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2023年7月10日 (月)

映画『こちらあみ子』を観て思ったこと

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■ じつに8ヵ月ぶりの更新です。『長野県小児科医会会報 77号』の編集が終わりようやく校了した。フライングになってしまうけれど、「会報77号」に僕が書いた文章(一部改変あり)をこちらに転載させていただきます。会報の発行部数は220冊。一般の人は読むことができない冊子なのでどうかお許し願います。

■2023年1月18日、休診にしている水曜日の午後、伊那市東春近「赤石商店」の土蔵を改装した「映画館」で 2022年7月公開の日本映画『こちらあみ子』を観ました。すごい映画を見た! そうは思ったものの、感想をすぐに文章にすることができず、ずっと「この映画」のことを考え続けていて、ようやっと書き上げた文章です。

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映画『こちらあみ子』を観て思ったこと  北原こどもクリニック 北原文徳

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 下校のチャイムが鳴って、教室から小学生たちが一斉に外へと駆け出す。珍しい構造の校舎で、廊下はマンションのような外廊下だ。カメラは校庭から4階建ての校舎を正面に捉え、まるでマスゲームのような子供たちの動きを遠景でフレームに収める。傑作を予感させる映画『こちらあみ子』のファースト・シーンだ。外廊下へと移動したカメラは、遠ざかって行く子供たちに逆らってカメラに向かって近づいて来る1人の少女を映し出す。何か言っている。「ねえ、のり君知らん?」主人公あみ子(11歳)だ。

 芥川賞作家 今村夏子の衝撃のデビュー作『こちらあみ子』を新人監督の森井勇佑が原作をほぼ忠実に映画化したこの作品は、昨年度キネマ旬報ベストテン第4位を獲得し、映画通で知られるライムスター宇多丸氏が2022年のベストワンに挙げた評価の高い映画だ。

 瀬戸内の美しい海をバックに、ちょっと変わった小学5年生の少女が広島弁で大活躍するほのぼのとしたファミリー映画かと思ったら大まちがい。じつは自閉スペクトラム障害(ASD)に軽度知的障害(境界知能?)を伴った女の子の「当事者」目線で描かれた世界が、見事に活写された映画なのだ。(ただし、原作も映画も彼女の障害名への言及は一切ない)

 例えば過剰な音。母親の書道教室を襖のすき間から覗き見していて偶然のり君と目が合い一目惚れするあみ子。思わず手に持つトウモロコシを握り締めると、ボタボタと音を立てて大量の汁が畳を濡らす。あり得ない。でも彼女の感覚ではそうなのだ。真夏の炎天下、母親が退院してくるのを玄関先でじっと待つあみ子。顎の先から止めどなく滴り落ちる汗が、焼けた道路に落ちてジュッという。あり得ない。

 帰ってきた母親は、あみ子の顔を両手で挟んで執拗に撫でくり回す。触られることが嫌で嫌でたまらない感じがリアルに伝わってくる。あみ子がずっと気になって仕方のなかった母親の顎のホクロも、大きくなったり小さくなったりするぞ。

 自分の心と他人の心が違うことが分からないあみ子だから、良かれと思って取った行動がことごとく周囲を傷つけ、母親も父親も優しかった兄も、のり君さえも次第に壊れてゆく。「応答せよ!応答せよ!こちらあみ子」と、誕生日にもらったトランシーバーに向かって彼女が何度呼びかけても誰からもどこからも応答はない。 

 プレゼントの使い捨てカメラであみ子が家族の記念写真を撮る場面も印象的だ。小津安二郎の『麦秋』や候孝賢『悲情城市』でも、家族がバラバラになってゆくのを惜しむように記念写真を撮るシーンが映画の終盤に出てくるが、この映画ではメインタイトルが出たあと、あみ子が1人キッチンで天井に夏みかんを投げる場面からのワンショット長回しに続いて早くも登場する。しかも写真はちゃんと撮られないまま終わる。何かこの後の展開を象徴しているかのように。

 映画の中盤からあみ子を悩ませる音。「コツコツ、ぐる、ササササ、ぼぶぼぶ」2階の自室ベランダから聞こえてくるこの正体不明の奇妙な音は、次第にどこにいても聞こえてくるようになる。「霊のしわざじゃ。幽霊がおるんじゃろ」坊主頭の男子にそう言われて、あみ子は「ある歌」を大声で歌うことで頭の中から奇妙な音を消し去ることに成功する。

