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2024年5月14日 (火)

カーティス・メイフィールド『new world order』を聴く(その2)

昨日の続きです。 内容は、以下の記事からまとめたものです。

 30 Years Ago: Curtis Mayfield Paralyzed During an Outdoor Concert

■民主党上院議員マルコヴィッツが、野外ステージに登壇した。

「みなさん!カーティス・メイフィールドをご紹介します。私は興奮してゾクゾクしてきました!」

その瞬間、会場に「大きな突風」が吹き荒れた。巨大なスピーカーがぐらつき始め、観客の列が散り散りになったが、マーコウィッツは続けた。「Ladies and gentlemen,  Curtis Mayfield !」

カーティスがステージに上がったその時、時速54マイルにもなる「2度目の爆風」が頭上の巨大な金属製リグを揺り動かし、スピーカーがステージから吹き飛ばされ、照明トラスが倒れた。トラスからステージ照明が外れて上から落ちてきて、そのうちのひとつがメイフィールドの首の後ろを直撃し、彼は崩れ落ちた。この日、12歳の少女を含む少なくとも6人が負傷したという。


メイフィールドは動けなかった。腕も足も使えない状態で救急車を待った。その時、ようやく雨が激しく降り始めた。少なくとも最初は、メイフィールドがいずれ回復するかもしれないという希望があった。しかし、キングス・カウンティ・メディカル・センターの医師はその後、メイフィールドが首の第3、4、5頸椎を骨折していることを伝えた。医師たちは、メイフィールドは歩くことも、ましてギターを弾くこともできないだろうと確認した。このとき彼はまだ 48歳だった。

・・

■検索したら「本と奇妙な煙」というサイトに、雑誌『Cut』1994年5月 Vol.30 に載ったカーティス・メイフィールドのインタビュー記事が再録せれていた。

――あの事故が起きた夜のことで何を覚えていますか。


「あんまり話せることはないんだよ。(略)わたしは野外ステージの裏の階段を昇っていった。昇り切って、3歩か4歩歩いて、その次に気がついたときには床に転がっていた。ギターもどっかに行ってしまってて、靴も履いてない、眼鏡もない、そして体がまるっきり動かなかった。みごとに伸びてたんだよ。にっこり笑ってステージに向かっていったその次の瞬間には、まっすぐ夜空を見つめてた。雨が降り出してたなあ。


 すべてめちゃくちゃになっていた。動かせるのは首だけだった。自分がどうなってるのかと見回してみると、ぬいぐるみみたいに床の上でぶざまに寝そべっているんだよ。もちろん目は開けたままでいた、目を閉じたら死ぬんじゃないかって気がしたのさ。みんなが来てわたしを運んでくれた。病院はすぐそこにあった。どこまで深刻な状態なのか自分ではわからなかった、生きるか死ぬかもね。……どこがどうしてどうなったのかまるでわからなかった」


――いまはどんなリハビリを行っているんでしょうか。


「正直に言うと何もしていないんだよ。ただ 単に、リハビリのしようがないからだがね。わたしが完全に寝たきりにならないようにと家族が手足のストレッチをさせてくれる。できるだけ体が固くならないように。でもどこも丈夫なんだよ、麻庫してるだけで。どこかのいいお医者がいつか魔法のような方法を見つけて、麻痺した部分を生き返らせてくれるかもしれない。そういうことが起こらないかぎり、おそらくわたしはこのままで死ぬんだろうね。

・・

■頚椎損傷で四肢麻痺に陥っても、いま現在の最先端医療でなら神経細胞の再生医療によって再び歩けるようになることも可能になった。しかし、カーティス・メイフィールドは事故後もう二度と歩くことも、ギターを弾くための手を動かすことも叶わなかったのだ。ただ、自ら作詞作曲して歌うことだけは、まだできた。

■それから6年後の 1996年。『new world order』は制作されたのだった。

車椅子に座った状態では声が出ないため、カーティスはスタジオで仰向けに横になって、しかもワンフレーズずつ細切れで歌を収録したという。CDで聴くかぎり、彼の魅力的なファルセット・ボイスは健在だし、しっかり声も出ていて、とてもそんなスタジオ収録場面を想像することはできない。

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■以上のような事情を知った上で、改めて「Back To Living Agein」を聴くと、ぜんぜん違って彼の歌声が心に響いてくるのではないか。

曲の後半、バックコーラスにかつての朋友アレサ・フランクリンが参加して歌声を披露する。そして、曲が終わった最後に、アレサ・フランクリンの励ましの声が収録されているのだ。

「 Go Ahead MAYFIELD ! 」

■しかし、持病の糖尿病が悪化して足の動脈がつまり、1998年には右足を切断。翌年のクリスマスの次の日(1999年12月26日)57歳の若さで帰らぬ人となった。

・・

・・

カーティス・メイフィールドが作詞作曲したインプレッションズ時代の代表曲「People Get Ready」(1965) を、1985年に ロッド・スチュアートとジェフ・ベックがカヴァーしヒットしたおかげで、経済的に苦境にあったメイフィールドはずいぶん助かったそうだ。事故後の療養費用にも印税が役だったという。


YouTube: Jeff Beck, Rod Stewart - People Get Ready


YouTube: The Impressions - People Get Ready  1965 歌詞 対訳

2024年5月12日 (日)

カーティス・メイフィールド『new world order』を聴く

■落ち込んで心が弱っているときに聴きたくなる音楽は、ぼくの場合、決して明るく元気が出る曲ではない。そう、例えばビリー・ホリデイの『レディ・イン・サテン』4曲目の「I get along without You very well」。最晩年の録音で彼女のからだはボロボロ、その声は老婆のようだ。でも、ビリーは乙女の気持ちで唄っている。そして優しく包み込むように、すべてを許してくれるのだ。


YouTube: I Get Along Without You Very Well

それから、ニーナ・シモン『ボルチモア』2曲目「Everything Must Change」


YouTube: Nina Simone-Everything Must Change

■彼女ら2人にはずいぶんと助けられてきた。とことん落ち込んで底の底まで沈んで行って、まっ暗やみの遙か彼方から微かな希望の光が差してくる。そういった音楽たちを、ぼくはとっても大切にしている。

 最近、新たな仲間が加わった!

安価な中古盤で入手した、カーティス・メイフィールドの『new world order』(1996年) だ。

1曲目のタイトル曲から全曲素晴らしい。アルバム全体に通底するのは深い悲しみと諦観なのだが、でも違うんだよ。彼は決して諦めてなんかいないのだ。


YouTube: Back to Living Again

■アルバム3曲目「back to living again」は、わりと明るい曲調で歌詞も前向きだ。ライナーノーツには、この曲の一節を使って、カーティス・メイフィールドのメッセージが以下のように載っている。

" Now is always the right time

  With something positive in your mind

  Whenever something pulls you down

  Just get back up and hold your ground "

        To all my old and new fans,

        thank you for caring and sharing my music.

                     - Curtis Mayfield

■ソウル界の女王 アレサ・フランクリンが、低迷した1970年代後半から見事に復活した1980年代。同じくソウル界のレジェンド、カーティス・メイフィールドはすっかり過去の人として忘れ去られようとしていた。

1990年8月13日。新作アルバムを出して再起を賭けていたカーティス・メイフィールドは、民主党上院議員のマーティン・マーコウィッツが、有権者への感謝を込めて毎年ニューヨーク・ブルックリンのウィンゲート・フィールドで開催している「野外コンサート」に招聘され、ヘッドライナーとして出演することになった。

ところが、この日は会場に嵐が近づきつつあり、でも既に1万人もの観客が会場に向かっていたので、主催者のマーコウィッツはコンサートの中止を渋り、カーティス・メイフィールドの出演時間を前倒しにしてコンサートを強行したのだった。

(まだまだ続く)

2024年2月 4日 (日)

今月のこの一曲 「貝殻節」

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■伊那市民会館に「西岡たかしコンサート」を聴きに行った時、僕はまだ中学生だったように思う。西岡さんが五つの赤い風船を解散して、ソロ活動を始めた時だから、1973年 かな。

「血まみれの鳩」「これが僕らの道なのか」「もしもボクの背中に羽根が生えてたら」「まぼろしの翼とともに」「遠い世界に」といった『五つの赤い風船』の代表曲と共に「ジャンジャン町ブルース」「満員の木」「大阪弁」などの新曲も歌ってくれた。

ただ、この日ぼくが一番印象に残った忘れられない曲は、鳥取県民謡を彼がアレンジし哀感を込めて唄った『貝殻節』だったのです。何て悲しくて美しいメロディだろう!そう思いました。


YouTube: 五つの赤い風船「貝殻節」

■ところが最近「民謡クルセイダーズ」が演奏する『貝殻節』のプロモーションビデオを見てたまげてしまいました。なんと! サルサじゃん。これはミスマッチなんじゃないの? って最初はちょっと否定的な感想を抱いたぼくでしたが、聴き込むうちに、これもありかな。いいじゃん!と変化した次第。

