈴木彰一と二人で、アメリカのレコード・カタログの「シュワン」を見ながら、900枚以上のリストを数日かかって作ったんです。戻ってきたレコードと照合したら、二、三枚ぐらいしか違っていませんでした。警察にも凄い記憶力だと誉められましたよ(笑)。

「DIG」渋谷店が繁盛したんで。店の大家が渋谷「DIG」の二階でジャズ喫茶を開店したんです。でも木造でしょう。一階と二階の音が混じり合って、ひどい状態になった。盗難事件に音の問題で、ぼくも嫌気がさしてきました。それで1967年に、渋谷「DIG」を閉めることにしたんです。

 店を売りに出したら手元に500万円が残りました。これを新宿の日本相互銀行に預けたんですが、これが幸運の始まりになりました。そこの支店長がたまたま日大の先輩ということもあって、「事業を拡大するなら融資しますよ」って話になって、それが紀伊國屋裏のビルに「DUG」を開くきっかけになったわけです。

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 『新宿DIG DUG物語 --中平穂積読本-- 』高平哲郎編(三一書房)p60〜p62 より転載

2022年2月 4日 (金)

渋谷・百軒店・『さすらい』 追補

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■百軒店にあった「ブラックホーク」には、僕は入ったことはない。店の前は何度も通りすぎたけれども。

この店に関しては『渋谷百軒店 ブラック・ホーク伝説』(音楽出版社)そして、松平維秋『SMALL TOWN TALK~ヒューマン・ソングをたどって』(VIVID BOOKS)の2冊が出版されているが、僕はどちらも未読。

以下は、『渋谷系』若杉実(シンコーミュージック)10〜11ページより。

 ブラック・ホークを開業することになる水上義憲は、大学在学中に父の知人である金融業者から「これからの時代は日銭商売がいい」と教唆されるように指南され、出物の話を持ちかけられる。それはジャズ喫茶の名店として知られていた「渋谷DIG」。

(しろくま注:新宿DIG の姉妹店としてオーナーの中平穂積氏が、1963年7月、渋谷百軒店に出店したが、1966年の秋、店に泥棒が入り一枚だけを残しレコードがすべて盗まれてしまう。残ったレコードがケニー・ドーハムの「マタドール」。犯人は捕まりレコードはすべて戻ったのだけれど、残った一枚のレコード「マタドール」が、泥棒からのメッセージ「また盗る」と不吉に思ったのか、嫌気がさしたオーナーの中平穂積氏は店を手放すことにしたのだという)

スタッフ(レコード係の松平維秋)とレコード一式を残し店を畳むことになっていたのだ。つまり、それをもとに新しい店をやれ、と。水上は姉のサポートをもと在学中にジャズ喫茶のオーナーになる。

 百軒店にはジャズ喫茶であふれ返っていた。ブラック・ホークが入るビルの2階に「SAV」。ライヴを中心としていた「オスカー」。メインストリーム系の「スイング」「ブルーノート」。そして名前どおり、こぢんまりとした「ありんこ」。百軒店のすこし手前、恋人横丁のそばにも老舗「デュエット」があった。(中略)

 だが皮肉なことに、それからほどなくして世間でのジャズ喫茶ブームに陰りが見えはじめる。こうした時勢に鑑み、水上は「DIG」から「ブラック・ホーク」と名前を変え、ロック専門の喫茶店へとリニューアルする。1969年のことだった。(中略)

 ブラック・ホークに流れるロックは一筋縄ではいかないものばかりだった。ジョニ・ミッチェルやレナード・コーエンなどシンガーソングライターはもとより、ガイ・クラーク、ガストリー・トーマスのようなカントリー系、ベンタングルやフェアポート・コンヴェンションといったブリティッシュトラッドなど、まるでフォークの世界地図を目にしているようだった。

 そのフェアポート・コンヴェンションがバックを務めるニック・ジョーンズの『バラッズ&ソングス』がきっかけでトラッドに開眼したという松平維秋は、渋谷DIG 時代からレコード係としてブラック・ホークを支えてきた人物。店内に流れた音楽をみずから”ヒューマンソング”と命名する。


YouTube: Nic Jones - Ballads and Songs

■ジャズ喫茶のマッチコレクションで知った、豊丘村在住のムッシュ松尾氏の 2022/01/18 のツイートにこんなことが書いてあったぞ。勝手に転載してごめんなさい。

僕が東京のジャズ喫茶巡りをしていたのにはちょっとした訳がありますそれは渋谷にあったロック喫茶に行く為そこで聴いたレコードをレコード店で探す為。当時音楽雑誌ニューミュージックマガジンの広告に載っていた見た事も聞いたこともない音楽に出会う為。その音楽一言で言えばヒューマンソングという

その店でブリティッシュトラッドと言う音楽を覚えた。昔ながらの伝統のフォークトラッドと新しい若者たちが試みるエレクトリックトラッドと言う音楽。ペンタングルを始めフェアポートコンベンション、スティーライスパンなどのエレクトリックトラッドに心を奪われていく。そう伝説のブラックホークだ!

なるほど、この父親のもとで育ったわけなのだな。妙に納得してしまった。スタジオジブリ『アーヤと魔女』挿入歌「The House in Lime Avenue 」 by GLIM SPANKY。


YouTube: The House in Lime Avenue

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■「佐々木昭一郎」の初期の作品には、プロの役者はまったく登場しない(「はみだし劇場」と『紅い花』は除く)

カメラの前で、素人に演技をさせるのだ。しかも、手持ちカメラだから画像は揺れるし、いきなり人物に寄るし、急にパンするし、まるで「ドキュメンタリー」のような映像が映し出される。緊張感とリアリズム。それでいて、詩情あふれるシーンも随所に挿入され、そこには必ず印象的な音楽が使われるのだ。

 『夢の島少女』→ 「パッヘルベルのカノン」

 『四季・ユートピアノ』→ 「マーラー交響曲4番」

 『川の流れはバイオリンの音』→ 「チャイコフスキー弦楽セレナーデ」

 『紅い花』→ 「ドノバン:ザ・リヴァー・ソング」

 『さすらい』→「ザ・バーズ /イージー・ライダーのバラード」


YouTube: The Byrds (ザ・バーズ) / Ballad of Easy Rider 「イージー・ライダーのバラード」

■『さすらい』の主人公「ヒロシ」は、横浜の山手通りで他人のバイクを勝手にエンジンふかしてイタズラしているところを佐々木昭一郎に発見されスカウトされた。15歳だった。父はアメリカ人で母は日本人。混血孤児で、エリザベス・サンダースホームの出身。

栗田ひろみも、佐々木が発見した。佐々木の友人(池田)の知り合いで「妹っていうイメージで12,3歳の子供が要るんだけど、ちょっと色が黒くて目がクリクリしているような子いないかって言ったら、あの子連れて来た」「放送終わったらものすごい電話が鳴るんだ、今の女の子誰ですかって」「1,2年後に大島渚の『夏の妹』っていうのに出た。初出演って、まあ大島さんが見つけたみたいになってたけど、いちゃもんは全然つける気はないけど、ぼくのに最初に出した。」(『創るということ』佐々木昭一郎より)

「笠井紀美子は、アメリカに出発する直前だった。彼女が演じた、さすらうシンガーのシーンは、出発3日前に撮った」(『創るということ』佐々木昭一郎より)

■佐々木昭一郎の作品の中では、ぼくは『さすらい』が一番好きだ。

主人公ヒロシは孤児。おとうさんも、おかあさんもいない。兄弟もいない。だから、さすらいながら探し、そして出会う。

友川かずきは兄貴だ。栗田ひろみは妹。キグレサーカスの綱渡りの女は母親のイメージか。笠井紀美子は、唄をうたう「お姉さん」だ。「交流」するためにアメリカへ行こうとしている。

ここじゃない。他のところ。この人じゃない、他の人。今ない、他のとき。自分じゃない、他の自分……。」

主人公の青年、海から出てきて、また海に帰って行く。

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■渋谷に生まれ、渋谷で育ち、いま現在も渋谷に暮らす、井上順さん。彼のツイートは、このところ毎朝の楽しみになっている。進行形の渋谷の街並みに溶け込む彼の写真とお決まりのダジャレ。

そのダンディな装いとは逆に、飾らない人柄が溢れ出た笑顔がなんとも素敵な人だ。最近出たばかりの本『グッモー!』井上順(PARCO出版 2021/10/14)は、変わりゆく渋谷の写真も満載で楽しい一冊だ。

井上順は、1947年2月、渋谷区富ヶ岡1丁目にあった「井上馬場」に生まれた。少し北へ行くと代々木八幡宮がある。祖父は獣医師で、サラブレッドの輸入にも関与し、経営する馬場には宮様方も乗馬に訪れたという。

3人兄弟の末っ子だった彼がまだ幼い頃に両親は離婚。やり手の母親は自ら会社を立ち上げバリバリ働いた。今で言えばジャニーズ系のイケメンだった彼が中学1年生の時、母親は彼が将来芸能界で活躍できるかも? とでも考えたのか、彼を「六本木野獣会」に入れる。

