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2019年7月 8日 (月)

TBSラジオ アナウンサー 林美雄

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■『長野医報6月号』にぼくが書いた文章を、こちらにも転載させていただきます。

【ラジオは友だち】

 いつだって「これは!?」と耳をそばだてた楽曲は、決まってラジオから流れてきたように思います。

ぼくが中学・高校生だった1970年代は、ラジオの深夜放送が大人気でした。糸居五郎の「オールナイト・ニッポン」、落合恵子の「セイ!ヤング」そして、林美雄の「パック・イン・ミュージック」。初期にはラジオ局の専属アナウンサーがDJを務めていました。皆が寝静まった深夜、彼らはラジオから僕だけに語りかけてくれているように感じたものです。

伝奇漫画の巨匠、諸星大二郎の新作『オリオンラジオの夜』(小学館)では、深夜の星空の下、主人公が「異次元ラジオ」に耳を傾けると、昔懐かしい音楽が次々と流れてきます。しかし、いつしか時空はねじ曲がり、読者は不思議な諸星ワールドに引き込まれて行きます。

最近では、パソコンやスマホで「radiko」「らじる★らじる」を通じて雑音のないクリアな音でラジオ番組を聴くことができるようになりました。しかも、過去1週間さかのぼった放送まで、いつでもどこでも何度でも聴けるのです。夢のような時代がやって来ました。一方、AM電波は廃止される憂き目にあります。

 懐かしき「ラジオデイズ」の想い出、今のラジオの楽しみ方、おすすめのラジオ番組など、ラジオの魅力を再発見していただけたら幸いです。

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『東京人 2011年3月号 No.294』12〜13ページ

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YouTube: Booker T. & The MG's - Time Is Tight

【TBSラジオアナウンサー 林美雄】

 1973年11月20日。荒井由実のデビューアルバム『ひこうき雲』が満を持してリリースされた。アルファの社長で、「翼をください」の作曲者でもある村井邦彦は、当時彼女にこう言ったという。「荒井由実というルーレットの目に会社ごと賭ける」と。それから6年後、村井は「YMO」の世界進出のため更なる大博打に打って出ることになる。

 ところが、社長の期待に反し彼女のレコードはまったく売れなかった。歌謡曲でもフォークでもアイドルでもない荒井由実の歌を、どう売ったらよいのか誰も分からなかったのだ。当時はまだ、ニューミュージックやシティポップというジャンルは存在しなかった。

 アルファ宣伝担当の布井育夫は困ってしまい、学生時代から愛聴していたTBSラジオの深夜放送「パック・イン・ミュージック」金曜日第2部(午前3時〜5時)担当だった林美雄アナウンサーにサンプル盤を届ける。彼なら荒井由実の魅力をラジオを通じて拡散してくれるに違いない。林はすぐにアルバムを聴き、直感で素晴らしいと思った。その翌週から自分の番組で「八王子の歌姫。この人は天才です!」と絶賛し、毎週『ひこうき雲』から3曲、4曲とかけまくった。特に「ベルベット・イースター」がイチオシで、半年間毎週かけ続けた。

 当時ぼくは中学3年生で、受験勉強にも身が入らず、深夜ダラダラとただラジオを聴いていた。すると突然、聴いたこともない歌声が聞こえてきたのだ。「ベルベット・イースター」だった。「誰?これ!」衝撃的だった。その少し後だったか、林美雄のラジオに荒井由実がナマ出演し、スタジオのピアノで「ベルベット・イースター」「ひこうき雲」「雨の街を」をライブで弾き語りした回のことを今でも鮮烈に記憶している。翌朝学校に行って「ねえねえ、荒井由実って知ってる?」と訊いても、誰も知らなかった。当時は、吉田拓郎や井上陽水、カーペンターズ、ミッシェル・ポルナレフが全盛だったのだ。 

 

 ぼくがラジオの深夜放送を本格的に聴き始めたのは中学2年生の頃だ。部活に疲れて帰宅し、夕飯を食べ終わるとまずは寝る。夜11時過ぎに母親に起こしてもらい、それから午前4時くらいまで勉強。もう一度寝て、朝8時に登校。そんな毎日だった。

 皆が寝静まった深夜に、一人だけで起きているととても淋しい。居たたまれなくなってラジオをつける。すると、DJの声が僕だけに語りかけてくるのです。「おい、元気かい? 大丈夫だよ、明日も頑張れよ!」と。

 あの頃からアマノジャクだったぼくは、SBCラジオでネットされていた「オールナイト・ニッポン」は聴かずに、東京都港区赤坂六本木TBSのスタジオから東京タワーの電波塔を介して山越え谷越え南アルプスも越えて届いた「パック・イン・ミュージック」954kHzのAM電波を、長野県上伊那郡高遠町でキャッチしていた。深夜3時過ぎにになると、不思議と電波状況が良くなって、案外聴きやすかったのだ。

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 林美雄アナは、マイナーな日本映画が大好きで、特に藤田敏八監督の『八月の濡れた砂』に惚れ込んでいた。石川セリが歌う主題歌は、まだレコード化されていなかったので、日活でサントラからテープにダビングしてもらい「パック」の冒頭で毎週しつこくかけ続けた。荒井由実の前は、石川セリ。自分で「これはイイ!」と感じた映画、音楽、芝居を、林はとにかくラジオで熱くプッシュしまくっていたのだ。そんな林美雄にぼくは圧倒的な影響を受けた。中学2年生の夏休み、「新宿文化」の地下にあった「アンダーグラウンド蠍座」で『八月の濡れた砂』のリバイバル上映を観ている。以来ずっと日本映画大好き人間だ。

 林が次に惚れた映画が、神代辰巳監督、長谷川和彦脚本、東宝映画『青春の蹉跌』だった。ぼくは伊那映劇で観た。檀ふみの水着姿がまぶしかった。テーマ曲を作曲したのは、元ザ・スパイダースの井上堯之。以降「林美雄パック」のエンディングでは、まず『青春の蹉跌のテーマ』が流され、続いてミア・ファロー主演、キャロル・リード監督作品の映画『フォロー・ミー』の主題歌(ジョン・バリー作曲)が流れて番組が終わるというフォーマットが出来上がった。

 この頃、林美雄を通じて長谷川和彦と知り合った菅原文太は、沢田研二と組んで『太陽を盗んだ男』を撮ることになる。原田芳雄と松田優作は、二人してよく深夜のTBSスタジオに顔を出し、林の前で「リンゴ追分」や「プカプカ」をギターを弾きながらナマで唄っては帰って行ったものだ。

 1974年8月30日。スポンサーの付かない「パック・イン・ミュージック」金曜日第2部は廃止されてしまう。憤懣やるかたない思いでラジオを降板した林のために、荒井由実は感謝の気持ちを込めて曲を書いた。それが『ミスリム』に収録されている「旅立つ秋」だ。

 

 1975年6月11日。熱烈な林美雄リスナーたちの署名運動が実を結び、林は「パック」に復帰する。今度は水曜日の午前1時〜3時。ぼくは高校2年生になっていた。以前より聴き易い時間帯に移ったので、毎週欠かさず聴いた。