 歌いながら音楽室に行くと、壁に掛かった額の中からゾンビになった歴代校長先生にモーツァルトやバッハ、トイレの花子さんまで出てきてあみ子に取り憑き、行列になって行進する。現実逃避したあみこが一人ファンタジーの世界に没入するシーンだ。この何とも楽しい場面は原作にはない映画オリジナル。あとで幽霊たちは再度登場し遠く海上からあみ子に手招きする。自死への誘惑では?という感想をネットで読んだが違うと思う。空想の中だけで生きて行けばそれもいいじゃん、ということなのではないか。

 原作の小説では、あみ子が10歳の誕生日から中学卒業後まで描かれるが、映画は2021年夏の1ヵ月間でクランクアップし、主演の大沢一菜(10歳)が一人で演じた。だから彼女が中学の制服を着るとちょっと不似合いで、幼さが際だってしまう。でも逆に発達障害児と定型発達児の差異が視覚的に露わになったとも言える。残酷なものだ。このあたりから後半は映画を見ていて正直辛くなってくる。

 ここで大切なことは「発達障害児だって発達する」という事実だ。もちろん障害が消失する訳ではない。努力して補うようになるのだ。中学生になったあみ子は、学校で自分だけ一人浮いていることに気付いている。学校は行きたい時だけ行き、久々に登校したら下駄箱の上履きがなくなっていて、仕方なく裸足で過ごす。守ってくれる兄もいない。唯一のアジールは保健室だ。

 雨の日に映画『フランケンシュタイン』(1931年版)をビデオで見るシーンがある。ビクトル・エリセ監督の映画『ミツバチのささやき』の冒頭、村の移動映画館で少女アナが魅せられる映画だ。異物として排除される怪物の哀しみ。

 原作は三人称一視点で書かれているため、読者はあみ子に感情移入しやすい。しかし映画だとカメラはあみ子だけの視点にならない。『鬼滅の刃』みたいに主人公が自分の気持ちをモノローグで説明することはしないから、映画の観客の中には「のり君視点」であみ子に(この映画自体に)強烈な拒絶反応を示す人もいるだろう。

 終盤に野球部で坊主頭の男子がもう一度登場する。あみ子は何故かこの男子とはコミュニケーションが成立するのだ。その証拠に二人の会話は通常のカットバック手法で撮影されている。あみ子が訊く「どこが気持ち悪かったかね」「おまえの気持ち悪いとこ? 百億個くらいあるで! いちから教えてほしいか? それとも紙に書いて表作るか?」「いちから教えてほしい。気持ち悪いんじゃろ。どこが?」 教えてやれよ!坊主頭。

 この映画の問題点を挙げるとすれば、原作者や監督が子供時代の話ならともかく、いま現在の設定(書道教室で生徒が二人Nintendo Switchを取り出す)だと、絶対にあり得ないということだ。   

 令和の日本なら、あみ子は小学校入学前に就学指導委員会で取り上げられ、その後の教育支援体制が確立されているはずだし、本人や家族への生活ケア・医療面での援助も当然すでに行われているに違いない。それを知りながら観客をミスリードした罪は大きい。このことを厳しく批判した文章を、成人になった当事者として映画を観た nohara_megumi さんが、2023年3月27日のブログに「映画『こちらあみ子』と発達障害(概要篇)」というタイトルでアップしている。これは必読。

 とは言え、ASD当事者がこの人間社会をどのように感知しているのかをリアルに示した文芸作品は今まであまりなかったから、その点は評価してよいと思う。自閉症の人が登場する映画はたくさんある。『レインマン』(1988)『ギルバート・グレイプ』(1993)『旅立つ息子へ』(2020) などなど。ただ、いずれも弟として兄として父親として当事者に接する側のストーリーだ。

 当事者自らが自分の内的世界を文章で表現した例で有名な著作は、『我、自閉症に生まれて』テンプル・グランディン(1986)、『自閉症だったわたしへ』ドナ・ウィリアムズ(1992)、日本では『自閉症の僕が跳びはねる理由』東田直樹(2007)が主たるところか。僕は、脳神経科医のオリヴァー・サックスがテンプル・グランディンにインタビューした『火星の人類学者』(ハヤカワ文庫)を読んで知った。

