読んだ本 Feed

2012年12月31日 (月)

破滅型の天才白人ジャズマン、ビックス・バイダーベック

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『ジャズ・アネクドーツ』ビル・クロウ著、村上春樹・訳(新潮文庫)を読んでいる。ジャズマンのいろんな逸話を集めた小話集なのだが、前半は期待したほど、とんでもない「おバカ野郎」があまり登場せず、案外みんなマジメなんだなぁって、ちょと残念に思った。

そしたら、やっぱりいたんだ! 愛すべきおバカ野郎が。


彼の名は、ビックス・バイダーベック。


 ビックス・バイダーベックはコルネットを美しく生気溢れる音で演奏した。エディ・コンドンはそれを「イエス、と言っている娘みたいな」音だと表現している。ビックスはレコードにあわせて吹くことによってその楽器を習得した。そしてトーンとフレージングのまったく独自なコンセプトを発展させていった。

ほかのジャズ・ミュージシャンのほぼ全員がルイ・アームストロングの呪縛下にあったその時代にである。ビックスはシカゴに住んでいて、その当時アームストロングもまたシカゴで演奏していた。彼はルイの演奏を耳にして、心を引かれた。しかしそれにもかかわらず独自のスタイルで演奏を続け、多くの追従者たちを生み出した。(『ジャズ・アネクドーツ』p247 〜 p261)


■ビックスは、子供の頃から上の前歯が「差し歯」だった。でも、歯医者に行くのが嫌でずっとそのままだったから、成人してからしょっちゅう「差し歯」が抜け落ちた。咳をしたり、頭をさっと振ったりしただけで、すぽっと外れてしまうようになった。前歯がないとラッパは吹けない。


差し歯なしには彼はただの一音も吹けなかった。どこで仕事をしていても、バンドの連中が床にしゃがみこんでビックスの差し歯を探し回るというのは毎度の光景だった。

あるとき、シンシナティーで明け方の五時、雪の積もった道路を1922年型のエセックスで進んでいるときに、ビックスが「車を停めろ!」と叫んだ。ワイルド・ビル・デイヴィソンとカール・クローヴが一緒だった。まわりを見てももぐり酒場はない。「どうしたんだよ?」とデイヴィソンが訊いた。「歯をなくしちまった」ビックスが言った。

彼らは車を降りて、積もったばかりの雪の中をしらみつぶしに探した。ずいぶん長く探し回ったあとで、デイヴィンソンが雪の上の小さな穴を目にした。歯はその穴の中にみつかった。それは静かに道路に向かって沈んでいく途中だった。

ビックスはそれを口の中にはめ込み、みんなは「ホール・イン・ザ・ウォール」に向かった。彼らはそこでポークチョップ・サンドイッチとジンのために毎朝演奏をしていたのだ。ビックスがその歯を固定してしまわないのは、とくに驚くべきことではなかった。彼は歯医者になんか行くような人間ではなかったのだ。(中略)

バイダーベックの心を引きつけていたのは音楽とアルコールで、それ以外のことはほとんど眼中になかった。身なりにもまったく関心がなく、きちんとした服装を要求される仕事が入ったときには、しばしば問題が生じた。



ビックス・バイダーベックが活躍したのは、1920年代のこと。アメリカの禁酒法時代。いわゆる、華麗なるギャツビーの「ジャズ・エイジ」だ。
そんな時代だったのに、ビックスは酒好きで、しかもとんでもなく大酒飲みだった。

1929年。大恐慌がやって来る。ビックスがポール・ホワイトマン楽団の地方巡業で稼いで銀行に貯め込んだ貯金も、すべて水の泡となった。

あとは、破滅型ジャズマンおなじみの転落の道まっしぐら。アルコール中毒が進行し、まともにラッパも吹けなくなってしまって、ニューヨークの友人のアパートメントに転がり込んだバイダーベックは、弱り切った身体を肺炎にやられ、あっけなく死んだ。享年28。


■ビックス・バイダーベックのことは、村上春樹が『ポートレイト・イン・ジャズ』和田誠・村上春樹(新潮文庫)の中でこう書いている。
 
 ビックスの音楽の素晴らしさは、同時代性にある。もちろん音楽スタイルは古い。でも彼の紡ぎ出す、真にオリジナルなサウンドとフレージングは、古びることがない。その音楽がたたえる喜びや哀しみは見事にありありとしていて、こんこんと湧き出る泉のような潤いは、今ここにいる僕らの心の中に、躊躇なく、何のてらいもなく沁み込んでくる。それは懐古趣味とは無縁なものだ。
 
 ビックスの音楽を耳にした人がおそらく最初に感じるのは、「この音楽は誰にも媚びていない」ということだろう。コルネットの響きは奇妙なくらい自立的で、省察的でさえある。ビックスがじっと見つめているのは、楽譜でも聴衆でもなく、生の深淵の中にひそむ密やかな音楽の芯のようなものだ。そのような誠実さに、時代の違いはない。

 ビックスの偉大な才能を知るには、たった二曲を聴くだけで十分だ。

"Singin' the Blues" と "I'm Comin' Viginia" 。素敵な演奏はほかにもいっぱいある。しかし異能のサックス奏者フランキー・トランバウアーと組んだこの二曲を越える演奏は、どこにもない。それは死や税金や潮の満干と同じくらい明瞭で動かしがたい真実である。たった三分間の演奏の中に、宇宙がある。(『ポートレイト・イン・ジャズ』p78 〜 p83)



■『ジャズ・アネクドーツ』(新潮文庫)には、ビックスが酒を飲み過ぎた時の話、密造酒を取りに行って列車にひかれそうになった話、電車を乗り間違えて仕事に間に合わなくなった時の話、死期が近い頃の心温まる話、死後55年経ってからの話など、それはそれは面白い。


読むと彼のラッパの音がどうしても聴いてみたくなる。

でも、ぼくは今まで「この人」全くのノーチェックで、CDもレコードも持ってないし、ちゃんと聴いたこともなかった。いや恥ずかしい。

1920年代〜1930年代の古い演奏を集めた『ジャズ・クラッシックス・マスターピース』(Emarcy / CD4枚組)は持っていたので、もしかして収録されているのでは? と、出してきてみたら、あったあった、2枚目にフランキー・トランバウアーとの"Singin' the Blues" 、3枚目にホワイトマン楽団での "San"がそれ。

2012年12月30日 (日)

『物語論 17人の創作者が語る物語が紡がれていく過程』木村俊介(講談社現代新書)に載っていた「是枝裕和」インタビュー

■先だって、買ってきたまま「積ん読」だった『この本』が僕を呼んだのだ。たぶん、そうに違いない。廊下に積み上げられた本の山の底のあたりで、ちょっとだけ背表紙が飛び出して自己主張していたんだ。

ん? と「本の山」が崩れないように、そうっと抜き取って見たら、緑色の帯に「是枝裕和」の文字を発見。おぉっ!