PVよりも、2022年10月15日「多摩あきがわLiveForest」でのライヴ演奏が好きです。


YouTube: 民謡クルセイダーズ「貝殻節」ライブ@多摩あきがわLiveForest自然人村「トーキョーマウンテン"森と踊る”」

■YouTubeを検索していたら、もっと凄い「貝殻節」を発見したぞ。なんと!坂田明、ジム・オルーク、山本達久のトリオによる、迫力のパンク・フリージャズだ。2015年6月29日(月) 盛岡「すぺいん倶楽部」にて収録。坂田さん、カッコイイなあ。


YouTube: sakata/O'Rourke/yamamoto / 貝殻節

■本家の民謡以外でも、いろんなヴァージョンが存在する『貝殻節』だが、そうは言ってもぼくが一番好きなのは、浜田真理子さんが唄う「貝殻節」だ。儚なさと哀愁の中に冬の日本海の荒々しさが目に浮かぶような迫力も感じる歌声。ほんと凄いです。


YouTube: 貝殻節/浜田真理子/鳥取県民謡/東京文化会館小ホール

2022年11月 3日 (木)

クリエイティブハウス『AKUAKU』のこと

『長野医報』11月号「特集:一杯のコーヒーから」が発刊されました。

 11月号は県医師会広報委員のぼくが編集担当で、テーマもぼくが決めたのですが、原稿がなかなか集まらず、自分も書かなければならなくなってしまいました。

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クリエイティブハウス『AKUAKU』のこと

上伊那医師会 北原文徳

 

 中央自動車道を飯田方面に南へ下って座光寺SAで下車し、西の山麓へずんずん上って行くと「信州たかもり温泉」にたどり着き、その北隣にちょっと硬派なジャズ喫茶「リデルコーヒーハウス」があります。店主こだわりの自家焙煎コーヒーをメインにアルコール類の提供はなし。小学生以下、3名以上での来店お断り。おしゃべり禁止。完全禁煙。店内には、高級オーディオシステムの巨大スピーカーからジャズが大音量で鳴り響いています。

 令和4年9月16日付の読売新聞14面に、1960〜70年代に流行したジャズ喫茶が再び注目を集めているという特集記事が掲載されました。最近のレコードブームでアナログ特有の暖かい深みのある音色に魅せられた海外の音楽ファンや日本の若者たちが、イヤホンでサブスク音源を聴くのが当たり前の現代、高級オーディオで大音量の音と向き合うことに新鮮な喜びを感じたのではないかと分析していました。

 ああ懐かしのジャズ喫茶。1977年〜1983年3月まで大学生だった僕もジャズ沼にはまり全国各地のジャズ喫茶探訪の旅に出て、記事に載っている東北の名店「ベイシー」「カウント」「オクテット」も実際に訪れました。土浦から常磐線経由青森行き夜行列車に乗ると東北方面は案外アクセスが良いのです。

 僕は筑波大の4期生で、当時の研究学園都市は茨城県新治郡桜村の地籍にあり、あちらこちら工事中。一雨降れば道路に水があふれ長靴は必需品でした。東大通り(ひがしおおどおり)沿いに中華丼が美味い「珍来」はありましたが、ジャズ喫茶みたいな文化的施設は皆無でした。「つくば万博」が開催されるまであと8年、「つくばエクスプレス」の開業は28年後なので、東京へ出るにはバスに30分以上揺られて土浦に出てから常磐線で上野までさらに70分かかりました。

 ジャズと映画に飢えていた僕は、週末になると上京して、池袋文芸座の土曜オールナイト上映で「大島渚特集」や「寺山修司特集」を観ました。夜明けの映画館を出て、始発の山手線に乗り込みそのまま熟睡して2〜3周もすれば、街はすでに賑やかになっていました。

 午前9時半からやっているジャズ喫茶は渋谷百軒店の奥にあった「ブレイキー」だけで、ここにはよく通いました。日曜日でも安価なモーニング(たまごサンド付き)をやっていて、暗い座席で煙草を吸いながら2〜3時間ねばれば、レコード片面ずつ5〜6枚を聴くことができました。ビリー・ホリデイ『レディ・イン・サテン』、ワーデル・グレイ、ウディ・ショウ。ここで初めて聴いて大好きになったレコード、演奏家がなんと多いことか! まさに僕にとってのジャズ道場でした。

 所持金にゆとりがある時は、大槻ケンヂ『行きそで行かないとこへ行こう』(新潮文庫)にも登場するカレーの老舗「ムルギー」でムルギー玉子入りカリーを食べました。美食家の山本益博氏が絶賛したラーメンの「喜楽」と共に、なんと今でも現役営業中です。

 新宿ではもっぱら「DIG」です。二幸(今の新宿アルタ)裏の雑居ビル3Fにありました。和歌山県新宮市の出身で日大芸術学部写真学科卒業のオーナー中平穂積氏が、植草甚一氏と知り合い1961年に開業した老舗のジャズ喫茶です。ビルの1階はレストラン「アカシア」。ホワイトソースのロールキャベツが有名で、当時確か380円でした。「DIG」の不味いコーヒーは400円しました。

 

 そんな僕が大学3年生になった夏の終わり、1979年9月9日のこと。筑波大学平砂学生宿舎共用棟の東側に隣接する商用地の2階に、突如『クリエイティブハウス AKUAKU』は出現しました。縦長の店内には、巨大なスピーカーJBL4343が左側面に設置され、中央にはグランドピアノ、奥は一段高くステージになっていました。昼間はジャズ喫茶、夜は食事もできるカフェバーで、遅くまで多くの学生たちで賑わいました。

 オーナーの野口修さんは地元桜村の出身で、音楽に限らず演劇・映画・現代美術にも造詣が深く、オープン1年前から当時まだ筑波大3期生の学生だった吉川洋一郎さん(作曲家・編曲家)岩下徹さん(舞踏「山海塾」ダンサー)浅野幸彦さん(アート・プロデューサー)の3人と協力して、この文化不毛の地にサブカルチャーの発信基地を立ち上げたのでした。「アクアク」というのは南太平洋の孤島イースター島の言葉で「何かを創造しようとする欲求」を意味するのだそうです。野口さんは当時「個人的な自由を離れた自由な場所が欲しかった」と語っています。

 オープニングライヴには山下洋輔トリオが呼ばれました。以後9月9日の山下トリオ公演は毎年の恒例となります。週末にはジャズに限らずロック、フォーク、ブルース、パンクの有名ミュージシャンたちが東京から海外からもライヴに訪れました。またギャラリーとして幾多のアーティストが個展を開き、スズキコージ氏や森川幸人氏はライヴペインティングのイベントを開催したりしました。さらに、演劇、舞踏、ダンス公演やワークショップ、詩の朗読会、各種講演会、映画上映など、その活動は実に多岐にわたります。

 

 当然のごとく、僕は「アクアク」に入り浸ることになります。いつしかスタッフの末席に加えてもらって、ライヴの手伝いをしながらタダで演奏を聴かせてもらい、打ち上げの宴会にもちゃっかり参加して、持参のレコードにサインしてもらいました。写真は、武田和命、森山威男、山下洋輔のサインが入った僕の大切なレコードたちです。

Img_2904(写真をクリニックすると、大きく拡大されます)

 マスターの野口さんは「アクアク」という空間を使って新たに何かやってみたい学生が持ち込む企画を寛大に積極的に受け入れました。僕が提案した「日活ロマンポルノ上映会」も、映写技術がある野口さんが16ミリフィルムと映写機を借りてきて難なく実現しました。特設スクリーンに映し出されたのは、僕が大好きな映画『㊙色情めす市場』(1974年/監督:田中登 キャスト:芹明香、花柳幻舟、宮下順子)です。客席も満員になり嬉しかったなあ。

 演劇では「転形劇場」を主宰する太田省吾氏が劇団員の佐藤和代、大杉漣と共に訪れて、無言劇『小町風伝』の一部を上演してくれました。能舞台をさらに超スローモーションにした役者さんの緊張感溢れる身体の動きは驚異的でした。

 僕が一番忘れられないのは、若松孝二監督をゲストに迎え彼が監督した映画『性賊 /セックスジャック』(1970年)を上映した時のことです。たしか野口さん自身のセレクトで「いまの学生たちにぜひ見てもらいたい映画」と言っていました。「あさま山荘事件」の2年前に作られた映画です。赤軍派の学生たちを模した武装革命グループが敗走して潜伏した先は、川向こうの貧民窟に住むまだ十代の青年の木造アパート。彼らは「薔薇色の連帯」と称してセックスに明け暮れる日々。青年は決して加わらず夜な夜な一人どこかへ出かけて行きます。彼はなんと孤独なテロリストだったのです。青年は河原でグループの男に呟きます。「天誅って、いい言葉ですよね」と。ラストで画面はモノクロからカラーに変わり、青年が真っ赤なジャンパーを着て颯爽と橋を渡って行くシーンで終わります。