「彼女は人間どうしの言葉にならない直感的な交流や触れあい、複雑な感情やだましあいが理解できない。そこで、何年もかけて『厖大な経験のライブラリー』をつくりあげ、それをデータベースとして、ある状況ではひとがどんなふうに行動するかを予測している。まるで火星で異種の生物を研究している学者のようなものだ」(p402)

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 テンプル・グランディンは人間が相手だと緊張と不安に苛まれるが、家畜には愛情と安らぎを覚え、その動物がなにを感じているか直感的に判るという。そして彼女は動物心理学、動物行動学のコロラド州立大学教授になった。

 「絵本」に登場するのは、たいてい擬人化された動物たちだ。二本足で立って服も着て、日本語を話している。なぜ人間ではなく、わざわざ動物に変換する必要があるのか? 『絵本論』瀬田貞二(福音館書店)にはこう書かれている。

「子どもは、なぜ動物が好きか、また動物文学が好きか。この質問に対してフランスのすぐれた児童文学者ルネ・ギョーが、明快にこう答えています。『子どもは、大人たちのなかにはいっていくよりも、ずっとずっと、動物のなかにはいっていくほうが、安心がいくんだ』まさにそうなのです。安心がいくからです」(p64) 僕はこの「安心がいく」が今ひとつ分からなかったのだが、『火星の人類学者』を読んで、なるほど!と初めて合点がいった。5b435c3a2a31419ca99b1e19081327c1__c  司馬遼太郎が昭和51年〜54年に新聞連載した小説『胡蝶の夢』の主人公、島倉伊之助(司馬凌海)が典型的なASDとして詳細にリアルに描かれていることは案外知られていない。幕末の日本で蘭方医療を先導したのは、大阪の緒方洪庵率いる適塾と東国では佐藤泰然の佐倉順天堂であった。泰然の息子、松本良順に弟子入りした伊之助には天才的な語学習得能力があり、長崎医学伝習所でオランダ人医師ポンペが行う講義を瞬時に理解し仲間に再度講義した。しかし奇行や人間関係のトラブルが相次ぎ、良順に破門されてしまう。

ASDの概念を知る由もない司馬遼太郎が伊之助をビビッドに描けたのは、彼の近くにモデルとなる人物が実際にいたからに違いない。もしかすると、司馬遼太郎自身にその傾向があったのかもしれない。「適塾」の塾頭だった村田蔵六(大村益次郎)の生涯を描いた『花神』は昭和44年〜46年に朝日新聞で連載された。僕は未読だが、村田蔵六もまさしくASDであったという。

 あみ子は左利きだ。アイザック・ニュートンもルイス・キャロルも、ベートーベン、グレン・グールドも左利き。エグニマ暗号を解読し思考型コンピュータの出現を予言したチューリング、それにビル・ゲイツも左利き。イーロン・マスクはASDであることを公言したが「自分は左利きではない」と言っている。あみ子は見事な連続側転を披露する。でもASDの子はそんなに運動神経よくないよ。

 近ごろは大人のASD当事者や同伴者による書籍・マンガであふれている。それだけ世の中の認知度が上がった証拠だ。しかし、SNSで呟かれる映画『こちらあみ子』の感想を読むと、まだまだ誤解や無理解だらけなことにショックを受ける。nohara_megumi さんの悲痛な訴えは実にもっともな話だ。「ボクシングもはだしのゲンもインド人も、もうしないって約束できますか?」という、尾野真千子の説教にも正直笑えない。

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 最近出た本で、これは!と思ったのが『凸凹あるかな?わたし、発達障害と生きてきました』細川貂々(平凡社)。ベストセラー『ツレがうつになりまして。』で知られる漫画家は、子供の頃から何事も「フツウ」にできない生きづらさを感じ、まるでジャングルの中をさまよっているような人生を送ってきた。彼女は48歳になって初めて自分が発達障害だと知る。幼児期から現在まで順を追って著者の経験談が四コマ漫画で具体的に丁寧に描かれ、読者もいっしょに追体験することになる。これがいい。さらに、同じ生きづらさを抱えた仲間たちのエピソードも載っていて、みな微妙に違っていることがよく分かる。大人になった「当事者」にとっては大きな救いと安心が得られるのではないか。

 前述のテンプル・グランディンは、講演の最後をこんな言葉でしめくくっている。

「もし、ぱちりと指をならしたなら自閉症が消えるとしても、わたしはそうはしないでしょう ---- なぜなら、そうしたら、わたしがわたしでなくなってしまうからです。自閉症はわたしの一部なのです」(『火星の人類学者』p391)