著者の木村俊介氏は、あの名著、斉須政雄『調理場という戦場』を聞き書きした、新進気鋭の若手インタビュアー。彼が「週刊文春」「小説現代」「小説トリッパー」「週刊モーニング」のために取材した、現在注目される17人のクリエーターへのインタビューをまとめたものだ。

面白いのは、漫画家のパート(荒木飛呂彦、うえやまとち、弘兼憲史、かわぐちかいじ)と、作家のパート(村上春樹、橋本治、伊坂幸太郎、島田雅彦、桜庭一樹、重松清、平野啓一郎)なのだが、そんな中に、映画監督「是枝裕和」氏のパートが入っていたのだ。


<以下、勝手に抜粋>

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「映画にしなきゃ、というのはやめようと思いました」是枝裕和/映画監督
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 映画監督の是枝裕和氏(1962年生まれ)は、『幻の光』『ワンダフルライフ』『ディスタンス』『誰も知らない』などで、ドキュメンタリーのように映画を製作する手法を開拓してきた。取材日は 2008年の5月8日。初出は「週刊文春」(文藝春秋)2008年6月5日号だった。


 大学生時代に、有楽町にあった映像カルチャーホールで、NHKの演出家をしていた佐々木昭一郎さんの作品を『四季・ユートピアノ』『川の流れはバイオリンの音』などいくつか観たんです。

 登場人物が語る言葉のひとつひとつがまるで詩のように美しくて、作品全体もドラマにもドキュメンタリーにもジャンル分けできないような映像で、衝撃的でした。こんなにも説明的ではないものがテレビとして成立しているんだ、と当時の日本映画よりも圧倒的に憧れたんです。

 それでテレビマンユニオンというテレビ製作会社に入ったけれど、当時の1980年代後半のテレビの周辺というのは表現の衰退と荒廃を感じることばかりで、正直しんどかったですね。現実の仕事で関わだるを得ないテレビと、自分が理想とするテレビとのギャップがかなり大きく、もがいていました。(中略)


 でも、ディレクターの仕事をやるようになったら、おもしろくなってきました。ディレクターとしての初仕事は高級官僚の夫を亡くした奥さんに取材したものでした。番組を作って、のちにそれを本にまとめる過程で、野田正彰さんの『喪の途上にて』(岩波書店)を読んだのがとても大きかった。
飛行機事故の遺族がどう癒されたり癒されなかったりするのかについてが、精神科医として付き添う視点から書かれ、喪の途上でも人は創造的であり得るし、喪の途上の姿というのは美しいと書いてあった。

「残された奥さんに話を聞かせてもらった時に僕が感じていたのは、たぶんこういうことだったんだ」と思いました。最初の取材でそうして人の陰影に美しさを感じたことは、その後の僕に影響を与えてはいるのでしょう。


 僕はよく「死を描く」と言われるけれど、実際には残された人のことを描き続けているんじゃないかと思うんです。いい本に出会って、そんなことを考えていた時期に、『もう一つの教育』というドキュメンタリーのために長野県の伊那小学校で子どもを取材していました。

 三年間、仕事の合間に東京から通って子どもたちを撮影していたんですが、学校で牛を育てて種付けをして乳搾りをしようというところで母牛が死産してしまったんです。

 みんなでワンワン泣いて、葬式もして。でも、乳牛って死産でも乳が出るんですね。その時書いた子どもたちの詩や作文を読ませてもらうと「悲しいけれど乳しぼる」とか、「悲しいけれど、牛乳は美味しい」とか、悲しみを経験したあとの文章には、明らかに以前とちがう複雑な屈折がありました。


 結果的にですが、僕はそういう脱皮の過程と言うか、喪を媒介にして人間が輝く姿に引き寄せられたのだろうと思います。

 映画を撮るきっかけは「宮本輝さんの『幻の光』を映画化するという話がある。あなたが官僚の自殺を追ったドキュメンタリーに通じるものがあるから、監督をやってみないか」と誘ってもらったからですね。

 さいわい評価もいただけて、予想外のいい着地ができたのですが、反省点はいくつかありました。当時単館映画は 7000万円から 8000万円ぐらいで作らなければ資金を回収することはむずかしいのに、何もわからないまま製作費を一億円使ってしまいましたし。

 それから、演出面では『非情城市』などの映画を撮ったホウ・シャオシェン(候孝賢)監督から「構図を事前に決めているだろう。役者の芝居を見る前に、なぜどこから撮るか決められるんだ? ドキュメンタリー出身なんだからわかるだろう」と鋭く指摘されたのが決定的でした。

 自身がなかったので、事前の設計図をなぞるような形で撮影に臨んでしまったことにあとになって気が付きました。ですから、再び映画監督をやれるという機会をいただいた時には、まず「映画にしなくちゃと思うのはもうやめよう」「自分はテレビの人間なのだから、テレビディレクターとしておもしろいものを撮影しよう」と思いました。

『物語論』木村俊介(講談社現代文庫)p65〜68。

2012年12月26日 (水)

『クイック・ジャパン』vol.105(最新号)太田出版 より、是枝裕和インタビュー

■ゴールデンボンバー特集の『クイック・ジャパン』最新号に、是枝裕和監督初の連続テレビドラマ『ゴーイングマイホーム』に関するインタビュー記事が載っていると、ツイッターで知って、早速「いなっせ」1F「BOOKS ニシザワ」に行って立ち読みしてきた。いや、ももクロには興味があるけど、ゴールデンボンバーはね、ちょっと。だからごめん、立ち読みで済ませたんだ。(追記:でも正確を期すべく、結局もう一度行って買ってきたのだ)


◆『ゴーイング マイ ホーム』最終回直前 是枝裕和(監督・脚本)インタビュー <テレビを支配する「わかりやすさ」への回答>


面白かったのは、このドラマに関する批判として「テレビドラマに映画的手法を持ち込んだ勘違い」という、ほんとよくある切り口を、「うん、そう言ってる人は映画のこともテレビのこともよくわかっていないと思いますけど(笑)。」と、あっさり一蹴していることだ。爽快ですらある。

