日常 Feed

2017年1月15日 (日)

ダウン症の書家、金澤翔子さんの個展(伊那市「はら美術」2Fギャラリー)に行ってきた。

■先週の月曜日(成人の日)に、伊那市郵便局の前にある画廊「はら美術」へ「金澤翔子さんの個展」を見に行ってきた。彼女の最近の書が数十点、展示販売されていた。もしも買えるなら、手元に欲しい! そう思って出かけたのだが、「夢」とか「愛」とか、これは!と思う作品はみな売約済みだった。残念。

金澤翔子さんの大作の実物を見たのは、一昨年の夏に京都を訪れた際、「風神雷神図屏風」の所有者であるところの「健仁寺」に行き、俵屋宗達の傑作:風神雷神図(レプリカ:本物は京都国立博物館所蔵)の左側に、対峙するように描かれた金澤翔子さんの「風神雷神」の屏風(こちらはホンモノ)だった。素晴らしかった。感動した。

以前から、テレビでお母さんと二人三脚で努力されてきた様子は見聞きしていたが、彼女の展覧会には行ったことがなかった。超大作の展示はなかったけれど、これだけ一度に見たのは初めてだけに、その書から発せられる「オーラ」みたいなものに圧倒された。なんなんだろう。この「気」みたいなパワー。凄いな!

2016年8月26日 (金)

永六輔さんのこと

■前回の続きを書く予定でいたのだけれど、このところ、ギターの練習が忙しくて書けない。

というワケで、しばらく前のツイッターに連投した「永六輔さん」の話題をまとめておきます。

永六輔さんといえば、奥さんとの最初の結婚記念日。まだまだ貧乏だったし、めちゃくちゃ忙しかった永さんに、奥さまは「あの東京タワーを私に頂戴」と言ったのだそうだ。その真偽を検索したら、自分のHPが出てきて驚いた。2002年12月22日の日記に書いてある。clio.ne.jp/home/kita/0301… 合掌。

ぼくが中学2年生ぐらいの頃だったか、『遠くへ行きたい』の取材で、大和田伸也さんと永六輔さん、それに『話の特集』編集長だった矢崎泰久氏が高遠町にやって来た。当時、キンキン(愛川欽也)のラジオ深夜放送を聴いてすっかりファンになった僕は、永さんに会いに行って色紙にサインしてもらった。

中坊の依頼に、嫌な顔ひとつせず永さんは筆ペンで絵入りのサインをしてくれた。「僕がね、一番に尊敬している淀川長治さんの言葉です」そう言って書いてくれたのが「私はかつて嫌いな人に会ったことがない」という言葉だった。赤マジックで印字も押してくれた。

律儀な永さんは、訪れたその土地でお世話になった人に、東京へ帰ってから(もしくは次の旅先から)必ず絵葉書を出した。高遠で蕎麦をご馳走した僕の父宛にも絵葉書が届いた。感動した僕は返事の手紙を書いた。住所が判らないので、TBSラジオ宛てとした。

当時、TBSラジオの深夜放送「パック・イン・ミュージック」火曜日の愛川欽也DJの時に、よく永六輔さんが出演していたのだ。TBSラジオでは、遠藤泰子アナウンサーと『誰かとどこかで』という番組を長年続けていた。だから、ぼくはTBS気付で永六輔さんに手紙を出したのだ。

今でもよく憶えているけれど、もえぎ色の便箋を買ってきて、冒頭「あなた様」と書こうと思って辞書を引いたら、「貴様」と載っていたので、そのまま「貴様」で書き始めて投函したら、奇蹟的に「その手紙」が永六輔さんの手に渡って、翌々週くらいの何かのラジオ番組の中で永さんが、こう言った。

「あのですね。先日、とある中学生から手紙をもらったんです。開封してみたら、巻頭いきなり『キサマは』って書いてあって、たまげてしまったんですね。世も末だなって。」忘れもしない。ぼくはそのラジオ番組を聴いていたのです。(終わり)

■40年以上前の記憶はいい加減だ。兄に訊いたら、大和田伸也が高遠に来た時と、永六輔&矢崎泰久の2人が訪れたのは別の時で、日テレ『遠くへ行きたい』収録のあと、番組ディレクターから「高遠に変な田舎医者がいるよ」と聞いて、永さんがやって来たんだそうだ。その昔、黒柳徹子の恋人だった(?)劇作家、飯沢匡の足跡を辿る旅でもあったらしい。

2016年8月15日 (月)

『閉ざした口のその向こうに』鷲田清一

■テルメで6km 走った後にフロント前のロビーで、8月14日付「日本経済新聞・日曜版」最終面に載っていた、元大阪大学総長、鷲田清一氏の『閉ざした口のその向こうに』を読んだ。さすが、しみじみ深く感じ入る文章だった。

ネット上でも、日経の無料会員に登録すれば、読むことができるが、以下、一部(というか、そのほとんどを)転載する。

 お盆前後の半日、両家の墓に参る。若い頃は墓参りは両親にまかせていたが、いまはわたしたち夫婦以外にその務めをする者がないから、空いている日を見つけ墓所を訪ねるのが、この季節の習いになっている。京都では十六日に「送り火」という、街をあげての精霊送りの行事もあるから、どこからともなく線香の匂いが漂ってくる。

 若い頃は逆だった。なぜこの日に、そしてこの日にかぎって厳粛な気持ちになるのか。そこに、大人たちのうさんくささを嗅ぎつけ、あえてその日を特別な日にしないぞと、家族の墓参りには同行しなかった。できるだけ普段どおりを装うようにしていた。これが十代の頃の、わたしなりの「大人」たちへの不同意のかたちであった。

