日常 Feed

2017年9月18日 (月)

宮沢章夫さんの月曜日、NHKラジオ第一『すっぴん』

■今日の9月18日(月)は「敬老の日」で休日編成のはずなのに、なぜか NHKラジオは平常の番組編成だったのでビックリした。

NHKラジオ第一『すっぴん!』月曜日のパーソナリティーといえば、宮沢章夫さんだ。前にもブログやツイッターで告白しているから、知っている人には「いまさら」なんだが、ぼくは、ここ15年来の宮沢さんのファンだ。

その「はじまり」に関しても先日ツイートした。とあるお母さんに薦められたのだ「先生は、たぶん絶対に宮沢章夫のエッセイが気に入るはずデス!」と。誰? ミヤザワって、知らねーよ。申し訳ないが、正直言うと、その時はそう思ったんだ。

だから、そのおかあさん(確か Mさん)のオススメを無視して数年を過ごしてしまった。でも、脳味噌の片隅に「ミヤザワ」が残っていたのかな。ある日、伊那の「ブックオフ」の100円コーナーで、『牛への道』宮沢章夫(新潮文庫)を見つけたんだ。で、読んでみたら「ど真ん中ストライク!」面白すぎる! Mさん、教えてくれて本当にありがとうございました。

Img_0735

『牛への道』では、まえがきの「自動販売機」のはなしと「崖下のイラク人」の話が何と言っても忘れられない。忘れられないはずなのに、その度に「崖下のイラク人」に関して、その内容をまったく憶えていないことに驚き、慌てて読み返しては「あぁそうだった!あはは」と確認しては、また忘れてる

続き)それ以来、宮沢さんの著書は新刊・古書取り混ぜてほとんど入手してきた。で、最新刊の『笛を吹く人がいる:素晴らしきテクの世界』(ちくま文庫)だ。まず読んだのが「文庫版あとがき」。あはは!久々に大笑い。脱力しきった無意味な真剣さ。これぞ宮沢さんの真骨頂に違いない。

■先週の月曜日の「すっぴん!」には、ハンバートハンバートがゲストで生出演するというので、ラジオの前にボイス・レコーダーを置いて4時間ナマ録したのだが、後から聴いてみると、掃除機の轟音や、集金の銀行の人に吠えまくる犬の声で聞き取れない部分もあちこちあったのだけれど、幸いハンバートハンバートが登場した時間帯は雑音はなかった。面白かったなぁ。

・遊穂さんは、なんと『すっぴん!』放送当初からの常連リスナーで、何度か投稿したこともあるとのこと。でも、今まで一度も読まれたことはないんだって。

・今回も遊穂さんから「ぜひ出たい!」と猛烈なプッシュがあり出演が決まったのだが、急な国会中継のために中止となり、8月は『すっぴん!』自体が夏休みで放送がなかったために、結局出演が9月12日(月)となったのでした。

友部正人の還暦お祝いコンサートを、なんと宮沢章夫さんは聴きに行っていて、その時はじめて宮沢さんはハンバートハンバートを聴いている。しかも、彼らがその時歌ったのが『開いてるドアから失礼しますよ』だったのだ。

・で、5月5日のラジオでは謎のまま終わってしまったこと。というのは、「開いてるドアから失礼しますよ」という歌は、その部屋から主人公はいま「出て行こう」としているのか、それとも「入ろう」としているのか? 宮沢さんは疑問に思ったワケだが、何と! 友部正人さんからメールがあって「その答」を教えてくれたのだと。で、どっちだったのか?

・9月11日(月)の放送の中で宮沢さんは、さらりと言った。「どっちでもいいんだって。」

なんだ、せっかく期待したのに、なんか、つまらない答えだったな。

■ただこの日、8時半からの「宮沢章夫の文化のひととき」のコーナーで、NHK朝ドラ『ひよっこ』を取り上げていて、宮沢さんの「豊子(藤野涼子)押し」がめちゃくちゃ可笑しかった。

2017年6月26日 (月)

友部正人ライヴ at 叶屋(南箕輪村)

■昨日は、南箕輪村の老舗酒屋さん『叶屋』で行われた「友部正人ライヴ」に出かけてきた。毎年、この時期に開催されていて、今回で10回目なんだそうだ。ぼくは3年前からの参加で 3回目。会場には40人以上の人たちが集まった。去年も一昨年も見かけた「常連さん」が多い。

■酒店内に作られた特設ステージに、なんと!「サングラス」をかけた友部さんが登場した。驚いたな。

ボブ・ディランにそっくりじゃないか! 鼻が二人とも「鷲鼻」だから、ほんとよく似てる。おもむろに歌い出した曲は何だったか? う〜ん、忘れてしまった。『6月の雨の夜、チルチル ミチルは』だったっけ。いや、違うな。でも、久々に聴いた「この曲」の歌詞が、グサリと僕の胸に突き刺さった。