カンヌ映画祭で賞を取った日本の有名映画監督が、ちょっとテレビで「連続ドラマ」撮ってみたけれどみごと惨敗。的レベルでの批判は、ほんと底が浅い。

そういうことを言う人たちは、是枝さんのことをほとんど全くなんにも理解していないんだと思った。是枝さんは元々が「テレビの人」で、映画を撮るようになったのは後の話だ。

■なんて偉そうなこと言ったぼくも、実は『幻の光』も『歩いても歩いても』も『空気少女』も見ていないのだが。


【ポイント】は……


1)企画、脚本、演出、編集をすべて是枝監督一人でやったこと。


ふつう、テレビの連ドラは脚本家は一人だが、演出家は別に複数いて、例えば、NHK朝の連続テレビ小説の場合、週ごとに変わる。是枝監督は言う。

「今の連ドラってシステムとしては完全に確立されちゃってるじゃないですか。もちろん中には面白い作品もありますけど、『これが連ドラだよ』っていうものの捉え方が、作ってる側も観てる側も固まっていて、とても窮屈になってるように見える。

だから、こうやって脚本と演出を一人が兼ねて全話やるというかたちでも連ドラが成立するんだって思ってもらえたら。テレビの捉え方が広がるんじゃないかなって。それは、テレビドラマで育ってきた自分にとって、チャレンジし甲斐があることだと思ったんですよね。」


2)テレビの分かりやすさについての疑問


「そういうことはドラマに関わらず、テレビでドキュメンタリーを作っていた25年前から、ずっと言われ続けてきたことなんですよ。『どうせテレビなんてみんなちゃんと観てないんだから、集中して観てなくてもわかるように作らなきゃダメだ』とか『番組の中で同じことを三回言え』とか。局のプロデューサーの中には、本当に平気で『視聴者はバカだから』って言う人がいるから。


どうして自分の関わっているメディアなのに、そのお客さんを軽蔑しながら作るんだろうと、そこにはずっと違和感があった。


今回、なるべくセリフの主語や固有名詞を省いていて、『あれ』や『これ』で済ませているんです。日常生活では、『お砂糖取って』じゃなくて『それ取って』っていうでしょ。そういう演出がもし暴力的に映るとしたら、それはむしろ、もう一方の『わかりやすくわかりやすく』っていうテレビの暴力性こそむしろ浮き彫りにしているだけだと思います。」


「うん。だから、今回はそれを全部出そうと思った。テンポがゆったりしているとも言われるけど、全然そんなつもりはないんだよね。確かに表面だけ観ていたらストーリーは『ゆるい』かもしれないけれど、言葉にならない感情だったり表情だったりを画面からすくい取ろうとしている人にとって、この作品って相当な情報量が入ってる作品だと思うよ。


それをすくい取ろうとしている人にとっては一話があっという間に終わるし、そうじゃない人はテンポが遅く感じる。」


3)3.11. 以後のドラマ作りについて


「企画自体がスタートしたのは3年前なんですけど、明確にそういうテーマへと向かっていく話にしようと思ったのは、やっぱり震災があってからですね。放射能という『目に見えないもの』もどこかでそのテーマと繋がっていったし、自分達がこれまで送ってきた生活の方向性とは違うものを一方に置いて、それを意識し始める人達の話にしようって思いも生まれてきた。


それは、同じような経験が自分の中にも大きくあったからで、そこを前面に押し出そうとは思ってなかったけれど、今のほとんどのテレビドラマがあたかも震災などなかったかのようにドラマを作り続けている状況は、やっぱり恥ずかしいことだと僕は思うから。ドキュメンタリーであれだけやってるのに、なぜドラマだけが震災の前と後とで変わらないのかっていうのは、考えるべきことだと思うんですよ。」


4)偶然テレビを見ていて、もの凄いものを見てしまったという「出会いの経験」を視聴者にしてほしかった。


「ただ、映画と違ってテレビってシステムとして偶発性を孕んでいるじゃないですか。映画の場合、観客が劇場に観に行くのは、面白そうだと思った作品だけですけど、テレビの場合は人々の日常の中で、突然始まったり、突然終わったりするものだから。

人が意図しないで出会ってしまうというチャンスがテレビにはあるから。そこが一番面白いと思うし、そんな出会いをこのドラマでしてくれた人が、今まで自分達が観てきたものだけがドラマじゃないんだなって思ってくれて、何か違うものに手を伸ばしてもらうきっかけになればいいと思ってます。」


「自分が10代の時、NHKで佐々木昭一郎(当時NHK所属、現在テレビマンユニオン所属の演出家)さんの『四季・ユートピアノ』という作品が放映されたんですね。音楽を主題にした、一般の人が出てくるドキュメンタリーともドラマとも呼べないような作品なんですけど、それをたまたま観た時に『これはなんだ!』ってすごく衝撃を受けたんです。

映画だと日常があって、劇場という非日常があって、また日常に戻るわけですけど、テレビって日常の中で突然、そういった異なる時間、異なる体験が訪れることがある。

自分の作品を佐々木さんと比べるのはおこがましいですけど、その時、これは作り手が自分の本当に観たいものを作っているんだってことが圧倒的な説得力で伝わってきたんです。僕は、今のテレビにもそういうものがあってもいいと思うんです。」(『クイック・ジャパン vol.105』太田出版 p177〜p182 より抜粋)


2012年11月25日 (日)

絵本『きょうのごはん』加藤休ミ(偕成社)

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■怒濤の「保育園、秋の内科健診月間」が、ようやく終わった。やれやれ。

どの保育園でも、健診の後に絵本を読ませてもらってくるのだが、今季は『しろくまのパンツ』ツペラツペラ(ブロンズ新社)『きょうのごはん』加藤休ミ(偕成社)の2冊を集中的に読んでみた。

年齢によって、保育園によって、それぞれもっと反応が違ってくるかなって予想してたんだけれど、そうでもなかったかな。こどもって、面白いね!

