日常 Feed

2018年5月14日 (月)

最近書いた文章(その3)『犬の目』

「犬の目」(長野医報 2018年3月号「我が家のアイドル」より)

 

 いぬは わるい めつきはしない

 

 これは、子供の詩集『たいようのおなら』灰谷健次郎・編(のら書店)21ページに載っている、さくだ みほちゃん(6歳)の「いぬ」というタイトルの詩です。なんか、圧倒されますよね。こう自信を持って断定されると、思わず納得してしまうから不思議です。では、みほちゃんが「目付きが悪い」と思っている動物は何だったのでしょう? 昔話や絵本に登場する悪者と言えばキツネとタヌキでしょうか。どの絵本にも、残忍で狡賢い眼が必ず描かれています。

 タヌキもキツネも、イヌとは遺伝子の多くが一致しているはずなのに「目付き」はなぜ違う印象になるのでしょうか? それは、イヌにだけ「白目」があるからです。

 白目は眼球の強膜の部分です。動物の目にも当然強膜はあるのですが、眼裂が丸いので外からはほとんど見えない(もしくは周囲の皮膚と同色で目立たない)ようにできています。それは、ライオンに狙われたシマウマが、逃げる方向を決して敵に悟られないようにするためです。弱肉強食の生存競争激しいサバンナでは、追う肉食獣も逃げる草食動物も、相手に自分が見ている方向が分かってしまっては決して生き残れないのです。

 ところが、ヒトは眼裂が横長なので白目がよく見えます。しかも白と黒のコントラストが鮮明で、見ている方向が一瞬にして相手に分かります。同じ類人猿でも、チンパンジーやオランウータンには白目はありません。ゴリラはよっぽど横を見れば辛うじて白目が見える。それなのに何故ヒトだけ白目が目立つのでしょうか?

 

 アイコンタクトは、言葉と並んでヒトの重要なコミュニケーション・ツールです。生後3ヵ月の赤ちゃんは、おかあさんの目をじっと見つめ「アー」とか「クー」と声を出して呼びかけます。すると母親も赤ちゃんの目を見つめ「アー、クー」と同じように返事をします。これがコミュニケーションの始まりですね。6ヵ月になると、母親が見ているものに視線を合わせるようになります。この視線追従を「共同注意 Joint attention」と言います。

さらに1歳前後になると「指さし」を始めます。赤ちゃんが指差す方向にあるものを見た母親は「○○ちゃん、それはワンワよ、ワンワ」と返します。こうして赤ちゃんの中に言葉がどんどん蓄積されていくのです。言葉が出ない自閉症の子供は「指さし」をしません。また、対面した時に決して視線を合わせようとはしません。

 ところがイヌとオオカミは、視線を交わし、相手の視線の先にある目標物を共有することができます(共同注意)。なぜなら、イヌにもオオカミにも「白目」があるからです。

 2002年のサイエンス誌に載った Hare氏らの論文によると、コップを2つ離して置いて、実験者(ヒト)が片方を指差した時、その正しいコップを選ぶかどうかイヌとチンパンジーとで比較検討したところ、チンパンジーの正答率が60%くらいしかなかったのに対して、イヌは80%近く正解しました。これは飼い犬、野生犬で差はなく、イヌの年齢にも関係はありませんでした。しかも、イヌの祖先あるオオカミの正答率は60%弱しかなかったのです。つまり、ヒトの家畜となって何世代も経つ中で、オオカミからイヌに進化した時点で初めて、この能力は遺伝的に記憶されたのですね。

 じつは、イヌはチンパンジーよりもヒトに近いコミュニケーション能力を持っていたのです。驚きです。こうしたイヌの能力は、実際にイヌを飼ってみると直ちに実感できます。天ぷらを揚げていた妻の手に油が飛んで「熱い!」と声を上げた瞬間、それまでソファーで熟睡していた我が家の愛犬は、ふいに頭を上げ直ちに台所へ掛け寄り「おかあさん、大丈夫?」と心配そうに妻を見上げます。ぼくは知らんぷりでテレビを見ているというのにね。これは、親愛なる者へのエンパシー(共感力)、相手の痛みを共に感じることができる能力なのです。

 それからイヌの「白目」。これも実際に飼って初めて知ることができました。イヌは熟睡すると、目が半開きになり白目に反転します。レム睡眠中なのか、上下左右にグリグリ眼球が動き、ちょっと気持ち悪いです。あと、おやつを取り出し伏せの状態で待たせると、イヌは上目遣いで白目を出し切なそうにぼくを見つめ「よし!」の一言を待つのです。これはプロのトレーナーの間では「クジラ目」と言われている仕草なのだそうで、イヌが困ったときに「お願い」「助けて」と、飼い主に共感を請う表情なのです。白目を有効に使うすべを、イヌは確かに知っているのですね。