もう会えないと思うからと

ぼくに1曲うたわせる

それほどよくはうたえなかったのに

最高最高とチルチルは言う

もし死にに行く人になら

いい思い出だけにはなりたくない

そう思いながらも手を振って 黒い車を見送った

知らないことでまんまるなのに

知ると欠けてしまうものがある

その欠けたままのぼくの姿で

雨の報道にいつまでも立っていた

6月の雨の夜、チルチル ミチルは

からの鳥かご下げて死の国へ旅立った

ゆうべのままのこのぼくが

朝日をあびてまだ起きている

■2曲目は『マオリの女』だった。去年も聴いたが、この曲はほんと沁みるなあ。名曲だ。

タヒチへ渡ったゴーギャンが、現地でめとった幼妻のことを歌っている。フランス人のゴーギャンが、骨を埋めるつもりて訪れたタヒチには、結局2年間くらいしか住まなかった。そして帰国後は2度とタヒチへは帰らなかったのだ。幼妻は島に置き去りにされた。あんなにも一生懸命愛した外国人の夫に、いとも簡単に捨てられたのだ。

■ネットで調べたら「叶屋」店主の倉田さんは 1959年7月生まれだそうだ。なんだ僕より1学年若いのか。2〜3歳年上かと思っていたよ。友部さんが初めて「叶屋」を訪れた10年前には、まだ高校生だった倉田さんの娘さん。この日は赤ちゃんを抱っこして会場で笑顔をふりまいていた。

■『6月の雨の夜、チルチル ミチルは』は、理由は分からないけれど生き続けることが出来なくなってしまった哀しい夫婦(子供2人あり)の歌だった。そう言えば『マオリの女』も夫婦の歌だ。友部さんは、冷めきった夫婦の歌をもう一曲歌った。タイトルも知らない曲だ。ぼくは今回、遠慮しいしい初めて妻をさそって珍しく彼女が「行ってもいいよ」って言ったから二人で来たのに、それはないんじゃないか(^^;;

そしたら友部さん。『バレンタインデイ』という、いい感じで年をとった仲むつまじい夫婦の歌も唄ってくれた。でも、ちょっと取って付けたみたいだったな。「叶屋」夫婦に捧げる歌だったのかな。

友部さんの奥さんは「ユミさん」だ。もう、ずっと昔からそうだ。ほんと偉いな、友部さん。

■酒屋さんでのコンサートなので、開演前と「中入り」の時間帯には、無料で日本酒が振る舞われる。ただ、去年も一昨年も、一人で車を運転して行ったから、お酒は飲めなかった。でも、今回は「帰りの運転手」がいる。しかも、彼女のOKもでた! やったね。叶屋イチオシの「夜明け前」吟醸、「久保田」千寿、「緑川」を次々とお替わりして頂く。いやぁ、おいしいなぁ。(まだ続く)

2017年1月15日 (日)

ダウン症の書家、金澤翔子さんの個展(伊那市「はら美術」2Fギャラリー)に行ってきた。

■先週の月曜日(成人の日)に、伊那市郵便局の前にある画廊「はら美術」へ「金澤翔子さんの個展」を見に行ってきた。彼女の最近の書が数十点、展示販売されていた。もしも買えるなら、手元に欲しい! そう思って出かけたのだが、「夢」とか「愛」とか、これは!と思う作品はみな売約済みだった。残念。

金澤翔子さんの大作の実物を見たのは、一昨年の夏に京都を訪れた際、「風神雷神図屏風」の所有者であるところの「健仁寺」に行き、俵屋宗達の傑作:風神雷神図(レプリカ:本物は京都国立博物館所蔵)の左側に、対峙するように描かれた金澤翔子さんの「風神雷神」の屏風(こちらはホンモノ)だった。素晴らしかった。感動した。

以前から、テレビでお母さんと二人三脚で努力されてきた様子は見聞きしていたが、彼女の展覧会には行ったことがなかった。超大作の展示はなかったけれど、これだけ一度に見たのは初めてだけに、その書から発せられる「オーラ」みたいなものに圧倒された。なんなんだろう。この「気」みたいなパワー。凄いな!