こうして、たくさんの子供たちの前で絵本を読ませてもらえる贅沢。ほんとありがたいねぇ。(以下、過去のツイートから抜粋。少しだけ改変あり)

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10月14日(日)息子を長野の陸上競技場に送っていって待っている間に、長野駅前の「平安堂」と中古CD店「GOOD TIMES」へ。Woody Shaw「Little Red's Fantasy」と、コルトレーン「ONE DOWN,ONE UP」を¥1380で入手。それにしても、このコルトレーン4。ものすごいぞ!愛聴盤になるな


あと、平安堂で買った絵本『きょうのごはん』加藤休ミ(偕成社)。さんま、カレーライス、オムライス、コロッケ、お寿司。みな実物大で超リアルに見開きでどーんと登場。ものすごい迫力。めちゃくちゃ美味しそう。これ、ちょっといいんじゃないか。

ポイントは、それぞれの家庭の子供たちがみな、夕食の準備をいっしょに手伝っているところ。あと、登場人物のほとんどが最初の商店街のシーンに出てくる。そして、猫が狂言廻しになっているところがいいな。

それから、オムライスのパパは、グランまま社の田中尚人さんに似てる気がするが『きょうのごはん』加藤休ミ。



10月25日(木)の昼休みは、竜東保育園年中2クラス秋の内科健診。みんな元気。よしよし。終了後は例によって絵本を読ませていただく。(1)『しろくまのパンツ』ツペラツペラ(ブロンズ新社)。これは期待どおりの反応が得られたかな。最初に絵本の赤いパンツを脱がすことで、子供たちをミスリーディングできる。


驚いたのは、5番目に登場する「みずたまパンツ」。右後ろにいた男の子がすかさず「蛸のパンツ!」と大きな声で言った。惜っしいなぁ。『しろくまのパンツ』。


2番目に読んだのは『きょうのごはん』加藤休ミ(偕成社)。昨日の夕ご飯のおかず何だったぁ?って訊いたら「おさかな!」って言った子が案外多くてビックリした。ただ、超リアル画に対する子供たちの「うわぁ!」って反応を期待したのだが、いまいち。この本は至近距離で味わう必要があるのかな。


3冊目『ちへいせんのみえるところ』長新太(ビリケン出版)この絵本は鉄板だな。絶対に受ける。ただ、ページをめくってから「でました」って言うタイミングが難しい。いろんなパターンを試している。最初にタイトルを読んで始めようとしたら「ちへいせんて何?」と訊かれた。僕はニコッと笑って、その問いには答えず、絵本を読み始めた。質問した彼は、たぶん「ちへいせん」を理解してくれたと思う。


4冊目『どうぶつサーカスはじまるよ』(福音館書店)。この絵本は何度も読んでもらってるんだって。でもみんな拍手して「ぶたくん!、ぶたくん!」て大声でシュプレヒコールして、楽しんでたよ。



10月28日(日)今日は午前10時半から箕輪町木下北保育園で「伊那のパパズ」公演。息子からギターを返してもらって、さて、なに読もうかな? 『しろくまのパンツ』か『きょうのごはん』か。



11月14日(水)今日の午後は高遠第一保育園の内科健診。ここの子たちはホント元気がいいなあ。うれしいなあ。健診後に皆の前で読ませていただいた絵本。『ぼうしをとったら』ツペラツペラ(学研)『きょうのごはん』加藤休ミ(偕成社)『ちへいせんのみえるところ』長新太(ビリケン出版)『しろくまのパンツ』の4冊。



『絵本をよむこと「絵本学」入門』香曽我部秀幸・鈴木穂波・編著 ¥1800 を購入した。なかなかの力作。前半はカラーで絵本を紹介。後半はおすすめ絵本、海外絵本50冊、日本の絵本50冊を丁寧に紹介している。この100冊のうち、当院に置いてない絵本は、海外が7冊、日本のが7冊のみが自慢。



11月21日(水)今日の午後は伊那保育園の内科健診。少人数の私立保育園だけれど、伊那市では一番古くからある保育園。みんな元気で活発だが、お行儀がいいなあ。感心感心。絵本を読んで子供たちみんながハイタッチ。「またきてね!」だって。うれしいなあ。


今日読んだ絵本『ぼうしとったら』ツペラツペラ(学研)『おんなじおんなじ』多田ヒロシ(こぐま社)『すっぽんぽんのすけ』もとしたいづみ作、荒井良二・絵(すずき出版)『きょうのごはん』加藤休ミ(偕成社)『しろくまのパンツ』ツペラツペラ(ブロンズ新社)『どん』元永定正(こどもとも年中向き・2012年12月号)



■ 例の、松山→羽田の飛行機内で激しく泣き続けた乳児。たぶん、飛行機の急激な上昇による機内気圧低下によって鼓膜内圧が高まり耳が酷く痛くなったのだろう。大人なら、唾をゴクンと飲み込んで耳管を開き、中耳内圧を減圧できるのだが、その子はたぶん風邪気味だったか、耳管狭窄状態でダメだったのかな
 



11月22日(木)の昼休みは、竜東保育園年少組と未満児さんの内科健診。『きょうのごはん』加藤休ミ(偕成社)は扉に描かれたブロック塀上の猫を指さして「この猫が絵の中のどこかに居るから見つけてね!」と言って読み始める。そうすると子供たちはみな一生懸命ネコを探して、美味しそうな「ごはん」はそっちのけ。


赤木かん子さんも書いていたが、『きょうのごはん』を読み終わると、子供たちは直ちに絵本の表紙と裏表紙を広げて見せてと言う。でも、秋刀魚の頭と尾っぽはつながらないのだ。残念! だから、読む前に外したカバーの裏を表紙に合わせると、サンマも無事1本になるのです。


昨日、可笑しかったのは、おじいちゃんのお祝いのお寿司の見開きページを見た1人の男の子。「その赤いの、赤いの好き!」って大きな声で言った。ぼくは「この鉄火巻きかい?」て指差したが違う。イクラ? 違う。マグロ? 違う。「えぇ〜、じゃどれ?」ってその子の目の前で絵本を広げたら、



その男の子は得意げに、寿司桶の横に添えられた「おじいちゃんおめでとう」の花束の中のカーネーション(もしかして赤い薔薇かも?)
を指差した。なぁんだ、お寿司じゃないのかよ (^^;;

2012年10月20日 (土)

『かめくん』北野勇作(河出文庫)読後感想の追補

■ところで、河出文庫版『かめくん』は、徳間デュアル文庫版『かめくん』とは「全く同じ」ではない。ただ、

旧版のほうを通して読了してないので、確実なことは言えないが、映画でいうところの「ディレクターズ・カット版」的な、新たなエピソードを追加したり、泣く泣くカットしたシーンを復活させたり、といったような文章はなかった。

そうではなくて、文章のきめ細やかなブラッシュ・アップやリファインが随所に施されているのだ。それは、2冊並べて読んでみれば直ちに分かること。微妙な言い回しや、ちょっと不自然で引っかかった表現が変更されている。作者の『かめくん』に対する思い入れの強さを思い知らされた。


■それから、脳の器質的機能障害の一つに「カプグラ症候群」と呼ばれる特異的症状を呈する疾患群が実際にあるのだそうだ。

カプグラ症候群というのは、家族や恋人や親友など自分にとって大事な人が本人そっくりの偽者と入れ替わってしまったという妄想を抱く症候群である。1923年にフランスの精神科医ジョゼフ・カプグラと研修医のルブル・ラショーが初めて論文で報告した。」(『エコー・メイカー』リチャード・パワーズ作、黒原敏行・訳、新潮社、訳者あとがき より)

ビックリした。そうなのか。


■ぼくは読んでいるうちに、読者としての確固たる立脚点が突然揺らいでガラガラと崩れだし、何が本当で何が偽物なのか、何が何だかわからなくなってしまう、という小説が好きだ。いわゆる「現実崩壊感」というヤツ。

僕にとってのその代表的小説は、フィリップ・K・ディックじゃぁなくて、クリストファー・プリーストの『魔法』であり、『奇術師』であり『双生児』なのだな。信用できない一人称の主人公の「語り」を、はたして読者はそのまま受け取ってもいいんだろうか?