 この頃の人気コーナーに「苦労多かるローカルニュース」がある。ちょうど今の『虚構新聞』のような風刺を効かせた冗談記事を、林美雄がNHKのアナウンサーのように真面目くさって読むのだ。ニュースの前後には、下落合本舗(これも架空の会社)のパロディCMが流された。どちらもリスナーからの投稿葉書で作られていて、ぼくも試しに投稿してみた。そしたら何と採用され、ぼくのCMがラジオから聞こえてきたのだ。たまげた。聴きながら心臓がバクバクした。

いや大して面白くはない。国鉄のストライキで飯田線が遅れて皆困っていた。電車の車体にはアジテーションの文字がペンキで大きく描かれた。これ消すの大変だろうなあと思い、時間で消える「ストラインキ」を使った「遵法塗装」はいかが? というくだらないCM。

採用されると、TBSのネーム入りライターがプレゼントされる。ぼくは友達に自慢しようと学校へ持って行き、廊下で見せびらかしていたら、ちょうど通りかかった現国の伊藤先生に見つかって、ライターは取り上げられてしまった。

 タモリをラジオで初めて聴いたのも「林パック」だ。博多のビジネスホテルで、山下洋輔トリオに偶然発見されたタモリは、この年の7月に上京し、赤塚不二夫のマンションに居候しながら、夜な夜な新宿「ジャックの豆の木」で密室芸を披露していた。10月22日、漫画家の高信太郎に連れられて「林パック」に登場したタモリは、林が読む「苦労多かるローカルニュース」をデタラメの中国語やドイツ語で同時通訳した。さらにお得意の四カ国親善麻雀も披露。まだテレビ・ラジオに出演していない頃のことだ。

 おすぎとピーコを知ったのも「林パック」だ。山崎ハコ、上田正樹、憂歌団、南佳孝、橋本治『桃尻娘』、野田秀樹、ムーンライダーズ、RCサクセション、そして佐野元春。みんな林美雄が教えてくれた。

 

 1977年2月。毎年受験シーズンになると、林は黄色い短冊に緑色のマジックで「みどりブタ大明神」の御札を自ら手書きして希望する受験生に送っていた。ぼくも返信用封筒に切手を貼って同封し御札を送ってもらった。何でも合格率80%以上を誇るありがたい御札だ。そしたら、模試ではずっとD判定だった大学に奇跡的に合格することができた。ぼくは今でも林美雄のおかげだと思っている。

 しかし現金なもので、大学生になると彼への恩もすっかり忘れ「林パック」をほとんど聴かなくなってしまった。映画情報は『ぴあ』を見れば載っていたし、知らないレコードを友達が次々と貸してくれた。ジャズ喫茶に入り浸り、ジャズばかり聴くようになった。もう林美雄の「目利き情報」は必要でなくなったのだ。

 

 1980年9月30日。この日「林美雄パック」は最終回を迎える。ぼくは聴いていない。エンディングが近づくと「青春の蹉跌のテーマ」が流れ出す。このテーマに乗せて林は毎週自分の個人的な思いをマイクに向けて話すのが恒例となっていた。しかし、最終回のこの日「3分16秒間」林は沈黙した。音楽が終わったあと、林はおもむろにこう言った。「音としては(音声に)出ていませんでしたけれど、いろんなことを言いました」と。

 ぼくより2つ年上の劇作家・宮沢章夫は、1970年代が終焉し1980年代の波に乗ることが出来なかった林美雄の無念と絶望が、その沈黙にあったのではないかと分析する。彼が構成したラジオ番組『林美雄 空白の3分16秒』が、2013年12月27日にTBSラジオで放送された。ぼくはradikoでエンディングの「フォローミーのテーマ」を聴きながら、ただオイオイと泣いた。林アナ。ごめんなさい。今でもYouTube で聴くことが出来るので、興味を持って下さったなら是非聴いてみて欲しい。

 1970年代。かつて林美雄という深夜放送のカリスマ・アナウンサーがいた。林はいつもラジオのリスナーに向かってこう言っていた。「いい音楽を自分の耳と感性で探し出せ! 芝居を観ろ!映画を観ろ! 本当にいいものは隠れている。だから自分で探さないといけない。自分でいいと思ったものを信じて、それを追いかけるんだ」

 

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『東京人 2011年3月号 No.294』40〜41ページ

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YouTube: 林美雄 空白の3分16秒

2019年6月28日 (金)

今月のこの1曲:友部正人&パスカルズ『6月の雨の夜、チルチル ミチルは』

■6月22日(日)の夕方、今年も南箕輪村の酒店「叶屋」に友部正人がやって来た。

なんと! 今年で12年目なんだそうだ。ぼくもここ5年間は毎年聴きに来ている。この日歌ってくれた曲。メモを取っていたワケではないので、歌ってくれたのに忘れてしまった曲がいくつもあるけど、だいたいこんな感じのセットリストでした。

【First Set】

・地獄のレストラン
・6月の雨の夜、チルチルミチルは
・追伸
・こわれてしまった一日


・愛の賞味期限
・愛について


・Like A Rolling Stone

【Second Set】


・密漁の夜
・誰も僕の絵を描けないだろう
・日本に地震があったのに
・マオリの女
・スカーフ
・サン・テグジュペリはもういない
・一本道
・1月1日午後1時(盛岡「クランボン」高橋さんに捧ぐ)

・大阪へやって来た
・ブルース
・遠来
・夕日は昇る

■この日、ぼくが一番聴きたかった曲が『6月の雨の夜、チルチル ミチルは』だ。悲しい歌だ。これから死にに行くカップルのはなし。


YouTube: 06 友部正人 MASATO TOMOBE - 6月の雨の夜、チルチルミチルは

■ツイッターにも書いたけれど、この曲には謎が多い。チルチルには子供が2人いる。で、古くからの友人である友部正人は、チルチルから深夜のファミレスに呼び出されるわけだ。歌詞には、できるだけ明るいお店のテーブルに4人座って話をしたと。

ぼくはてっきり、子供たちを道添にして、これから一家心中をする家族の話だとばかり思っていたのだけれど、どうも違うみたいなんだよね。その事がわかったのは、平川克美氏のブログを読んだから。

深夜のファミレスで向かい合った4人とは、チルチルミチルと、友部正人と彼の奥さんの小野由美子さんであると。そう、平川氏は断定しているんです。正直ビックリしました。ぼくはてっきり、チルチルミチルは正当な夫婦だとばかり思っていたのだが、実は不倫のカップルだったのですね。驚きました。

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■友部は、解散する前の「たま」と親交が深くて、いっしょにCDも出している。『けらいの一人もいない王様』だ。このCDには収録されていないけれど、「たま」の知久さんが友部正人の大ファンで「たま」が発展的解消をしたあたと出来た「パスカルズ」で、この「6月の夜、チルチルミチルは」を演奏しているヴァージョンを発見した。