 この赤いジャンパーは若松孝二監督が撮影時に着ていたもので、頭でっかちで何も出来ない学生たちを嘲笑うかの如く去って行く青年は、若松監督自身であり野口さんの分身であったに違いありません。僕は頭をハンマーで殴られたような衝撃を覚えました。

 

 卒業すると直ちに信州大学小児科学教室へ入局させていただいたので、僕はその後の「アクアク」の様子は分かりません。マスターの野口さんは、学生だけでなく地元地域住民との交流を深める中で、文化的活動をさらに広範囲に展開するためには直接政治にコミットする必要があると思い立ち、1992年につくば市議会議員選挙に初当選。以後8年にわたり市議会議員を務めつつ店を経営しました。ただ彼は、当初から「アクアク」は20世紀のうちにお終いにすると決めていて、2000年12月に数々の伝説を生んだ名店「アクアク」は、出演者からも観客からも惜しまれつつ閉店しました。

 

 今年の2月末のことです。ツイッターのDMに野口さんから連絡が入りました。「アクアクのスタッフだった横沢紅太郎が、串田和美『キング・リア』の舞台監督を務めるから、松本まで観に行こうと思っている。おい北原、折角だから会えないかな?」そうして茨城から奥さんと軽自動車に乗って、はるばる松本まで野口さんはやって来ました。

 お会いするのは実に40年ぶり!でも、気さくで飄々とした佇まいは昔とぜんぜん変わらない。同期生の山登敬之君と以前アクアクの話をしていて、彼が「野口さんて、1955年生まれだから僕らと年そんなに違わないんだよ」と教えてくれて驚いたのを思い出しました。

 観劇のあとロビーにいたピアニストの谷川賢作さんとヒカシューの巻上公一さんを見つけると、野口さんは「よう」と気軽に声をかけ、彼らも「あれ、野口さん!」と旧知の親しい間柄であることが知れました。暫し話し込んだあと彼らとは別れて「しづか」に場所を移し、郷土料理を食べながら昔話に花が咲きます。じつに楽しい一夜でした。

(『長野医報』11月号 p14〜18 より転載。一部改変あり)

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長野医報11月号用 医師会会員にFAXで送った「原稿募集のための招請文」


YouTube: 一杯のコーヒーから 霧島昇・ミスコロムビア

 

特集「一杯のコーヒーから」

 

 「一杯のコーヒーから、夢の花咲くこともある〜」ミス・コロンビアと霧島昇が昭和14年に歌ってヒットしたこの曲は、服部良一が作った明るく爽やかな曲調が今聴いてもモダンで新鮮に感じます。日中戦争は泥沼化し、日本が太平洋戦争へ突き進もうとしていた当時の流行歌とは、とても信じられないです。

 現在に目を向ければ、新型コロナウイルスの流行は一向に収まらず、ロシアのウクライナ侵攻は長期化、国内情勢も円安と統一教会問題で揺れていて、ますます不安で暗い気分の毎日です。

 さて皆さん。ここはひとつ美味しいコーヒーでも飲みながら「ほっ」とひと息入れませんか? 毎朝ぼくは、ケニアかエチオピアの豆を碾いて実験用のフラスコみたいなケメックスのコーヒーメーカーで入れた一杯を飲み干してから「よし」と診察室に向かいます。

 コーヒー関連の楽曲には他にも「コーヒールンバ」ザ・ピーナッツ、「学生街の喫茶店」ガロ、高田渡が京都イノダコーヒーのことを唄った「珈琲不演唱」、海外では「Black Coffee」ペギー・リーがありますね。

 

 という訳で、コーヒーにまつわる投稿を募集します。お気に入りのコーヒー豆について。スタバでスマートに注文する方法。隠れ家にしている喫茶店。むかし通った名曲喫茶。文筆家の平川克美氏は荏原中延で『隣町珈琲』を営みながら新たな「共有地」の可能性を模索しています。

 いろんな切り口があるかと思います。皆様のご投稿を切にお待ちしております。

 

広報委員 北原文徳

2022年9月25日 (日)

さようなら ファラオ・サンダース

■旧「しろくま通信」今月のこの一曲 に載せた、ファラオ・サンダースの文章です。

 2003年10月14日 に書いたものです。

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よく言う「無人島に持っていく1枚のレコード」ってヤツがあるでしょ。ぼくは迷わず(いや、たぶん(^^;)コレを選びます。

それほど、人生のある時期、一番大切にしていたアーティスト&レコードでありました。間違いなく。それがこの、 新宿西口「オザワレコード」で買った、2枚組輸入盤『Journey To The One』Pharoah Sanders( Theresa Records)。   

あれは、1980年代の初頭。いつものように新宿西口を出て、「オザワ」でジャズ・レコードを物色。それから地下道を潜って東口に向かいます。二幸ビル(今のアルタ)裏にある雑居ビルの1F「アカシア」 で、¥380の「ロールキャベツ定食」を食べて腹を満たしたあと、同じビルの狭い階段を上りはじめました。すると、3Fのジャズ喫茶「DIG」からピアノの音が聞こえてくるワケですよ、 ジョン・ヒックス のピアノが。もの凄くスイングして。

階段を駆け上がってドアを開けると、レイ・ドラモンドのベースが「ブンブンブンブン」と、地響きのように「ずんずん」おなかに振動してきます。そこに被さって、突然、ファラオ・サンダースの吹っ切れたサックスが咆吼しました。「パパラ、パパッパー、パパッ! パパラ、パパッパー!!」 って。これって、ものすごく気持ちいい!!

この曲が、『Journey To The One』(Side Three) 1曲目に収録された、かの名曲!『 You've Got To Have Freedom 』だったのです。

当時、ファラオ・サンダースって、ほとんど注目されていませんでした。23年前のことです。ぼくは、ごうを煮やして、「スイングジャーナル」に
投稿しました。それはこんな文章でした。(つづく)
(2003年10月14日 記)

・・・

■気分はファラオ・サンダース

ジャズを聴いていると、急に力が湧いてきて、何かしなきゃという気持ちになるとおっしゃったのは植草甚一氏であった。でも最近はそういうのが少ないんだよねぇと、わしは森山威男ばかり聴いておった。去年の夏のことだ。

そんなある日、相変わらずの新宿の人混みに驚きながら『DIG』の狭い階段を昇って行くと、熱い音がゆっくりとうねりながら降りてくる。実に久々の快感。

「おぉっ、なんだこれは」とかけ上がってみると、ファラオ・サンダースの新作『Journey To The One』。わしは驚いた。これがあのファラオ? 実に大らかに、ゆったりと吹いている。しかも力強く。何かスパッと吹っ切れた感じだ。

今までなんでコルトレーンはファラオなんか使ったんだろうと、わしは陰口をたたいていた。実際、彼はいつの間にかジャズ界から消されてしまっていた。でも一番悩んでいたのは彼自身だったんだな。

この春にでた「Rejoice」にはこんなことが書いてある。
「ジョー・ヘンダーソンみたいにもっとテクのあるヤツはいくらでもいただろうに、何で彼は俺なんかが良かったんだろうって、不思議に思ったよ。でも、彼には一度も聞いてみなかったな。なぜって、俺たち二人ともとても無口だったからさ。」

(後略)
『スイングジャーナル』1981年7月号より(なんだか、当時愛読していた椎名誠さんの文体のモロまねですねぇ(^^;;)

・・・

●そんなファラオだが、不思議なことにここへ来てにわかに活気づいてきた。先月と今月、インパルス時代の傑作3枚、テレサ時代の名盤『Journey To The One』を含む4枚が、国内盤でCD発売されたのだ。しかも、『Meditation - Pharoah Sanders Selections Take 2 』は、その「テレサレコード」のベスト盤になっていて、もちろん『 You've Got To Have Freedom 』も収録されています。紙ジャケのデザインもなかなかだし、このベスト盤はお買い得だな。(2003年10月20日追記)

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2022年3月24日 (木)

ジャズ喫茶、渋谷「DIG」にレコード泥棒が入った!! その顛末

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■『BRUTUS 特別編集:完本 音楽と酒。』を買った。ピーター・バラカンが選んだ 96枚のレコード紹介がまずは読みどころだが、p202〜p207 には「60s - 90s 時代を象徴する music & drink な4軒」として、古い順に「新宿DIG & DUG」「渋谷ブラック・ホーク」「西麻布レッド・シューズ」「渋谷公園通り カフェ・アプレミディ」の4軒が紹介されている。

■新宿DIG & DUG に関して語るのは、オーナーの中平穂積氏だ。和歌山県新宮市出身(中上健次や児童精神科医 小倉清先生と同郷)日大芸術学部写真学科に入学後は、高校生の頃から大好きだったジャズが聴きたくて東京のジャズ喫茶巡りの日々。大学5年生の時、植草甚一氏と知り合い、彼のバックアップもあって、かねてからの夢であった自分の店「DIG」を新宿二幸ビル裏の3階にオープンする。1961年11月7日のことだった。翌年3月に挙げた結婚式では、植草甚一夫妻が仲人を務めた。

