■読み終わって、いとうせいこうさんは何て真摯な人なんだろう、って思った。テレ朝「シルシルミシル」に、居なくてもいいのに何となく画面に映っているだけの人かと思ったら、大違いだった。
いや、昔からその存在は存じ上げていました。宮沢章夫さん、竹中直人さんと、芝居をしていた人。マンションのベランダでガーデニングしている人。著書『ノーライフキング』とか、じつは一冊も読んだことないけれど、何故か昔から気になっていた人。
司会をしてるところとか見てると、どことなく糸井重里さんかと勘違いしてしまう人。「いとう」と「いとい」は似てるしね。
だから、何となくツイッターをフォローしていて、反原発デモでラップしているのを YouTube で見て、カッコいいなぁって思う人。
ま、そのくらいの認識しかなかったワケだ。ぼくの中では。
ホント、ごめんなさい。恐れ入りました。
よかったです。いや、ホント読んでよかった。
こういう小説を(勇気を持って)16年ぶりに書こうと決意し、しかも、書き上げてくれたことが嬉しいのです。ほんと、ありがとうございました。
じつはもっと変化球や癖球(クセダマ)を駆使して、技巧に満ちたカメレオン七変化みたいな小説を想像しながら読み始めたのだけれど、ところがどっこい、何のギミックもない「直球ド真ん中」じゃないですか!
ほんとビックリした。
<閑話休題>
■ツイッターって、ラジオだと思ってきた。
誰もが「自分の言いたいこと」を勝手に放送する場所だからだ。
ただ、だからと言って「他の人の放送」に「耳を傾けたことがある」かどうかは疑問だな。自分だけが言いたいことの言い放し。パナシ!
誰も、自分のことだけでいっぱいいっぱいで、他人の呟きに「耳を澄ます」なんて余裕は全然ないのが今の時代じゃないのか? 実はそう思っていたんだ、最近ずっとね。
ツイッターで300人くらいフォローして、毎日彼ら彼女らの呟きを読んでみると、みな、じつは考えていることは同じなんだな。
「俺のはなしを聴け〜」。そう、クレイジー・ケン・バンドの「タイガー&ドラゴン」なワケです。
ほんと、そんな中で、
「俺の話を聴いてくれぇ!」って、空想ラジオで叫んだDJがいたんですよね。DJアークがさ。人知れず「杉の木」のてっぺんに仰向けで横になってさ。軽やかな一人語りがテンポよく、読んでいて何とも気持ちいい。まるで、春風亭柳好の落語を聴いているみたいな心地よさだ。
で、読みながら思い出したのだけれど、高校生の頃、深夜放送ファンだったぼくは「日曜日の深夜」が恐怖だった。何故なら、東京キー局はすべて日曜の深夜だけ放送を休止していたからだ。
当然、地方局も沈黙する。
そんな夜中に一人まだ起きているぼくは、とんでもない孤独を味わって恐怖におののくのだった。
ラジオのチューナーを左端から右端まで回しても、聞こえてくるのは「ヨビゲン、クッパミゲン、ゴ、スミダ!」という北朝鮮国営放送のみ。「おーい! 誰かいませんかぁ?」ラジオの前で一人ぼくは耳を澄ましている。
そう、あの頃ぼくは山を幾つも超えて遠くからやって来る電波を、信州伊那谷の高遠町で、深夜に必死で捕まえようと、ラジオから流れてくるDJの声に耳を傾けていたんだ。
それは、北海道のラジオ局だったり、仙台は東北放送から流れてきた、吉川団十郎の「そうだっちゃ!」っていう仙台弁(『うる星やつら』のラムちゃん以外で、この時初めて聞いたんだ)だったりした。
それから暫くして、日曜日の深夜午前2時過ぎに、日本中で唯一放送しているラジオ局を発見した。ラジオ大阪だ。うざったい男が二人でだらだらと喋っていた。それが『鶴瓶・新野の、ぬかるみの世界』。
この放送を知ったぼくは、ようやく救われた。もう日曜の深夜に、日本中でただ一人だけ起きているかもしれないという果てしない孤独から解放されたからだ。