2016年8月26日 (金)

永六輔さんのこと

■前回の続きを書く予定でいたのだけれど、このところ、ギターの練習が忙しくて書けない。

というワケで、しばらく前のツイッターに連投した「永六輔さん」の話題をまとめておきます。

永六輔さんといえば、奥さんとの最初の結婚記念日。まだまだ貧乏だったし、めちゃくちゃ忙しかった永さんに、奥さまは「あの東京タワーを私に頂戴」と言ったのだそうだ。その真偽を検索したら、自分のHPが出てきて驚いた。2002年12月22日の日記に書いてある。clio.ne.jp/home/kita/0301… 合掌。

ぼくが中学2年生ぐらいの頃だったか、『遠くへ行きたい』の取材で、大和田伸也さんと永六輔さん、それに『話の特集』編集長だった矢崎泰久氏が高遠町にやって来た。当時、キンキン(愛川欽也)のラジオ深夜放送を聴いてすっかりファンになった僕は、永さんに会いに行って色紙にサインしてもらった。

中坊の依頼に、嫌な顔ひとつせず永さんは筆ペンで絵入りのサインをしてくれた。「僕がね、一番に尊敬している淀川長治さんの言葉です」そう言って書いてくれたのが「私はかつて嫌いな人に会ったことがない」という言葉だった。赤マジックで印字も押してくれた。

律儀な永さんは、訪れたその土地でお世話になった人に、東京へ帰ってから(もしくは次の旅先から)必ず絵葉書を出した。高遠で蕎麦をご馳走した僕の父宛にも絵葉書が届いた。感動した僕は返事の手紙を書いた。住所が判らないので、TBSラジオ宛てとした。

当時、TBSラジオの深夜放送「パック・イン・ミュージック」火曜日の愛川欽也DJの時に、よく永六輔さんが出演していたのだ。TBSラジオでは、遠藤泰子アナウンサーと『誰かとどこかで』という番組を長年続けていた。だから、ぼくはTBS気付で永六輔さんに手紙を出したのだ。

今でもよく憶えているけれど、もえぎ色の便箋を買ってきて、冒頭「あなた様」と書こうと思って辞書を引いたら、「貴様」と載っていたので、そのまま「貴様」で書き始めて投函したら、奇蹟的に「その手紙」が永六輔さんの手に渡って、翌々週くらいの何かのラジオ番組の中で永さんが、こう言った。

「あのですね。先日、とある中学生から手紙をもらったんです。開封してみたら、巻頭いきなり『キサマは』って書いてあって、たまげてしまったんですね。世も末だなって。」忘れもしない。ぼくはそのラジオ番組を聴いていたのです。(終わり)

■40年以上前の記憶はいい加減だ。兄に訊いたら、大和田伸也が高遠に来た時と、永六輔&矢崎泰久の2人が訪れたのは別の時で、日テレ『遠くへ行きたい』収録のあと、番組ディレクターから「高遠に変な田舎医者がいるよ」と聞いて、永さんがやって来たんだそうだ。その昔、黒柳徹子の恋人だった(?)劇作家、飯沢匡の足跡を辿る旅でもあったらしい。

2016年8月15日 (月)

『閉ざした口のその向こうに』鷲田清一

■テルメで6km 走った後にフロント前のロビーで、8月14日付「日本経済新聞・日曜版」最終面に載っていた、元大阪大学総長、鷲田清一氏の『閉ざした口のその向こうに』を読んだ。さすが、しみじみ深く感じ入る文章だった。

ネット上でも、日経の無料会員に登録すれば、読むことができるが、以下、一部(というか、そのほとんどを)転載する。

 お盆前後の半日、両家の墓に参る。若い頃は墓参りは両親にまかせていたが、いまはわたしたち夫婦以外にその務めをする者がないから、空いている日を見つけ墓所を訪ねるのが、この季節の習いになっている。京都では十六日に「送り火」という、街をあげての精霊送りの行事もあるから、どこからともなく線香の匂いが漂ってくる。

 若い頃は逆だった。なぜこの日に、そしてこの日にかぎって厳粛な気持ちになるのか。そこに、大人たちのうさんくささを嗅ぎつけ、あえてその日を特別な日にしないぞと、家族の墓参りには同行しなかった。できるだけ普段どおりを装うようにしていた。これが十代の頃の、わたしなりの「大人」たちへの不同意のかたちであった。

 特別な日にあらたまって何かに思いをいたす。かわりに普段は平気でそれを忘れている。普段は弔いの思いもない者がその日だけ手を合わせる、線香を焚(た)く、そんなふうに形だけ整えるのを、偽善と感じたのだろう。「あらたまる」というのは、日々の思いがあってこその、その思いの凝集であるはずだと。(中略)

 いつの頃からか(中略)ときどきふと、思いもよらないものに目を止めるようになった。長年使ってきた艶のない食器にふと目を落としたり、通りなれた道を歩きながらふとこれを見るのも最後かもとしみじみ眺め入ったり、ふと見かけた子の行く末が気になったり、そして何より、とうにいない父や母、祖父、祖母のかつての姿を思い起こしたり。(中略)

 何年くらい前のことだろう、ある日ふと、食卓にあっても家族と目を合わせることのほとんどなかった父の姿が思い浮かんだ。細かな擦り傷だらけ、ところどころかすかに鈍い輝きを放つだけのあの食器のように。