川添浩史・梶子夫妻の評伝『キャンティ物語』野地秩嘉(幻冬舎文庫)にも、120ページに「六本木野獣会」が登場する。渡辺プロダクションの副社長、渡邊美佐が目を付け選んだタレント候補生の集まりで、ジェリー藤尾、田辺靖雄、大原麗子ら約20人のメンバーが、六本木飯倉片町の「キャンティ」近辺にたむろしていたのだった。

井上順は峰岸徹の弟分となり「キャンティ」隣の写真家の立木義浩氏の自宅にも、よく遊びに連れていってもらったという。そして、彼が16歳の時に、ザ・スパイダースの最年少メンバーとして加入することになる(少し先に加入した堺正章は、彼と同学年だが 1946年8月生まれ)。

ザ・スパイダースは、リーダーの田邊昭知のマネージメント能力とリーダーシップ、それから、かまやつひろしの新しいものを直ちに取り入れるシャープな感性と音楽センスによるところが大きかったと。メンバーの大野克夫、井上堯之は、のちに作曲家としても大きな功績を残した。

田邊昭知はいまや、タモリも所属する田邊エージェンシーの社長だ。奥さんはあの、小林麻美。

追補)井上順さんのツイートを読んでいて驚いたのは、彼が海外ミステリー、ハードボイルド、冒険小説のファンで、新刊も欠かさずしっかりフォローしていることだ。

ハヤカワの「暗殺者グレイマン」のシリーズ、講談社文庫マイクル・コナリー「ハリー・ボッシュ」シリーズ、そのほか最近の人気シリーズものや、創元推理文庫のシブいところまで、とにかくよく読んでいてビックリしてしまったぞ。すごいな!

2022年1月26日 (水)

1971年の渋谷 道玄坂 百軒店(ひゃっけんだな)円山町。そして、佐々木昭一郎『さすらい』


YouTube: 「さすらい」 佐々木昭一郎演出 ダイジェスト

■渋谷道玄坂 百軒店(ひゃっけんだな)のことを調べていたら、いろいろと面白い。まずは、戦後1960年代〜1990年代〜そして現在に至る「渋谷」という街の変貌が、分かりやすい印象的な文章でまとめれた、『月刊 pen』での連載【速水健朗の文化的東京案内。渋谷編 ①〜⑥ が読み応えある。

<その⑥>が「若者の街、渋谷の原点は百軒店にあった」だ。この中に出てくる 1971年公開の日活映画『不良少女 魔子』(なんと、あの『八月の濡れた砂』との2本立て上映だった!)が、amazon prime video(無料ではない?)あるらしい。見てみたいな。

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『2000年 の「渋谷」の地図』

写真をクリックすると大きくなります>

■「百軒店」の歴史は古い。西武の前身「箱根土地」の堤康次郎は、入手した旧中川伯爵邸跡地を高級住宅地として分譲しようとしていたが、1923年、関東大震災が起きてしまったためその考えをやめて、被災した銀座・上野の名店(精養軒、資生堂、山野楽器、天賞堂、聚楽座など 117店)の仮店舗を誘致して、渋谷に浅草をもしのぐ繁華街を作り上げた。それが「百軒店」だ。

しかし、復興が進んで名店が都心に戻ると寂れ、隣接する花街・円山町の待ち合わせの街として発展した。東京大空襲で全て焼失したが、戦後は円山町が花街からラブホテル街へと変化するにつれ、喫茶店や飲食店や映画館が建ち並んだ。

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【1978年 頃の百軒店:店舗一覧】

「エクリア」と書いてある所が『ムルギー』 。その奥のビルとマンションには、かつて映画館が3館:テアトルハイツ(1950〜68年)テアトル渋谷(47〜68年)テアトルSS(51〜74年)あった。映画『不良少女 魔子』に登場するボーリング場は、この映画館あと地(図の、ハイネスマンション→いまのサンモール道玄坂)に出来たもの。

■平安堂で立ち読みしていた『TV Bros. / 2022年2月号』p54〜55「細野晴臣と星野源の地平線相談」の今月のテーマが「渋谷の再開発」だったんで、買ってきたら、細野さんがこんなことを言っていた。

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細野:僕の脳内では、渋谷の風景は、はっぴいえんどの時代で止まってるね。(中略)僕らがしょっちゅう通っていた「マックスロード」というカフェもなくなっちゃった。

星野:どこにあったんですか。

細野:桜丘。驚いたんだけど、あの一角って、まるで爆弾でも落とされたみたいに、軒並み建物が解体されたよね。すごく大規模な再開発が始まったらしい。(中略)

星野:「マックスロード」の他に、はっぴいえんどのメンバーが渋谷でよく行っていた店というとどこになりますか。

細野:百軒店にはしばしば足を運んだね。ロック喫茶の「ブラックホーク」とか、ジャズ喫茶の「DIG」とか。

星野:そういう店って、レコードがいっぱい置いてあって、コーヒーを飲みながら聴くという仕組みなんですか。

細野:そう。あれだけでっかい音でレコードを聴く機会はなかなかなかったから、そういう意味では貴重な場所だったんだよ。(中略)あと、渋谷には、道玄坂の「ヤマハ」をはじめとして楽器屋も多かったから、よくのぞきに行ったもんだよ。

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■「マックスロード」のことは『細野晴臣と彼らの時代』門間雄介(文藝春秋)p139にも登場する。1970年、はっぴいえんどのマネージャーとなった石浦信三は、松本隆と青南小学校、慶應義塾中等部、高校、大学(学部は違う)まで一緒の幼なじみで、松本と文学について議論を交わしてきた親友だった。『ゆでめん』の歌詞カードの癖の強い手書きの字は、石浦によるもの。

 松本と石浦は渋谷の桜丘町にあった喫茶店「マックスロード」に入りびたった。石浦(談)「2人でもっぱら戦後詩の本を片っ端から読破していってね。詩潮社の現代詩文庫なんかは、出る片はじから読んでしまった。」

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■そういえば、以前「黒猫」で買った古書『風都市伝説 1970年代の街とロックの記憶から』北中正和責任編集(CDジャーナルムック 音楽出版社)があったのを思い出し、納戸から出してきて読み始めた。

1971年の春。渋谷道玄坂百軒店の路地の一角に『BYG』という全く新しいコンセプトの音楽喫茶が誕生した。店長の酒井五郎は「新宿ピットイン」を立ち上げた敏腕マネージャーだったが、オーナーとのトラブルで辞めた人。地下にライヴ・スペースがあり、1階は自然食、2階はレコードをかけるロック喫茶という構成だった。

梁山泊の如く『BYG』に集まってきた若者4人(石塚幸一・前島邦昭・石浦信三・上村律夫)は、やがて『風都市』と名乗り、さまざまな企画・運営にたずさわり、はっぴいえんど、はちみつぱい、あがた森魚、、小坂忠とフォー・ジョー・ハーフ、南佳孝、吉田美奈子、シュガー・ベイブ、山下洋輔トリオのマネージメントにも乗り出したのだった。

■時代は少し過ぎて、1977年の春のこと。やはり4人の若者が、自分たちで「アーバン・トランスレーション」という翻訳会社を渋谷道玄坂に立ち上げる。会社のオフィスは、しぶや百軒店のジャズ喫茶『スウィング』と『音楽館』の奥の雑居ビルの1階に構えた。

経営者のメインの2人は小学校からの幼なじみで、その若者の名前は、平川克美と内田樹。

 村上春樹の『1973年のピンボール』という小説には、大学を出た後、友人と二人で渋谷で翻訳会社を経営することになった若者が出てきます。

 平川くんはよく知り合いから、「この小説のモデルは平川さんたちでしょ?」と聞かれたそうです。

 たしかに、登場人物と僕たちの境遇はよく似ていました。あの時代に渋谷に20代の若者が学生時代の友人と設立した翻訳会社なんてうちしかありませんでしたから、どうやって僕たちのことを知ったんだろうと不思議な気持ちになりました。

『そのうちなんとかなるだろう』内田樹(マガジンハウス)p103


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■速水健朗氏は取り上げていなかったが、1971年の渋谷・映画館・フォークシンガー・百軒店・円山町と言えば、僕にとって忘れられないのが、NHKのテレビドラマ:佐々木昭一郎『さすらい』(1971年 90分 オールフィルム)なのだった。

1970年代にNHKのカリスマ・ディレクターだった、佐々木昭一郎が作・演出したテレビドラマは『夢の島少女』『四季・ユートピアノ』『紅い花』『川の流れはバイオリンの音』など、世界的に評価が高い作品が多く、現役の映画監督の中でも、是枝裕和監督をはじめ大きな影響を受けたことを公言している監督は多い。