 

 イヌのしつけに関する本には、イヌはオオカミの群れの上下関係で飼い主家族内の優劣・順位を決めると書いてあります。我が家でも、群れのリーダーは妻で、次いで長男→イヌ→ぼく→次男という順位になっています。毎朝30分も散歩に付き合い、エサもあげているというのに、ぼくは低位に甘んじています。じつに理不尽です。

 最近の研究によると、イヌと飼い主の関係は、人間の親子関係の「愛着」と同じように形成されるのだそうです。麻布大学獣医学部教授の菊水健史先生は、愛着ホルモンとも呼ばれる「オキシトシン」を実験の中で測定したところ、イヌの飼い主に向けた視線は飼い主のオキシトシン分泌を促進し、飼い主が愛情深く応答することでイヌのオキシトシン分泌も促進することを明らかにしました。また、イヌにオキシトシンを投与した実験では、イヌの飼い主への注視行動が増加し、それに伴って飼い主のオキシトシン分泌が増えました。オオカミにはこのような視線とオキシトシンの関連はみられません。

 イヌは進化の過程で人間の母子関係と同様の視線とオキシトシン神経系を介した愛着のポジティブ・ループを獲得し、飼い主への情愛と共感力を持つことができるようになったのです。こうして、ヒトとイヌは単なる家畜の関係を超えて、家族として相棒(バディ)として互いに掛け替えのない関係を築いたのです。

 

 ところで、落語の演目に『犬の目』という噺があります。眼病を患った男が、ヘボンの弟子のシャボンと名乗る目医者を訪ねます。医者は男の両眼をくり抜き皿の薬液に漬けます。ところが目玉がふやけてしまって男の眼窩に入りません。仕方なく目玉を日干しすると、隣の犬が食べてしまいました。困った目医者は、その犬の目玉をくり抜き患者に移植するという、何ともシュールで奇想天外な噺です。他にも『元犬』とか、桂枝雀の『鴻池の犬』それに『くしゃみ講釈』で犬糞を踏む場面など、落語には犬が登場する噺が案外多いのですね。

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(写真)我が家のアイドル「れおん」6歳オス。シーズーとトイプードルのミックス犬。

 おあとがよろしいようで。

 

2018年5月13日 (日)

最近書いた文章(その2)

■長野医報3月号特集「我が家のアイドル」の「苦しまぎれ招請文」
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 3月号の特集テーマは「我が家のアイドル」です。このタイトルから皆さんがイメージするのは何でしょうか?

 先日テレビを見ていたら、NHK総合『所さん!大変ですよ』という番組に、お茶の間でワニを飼うおじいさんが登場しました。ミニチュアサイズのワニではありませんよ。体長2m10cm、体重46kg、推定年齢35歳。そのカイマン君と枕を並べてお昼寝するおじいさん。34年前から毎日こうしてきたのだそうです。でも彼の食費は月5000円ほど。案外安いんですね。月に2回、鶏肉や鯉を与えるだけでOKなんだと。リードを付けてお散歩もします。近所の保育園では、子供たちのアイドルなんです。

Man living with 2 meter alligator 巨大ワニと暮らす男(NHC0014)
YouTube: Man living with 2 meter alligator 巨大ワニと暮らす男(NHC0014)




 ちょっと極端なアイドル愛好家を紹介してしまいましたが、いや「普通のはなし」でいいんです。目の中に入れても痛くない、可愛い娘さん、お孫さんの笑顔。それから、愛犬・愛猫がご主人様に甘えてくる仕草。そんなスナップ写真もぜひ添付して「我が家のアイドル」をご投稿下さい。どうぞよろしくお願いいたします。

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長野医報3月号特集「我が家のアイドル」の「前文」

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 平成30年の今年は「戌年」です。我が家にも犬がいます。シーズーとトイプードルのミックス犬(5歳オス)で、実物はほんと可愛いのに、なぜか写真映りが悪いのが残念です。犬は本当に不思議な動物です。自らは言葉をしゃべれないのだけれど、明らかに人間の言葉を理解して行動している。飼い主の気持ちに共感し、心を通い合わせることができるのです。飼い主を見上げる犬の視線を感じながら、ぼくはよく「コイツ、ほんとは何て言いたいんだろう?」と思います。