 父とこころを割って話すことはついに最後までなかった。ずっとそう思ってきた。しかしほんとうは話していたのかもしれない。口から漏れかけた言葉にただこちらが気づかなかっただけのことかもしれない。「かたり」が「語る」であるとともに「騙(かた)る」でもあるように、記憶もまた、それと気づくことなく体の奥に刻まれていることもあれば、後からキレイな話につくり変えられていることもある。

 わたしには戦争の記憶はもちろんないが、父をめぐる記憶も終戦の数年のちから始まる。父については口下手というか口が回らないという印象がずっとあった。口数の少ない父がことさら寡黙になるのは、きまって戦地の話になるときだった。何を訊(き)いてもなしのつぶて。ちらっと「何でそんなこと訊くんや」という顔をするばかりだった。かろうじて聞き出せたのは、子どもの頃の事故で片眼の視力を失っていたので、前線の後ろ、衛生兵に配属されたということだけ。祖父が空襲の話を饒舌(じょうぜつ)にくりかえすのと対照的だった。

 同級生に訊くと、よその家でも親父というのはそんなものだったらしく、それ以上詮索することもなく月日は過ぎた。

 その沈黙を世代として受けとめなおす必要があると、このところ思いはじめている。声高の戦争語りには、子どもなりに反撥(はんぱつ)していた。が、その勢いで、言葉が滞るというかたちでの父たちの戦争の語りにも同時に耳を塞いでいたのだと思う。けれどもとさらに思う。「わたしたち」は太平洋戦争を体験していないけれども、その体験者の失語にふれた最後の世代に属する。その人たちが断ち切ろうにも断ち切れなかったもの、少なくともその残照には「わたしたち」はふれていたはずなのだ。皮膚に細かいひっかき傷として残っているそれらを語りつぐ務めがわたしたちにはあるのではないか。

□ □ □

 父は死ぬまで仏壇だけは疎(おろそ)かにしなかった。生まれてすぐに母を亡くし、それからずっと親戚の寺で預かってもらっていたというから(この話も父ではなく親戚筋から聞いた)、理由はそこにあるかもしれないが、そのときだけは戦地で逝った戦友のことを密(ひそ)かに思っていたのかもしれない。あるいは、消えるような声でたどたどしくしかお経を読めなかったのも、たとえお経であっても、走る言葉は信用しないということがあったのかもしれない。いずれもすべて霧の向こうにある。

 父(たち)は何を拒んでいたのか。何を断念したのか。何がまだ済んでいなかったのか。

 足腰が弱くなって、ついでに「じぶん」というものまで痩せ細ってきて、何を見ていてもその光景に思いもかけずこの問いが重なることが増えた。父の代から引き継いだ盆の墓参りの道すがら、服にしみつく線香の匂いも昔とはかすかに違ってきている。

『閉ざした口のその向こうに』鷲田清一(8月14日付「日本経済新聞・日曜版」最終面より)

■「『わたしたちは太平洋戦争を体験していないけれども、その体験者の失語にふれた最後の世代に属する。」という言葉が重要だ。『わたしたち』とは、どこまでの世代が含まれるのか?

鷲田先生は、1949年生まれだ。以前ブログに書いた「同じ年生まれの人が気になるのだ」で調べてみると、村上春樹が同じ 1949年の早生まれだ。ちなみに、後で触れる予定の、辺見庸氏は 1944年生まれだった。

■ぼくの父は、大正8年の生まれで、昭和19年、慈恵医大を卒業し陸軍軍医学校に行った。戦地へ派遣されることはなかったが、3月10日の東京大空襲の惨劇を、軍医として目の当たりにしたという。

昭和20年10月。氷川丸に乗ってラバウルへ患者さんたちを引き取りに行くべく横浜港で待機中に、故郷の高遠町で外科医院を開業していた祖父危篤の電報を受け帰郷。翌年、亡くなった祖父の跡を継ぎ、父は27歳で内科医院を開業した。本当は、大学に戻って尊敬する教授がいた産婦人科学教室に入局する希望だったのだが、叶わなかった。

ぼくの長兄も、1949年(昭和24年)の早生まれだ。だから、鷲田先生や村上春樹氏の父親も、ぼくの父と同世代に違いない。

■村上春樹氏の父親も、中国大陸に従軍している。しかも、モンゴル・ソ連国境に接する「ノモンハン」だった。村上氏は、エルサレム賞受賞のあいさつ「壁と卵」の中で、彼の父親に触れている。以下抜粋。

 私の父は昨年の夏に90歳で亡くなりました。彼は引退した教師であり、パートタイムの仏教の僧侶でもありました。大学院在学中に徴兵され、中国大陸の戦闘に参加しました。私が子供の頃、彼は毎朝、朝食をとるまえに、仏壇に向かって長く深い祈りを捧げておりました。