その佐々木昭一郎が『マザー』(1969)に続いて撮った「2作目」が、『さすらい』(1971)だ。現在、YouTube 上で『夢の島少女』『四季・ユートピアノ』『紅い花』『川の流れはバイオリンの音』は全篇見ることが出来る(画質はよくないけれど)。しかし、この『さすらい』だけは「90分の完全版」のアップロードはなく、冒頭に上げた「9分56秒のダイジェスト版」のみなのだった。

★【ストーリー】★ 北海道の施設で育った主人公の青年ひろし(15歳)は、上京して渋谷の映画館に掲げる映画の看板屋に就職する。その仕事場にいた先輩が、プロの歌手を目指す「友川かずき」だった。円山町にある会社の寮へ連れて行ってもらって、食堂でカレーライスを食べる二人。

踏切で待つ中学生、栗田ひろみ。真っ赤なミニのワンピース。彼女がストレートロングヘアーを右手でかき揚げる仕草に、主人公の目は釘付けだ。 妹?それとも、彼女? エロい妄想に浸る主人公。

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雨の日比谷野外音楽堂。ステージには遠藤賢司がぽつんと一人、無人の客席に向かって歌い始める。

看板屋を辞めた青年は、北を目指して旅に出る。福島では「キグレサーカス」の団員たちと、気仙沼では「はみだし劇場」の劇団員と共に過ごす日々。そして、基地の町の青森県三沢では「氷屋」になってリヤカーでバーやスナックに氷を届ける。そこで、ジャズシンガー笠井紀美子と出会う。それから……。

主人公の青年、海から出てきて、また海に帰って行く。

ここじゃない。他のところ。この人じゃない、他の人。今ない、他のとき……。」

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「栗田ひろみ」も後で登場する、京王井の頭線 神泉駅前の踏切(渋谷 円山町)

■ミュージックマガジン増刊『遠藤賢司 不滅の純音楽』p97 には「ミュージックマガジン 2007年3月号」の遠藤賢司特集に載った記事「遠藤賢司が出演したドラマ『さすらい』演出家・佐々木昭一郎に聞く」というインタビュー記事がある。以下、一部引用する。

「さすらい」は、主人公の流転を描く物語。主人公を客観的に突き放したり、引き寄せたりして描いていかなきゃいけない。で、引き寄せた時に(というのは、作者として主人公と手を取り合った時に)歌を響かせたいと思ったんですよ。

 ぼくは音楽を研究したんです。クラシック音楽から勉強しなおした。その中からボブ・ディランの姿が浮かんだんですよ。やっぱりものすごい歌手だと思った。しかもボブ・ディランというのは自分自身を歌ってるんだよね。それに痛く共鳴してね。どうしてもこの作品には音楽家を、歌を歌う人を出したかった。

 というのは、反動があったのね。ベ平連なんかが新宿とかで歌を歌っていた。それから、歌を媒介にして集団で暴力的になっていったんだ、みんな。そういう歌もハヤリはじめたんで、つき合っちゃいられないと思った。そうじゃなくて、一人で孤独に歌ってる、力のある人がいないかと思って、そういう人を起用することに決めた。それで友川かずきを見つけて、笠井紀美子、遠藤賢司と、3人、歌う人が出てくるんですけど、いずれもNHKの音楽部が拒否した人たちなんですよ(笑)。

 友川はすごい才能がある奴だと思ったよ。その場でどんどん曲を書いていくんだ。ぼくの目の前でノートを広げてね。その時に彼が、「遠藤賢司はギターが上手い」って言ったの。「抜群に上手い。あのくらい弾けたら、俺はすぐデビューできる」って。

それで、助監督の和田智充君に、遠藤賢司に会って来い、って言った。カレーライスについての歌を歌ってもらえないか、って聞いてもらったんです。ちょうど主人公と友川かずきがカレーライスを食べる場面を撮ったところだったから。二人が兄弟のような、憧れと憎しみがせめぎあっているような状態を。

そしたら「既に彼は歌ってるんです」って言うんだね。もともとシナリオに、カレーライスを食べる場面が書いてあって、カレーライスの歌を歌うところも書いてあった。ただ、誰が歌うかなんて書いてない。カレーライスの歌と1行書いてあるだけだった。

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■青年と友川かずきは、成人映画の大きな看板を抱えて歩行者天国で賑わう道玄坂商店街から映画館がある百軒店へと入って行く。それを苦笑しながら見守る外国人観光客

・・・

■1990年代に入ると、渋谷の音楽文化の発信基地は「百軒店」から、センター街にできた「HMV」や宇田川町に雨後の竹の子のように乱立した輸入レコード店たちにすっかり取って代わってしまった。例の「渋谷系」ってヤツの誕生だ。それはまた別の話だけれど。

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■いっぽう、1997年3月9日午前零時ころ、渋谷区円山町、神泉駅近くの古アパート「喜寿荘」1階の空き部屋で「東電OL」が殺害される。いわゆる「東電OL事件」だ。

強盗殺人罪で逮捕起訴されたネパール人ゴビンダ・プラサド・マイナリは、一審無罪、二審で逆転有罪の判決を受け、最高裁で無期懲役が確定。ゴビンダは無罪を訴え再三にわたる再審請求を行い、2011年、被害者から採取された精液や体毛のDNAがゴビンタ以外の男のものであることが判明し、2012年再審開始。11月に無罪判定となり、冤罪であったことが確定した。

2022年1月11日 (火)

ムッシュ松尾の「僕のマッチコレクション懐かしのJAZZ喫茶マッチの世界 展」at the『リデルコーヒーハウス』

■1月9日(日)の午後、延滞していた本をを南箕輪村図書館に返却し、代わりに最近ツイッターで話題になった『辛口サイショーの人生案内デラックス』最相葉月(ミシマ社)を借りる。

そのあと、伊那インターから中央道下り線に乗って「座光寺パーキングエリア」で下車し、左手山側へずんずん上って行って突き当たりを右折。橋を渡ってすぐ左手に、高森町の日帰り温泉「信州たかもり温泉 湯ヶ洞」があって、その北側の急な坂道をちょっと上ると、目指すジャズ喫茶『リデルコーヒーハウス』だ。

■営業時間は< 15:03 〜 21:03 >。休店の日は、ブログで確認のこと。

団体客お断り。2人連れまで。駐車場に車が3〜4台とまっていれば、ほぼ満席と、2階の店内の面積はそこそこ広いのに、コロナ対策で厳しい人数制限がなされている。

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お店の窓から南アルプス荒川岳を望む。右側に行くと赤石岳

ここでは、1月いっぱいムッシュ松尾の僕のマッチコレクション懐かしのJAZZ喫茶マッチの世界 展」が開催されていて、ツイッターでたまたま知ったので、コロナは心配ではあったけれど、我慢できずに見に来たのでした。

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■ところで、これらのマッチを収集した「ムッシュ松尾」氏って、誰? 何者??

僕はまったく知らなかったのだが、いろいろ検索するうちに判ってきたことは、豊丘村在住で同村内に『HAPPY DAYS』という雑貨屋さんを経営し(この1年半はコロナのため休業中)懐かしい様々な物品を収集している「サブカルおやじ」であるらしいということだ。

■むむっ? 「松尾」+「豊丘村」!? と言えば、いまの若い人たちなら即座に「GLIM SPANKY」のヴォーカル:松尾レミ を思い浮かべるだろう。ということは、もしかして、ムッシュ松尾は、松尾レミのお父さんなのか? 

ピンポーン! → 正解でした! 喫茶店のマスターにも確認しました。

この松尾レミのインタビュー記事(2018年 春)を読むと、彼女は「父親は61歳のカルチャー好きなヘンなおじさん」と発言している。ということは、現在 65歳か。僕より2つ上だな。そうなると、1975年〜1980年頃に彼が暮らしていた東京と京都? で、これらのジャズ喫茶のマッチは収集されたものと思われます。

■3つのテーブル上に並べられた個性あふれるマッチは、約300個。東京のジャズ喫茶が主で、あとは京都のジャズ喫茶。「イノダコーヒー」や、名曲喫茶(渋谷道玄坂百軒店「名曲喫茶ライオン」など)、ロック喫茶のマッチもある。長野県内のジャズ喫茶のマッチもいくつかあった。(松本「アミ」伊那「あっぷるこあ」「カフェドコア」飯田「ブルーノート」) それにしても、ホントよく集めたねえ!!

■この中で僕が行ったことがあるジャズ喫茶は、19軒しかなかった。

 新宿「DIG」「DUG」「びざーる」「木馬」「ピット・イン」 

 渋谷「ジニアス」「ジニアスII」「デュエット」「スゥイング」「音楽館」「メアリージェーン」

 自由が丘「アルフィー」 四ッ谷「いーぐる」 上野「イトウ」

 京都「しぁんくれーる」「52番街」

 伊那「あっぷるこあ」 松本「エオンタ」「アミ」

僕は茨城の田舎(茨城県新治郡桜村)の大学だったから、週末に常磐線に乗って東京へ出てきては、池袋文芸座でオールナイト映画を見て、明け方始発の山手線に乗って電車の中で熟睡。そのまま山手線を2〜3周したあと、新宿や渋谷のジャズ喫茶やレコード店めぐりをしていた。それは、1977年〜1982年の6年間のこと。

だから、東京では、中央線沿線の有名ジャズ喫茶には、一度も行く機会がなかった。ムッシュ松尾氏が通った時期と、数年微妙にずれているのかな? 