 先日、岡谷スカラ座で『僕のワンダフル・ライフ』という映画を観てきました。監督はあの『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』『ギルバート・グレイプ』『HACHI 約束の犬』などで名高いスウェーデン人のラッセ・ハルストレム監督です。これには泣けました。愛犬家必見の感動作です。映画の原題は『A Dog's Purpose』。君を愛し君に愛される。ボクはただただ嬉しかった。ボクは君のそばにずっといると決めたんだ。この世界に君がいてボクがいる。ただ「いま」をいっしょに生きる。という犬目線の映画なのです。この 3月7日にDVD発売されるので、TSUTAYAでもレンタル可能です。ぜひご覧下さい。


 さて、今月の特集は「わが家のアイドル」です。いったいどんな予想外のアイドルが登場するのでしょうか? どうぞお楽しみください。

2018年5月 1日 (火)

『今日までそして明日から』上伊那医師会報(2018年1月号)

      「今日までそして明日から」           

 

 私が生まれた昭和33年は、東京タワーが完成した年です。

 高遠第一保育園年長組の時に東京オリンピックがあり、父に連れられ軽井沢まで馬術競技を見に行きました。小学6年生で大阪万博、中1の冬にあさま山荘事件がありました。森昌子・桜田淳子・山口百恵の「花の中3トリオ」は同学年です。(山口百恵は1959年の早生まれ)マイケル・ジャクソンも、プリンスもマドンナも、小室哲哉もじつは同い年です。

 大学受験は、共通一次試験が始まる2年前で、卒業後は故郷に帰って、信州大学小児科学教室に入局しました。時代はバブル景気に浮かれ、映画『私をスキーに連れてって』が大ヒット。空前のスキーブームで、未明の国道18号線は志賀高原・斑尾・野沢温泉に向かう夜行バスが列をなし、リフト待ち30分〜60分は当たり前でした。

 こうして私は、高度経済成長の右肩上がりの時代の波に乗って、たいした苦労もせず温々と生きてきました。戦前・戦中・戦後と、怒濤の時代に翻弄されながら生き抜いた父母とは大違いです。正直申し訳ないです。

 ただ、西丸震哉氏のベストセラー本『41歳寿命説』によると、公害汚染の環境下、人工着色料・保存料・甘味料など添加物まみれの高カロリー高脂肪、高タンパク食品で育った我々世代から、短命化が急速に進むというのです。私が41歳になった年は、ちょうどノストラダムスが予言した1999年でした。幸いどちらも当たらず、なんとか今日まで生き延びています。

 困ったことに、60歳になる実感がまったく湧きません。現代人の精神年齢は、実年齢×0.7〜0.8 くらいと言われているので、気分はまだ40代なのです。しかし、身体の老化は確実に進行していて、体力低下は言うまでもなく、中でも免疫力の低下がショックでした。マスクをせずに連日診療していても、風邪ひとつひかないことが小児科医としての自慢でしたが、この冬はダメです。軽症だったとはいえ、ウイルス性胃腸炎にすでに2度も罹ってしまいました。この分だと、インフルエンザも危ないかも。情けないです。

 今日も予防接種に来た生後2ヵ月の乳児を診ながら、ふと「この子が成人する頃にまだ日本はあるんだろうか?」と、思ってしまいました。なんて無責任な奴だ。20年先も豊かで平和な生活をこの子らが送れるよう、いま頑張らなければいけないのは我々自身じゃないですかねぇ。

2018年1月18日 (木)

中川村「base camp COFFEE」の、スープカレーと、自家製干し柿

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中川村の陣馬形山に登った、帰りに寄った「base camp COFFEE」。あの時、他のお客さんたちがみな食べていた「スープカレー」がどうしても食べたくて、12月の雪の舞う日曜日の昼に再度訪れた。しかし、なんと予約分で終了で、せっかく1時間かけて出かけたのに、食べることはできなかった。

そこで、今回は出かける前に電話で予約し万全を期したのだった。いや、美味しかったなあ。自家製野菜に微妙に半熟加減を残したゆで卵。爽やかな辛さ加減も絶妙だ。これは確かに癖になる味かも。また行きたい。

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■食後のデザートに、自家製干し柿のクリームチーズ挟みと、コーヒーを注文。干し柿は、2個で300円。いや、これまた美味しかったぞ! オススメです。

2017年10月 1日 (日)

中川村の陣馬形山(1445m)登山

■日曜日は天気がいいようだったので、4月に守屋山へ行って以来の山登りを決行。目指すは、頂上から360度の展望が素晴らしいと噂の、中川村「陣馬形山」1445m。

午前8時半に家を出て、9時23分に麓の駐車場を出発。登山口までの2kmの車道の登りが結構キツくて、登山道に入る前にすでにバテ気味で情けない。

じつは、陣馬形山の山頂は「村営キャンプ場」になっていて、舗装された林道を頂上の直近まで自動車で行くことができるのだ。それを徒歩で登る登山道は、この林道を6回横切って直登する。2時間かかった。キツかったな。