一度父に訊いたことがあります。何のために祈っているのかと。「戦地で死んでいった人々のためだ」と彼は答えました。味方と敵の区別なく、そこで命を落とした人々のために祈っているのだと。父が祈っている姿を後ろから見ていると、そこには常に死の影が漂っているように、私には感じられました。

 父は亡くなり、その記憶も ---- それがどんな記憶であったのか私にはわからないままに ---- 消えてしまいました。しかしそこにあった死の気配は、まだ私の記憶の中に残っています。それは私が父から引き継いだ数少ない、しかし大事なものごとのひとつです。

2016年1月25日 (月)

ハチドリの物語『私にできること』

■2016年1月13日(水)の信濃毎日新聞夕刊のコラム『今日の視角』。担当は落合恵子さん。ネットでは読めないので、一部転載させていただきます。

------------------------------------------------------------------------

          「ハチドリ」

 年下の友人が亡くなった。自転車にぶつけられて、その痛みがなかなかとれないと言っていたのだが、痛みの原因はほかにあったのだ。(中略)

少女の面影が残る彼女だが、口癖は「ハチドリは踏ん張るからね」。

 「ハチドリのひとしずく」の話はご存知と思う。

 森が燃えさかっていた。森の生き物たちは必死で逃げていく。自然の逃走本能が彼らを急がせる。

 しかし、クリキンディという名前の小さなハチドリだけは逃げることはなかった。クチバシに水を含んでは往復して、燃えさかる炎の上に落とすのだ。そんなことをしてもどうにもならない、と逃げることを促すほかの動物たちに、ハチドリは答える。「自分にできることをしているだけ」。彼女はこの話が好きで、自分をハチドリにたとえもした。鳥類の中でも身体が最も小さなグループであるハチドリである。

 さまざまな未決の問題が、わたしたちの目の前に山積みになっている2016年。新しい年、といった晴れやかな気分にはなれずにすでに1月は半分近くたってしまった。それでも、と彼女のきれいな遺影に手を合わせながら誓う。

 時に忍び寄る「わたしひとりがやったところで」という意識。それに自分を明け渡すことは、わたしたち自身の生存権、「自分が紛れもなく自分自身であること」を諦めることでもあるのだ、と。

-----------------------------------------------------------------------

■この「ハチドリの物語」を、恥ずかしながらぼくは知らなかった。検索してみたら、『私にできること 地球の冷やしかた』(ゆっくり堂)が見つかった。この本のことを、落合恵子さんは 2005年6月1日の信毎夕刊『今日の視角』で取り上げていたのだ。

この小冊子自体を手にしてないので分からないのだが、本が出版された本来の意味は「地球温暖化防止」だったようだ。

■TBSテレビで、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』をドラマ化し、現在放送中だ。この小説は読んだ。ずしりと心に残った。調べてみたら( 2006/11/15,  11/23,  11/25 )に感想が書いてある。おぉ、ここにも落合恵子さんの「今日の視角」の話が。

この小説では、自分の意志とは関係なく、あらかじめ決められた運命を静かにただ受け入れる若者たちの諦観が描かれている。もちろん、わずかな望みに全てを託す努力はする。それがまた、あまりにも切ない。

■先だってのSMAP独立・解散騒動を見ていて、なんともやるせない気分になってしまったのだけれど、この『わたしを離さないで』や、先日観てきたお芝居『消失』のこと、それに菊地成孔氏が『時事ネタ嫌い』の「あとがき」で言っていた「炭鉱のカナリア」の話が妙にシンクロして、このところずっと暗く落ち込んでいたのだ。そうは言っても、「炭鉱のカナリア」でもあることも大切だが、ぼくも「ハチドリ」になりたい。そう思い直して、明日からまた、諦めずに生きて行こうと思いを新にするのだった。

2015年6月21日 (日)

「高遠エフェクト」展 at the 信州高遠美術館

■なかなか時間が取れなくて、今日になってようやく行ってきました。信州高遠美術館。

5月28日〜7月12日(日)まで、次世代を担うピチピチの若手アーティスト7人が集結した「高遠エフェクト」展が開催されているのだ。田舎の公設美術館としては、かなりの実験的冒険企画だと思うのだが、実力のある若手美術家に美術館の展示スペースを「すべて」与えて、自由に跳びはねてもらおうって、いやぁ、なかなかできないよ。ほんと。すごいな。

それに、若手ならではのフットワークの軽さからか、参加アーティストが講師を務めるワークショップが6つも企画されている。

僕らが美術館を訪れた日曜日の午後にも「美術展づくりをロールプレイ! 〜自分だったらこんな美術展を作ってみたいな!」というWSが開催されていた。講師は、ムカイヤマ達也さん。見た感じ、まだ20代だよな。

第一展示室に入ると、まずは左の壁一面に、約10m近くにわたって「藤沢まゆ」さんの染色画が、左から右へと「物語」を奏でる巨大な壁画のような圧倒的な迫力と繊細な美しさで、見る者を別世界へとトリップさせてくれる。これは本当にすばらしい!