ぼくが渋谷でずっと通っていた、道玄坂百軒店「ブレイキー」のマッチは残念ながらなかったし、目蒲線西小山に住んでいた兄貴の所に泊めてもらった時には、大岡山の東工大前にあった「ガールトーク」に何度か行った。ここのマッチもなかった。

■そしたら、僕のツイートに「ムッシュ松尾」氏がリプライしてくれた。なんと! 松尾氏は東京に住んだことは一度もないんだって。もうビックリ。ずっと豊丘村で暮らしながら、休日に上京しては音楽喫茶とレコード屋めぐりをしていたんだそうだ。

もちろん、展示されたマッチの店すべてを訪れた訳ではなくて、古道具屋で見つけて集めたマッチもあると。それでも、200軒近くは直接行ったことがある店とのこと。いやあ、それにしても凄い。凄すぎる。

松尾氏も僕も、二人とも東京で一度も暮らしたことがないのに、東京のジャズ喫茶について熱い想いがあったことが、なんだか同志みたいでうれしかった。

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■京都河原町通荒神口角荒神町の2階にあった『しあんくれーる』。高野悦子『二十歳の原点』にも出てくる。一度だけ行った。ビル・エヴァンズが静かにかかっていた。『52番街』は確か同志社大学の裏手だったかな? 「アルテックA7」が鳴ってたように記憶している。

■サッチモの線画のマッチは『あっぶるこあ』。地元の伊那バスターミナルの通りの向かい2階にあった。僕が高校2年生の時にオープンした。同じクラスの小林クンは早々に入り浸っていたけど、僕が初めて中に入ったのは大学生になってからだ。実は怖くて一人では入れなかったのだ。

ここで聴いて印象に残っているレコードは、

『The Soulful Piano』ジュニア・マンス・トリオ、『BLUE CITY』鈴木勲、それから、板橋文夫『濤』A面「アリゲーターダンス」と「グッドバイ」。人気の美人ママ(竹田成子さん)が仕切っていたが、ニューヨークへ行ってしまった。

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吉祥寺の『ファンキー』もジャズ喫茶の老舗だ。ただ、僕は行ったことはない。

先だって、松本の中古CD店『ほんやらどお』で、高田馬場にあるジャズ喫茶『イントロ』(ここも行ったことない)が開店20周年記念ライヴをCDにした『Soulful "intro" Live! 』(1995) を 700円で入手した。店主の茂串邦明氏がドラムを叩き、アマチュア・ミュージシャンの常連客が次々とジャム・セッションを繰り広げるアットホームなCDだ。

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■このCDの3曲目、レイ・チャールズの「ジョージア・オン・マイ・マインド」で、見事なアルトサックス演奏を披露しているのが『ファンキー』店主の野口伊織氏だ。玄人はだしの歌心とテクニック。ちょっと、アート・ペッパーみたいでビックリした。

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「野口伊織記念館」のサイトに行くと、なんと、彼は悪性の脳腫瘍で 2001年に 58歳の若さですでに亡くなっていた。知らなかった。ここの「野口伊織の作品」の中に、この「ジョージア・オン・マイ・マインド」が mp3ファイルで載っているのだが、何故かちっともアクセスできなくて残念。


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■新宿二幸(今のアルタ)うら『DIG』へはよく行ったな。まずは1階の『アカシア』でロールキャベツ(350円くらいだったか?)を食べてから狭い階段を3階へ上って行くと、ずんずん地響きのようにスピーカーから熱いジャズが降ってきた。マッチに描かれたビュッフェの絵は、エラ・フィッツジェラルドの『ガーシュウィン・ソングブック』のレコード・ジャケットから。

ここでは、ウディ・ショウ『Stepping Stones』、エルヴィン・ジョーンズ『Live at the Light House』、そして、ファラオ・サンダース『Journey To The One』の Side C「You've Got To Have Freedom」を初めて聴いた。店を出たあと直ちに西口小田急ハルク裏のレコード店「オザワ」へ走って、ファラオ・サンダースのテレサレコード2枚組を買ったのだった。それ以来、無人島に持って行くなら「このレコード」と決めている。

「さいきんおげんきですか?」のマッチの斜め左上が、同じく新宿東口にあった『びざーる』のマッチ。地下の穴蔵へ降りてゆくと、デイヴ・ベイリーの『BASH!』がご機嫌に鳴っていたっけ。

■「DIG」が閉店して、もうずいぶん経ってからだったか、家族で新宿中村屋に入ったら、中平穂積さんがひとりテーブルでインドカリーを食べていた。

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■代々木『ナル』のマッチの2つ右。松本市緑町『凡蔵』の隣にあった『アミ』のマッチ。これは知らなかった。2階があって、靴を脱いで上がった。みな横に寝そべってくつろいでいた。

ファラオ・サンダースが大好きなんです!って言ったら、マスターが「ファラオなら、コイツが最高さ!」と『Love In Us All』のレコードを初見の僕にいきなし貸してくれた。当時入手困難だったので、うれしかったなあ。

確か、隣の店舗から火が出て、延焼で燃えてしまった。

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■国分寺時代、地下にあった『ピーターキャット』のマッチ。初めて実物を見た。千駄ヶ谷に移転後の店も僕は行ってない。国分寺の店の様子は、上原隆『こころ傷んでたえがたき日に』(幻冬舎)79ページ「彼と彼女と私」に詳しい。

何かで読んだのだが、佐藤泰志の奥さん(まだ結婚する前)が、同時期に国分寺の別のジャズ喫茶に勤めていたらしい。『きみの鳥はうたえる』は国分寺が舞台だ。佐藤泰志は『ピーターキャット』を訪れたことがあるんじゃないかな。

■検索したら、『移動動物園』佐藤泰志(小学館文庫)の解説で、岡崎武志氏が書いていることが分かった。さっそく納戸から文庫本を取り出してきたところ。少し長くなるが以下に引用する。

ところで、佐藤泰志と村上春樹の意外な関係について、少し触れておきたい。二人は1949年生まれの同い年という以上に、機縁がある。佐藤は函館、村上は神戸と、背後に山が迫る港町で青春時代を送った。高校はいずれもその斜面にあった。浪人時代を経て、北から、西からの上京者であり、どちらも国分寺で同時期に暮らしていた。

文壇デビューも佐藤が28、村上が30、とともに遅い。大学在学中に結婚相手を見つけ、一緒に住み始めたのが同じ1971年。アメリカ文学の影響を受け、ジャズが好きだったのも同じなら、佐藤夫人の喜美子さんは国分寺の「モダン」、村上夫人の陽子さんは神保町「響」と、どちらもジャズ喫茶でアルバイトをしていた。

村上春樹はジャズ好きが高じて、早稲田大学在学中の1972年に国分寺南口でジャズ喫茶「ピーター・キャット」(のち千駄ヶ谷へ移転)をオープンさせる。そこで考える。ジャズ好きの佐藤が、村上の「ピーター・キャット」へ行ったことはなかったろうか。と。

この妄想は、同じ国分寺在住の私を刺激する。しかし二人はおそらく言葉を交わしたこともないだろうし、やっぱりどこかが決定的に違うのだ。

小学館文庫『移動動物園』佐藤泰志 解説 281ページ:岡崎武志

■岡崎武志氏は、著書『ここが私の東京』の第一章「佐藤泰志 報われぬ東京」で、佐藤泰志についてさらに詳しく書いている。こちらは全文ウェブ上で読める。

実は、岡崎氏も指摘していない「この二人」の共通点がもう一つある。

それは、「走る人」であることだ。東出昌大主演で最近映画化された、佐藤泰志原作の『草の響き』は、ランニング小説だ。河出文庫『きみの鳥はうたえる』に収録されているこの小説に関しては、以前ブログに書きました。

■『アルフィー』は自由が丘の駅近くにあった硬派のジャズ喫茶。肩まである髪のまだ若いマスターがブイブイいわせていた。一度しか行ったことないけど、デヴィッド・マレイの『ロンドン・コンサート』が、がんがん鳴っていた。

■僕が通った1970年代後半の渋谷はすっかり変わってしまった。

ハチ公口から街へ出て、スクランブル交差点を渡って「109」を左に道玄坂を少し上ると右手が「百軒店」の入口だ。曲がって左に中華「喜楽」坂の右手に「道頓堀劇場」。突き当たり正面左側に、卵入りカレーの「ムルギー」、その左奥2階がジャズ喫茶『音楽館』。右側の細い路地を真っ直ぐ行くと、ロック喫茶『BYG』と老舗名曲喫茶『ライオン』。さらに奥へずんずん行くと、円山町のラブホテル街。