そんなふうに不安にさせられる小説。そういうのが僕は好き。

そういう意味で『かめくん』は、僕にとって プリースト『魔法』を読み終わった時の感覚に近かったか。ただ、『かめくん』最終ページの「あの」諦観、寂寥感は特別だな。


■最後に、この小説のキーポイントの部分を引用します(ネタバレか?)


 この宇宙のすべては、たったふたつの要素に分けることができる すなわち、甲羅の内と外。

 カメというものは、自らの甲羅のなかから外界を見るように出来ている。そうすることによって、自らの甲羅のなかに外界のモデルを構築する。それをもとにして、カメは世界を認識するのだ。

 つまり、甲羅の内部に形成された外界のモデルを操作することによってそれを推論し、そして行動を起こす。行動することによって得られた情報によって、甲羅のなかに作られた世界のモデルは更新される。そして、さらにそれを操作することで推論する。

 だから、じつはカメが外側だと感じているのは、自分の甲羅の内側に作られた外側の模型でしかないのではないか。
 かめくんは考える。

   そういう意味で、カメというものは所詮、自分の甲羅から出ることが   出来ないものなのでは ----- 。(p255〜p256)


■追伸。 佐々木敦氏による「かめくんのかいせつ」が素晴らしい。ちょっとだけ引用する。

 かめくんはかめくんである。かめくんはかめくんでしかない。だが、それと同時に、まちがいなくかめくんは、北野勇作自身でもあり、わたしたちのことでもあるのだ。

『かめくんに描かれている、のほほんとした日常のようで、その実、殺伐としていたり酷薄であったりする世界、安穏としているようでいて、じつはただ生きてゆくだけでも、とても大変だったりしんどかったりする世界は、まちがいなく、われわれが生きる、この世界のことでもある。

『かめくん』が少しかなしいのは、「かめくんはかめくんでしかない」ことを、かめくん自身がよくわかっていて、そしてそれを受け入れているからだが、そのかなしみ、そのはかなさは、かめくんだけのものではない。

 北野勇作の描く世界は、どれもこれも不思議ななつかしさに満ちているが、それはいわゆるレトロ・フューチャー的道具立てによるものというものというよりも、そこがいつもどこか、今ここ、に似ているからに他ならない。このような感じは『かめくん』以降の作品群において、着実に、より深められていって、現時点での最新作である、あのすこぶる感動的な「きつねのつき」へと至ることになるだろう。(p291〜292)


■さて、前回挫折した『昔、火星のあった場所』だが、もう一度チャレンジしてみよう。今度は大丈夫。いけると思うぞ。

2012年10月17日 (水)

『かめくん』北野勇作(河出文庫)読了

Kame


■正直に告白すると、11年前に購入した『昔、火星のあった場所』北野勇作(徳間デュアル文庫)は、当時まったく付いて行けなくて、それでも頑張って114ページまで読んだのだが、そこで挫折した。だから、同時に買った『かめくん』は、結局読むこともなくそのまま納戸の書庫に凍結保存されたのだった。ごめんなさい、作者さま。


でも、『どろんころんど』(福音館書店)と『きつねのつき』(河出書房新社)を最近になって読んで、いたく感心したのだ。北野勇作というSF作家に。


で、満を持して『かめくん』(徳間デュアル文庫)を読み始めたら、なんと、河出文庫から「新装改訂版」がこの8月に出た。表紙のイラストが素晴らしい。中州中央図書館のミワコさんが、夕日を浴びている。その向こうに通天閣と新世界界隈。それに路面電車も走っている。


読了してから、しみじみ表紙をながめてみると、この小説世界が見事に凝縮されていることに気づいて驚く。徳間デュアル文庫版では、リンゴをかじる主人公の「かめくん」をメインに描かれているのに、河出文庫版では、表紙のどこにも「かめくん」はいない。それには理由があるのだ。

このイラストのタッチは高野文子だよなぁ、と思ったら違った。オカヤイヅミさん。知らない人だ。いいじゃないか。贔屓にしよう。



■「かめくん」は無口だ。

いや、本当を言うとしゃべれない。だって、かめだから。

でも、模造亀(レプリカメ)で機械亀(メカメ)だから、高性能の人工頭脳と甲羅内に成長する高容量メモリーを装備しているので、人間の言葉は理解できるし、奥深い哲学的思考だってできるのだ。


じゃぁ、人と会話する時はどうするかというと、いつも「EXPO 70」のショルダーバッグに入れて持ち歩いている「ワープロ」を使うのだ。


【以下、主題に関する「ネタバレ」あります】


■ぼくが駒ヶ根のおばあちゃんといっしょに大阪万博に行ったのは、小学6年生の時だった。三波春夫が歌ってたっけ「こんにちは、こんにちは。世界の国から。1970年のこんにちは。」


そのもう少し前のことだったか、NHKで『プリズナー No.6』っていう不条理SF&スパイものTVドラマ(イギリス制作)をやっていた。イギリスの諜報部員パトリック・マクグーハンが上司に辞表を叩き付け自宅に帰ると、何者かに誘拐され、目が醒めると不思議な「村」に幽閉されていた。という話。


あのテレビドラマを見た影響か、小学性のぼくは、じつは父も母も友達も「みんなニセモノ」で、ぼくが生活しているこの空間も本当はスタジオの中のセットで作られていて、遠くに見える景色も作り物なんじゃないか? って妄想に取りつかれたことがあった。


だから、ぼくが消えると「この世界」もいっしょに一瞬にして全て消えてしまうのではないか?って。そんな恐怖に襲われたものだ。『かめくん』を読んで、久しぶりに「あの時」の感覚をありありと思い出した。