 特別な日にあらたまって何かに思いをいたす。かわりに普段は平気でそれを忘れている。普段は弔いの思いもない者がその日だけ手を合わせる、線香を焚(た)く、そんなふうに形だけ整えるのを、偽善と感じたのだろう。「あらたまる」というのは、日々の思いがあってこその、その思いの凝集であるはずだと。(中略)

 いつの頃からか(中略)ときどきふと、思いもよらないものに目を止めるようになった。長年使ってきた艶のない食器にふと目を落としたり、通りなれた道を歩きながらふとこれを見るのも最後かもとしみじみ眺め入ったり、ふと見かけた子の行く末が気になったり、そして何より、とうにいない父や母、祖父、祖母のかつての姿を思い起こしたり。(中略)

 何年くらい前のことだろう、ある日ふと、食卓にあっても家族と目を合わせることのほとんどなかった父の姿が思い浮かんだ。細かな擦り傷だらけ、ところどころかすかに鈍い輝きを放つだけのあの食器のように。

 父とこころを割って話すことはついに最後までなかった。ずっとそう思ってきた。しかしほんとうは話していたのかもしれない。口から漏れかけた言葉にただこちらが気づかなかっただけのことかもしれない。「かたり」が「語る」であるとともに「騙(かた)る」でもあるように、記憶もまた、それと気づくことなく体の奥に刻まれていることもあれば、後からキレイな話につくり変えられていることもある。

 わたしには戦争の記憶はもちろんないが、父をめぐる記憶も終戦の数年のちから始まる。父については口下手というか口が回らないという印象がずっとあった。口数の少ない父がことさら寡黙になるのは、きまって戦地の話になるときだった。何を訊(き)いてもなしのつぶて。ちらっと「何でそんなこと訊くんや」という顔をするばかりだった。かろうじて聞き出せたのは、子どもの頃の事故で片眼の視力を失っていたので、前線の後ろ、衛生兵に配属されたということだけ。祖父が空襲の話を饒舌(じょうぜつ)にくりかえすのと対照的だった。

 同級生に訊くと、よその家でも親父というのはそんなものだったらしく、それ以上詮索することもなく月日は過ぎた。

 その沈黙を世代として受けとめなおす必要があると、このところ思いはじめている。声高の戦争語りには、子どもなりに反撥(はんぱつ)していた。が、その勢いで、言葉が滞るというかたちでの父たちの戦争の語りにも同時に耳を塞いでいたのだと思う。けれどもとさらに思う。「わたしたち」は太平洋戦争を体験していないけれども、その体験者の失語にふれた最後の世代に属する。その人たちが断ち切ろうにも断ち切れなかったもの、少なくともその残照には「わたしたち」はふれていたはずなのだ。皮膚に細かいひっかき傷として残っているそれらを語りつぐ務めがわたしたちにはあるのではないか。

□ □ □

 父は死ぬまで仏壇だけは疎(おろそ)かにしなかった。生まれてすぐに母を亡くし、それからずっと親戚の寺で預かってもらっていたというから(この話も父ではなく親戚筋から聞いた)、理由はそこにあるかもしれないが、そのときだけは戦地で逝った戦友のことを密(ひそ)かに思っていたのかもしれない。あるいは、消えるような声でたどたどしくしかお経を読めなかったのも、たとえお経であっても、走る言葉は信用しないということがあったのかもしれない。いずれもすべて霧の向こうにある。

 父(たち)は何を拒んでいたのか。何を断念したのか。何がまだ済んでいなかったのか。

 足腰が弱くなって、ついでに「じぶん」というものまで痩せ細ってきて、何を見ていてもその光景に思いもかけずこの問いが重なることが増えた。父の代から引き継いだ盆の墓参りの道すがら、服にしみつく線香の匂いも昔とはかすかに違ってきている。

『閉ざした口のその向こうに』鷲田清一(8月14日付「日本経済新聞・日曜版」最終面より)

■「『わたしたちは太平洋戦争を体験していないけれども、その体験者の失語にふれた最後の世代に属する。」という言葉が重要だ。『わたしたち』とは、どこまでの世代が含まれるのか?

鷲田先生は、1949年生まれだ。以前ブログに書いた「同じ年生まれの人が気になるのだ」で調べてみると、村上春樹が同じ 1949年の早生まれだ。ちなみに、後で触れる予定の、辺見庸氏は 1944年生まれだった。

■ぼくの父は、大正8年の生まれで、昭和19年、慈恵医大を卒業し陸軍軍医学校に行った。戦地へ派遣されることはなかったが、3月10日の東京大空襲の惨劇を、軍医として目の当たりにしたという。

昭和20年10月。氷川丸に乗ってラバウルへ患者さんたちを引き取りに行くべく横浜港で待機中に、故郷の高遠町で外科医院を開業していた祖父危篤の電報を受け帰郷。翌年、亡くなった祖父の跡を継ぎ、父は27歳で内科医院を開業した。本当は、大学に戻って尊敬する教授がいた産婦人科学教室に入局する希望だったのだが、叶わなかった。

ぼくの長兄も、1949年(昭和24年)の早生まれだ。だから、鷲田先生や村上春樹氏の父親も、ぼくの父と同世代に違いない。

■村上春樹氏の父親も、中国大陸に従軍している。しかも、モンゴル・ソ連国境に接する「ノモンハン」だった。村上氏は、エルサレム賞受賞のあいさつ「壁と卵」の中で、彼の父親に触れている。以下抜粋。