 映画のラストシーン。あみ子が遠く海を見つめ浜辺に凜として立つ姿を見て、僕は同じ決意を感じた。

2022年11月 3日 (木)

クリエイティブハウス『AKUAKU』のこと

『長野医報』11月号「特集:一杯のコーヒーから」が発刊されました。

 11月号は県医師会広報委員のぼくが編集担当で、テーマもぼくが決めたのですが、原稿がなかなか集まらず、自分も書かなければならなくなってしまいました。

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クリエイティブハウス『AKUAKU』のこと

上伊那医師会 北原文徳

 

 中央自動車道を飯田方面に南へ下って座光寺SAで下車し、西の山麓へずんずん上って行くと「信州たかもり温泉」にたどり着き、その北隣にちょっと硬派なジャズ喫茶「リデルコーヒーハウス」があります。店主こだわりの自家焙煎コーヒーをメインにアルコール類の提供はなし。小学生以下、3名以上での来店お断り。おしゃべり禁止。完全禁煙。店内には、高級オーディオシステムの巨大スピーカーからジャズが大音量で鳴り響いています。

 令和4年9月16日付の読売新聞14面に、1960〜70年代に流行したジャズ喫茶が再び注目を集めているという特集記事が掲載されました。最近のレコードブームでアナログ特有の暖かい深みのある音色に魅せられた海外の音楽ファンや日本の若者たちが、イヤホンでサブスク音源を聴くのが当たり前の現代、高級オーディオで大音量の音と向き合うことに新鮮な喜びを感じたのではないかと分析していました。

 ああ懐かしのジャズ喫茶。1977年〜1983年3月まで大学生だった僕もジャズ沼にはまり全国各地のジャズ喫茶探訪の旅に出て、記事に載っている東北の名店「ベイシー」「カウント」「オクテット」も実際に訪れました。土浦から常磐線経由青森行き夜行列車に乗ると東北方面は案外アクセスが良いのです。

 僕は筑波大の4期生で、当時の研究学園都市は茨城県新治郡桜村の地籍にあり、あちらこちら工事中。一雨降れば道路に水があふれ長靴は必需品でした。東大通り(ひがしおおどおり)沿いに中華丼が美味い「珍来」はありましたが、ジャズ喫茶みたいな文化的施設は皆無でした。「つくば万博」が開催されるまであと8年、「つくばエクスプレス」の開業は28年後なので、東京へ出るにはバスに30分以上揺られて土浦に出てから常磐線で上野までさらに70分かかりました。

 ジャズと映画に飢えていた僕は、週末になると上京して、池袋文芸座の土曜オールナイト上映で「大島渚特集」や「寺山修司特集」を観ました。夜明けの映画館を出て、始発の山手線に乗り込みそのまま熟睡して2〜3周もすれば、街はすでに賑やかになっていました。

 午前9時半からやっているジャズ喫茶は渋谷百軒店の奥にあった「ブレイキー」だけで、ここにはよく通いました。日曜日でも安価なモーニング(たまごサンド付き)をやっていて、暗い座席で煙草を吸いながら2〜3時間ねばれば、レコード片面ずつ5〜6枚を聴くことができました。ビリー・ホリデイ『レディ・イン・サテン』、ワーデル・グレイ、ウディ・ショウ。ここで初めて聴いて大好きになったレコード、演奏家がなんと多いことか! まさに僕にとってのジャズ道場でした。

 所持金にゆとりがある時は、大槻ケンヂ『行きそで行かないとこへ行こう』(新潮文庫)にも登場するカレーの老舗「ムルギー」でムルギー玉子入りカリーを食べました。美食家の山本益博氏が絶賛したラーメンの「喜楽」と共に、なんと今でも現役営業中です。

 新宿ではもっぱら「DIG」です。二幸(今の新宿アルタ)裏の雑居ビル3Fにありました。和歌山県新宮市の出身で日大芸術学部写真学科卒業のオーナー中平穂積氏が、植草甚一氏と知り合い1961年に開業した老舗のジャズ喫茶です。ビルの1階はレストラン「アカシア」。ホワイトソースのロールキャベツが有名で、当時確か380円でした。「DIG」の不味いコーヒーは400円しました。

 