ただ驚いたことに、喜楽は小綺麗なビルに建て変わったけれど、いまも現役で営業を続けている。ムルギーに至っては、建物も外装も内装も椅子もテーブルも?当時のまま営業を続けている。

大槻ケンヂが『行きそで行かないところへ行こう』で通った頃には、会計のレジに割烹着でちょこんと正座した、永六輔みたいな角刈りの気っぷのいいおばあちゃんはいなかったのかな? リンクした島田荘司氏の文章は、残念ながらさすがにリンク切れだった。

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★【1978年ころの渋谷「百軒店」の店舗一覧:「エクリア」と書いてある所が『ムルギー』だ 。その奥のビルとマンションには、かつて映画館が3館:テアトルハイツ(1950〜68年)テアトル渋谷(47〜68年)テアトルSS(51〜74年)あった。 一番下の通り右から6軒目に、ちゃんと『ブレイキー』も載っている!】

滝本淳助さんのツイート(2021年9月16日)より、1978年の「ムルギーから左奥の眺め」

「ムルギー」を左に奥へ進むと、右角の1階にロック喫茶『ブラックホーク』(2階が『音楽館』)道の左側には『スウィング』(しばらくして宇田川町へ移転)があった。右へ曲がって細い路地を入って行くと、右手1階に『ミンガス』(ここは入ったことない)。対面2階に目指す『ブレイキー』があった。遅い時間で所持金にゆとりがある時は「ムルギー卵入りカレー」で、早い時間に着いた時は『ブレイキー』(午前9時半に開店した)で、黒すぐりジャム入り紅茶とたまごサンドのモーニングセットをよく食べたなあ。遙かむかしの話だ。

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(上から3段目左端のマッチが、渋谷百軒店ロック喫茶『ブラックホーク』。最上段左から4番目が『名曲喫茶ライオン』のマッチだ)

2021年8月 4日 (水)

「おもいでの夏〜 The Summer Knows」と、アート・ペッパーのこと

以下は、長野県医師会の月刊誌『長野医報 2021年8月号』に投稿した原稿です。

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  今回の特集テーマを聞いてまず思い浮かべたのが、映画『おもいでの夏』(1971年アメリカ映画)でした。1942年の夏。思春期の少年が、海辺に住む戦争未亡人の年上の女性から性の手ほどきを受けるひと夏の経験を描いたほろ苦いセンチメンタルな映画で、実を言うと僕はまだこの映画をちゃんと見たことがないのです。ただ、ミシェル・ルグランが作曲したこの映画音楽は大好きなのでした。

 ミシェル・ルグランと言えば「シェルブールの雨傘」や「ロシュフォールの恋人たち」で有名なフランスの作曲家。自身もジャズピアニストとして自作曲を演奏したレコードを数多く出していて、ジャズファンとしてはビル・エヴァンスの演奏で知られる「You Must Believe In Spring」が忘れられない1曲ですが、残念ながら一昨年の冬に86歳で亡くなってしまいました。

 「おもいでの夏」は哀愁を帯びたメロディが格別印象的なバラードで、ジャズメンが好んで取り上げる楽曲です。ジャズ・ハーモニカの名手トゥーツ・シールマンスの十八番で、ミシェル・ルグランとの共演盤もあります。ビル・エヴァンスもライヴ盤『モントルー III』でアンコールに応えてこの曲を弾いています。渋いところでは、アン・バートンの歌伴ピアニストだったルイス・ヴァン・ダイクのトリオ演奏や、アート・ファーマーがフリューゲル・ホーンで切々と奏でる『The Summer Knows』がお薦め。バックのリズムセクションは、村上春樹氏お気に入りのシダー・ウォルトン・トリオが務めています。

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 でも、僕が一番好きな「おもいでの夏」は、アルトサックス奏者のアート・ペッパーが 1976年9月にロサンゼルスで録音した『THE TRIP』(Contemporary)のB面2曲目に収録された演奏です。

 このレコードは、1977年の春に日本でも国内盤が発売されました。この年大学に入学した僕は、加川良や友部正人のフォークからはもう卒業してジャズでも聴いてやろう、生意気にもそう思っていました。で、東京は目蒲線沿線の西小山に住む兄貴からジャズのレコードを10枚借りてきたのです。一番最初にターンテーブルに乗せたのは、ハービー・ハンコックの『処女航海』。タイトルとジャケットが格好良かったからね。でも、まったく分からなかった。聴き続けるのがただただ苦痛でした。チック・コリアの『リターン・トゥー・フォーエヴァー』でさえ、当時の僕には不快で難解でした。

 そんなある日、FMラジオから哀愁あふれる苦渋と悲哀に満ちたサックスの音が流れてきたのです。僕は瞬時に「この演奏者の気持ちが分かる!」そう感じました。ラジオのDJが油井正一氏だったかどうかは忘れてしまったけれど、アート・ペッパーという名前と「おもいでの夏」という曲名だけは心に刻みました。

その翌日、バスに乗って町まで出て商店街外れのレコード店へ。ありました。アート・ペッパー『ザ・トリップ』¥2,500。僕が生まれて初めて買ったジャズのレコードでした。

 帰って早速聴いてみました。A面分からない。レコードを裏返して続けてB面2曲目。あったあった!これこれ。梅雨の頃だったか、もう夏だったか。寮の部屋の壁には黒カビが生えていました。その年の夏は確か猛暑で、もちろん寮に冷房はありません。僕は汗だくになりながら、このレコードを毎日毎日繰り返し繰り返し聴きました。せっかく買ったのに分からないことが悔しかったし、第一もったいないでしょ。

 

正直ジャズは難しいです。今どきの蕎麦屋のBGMが何故ジャズなのか分かりますか? それは、理解できないけれど耳障りではない「雑音」だからです(糸井重里氏がそう言ってました)。でも、ジャズファンがそんな蕎麦屋へ行くと大変です。「うむ?このピアノはキース・ジャレットじゃないな。ベースは誰だ?」と、BGMが気になって蕎麦を食べている気分ではなくなってしまうのですね。

ジャズの何が難しいのでしょう? それは、素人がちょっと聴きかじっただけでは絶対に理解できない音楽だからです。細かく規定された複雑なコード進行の縛りがあるのに、演奏者はあたかも勝手気まま、自由自在にソロで即興演奏をしつつ、共演者たちが発する音とリズムに瞬時に耳で反応し、全者一丸となって醸し出すグルーブ感と高揚感が、リアルタイムでダイレクトに聴き手にも届く音楽。それがジャズです。

『ビッグコミック』誌上で連載が続いているジャズ漫画『BLUE GIANT』石塚真一(小学館)を読むと、ジャズが分かった気になりますが、残念ながら漫画からは実際の音は聞こえてきません。結局、ジャズの快感を聴き手が感知できるようになるには、どうしても「ジャズを聴く」訓練が必要なのです。

 そんな訳で、僕はこのレコードを繰り返し繰り返し聴きました。今でもCDでよく聴ので、この44年間で数百回は聴いたと思います。アルトサックスが切ないフレーズを絞り出す場面、感極まったピアニストの右手が跳ねる瞬間、そしてエルヴィン・ジョーンズがシンバルを叩く絶妙のタイミング。もう全て諳んじています。こうして僕はジャズの底なし沼にはまって行ったのでした。

ジャズの楽しみ方のコツをお教えしましょう。同じ曲を様々なミュージシャンで聴き比べてみること。それから、好きになったミュージシャン、楽器をとことん聴き込むことです。僕は、アート・ペッパーを徹底的に聴きました。

 

 彼は 1925年9月1日アメリカ西海岸生まれのドイツ系白人ミュージシャン。幼くして両親は離婚し、音楽好きの父方祖母の元で育てられました。9歳の時にクラリネット、12歳でアルトサックスを独学で吹き始め、高校時代にロスの黒人街に入りびったてはプロのジャズメンとのジャムセッションで腕を磨いてみるみる頭角を現し、若くして名門ビッグバンド「スタン・ケントン楽団」の花形プレイヤーになります。

しかし、ガラス細工のように脆く不安定で繊細な彼の精神は、手練れで曲者ぞろいのミュージシャンがひしめくライヴ演奏の現場では、とても太刀打ちできませんでした。極度の緊張と劣等感から逃れるために、彼は麻薬(ヘロイン)に手を染めます。

当時のジャズメンはみな当たり前にジャンキーでした。麻薬をやれば誰でも、チャーリー・パーカーみたいに天才的なアドリブフレーズを湯水のごとく吹き続けることが出来ると信じていたからです。

実際『Journal of Neuroscience』(2021年3月29日付)に掲載された最新の研究結果によると、音楽を聴いて「気持ちイイ!」と感じる脳内部位は、やはりあの「ドーパミン報酬系」で、薬物・アルコール・ギャンブルで快感が得られる経路と結局一緒なのだそうです。つまり、ミュージシャンは皆ドラッグ依存症に陥り易い訳ですね。ジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリックス、尾崎豊、ASUKA、槇原敬之、岡村靖幸。みな同じです。