ネットで検索すると、「この曲」は実話なんだそうです。少し前に、友部はエッセイを連載していた読売新聞で、チルチルミチルとの顛末を掲載したのだそうだが、ぼくは読んでいない。ずっと読まないほうがいいと思っている。

      知らないことで まんまるなのに

      知ると 欠けてしまうものがある

      その欠けたままのぼくの姿で

      雨の歩道に いつまでも立っていた


YouTube: 02 友部正人 MASATO TOMOBE - 愛について

当日のツイートより。

今日は、南箕輪村の酒店『叶屋』で 友部正人のライヴ。今年で12年目だって。僕は5年前から毎年聴きに来ている。新しい曲もずいぶん覚えた。懐メロじゃなくて、いまここの友部が聴きたいし、その思いは毎回裏切られることなく今日もまた彼の歌とギターとハーモニカ演奏のパワーに圧倒されたのだった

最初の1曲目が「地獄のレストラン」。おお今日は攻めてるな。2曲目は、是非とも今日は聴きたいと願っていた「6月の雨の夜、チルチルミチルは」だ。念じてたのが通じたのか? 思わず左目尻から涙がこぼれおちて、恥ずかしかったな。なにせ、最前列の正面だったから。

あと念じたのは、矢野顕子さんがピアノの弾き語りしているのを聴いて好きになった曲「愛について」。友部さんのライヴでは初めて聴けた。うれしかった。ボブ・ディランの「Like A Rolling Stone」も良かった。原曲より、日本語訳詞のほうがいいぞ。それから「ブルース」。今日一番沁み入った一曲。

続き)懐かしい曲も聴けた。「密漁の夜」と「誰も僕の絵を描けないだろう」だ。この2曲は、友部正人還暦記念トリビュートライブ(2010年5月23日、下北沢「ガーデン」)で、あの遠藤ミチロウが歌った。オープニングは、ハンバートハンバートが「あいてるドアから失礼しますよ」次に峯田和伸が登場。

峯田は「なんでもない日には」ともう一曲。あと、「たま」の知久寿焼が「一本道」を歌っている。メチャクチャいい! CD2枚組『ミディの時代』友部正人の付録DVDに収録されている。

続き)友部正人のレコード『にんじん』は、中学2年の冬に買った。何度も何度も聴いた。だからなのか、60歳を過ぎたいまでも、ずっと好きが続いている。これは前にもツイートしたが、中2で影響を受けた「モノ・ヒト」は一生自分を支配し続けるのだな。TBSラジオアナウンサー、林美雄もその一人。

2019年5月10日 (金)

今月のこの3曲:ASAYAKE 01『ギター』と、中村佳穂『忘れっぽい天使』〜『そのいのち』

■いつだって「これは!?」と耳をそばだてた楽曲は、決まってラジオから流れていたように思う。

あれは、2週間前の土曜日の夜。4月28日だった。「らじる★らじる」で NHKFMを聴いていたら、アジカンGotch こと後藤正文の番組後藤正文のCROSS THE GENERATION』を放送していた。

この日のゲストは、京都在住のミュージシャン中村佳穂だった。かかった曲は「そのいのち」。「お!?」と思った。ちょっと今までに聴いたことのない楽曲。「イケイケいきとし GO GO!」って、何なんだ??

その次にかかった曲は、ASAYAKE 01 『ギター』。これです。力強い歌声。それに、めちゃくちゃギターが上手い。


YouTube: ギター

ASAYAKE 01。ぜんぜん知らない人だった。なんでも中村佳穂さんが師と仰ぐ、大阪では伝説のシンガー・ソングライターなのだそうだ。活動歴は長いのだが、このところずっと演奏活動は休止していて、大阪扇町のライヴハウス「パラダイス」の裏方として働いていた。

ところが、とある人からのオファーをきっかけに、再び演奏を再開したのだという。この異様なパワーに圧倒されたぼくは、YouTube で彼の他の楽曲を検索してみた。で、見つかったのがこれだ。


YouTube: ASAYAKE01 # コオロギとレディデイ アンド ジョンコルトレーンat HOKAGE 2010/6/21

■そこには、友部正人の正当な後継者がいた。一直線に突き刺さって来る歌と言葉。ちょっと、感動した。ナマで是非見たいと思った。

■それから、中村佳穂。(続きは、また書きます)


YouTube: Kaho Nakamura SING US - Wasureppoi Tenshi / Sono Inochi [live ver]


YouTube: 中村佳穂 TBSラジオLIVE

2019年3月 3日 (日)

昨年読んだ本、観た映画、お芝居、聴いたCD

■YouTube で「第9回ツイッター文学賞」の発表を見た。今回は、投票できる本がなかった。

それで思い出して、1月初めにツイートしたものを、一部補足して、こちらにも残しておきます。

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■2018年に読んで、印象に残ってる本。ベスト本は、チムニク『熊とにんげん』。あと、図書館の本なので書影はないが『甘粕正彦乱心の曠野』は面白かったな。それから、寺尾紗穂さんが編纂した『音楽のまわり』。

2018/09/12

「赤石商店」で買ってきた、寺尾紗穂さんが編集して自費出版した『音楽のまわり』を読んだ。10人の個性的なミュージシャンが、音楽以外のエッセイを書いている。ユザーンや浜田真理子さんみたいに、よく知っている人やぜんぜん知らない人もみな読ませる文章だ。伊賀航、植野隆司、折坂悠太、知久寿焼、マヒトゥ・ザ・ピーポーの文章は初めて読んだが、感心したな。ユザーンや浜田真理子さんは期待通りの安定感。寺尾さんは、読者の期待の外し方が絶妙で、めちゃくちゃ上手い。各執筆者への編者からのコメントも面白い。

あと、『心傷んでたえがたき日に』上原隆(幻冬舎)、『颶風の王』河崎秋子(角川書店)もよかった。

■2018年に観て、印象に残ってるお芝居。木ノ下歌舞伎舞踊公演『三番叟(SAMBASO )・娘道成寺』まつもと大歌舞伎(市民芸術館 6/18)。ケラリーノ・サンドロヴィッチ作・演出『百年の秘密』(まつもと市民芸術館 5/13)。同『修道女たち』(兵庫県立芸術文化センター 11/23)。ケラさんて、凄いな。

2018/10/10

今日は、飯島町文化館大ホールで『ペテカン』のコント9本+スペシャル・ゲスト柳家喬太郎師の落語2題。いや面白かった!以前観た「 ザ・ニュースペーパー」や「鉄割アルバトロスケット」とは違って、健全でほのぼのした笑いに場内は満たされた。4人の女優陣が頑張ってたな。あと喬太郎師も超熱演。

喬太郎師匠は、あと、毎年駒ヶ根市の安楽寺である「駒喬落語会」。今年は師匠「柳家さん喬」師との「親子会」だった。8月27日(月) よかったなあ。柳家さん喬師をナマでそう何回も聴いているワケではないけれど、さん喬師のベスト3と言えば「妾馬」「幾代餅」「片棒」だと思っていて(軽いネタ「棒鱈」とか「初天神」も絶品だが)