 私の父は昨年の夏に90歳で亡くなりました。彼は引退した教師であり、パートタイムの仏教の僧侶でもありました。大学院在学中に徴兵され、中国大陸の戦闘に参加しました。私が子供の頃、彼は毎朝、朝食をとるまえに、仏壇に向かって長く深い祈りを捧げておりました。

一度父に訊いたことがあります。何のために祈っているのかと。「戦地で死んでいった人々のためだ」と彼は答えました。味方と敵の区別なく、そこで命を落とした人々のために祈っているのだと。父が祈っている姿を後ろから見ていると、そこには常に死の影が漂っているように、私には感じられました。

 父は亡くなり、その記憶も ---- それがどんな記憶であったのか私にはわからないままに ---- 消えてしまいました。しかしそこにあった死の気配は、まだ私の記憶の中に残っています。それは私が父から引き継いだ数少ない、しかし大事なものごとのひとつです。

2016年1月25日 (月)

ハチドリの物語『私にできること』

■2016年1月13日(水)の信濃毎日新聞夕刊のコラム『今日の視角』。担当は落合恵子さん。ネットでは読めないので、一部転載させていただきます。

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          「ハチドリ」

 年下の友人が亡くなった。自転車にぶつけられて、その痛みがなかなかとれないと言っていたのだが、痛みの原因はほかにあったのだ。(中略)

少女の面影が残る彼女だが、口癖は「ハチドリは踏ん張るからね」。

 「ハチドリのひとしずく」の話はご存知と思う。

 森が燃えさかっていた。森の生き物たちは必死で逃げていく。自然の逃走本能が彼らを急がせる。

 しかし、クリキンディという名前の小さなハチドリだけは逃げることはなかった。クチバシに水を含んでは往復して、燃えさかる炎の上に落とすのだ。そんなことをしてもどうにもならない、と逃げることを促すほかの動物たちに、ハチドリは答える。「自分にできることをしているだけ」。彼女はこの話が好きで、自分をハチドリにたとえもした。鳥類の中でも身体が最も小さなグループであるハチドリである。

 さまざまな未決の問題が、わたしたちの目の前に山積みになっている2016年。新しい年、といった晴れやかな気分にはなれずにすでに1月は半分近くたってしまった。それでも、と彼女のきれいな遺影に手を合わせながら誓う。

 時に忍び寄る「わたしひとりがやったところで」という意識。それに自分を明け渡すことは、わたしたち自身の生存権、「自分が紛れもなく自分自身であること」を諦めることでもあるのだ、と。

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■この「ハチドリの物語」を、恥ずかしながらぼくは知らなかった。検索してみたら、『私にできること 地球の冷やしかた』(ゆっくり堂)が見つかった。この本のことを、落合恵子さんは 2005年6月1日の信毎夕刊『今日の視角』で取り上げていたのだ。

この小冊子自体を手にしてないので分からないのだが、本が出版された本来の意味は「地球温暖化防止」だったようだ。

■TBSテレビで、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』をドラマ化し、現在放送中だ。この小説は読んだ。ずしりと心に残った。調べてみたら( 2006/11/15,  11/23,  11/25 )に感想が書いてある。おぉ、ここにも落合恵子さんの「今日の視角」の話が。

この小説では、自分の意志とは関係なく、あらかじめ決められた運命を静かにただ受け入れる若者たちの諦観が描かれている。もちろん、わずかな望みに全てを託す努力はする。それがまた、あまりにも切ない。

■先だってのSMAP独立・解散騒動を見ていて、なんともやるせない気分になってしまったのだけれど、この『わたしを離さないで』や、先日観てきたお芝居『消失』のこと、それに菊地成孔氏が『時事ネタ嫌い』の「あとがき」で言っていた「炭鉱のカナリア」の話が妙にシンクロして、このところずっと暗く落ち込んでいたのだ。そうは言っても、「炭鉱のカナリア」でもあることも大切だが、ぼくも「ハチドリ」になりたい。そう思い直して、明日からまた、諦めずに生きて行こうと思いを新にするのだった。

2015年6月21日 (日)

「高遠エフェクト」展 at the 信州高遠美術館

■なかなか時間が取れなくて、今日になってようやく行ってきました。信州高遠美術館。

5月28日〜7月12日(日)まで、次世代を担うピチピチの若手アーティスト7人が集結した「高遠エフェクト」展が開催されているのだ。田舎の公設美術館としては、かなりの実験的冒険企画だと思うのだが、実力のある若手美術家に美術館の展示スペースを「すべて」与えて、自由に跳びはねてもらおうって、いやぁ、なかなかできないよ。ほんと。すごいな。

それに、若手ならではのフットワークの軽さからか、参加アーティストが講師を務めるワークショップが6つも企画されている。

僕らが美術館を訪れた日曜日の午後にも「美術展づくりをロールプレイ! 〜自分だったらこんな美術展を作ってみたいな!」というWSが開催されていた。講師は、ムカイヤマ達也さん。見た感じ、まだ20代だよな。

第一展示室に入ると、まずは左の壁一面に、約10m近くにわたって「藤沢まゆ」さんの染色画が、左から右へと「物語」を奏でる巨大な壁画のような圧倒的な迫力と繊細な美しさで、見る者を別世界へとトリップさせてくれる。これは本当にすばらしい!