 ご多分に漏れず麻薬に溺れ爛れ切った破滅型ミュージシャンのアート・ペッパーは、人生の半分近くを刑務所と麻薬更生施設で過ごすことになります。皮肉なことに、素面に戻ってシャバに出た年にレコーディングされた演奏が彼の名演となりました。1952年、1956年、そして1976年がそれです。マイルス・デイヴィスは麻薬の悪癖を強靱な精神力で断ち切ることができましたが、アート・ペッパーはダメでした。2年もしないうちに再びジャンキーに逆戻りし刑務所へ。生涯その繰り返しでした。

 

 中でも、1956年〜1957年は彼生涯の絶頂期になりました。白人ジャズメンのレジェンドと言えば、スタン・ゲッツかジェリー・マリガンですが、彼らが活躍したウエスト・コースト・ジャズの全盛期を、アート・ペッパーは刑務所の中で過ごし、ようやく出所した時にはそのブームはとっくに過ぎ去っていたのです。クールでスマートな格好いい白人ジャズ。

でも彼は白人なのに黒人特有のタイム感覚とブルース・フィーリングを持ち味にして、刑務所で過ごした苦渋、心の翳りや憂い、別れた妻たちへの未練や色気をも漂わせる演奏をしました。また逆に、心の底に秘めた熱いエモーションも随所に押し出し、明るくスウィンギーに歌心溢れるメロディを次々と繰り出す陰陽兼ね備えた唯一無二のサックス・プレイヤーとして見事に復活したのです。『モダン・アート』『ミーツ・ザ・リズムセクション』『リターン・オブ・アート・ペッパー』の3作はそんな彼の代表作です。

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 どん底から立ち直ったアート・ペッパーの演奏に熱狂し、応援したのは日本のジャズファンでした。

1977年4月5日。アート・ペッパーは初来日します。しかし招聘元は麻薬禍の彼が入国審査にパスする自信がなかったので、彼のことを事前に公表宣伝することなく、カル・ジェイダー(ヴィブラフォン奏者)楽団+スペシャルゲストとだけ記載しました。でも、嗅覚鋭い日本のジャズファンは、どこからか噂を聞きつけ、東京芝の郵便貯金ホールに駆けつけたのです。

 カル・ジェイダーは日本で人気がなく、当日の客席はガラガラでした。リーダーもバンド・メンバーも、ゲストの彼のことを無下に扱い、彼は自作曲の楽譜を配ってリハーサルに臨んだのに、時間がないからと8分間で終わりにされたそうです。

アート・ペッパーの出番は、ライヴの第二部冒頭からでした。ステージ下手からアルトサックスを手に彼が登場すると、突如万雷の拍手が沸き起こりいつまでも鳴りやみません。彼が中央のマイクに近づくにつれ、それはますます大きくなり、マイクの前でそれが静まるまでの約5分間、何度もお辞儀を繰り返しながら立ちつくさなければなりませんでした。彼は自伝『ストレートライフ』の中で「生涯でこれ以上感激した瞬間はなかった。生きていてよかった」と書いています。

 幸い、この時の演奏をTBSラジオが録音していて、1989年に『ART PEPPER  First Live In Japan』として日の目を見ました。あの感動的な拍手がちゃんと収録されていて泣けてしまいます。

 翌1978年の3月、今度はゲストではなく自分のバンドを率いて再来日します。ところが、最悪の体調に加え、21日間で九州から北海道まで日本全国19公演をこなすタイトでハードなスケジュール。アート・ペッパーは心身ともにもうボロボロでした。でも巡業先の会場はどこも満員で聴衆の熱狂的な歓迎を受け、ただ気力だけで公演を続けた彼は、山形市で千穐楽を迎えます。

この最終公演を収録した国内盤CDは現在廃盤ですが、デンマークの老舗 Storyville Records から2枚組で出ていて、その2枚目に「おもいでの夏」が収録されています。この日の演奏は、聴衆の熱気にメンバー全員が一丸となって応え、バンドとしても最高のパフォーマンスを聴かせてくれました。

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 アート・ペッパーは1979年、1981年にも来日してすっかり親日家となりましたが、1982年6月15日、脳溢血のため急逝します。享年56。まだまだ早すぎる死でした。

彼のベストプレイは間違いなく1950年代ですが、僕は1970年代の演奏をこよなく愛しています。麻薬でボロボロになった身体から、小手先だけのテクニックでは決して発せられない、彼の人生が全て詰まった音が確かに聞こえてくるからです。

 これはタモリが言ったことですが「ジャズ = 俺の話を聴け!」なのです。ぜひ一度アート・ペッパーの「おもいでの夏」そして「Ballad of the Sad Young Men」を聴いてみて下さい。

  『長野医報』2021年8月号「特集:夏の思いで」(p10〜14)より再録。

注)1978年の山形市でのライヴ録音は、今年の7月に「ウルトラ・ヴァイブ」から国内盤が、税込み1100円で再発されました。


YouTube: The Summer Knows ART PEPPER


YouTube: Radka Toneff - Ballad of the Sad Young Men (live, 1977)

アート・ペッパーの「Ballad of the Sad Young Men」が、この間まで YouTube に上がっていたのに消されてしまったので、ノルウェーのジャズ歌手「ラドカ・トネフ」のヴォーカルで。

■あと、アート・ペッパー『ザ・トリップ』のレコードで、ぼくが一番好きな演奏は、A面2曲目に収録されている「A SONG FOR RICHARD」です。この曲では、伴奏のピアニスト、ジョージ・ケイブルスのソロがとにかく素晴らしい! まるで、1950年代に録音された幾多のジャズ名盤で必ずピアノを弾いていた、トミー・フラナガンの演奏を彷彿とさせるからです。

2021年2月 6日 (土)

水谷浩章(ベース)× 夏秋文彦(鍵盤ハーモニカ+α)at the 「黒猫」

■2年半前のツイートを探し出してまずは以下に再録。
 
今夜は、赤石商店で「助川太郎 ソロギター ワールド」のライヴ。
 
オープニングアクトで、赤石商店で毎週土曜日の夜に出張カレー食堂「マクサンライズ」を開いている(めちゃくちゃ美味しい!)幕内純平さんが「口琴」の即興ソロを3曲披露してくれた。初めて聴いたが、これまた凄かったな。完全アコースティックなのに、ピコピコの電子音楽みたいな不思議な響き
 
続き)なんていうか、初めてエヴァン・パーカーのソプラノ・サックスを聴いた感じと同じような音楽だった。そう「倍音」の響き。口琴て、奥深いんだ。
 
 
続き)エヴァン・パーカーと言えば、最後に助川太郎さん、幕内さんと共にゲストとして登場した不思議なおじさん。3人で完全な即興演奏を繰り広げたが、一人アートアンサンブルオブシカゴを演じている感じの「このおじさん」も凄かったぞ。「鍵盤ハーモニカ」を「循環奏法」で吹いていたんだよ。
 
続き)ぼくは知らない人だったので帰宅後に検索したら、夏秋文彦さんだった。この伊那谷で農業をしつつ演奏活動を続けているとのこと。鍵盤ハーモニカでサーキュラー・ブリージング(循環呼吸)奏法とは、ビックリ。
 
この人です!
 
 
 
■で、今夜は伊那市「黒猫本店」で、その噂の、夏秋文彦さんと、2年前から伊那市在住のプロのジャズ・ベース奏者:水谷浩章さん(大友良英s' New Jazz Orchestra や、ジャズピアニスト:南博カルテットなどに参加)の完全な即興デュオ演奏のライヴがあって、聴きに行ってきた。
2年半ぶりでの夏秋文彦さんのナマ演奏だ。いや良かった凄かった。期待以上だった。ジャズのインプロヴィゼーションとはちょっとアプローチが違うので、最初は、夏秋文彦さんが勝手に自分のペースでずんずん演奏するのを、手探りながらも水谷浩章さんのベースが絡んでゆく感じ。
 
リズム感・タイム感覚がちょっと違う? でも、中盤から後半は二人の波長が次第に合ってきて、はっとする瞬間が何度もあった。心地よい緊張感。寒かったけれど、ああ、聴きに行ってホントよかったよ。
それにしても、夏秋文彦さんて、鍵盤ハーモニカ界の「ローランド・カーク」& 一人アート・アンサンブル・オブ・シカゴだよなあ、って改めて感動しました。 凄いぞ! 鍵盤ハーモニカの「サーキュラー・ブリージング」奏法(まったく息継ぎせずに、延々と吹き続ける奏法。鼻から息を吸いながら同時に口から息を吐く。そんなこと出来るのか? いや、できるのです)。
 
さらには、口琴、親指琴(カリンバ)、木の物差し?、ストレッチ用の板状ゴム(両手で伸ばしたり縮めたりしながら、まん中を口にくわえて、ビヨンビヨン音を出す)などなど、様々な楽器?も次々と演奏した。
 
あとラストの前の曲では、いきなり四国八十八ヵ所巡礼に持つ「弘法大師の杖」みたいな不思議な長い楽器をトントン地面に突きながら、やおらリードをくわえると、実はこれが「バスクラ」のオバケみたいなリード楽器(既製品)だったんだ。その不思議な音色といったら。
 
ちょっと、太古の地球に住んでいた人類の祖先が奏でた音を想像してしまったよ。
今回は、主役の夏秋文彦さんを立てる形で、サブに徹した水谷浩章さんだったが、もっともっとハイ・テクニックなベース・ソロを聴いてみたかったぞ。
観客の中には、伊那谷が誇るジャズ・アルトサックス奏者の太田裕士さんや、ギターの北川哲生さんも聴きに来ていた。次回は、富士見町在住のジャズ・ドラマー、橋本学さんも交えて、皆でセッションして欲しいな。期待しています!
 