この日、さん喬師は「幾代餅」と「妾馬」をかけてくれたのだ。うれしかったなあ。涙が出たよ。

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■2018年に観て、印象に残ってる映画。見た順。『ラモツォの亡命ノート』『タレンタイム』(これは二度目の鑑賞)。『わたしたちの家』『枝葉のこと』『菊とギロチン』『カメラを止めるな!』『日々是好日』。7本のうち、何と!5本を「赤石商店」の蔵のミニシアターで観た。

あ、忘れてた! 是枝裕和監督の『万引き家族』は、岡谷スカラ座と伊那旭座で2度見ている。安藤サクラに惚れた映画だ。それから、佐藤健に驚いたのが、瀬々監督の『8年越しの花嫁』。これは伊那映劇(昔の)でみた。脚本もよかったな。『ひよっこ』の岡田惠和。じつに丁寧に作られていたな。

2018/08/16

昨日は、伊那通町商店街「旧シマダヤ」で、マイトガイ小林旭主演、浅丘ルリ子共演の日活映画『大森林に向かって立つ』野村孝監督(1961年・未DVD化)を見てきた。意外と面白かった。美和ダム、伊那市駅前での盆踊り大会、旧八十二銀行伊那支店に浅丘ルリ子が入っていくシーンなどが登場し、会場が湧いた。

出演者が豪華。敵役に金子信雄、深江章喜、安部徹。そして「キイハンター」の出で立ちそのままの丹波哲郎。脇役で高品格、長門勇、下条正巳。あと、スパイダース以前の、ムッシュ・かまやつひろしがギターを担いで登場。これには笑った『居酒屋兆治』の細野晴臣さんみたいで。

当時同棲していた小林旭と浅丘ルリ子。この映画が公開された頃にどうも別れたらしい。ホンモノの大型トラックを谷底に転落させたり、ちょっと『恐怖の報酬』みたいな感じで、結構お金をかけて作っていて驚いた。こちらのサイトに紹介記事が。

若かりし頃の金子信雄を見ていて、誰かに似てる? と思ったのだが、あそうか。爆笑問題の田中だ。

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■2018年によく聴いたCD。七尾旅人の『STRAY DOGS』は、結局CD買ってしまった。これは良いわ。ハンバートハンバートの『 FOLK2』も、さんざん聴いたが、CDが見つからない。誰かに貸したっけ?

それから、南佳孝の『ボッサ・アレグレ』。このCDには救われた。

2019年1月23日 (水)

村井邦彦の友人であり、ビジネス・パートナーであった川添象郎


YouTube: YMO 40 TALK ABOUT YMO 村井邦彦×川添象郎

■この動画を見て、ぼくは「誰?これ。脳天から発せられたような、かん高い声して、脳梗塞後の古今亭志ん生みたいな喋りをしている爺さんは?」そう思った。彼が『音楽家 村井邦彦の時代』に何度も登場した「川添象郎」だったのか。いや、驚いた。初めて見た。 (じきに続きを書きます。)

2018年12月31日 (月)

『音楽家 村井邦彦の時代』(その2:『キャンティ』の続き)

すっかり更新が遅れてしまいました。

なんと、大晦日の夜です。石川さゆりが「天城越え」を歌っています。

■「キャンティ」のことを、村井邦彦氏が書いた文章がある。『村井邦彦の LA日記』(Rittor Music)193~232ページに載っている。

2015年9月27日28日に渋谷 Bunkamura オーチャードホールで開催された『ALFA MUSIC LIVE』のプログラムのために、アルファの始まりから終わりまでを彼自身が書いた「この美しい星、アルファ」という文章だ。

 川添浩史・梶子夫妻もアルファの先祖だ。そもそもバークレイ・レコードへの道筋をつけてくれたのも川添さんだった。イタリアンレストラン、キャンティの創業者として知られているが、レストランは副業で、本業は国際文化交流だった。

 川添さんは、1930年代のパリに遊学し、ロバート・キャパやアンリ・カルティエ・ブレッソンといった写真家を始め、多くの芸術家たちとの交友を深めた。戦争後、日本が独立を取り戻すと、早くも1954年には、舞踏家・吾妻徳穂の「アヅマ・カブキ・ダンス」の団長として一行を率い、ニューヨークを始め7都市のアメリカ・ツアーを成功させた。翌年は10ヵ月かけてイタリア、イギリス、ドイツ、アメリカなどをツアーしている。

 イタリアでエミリオ・グレコに師事して彫刻を学んでいた梶子さんと会い、十二単衣(ひとえ)を着て舞踏の内容を手短にイタリア語でナレーションする役を頼んだら、観客に大好評だったので、引き続きパリ、ロンドンでも頼み、結局全行程を共にした。日本に戻って結婚している。

 以前、川添さんは戦前のパリで出会ったピアニストの原智恵子さんと結婚していた。川添象郎・光郎の兄弟は原さんと結婚していた時の子だ。僕は川添兄弟と知り合って高校生の時からキャンティに出入りしていた。梶子さんは(中略)何かと相談相手になってくれた。

 川添さんはその後、文楽のアメリカ公演、『ウエスト・サイド・ストーリー』のオリジナル、ブロードウェイ・キャストによる日生劇場の1ヵ月公演など、数えきれないほどのイベントをプロデュースしている。ファッション界では、クリスチャン・ディオールやディオールの後継者でのちに独立したイヴ・サン=ローランを日本に紹介し、梶子さんはサン=ローランの日本代表を務めた。

 僕や川添象郎にはそうした川添夫妻のDNAが流れているから、現代日本のコンピューター音楽、YMOを世界ツアーに出すという発想はごく自然なものだった。細野やユーミンもよくキャンティに来ていた。

 梁瀬さん、古垣さん、川添さんご夫妻はそれぞれに個性があったが、共通項を挙げれば、世界中に真の友人を持っていたこと、どの国のどんな人にも等しく接し、正々堂々としていながら、偉ぶるようなことは一切なかったことだ。それで僕のような若輩の者でも、一人の友人として扱ってもらえたのだと思う。持つべきものは良き先輩たちだ。(『村井邦彦 LA日記』p226〜228)

2018年9月20日 (木)

大貫妙子がいま、来ている(その2)


YouTube: ひまわり(映画『東京日和』より)大貫妙子

■前回の更新から、また1ヶ月も経ってしまった。


YouTube: [ひまわり8号] 寒冷渦と台風12号 2018.7.30 / CEReS, Chiba University

■北海道の地震とか、関西を直撃した台風21号とかいろいろあって、もうずいぶん前のことになるが、7月末に前代未聞の迷走をした台風があった。日本上空は常に偏西風が吹いているので、自走能力のない台風は南から北上すると、西から東へ抜けて行くのが常識だ。

ところが、この台風12号は東から西へ日本列島を通り過ぎて行った。伊豆半島では高波、高潮で大きな被害が出た。北東から張り出していた高気圧と「寒冷渦」のために、こんな変なルートを辿ったという。

■前回2回目の更新から、さらに1ヶ月以上も経ってしまった。すみません。

こんなことでは、もう誰も、ブログをフォローしてはくれてないんじゃないか?