面白いのは、オブジェが「平面」ではなくて「立体的」に展示されていることだ。

つまり、染色された布の裏に型紙を貼り付け、ハサミで型を切り取って、蝶々や魚、蛾やキノコたちを「奥ゆき」があるかの如く少し前後に重ねて配置することで、作品の「3D的」楽しさが新たに加わっているのだった。

Img_0339

(写真をクリックすると、もう少し大きくなります)

Img_0338

藤沢まゆさんのことは、ちょうど5年前の2010年6月20日に、信州高遠美術館で個展を開いた時のことを「ここ」に書いた。

現在、「新宿ルミネ1」のエレベーター各階の扉と内装の絵として、彼女の作品を見ることができるのだそうだ。(6月いっぱいまで。8月からは、横浜ルミネのエレベータで展示されます。)

第二展示室に入るといきなり、正面ショーケース内の「オオカミの着ぐるみ」の展示で、度肝を抜かれる。さらに左手に目を向けると、上伊那郡中川村に住み、農業を営みながら地元農民と山の木々を対比した絵を書いている「北島遊」さんが描く「超ど迫力の農村画」(なんと、全ての絵のタイトルが同じ「生きる」なのだ)が目を引く。

ちょっと見、「原田泰治」風の「ほのぼの田舎絵」なのだが、ところがどっこい、裏山の森の杉の木は、ゴッホが好んで描いた南仏糸杉の「ぐるぐる渦巻」みたいになっていて、おどろおどろしい得体の知れない力を秘めた自然の驚異と、人間が根本的に持つ情念と不安と恐怖のイメージをダイレクトに醸し出しているし、絵の最前面に小さく配置された人物像だって、原田泰治と言うよりは、どう見ても「いがらしみきお」の漫画に登場する一癖も二癖もある人物のような感じだ。

そう、「いがらしみきお」だよ。「I・アイ」とか「かむろば村へ」とかね。

これは是非、本物を見るべきです。オススメです!

7月12日(日)までだから、あと3週間やってます。

2015年2月19日 (木)

ケメックスのコーヒーメーカーを買ったのだ

Img_2658

・昨年末に GLASS ONION で、ケメックスのコーヒーメーカー6カップ用(ガラス製の化学実験器具みたいなヤツ)を買ってから毎朝ドリップコーヒーを入れて飲むようになった。

コーヒー豆は、毎週「カフェ・コーデ」で碾いてもらって200g買う。今飲んでるのは、グァテマラ・ラ・タシータ農園の豆。美味いんだこれ。あと、ボリビア・コパカバーナ農園の豆もね。

Img_2660

2014年1月 3日 (金)

12月31日の出来事(大瀧詠一氏を偲んで)

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

さて、

【昨日から今日にかけての、ぼくのツイートのまとめ(一部改変あり)】

■ぼくが初めて大瀧詠一さんの歌を聴いたレコードは『中津川フォークジャンボリー'71』(ビクター)のB面ラストに収録されていた、はっぴいえんど「12月の雨の日」だった。加川良と吉田拓郎の「人間なんて」が聴きたくて買ったんだけどね。


だから、快晴の大晦日の午後、追悼を込めて「12月の雨の日」→「春よこい」「空とぶくじら」「恋の汽車ポッポ」→「ウララカ」「さよならアメリカ・さよならニッポン」の順番で聴こうとCDを準備していた。そしたら、高2の長男が来て「深呼吸すると右胸が痛いんだ」と言った。


僕は嫌な予感がした。実は朝から彼は右胸上背部の違和感を訴えていたのだ。「息苦しくはない」と言っていたから、その時は「大丈夫だよ」と軽く受け流した。しかし、やはりこれはマズいよな。で、慌てて聴診器を当ててみた。ちょっとだけ右肺の呼吸音が弱いような気もするが、自信がない。仕方ないのでレントゲンの電源を入れて胸部写真を撮った。


■医者というものは、自分自身と家族や身内に関しては客観的な医学的評価ができない。いつも良い方に無理矢理解釈してしまう。そういうものだ。今回もまさにそうだった。モニター画面に映った胸部写真を見ると、まぎれもなく右自然気胸だった。あっちゃぁ〜。ぼくは慌てて紹介状を書き伊那中央病院へ電話をした。


12月31日の午後4時前だったか。新しくなった伊那中央病院の救急部待合室にぼくはいた。幸い思いのほか待合室は混雑していなかった。少し待って、息子を診察してくださった畑谷先生に呼ばれた。「いま呼吸器外科の先生が来てくれますので」。