追伸:あ、そうそう! 終演後「北原さんですよね!」と声をかけてくれた男の人がいた。マスクが大きくて僕は誰だか分からなかったのだが、「幕内です。赤石商店で『マクサンライズ』ってカレー食堂をやってた。」「あっ!! あの、口琴奏者の幕内さん? 八ヶ岳の向こうに引っ越した?」
 
そう、あの僕らが大好きだったインドカリーを作ってくれていた、幕内純平さんだったのだ。久々の再会。いや、嬉しかったなあ。
 
それにしても、あの絶品カレーをもう一度ぜひ食べてみたいものだ。
■このライヴを「伊那ケーブルテレビ」が取材に来て録画して行った。前半終了後の休憩時に、演者にインタビュー。「今回の演奏は全くの即興演奏だったのですか? 前もって何も打ち合わせとかせず」「ハイ。そうです」
 
 
インタビュアー:「夏秋さんが演奏する音楽は、民族音楽なのですよね?」 夏秋:「いや、違います。現代音楽です!」このやり取りには笑ってしまったよ。
 
「お名前と年齢を教えていただけますか?」 夏秋:「今年還暦です。」水谷:「58です」
 
なんだ、ぼくより若かったのか! まいったな。 
 
 
 

2020年3月20日 (金)

『栃東の取り組み見たか』吾妻光良とスウィンギンバッパーズ

■長野県医師会「広報委員会」で随分とお世話になった、松本の野村先生が、先月CDを貸してくれた。

というのも、野村先生が引退する最後の広報委員会の時に、僕が強引に「Jポップの原点」となるCDたち(荒井由実、細野雅臣、大瀧詠一、矢野顕子、大貫妙子、シュガーベイブ、竹内まりや、はちみつぱい、小坂忠)を無理矢理貸した。そのCDたちを先月「ゆうパック」で返却してくれた際、オススメのCDを同封してくれたのだ。

そのCDたちとは、パット・メセニーが4枚、熊谷幸子が3枚、そして、吾妻光良とスウィンギンバッパーズのCDが4枚だった。ちょうど、ライル・メイズが亡くなった次の日だったから、レコードは持っていたがCDはなかった『トラベルズ』を心して聴いた。めちゃくちゃ良かった。

熊谷幸子もよかった! あの『夏子の酒』のテレビドラマ主題歌を歌った人だ。

■そうして、最後に聴いたのがこの曲。ぶったまげた! のりのりのジャイヴ&ジャンプ! カウント・ベイシー・ビッグバンドも真っ蒼じゃん!! それに、まるで平家の落ち武者みたいな、ハゲなのに長髪の「変なオッサン」誰? 彼が吾妻光良なの? デビュー40周年を迎えたバンドなのに、僕は今まで一度も聴いたことがなかった。なんと恥ずかしい!

 


YouTube: 吾妻光良&The Swinging Boppers "最後まで楽しもう"

■ジャズ好きを自認する俺が、なぜ「吾妻光良とスウィンギンバッパーズ」を今まで一度も聴いたことなかったのか? 60過ぎても聴いたことのない「めちゃくちゃ凄い音楽」が、まだまだいっぱいあるのだなあ。

野村先生! 教えて頂いて、ほんと有り難うございました。

ちょっと調べたら、吾妻光良氏はアマチュア(日テレで音響関係の社員として勤務されているらしい)を貫き、学生時代(早稲田大学理工学部に5年いたらしい)に既にブルース・ギターの教則本を出版したらしい。お〜、ギターめちゃくちゃ上手いじゃん!


YouTube: 『Player』6月号 ぶるーすギター高座 特別編 吾妻光良meets KORG KR-55 Pro

■で、彼らのCDを聴いてきて最後の4枚目に収録されていたのが、かの名曲『栃東の取り組み見たか』だったのだ。ただ、オリジナルは YouTute にない。全て著作権(原曲管理者がアメリカで五月蠅いのだ)の関係で削除されてしまった。

見つけたのは、憂歌団みたいな関西のバンドがカバーしたこれ。


YouTube: 栃東の取り組み見たか

おお! ニコニコ動画には、オリジナル残ってたのか!

https://www.nicovideo.jp/watch/sm24361739

う〜ん。うまく画像が貼れないぞ。

この曲は彼らのライヴでは昔から有名な定番曲だったが、原曲の著作権管理者から許可がなかなか下りず、音源化されなかった。でようやく認可されて『シニア・バカナルズ』に収録されたのだった。

ラストの歌詞は、当初「栃東は次は優勝だ」だったのが、→「栃東はすぐに横綱だ」に変わり、CD収録時には、とうとう「栃東は今や親方だ」になってしまった(^^;

2007年5月に渋谷クアトロで行われた「吾妻光良とスウィンギンバッパーズ」のライヴに、なんと引退直後の栃東が聴きに来ていたとのこと。もちろん『栃東の取り組み見たか』が演奏されたよ。


YouTube: Tochiazuma vs. Asashoryu : Hatsu 2002 (栃東 対 朝青龍)

■「この曲のオリジナルはなに?」ってツイッターで訊いたら、すぐに教えて下さる方がいた。ありがとうございました!

原曲は、"Did you see Jackie Robinson hit that ball ?" 1949年カウント・ベイシー楽団&タップス・ミラー(Vo) で、アメリカの黒人メジャー・大リーガーの草分け「ジャッキー・ロビンソン」讃歌だ。これです。


YouTube: Did You See Jackie Robinson Hit That Ball? (1949 Version)

■彼がドジャーズで黒人としてメジャーデビューを果たした4月15日は、毎年「ジャッキー・ロビンソン・デイ」として大リーガー全員が彼の背番号42 を付けたユニフォームを着て試合をする。「42」は、米球界全体で永久欠番となっているそうだ。



YouTube: "SENIOR BACCHANALS" Trailer

■ ほんと、そう思うぞ! 「カッコイイよね福田さん!!」


YouTube: 吾妻光良トリオ 福田さん

2018年7月16日 (月)

「相澤徹カルテット」のこと (長野医報8月号:ボツになった「あとがき」より)

■長野県医師会の広報委員を拝命して1年になろうとしている。先輩広報委員の先生方のご支援のもと、今までなんとか務めることができた。本当にありがとうございます。

■次号「8月号」は3度目の担当号で、ぼくが「あとがき」を書く順番だった。珍しく締め切り1ヶ月前から力を入れて原稿を書いた。しかし、如何せん長すぎた。「あとがき」は1ページに収まらなくてはならない。という訳で、ボツ原稿になってしまいました。内容的にも少し問題があったのかもしれないな。仕方ないので、ブログにアップすることにしました。

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「長野医報8月号:あとがき」(ボツ原稿)

 山下達郎や大貫妙子の1970年代シティポップが、YouTubeによって海外で再発見され、いま注目を浴びています。しかし、日本国外ではネット配信されていない音源が多いため、熱烈なマニアはオリジナルレコードを求めてわざわざ来日し、都内の中古レコード店を物色して廻っているのだそうです。

 昨年の8月『Youは何しに日本へ?』(テレビ東京)に登場し、一躍注目を浴びた大貫妙子ファンのアメリカ人スティーヴ君(32歳)は、今年2月に再来日して遂に御本人との対面を果たし、再び大きな話題となりました。


YouTube: Youは何しに日本へ🗾🎌8月7日(月)18時55分~20時まで放送中です。✈

 1970年代に日本人が演奏したジャズレコードの希少盤も、いま海外の好事家の間では大変なブームで、一枚数十万円で取引されるレコードもあるのだそうです。その中でも最も入手困難な「激レア盤」として有名なレコードが、相澤徹カルテット『TACHIBANA』です。

 イギリス人のジャズコレクター、トニー・ヒギンズ氏は、このレコードが日本人ジャズの中では一番好きだと断言します。彼が最近ネットに挙げた文章によると、当時、群馬県沼田市の赤谷湖畔でドライブインを経営していた地元の名士「橘一族」の御曹司、橘郁二郎氏が大のジャズフリークで、彼が注目していた地元のアマチュア学生バンドを、私邸に呼んで演奏させ録音したレコードが、相澤徹カルテット『TACHIBANA』なのでした。橘氏は、このレコードを名刺代わりに数百枚ただで配りました。もちろん自主製作盤なので市販されていません。