■その「台風12号」が関東甲信越を通過した、7月28日(土)の夕方17時から、野辺山高原「八ヶ岳高原ロッジ」にある「八ヶ岳高原音楽堂」で『大貫妙子アコースティック・コンサート』があり、聴きに行ってきた。

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■前回の「森山良子 アコースティック・コンサート」の時には「宿泊パック」で予約したのだが、今回はコンサートのみの日帰り日程。台風直下、はたして無事帰って来れるのか、かなり不安ではあったがダメなら近隣のペンションに泊まって翌日帰ればいいやと、日程を強行した。

https://twitter.com/OnukiTaeko/status/1023225440087883776

■「八ヶ岳高原音楽堂」には駐車場がないため、八ヶ岳高原ロッジの駐車場に車を駐め、午後4時以後ロッジ正面からシャトルバスが音楽堂まで何度も往復しているので、宿泊客に交じってバスに。雨のカラマツ林を抜けて5分程で会場着。

バスを降りると、スタッフが4人傘を差して縦に並び、音楽堂の入り口まで乗客が濡れないように配慮してくれた。キャパ250人の「八ヶ岳高原音楽堂」でのコンサートは、チケット予約時点では座席指定ができない。

コンサート当日の受付ロビーで「くじ」を引き、その場で初めて座席が決まるという特殊なシステムを取っている。今回はやや後ろの席だったが、通路に面した席で足は楽だった。

会場ロビーには、ウェイティング・バーみたいに、無料のサンドウィッチとワイン(赤・白)ジュースが用意されていて、皆自由にグラスを取り、コンサートの開演を待っている。

台風直下だったから、当日ドタキャンで空席が目立つかとばかり思って会場入りしたら、なんと!ほとんど空席なく観客で埋まっていた。たまげたな。観客の客層は、前回「森山良子コンサート」の時とほぼ同じ。やたら平均年齢が高いのだ。夫婦が多かったけれど、みな50〜60歳代。若者は全くいなかった。

■バックステージは、特大ガラスの窓になっていて、白樺とカラマツ林、その後ろに広がる八ヶ岳高原が借景となっているのだが、この日は台風接近のため、猛烈な風に激しく揺れる木々と、斜めに吹きすさぶ雨粒が嫌でも目に留まる。しかし、以外と場内は静かで、音楽堂の屋根に打ちつける雨音もほとんど気にならなかった。

バック・ミュージシャンは、ピアノが、フェビアン・レザ・パネさん。父親がインドネシア人で母親は日本人、藝大出身。リーダーCDは2枚持っている。『ガネーシャの夢』のタイトル作は名曲だ。ベースの吉野弘志さんも藝大卒。昔からジャズのライヴで何度も聴いてきた人だ。

さて、大貫妙子さんが登場。想像以上に小柄で華奢な女性だった。なんか、明石家さんまの娘「IMARU」の雰囲気。あ、そうか。IMARU のほうが、大貫さんのマネをしていたのか。

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■大貫妙子さんの八ヶ岳でのコンサートは、今回が3回目なのだそうだ。初回の時は、いつも通りに臨んだのに、途中で頭痛は酷くなるは、息切れはするわで、大変な思いをしたそうだ。訳も分からずコンサート終了後にロッジ担当者に訊くと、「あ、ここ標高が1500m はありますから、空気が薄いんです。出演されたみなさん『苦しい、息が続かない』そう、おっしゃいます」と、言ったとのこと。

はじめの3曲は知らない曲だったが、4曲目「若き日の望楼」から「新しいシャツ」「横顔」と聴き慣れた曲が続く。「わたしね、基本的にカヴァー曲は歌わないの。でもこの曲は、缶コーヒーのCMに使われていて、クライアントの方から『この曲』を歌って欲しいという、たってのリクエストだったの」

そう彼女が言って歌いだしたのが、次の「シェナンドウ」だった。

昨日、台風が来る中行ってきた八ヶ岳高原音楽堂。嵐を呼ぶ女、大貫妙子さん。素晴らしかった!7曲目「シェナンドウ」で、一気に持ってかれた。涙がぼろぼろ出た。

続き)ピアノのフェビアン・レザパネさん(父親がインドネシア人で母親が日本人)ベースの吉野さんは、昔からファンで、CDを持ってったけどサインしてもらう機会はなかった。終演後とにかく早く帰ろうとしたからね。それにしても清里までの国道142号が暴風雨で、木が倒れていたりしてほんと怖かった

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金延幸子『み空』を、CD棚から探していたら、ティンパン関連のパナム・レーベルのコンピCDを見つけた。3年ほど前に、たまたま中古で購入したのだが、ちゃんと聴いてなかったのか?。大貫妙子「くすりをたくさん」「都会」「Summer Connection」「Wander Lust」が入っているではないか!

19曲目「What's Going On」にはたまげたな。俳優の柄本明が歌っている。しかも、メチャクチャ上手い。

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2018年8月21日 (火)

大貫妙子が、いま来ている

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■じつは、大貫妙子さんのレコードを持ってなかったので、今回再プレスされたレコード『ミニヨン』を買った。大貫さんにとっては「遠いむかし土に埋めてしまった封印レコード」なんだそうだが、ぼくは大好きなんだ。彼女の名曲『横顔』と『突然の贈りもの』が初収録されたレコードだからね。

で、さっそくプレーヤーに乗せて聴いてみた。う〜む。CDとは、確かに「音が違う」。でも、それが本当に「いい音」なのかどうかが自信はない。 ただ、この写真のような感じではあるな。音の輪郭を強調させたCDに対して、変にイコライザーをいじってない(人工的・作為的でない)耳に心地よい音がしたことは確かだ。

これを機会に、ぼくが持っている彼女のCDを集めて写真を撮ったのだが、どうしても見つからないCDがあった。「ここのずっと下の方」「ここ」で取り上げた『Live Beutiful Songs』だ。事あるごとにCD棚から取り出して、何度も何度も聴いてきたCDなのに、こういう時に限って何故か見つからないように出来ているんだね。

■いま、大貫妙子が来ている。

それは間違いない!

きっかけは、アメリカ人スティーヴ君(32歳)だ。昨年の8月、大貫妙子の伝説の名盤レコード『SUNSHOWER』を求めて来日し、都内中古レコード店を廻っていたスティーヴ君。遂にお宝レコードを手に入れたのでした。

その彼が今年の2月に再来日し、なんと! 大貫妙子さんのコンサートを観たあと、憧れの彼女と対面したというのだ。(まだまだ続く)

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■YouTubeによって、海外の若い音楽好きに再発見され、日本でも懐メロとしてではなく、いまの若者たちのココロに響いた「ジャパニーズ・シティ・ポップ」とは、どういう音楽なのか?