ぼくにとってのラジオとは、世界とつながっている「唯一の証し」だったに違いない。信州の山奥に居ながら、ラジオを通して解放されていたんだと思う。そういうことを、この小説『想像ラジオ』を読みながら思い出していた。
あと、ラジオの番組で重要なことは「ディスク・ジョッキーの選曲のセンス」ね。これ重要! 糸井五郎さんのオールナイト・ニッポンとか、林美雄アナの「ミドリブタ・パック」とか。聞いていてずいぶんと影響を受けたものだ。
そして、この小説に登場するDJアークも、抜群の音楽的センスをしている。モンキーズの『デイドリーム・ビリーバー』に始まって、ジョビン&エリス・レジーナの『三月の水』。三月の水だよ! 谷川俊太郎の『三月のうた』を最近聞いた時もドキっとしたけれど、そうか。『三月の水』か。曲調はあんなに穏やかで楽しい曲なのにね。
あと、『私を野球につれてって』は、このあいだ土岐麻子のヴァージョンで聞いたし、マイケル・フランシスの『アバンダンド・ガーデン』も、たしか聞いたことある。あと、モーツァルトの『レクイエム』と、松崎しげる『愛のメモリー』もね。
でも、ブラッド・スウェット&ティアーズ『ソー・マッチ・ラヴ』や、コーリーヌ・ベイリー・レイ『あの日の海』、ブームタウンラッツ『哀愁のマンディ』は聴いたことがなかった。早速、YouTube でチェックしてみようじゃないか。気になるからね。
DJアークがラストにかけた曲は、想像ネームSさんからのリクエストで、ボブ・マーリー『リデンプション・ソング』だった。
ぼくはこの曲、バンド・ヴァージョンでしか持ってなくて、ボブ・マーリーがギター1本で弾き語りしたヴァージョンを聴いたことがなかったんだ。想像ネームSさん(いとうせいこうさん自身ですね、きっと)のリクエストは、こっちの弾き語りヴァージョンだった。
YouTube を検索してみたら、あったあった。映像つきじゃん。
不安で仕方なかったから。もちろん「死者と生者が抱きしめ合って生きていくしかないだろう」というのは自分の感覚をベースにしてますけど、何も分からず死者の話を書いてしまったらまずいなとも思っていた。』
で、中島岳志氏は、どの本を挙げたのだろう? 気になるなぁ。
これはたぶん確信をもって言えるのだが、その中の1冊は、『魂にふれる』若松英輔(トランスビュー)だったに違いない。
この本のことは、以前ぼくも取り上げたことがある。
「死者とともに生きるということ」
死者は観念ではなく。実在である。
それは思われる対象であるよりも、
思う主体であり、
呼びかけを待つ者ではなく、
呼びかける者なのである。
『魂にふれる』若松英輔(64ページより)
■未だ浮かばれぬ「死者たち」が、聴く耳を持つ「生者たち」と混然となりながら、DJアークの一人語りにポリフォニックに呼応し合うラストは、何だか凄く感動的だったりした。
そして、あぁ、それでいいんだ。
そう思った。
■追伸:昨日の夕方、伊那市立図書館に行って『群像3月号』を読んだんだ。創作合評で、野崎歓氏、町田康氏、片山社秀氏が『想像ラジオ』を批評していると、ツイッターで知ったからね。
でも、残念だったなぁ。町田康氏は、この小説を「オカルト」や「スピリチュアル」という言葉で括ろうとしていたから。
そうじゃないと思うよ。これほど論理的でリアルで、オカルトとも
スピリチュアルとも、最も遠くにある(作者は注意深く、そう誤解されることを避けるように書いている)小説はないんじゃないかな。
最後に、
「想ー像ーラジオー」って、節をつけてジングルしてみる。
イメージとしては、「ファー、ファー、ミー、ド、レー」かな?
「オールナイト・ニッポン」とか、
「パック・イン・ミュージック。TBS」とかね。
そんな感じで。
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