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■写真は、登山口から登り始めて60分で到着する「丸尾のブナの木」。樹齢600年! 文明元年(1469年)に、地元の庄屋・宮沢家が諏訪大社へ御神木となるよう植林し、奉納したという。その頃の世の中は、ちょうど「応仁の乱」で京都は荒んでいた。そう室町時代だ。

凄いねぇ。そういえば、長谷川義史さんの絵本デビュー作『おじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃん』(BL出版)について書いた時に、同じ思いをしたのだった。

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■丸尾のブナから、さらに登ること45分。ようやく山頂に到着。人がいっぱい。みな自動車で来た人ばかりなんだけどね。

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(写真をクリックすると、もう少し大きくなります)

■噂に違わず、素晴らしい眺めでした。眼下の伊那谷河岸段丘。正面には中央アルプスの空木岳と南駒ヶ岳。振り返れば、南アルプスが北の端の鋸岳から仙丈ヶ岳→北岳→間ノ岳→西農鳥岳→塩見岳→悪沢岳→荒川岳→赤石岳→聖岳。みんな見えたよ。

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(写真をクリックすると、もう少し大きくなります)

■午後2時過ぎに下山して、車を駐車した麓の喫茶店「base camp COFFEE」でアイスコーヒー。美味しかった! 他のお客さんたちはみな「スープカレー」を食べていたぞ。これまた美味しそうだったな。

ここは、JAのスーパー「Aコープ」があった場所で、「この紹介記事」とか、最近出た朝日新聞の記事が、なかなかいいんじゃないか?

この次は、スープカレーを食べに来よう!

2017年9月18日 (月)

宮沢章夫さんの月曜日、NHKラジオ第一『すっぴん!』

■今日の9月18日(月)は「敬老の日」で休日編成のはずなのに、なぜか NHKラジオは平常の番組編成だったのでビックリした。

NHKラジオ第一『すっぴん!』月曜日のパーソナリティーといえば、宮沢章夫さんだ。前にもブログやツイッターで告白しているから、知っている人には「いまさら」なんだが、ぼくは、ここ15年来の宮沢さんのファンだ。

その「はじまり」に関しても先日ツイートした。とあるお母さんに薦められたのだ「先生は、たぶん絶対に宮沢章夫のエッセイが気に入るはずデス!」と。誰? ミヤザワって、知らねーよ。申し訳ないが、正直言うと、その時はそう思ったんだ。

だから、そのおかあさん(確か Mさん)のオススメを無視して数年を過ごしてしまった。でも、脳味噌の片隅に「ミヤザワ」が残っていたのかな。ある日、伊那の「ブックオフ」の100円コーナーで、『牛への道』宮沢章夫(新潮文庫)を見つけたんだ。で、読んでみたら「ど真ん中ストライク!」面白すぎる! Mさん、教えてくれて本当にありがとうございました。

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『牛への道』では、まえがきの「自動販売機」のはなしと「崖下のイラク人」の話が何と言っても忘れられない。忘れられないはずなのに、その度に「崖下のイラク人」に関して、その内容をまったく憶えていないことに驚き、慌てて読み返しては「あぁそうだった!あはは」と確認しては、また忘れてる

続き)それ以来、宮沢さんの著書は新刊・古書取り混ぜてほとんど入手してきた。で、最新刊の『笛を吹く人がいる:素晴らしきテクの世界』(ちくま文庫)だ。まず読んだのが「文庫版あとがき」。あはは!久々に大笑い。脱力しきった無意味な真剣さ。これぞ宮沢さんの真骨頂に違いない。

■先週の月曜日の「すっぴん!」には、ハンバートハンバートがゲストで生出演するというので、ラジオの前にボイス・レコーダーを置いて4時間ナマ録したのだが、後から聴いてみると、掃除機の轟音や、集金の銀行の人に吠えまくる犬の声で聞き取れない部分もあちこちあったのだけれど、幸いハンバートハンバートが登場した時間帯は雑音はなかった。面白かったなぁ。

・遊穂さんは、なんと『すっぴん!』放送当初からの常連リスナーで、何度か投稿したこともあるとのこと。でも、今まで一度も読まれたことはないんだって。

・今回も遊穂さんから「ぜひ出たい!」と猛烈なプッシュがあり出演が決まったのだが、急な国会中継のために中止となり、8月は『すっぴん!』自体が夏休みで放送がなかったために、結局出演が9月12日(月)となったのでした。