面白いのは、オブジェが「平面」ではなくて「立体的」に展示されていることだ。

つまり、染色された布の裏に型紙を貼り付け、ハサミで型を切り取って、蝶々や魚、蛾やキノコたちを「奥ゆき」があるかの如く少し前後に重ねて配置することで、作品の「3D的」楽しさが新たに加わっているのだった。

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(写真をクリックすると、もう少し大きくなります)

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藤沢まゆさんのことは、ちょうど5年前の2010年6月20日に、信州高遠美術館で個展を開いた時のことを「ここ」に書いた。

現在、「新宿ルミネ1」のエレベーター各階の扉と内装の絵として、彼女の作品を見ることができるのだそうだ。(6月いっぱいまで。8月からは、横浜ルミネのエレベータで展示されます。)

第二展示室に入るといきなり、正面ショーケース内の「オオカミの着ぐるみ」の展示で、度肝を抜かれる。さらに左手に目を向けると、上伊那郡中川村に住み、農業を営みながら地元農民と山の木々を対比した絵を書いている「北島遊」さんが描く「超ど迫力の農村画」(なんと、全ての絵のタイトルが同じ「生きる」なのだ)が目を引く。

ちょっと見、「原田泰治」風の「ほのぼの田舎絵」なのだが、ところがどっこい、裏山の森の杉の木は、ゴッホが好んで描いた南仏糸杉の「ぐるぐる渦巻」みたいになっていて、おどろおどろしい得体の知れない力を秘めた自然の驚異と、人間が根本的に持つ情念と不安と恐怖のイメージをダイレクトに醸し出しているし、絵の最前面に小さく配置された人物像だって、原田泰治と言うよりは、どう見ても「いがらしみきお」の漫画に登場する一癖も二癖もある人物のような感じだ。

そう、「いがらしみきお」だよ。「I・アイ」とか「かむろば村へ」とかね。

これは是非、本物を見るべきです。オススメです!

7月12日(日)までだから、あと3週間やってます。

2015年2月19日 (木)

ケメックスのコーヒーメーカーを買ったのだ

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・昨年末に GLASS ONION で、ケメックスのコーヒーメーカー6カップ用(ガラス製の化学実験器具みたいなヤツ)を買ってから毎朝ドリップコーヒーを入れて飲むようになった。

コーヒー豆は、毎週「カフェ・コーデ」で碾いてもらって200g買う。今飲んでるのは、グァテマラ・ラ・タシータ農園の豆。美味いんだこれ。あと、ボリビア・コパカバーナ農園の豆もね。

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2014年1月 3日 (金)

12月31日の出来事(大瀧詠一氏を偲んで)

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

さて、

【昨日から今日にかけての、ぼくのツイートのまとめ(一部改変あり)】

■ぼくが初めて大瀧詠一さんの歌を聴いたレコードは『中津川フォークジャンボリー'71』(ビクター)のB面ラストに収録されていた、はっぴいえんど「12月の雨の日」だった。加川良と吉田拓郎の「人間なんて」が聴きたくて買ったんだけどね。


だから、快晴の大晦日の午後、追悼を込めて「12月の雨の日」→「春よこい」「空とぶくじら」「恋の汽車ポッポ」→「ウララカ」「さよならアメリカ・さよならニッポン」の順番で聴こうとCDを準備していた。そしたら、高2の長男が来て「深呼吸すると右胸が痛いんだ」と言った。


僕は嫌な予感がした。実は朝から彼は右胸上背部の違和感を訴えていたのだ。「息苦しくはない」と言っていたから、その時は「大丈夫だよ」と軽く受け流した。しかし、やはりこれはマズいよな。で、慌てて聴診器を当ててみた。ちょっとだけ右肺の呼吸音が弱いような気もするが、自信がない。仕方ないのでレントゲンの電源を入れて胸部写真を撮った。


■医者というものは、自分自身と家族や身内に関しては客観的な医学的評価ができない。いつも良い方に無理矢理解釈してしまう。そういうものだ。今回もまさにそうだった。モニター画面に映った胸部写真を見ると、まぎれもなく右自然気胸だった。あっちゃぁ〜。ぼくは慌てて紹介状を書き伊那中央病院へ電話をした。


12月31日の午後4時前だったか。新しくなった伊那中央病院の救急部待合室にぼくはいた。幸い思いのほか待合室は混雑していなかった。少し待って、息子を診察してくださった畑谷先生に呼ばれた。「いま呼吸器外科の先生が来てくれますので」。

という訳で、息子は即入院となり、病棟でトロッカー・チューブを胸腔に挿入された。

伊那中央病院の呼吸器外科の先生の迅速な対応が、ほんとありがたかった。夜になって、息子は妻が届けたおせち料理と「こやぶ」の年越し蕎麦を食ったあと、NHK紅白歌合戦の「あまちゃん最終回」と「ゆく年くる年」まで病棟のベッドの上で見たらしい。


1月2日の晩、家族で泊まる予定だった温泉旅館は当然キャンセルされた。仕方ない。お正月で、しかも宿泊2日前という直前キャンセルにも関わらず「ご子息が入院されたとお聞きしましたので、キャンセル料は20%でいいです。」電話の向こうで女将はそう言ってくれた。ほんとうに有り難かった。