BRUTUS には「そして 1967年、紀伊國屋裏にジャズバー<DUG>をオープン。」と書かれていて、中平氏が 1963年7月10日に、渋谷百軒店にオープンさせた「DIG渋谷店」の事には一切触れられていない。

じつはこの「DIG渋谷店」が、以前にも紹介したように、そのまま「ロック喫茶ブラック・ホーク」となる。1969年のことだ。BRUTUS では<ブラック・ホーク>のことを萩原健太氏(1956年2月生まれ)が紹介している。彼が高校生の時(1973年)に初めて渋谷百軒店を訪れ、大学生になると、この界隈に入りびたることになるのだった。

中平穂積氏が、なぜ「渋谷DIG」を手放したのか? これは以前にも少し書いたが、その詳細は『新宿DIG DUG物語』高平哲郎編(三一書房)に載っていて、たしか持っていたはずなのだが探しても見つからずあきらめていたら、先だって「戦争関連の絵本」をいろいろと探して納戸の奥の方から絵本を引っ張り出したりしていて、偶然その本がいっしょに見つかったのだった。以下、その真相部分を転載する。(p60〜p62)

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 1966年秋のことでした。渋谷店のレコードが大量に盗難にあったんです。あのころ、渋谷店には2000枚のレコードを三段の棚に整理してありました。ある日、出勤した従業員の鈴木彰一が、二段目の棚の1000枚が消えていることに気づいたんです。鈴木は、現在は中野の「ジニアス」のオーナーです。そのときは、鈴木も、犯人は手の届きそうなところにあったレコードを無差別に持っていったと思っていました。

 連絡を受けて駆けつけてみると、二段目の棚にケニー・ドーハムの『マタドール』一枚だけが残っていました。このレコードは幻の名盤といわれていて、1964年にケニー・ドーハムが来日したときに、本人からサインをもらったものだったんです。売ったって高い価値のある名盤なのに、その価値が判らなかったのかあわてて残していったのかは判りませんでした。

 これはメッセージじゃないかって、ぼくは冗談半分に言いました。「『マタドール』を残したのは『また盗る』の意味じゃないのかな。怪盗ルパンみたいに」

 でも、この事件は幸いなことに解決するんです。事件から3ヵ月が過ぎたころ、「DIG」渋谷店近くの寿司屋に行ったときの話です。その店の主人がこんな話をしたんです。

 「そういえば、3ヵ月前の朝方、店の前に白い車を止めて、荷物を運んでいたのがいたよ。運転していたのは、そこの喫茶店の男だったよ」

 この目撃情報を聞いて、すぐに渋谷署に連絡して、喫茶店の男が捕まって、一挙に事件が解決しました。男は「ある人に頼まれてレコードを運んだ」と自供しました。それから間もなく犯人グループ4人が逮捕されました。「DIG」渋谷店に一時期、出入りしていた不良グループが犯人だったんです。事件の後、ぱったり来なくなったんで怪しいとにらんでいた男たちでした。1000枚のレコードも無事帰ってきました。

盗難事件の直後に、渋谷署から「盗まれたレコードのリストを作って欲しい」と言われて、鈴木彰一と二人で、アメリカのレコード・カタログの「シュワン」を見ながら、900枚以上のリストを数日かかって作ったんです。戻ってきたレコードと照合したら、二、三枚ぐらいしか違っていませんでした。警察にも凄い記憶力だと誉められましたよ(笑)。

「DIG」渋谷店が繁盛したんで。店の大家が渋谷「DIG」の二階でジャズ喫茶を開店したんです。でも木造でしょう。一階と二階の音が混じり合って、ひどい状態になった。盗難事件に音の問題で、ぼくも嫌気がさしてきました。それで1967年に、渋谷「DIG」を閉めることにしたんです。

 店を売りに出したら手元に500万円が残りました。これを新宿の日本相互銀行に預けたんですが、これが幸運の始まりになりました。そこの支店長がたまたま日大の先輩ということもあって、「事業を拡大するなら融資しますよ」って話になって、それが紀伊國屋裏のビルに「DUG」を開くきっかけになったわけです。

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 『新宿DIG DUG物語 --中平穂積読本-- 』高平哲郎編(三一書房)p60〜p62 より転載

2022年2月 4日 (金)

渋谷・百軒店・『さすらい』 追補

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■百軒店にあった「ブラックホーク」には、僕は入ったことはない。店の前は何度も通りすぎたけれども。

この店に関しては『渋谷百軒店 ブラック・ホーク伝説』(音楽出版社)そして、松平維秋『SMALL TOWN TALK~ヒューマン・ソングをたどって』(VIVID BOOKS)の2冊が出版されているが、僕はどちらも未読。

以下は、『渋谷系』若杉実(シンコーミュージック)10〜11ページより。

 ブラック・ホークを開業することになる水上義憲は、大学在学中に父の知人である金融業者から「これからの時代は日銭商売がいい」と教唆されるように指南され、出物の話を持ちかけられる。それはジャズ喫茶の名店として知られていた「渋谷DIG」。

(しろくま注:新宿DIG の姉妹店としてオーナーの中平穂積氏が、1963年7月、渋谷百軒店に出店したが、1966年の秋、店に泥棒が入り一枚だけを残しレコードがすべて盗まれてしまう。残ったレコードがケニー・ドーハムの「マタドール」。犯人は捕まりレコードはすべて戻ったのだけれど、残った一枚のレコード「マタドール」が、泥棒からのメッセージ「また盗る」と不吉に思ったのか、嫌気がさしたオーナーの中平穂積氏は店を手放すことにしたのだという)

スタッフ(レコード係の松平維秋)とレコード一式を残し店を畳むことになっていたのだ。つまり、それをもとに新しい店をやれ、と。水上は姉のサポートをもと在学中にジャズ喫茶のオーナーになる。

 百軒店にはジャズ喫茶であふれ返っていた。ブラック・ホークが入るビルの2階に「SAV」。ライヴを中心としていた「オスカー」。メインストリーム系の「スイング」「ブルーノート」。そして名前どおり、こぢんまりとした「ありんこ」。百軒店のすこし手前、恋人横丁のそばにも老舗「デュエット」があった。(中略)

 だが皮肉なことに、それからほどなくして世間でのジャズ喫茶ブームに陰りが見えはじめる。こうした時勢に鑑み、水上は「DIG」から「ブラック・ホーク」と名前を変え、ロック専門の喫茶店へとリニューアルする。1969年のことだった。(中略)

 ブラック・ホークに流れるロックは一筋縄ではいかないものばかりだった。ジョニ・ミッチェルやレナード・コーエンなどシンガーソングライターはもとより、ガイ・クラーク、ガストリー・トーマスのようなカントリー系、ベンタングルやフェアポート・コンヴェンションといったブリティッシュトラッドなど、まるでフォークの世界地図を目にしているようだった。

 そのフェアポート・コンヴェンションがバックを務めるニック・ジョーンズの『バラッズ&ソングス』がきっかけでトラッドに開眼したという松平維秋は、渋谷DIG 時代からレコード係としてブラック・ホークを支えてきた人物。店内に流れた音楽をみずから”ヒューマンソング”と命名する。


YouTube: Nic Jones - Ballads and Songs

■ジャズ喫茶のマッチコレクションで知った、豊丘村在住のムッシュ松尾氏の 2022/01/18 のツイートにこんなことが書いてあったぞ。勝手に転載してごめんなさい。

僕が東京のジャズ喫茶巡りをしていたのにはちょっとした訳がありますそれは渋谷にあったロック喫茶に行く為そこで聴いたレコードをレコード店で探す為。当時音楽雑誌ニューミュージックマガジンの広告に載っていた見た事も聞いたこともない音楽に出会う為。その音楽一言で言えばヒューマンソングという

その店でブリティッシュトラッドと言う音楽を覚えた。昔ながらの伝統のフォークトラッドと新しい若者たちが試みるエレクトリックトラッドと言う音楽。ペンタングルを始めフェアポートコンベンション、スティーライスパンなどのエレクトリックトラッドに心を奪われていく。そう伝説のブラックホークだ!