友部正人の還暦お祝いコンサートを、なんと宮沢章夫さんは聴きに行っていて、その時はじめて宮沢さんはハンバートハンバートを聴いている。しかも、彼らがその時歌ったのが『開いてるドアから失礼しますよ』だったのだ。

・で、5月5日のラジオでは謎のまま終わってしまったこと。というのは、「開いてるドアから失礼しますよ」という歌は、その部屋から主人公はいま「出て行こう」としているのか、それとも「入ろう」としているのか? 宮沢さんは疑問に思ったワケだが、何と! 友部正人さんからメールがあって「その答」を教えてくれたのだと。で、どっちだったのか?

・9月11日(月)の放送の中で宮沢さんは、さらりと言った。「どっちでもいいんだって。」

なんだ、せっかく期待したのに、なんか、つまらない答えだったな。

■ただこの日、8時半からの「宮沢章夫の文化のひととき」のコーナーで、NHK朝ドラ『ひよっこ』を取り上げていて、宮沢さんの「豊子(藤野涼子)押し」がめちゃくちゃ可笑しかった。やついいちろうに「早稲田大学に入学するよう、藤野涼子ちゃんに伝えてくれ。オレがゼミで教える」と頼んだという。ラジオに電話で出演した「やつい」は収録スタジオで彼女と会うごとに、3回は伝えたと言っていた。

宮沢さんがプッシュしたもう一人の女優が、安倍さおり(米子)役の伊藤沙莉。「間の取り方が完璧だ」と絶賛。やついいちろうは「ヤング泉ピン子ですよね」と(笑)。

■今週の「文化のひととき」も面白かったなぁ。尾崎放哉の俳句のはなし。そしたら、ぜんぜん知らなかったのだが、NHKラジオでも「radiko」みたいに、過去1週間分の番組(すべてではないみたい)を無料でオンデマンド聴視できるようになったんだね。

「ここ」で、来週火曜日の18:00 まで聴けます。

■午前10時台「武田砂鉄さんへのインタビュー」も面白かった。

ただ、今週の『すっぴん!月曜日』一番の聞き所は、「お天気メンバー11時」に登場した一般聴視者の女性だ。『牛への道』を読んで宮沢さんのファンとなり(特に「自動販売機のはなし」は何度も読み返していると)ファンが高じて、とうとう「宮沢さんのモノマネ」まで始めてしまったという。

まぁ面白いから、聴けるうちにぜひ聴いてみて下さい。

2017年6月26日 (月)

友部正人ライヴ at 叶屋(南箕輪村)

■昨日は、南箕輪村の老舗酒屋さん『叶屋』で行われた「友部正人ライヴ」に出かけてきた。毎年、この時期に開催されていて、今回で10回目なんだそうだ。ぼくは3年前からの参加で 3回目。会場には40人以上の人たちが集まった。去年も一昨年も見かけた「常連さん」が多い。

■酒店内に作られた特設ステージに、なんと!「サングラス」をかけた友部さんが登場した。驚いたな。

ボブ・ディランにそっくりじゃないか! 鼻が二人とも「鷲鼻」だから、ほんとよく似てる。おもむろに歌い出した曲は何だったか? う〜ん、忘れてしまった。『6月の雨の夜、チルチル ミチルは』だったっけ。いや、違うな。でも、久々に聴いた「この曲」の歌詞が、グサリと僕の胸に突き刺さった。

もう会えないと思うからと

ぼくに1曲うたわせる

それほどよくはうたえなかったのに

最高最高とチルチルは言う

もし死にに行く人になら

いい思い出だけにはなりたくない

そう思いながらも手を振って 黒い車を見送った

知らないことでまんまるなのに

知ると欠けてしまうものがある

その欠けたままのぼくの姿で

雨の報道にいつまでも立っていた

6月の雨の夜、チルチル ミチルは

からの鳥かご下げて死の国へ旅立った

ゆうべのままのこのぼくが

朝日をあびてまだ起きている

■2曲目は『マオリの女』だった。去年も聴いたが、この曲はほんと沁みるなあ。名曲だ。

タヒチへ渡ったゴーギャンが、現地でめとった幼妻のことを歌っている。フランス人のゴーギャンが、骨を埋めるつもりて訪れたタヒチには、結局2年間くらいしか住まなかった。そして帰国後は2度とタヒチへは帰らなかったのだ。幼妻は島に置き去りにされた。あんなにも一生懸命愛した外国人の夫に、いとも簡単に捨てられたのだ。