そういう訳で、今ようやく大瀧詠一追悼のため、ラジカセにCDをセットして例の「ウララカ」が鳴っているという次第。

■佐野史郎さんの追悼文が泣ける。「大瀧詠一さん、ありがとうございました」

清水ミチ子さんの追悼文も泣けた。

■申し訳ないが、ぼくは内田樹先生と違って「ナイアガラー」ではない。大瀧さんはあくまでも「はっぴいえんど」の人なのだ。ただ、内田先生や平川克美さんが羨ましいのは、大瀧さんから成瀬巳喜男の映画の魅力を直接たっぷりと聴いていることだ。


いまこうして、URCやベルウッドの「ベスト盤」聴いていると、何かほんとしみじみしてしまう。いま鳴っているのは「僕のしあわせ」はちみつぱい。その次が、西岡恭蔵「プカプカ」で、最後は「生活の柄」高田渡の予定。


でも何故か、いま鳴っているのは『土手の向こうに』はちみつぱい。あ、そうだ。この曲の別ヴァージョンを持っていたんだよ。

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あっ! 間違えた。収録されてたのは『塀の上で』だった。次の曲が、奥田民生『さすらい』。こうなったら、矢野顕子の『ラーメンたべたい』奥田民生ヴァージョンでも聴こうか。


このCDは凄いぞ! いま鳴ってるのは『横顔』大貫妙子・矢野顕子。次はやっぱり『突然の贈りもの』大貫妙子かな。

■スティーヴン・キング『11/22/63(上)』302ページまで読んだ。よくできた話だ。うまいなあ、キングは。ただ、1958年にカーラジオから流れる曲が分からない(週刊文春最新号で、小林信彦氏は「みんな判る」と書いているのにね)。雰囲気だけ味わいたくて『James Taylor / COVERS』を出してきて聴いているところ。 


■伊那の TSURUYAで前に買ってあった、GABAN「手作りカレー粉セット(各種スパイス20種詰)」と、フランス al badia社製「クスクス」を、今日の午後作ってみた。混ぜたカレー粉を炒めすぎて焦がしてしまったので、何だか焦げ臭くて漢方か薬膳料理みたく苦くなってしまった。それとカレーにはクスクスよりも、やっぱりご飯の方が相性がいいことが判った。午後からずっと時間かけて台所に居たのにイマイチだったな、残念。


でもカレーは、マンゴーチャツネを入れてゆで卵の輪切りを添えたら、渋谷道玄坂百軒店『ムルギー』の「玉子入り」みたいな色と、あの不思議な懐かしい味がちょっとだけした。いつも真っ白な割烹着で、江戸っ子口調の威勢がいい短髪(永六輔みたいな髪型)のおばあちゃん。それから、僕が注文する前に「ムルギー玉子入りですね!」と勝手に決めつけて去って行く店主のあの無表情を、ふと思い出した。

2013年12月31日 (火)

『林美雄 空白の3分16秒』宮沢章夫(TBSラジオ)

12月27日(金)夜7時からTBSラジオで放送された年末特別番組『林美雄 空白の3分16秒』を、radiko で聴いた。この放送を、ずっと楽しみにしていたのだ。

出演:宮沢章夫(劇作家・演出家・作家)

1980年9月30日。数多くのアーティストを発掘し、日本のサブカルチャーの目利きとしてリスナーの信頼を集めた「林美雄のパックインミュージック」が最終回を迎えた。そのエンディングで林アナウンサーは、テーマ曲にのせて挨拶を始めたが、途中で自ら音声を絞り、そのまま3分16秒の間、テーマ曲だけが放送された。テーマ曲が終わりかけたころ、再び林アナウンサーの声が流れ、「音としては(放送に)のっていませんでしたが、いろんな事をいま言いました・・・だから、勘弁してくださいね。」の言葉で番組は締めくくられた・・・。
この3分16秒、林アナウンサーは何を語ったのか?何を伝えたかったのか?林アナウンサーが58歳の若さでこの世を去って11年。作家・宮沢章夫が関係者の証言から、林美雄という人物に迫るドキュメント。(TBSラジオ:番組解説より)

■宮沢さんが、TBSアナウンサーだった故林美雄氏の取材をしていることは半年前にツイッターで知っていたのだ。

かつて僕は、90年代以降に「80年代的なもの」を憎悪した者らに疑問を持ち、80年代を擁護したが、林美雄さんは70年代世代として「80年代的なもの」を憎悪したのではなかったか。この二つの「憎悪」は種類と性格が異なる。その差異から80年代を読む方法があるかもしれない。手がかりが。

なぜだろう。何度かここで、林美雄というTBSのアナウンサーのことを書いた。故人となったその人のことを番組にしようとTBSラジオのP氏と相談していたおり、林さんについてのルポルタージュが「小説すばる」に連載される。この奇妙な共時性。

なぜ林美雄さんについて、半年以上かけて、ひとつの謎を追いかけていたか自分でも不思議だった。昨夜、僕のトークの部分を録音しながらわかったのはラジオが好きということだ。(つづく)

【承前】中学生のころに夢中になって聴いたし、考えてみれば仕事を始めたのもラジオが最初だった。だから『林美雄 空白の3分16秒』は、ラジオが好きだという述懐であり、そして、ラジオというメデイアについてのドキュメントだ。

■で、この放送は僕の予想では「青春のノスタルジー」に浸るための装置になるはずだったのだが、とんでもなかった。番組終盤で登場する久米宏の言葉を聴いて、ぼくは「あっ!」と思った。ショックだった。

宮沢氏は「あくまでも」いま現在を見据えていたのだ。そのあたりのことは、雑誌「STUDIO VOICE」に載った、このインタビューを読むと少しは理解できるかもしれない。

 

 遊園地再生事業団「夏の終わりの妹」宮沢章夫 ロングインタビュー(4)