茂木健一郎氏の「クオリア」ではないが、人それぞれに認識している世界は異なる。当たり前のようでいて、じつは案外誰も分かっていない。


でも、「かめくん」は分かっていた。

だから哀しい。

だから切ない。


あぁ、もうすぐ冬がやって来る。

2012年10月 1日 (月)

昨日の「ワサブロー コンサート」は本当に素晴らしかった

■あぁ、それにしても本当に素晴らしいステージだった。


家に帰ってから、なんか、めちゃくちゃ美味しいフルコースを食べ終わって、幸せで満腹して、満足しきった気分とでも言ったらいいのか、何度も何度も「はぁ〜」って、言葉にならない溜息しか出なかった。凄かったな、ワサブローさん。


月並みだけど、やっぱり「ライヴ」ってのは、CDで聴くのと、ましてや YouTube で見るのとは違う。もう、ぜんぜん違う。


一人の歌い手がいて、聴きに来た聴衆がいる。そこに「場の力」が生まれるのだ。強力な磁石のような互いに引き合う磁場がね。


美しい日本語の文章、作品を残してくれた島村利正さんに対して、高遠で歌を歌うことで何とか恩返しがしたいという、ワサブローさんの「思いのたけ」が、聴いていてこれほどまでに、ずんずんびしびし突き刺さってくるとは。いやはや、ほんと凄かった。


そしてなによりも、ぼくは「シャンソン」という音楽を根本的に間違って理解していたことを思い知らされた。


僕が初めてシャンソンっていいなと思ったのは、ジョルジュ・ムスタキ「私の孤独」だった。たしか、TBSのテレビドラマ「木下啓介アワー・バラ色の人生」の主題歌だったと思う。

ごにょごにょ、ぼそぼそと、ちょうど、ジョアン・ジルベルトがボサノバを囁くように歌うものなのかと。その後も、フランソワ・アルディ「もう森へなんか行かない」とか、クレモンティーヌとか。


ああいうのがフランスが生み出した音楽なのだと思っていたのだ。そして、さらにその後に買ったLPが「金子由香里・銀巴里ライヴ」だったわけで。何十年もフランスで歌い継がれてきた「シャンソン」を、彼女は「字余りの日本語」で平気で歌っていた。それを聴いたぼくも、それがシャンソンなんだって、思っていた。


ところが、ワサブローさんがフランス語で歌った「本物のシャンソン」て、ぜんぜん違うんだよ。「フレンチシャンソンとは音とリズムの万華鏡(カレードスコープ)である」って、ワサブローさんは言っているけれど、なるほど、「フランス語」という言語だけが、シャンソンの音とリズムに合致した「ことば」だったんだね。


それと、「劇的」ということ。英語で言うと「ドラマティック」となってしまうのだが、それでは安っぽいな。ワサブローさんのシャンソンは、日本語で言うところの「劇的」なのだった。


ダイナミックで、めちゃくちゃエネルギッシュで、全身全霊を込めて、心の底から身体の極限を尽くして歌う。そういう姿勢が、ほんと凛として気高くて、これぞ「ホンモノ」なのだと思い知れされたのだった。

「セ・シ・ボン」「さくらんぼの実る頃」「そして今は」、それから「パタム」。そうして、ラストで歌ってくれた「愛の賛歌」。ほんと素晴らしかったなぁ。


あと、驚いたのが「百万本のバラ」。これは日本語で歌われたのだが、ワサブローさんオリジナルの歌詞で、笑いと皮肉とエスプリに満ちた、加藤登紀子も真っ青のぜんぜん違う曲になっていた。


それから、新曲の「俳句。」と「椅子。」伊藤アキラさんが作詞した日本語のオリジナル曲だ。「くっくっく、くっくっく、はいく。くっくっく、くっくっく、はいく。」の部分が印象的で耳に残る。これはいい曲だな。


じつはこの日、ぼくがワサブローさんにどうしても歌ってもらいたい曲があった。YouTube で見つけた「ヌガ」という、不条理でナンセンスな曲。でも、この曲はプログラムには記載されていなかった。う〜む残念。って思ってたら、なんと! アンコールに応えてワサブローさんが歌ってくれたのだ「ヌガ」を。へんてこダンスを踊りながら。うれしかったなぁ、ほんとうれしかった。



YouTube: ワサブロー 『ヌガ』

実はぜんぜん知らなかったのだが、この曲の詩は、あの、アメリカのアバンギャルド、ジャズ集団「アート・アンサンブル・オブ・シカゴ」といっしょに『ラジオのように』っていうレコードを作った、ブリジッド・フォンテーヌ・作、だったんだね。もうビックリ。だってこの『ラジオのように』は大好きで、レコードでも、CDになってからも、何度も何度も、30年来聴いてきたレコードだったから。


当日は、会場の信州高遠美術館に 150人近くの人が聴きに来てくださった。遠くは京都や東京からも。椅子が足りなくなって追加していたし、2階席にも人がいっぱいだった。


聴衆はみな、ワサブローさんの熱唱に圧倒され、京都弁での軽妙なトークに大笑いし、茨木のり子「わたしが一番きれいだったとき」に涙した。この掛け替えのない時間をいっしょに共有できたことが、ほんとうにうれしい。

ああ、感無量だ。


ワサブローさん、ほんとうにありがとうございました!




2012年9月29日 (土)

今日、土曜日の午後3時「ワサブロー島村利正を語る」トークイベントがあります

■ほとんどアナウンスされていないので、たぶん誰も知らないと思うのですが……、


今日、9月29日(土)午後3時から「信州高遠美術館喫茶室」にて、シャンソン歌手ワサブローさんと作家・島村利正のご子息である嶋村正博氏と、その妹さんによる「島村利正の魅力を語る」というトーク・イベントが開かれます。

主催は高遠町図書館で、先週開催された「高遠ブックフェスティバル」の関連イベントです。興味のあるかたはぜひご来場ください。ただし、美術館入館料500円が必要です。ぼくも行きます。


■このところ、少しずつ読み続けてきた島村利正。感想をツイートしているので以下に転載しておきます。

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高遠町で生まれた作家、島村利正氏に関する文章を拾遺している。やっぱり、詩人の荒川洋治氏の文章が沁みるなぁ。『忘れられた過去』(朝日文庫)P123「『島村利正全集』を読む」と、『いつか王子駅で』堀江敏幸(新潮文庫)解説。


今夜は、伊那中央病院夜間小児一次救急の当番だったのだが、子供は少なかった。すみません、持って行った『青い沼』島村利正(新潮社)より「北山十八間戸」を読了。この邦枝という女性と、鎌倉時代に僧侶忍性が癩病患者のために建てた施設「北山十八間戸」とがミステリアスにリンクして不思議な余韻。