なるほど、この父親のもとで育ったわけなのだな。妙に納得してしまった。スタジオジブリ『アーヤと魔女』挿入歌「The House in Lime Avenue 」 by GLIM SPANKY。


YouTube: The House in Lime Avenue

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■「佐々木昭一郎」の初期の作品には、プロの役者はまったく登場しない(「はみだし劇場」と『紅い花』は除く)

カメラの前で、素人に演技をさせるのだ。しかも、手持ちカメラだから画像は揺れるし、いきなり人物に寄るし、急にパンするし、まるで「ドキュメンタリー」のような映像が映し出される。緊張感とリアリズム。それでいて、詩情あふれるシーンも随所に挿入され、そこには必ず印象的な音楽が使われるのだ。

 『夢の島少女』→ 「パッヘルベルのカノン」

 『四季・ユートピアノ』→ 「マーラー交響曲4番」

 『川の流れはバイオリンの音』→ 「チャイコフスキー弦楽セレナーデ」

 『紅い花』→ 「ドノバン:ザ・リヴァー・ソング」

 『さすらい』→「ザ・バーズ /イージー・ライダーのバラード」


YouTube: The Byrds (ザ・バーズ) / Ballad of Easy Rider 「イージー・ライダーのバラード」

■『さすらい』の主人公「ヒロシ」は、横浜の山手通りで他人のバイクを勝手にエンジンふかしてイタズラしているところを佐々木昭一郎に発見されスカウトされた。15歳だった。父はアメリカ人で母は日本人。混血孤児で、エリザベス・サンダースホームの出身。

栗田ひろみも、佐々木が発見した。佐々木の友人(池田)の知り合いで「妹っていうイメージで12,3歳の子供が要るんだけど、ちょっと色が黒くて目がクリクリしているような子いないかって言ったら、あの子連れて来た」「放送終わったらものすごい電話が鳴るんだ、今の女の子誰ですかって」「1,2年後に大島渚の『夏の妹』っていうのに出た。初出演って、まあ大島さんが見つけたみたいになってたけど、いちゃもんは全然つける気はないけど、ぼくのに最初に出した。」(『創るということ』佐々木昭一郎より)

「笠井紀美子は、アメリカに出発する直前だった。彼女が演じた、さすらうシンガーのシーンは、出発3日前に撮った」(『創るということ』佐々木昭一郎より)

■佐々木昭一郎の作品の中では、ぼくは『さすらい』が一番好きだ。

主人公ヒロシは孤児。おとうさんも、おかあさんもいない。兄弟もいない。だから、さすらいながら探し、そして出会う。

友川かずきは兄貴だ。栗田ひろみは妹。キグレサーカスの綱渡りの女は母親のイメージか。笠井紀美子は、唄をうたう「お姉さん」だ。「交流」するためにアメリカへ行こうとしている。

ここじゃない。他のところ。この人じゃない、他の人。今ない、他のとき。自分じゃない、他の自分……。」

主人公の青年、海から出てきて、また海に帰って行く。

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■渋谷に生まれ、渋谷で育ち、いま現在も渋谷に暮らす、井上順さん。彼のツイートは、このところ毎朝の楽しみになっている。進行形の渋谷の街並みに溶け込む彼の写真とお決まりのダジャレ。

そのダンディな装いとは逆に、飾らない人柄が溢れ出た笑顔がなんとも素敵な人だ。最近出たばかりの本『グッモー!』井上順(PARCO出版 2021/10/14)は、変わりゆく渋谷の写真も満載で楽しい一冊だ。

井上順は、1947年2月、渋谷区富ヶ岡1丁目にあった「井上馬場」に生まれた。少し北へ行くと代々木八幡宮がある。祖父は獣医師で、サラブレッドの輸入にも関与し、経営する馬場には宮様方も乗馬に訪れたという。

3人兄弟の末っ子だった彼がまだ幼い頃に両親は離婚。やり手の母親は自ら会社を立ち上げバリバリ働いた。今で言えばジャニーズ系のイケメンだった彼が中学1年生の時、母親は彼が将来芸能界で活躍できるかも? とでも考えたのか、彼を「六本木野獣会」に入れる。

川添浩史・梶子夫妻の評伝『キャンティ物語』野地秩嘉(幻冬舎文庫)にも、120ページに「六本木野獣会」が登場する。渡辺プロダクションの副社長、渡邊美佐が目を付け選んだタレント候補生の集まりで、ジェリー藤尾、田辺靖雄、大原麗子ら約20人のメンバーが、六本木飯倉片町の「キャンティ」近辺にたむろしていたのだった。

井上順は峰岸徹の弟分となり「キャンティ」隣の写真家の立木義浩氏の自宅にも、よく遊びに連れていってもらったという。そして、彼が16歳の時に、ザ・スパイダースの最年少メンバーとして加入することになる(少し先に加入した堺正章は、彼と同学年だが 1946年8月生まれ)。

ザ・スパイダースは、リーダーの田邊昭知のマネージメント能力とリーダーシップ、それから、かまやつひろしの新しいものを直ちに取り入れるシャープな感性と音楽センスによるところが大きかったと。メンバーの大野克夫、井上堯之は、のちに作曲家としても大きな功績を残した。

田邊昭知はいまや、タモリも所属する田邊エージェンシーの社長だ。奥さんはあの、小林麻美。

追補)井上順さんのツイートを読んでいて驚いたのは、彼が海外ミステリー、ハードボイルド、冒険小説のファンで、新刊も欠かさずしっかりフォローしていることだ。

ハヤカワの「暗殺者グレイマン」のシリーズ、講談社文庫マイクル・コナリー「ハリー・ボッシュ」シリーズ、そのほか最近の人気シリーズものや、創元推理文庫のシブいところまで、とにかくよく読んでいてビックリしてしまったぞ。すごいな!

2022年1月26日 (水)

1971年の渋谷 道玄坂 百軒店(ひゃっけんだな)円山町。そして、佐々木昭一郎『さすらい』


YouTube: 「さすらい」 佐々木昭一郎演出 ダイジェスト

■渋谷道玄坂 百軒店(ひゃっけんだな)のことを調べていたら、いろいろと面白い。まずは、戦後1960年代〜1990年代〜そして現在に至る「渋谷」という街の変貌が、分かりやすい印象的な文章でまとめれた、『月刊 pen』での連載【速水健朗の文化的東京案内。渋谷編 ①〜⑥ が読み応えある。

<その⑥>が「若者の街、渋谷の原点は百軒店にあった」だ。この中に出てくる 1971年公開の日活映画『不良少女 魔子』(なんと、あの『八月の濡れた砂』との2本立て上映だった!)が、amazon prime video(無料ではない?)あるらしい。見てみたいな。

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『2000年 の「渋谷」の地図』

写真をクリックすると大きくなります>

■「百軒店」の歴史は古い。西武の前身「箱根土地」の堤康次郎は、入手した旧中川伯爵邸跡地を高級住宅地として分譲しようとしていたが、1923年、関東大震災が起きてしまったためその考えをやめて、被災した銀座・上野の名店(精養軒、資生堂、山野楽器、天賞堂、聚楽座など 117店)の仮店舗を誘致して、渋谷に浅草をもしのぐ繁華街を作り上げた。それが「百軒店」だ。

しかし、復興が進んで名店が都心に戻ると寂れ、隣接する花街・円山町の待ち合わせの街として発展した。東京大空襲で全て焼失したが、戦後は円山町が花街からラブホテル街へと変化するにつれ、喫茶店や飲食店や映画館が建ち並んだ。

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【1978年 頃の百軒店:店舗一覧】

「エクリア」と書いてある所が『ムルギー』 。その奥のビルとマンションには、かつて映画館が3館:テアトルハイツ(1950〜68年)テアトル渋谷(47〜68年)テアトルSS(51〜74年)あった。映画『不良少女 魔子』に登場するボーリング場は、この映画館あと地(図の、ハイネスマンション→いまのサンモール道玄坂)に出来たもの。

■平安堂で立ち読みしていた『TV Bros. / 2022年2月号』p54〜55「細野晴臣と星野源の地平線相談」の今月のテーマが「渋谷の再開発」だったんで、買ってきたら、細野さんがこんなことを言っていた。

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細野:僕の脳内では、渋谷の風景は、はっぴいえんどの時代で止まってるね。(中略)僕らがしょっちゅう通っていた「マックスロード」というカフェもなくなっちゃった。

星野:どこにあったんですか。

細野:桜丘。驚いたんだけど、あの一角って、まるで爆弾でも落とされたみたいに、軒並み建物が解体されたよね。すごく大規模な再開発が始まったらしい。(中略)

星野:「マックスロード」の他に、はっぴいえんどのメンバーが渋谷でよく行っていた店というとどこになりますか。

細野:百軒店にはしばしば足を運んだね。ロック喫茶の「ブラックホーク」とか、ジャズ喫茶の「DIG」とか。

星野:そういう店って、レコードがいっぱい置いてあって、コーヒーを飲みながら聴くという仕組みなんですか。

細野:そう。あれだけでっかい音でレコードを聴く機会はなかなかなかったから、そういう意味では貴重な場所だったんだよ。(中略)あと、渋谷には、道玄坂の「ヤマハ」をはじめとして楽器屋も多かったから、よくのぞきに行ったもんだよ。

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■「マックスロード」のことは『細野晴臣と彼らの時代』門間雄介(文藝春秋)p139にも登場する。1970年、はっぴいえんどのマネージャーとなった石浦信三は、松本隆と青南小学校、慶應義塾中等部、高校、大学(学部は違う)まで一緒の幼なじみで、松本と文学について議論を交わしてきた親友だった。『ゆでめん』の歌詞カードの癖の強い手書きの字は、石浦によるもの。

 松本と石浦は渋谷の桜丘町にあった喫茶店「マックスロード」に入りびたった。石浦(談)「2人でもっぱら戦後詩の本を片っ端から読破していってね。詩潮社の現代詩文庫なんかは、出る片はじから読んでしまった。」