 遊園地再生事業団「夏の終わりの妹」宮沢章夫 ロングインタビュー(5)

■このところずっとその著作を追っかけて読んできた宮沢章夫氏は、1956年生まれで、ぼくより2つ上だ。小田嶋隆氏と同学年になるな。いま手元にある雑誌『東京人 特集:青春のラジオ深夜放送 No.294 / march 2011』(都市出版)を紐解くと、40ページに「海の向こうとアンダーグラウンド。」と題した宮沢章夫氏の文章が載っていて、宮沢氏が14歳だった頃、夢中になって聴いていた糸井五郎と林美雄のことが書かれていた。

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■ラジオ番組を聴いた直後、ぼくは堪らなくなって、連続ツイートした。もろ「ネタバレ」だった。その部分は削って、以下再録。

・長野県上伊那郡高遠町で、40年前にTBSラジオを聴くのは大変だった。でも深夜だったから、林美雄の「パックインミュージック」をラジオを必死にチューニングしながら聴いていた。メチャクチャ影響を受けた。一度だけハガキも読んでもらった。みどりブタ大明神のお札を貰ったお陰で大学に合格できた。

・続き)1970年代のサブカルを代表するアイコン「林美雄」が、1980年の秋にラジオの深夜放送を辞めたことの本当の意味とは? 1980年代のサブカルをずっと探究してきた宮沢章夫が迫る。これは予想以上に聞き応えがあった。ずしんと僕の胸に突き刺さった。そうか、●●していたのか。林さんは。

・続き)それにしても、ずっと以前に書いたのだが、http://www.clio.ne.jp/home/kita/0303.html … 当時リアルタイムで「林美雄のパック」を聴いていた人間が、いったい何人ツイッター上に残っているのか? なんだ、『小説すばる』で連載している柳澤健氏は、林美雄のファンでもなんでもなかったのか……。

・続き)あれから40年が経って、今やネット経由の「Radiko」から、雑音の全く入らない電波状況も心配する必要のないTBSラジオを僕は聴いている。あの懐かしい林美雄パックのオープニング・テーマ、ブッカー・T の『 タイム・イズ・タイト』お終いの『フォローミー』『青春の蹉跌のテーマ』

・続き)当時はぜんぜん気づかなかった林美雄アナの●●が、33年も経ってからタイムカプセルが開封されたみたいに突如明らかにされたことが、ぼくはラジオを聴いていてものすごくショックだった。55歳になった僕は、フォロー・ミーのテーマを聴きながらただただ泣いた。

・続き)その「林美雄パック最終回」を、僕はリアルタイムで聴いた覚えがない。つまりは、1970年代にあれほど影響を受けていた林美雄氏から、もう既にずいぶんと離れてしまっていたからなのだろう。1980年というと、僕は大学4年生だった。

『林美雄 空白の3分16秒』宮沢章夫(TBSラジオ) この日の実際の放送録音を早速ネットにアップしてくれた方がいた。ありがたいことだ。

TBSアナウンサー「林美雄」のことを知らない人にこそ、ぜひ聴いてみて欲しい。

 

2013年4月12日 (金)

高遠の桜

■昨日は伊那でも雪が舞った。花冷えの一日。


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■上の写真は、今週火曜日の夜(4/9)に高遠城趾公園の夜桜を撮ったもの。

寒いくらいだったが、けっこうな人出だった。

この夜は、本丸で8分咲きくらいだったが、例年にくらべ、なんかちょっと淋しい。もっと「まり」のように花が集まって「たわわ」に咲くのだが、今年は花と花との間にすき間があって、夜空が見える。

しかし、今日は天気もよいし、雪が新につもった白いアルプスもよく見えるし、一番の見ごろなんじゃないかな。

2013年3月16日 (土)

こどもはどうして「カゼ」をひくのか?

■以前、伊那市の子育て支援小冊子「ひとなる」(子どもネットいな)のために書いてボツにした文章をアップしましたが、最終的に載ったのは以下の文章です。けっこう気合いを入れて書きました。

4月から入園するこども、生まれたばかりの赤ちゃんがいるお父さん、おかあさんに読んで欲しいです。

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子供はどうして「カゼ」をひくのか?

               北原こどもクリニック 北原文徳

 

1)はじめに


 子供は本当によくカゼをひきます。しかも、冬だけでなく夏でも春でも秋でも1年中ひきます。でも、子供はカゼをひくことが仕事のようなものですから仕方ありませんね。カゼの原因になるウイルスは200種類以上もあって、イギリスの調査では、小児は1年に12回、成人でも2〜4回カゼをひくそうです。1つカゼをひく毎に免疫ができ、保育園に入園して半年〜1年も経てばずいぶんと丈夫になってきます。そうして10歳になる頃には、もうあまり病気をしなくなるのです。


 子供はカゼを吸い寄せる「歩く磁石」のようなものですから、子供が大勢いっしょに生活する場所は、カゼをはじめ様々な病原体の「るつぼ」になります。例えば、双子ちゃんは乳幼児期に頻回にカゼをひき、しかも治るのに時間がかかるし、兄弟の下の子は、お兄ちゃんが保育園からもらってきたカゼをみんなうつされてしまいます。ゼロ歳児、1歳児のうちに保育園に預ける場合には、さらにその傾向は強まります。