■ネットで調べたら「叶屋」店主の倉田さんは 1959年7月生まれだそうだ。なんだ僕より1学年若いのか。2〜3歳年上かと思っていたよ。友部さんが初めて「叶屋」を訪れた10年前には、まだ高校生だった倉田さんの娘さん。この日は赤ちゃんを抱っこして会場で笑顔をふりまいていた。

■『6月の雨の夜、チルチル ミチルは』は、理由は分からないけれど生き続けることが出来なくなってしまった哀しい夫婦(子供2人あり)の歌だった。そう言えば『マオリの女』も夫婦の歌だ。友部さんは、冷めきった夫婦の歌をもう一曲歌った。タイトルも知らない曲だ。ぼくは今回、遠慮しいしい初めて妻をさそって珍しく彼女が「行ってもいいよ」って言ったから二人で来たのに、それはないんじゃないか(^^;;

そしたら友部さん。『バレンタインデイ』という、いい感じで年をとった仲むつまじい夫婦の歌も唄ってくれた。でも、ちょっと取って付けたみたいだったな。「叶屋」夫婦に捧げる歌だったのかな。

友部さんの奥さんは「ユミさん」だ。もう、ずっと昔からそうだ。ほんと偉いな、友部さん。

■酒屋さんでのコンサートなので、開演前と「中入り」の時間帯には、無料で日本酒が振る舞われる。ただ、去年も一昨年も、一人で車を運転して行ったから、お酒は飲めなかった。でも、今回は「帰りの運転手」がいる。しかも、彼女のOKもでた! やったね。叶屋イチオシの「夜明け前」吟醸、「久保田」千寿、「緑川」を次々とお替わりして頂く。いやぁ、おいしいなぁ。(まだ続く)

2017年1月15日 (日)

ダウン症の書家、金澤翔子さんの個展(伊那市「はら美術」2Fギャラリー)に行ってきた。

■先週の月曜日(成人の日)に、伊那市郵便局の前にある画廊「はら美術」へ「金澤翔子さんの個展」を見に行ってきた。彼女の最近の書が数十点、展示販売されていた。もしも買えるなら、手元に欲しい! そう思って出かけたのだが、「夢」とか「愛」とか、これは!と思う作品はみな売約済みだった。残念。

金澤翔子さんの大作の実物を見たのは、一昨年の夏に京都を訪れた際、「風神雷神図屏風」の所有者であるところの「健仁寺」に行き、俵屋宗達の傑作:風神雷神図(レプリカ:本物は京都国立博物館所蔵)の左側に、対峙するように描かれた金澤翔子さんの「風神雷神」の屏風(こちらはホンモノ)だった。素晴らしかった。感動した。

以前から、テレビでお母さんと二人三脚で努力されてきた様子は見聞きしていたが、彼女の展覧会には行ったことがなかった。超大作の展示はなかったけれど、これだけ一度に見たのは初めてだけに、その書から発せられる「オーラ」みたいなものに圧倒された。なんなんだろう。この「気」みたいなパワー。凄いな!

2016年8月26日 (金)

永六輔さんのこと

■前回の続きを書く予定でいたのだけれど、このところ、ギターの練習が忙しくて書けない。

というワケで、しばらく前のツイッターに連投した「永六輔さん」の話題をまとめておきます。

永六輔さんといえば、奥さんとの最初の結婚記念日。まだまだ貧乏だったし、めちゃくちゃ忙しかった永さんに、奥さまは「あの東京タワーを私に頂戴」と言ったのだそうだ。その真偽を検索したら、自分のHPが出てきて驚いた。2002年12月22日の日記に書いてある。clio.ne.jp/home/kita/0301… 合掌。

ぼくが中学2年生ぐらいの頃だったか、『遠くへ行きたい』の取材で、大和田伸也さんと永六輔さん、それに『話の特集』編集長だった矢崎泰久氏が高遠町にやって来た。当時、キンキン(愛川欽也)のラジオ深夜放送を聴いてすっかりファンになった僕は、永さんに会いに行って色紙にサインしてもらった。

中坊の依頼に、嫌な顔ひとつせず永さんは筆ペンで絵入りのサインをしてくれた。「僕がね、一番に尊敬している淀川長治さんの言葉です」そう言って書いてくれたのが「私はかつて嫌いな人に会ったことがない」という言葉だった。赤マジックで印字も押してくれた。

律儀な永さんは、訪れたその土地でお世話になった人に、東京へ帰ってから(もしくは次の旅先から)必ず絵葉書を出した。高遠で蕎麦をご馳走した僕の父宛にも絵葉書が届いた。感動した僕は返事の手紙を書いた。住所が判らないので、TBSラジオ宛てとした。