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■そういえば、以前「黒猫」で買った古書『風都市伝説 1970年代の街とロックの記憶から』北中正和責任編集(CDジャーナルムック 音楽出版社)があったのを思い出し、納戸から出してきて読み始めた。

1971年の春。渋谷道玄坂百軒店の路地の一角に『BYG』という全く新しいコンセプトの音楽喫茶が誕生した。店長の酒井五郎は「新宿ピットイン」を立ち上げた敏腕マネージャーだったが、オーナーとのトラブルで辞めた人。地下にライヴ・スペースがあり、1階は自然食、2階はレコードをかけるロック喫茶という構成だった。

梁山泊の如く『BYG』に集まってきた若者4人(石塚幸一・前島邦昭・石浦信三・上村律夫)は、やがて『風都市』と名乗り、さまざまな企画・運営にたずさわり、はっぴいえんど、はちみつぱい、あがた森魚、、小坂忠とフォー・ジョー・ハーフ、南佳孝、吉田美奈子、シュガー・ベイブ、山下洋輔トリオのマネージメントにも乗り出したのだった。

■時代は少し過ぎて、1977年の春のこと。やはり4人の若者が、自分たちで「アーバン・トランスレーション」という翻訳会社を渋谷道玄坂に立ち上げる。会社のオフィスは、しぶや百軒店のジャズ喫茶『スウィング』と『音楽館』の奥の雑居ビルの1階に構えた。

経営者のメインの2人は小学校からの幼なじみで、その若者の名前は、平川克美と内田樹。

 村上春樹の『1973年のピンボール』という小説には、大学を出た後、友人と二人で渋谷で翻訳会社を経営することになった若者が出てきます。

 平川くんはよく知り合いから、「この小説のモデルは平川さんたちでしょ?」と聞かれたそうです。

 たしかに、登場人物と僕たちの境遇はよく似ていました。あの時代に渋谷に20代の若者が学生時代の友人と設立した翻訳会社なんてうちしかありませんでしたから、どうやって僕たちのことを知ったんだろうと不思議な気持ちになりました。

『そのうちなんとかなるだろう』内田樹(マガジンハウス)p103


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■速水健朗氏は取り上げていなかったが、1971年の渋谷・映画館・フォークシンガー・百軒店・円山町と言えば、僕にとって忘れられないのが、NHKのテレビドラマ:佐々木昭一郎『さすらい』(1971年 90分 オールフィルム)なのだった。

1970年代にNHKのカリスマ・ディレクターだった、佐々木昭一郎が作・演出したテレビドラマは『夢の島少女』『四季・ユートピアノ』『紅い花』『川の流れはバイオリンの音』など、世界的に評価が高い作品が多く、現役の映画監督の中でも、是枝裕和監督をはじめ大きな影響を受けたことを公言している監督は多い。

その佐々木昭一郎が『マザー』(1969)に続いて撮った「2作目」が、『さすらい』(1971)だ。現在、YouTube 上で『夢の島少女』『四季・ユートピアノ』『紅い花』『川の流れはバイオリンの音』は全篇見ることが出来る(画質はよくないけれど)。しかし、この『さすらい』だけは「90分の完全版」のアップロードはなく、冒頭に上げた「9分56秒のダイジェスト版」のみなのだった。

★【ストーリー】★ 北海道の施設で育った主人公の青年ひろし(15歳)は、上京して渋谷の映画館に掲げる映画の看板屋に就職する。その仕事場にいた先輩が、プロの歌手を目指す「友川かずき」だった。円山町にある会社の寮へ連れて行ってもらって、食堂でカレーライスを食べる二人。

踏切で待つ中学生、栗田ひろみ。真っ赤なミニのワンピース。彼女がストレートロングヘアーを右手でかき揚げる仕草に、主人公の目は釘付けだ。 妹?それとも、彼女? エロい妄想に浸る主人公。

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雨の日比谷野外音楽堂。ステージには遠藤賢司がぽつんと一人、無人の客席に向かって歌い始める。

看板屋を辞めた青年は、北を目指して旅に出る。福島では「キグレサーカス」の団員たちと、気仙沼では「はみだし劇場」の劇団員と共に過ごす日々。そして、基地の町の青森県三沢では「氷屋」になってリヤカーでバーやスナックに氷を届ける。そこで、ジャズシンガー笠井紀美子と出会う。それから……。

主人公の青年、海から出てきて、また海に帰って行く。

ここじゃない。他のところ。この人じゃない、他の人。今ない、他のとき……。」

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「栗田ひろみ」も後で登場する、京王井の頭線 神泉駅前の踏切(渋谷 円山町)

■ミュージックマガジン増刊『遠藤賢司 不滅の純音楽』p97 には「ミュージックマガジン 2007年3月号」の遠藤賢司特集に載った記事「遠藤賢司が出演したドラマ『さすらい』演出家・佐々木昭一郎に聞く」というインタビュー記事がある。以下、一部引用する。

「さすらい」は、主人公の流転を描く物語。主人公を客観的に突き放したり、引き寄せたりして描いていかなきゃいけない。で、引き寄せた時に(というのは、作者として主人公と手を取り合った時に)歌を響かせたいと思ったんですよ。

 ぼくは音楽を研究したんです。クラシック音楽から勉強しなおした。その中からボブ・ディランの姿が浮かんだんですよ。やっぱりものすごい歌手だと思った。しかもボブ・ディランというのは自分自身を歌ってるんだよね。それに痛く共鳴してね。どうしてもこの作品には音楽家を、歌を歌う人を出したかった。

 というのは、反動があったのね。ベ平連なんかが新宿とかで歌を歌っていた。それから、歌を媒介にして集団で暴力的になっていったんだ、みんな。そういう歌もハヤリはじめたんで、つき合っちゃいられないと思った。そうじゃなくて、一人で孤独に歌ってる、力のある人がいないかと思って、そういう人を起用することに決めた。それで友川かずきを見つけて、笠井紀美子、遠藤賢司と、3人、歌う人が出てくるんですけど、いずれもNHKの音楽部が拒否した人たちなんですよ(笑)。

 友川はすごい才能がある奴だと思ったよ。その場でどんどん曲を書いていくんだ。ぼくの目の前でノートを広げてね。その時に彼が、「遠藤賢司はギターが上手い」って言ったの。「抜群に上手い。あのくらい弾けたら、俺はすぐデビューできる」って。

それで、助監督の和田智充君に、遠藤賢司に会って来い、って言った。カレーライスについての歌を歌ってもらえないか、って聞いてもらったんです。ちょうど主人公と友川かずきがカレーライスを食べる場面を撮ったところだったから。二人が兄弟のような、憧れと憎しみがせめぎあっているような状態を。

そしたら「既に彼は歌ってるんです」って言うんだね。もともとシナリオに、カレーライスを食べる場面が書いてあって、カレーライスの歌を歌うところも書いてあった。ただ、誰が歌うかなんて書いてない。カレーライスの歌と1行書いてあるだけだった。

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■青年と友川かずきは、成人映画の大きな看板を抱えて歩行者天国で賑わう道玄坂商店街から映画館がある百軒店へと入って行く。それを苦笑しながら見守る外国人観光客

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■1990年代に入ると、渋谷の音楽文化の発信基地は「百軒店」から、センター街にできた「HMV」や宇田川町に雨後の竹の子のように乱立した輸入レコード店たちにすっかり取って代わってしまった。例の「渋谷系」ってヤツの誕生だ。それはまた別の話だけれど。

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■いっぽう、1997年3月9日午前零時ころ、渋谷区円山町、神泉駅近くの古アパート「喜寿荘」1階の空き部屋で「東電OL」が殺害される。いわゆる「東電OL事件」だ。

強盗殺人罪で逮捕起訴されたネパール人ゴビンダ・プラサド・マイナリは、一審無罪、二審で逆転有罪の判決を受け、最高裁で無期懲役が確定。ゴビンダは無罪を訴え再三にわたる再審請求を行い、2011年、被害者から採取された精液や体毛のDNAがゴビンタ以外の男のものであることが判明し、2012年再審開始。11月に無罪判定となり、冤罪であったことが確定した。

2022年1月11日 (火)

ムッシュ松尾の「僕のマッチコレクション懐かしのJAZZ喫茶マッチの世界 展」at the『リデルコーヒーハウス』

■1月9日(日)の午後、延滞していた本をを南箕輪村図書館に返却し、代わりに最近ツイッターで話題になった『辛口サイショーの人生案内デラックス』最相葉月(ミシマ社)を借りる。

そのあと、伊那インターから中央道下り線に乗って「座光寺パーキングエリア」で下車し、左手山側へずんずん上って行って突き当たりを右折。橋を渡ってすぐ左手に、高森町の日帰り温泉「信州たかもり温泉 湯ヶ洞」があって、その北側の急な坂道をちょっと上ると、目指すジャズ喫茶『リデルコーヒーハウス』だ。

■営業時間は< 15:03 〜 21:03 >。休店の日は、ブログで確認のこと。

団体客お断り。2人連れまで。駐車場に車が3〜4台とまっていれば、ほぼ満席と、2階の店内の面積はそこそこ広いのに、コロナ対策で厳しい人数制限がなされている。

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お店の窓から南アルプス荒川岳を望む。右側に行くと赤石岳

ここでは、1月いっぱいムッシュ松尾の僕のマッチコレクション懐かしのJAZZ喫茶マッチの世界 展」が開催されていて、ツイッターでたまたま知ったので、コロナは心配ではあったけれど、我慢できずに見に来たのでした。

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■ところで、これらのマッチを収集した「ムッシュ松尾」氏って、誰? 何者??