『レコードコレクターズ / 2018 3月号』(特集:シティ・ポップ 1973 - 1979 日本国内だけでなく海外でも高まる再評価熱の源泉と、その本質を探る)によると、「おおまかな意識として ”ソウルやジャズのエッセンスを取り入れた日本語ポップス” という括りはあるものの ”こうでなくてはいけない” という明確な定義はない」と、松永良平氏は書いている(31ページ) でも、なんか違うな。

同誌38ページで、渡辺亨氏はこう書いている。

70〜80年代のシティ・ポップとは、主に はっぴいえんど 〜 キャラメル・ママ 〜 ティンパン・アレー や元サディスティック・ミカ・バンド周辺のミュージシャンが、プロデュースや作曲、演奏等で関わっていたメロウで洗練されたポップ・ミュージック、さらには16ビートが取り入れられた歌謡曲。

これは正しい。ただ、坂本龍一が抜けている。特に、大貫妙子のレコードでの、坂本龍一の楽曲アレンジは、本当に素晴らしい。(まだ続く)

■萩原健太著『70年代シティポップ クロニクル』(Pヴァイン)は面白い。ぼくより2つ上で 1956年生まれの萩原健太氏自身が個人的に体験した「あの奇跡的な5年間」を一冊にまとめた本だ。「まえがき」にはこう書かれている。

 ポップ・ミュージックの歴史を振り返ってみると、やけに密度の濃い5年間というものが随所に存在する。たとえば、エルヴィス・プレスリーが地元メンフィスでローカル・デビューを飾った 54年からロックンロールという新種の若者音楽がシーンに定着した 58年まで。

あるいはボブ・ディラン、ビートルズ、ビーチ・ボーイズなどがデビューを飾った 62年から、かれらがそれぞれ『ブロンド・オン・ブロンド』『リヴォルヴァー』『ペット・サウンズ』という、デビュー時のシンプルな味から大きく成長した傑作を作り上げてしまった 66年まで。

 もちろん日本のポップシーンにもそれがあった。たぶん海外同様、時を隔てていくつか存在するのだろうが。1956年生まれのぼくがリアルタイムに体験した最強の5年間といえば 70年代前半。71〜75年という時期だ。

当時の日本のポップ・シーンは、本当に刺激的だった。すさまじいスピードで様々な形で融合し、交換し、競い合い、あるいは反発し合いながら、シーンを活性化させていた。(p7〜8)

■『70年代シティポップクロニクル』で取り上げられたアルバムは、15枚。

 『風街ろまん』はっぴえんど 『大瀧詠一』大瀧詠一 

 『摩天楼のヒロイン』南佳孝 『扉の冬』吉田美奈子 

 『Barbecue』ブレッド&バター 『サンセット・ギャング』久保田麻琴

 『MISSLIM』荒井由実 『黒船』サディスティック・ミカ・バンド 

 『HORO』小坂忠 『SONGS』シュガーベイブ 

 『バンドワゴン』鈴木茂 『センチメンタル・シティ・ロマンス』

 『火の玉ボーイ』ムーンライダーズ 『泰安旅行』細野晴臣 

 『熱い胸さわぎ』サザン・オールスターズ

■この本で大貫妙子に関する記述があるのは、『SONGS』シュガーベイブ の項だ。ただ、ほとんどは山下達郎についての話に占められている。萩原健太さんが渋谷ヤマハで店頭ライブの準備をしているまだ若かりし頃の山下達郎を目撃し、そのやたら突っ張って、神経がピリピリしている様子の描写がリアルで、なるほどそうだったのかと思わせる。

(以降「その2」へ続く)

2018年8月12日 (日)

最近読み終わった本(2)『レコードと暮らし』田口史人(夏葉社)

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「赤石商店」で、田口史人「出張レコード寄席」を聴いてきた。いやあ、面白かった。最後まで聴いてみないと判らないさまざまなドラマが、人知れず作られたシングル盤レコード、ソノシート、ラッカー盤一枚ごとに確かにあった。あと、ポータブル・レコードプレーヤーの音が案外良くって驚いた。

昨日「明石商店」で、高円寺「円盤」店主:田口史人さんのお話を聴いていて、TBSテレビ『マツコの知らない世界』に呼ばれるんじゃないかと思った。そしたら「タモリ俱楽部」に既に出演されていたのだね。

7月13日

先日「赤石商店」で聴いた、田口史人さんの「レコード寄席」の最後にかけてくれたレコード、豊中市立第五中学校校長・田渕捨夫先生が退職する時の、あの感動的な言葉が、36ページに書き起こされて載っていたよ!『レコードと暮らし』

続き)田渕捨夫校長先生のことば抜粋「いつも言う『過去』というものはみなさんの記憶にあるだけである。『将来未来』っちゅうものはみなさんの想像にだけある。実際に存在する実在は、今そこにあるみなさんそれだけなんだ」(『レコードと暮らし』田口史人著・夏葉社 37ページより)

続き)でも、田渕校長の言葉は、文字に起こした活字を目で追って読んでいても、伝わって来ないんだよなあ。ソノシートのレコードを、あの小さなポータブル・プレーヤーに乗せて、田口さんが神妙に神社の神主みたいな感じで、厳かにレコード針を落とすと、聞こえてくるのです。あの、田渕校長の声がね。

続き)先だって「赤石商店」にカレーを食いに行ったら、店主の埋橋さんが言った。「田口史人さんが帰る時、飯田線の時間がまだあったから、伊那北駅近くのレコード店『マルコー』に寄ってみたんです。そしたら、2階に案内されて、引き出しから「お宝」のレコードが次々と見つかった!」とのことです。

(以上は、ツイッターでの発言より再録)

■高円寺で、インディーズ・レコードや自作の自費出版本を扱う店「円盤」を経営する田口史人さんは、1967年の生まれだ。ぼくより9つも若いのが信じられないような、年期を重ねたこだわりのアナログ盤愛好家だった。肩まではかからない中途半端な長髪で、牛乳瓶の底のようなメガネをかける田口さんは、どことなく早川義夫の雰囲気があった。

レコード店に勤務したあと、音楽ライターとして活躍されていただけあって、とにかく文章が読ませる。淡々と書いているようでいて、対象物への限りない愛と慈しみが溢れ、内に秘めた熱情がメラメラと燃え出すような、読者のココロを鷲づかみする文章を書く人だったのだ。

■田口さんは車の運転免許を持っていない。だから、全国津々浦々、フーテンの寅さんみたいに、売り物のCDと本を詰め込んだトランクをぶら下げ、肩にはポータブル・レコードプレーヤーやレコードがたくさん入ったショルダーバッグという大変な出で立ちで、電車で移動巡業販売の旅を続けている。

営業の旅でありながら、レコードの仕入れ買取の旅でもある。その地方ならではの貴重な「出物」があるからだ。でも、彼が探しているレコードは、駅から遠く離れた郊外の「古道具屋」でしか扱っていない。古物商は、売れない在庫をたくさん抱えているから、その保管場所が必要だ。当然、地代の高い市街中心地に倉庫は持てない。へんぴな郊外にバラック仕立ての店を構えることになる。

伊那でいえば「グリーンファーム」であり、西春近広域農道沿いの古道具屋がそれだ。車を運転できない田口さんが、いったいどうやって「そんな店」を見つけ実際に訪れているのか、謎だ。そのあたりのヒントが、当日購入した「ホチキスでとめただけの簡易自主製作本:店の名はイズコ」に書かれています。この冊子も実に面白かった!