当時、TBSラジオの深夜放送「パック・イン・ミュージック」火曜日の愛川欽也DJの時に、よく永六輔さんが出演していたのだ。TBSラジオでは、遠藤泰子アナウンサーと『誰かとどこかで』という番組を長年続けていた。だから、ぼくはTBS気付で永六輔さんに手紙を出したのだ。

今でもよく憶えているけれど、もえぎ色の便箋を買ってきて、冒頭「あなた様」と書こうと思って辞書を引いたら、「貴様」と載っていたので、そのまま「貴様」で書き始めて投函したら、奇蹟的に「その手紙」が永六輔さんの手に渡って、翌々週くらいの何かのラジオ番組の中で永さんが、こう言った。

「あのですね。先日、とある中学生から手紙をもらったんです。開封してみたら、巻頭いきなり『キサマは』って書いてあって、たまげてしまったんですね。世も末だなって。」忘れもしない。ぼくはそのラジオ番組を聴いていたのです。(終わり)

■40年以上前の記憶はいい加減だ。兄に訊いたら、大和田伸也が高遠に来た時と、永六輔&矢崎泰久の2人が訪れたのは別の時で、日テレ『遠くへ行きたい』収録のあと、番組ディレクターから「高遠に変な田舎医者がいるよ」と聞いて、永さんがやって来たんだそうだ。その昔、黒柳徹子の恋人だった(?)劇作家、飯沢匡の足跡を辿る旅でもあったらしい。

2016年8月15日 (月)

『閉ざした口のその向こうに』鷲田清一

■テルメで6km 走った後にフロント前のロビーで、8月14日付「日本経済新聞・日曜版」最終面に載っていた、元大阪大学総長、鷲田清一氏の『閉ざした口のその向こうに』を読んだ。さすが、しみじみ深く感じ入る文章だった。

ネット上でも、日経の無料会員に登録すれば、読むことができるが、以下、一部(というか、そのほとんどを)転載する。

 お盆前後の半日、両家の墓に参る。若い頃は墓参りは両親にまかせていたが、いまはわたしたち夫婦以外にその務めをする者がないから、空いている日を見つけ墓所を訪ねるのが、この季節の習いになっている。京都では十六日に「送り火」という、街をあげての精霊送りの行事もあるから、どこからともなく線香の匂いが漂ってくる。

 若い頃は逆だった。なぜこの日に、そしてこの日にかぎって厳粛な気持ちになるのか。そこに、大人たちのうさんくささを嗅ぎつけ、あえてその日を特別な日にしないぞと、家族の墓参りには同行しなかった。できるだけ普段どおりを装うようにしていた。これが十代の頃の、わたしなりの「大人」たちへの不同意のかたちであった。

 特別な日にあらたまって何かに思いをいたす。かわりに普段は平気でそれを忘れている。普段は弔いの思いもない者がその日だけ手を合わせる、線香を焚(た)く、そんなふうに形だけ整えるのを、偽善と感じたのだろう。「あらたまる」というのは、日々の思いがあってこその、その思いの凝集であるはずだと。(中略)

 いつの頃からか(中略)ときどきふと、思いもよらないものに目を止めるようになった。長年使ってきた艶のない食器にふと目を落としたり、通りなれた道を歩きながらふとこれを見るのも最後かもとしみじみ眺め入ったり、ふと見かけた子の行く末が気になったり、そして何より、とうにいない父や母、祖父、祖母のかつての姿を思い起こしたり。(中略)

 何年くらい前のことだろう、ある日ふと、食卓にあっても家族と目を合わせることのほとんどなかった父の姿が思い浮かんだ。細かな擦り傷だらけ、ところどころかすかに鈍い輝きを放つだけのあの食器のように。

 父とこころを割って話すことはついに最後までなかった。ずっとそう思ってきた。しかしほんとうは話していたのかもしれない。口から漏れかけた言葉にただこちらが気づかなかっただけのことかもしれない。「かたり」が「語る」であるとともに「騙(かた)る」でもあるように、記憶もまた、それと気づくことなく体の奥に刻まれていることもあれば、後からキレイな話につくり変えられていることもある。

 わたしには戦争の記憶はもちろんないが、父をめぐる記憶も終戦の数年のちから始まる。父については口下手というか口が回らないという印象がずっとあった。口数の少ない父がことさら寡黙になるのは、きまって戦地の話になるときだった。何を訊(き)いてもなしのつぶて。ちらっと「何でそんなこと訊くんや」という顔をするばかりだった。かろうじて聞き出せたのは、子どもの頃の事故で片眼の視力を失っていたので、前線の後ろ、衛生兵に配属されたということだけ。祖父が空襲の話を饒舌(じょうぜつ)にくりかえすのと対照的だった。