僕はまったく知らなかったのだが、いろいろ検索するうちに判ってきたことは、豊丘村在住で同村内に『HAPPY DAYS』という雑貨屋さんを経営し(この1年半はコロナのため休業中)懐かしい様々な物品を収集している「サブカルおやじ」であるらしいということだ。

■むむっ? 「松尾」+「豊丘村」!? と言えば、いまの若い人たちなら即座に「GLIM SPANKY」のヴォーカル:松尾レミ を思い浮かべるだろう。ということは、もしかして、ムッシュ松尾は、松尾レミのお父さんなのか? 

ピンポーン! → 正解でした! 喫茶店のマスターにも確認しました。

この松尾レミのインタビュー記事(2018年 春)を読むと、彼女は「父親は61歳のカルチャー好きなヘンなおじさん」と発言している。ということは、現在 65歳か。僕より2つ上だな。そうなると、1975年〜1980年頃に彼が暮らしていた東京と京都? で、これらのジャズ喫茶のマッチは収集されたものと思われます。

■3つのテーブル上に並べられた個性あふれるマッチは、約300個。東京のジャズ喫茶が主で、あとは京都のジャズ喫茶。「イノダコーヒー」や、名曲喫茶(渋谷道玄坂百軒店「名曲喫茶ライオン」など)、ロック喫茶のマッチもある。長野県内のジャズ喫茶のマッチもいくつかあった。(松本「アミ」伊那「あっぷるこあ」「カフェドコア」飯田「ブルーノート」) それにしても、ホントよく集めたねえ!!

■この中で僕が行ったことがあるジャズ喫茶は、19軒しかなかった。

 新宿「DIG」「DUG」「びざーる」「木馬」「ピット・イン」 

 渋谷「ジニアス」「ジニアスII」「デュエット」「スゥイング」「音楽館」「メアリージェーン」

 自由が丘「アルフィー」 四ッ谷「いーぐる」 上野「イトウ」

 京都「しぁんくれーる」「52番街」

 伊那「あっぷるこあ」 松本「エオンタ」「アミ」

僕は茨城の田舎(茨城県新治郡桜村)の大学だったから、週末に常磐線に乗って東京へ出てきては、池袋文芸座でオールナイト映画を見て、明け方始発の山手線に乗って電車の中で熟睡。そのまま山手線を2〜3周したあと、新宿や渋谷のジャズ喫茶やレコード店めぐりをしていた。それは、1977年〜1982年の6年間のこと。

だから、東京では、中央線沿線の有名ジャズ喫茶には、一度も行く機会がなかった。ムッシュ松尾氏が通った時期と、数年微妙にずれているのかな? 

ぼくが渋谷でずっと通っていた、道玄坂百軒店「ブレイキー」のマッチは残念ながらなかったし、目蒲線西小山に住んでいた兄貴の所に泊めてもらった時には、大岡山の東工大前にあった「ガールトーク」に何度か行った。ここのマッチもなかった。

■そしたら、僕のツイートに「ムッシュ松尾」氏がリプライしてくれた。なんと! 松尾氏は東京に住んだことは一度もないんだって。もうビックリ。ずっと豊丘村で暮らしながら、休日に上京しては音楽喫茶とレコード屋めぐりをしていたんだそうだ。

もちろん、展示されたマッチの店すべてを訪れた訳ではなくて、古道具屋で見つけて集めたマッチもあると。それでも、200軒近くは直接行ったことがある店とのこと。いやあ、それにしても凄い。凄すぎる。

松尾氏も僕も、二人とも東京で一度も暮らしたことがないのに、東京のジャズ喫茶について熱い想いがあったことが、なんだか同志みたいでうれしかった。

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■京都河原町通荒神口角荒神町の2階にあった『しあんくれーる』。高野悦子『二十歳の原点』にも出てくる。一度だけ行った。ビル・エヴァンズが静かにかかっていた。『52番街』は確か同志社大学の裏手だったかな? 「アルテックA7」が鳴ってたように記憶している。

■サッチモの線画のマッチは『あっぶるこあ』。地元の伊那バスターミナルの通りの向かい2階にあった。僕が高校2年生の時にオープンした。同じクラスの小林クンは早々に入り浸っていたけど、僕が初めて中に入ったのは大学生になってからだ。実は怖くて一人では入れなかったのだ。

ここで聴いて印象に残っているレコードは、

『The Soulful Piano』ジュニア・マンス・トリオ、『BLUE CITY』鈴木勲、それから、板橋文夫『濤』A面「アリゲーターダンス」と「グッドバイ」。人気の美人ママ(竹田成子さん)が仕切っていたが、ニューヨークへ行ってしまった。

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吉祥寺の『ファンキー』もジャズ喫茶の老舗だ。ただ、僕は行ったことはない。

先だって、松本の中古CD店『ほんやらどお』で、高田馬場にあるジャズ喫茶『イントロ』(ここも行ったことない)が開店20周年記念ライヴをCDにした『Soulful "intro" Live! 』(1995) を 700円で入手した。店主の茂串邦明氏がドラムを叩き、アマチュア・ミュージシャンの常連客が次々とジャム・セッションを繰り広げるアットホームなCDだ。

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■このCDの3曲目、レイ・チャールズの「ジョージア・オン・マイ・マインド」で、見事なアルトサックス演奏を披露しているのが『ファンキー』店主の野口伊織氏だ。玄人はだしの歌心とテクニック。ちょっと、アート・ペッパーみたいでビックリした。

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「野口伊織記念館」のサイトに行くと、なんと、彼は悪性の脳腫瘍で 2001年に 58歳の若さですでに亡くなっていた。知らなかった。ここの「野口伊織の作品」の中に、この「ジョージア・オン・マイ・マインド」が mp3ファイルで載っているのだが、何故かちっともアクセスできなくて残念。


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■新宿二幸(今のアルタ)うら『DIG』へはよく行ったな。まずは1階の『アカシア』でロールキャベツ(350円くらいだったか?)を食べてから狭い階段を3階へ上って行くと、ずんずん地響きのようにスピーカーから熱いジャズが降ってきた。マッチに描かれたビュッフェの絵は、エラ・フィッツジェラルドの『ガーシュウィン・ソングブック』のレコード・ジャケットから。

ここでは、ウディ・ショウ『Stepping Stones』、エルヴィン・ジョーンズ『Live at the Light House』、そして、ファラオ・サンダース『Journey To The One』の Side C「You've Got To Have Freedom」を初めて聴いた。店を出たあと直ちに西口小田急ハルク裏のレコード店「オザワ」へ走って、ファラオ・サンダースのテレサレコード2枚組を買ったのだった。それ以来、無人島に持って行くなら「このレコード」と決めている。

「さいきんおげんきですか?」のマッチの斜め左上が、同じく新宿東口にあった『びざーる』のマッチ。地下の穴蔵へ降りてゆくと、デイヴ・ベイリーの『BASH!』がご機嫌に鳴っていたっけ。

■「DIG」が閉店して、もうずいぶん経ってからだったか、家族で新宿中村屋に入ったら、中平穂積さんがひとりテーブルでインドカリーを食べていた。

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■代々木『ナル』のマッチの2つ右。松本市緑町『凡蔵』の隣にあった『アミ』のマッチ。これは知らなかった。2階があって、靴を脱いで上がった。みな横に寝そべってくつろいでいた。

ファラオ・サンダースが大好きなんです!って言ったら、マスターが「ファラオなら、コイツが最高さ!」と『Love In Us All』のレコードを初見の僕にいきなし貸してくれた。当時入手困難だったので、うれしかったなあ。

確か、隣の店舗から火が出て、延焼で燃えてしまった。

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■国分寺時代、地下にあった『ピーターキャット』のマッチ。初めて実物を見た。千駄ヶ谷に移転後の店も僕は行ってない。国分寺の店の様子は、上原隆『こころ傷んでたえがたき日に』(幻冬舎)79ページ「彼と彼女と私」に詳しい。

何かで読んだのだが、佐藤泰志の奥さん(まだ結婚する前)が、同時期に国分寺の別のジャズ喫茶に勤めていたらしい。『きみの鳥はうたえる』は国分寺が舞台だ。佐藤泰志は『ピーターキャット』を訪れたことがあるんじゃないかな。