 また、生後2〜3ヵ月の赤ちゃんは母親の免疫があるからカゼはひかないと思っている人が多いですが大まちがい。兄姉がいればカゼをひくし、インフルエンザにだって感染します。ただ確かに軽く済むことが多い。しかし、百日咳とRSウイルス感染症(細気管支炎)は逆に重症化しやすく入院が必要となる場合があるので、お兄ちゃんが「咳のひどいカゼ」を持ち帰った時には要注意です。


 それから、水痘やおたふくかぜは1回罹ったら原則もう2度と罹りませんが、RSウイルスやインフルエンザ、ロタウイルス、ノロウイルスなど、多くの風邪ウイルスや、溶連菌は何度でも感染しますので、なかなか厄介なのです。

 

2)大切な予防接種


 子供の感染症を予防する一番よい方法は、他の子供たちから完全に隔離してしまうことです。保育園には出さず、子育て支援センターにも行かず、小児科医院は絶対に受診しない。兄弟もいなくて、子供と接するのは父母、祖父母のみ。そうすれば、まず間違いなくカゼをひかなくなる。でも、そんな「無菌室育児」は絶対に無理ですよね。第一これでは子供に免疫ができない。


 でも、病気にかからずに「免疫」を作る方法があるのです。そう、それが「予防接種」です。予防接種で防ぐことのできる病気は、保育園に通い始める前にできるだけ予防接種を済ませておくことが何よりも大切です。

特に、1歳までに発症することが多い細菌性髄膜炎を予防するヒブワクチンと肺炎球菌ワクチン(初回免疫3回+追加免疫 の4回接種)は、生後2ヵ月から接種できますので、できるだけ早くに接種を開始して下さい。


ロタウイルスワクチン(2〜3回経口接種)は任意接種で個人負担金額が高いワクチンですが、生後3.5ヵ月までに初回接種を済ます必要があるので、「赤ちゃんのワクチンデビューは生後2ヵ月」を合い言葉に、ヒブと肺炎球菌の2種、もしくはロタウイルスも合わせた3種の「同時接種」を薦めています。


 乳児期は、この他に四種混合ワクチン(不活化ポリオ、ジフテリア、百日咳、破傷風/初回免疫3回)とBCG(結核予防のための生ワクチン)の接種があって、種類や回数も多く接種間隔や接種計画をどう進めていったらよいのか混乱してしまいますので、訪問指導や健診の時に保健師さんに相談したり、最初にワクチン接種を受けた医師にスケジュールを決めてもらうとよいです。


平成254月からは、今まで生後6ヵ月未満だったBCGの接種期間が1歳未満(接種の推奨時期は生後5カ月以上8カ月未満)に延長されたので、ずいぶん予定は組みやすくなりました。また、スマホのアプリに「予防接種スケジューラー」という大変便利なスグレモノツールも登場しました。


 1歳のお誕生日を過ぎたらすぐに、MRワクチン(麻疹風疹混合ワクチン)を受けましょう。こちらは肺炎球菌の追加接種(4回目)と同時接種が可能です。未満児で保育園に出す場合には、任意(費用は個人負担)ですが水痘とおたふくかぜ、それにインフルエンザのワクチンを受けておくことをお薦めします。


 3歳から接種(計4回)される日本脳炎ワクチンは、最近、接種直後の死亡例の報道があり不安に思われた方も多いと思いますが、たいへん特殊なケースで、ワクチンとの直接な因果関係はなかった模様ですのでご安心ください。



3)感染経路から見た子供の感染症


 次に大切なことは、保育園などで流行する子供の感染症の「感染様式」の違いを理解することです。以下の表をご覧下さい。


 
 

●空気感染:空気を介して鼻、のど、肺からうつる

→ 麻疹、水痘、結核

 
 

飛沫感染:くしゃみ、咳で飛んだ「飛沫」を吸い込んでうつる

 

 

→ インフルエンザ、マイコプラズマ肺炎、百日咳、SARS、

 

     RSウイルス、アデノウイルス、おたふくかぜ、風疹、

 

     手足口病、伝染性紅斑(りんご病)、ヘルパンギーナ

 
 

接触感染(直接):肌が直接触れることで感染する

 

 

→ とびひ(伝染性膿痂疹)、みずいぼ(伝染性軟属腫)、

 

      帯状疱疹、口唇ヘルペス、咽頭結膜熱とウイルス性結膜炎

 

     (目から感染)、あたまじらみ、白癬(水虫、たむし)

 

   
 

接触感染(間接):ウイルスや細菌が付着したものを触れた手を「鼻」に持っていってうつるもの。

 

 

 

 

→ ライノウイルス(鼻かぜ)、パラインフルエンザ、

     RSウイルス、インフルエンザ、溶連菌感染症

 
 

接触感染(間接):ウイルスや細菌が付着したものを触れた手を「口」に持っ

 

  ていって、経口的に「消化管」に感染する(糞口感染

 

 

 

→ ロタウイルス、ノロウイルス、カンピロバクター、サル

 

     モネラ、病原性大腸菌、A型肝炎、E型肝炎、赤痢、蟯虫

 

     腸炎ビブリオ、腸管アデノウイルス、エンテロウイルス、

 

     コクサッキーウイルス など

 

 


注目して頂きたいポイント(その1):「空気感染」と「飛沫感染」とでは意味が異なります。


 くしゃみや咳に含まれる「飛沫」は水分が多く重いので、感染者から半径2m以上先には飛び散りません。これに対して空気感染の場合は、水分が蒸発し軽くて小さな「飛沫核」で感染するので、室内の空気中に長時間漂いながら感染のチャンスをうかがいます。麻疹と水痘の伝染力が他の感染症と比べてずば抜けて強力なのは、このような理由によるのです。