 同級生に訊くと、よその家でも親父というのはそんなものだったらしく、それ以上詮索することもなく月日は過ぎた。

 その沈黙を世代として受けとめなおす必要があると、このところ思いはじめている。声高の戦争語りには、子どもなりに反撥(はんぱつ)していた。が、その勢いで、言葉が滞るというかたちでの父たちの戦争の語りにも同時に耳を塞いでいたのだと思う。けれどもとさらに思う。「わたしたち」は太平洋戦争を体験していないけれども、その体験者の失語にふれた最後の世代に属する。その人たちが断ち切ろうにも断ち切れなかったもの、少なくともその残照には「わたしたち」はふれていたはずなのだ。皮膚に細かいひっかき傷として残っているそれらを語りつぐ務めがわたしたちにはあるのではないか。

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 父は死ぬまで仏壇だけは疎(おろそ)かにしなかった。生まれてすぐに母を亡くし、それからずっと親戚の寺で預かってもらっていたというから(この話も父ではなく親戚筋から聞いた)、理由はそこにあるかもしれないが、そのときだけは戦地で逝った戦友のことを密(ひそ)かに思っていたのかもしれない。あるいは、消えるような声でたどたどしくしかお経を読めなかったのも、たとえお経であっても、走る言葉は信用しないということがあったのかもしれない。いずれもすべて霧の向こうにある。

 父(たち)は何を拒んでいたのか。何を断念したのか。何がまだ済んでいなかったのか。

 足腰が弱くなって、ついでに「じぶん」というものまで痩せ細ってきて、何を見ていてもその光景に思いもかけずこの問いが重なることが増えた。父の代から引き継いだ盆の墓参りの道すがら、服にしみつく線香の匂いも昔とはかすかに違ってきている。

『閉ざした口のその向こうに』鷲田清一(8月14日付「日本経済新聞・日曜版」最終面より)

■「『わたしたちは太平洋戦争を体験していないけれども、その体験者の失語にふれた最後の世代に属する。」という言葉が重要だ。『わたしたち』とは、どこまでの世代が含まれるのか?

鷲田先生は、1949年生まれだ。以前ブログに書いた「同じ年生まれの人が気になるのだ」で調べてみると、村上春樹が同じ 1949年の早生まれだ。ちなみに、後で触れる予定の、辺見庸氏は 1944年生まれだった。

■ぼくの父は、大正8年の生まれで、昭和19年、慈恵医大を卒業し陸軍軍医学校に行った。戦地へ派遣されることはなかったが、3月10日の東京大空襲の惨劇を、軍医として目の当たりにしたという。

昭和20年10月。氷川丸に乗ってラバウルへ患者さんたちを引き取りに行くべく横浜港で待機中に、故郷の高遠町で外科医院を開業していた祖父危篤の電報を受け帰郷。翌年、亡くなった祖父の跡を継ぎ、父は27歳で内科医院を開業した。本当は、大学に戻って尊敬する教授がいた産婦人科学教室に入局する希望だったのだが、叶わなかった。

ぼくの長兄も、1949年(昭和24年)の早生まれだ。だから、鷲田先生や村上春樹氏の父親も、ぼくの父と同世代に違いない。

■村上春樹氏の父親も、中国大陸に従軍している。しかも、モンゴル・ソ連国境に接する「ノモンハン」だった。村上氏は、エルサレム賞受賞のあいさつ「壁と卵」の中で、彼の父親に触れている。以下抜粋。

 私の父は昨年の夏に90歳で亡くなりました。彼は引退した教師であり、パートタイムの仏教の僧侶でもありました。大学院在学中に徴兵され、中国大陸の戦闘に参加しました。私が子供の頃、彼は毎朝、朝食をとるまえに、仏壇に向かって長く深い祈りを捧げておりました。

一度父に訊いたことがあります。何のために祈っているのかと。「戦地で死んでいった人々のためだ」と彼は答えました。味方と敵の区別なく、そこで命を落とした人々のために祈っているのだと。父が祈っている姿を後ろから見ていると、そこには常に死の影が漂っているように、私には感じられました。

 父は亡くなり、その記憶も ---- それがどんな記憶であったのか私にはわからないままに ---- 消えてしまいました。しかしそこにあった死の気配は、まだ私の記憶の中に残っています。それは私が父から引き継いだ数少ない、しかし大事なものごとのひとつです。

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