こういう施設が存在したことを、今日まで全く知らなかったのだよなぁ。「北山十八間戸」。島村利正の小説では、ここからの奈良東大寺大仏殿の眺めが重要なポイントとなっていた。


「おんなは狡いんです。結婚して、その幸福に浸りながらも、そのなかでひそかに、自分だけが感じた別のひとの眼のひかりが忘れられない……北京へゆく前に、どうしてもあなたに、さようならだけ云っておきたかったんです」って、何という女の身勝手さ。島村利正氏はこういう女が好みだったのか。


『秩父愁色』島村利正(新潮社)より「板谷峠」を読む。変な小説だな。中央省庁のノンキャリ主人公がキャリア上司の汚職事件の責任を被って冬の山形山中に自殺しに行く話なのだが、思いもよらない方向に展開する。落語「死神」の逆バージョンとでも言うか。不思議と印象に残る小説。


『秩父愁色』島村利正(新潮社)で最も印象的なのは、やっぱり「鮎鷹連想」と、あの3月10日東京大空襲の直後に、島村氏が本所深川で見た壮絶な焦土の風景を綴った「隅田川」の2篇だと思う。


島村利正『秩父愁色』(新潮社)から、表題作を読む。う〜む。暗い! ラストで微かに救われるが。続けて『妙高の秋』島村利正(中央公論社)より「暗い銀河」を読む。う〜む。もっと暗い。救いもないぞ。それにしても、この2作に登場するヒロインに絡む男は、ほんと最低な奴だな。いじいじねちねち。


そこいくと『妙高の秋』収録の「みどりの風」や『青い沼』収録の「乳首山の見える場所」はいい。結構気に入っている。童貞青年をいたぶる中年年増の女の身勝手な残虐性、ヰタ・セクスアリス。


島村利正『奈良登大路町・妙高の秋』(講談社文芸文庫)より「神田連雀町」「佃島薄暮」の連作を読む。これはよかった。妹に婚約者を奪われたヒロインは、叔母が嫁いだ犬吠埼の旅館、北島館に身を置かせて貰う。既に叔母は亡く、60半ば過ぎで脳卒中後のリハビリ中の義理の叔父の介護をさせられる。


叔父と姪の関係とはいえ、血は繋がっていない。ヒロインは34歳だった。そして…… それから……。というような話だ。この連作の発端となった短篇が『清流譜』(中央公論社)に収録された「潮来」なのだが、これは未読。読まなきゃな。


最近になって初めて、向田邦子の『父の詫び状』(文春文庫)を読んだ。正直たまげた。こういうエッセイがあったのだ。上手い、巧すぎる。続いて『向田邦子の恋文』向田和子(新潮社)を読む。向田邦子は生涯独身であったが、それには深い訳があったのだ。


昭和25年、向田邦子が実践女子専門学校を卒業して最初に就職した先が教育映画を作る「財政文化社」だった。そこで、カメラマンのN氏と出会う。彼には妻子があった。


以来、向田邦子とN氏との不倫関係は足かけ14年にも及ぶことになる。N氏は既に妻子とは別居していた。が、東京オリンピックの2年ほど前、N氏は脳卒中で倒れる。邦子は献身的に介護した。しかし、N氏は昭和39年2月自死。邦子34歳。この話を読むと、島村利正のヒロインと重なるのだった


明日、土曜日午後3時からの「島村利正トークイベント」に備えて『妙高の秋』を再読した。やっぱりいいなぁ、これはいい。この短篇は川端康成文学賞の候補作になった。取れなかったけど。さて、次は『暁雲』を読もうか。



2012年9月20日 (木)

作家・島村利正と、シャンソン歌手ワサブローさん

■長野日報に電話とメールして、信州高遠美術館での 9月30日(日)の「ワサブロー・コンサート」を是非記事にしてください! って、先週初めにお願いしたのに、いまだ梨の礫(つぶて)だ。返信のメールもなければ、記者からの携帯もかかってこない。


昨日の水曜日の午後は休診にしているのだが、もしかして長野日報の記者さんから電話が入るかもしれないからと、診察室で事務仕事をしながら電話番をしていたのだが、次々とかかってくる電話はみな別要件ばかりで、疲れてしまったよ。


こうなったら、頼みの綱は「中日新聞」か。


ところで、今朝の「信濃毎日新聞」飯田・伊那版(23面)に、今週末の「高遠ブックフェスティバル」の記事が載っていて、その関連イベントに、高遠出身の作家、島村利正 生誕100年記念コンサートとして、信州高遠美術館が9月30日に「ワサブロー・コンサート」を企画していることが紹介されている。

「本の町プロジェクト」代表で、高遠観光タクシーの春日裕くん、信毎さん、本当にありがとうございました。

Wasaburo2


■ワサブローさんは、20代前半に単身フランスに渡り、プロのシャンソン歌手として本場で認められ、以後30年間、フランスに留まり歌手活動を続けてきました。ここ数年は、出身地の京都に戻り、国内と海外とを行ったり来たりの歌手生活をされています。


そんなワサブローさんが、一昨年、友人から「読んでみたら」と薦められた文庫本が、高遠町出身の作家、
島村利正の『奈良登大路町・妙高の秋』(講談社文芸文庫)でした。ワサブローさんは、この本を読んで、作家・島村利正に惚れ込んでしまったのです。


http://wasaburo.cocolog-nifty.com/paris/2011/01/post-dc0a.html


ちょうどその頃、僕も自分のブログで「島村利正」の本をはじめて読んだ感想を書いていて、それをワサブローさんが検索で見つけ、

「あなたは高遠町の出身なら、島村利正のお墓が高遠の何処にあるかご存じないですか? ぜひ高遠へ行って、島村利正の墓参りがしたいのです。」

と、僕のブログにコメントをくれたのです。

それが、東日本大震災が起こる前、昨年1月のことでした。



それから暫くして、フランスでの仕事を終えて帰国したワサブローさんは、11月11日(金)NHK総合テレビのお昼の番組「金曜バラエティー」に生出演を終えると、中央本線を「あずさ」で松本に移動。松本在住の友人財津氏とともに、
11月13日(日)ついに高遠を訪問しました。


当日は、島村利正氏の実家「カネニ嶋村商店」と菩提寺「蓮華寺」を訪れ、念願の墓参りができたのでした。嶋村商店のご主人は、多忙にもかかわらずワサブローさんを歓待してくださり、ワサブローさんはいたく感激したそうです。



この時、2012年(平成24年)がちょうど「島村利正生誕100年」に当たることがわかり、それなら、これも不思議なご縁だから、ぜひ生誕100年を記念して、高遠でシャンソンを歌いたい、そうワサブローさんが仰ったのでした。