という訳で、息子は即入院となり、病棟でトロッカー・チューブを胸腔に挿入された。

伊那中央病院の呼吸器外科の先生の迅速な対応が、ほんとありがたかった。夜になって、息子は妻が届けたおせち料理と「こやぶ」の年越し蕎麦を食ったあと、NHK紅白歌合戦の「あまちゃん最終回」と「ゆく年くる年」まで病棟のベッドの上で見たらしい。


1月2日の晩、家族で泊まる予定だった温泉旅館は当然キャンセルされた。仕方ない。お正月で、しかも宿泊2日前という直前キャンセルにも関わらず「ご子息が入院されたとお聞きしましたので、キャンセル料は20%でいいです。」電話の向こうで女将はそう言ってくれた。ほんとうに有り難かった。

そういう訳で、今ようやく大瀧詠一追悼のため、ラジカセにCDをセットして例の「ウララカ」が鳴っているという次第。

■佐野史郎さんの追悼文が泣ける。「大瀧詠一さん、ありがとうございました」

清水ミチ子さんの追悼文も泣けた。

■申し訳ないが、ぼくは内田樹先生と違って「ナイアガラー」ではない。大瀧さんはあくまでも「はっぴいえんど」の人なのだ。ただ、内田先生や平川克美さんが羨ましいのは、大瀧さんから成瀬巳喜男の映画の魅力を直接たっぷりと聴いていることだ。


いまこうして、URCやベルウッドの「ベスト盤」聴いていると、何かほんとしみじみしてしまう。いま鳴っているのは「僕のしあわせ」はちみつぱい。その次が、西岡恭蔵「プカプカ」で、最後は「生活の柄」高田渡の予定。


でも何故か、いま鳴っているのは『土手の向こうに』はちみつぱい。あ、そうだ。この曲の別ヴァージョンを持っていたんだよ。

201413


あっ! 間違えた。収録されてたのは『塀の上で』だった。次の曲が、奥田民生『さすらい』。こうなったら、矢野顕子の『ラーメンたべたい』奥田民生ヴァージョンでも聴こうか。


このCDは凄いぞ! いま鳴ってるのは『横顔』大貫妙子・矢野顕子。次はやっぱり『突然の贈りもの』大貫妙子かな。

■スティーヴン・キング『11/22/63(上)』302ページまで読んだ。よくできた話だ。うまいなあ、キングは。ただ、1958年にカーラジオから流れる曲が分からない(週刊文春最新号で、小林信彦氏は「みんな判る」と書いているのにね)。雰囲気だけ味わいたくて『James Taylor / COVERS』を出してきて聴いているところ。 


■伊那の TSURUYAで前に買ってあった、GABAN「手作りカレー粉セット(各種スパイス20種詰)」と、フランス al badia社製「クスクス」を、今日の午後作ってみた。混ぜたカレー粉を炒めすぎて焦がしてしまったので、何だか焦げ臭くて漢方か薬膳料理みたく苦くなってしまった。それとカレーにはクスクスよりも、やっぱりご飯の方が相性がいいことが判った。午後からずっと時間かけて台所に居たのにイマイチだったな、残念。


でもカレーは、マンゴーチャツネを入れてゆで卵の輪切りを添えたら、渋谷道玄坂百軒店『ムルギー』の「玉子入り」みたいな色と、あの不思議な懐かしい味がちょっとだけした。いつも真っ白な割烹着で、江戸っ子口調の威勢がいい短髪(永六輔みたいな髪型)のおばあちゃん。それから、僕が注文する前に「ムルギー玉子入りですね!」と勝手に決めつけて去って行く店主のあの無表情を、ふと思い出した。

2013年12月31日 (火)

『林美雄 空白の3分16秒』宮沢章夫(TBSラジオ)

12月27日(金)夜7時からTBSラジオで放送された年末特別番組『林美雄 空白の3分16秒』を、radiko で聴いた。この放送を、ずっと楽しみにしていたのだ。

出演:宮沢章夫(劇作家・演出家・作家)

1980年9月30日。数多くのアーティストを発掘し、日本のサブカルチャーの目利きとしてリスナーの信頼を集めた「林美雄のパックインミュージック」が最終回を迎えた。そのエンディングで林アナウンサーは、テーマ曲にのせて挨拶を始めたが、途中で自ら音声を絞り、そのまま3分16秒の間、テーマ曲だけが放送された。テーマ曲が終わりかけたころ、再び林アナウンサーの声が流れ、「音としては(放送に)のっていませんでしたが、いろんな事をいま言いました・・・だから、勘弁してくださいね。」の言葉で番組は締めくくられた・・・。
この3分16秒、林アナウンサーは何を語ったのか?何を伝えたかったのか?林アナウンサーが58歳の若さでこの世を去って11年。作家・宮沢章夫が関係者の証言から、林美雄という人物に迫るドキュメント。(TBSラジオ:番組解説より)