 

ポイント(その2):カゼの伝染は、飛沫感染よりも案外「手を介した接触感染」の方が重要な感染経路だったりします。


  同じウイルスでも複数の感染経路を持つものがあります。インフルエンザは主に飛沫感染で伝染しますが、例えば患者が右手を口に当てて咳をした後にその右手出ドアノブに触れるとインフルエンザウイルスがドアノブに付着しその場で8時間近く生き続けます。その館に別の人がドアノブを握って、その手で鼻をこすると、それでも感染が成立するのです。


こうした接触感染で主に伝染する代表的なカゼが、いわゆる「鼻かぜ」の原因であるライノウイルスで、すべてのカゼの原因の40%近くを占めています。人間は無意識のうちに何度も手で鼻や目をこすります。

カリフォルニア大学バークレー校の学生を被験者にした観察によると、学生たちは1時間に平均16回も眼や鼻、唇を手で触り、そのうち5回は鼻孔に指を入れたそうです。こうして患者の鼻水中のライノウイルスが手に付着し、その手が触った様々な物(エレベーターの昇降ボタン、ドアノブ、照明スイッチ、テレビリモコン)にウイルスは付着することになります。

そして、ライノウイルスはその物体の表面で18時間は生き長らえ、他の人が触った手に移動して、さらにその手が鼻や眼に触れた時に体内に侵入するのです(ライノウイルスやアデノウイルスは、眼からも感染します)。つまり、鼻水がカゼをうつす主犯格なら、手(ウイルスがついた指先)は共犯者という訳です。

 

ポイント(その3):ノロウイルス、ロタウイルスの生命力、感染力は驚異的!


 これらの風邪ウイルスが増殖できるのは、ヒトの細胞内のみで、人間の体外では増えることができず、やがて死に絶えます。体外で生きていられるのは、インフルエンザウイルスが数時間〜半日、ライノウイルスで2〜3日といったところでしょうか。

 ところが、ノロウイルスは2週間から1ヵ月近くも体外で生き長らえることができます。また、 ノロウイルス、ロタウイルスの伝染力は驚異的です。下痢便1g中には約110億個、吐物1g中には10万〜100万個のウイルス粒子が含まれ、このうちの「たった10100個」のウイルス粒子が人間の口に入っただけで感染が成立すると言われています。


しかも、このウイルスは飛沫核となって空気感染する可能性もあるのです。さらには、遺伝子の異なるサブタイプが多数存在するために、人によっては毎年感染を繰り返す人もいます。まさに、最強のウイルスですよね。唯一救いなのは、症状が軽く短期間で治まり、重篤な合併症が少ないことです。


 ノロウイルスに汚染された吐物や糞便で汚れた、フローリング、カーペット、衣類、寝具の消毒は、加熱が可能であれば、85℃で1分間熱湯に浸すか、スチームアイロンで熱します。加熱できない場合は、塩素系漂白剤(ハイター)を、500mlのペットボトルのキャップ2杯入れ、水を加えて500mlにした溶液で拭きます。汚染された衣類や容器の浸け置きには、500mlにキャップ1杯の溶液を作って下さい。ただし、漂白剤で色落ちすることがあります。

 

4)カゼをひかないようにするには?

 

こうして見てくると、風邪ウイルスは「汚染された物」に触れた手から接触

感染するケースが一番多いことが分かります。すなわち、「顔を触らない」(汚染された手を鼻や眼に持っていかない)ことと、「正しい手洗い」をその都度実践することに尽きます。たぶん手洗いは「うがい」よりもずっと予防効果が高い。

基本は、石鹸を泡立てて「手のひら→手背→指の間→爪と指先→親指→手首」

の順番で洗い、水道の流水でよく流します。ネットで花王「ビオレU」のサイトを見に行くと、「あわあわ手洗いの歌」の歌詞と動画が載っています。これスグレモノです。子供といっしょに歌いながら楽しく手洗いして下さい。

 速乾式アルコール消毒は便利ですが、過信は禁物。ノロウイルスやロタウイ

ルスは、アルコール消毒では不十分といわれています。また、抗菌石鹸は細菌には有効ですがウイルスには効果がありません。


 ただ、その度に手洗いすることは子供には無理があります。そこで、右利きの子供は、眼や鼻を左手で触るよう訓練するといいと提案する学者もいます。また、咳やくしゃみをする時は、顔を自分の服の袖に当ててするか、ティッシュの中にするようにしましょう。


 それから、鼻水は正しく上手にかみましょう。鼻をズルズルすすったり、両方の鼻を一度に力まかせにかむと、中耳炎や副鼻腔炎、気管支炎になってしまうので注意して下さい。ポイントは、1)片方ずつかむ 2)口から息を吸ってから鼻をかむ 3)ゆっくり少しずつかむ 4)強くかみすぎないことです。お風呂で暖まって湯気を吸うと、鼻水が出やすくなります。

 赤ちゃんも「鼻水吸い器」を使って小まめに吸ってあげて下さい。コツは、先端を鼻の上の方向に向けるのではなくて、真下に(顔の表面に対して垂直に)向けると吸いやすいです。また、母乳を1〜2滴片方の鼻の穴に垂らしてから吸うと上手く吸えることがあります。

 

5)おわりに

 

 残念ながら、カゼを予防する方法はありません。あまり神経質にはなりすぎず、上手に風邪ウイルスと付き合っていくしか仕方ありませんね。 

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