島村利正は、古本愛好家の間でも、知る人ぞ知る渋い地味な小説家ですが、ワサブローさんのように、気にいると入れ込んでしまう読者が多いようです。
嶋村商店のご主人の話では、そうした熱烈な愛読者が、年に2〜3人高遠の嶋村商店を訪ねてくるそうです。


島村利正は、戦前戦後にわたって芥川賞候補に4回なり(結局、賞は取れなかったですが)、『青い沼』で平林たい子賞を、『妙高の秋』で読売文学賞を受賞している、神田神保町界隈では非常に有名な作家ですが、残念ながら地元の高遠ではほとんど忘れられた存在となってしまいました。


同い年生まれの新田次郎は、諏訪市で今年さかんに生誕100年関連事業が行われていますが、残念ながら、島村利正に関しては、伊那市では一切記念行事は企画されませんでした。



今回の「ワサブロー。コンサート」は、その唯一の行事です。

本の町プロジェクトの皆様のご好意で、「高遠ブックフェスティバル」の関連イベントとして認めていただきました。


そんなような経緯(いきさつ)があったのです。

2012年9月 3日 (月)

ところで、島村利正って誰?

■高遠町在住ならば、たぶん一度は聞いたことのある名前だと思う。いや、60代以上ならそうかもしれないが、50代以下だとどうかなぁ。

作家、島村利正。


でも、その本を読んだことのある高遠町住民は数えるほどしかいないんじゃないか。偉そうなこと言う僕でさえ、2年前に初めて読んだという体たらく。ごめんなさい。
ところで、前回リンクした、ウィキペディアの島村利正の記載は淋しい。もっとちゃんと故郷の作家を紹介してもらいたいぞ!


で調べたら、ポプラ社から出た「百年文庫」第10巻、『季・円地文子、島村利正、井上靖』に載っている「人と作品」での紹介文がいいみたいだ。早速購入したので、以下に転載させていただきます。


 島村利正(1912〜1981年)は長野県生まれ。小学校時代に教師の影響で文学に目覚め、学校の図書館で夏目漱石、武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎などの作品を愛読した。

1926年、高遠実業学校に入学。実家は海産物商で、長男だった利正は実家を継ぐことを求められたが、それに反発。家を出て、尋常高等小学校の修学旅行で知った奈良の飛鳥園へ行く。小川晴暘が主宰する飛鳥園は古美術写真や美術雑誌の出版をおこなっており、利正はここで小川の薫陶を受けた。また、小川の使いで、このころ奈良に住んでいた志賀直哉邸や瀧井孝作邸を訪ねることもあった。

1929年、東京へ出て正則英語専門学校に入学。1936年に結婚すると、多摩川砂利掘事業を営む妻の実家に住み、その仕事に従事していた朝鮮人との親交から題材を得て、1940年に『高麗人』を「文学者」に発表、芥川賞候補となる(その後、1943年の『暁雲』、1957年の『残菊抄』、1975年の『青い沼』が芥川賞候補に挙がっているが、いずれも受賞は逸している)。

 作品執筆のかたわら、戦中から撚糸業に従事しており、1955年に日本撚糸株式会社を設立して経営者となった。1957年に作品集『残菊抄』を刊行。しかし、1962年に会社が倒産してからは作家業に専念した。

 師の瀧井孝作は文壇の釣り好きとして知られるが、利正も小さいころから釣りに親しみ、釣りに関する文章を数多く残した。作品集『残菊抄』の序文を寄せた志賀直哉はその中で、「戦後、度強い小説の多い中に島村君のしんみりした静かな作品は、また、その特徴ゆえに読者から喜ばれるのではないかと思っている」と書いている。

『仙醉島』は1944年に「新潮」に発表された作品で、郷里の伊那・高遠の祖母の話を小説にしたものといわれている。



あと、『忘れられる過去』荒川洋治(朝日文庫)p123 に載っている「『島村利正全集』を読む」と題された文章が素晴らしい。(以下抜粋)

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『島村利正全集』を読む     荒川洋治


 戦争のはじまる前に、一見地味ながら、たしかな文章をもって登場し、人や周囲の自然を描いた人。それからはあまり作品を書かない時期があったけれど、1970年代はじめからのほぼ10年間に私小説の世界をひろげる清心な作品を書いて、読む人の心をとらえた人。その人たちにはいまも忘れられない人。それが島村利正である。(中略)


 島村利正は戦前の日本人の庶民の暮らしをいつまでもたいせつに心にしまっていた人で、時代の変化でそれらが曲げられていっても、ときどき思い出したり、取り出して、自分を育てた人たちや時間を振り返った。長く静かな旅をするように、文章を書いた人だ。戦前の人たちのよき姿、つらい姿は、戦後の時間がかさむにつれ次第にかすんでいったが、それでも忘れられないものがある。


 コアジサシは、水辺の小鳥。

「私はそのころ、コアジサシの白い姿を見ていると、思いがけず、少年時代に生れ故郷の山ふかい峠で見た、栗鼠の大群を思い出すことがあった。そして、それにつづいて、奈良の鹿と春日山のこと、若狭の海で見かけた奇妙な動物? と、そのときの旅行などを思い出した。それは私の、風変りな小動物誌でもあったが、私自身をふくめた人間の姿も、戦前の時代色のなかで、それらの動物と共に点滅していた。」(「鮎鷹連想」)


 このあと、それぞれの小さな動物を「点滅」させて文章がつづく。ここにある「私自身をふくめた人間の姿」をとらえることは、島村氏の作品世界の基点であり基調だった。

「私自身」と「人間の姿」は同じものながら。微妙に消息を分かつものである。島村氏はその文学が「私自身」に傾くことを警戒し、ひろく「人間の姿」を知るための視覚を注意深く見定めようとした。「私」という人間が、他のもの、見知らぬもの、遠くのものと、どのようにかかわるのか。またそれをつづる文章が、どうしたら、人間のための文章になっていくのか。それを「私自身」の生活者の感性を台座にして、みきわめようとしたのだ。


「私自身をふくめた人間の姿」という「観念」は、1970年代という最後の「文学の時代」においても、そのあとも、多くの作者たちの作品から(あるいは発想から)失われたもののひとつである。


 島村利正は、文学と生活の両面をみがきながら小説を書きついだ。それはそばにいる人の目にもつかないほどの変化と動揺をかさねる営みだった。「人間の姿」をもつ文学の姿は、この全集の刊行で鮮明になる。(「図書新聞」2001年12月15日号)



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