■宮沢さんが、TBSアナウンサーだった故林美雄氏の取材をしていることは半年前にツイッターで知っていたのだ。

かつて僕は、90年代以降に「80年代的なもの」を憎悪した者らに疑問を持ち、80年代を擁護したが、林美雄さんは70年代世代として「80年代的なもの」を憎悪したのではなかったか。この二つの「憎悪」は種類と性格が異なる。その差異から80年代を読む方法があるかもしれない。手がかりが。

なぜだろう。何度かここで、林美雄というTBSのアナウンサーのことを書いた。故人となったその人のことを番組にしようとTBSラジオのP氏と相談していたおり、林さんについてのルポルタージュが「小説すばる」に連載される。この奇妙な共時性。

なぜ林美雄さんについて、半年以上かけて、ひとつの謎を追いかけていたか自分でも不思議だった。昨夜、僕のトークの部分を録音しながらわかったのはラジオが好きということだ。(つづく)

【承前】中学生のころに夢中になって聴いたし、考えてみれば仕事を始めたのもラジオが最初だった。だから『林美雄 空白の3分16秒』は、ラジオが好きだという述懐であり、そして、ラジオというメデイアについてのドキュメントだ。

■で、この放送は僕の予想では「青春のノスタルジー」に浸るための装置になるはずだったのだが、とんでもなかった。番組終盤で登場する久米宏の言葉を聴いて、ぼくは「あっ!」と思った。ショックだった。

宮沢氏は「あくまでも」いま現在を見据えていたのだ。そのあたりのことは、雑誌「STUDIO VOICE」に載った、このインタビューを読むと少しは理解できるかもしれない。

 

 遊園地再生事業団「夏の終わりの妹」宮沢章夫 ロングインタビュー(4)

 遊園地再生事業団「夏の終わりの妹」宮沢章夫 ロングインタビュー(5)

■このところずっとその著作を追っかけて読んできた宮沢章夫氏は、1956年生まれで、ぼくより2つ上だ。小田嶋隆氏と同学年になるな。いま手元にある雑誌『東京人 特集:青春のラジオ深夜放送 No.294 / march 2011』(都市出版)を紐解くと、40ページに「海の向こうとアンダーグラウンド。」と題した宮沢章夫氏の文章が載っていて、宮沢氏が14歳だった頃、夢中になって聴いていた糸井五郎と林美雄のことが書かれていた。

Photo


■ラジオ番組を聴いた直後、ぼくは堪らなくなって、連続ツイートした。もろ「ネタバレ」だった。その部分は削って、以下再録。

・長野県上伊那郡高遠町で、40年前にTBSラジオを聴くのは大変だった。でも深夜だったから、林美雄の「パックインミュージック」をラジオを必死にチューニングしながら聴いていた。メチャクチャ影響を受けた。一度だけハガキも読んでもらった。みどりブタ大明神のお札を貰ったお陰で大学に合格できた。

・続き)1970年代のサブカルを代表するアイコン「林美雄」が、1980年の秋にラジオの深夜放送を辞めたことの本当の意味とは? 1980年代のサブカルをずっと探究してきた宮沢章夫が迫る。これは予想以上に聞き応えがあった。ずしんと僕の胸に突き刺さった。そうか、●●していたのか。林さんは。

・続き)それにしても、ずっと以前に書いたのだが、http://www.clio.ne.jp/home/kita/0303.html … 当時リアルタイムで「林美雄のパック」を聴いていた人間が、いったい何人ツイッター上に残っているのか? なんだ、『小説すばる』で連載している柳澤健氏は、林美雄のファンでもなんでもなかったのか……。

・続き)あれから40年が経って、今やネット経由の「Radiko」から、雑音の全く入らない電波状況も心配する必要のないTBSラジオを僕は聴いている。あの懐かしい林美雄パックのオープニング・テーマ、ブッカー・T の『 タイム・イズ・タイト』お終いの『フォローミー』『青春の蹉跌のテーマ』

・続き)当時はぜんぜん気づかなかった林美雄アナの●●が、33年も経ってからタイムカプセルが開封されたみたいに突如明らかにされたことが、ぼくはラジオを聴いていてものすごくショックだった。55歳になった僕は、フォロー・ミーのテーマを聴きながらただただ泣いた。

・続き)その「林美雄パック最終回」を、僕はリアルタイムで聴いた覚えがない。つまりは、1970年代にあれほど影響を受けていた林美雄氏から、もう既にずいぶんと離れてしまっていたからなのだろう。1980年というと、僕は大学4年生だった。

『林美雄 空白の3分16秒』宮沢章夫(TBSラジオ) この日の実際の放送録音を早速ネットにアップしてくれた方がいた。ありがたいことだ。

TBSアナウンサー「林美雄」のことを知らない人にこそ、ぜひ聴いてみて欲しい。

 

Powered by Six Apart

最近のトラックバック