 リーダーの相澤徹氏は、群馬大学医学部ジャズ研のピアニストで、レコードが収録された1975年3月に大学を首席で卒業し、信州大学医学部順応内科大学院への進学が決まっていました。他のメンバー3人は医学部ではなく、音大や法学部の大学生でした。


YouTube: Tohru Aizawa Quartet - Philosopher's Stone

 学生アマチュアバンドとはいえ、真摯で若さがほとばしるその熱烈な演奏は、絶頂期のジョン・コルトレーン・カルテットを彷彿とさせる鬼気迫るジャズを響かせます。バンドはこのレコードを収録後に解散してしまい、メジャーデビューすることはありませんでした。従って彼らの音源はこの1枚しか残されていません。

 一時はプロへの道も考えた相澤徹氏は演奏活動を止め、その後は医学の分野で名声を博します。大学院修了後にアメリカへ留学。帰国後は大学へ戻り、糖尿病を専門に研究。信州大学医学部医学教育センター教授を経て、現在は相澤病院糖尿病センター顧問を務めていらっしゃいます。このレコードをプロデュースした橘郁二郎氏もその後は数奇な運命を辿り、最後は田宮二郎と同じく猟銃で自らの命を絶ったとのことです。

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 この6月20日、なんと『TACHIBANA』は世界初でCD化され入手可能となりました。伝説の演奏は、43年経ったいまでも決して色褪せることはありません。

 さて、来月号の特集は「私の好きな作家・思想家」です。元国税庁長官の佐川宣寿氏が学生時代の愛読書として公言したのが『孤立無援の思想』高橋和巳(河出書房新社)でした。

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「どんなに意地をはっても、人はたった独りでは生きてゆけない。だが人の夢や志は、誰に身替りしてもらうわけにもいかない。他者とともに営む生活と孤立無援の思惟との交差の仕方、定め方、それが思想というものの原点である。さて歩まねばならぬ」

 この本のことを唄った森田童子も、先ごろ亡くなってしまいましたね。

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注1)相澤徹氏は、松本の「相澤病院」理事長とは兄弟ではない。従兄弟かもしれないが、親類でも何でもないと、本人が発言しているという話もある。出身も、長野県松本市ではなく、茨城県水戸市だ。ただ、ぼくは相澤先生とは面識がないので本当のところは不明です。

注2)橘郁二郎氏の消息も不明な点が多い。猟銃自殺を遂げたという情報は、相澤氏の群馬大学医学部ジャズ研の後輩で、ピアニスト兼、脳外科医の「甲賀英明氏のブログ」 によります。

6月20日に出たCDのライナーノーツ(尾川雄介)の最後にも「橘は残念ながら後年自殺している。」と書かれています。

・この尾川雄介氏の解説、冒頭の文章がすばらしい。

「相澤徹カルテットの演奏には聴く者を真っ直ぐに貫く勢いと鋭さがある。それはただ鳴って中空に消えてゆく音ではなく、必至とも言える切実さでこちらに迫ってくる。しかも、さながら内圧に耐え切れずに噴出したマグマのように熱く滾っている。」

注3)佐川宣寿氏は 1957年生まれで、ぼくより1つ年上だ。連合赤軍、あさま山荘事件を経て、内ゲバ事件に辟易していた僕らの年代は「シラケ世代」と呼ばれた。だがしかし、2年後輩の「共通一次試験世代」とは決定的に違う。そのことは、ぼくと同い年の坪内祐三氏が『昭和の子供だ君たちも』(新潮社)の中で、詳細に語っている。

それにしても、佐川氏がなぜ「高橋和巳」だったのか? 謎だ。高橋和巳が草場の陰で泣いてるぞ!

注4)相澤徹カルテットに関して、ぼくがツイートしたのを、以下にあげておきますね。

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ついに入手。相澤徹カルテット『 TACHIBANA』1曲目「賢者の石」めちゃくちゃカッコイイ! (6月24日)

イギリスから、またまた超ディープな「和ジャズ」コンピが届いた『SPIRITUAL JAZZ vol.8 / JAPAN: Parts 1+2』だ。選曲は JAZZMANレコードのオーナー、ジェラルド・ショートと尾川雄介。先発の『J-JAZZ: Deep Modern Jazz From Japan』とは一曲もダブらない。凄いぞ!日本語訳ライナーノーツ付き。

 

続き)このコンピで出色なのは、高柳昌行(g)が2曲、森山威男が2曲ちゃんと選曲されていることだ。高柳が「SUN IN THE EAST」と、TEE & COMPANY「SPANISH FLOWER」。森山は「EAST PLANTS」と「WATARASE」だ。森山さんは松風鉱一「UNDER CONSTRUCTION」でもタイコを叩いている。

 
続き)この2枚組CD『SPIRITUAL JAZZ vol.8 / JAPAN: Parts 1+2』にも『J-JAZZ: Deep Modern Jazz From Japan』にも収録されているのが、相澤徹カルテット『TACHIBANA』だ。まったく知らないグループだった。ライナーによると、群馬のアマチュア学生バンドの自主製作版とのこと。ところが、演奏が凄い
 
続き)まるで、1964年〜65年頃の後期コルトレーン・カルテットみたいな、強烈に熱い演奏を聴かせてくれる。特に『スピリチュアルジャズ8:日本編』CD2の2曲目に収録された「サクラメント」がいい。3拍子だからね。ピアノを弾く相澤徹は、板橋文夫みたいだ。モロぼくの好みじゃないか!
 
続き)で、検索してみたら、RTした記事を見つけた。ビックリだ。相澤徹は群馬大学医学部を主席で卒業後、信州大学医学部内分泌学教室大学院に進学。ちょうどその頃、このレコード盤はプロモーション目的でわずか数百枚プレスされた。もちろん販売はされなかった。それが今や世界中から垂涎の激レア盤
 
続き)主席→首席の間違い。相澤は演奏活動をやめ、本業の医学の道を邁進する。1975年群馬大学医学部卒業。1982年信州大学大学院修了。オレゴン大学研究員、ロチェスター大学研究員、信州大学健康安全センター教授、信州大学医学部医学教育センター教授を経て、2010年から相澤病院糖尿病センター顧問。
 

なな、なんと! 噂の激レア盤『TACHIBANA』相澤徹カルテットが、6月20日にCDで再発されるとのこと。ほんとビックリ!

 
 
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「長野医報8月号:あとがき」(書き直して採用されたもの)

 

 サッカー・ワールドカップ日本代表チームの快進撃には心底驚きました。ドーハの悲劇から約25年。日本サッカーはいま、遂に世界と対等に戦えるレベルに達したのですね。

 先日、恵俊彰の「ひるおび」(TBS)を見ていたら、スポーツライターの二宮清純氏が面白いコメントをしました。サッカー日本代表の歴代外国人監督を、学校の先生に例えたのです。ハンス・オフトは小学校の先生で、平仮名から九九まで基礎の基礎を教え、トルシエは中学部活のスパルタ指導者。ジーコは大学の名誉教授で、オシムは高校の物理の先生。ザッケローニとハリルホジッチへの言及はありませんでした。もちろん、西野監督の采配振りは賞賛に値するが、歴代監督の地道な指導があってこその大躍進であると。

 江戸時代末期、西洋近代医学が日本に導入された過程においても、外国人医師の献身的な指導がありました。シーボルトが長崎を去って30年後の安政四年(1857)、オランダ人軍医ポンペは軍艦ヤパン号(のちの咸臨丸)に乗って日本にやって来ました。彼を迎えたのは、御典医の松本良順。順天堂の創始者、佐藤泰然の次男で、勝海舟が長崎海軍伝習所を開いたその隣に、医学伝習所を開設します。ポンペはユトレヒト医科大学で受講したノートを元に、物理学、化学、繃帯学、系統解剖学、組織学、生理学総論及び各論、病理学総論及び病理治療学、調剤学、内科学及び外科学、眼科学、公衆衛生学に到るまで、たった一人ですべて講義しました。

 噂を聞いて全国から蘭方医が集まりました。佐倉順天堂から佐藤舜海と関寛斎、緒方洪庵の適塾からは長与専斎と洪庵の嫡子平三。福井藩からは橋本左内の弟他多数。しかし蘭学に精通した彼らも、オランダ語を聞いたのは初めてで、ポンペの授業を全く理解できませんでした。仕方なく、松本良順と彼の弟子、島倉伊之助(司馬凌海)が漢文に翻訳し補習授業を行いました。

 ポンペは「医者にとって患者は平等である。医者はよるべなき病者の友である」と説きました。身分差別が当たり前の受講生には、雷鳴をきく思いがしました。5年後、ポンペは帰国します。しかし、日本で精魂使い果たした彼は、ほとんど抜け殻のような余生を送ったとのことです。(司馬遼太郎『胡蝶の夢』より)

 さて、9月号の特集は「私の好きな作家・思想家」です。どうぞご期待下さい。
 
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