■検索したら、『移動動物園』佐藤泰志(小学館文庫)の解説で、岡崎武志氏が書いていることが分かった。さっそく納戸から文庫本を取り出してきたところ。少し長くなるが以下に引用する。

ところで、佐藤泰志と村上春樹の意外な関係について、少し触れておきたい。二人は1949年生まれの同い年という以上に、機縁がある。佐藤は函館、村上は神戸と、背後に山が迫る港町で青春時代を送った。高校はいずれもその斜面にあった。浪人時代を経て、北から、西からの上京者であり、どちらも国分寺で同時期に暮らしていた。

文壇デビューも佐藤が28、村上が30、とともに遅い。大学在学中に結婚相手を見つけ、一緒に住み始めたのが同じ1971年。アメリカ文学の影響を受け、ジャズが好きだったのも同じなら、佐藤夫人の喜美子さんは国分寺の「モダン」、村上夫人の陽子さんは神保町「響」と、どちらもジャズ喫茶でアルバイトをしていた。

村上春樹はジャズ好きが高じて、早稲田大学在学中の1972年に国分寺南口でジャズ喫茶「ピーター・キャット」(のち千駄ヶ谷へ移転)をオープンさせる。そこで考える。ジャズ好きの佐藤が、村上の「ピーター・キャット」へ行ったことはなかったろうか。と。

この妄想は、同じ国分寺在住の私を刺激する。しかし二人はおそらく言葉を交わしたこともないだろうし、やっぱりどこかが決定的に違うのだ。

小学館文庫『移動動物園』佐藤泰志 解説 281ページ:岡崎武志

■岡崎武志氏は、著書『ここが私の東京』の第一章「佐藤泰志 報われぬ東京」で、佐藤泰志についてさらに詳しく書いている。こちらは全文ウェブ上で読める。

実は、岡崎氏も指摘していない「この二人」の共通点がもう一つある。

それは、「走る人」であることだ。東出昌大主演で最近映画化された、佐藤泰志原作の『草の響き』は、ランニング小説だ。河出文庫『きみの鳥はうたえる』に収録されているこの小説に関しては、以前ブログに書きました。

■『アルフィー』は自由が丘の駅近くにあった硬派のジャズ喫茶。肩まである髪のまだ若いマスターがブイブイいわせていた。一度しか行ったことないけど、デヴィッド・マレイの『ロンドン・コンサート』が、がんがん鳴っていた。

■僕が通った1970年代後半の渋谷はすっかり変わってしまった。

ハチ公口から街へ出て、スクランブル交差点を渡って「109」を左に道玄坂を少し上ると右手が「百軒店」の入口だ。曲がって左に中華「喜楽」坂の右手に「道頓堀劇場」。突き当たり正面左側に、卵入りカレーの「ムルギー」、その左奥2階がジャズ喫茶『音楽館』。右側の細い路地を真っ直ぐ行くと、ロック喫茶『BYG』と老舗名曲喫茶『ライオン』。さらに奥へずんずん行くと、円山町のラブホテル街。

ただ驚いたことに、喜楽は小綺麗なビルに建て変わったけれど、いまも現役で営業を続けている。ムルギーに至っては、建物も外装も内装も椅子もテーブルも?当時のまま営業を続けている。

大槻ケンヂが『行きそで行かないところへ行こう』で通った頃には、会計のレジに割烹着でちょこんと正座した、永六輔みたいな角刈りの気っぷのいいおばあちゃんはいなかったのかな? リンクした島田荘司氏の文章は、残念ながらさすがにリンク切れだった。

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★【1978年ころの渋谷「百軒店」の店舗一覧:「エクリア」と書いてある所が『ムルギー』だ 。その奥のビルとマンションには、かつて映画館が3館:テアトルハイツ(1950〜68年)テアトル渋谷(47〜68年)テアトルSS(51〜74年)あった。 一番下の通り右から6軒目に、ちゃんと『ブレイキー』も載っている!】

滝本淳助さんのツイート(2021年9月16日)より、1978年の「ムルギーから左奥の眺め」

「ムルギー」を左に奥へ進むと、右角の1階にロック喫茶『ブラックホーク』(2階が『音楽館』)道の左側には『スウィング』(しばらくして宇田川町へ移転)があった。右へ曲がって細い路地を入って行くと、右手1階に『ミンガス』(ここは入ったことない)。対面2階に目指す『ブレイキー』があった。遅い時間で所持金にゆとりがある時は「ムルギー卵入りカレー」で、早い時間に着いた時は『ブレイキー』(午前9時半に開店した)で、黒すぐりジャム入り紅茶とたまごサンドのモーニングセットをよく食べたなあ。遙かむかしの話だ。

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(上から3段目左端のマッチが、渋谷百軒店ロック喫茶『ブラックホーク』。最上段左から4番目が『名曲喫茶ライオン』のマッチだ)

2021年12月22日 (水)

クリスマスがやって来る気分にちっともなれないのは何故?

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(写真をクリックすると、大きくなります)

■12月になると、処置室に置いてある「ラジカセ」からは、クリスマスのCDを流している。診察中ずっと、エンドレスで。

例年、院長はけっこう音楽的にこだわっているんだよ、と思ってもらうために、大好きなジェイムス・テイラーの「クリスマス・アルバム」か、山下達郎&竹内まりやの「ケンタッキー・フライドチキン」のオマケCDを流すのだが、今年はやめた。で、代わりにずっと「このクリスマスCD」をエンドレスで連日流している。

ぜんぜん飽きることがない。収録された「ジングルベル」のいろんなバージョンを聴いてると、なんかすごく懐かしくて、かつては「いい時代」があったのだなあと、しみじみしてしまうのだった。

■伊那市「黒猫」店主の田口史人さんが発刊している、週刊「日本のレコード」第30回で配布された封筒に入っていたのがこの「付録CD」で、クリスマスのレコード特集だったのだが、その選曲が絶妙で、めちゃくちゃ感心してしまった。で、を連日ずっとかけ続けているという訳だ。

■このCDの聴きどころは、前半に収録されている「渡辺プロダクション・オールスターズ&クレイジー・キャッツ」によるクリスマス・アルバムだ。これは傑作だね。スマイリー小原のジャズ・オーケストラが「クリスマスのファンファーレ」を奏でると、続いて「ザ・ピーナツ」の二人がビング・クロスビーの「ホワイト・クリスマス」を敬虔に歌う。次は、伊東ゆかり。当時は「中尾ミエ・伊東ゆかり・園まり」で三姉妹だったっけ?「サンタが街にやってくる」を歌うが、彼女、歌上手いね! ジャズのリズム感とか完璧だ。

続いてお待ちかねの「クレイジーキャッツ」の登場だ。例によって、青島幸男が作詞したオリジナル曲なのかな? 笑っちゃうには、植木等が「クリスマスとは、西洋のお正月!」って歌うところ。あはは! でも、当時はぼくもそう思ってたなあ。

■以下は、ツイッターに一度アップして次の日の朝になってから、ちょっと思うところがあって消去てしまった文章です。でも実は残してあったのでした。


伊那市「黒猫」が発行している、週刊『日本のレコード』(30)は、クリスマスのレコード特集。付録のCDを診察中にずっとかけているのだが、これは聴き応えがあるな。戦後の日本という国の歩みが、このCDに完璧に集約されていたからだ。それはまた僕自身の人生の歩みとピッタリ一致していた。

1958年生まれの僕にとって、1960年代は高度経済成長の夢の時代だった。アメリカに追いつけ追い越せ。クリスマスは、まさにその憧れのアメリカの象徴だ。当時のレコード、辺プロのクレイジーキャッツや舟木一夫のジングルベルを聴くと、僕が子供だったの頃のウキウキした気分がリアルに蘇る。


松任谷由実の「恋人はサンタクロース」は、バブル前夜の楽曲だ。お父さんがクリスマスケーキを買って帰って家族で一家団欒の幸せを噛みしめる日が、娘は彼氏と出かけてしまう日になった。


また、1980年代後半はスキーが大ブームだった。新宿を深夜出発したスキーバスは、明け方の国道18号を志賀高原、斑尾、野沢温泉へと連なって走って行った。映画『私をスキーに連れてって』の影響だ。ホイチョイ・プロダクションと広告代理店&テレビ局がイケイケだった時代。


バブルが泡と弾けて、ユーミンも方向性に迷っていたころ、山下達郎はしぶとく「クリスマス・イヴ」で毎年年末に稼ぎ続けている。そしてコロナ禍の2度目の年末を迎えている訳だが、黄昏を迎えた日本のクリスマスは、全く盛り上がっていない。それは、全てを経験してきた僕らの世代の責任か。


そして、この付録CDの最後に収録されているのが「楽しいお正月」だ。そう、もういくつ寝るとお正月。思い出した。僕が小学生の頃は、クリスマスよりもお正月のほうがずっとずっと楽しみだったのだ。大学生の頃でも、まだ24時間年中無休のコンビニは近くになく、年末年始の食料調達にはホント苦労した

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