■前日の松本から飯田線に乗って伊那を訪れた田口さんは、赤石商店の埋橋さんに駅まで迎えに来てもらって、そのまま「グリーンファーム」へ。田口さんは以前にも訪れて中古レコードを多数見つけたのだそうで、今回も一枚 100円で購入したシングル盤を、当日の「レコード寄席」の始まりでまずはかけてくれた。

でも、激レア盤はそうは見つからない。田舎でも全国的に膨大な量が流通したソノシートがあふれている。中でもよく見かけるのが「佐渡交通」が製作して配った、佐渡観光記念ソノシートだ。全国各地から佐渡旅行に来た人たちが、地元へ帰って想い出にはじゃまなレコードだけ処分する。レコードの内容はほぼ同じなのだが、レコードジャケットは何故か100種類以上存在するという。

『レコードと暮らし』41ページには6枚だけカラーで載っている。切手収集みたいな感じなのか。田口氏は「全ジャケット」収集を目指していて、今回帰りに寄った「イチコー」で持っていなかった「佐渡交通レコード」を1枚見つけたのだそうだ。

田口さんの探究心は凄まじい。実際に佐渡まで行って佐渡交通本社を訪れ、いったいどんな人たちが「このレコード」を作っていたのか訊きに行ったのだそうだ。ところが、本社にはすでに担当者は勤務しておらず、分かる人が誰もいなくて「なんだか変な人が東京からやって来て困ったぞ」というドン引きの冷たい空気に包まれた田口さんは、結局「佐渡交通」では何も情報を得ることができず、淋しく会社を後にしたのだそうだ。せっかくはるばる佐渡までやって来たのにね。

そんな『レコードと暮らし』には載っていないエピソードの数々を、田口さんの「出張レコード寄席」で聴くことができます。瀬戸内海の直島で、村木謙吉の「おやじの海」が生まれた裏話も傑作だった。本には p106〜p114 まで大々的にフィーチャーされているけれど、当日の話では、それらのレコードにまつわる、さらに不思議なエピソードを披露してくれた。

という訳で、この本を読む前に田口史人さんの『出張レコード寄席』を実際に聴いてみると、本が10倍楽しめると思うワケです。

■いずれにしても、今年読んだ本の中では一番印象に残った「傑作本」です。(おわり)

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■追伸)本の表紙絵は、加藤休ミさんだ。彼女の細密クレヨン画はほんとうに凄い。絵本『きょうのごはん』(偕成社)以来のファンだ。

2018年7月16日 (月)

「相澤徹カルテット」のこと (長野医報8月号:ボツになった「あとがき」より)

■長野県医師会の広報委員を拝命して1年になろうとしている。先輩広報委員の先生方のご支援のもと、今までなんとか務めることができた。本当にありがとうございます。

■次号「8月号」は3度目の担当号で、ぼくが「あとがき」を書く順番だった。珍しく締め切り1ヶ月前から力を入れて原稿を書いた。しかし、如何せん長すぎた。「あとがき」は1ページに収まらなくてはならない。という訳で、ボツ原稿になってしまいました。内容的にも少し問題があったのかもしれないな。仕方ないので、ブログにアップすることにしました。

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「長野医報8月号:あとがき」(ボツ原稿)

 山下達郎や大貫妙子の1970年代シティポップが、YouTubeによって海外で再発見され、いま注目を浴びています。しかし、日本国外ではネット配信されていない音源が多いため、熱烈なマニアはオリジナルレコードを求めてわざわざ来日し、都内の中古レコード店を物色して廻っているのだそうです。

 昨年の8月『Youは何しに日本へ?』(テレビ東京)に登場し、一躍注目を浴びた大貫妙子ファンのアメリカ人スティーヴ君(32歳)は、今年2月に再来日して遂に御本人との対面を果たし、再び大きな話題となりました。


YouTube: Youは何しに日本へ🗾🎌8月7日(月)18時55分~20時まで放送中です。✈

 1970年代に日本人が演奏したジャズレコードの希少盤も、いま海外の好事家の間では大変なブームで、一枚数十万円で取引されるレコードもあるのだそうです。その中でも最も入手困難な「激レア盤」として有名なレコードが、相澤徹カルテット『TACHIBANA』です。

 イギリス人のジャズコレクター、トニー・ヒギンズ氏は、このレコードが日本人ジャズの中では一番好きだと断言します。彼が最近ネットに挙げた文章によると、当時、群馬県沼田市の赤谷湖畔でドライブインを経営していた地元の名士「橘一族」の御曹司、橘郁二郎氏が大のジャズフリークで、彼が注目していた地元のアマチュア学生バンドを、私邸に呼んで演奏させ録音したレコードが、相澤徹カルテット『TACHIBANA』なのでした。橘氏は、このレコードを名刺代わりに数百枚ただで配りました。もちろん自主製作盤なので市販されていません。

 リーダーの相澤徹氏は、群馬大学医学部ジャズ研のピアニストで、レコードが収録された1975年3月に大学を首席で卒業し、信州大学医学部順応内科大学院への進学が決まっていました。他のメンバー3人は医学部ではなく、音大や法学部の大学生でした。


YouTube: Tohru Aizawa Quartet - Philosopher's Stone

 学生アマチュアバンドとはいえ、真摯で若さがほとばしるその熱烈な演奏は、絶頂期のジョン・コルトレーン・カルテットを彷彿とさせる鬼気迫るジャズを響かせます。バンドはこのレコードを収録後に解散してしまい、メジャーデビューすることはありませんでした。従って彼らの音源はこの1枚しか残されていません。

 一時はプロへの道も考えた相澤徹氏は演奏活動を止め、その後は医学の分野で名声を博します。大学院修了後にアメリカへ留学。帰国後は大学へ戻り、糖尿病を専門に研究。信州大学医学部医学教育センター教授を経て、現在は相澤病院糖尿病センター顧問を務めていらっしゃいます。このレコードをプロデュースした橘郁二郎氏もその後は数奇な運命を辿り、最後は田宮二郎と同じく猟銃で自らの命を絶ったとのことです。

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 この6月20日、なんと『TACHIBANA』は世界初でCD化され入手可能となりました。伝説の演奏は、43年経ったいまでも決して色褪せることはありません。

 さて、来月号の特集は「私の好きな作家・思想家」です。元国税庁長官の佐川宣寿氏が学生時代の愛読書として公言したのが『孤立無援の思想』高橋和巳(河出書房新社)でした。

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「どんなに意地をはっても、人はたった独りでは生きてゆけない。だが人の夢や志は、誰に身替りしてもらうわけにもいかない。他者とともに営む生活と孤立無援の思惟との交差の仕方、定め方、それが思想というものの原点である。さて歩まねばならぬ」

 この本のことを唄った森田童子も、先ごろ亡くなってしまいましたね。

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注1)相澤徹氏は、松本の「相澤病院」理事長とは兄弟ではない。従兄弟かもしれないが、親類でも何でもないと、本人が発言しているという話もある。出身も、長野県松本市ではなく、茨城県水戸市だ。ただ、ぼくは相澤先生とは面識がないので本当のところは不明です。

注2)橘郁二郎氏の消息も不明な点が多い。猟銃自殺を遂げたという情報は、相澤氏の群馬大学医学部ジャズ研の後輩で、ピアニスト兼、脳外科医の「甲賀英明氏のブログ」 によります。

6月20日に出たCDのライナーノーツ(尾川雄介)の最後にも「橘は残念ながら後年自殺している。」と書かれています。

・この尾川雄介氏の解説、冒頭の文章がすばらしい。

「相澤徹カルテットの演奏には聴く者を真っ直ぐに貫く勢いと鋭さがある。それはただ鳴って中空に消えてゆく音ではなく、必至とも言える切実さでこちらに迫ってくる。しかも、さながら内圧に耐え切れずに噴出したマグマのように熱く滾っている。」

注3)佐川宣寿氏は 1957年生まれで、ぼくより1つ年上だ。連合赤軍、あさま山荘事件を経て、内ゲバ事件に辟易していた僕らの年代は「シラケ世代」と呼ばれた。だがしかし、2年後輩の「共通一次試験世代」とは決定的に違う。そのことは、ぼくと同い年の坪内祐三氏が『昭和の子供だ君たちも』(新潮社)の中で、詳細に語っている。

それにしても、佐川氏がなぜ「高橋和巳」だったのか? 謎だ。高橋和巳が草場の陰で泣いてるぞ!

注4)相澤徹カルテットに関して、ぼくがツイートしたのを、以下にあげておきますね。

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ついに入手。相澤徹カルテット『 TACHIBANA』1曲目「賢者の石」めちゃくちゃカッコイイ! (6月24日)

イギリスから、またまた超ディープな「和ジャズ」コンピが届いた『SPIRITUAL JAZZ vol.8 / JAPAN: Parts 1+2』だ。選曲は JAZZMANレコードのオーナー、ジェラルド・ショートと尾川雄介。先発の『J-JAZZ: Deep Modern Jazz From Japan』とは一曲もダブらない。凄いぞ!日本語訳ライナーノーツ付き。

 

続き)このコンピで出色なのは、高柳昌行(g)が2曲、森山威男が2曲ちゃんと選曲されていることだ。高柳が「SUN IN THE EAST」と、TEE & COMPANY「SPANISH FLOWER」。森山は「EAST PLANTS」と「WATARASE」だ。森山さんは松風鉱一「UNDER CONSTRUCTION」でもタイコを叩いている。

 
続き)この2枚組CD『SPIRITUAL JAZZ vol.8 / JAPAN: Parts 1+2』にも『J-JAZZ: Deep Modern Jazz From Japan』にも収録されているのが、相澤徹カルテット『TACHIBANA』だ。まったく知らないグループだった。ライナーによると、群馬のアマチュア学生バンドの自主製作版とのこと。ところが、演奏が凄い
 
続き)まるで、1964年〜65年頃の後期コルトレーン・カルテットみたいな、強烈に熱い演奏を聴かせてくれる。特に『スピリチュアルジャズ8:日本編』CD2の2曲目に収録された「サクラメント」がいい。3拍子だからね。ピアノを弾く相澤徹は、板橋文夫みたいだ。モロぼくの好みじゃないか!
 
続き)で、検索してみたら、RTした記事を見つけた。ビックリだ。相澤徹は群馬大学医学部を主席で卒業後、信州大学医学部内分泌学教室大学院に進学。ちょうどその頃、このレコード盤はプロモーション目的でわずか数百枚プレスされた。もちろん販売はされなかった。それが今や世界中から垂涎の激レア盤
 
続き)主席→首席の間違い。相澤は演奏活動をやめ、本業の医学の道を邁進する。1975年群馬大学医学部卒業。1982年信州大学大学院修了。オレゴン大学研究員、ロチェスター大学研究員、信州大学健康安全センター教授、信州大学医学部医学教育センター教授を経て、2010年から相澤病院糖尿病センター顧問。
 

なな、なんと! 噂の激レア盤『TACHIBANA』相澤徹カルテットが、6月20日にCDで再発されるとのこと。ほんとビックリ!

 
 
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「長野医報8月号:あとがき」(書き直して採用されたもの)

 

 サッカー・ワールドカップ日本代表チームの快進撃には心底驚きました。ドーハの悲劇から約25年。日本サッカーはいま、遂に世界と対等に戦えるレベルに達したのですね。

 先日、恵俊彰の「ひるおび」(TBS)を見ていたら、スポーツライターの二宮清純氏が面白いコメントをしました。サッカー日本代表の歴代外国人監督を、学校の先生に例えたのです。ハンス・オフトは小学校の先生で、平仮名から九九まで基礎の基礎を教え、トルシエは中学部活のスパルタ指導者。ジーコは大学の名誉教授で、オシムは高校の物理の先生。ザッケローニとハリルホジッチへの言及はありませんでした。もちろん、西野監督の采配振りは賞賛に値するが、歴代監督の地道な指導があってこその大躍進であると。

 江戸時代末期、西洋近代医学が日本に導入された過程においても、外国人医師の献身的な指導がありました。シーボルトが長崎を去って30年後の安政四年(1857)、オランダ人軍医ポンペは軍艦ヤパン号(のちの咸臨丸)に乗って日本にやって来ました。彼を迎えたのは、御典医の松本良順。順天堂の創始者、佐藤泰然の次男で、勝海舟が長崎海軍伝習所を開いたその隣に、医学伝習所を開設します。ポンペはユトレヒト医科大学で受講したノートを元に、物理学、化学、繃帯学、系統解剖学、組織学、生理学総論及び各論、病理学総論及び病理治療学、調剤学、内科学及び外科学、眼科学、公衆衛生学に到るまで、たった一人ですべて講義しました。

 噂を聞いて全国から蘭方医が集まりました。佐倉順天堂から佐藤舜海と関寛斎、緒方洪庵の適塾からは長与専斎と洪庵の嫡子平三。福井藩からは橋本左内の弟他多数。しかし蘭学に精通した彼らも、オランダ語を聞いたのは初めてで、ポンペの授業を全く理解できませんでした。仕方なく、松本良順と彼の弟子、島倉伊之助(司馬凌海)が漢文に翻訳し補習授業を行いました。

 ポンペは「医者にとって患者は平等である。医者はよるべなき病者の友である」と説きました。身分差別が当たり前の受講生には、雷鳴をきく思いがしました。5年後、ポンペは帰国します。しかし、日本で精魂使い果たした彼は、ほとんど抜け殻のような余生を送ったとのことです。(司馬遼太郎『胡蝶の夢』より)

 さて、9月号の特集は「私の好きな作家・思想家」です。どうぞご期待下さい。
 
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