 そんな僕が大学3年生になった夏の終わり、1979年9月9日のこと。筑波大学平砂学生宿舎共用棟の東側に隣接する商用地の2階に、突如『クリエイティブハウス AKUAKU』は出現しました。縦長の店内には、巨大なスピーカーJBL4343が左側面に設置され、中央にはグランドピアノ、奥は一段高くステージになっていました。昼間はジャズ喫茶、夜は食事もできるカフェバーで、遅くまで多くの学生たちで賑わいました。

 オーナーの野口修さんは地元桜村の出身で、音楽に限らず演劇・映画・現代美術にも造詣が深く、オープン1年前から当時まだ筑波大3期生の学生だった吉川洋一郎さん(作曲家・編曲家)岩下徹さん(舞踏「山海塾」ダンサー)浅野幸彦さん(アート・プロデューサー)の3人と協力して、この文化不毛の地にサブカルチャーの発信基地を立ち上げたのでした。「アクアク」というのは南太平洋の孤島イースター島の言葉で「何かを創造しようとする欲求」を意味するのだそうです。野口さんは当時「個人的な自由を離れた自由な場所が欲しかった」と語っています。

 オープニングライヴには山下洋輔トリオが呼ばれました。以後9月9日の山下トリオ公演は毎年の恒例となります。週末にはジャズに限らずロック、フォーク、ブルース、パンクの有名ミュージシャンたちが東京から海外からもライヴに訪れました。またギャラリーとして幾多のアーティストが個展を開き、スズキコージ氏や森川幸人氏はライヴペインティングのイベントを開催したりしました。さらに、演劇、舞踏、ダンス公演やワークショップ、詩の朗読会、各種講演会、映画上映など、その活動は実に多岐にわたります。

 

 当然のごとく、僕は「アクアク」に入り浸ることになります。いつしかスタッフの末席に加えてもらって、ライヴの手伝いをしながらタダで演奏を聴かせてもらい、打ち上げの宴会にもちゃっかり参加して、持参のレコードにサインしてもらいました。写真は、武田和命、森山威男、山下洋輔のサインが入った僕の大切なレコードたちです。

Img_2904(写真をクリニックすると、大きく拡大されます)

 マスターの野口さんは「アクアク」という空間を使って新たに何かやってみたい学生が持ち込む企画を寛大に積極的に受け入れました。僕が提案した「日活ロマンポルノ上映会」も、映写技術がある野口さんが16ミリフィルムと映写機を借りてきて難なく実現しました。特設スクリーンに映し出されたのは、僕が大好きな映画『㊙色情めす市場』(1974年/監督:田中登 キャスト:芹明香、花柳幻舟、宮下順子)です。客席も満員になり嬉しかったなあ。

 演劇では「転形劇場」を主宰する太田省吾氏が劇団員の佐藤和代、大杉漣と共に訪れて、無言劇『小町風伝』の一部を上演してくれました。能舞台をさらに超スローモーションにした役者さんの緊張感溢れる身体の動きは驚異的でした。

 僕が一番忘れられないのは、若松孝二監督をゲストに迎え彼が監督した映画『性賊 /セックスジャック』(1970年)を上映した時のことです。たしか野口さん自身のセレクトで「いまの学生たちにぜひ見てもらいたい映画」と言っていました。「あさま山荘事件」の2年前に作られた映画です。赤軍派の学生たちを模した武装革命グループが敗走して潜伏した先は、川向こうの貧民窟に住むまだ十代の青年の木造アパート。彼らは「薔薇色の連帯」と称してセックスに明け暮れる日々。青年は決して加わらず夜な夜な一人どこかへ出かけて行きます。彼はなんと孤独なテロリストだったのです。青年は河原でグループの男に呟きます。「天誅って、いい言葉ですよね」と。ラストで画面はモノクロからカラーに変わり、青年が真っ赤なジャンパーを着て颯爽と橋を渡って行くシーンで終わります。

 この赤いジャンパーは若松孝二監督が撮影時に着ていたもので、頭でっかちで何も出来ない学生たちを嘲笑うかの如く去って行く青年は、若松監督自身であり野口さんの分身であったに違いありません。僕は頭をハンマーで殴られたような衝撃を覚えました。

 

 卒業すると直ちに信州大学小児科学教室へ入局させていただいたので、僕はその後の「アクアク」の様子は分かりません。マスターの野口さんは、学生だけでなく地元地域住民との交流を深める中で、文化的活動をさらに広範囲に展開するためには直接政治にコミットする必要があると思い立ち、1992年につくば市議会議員選挙に初当選。以後8年にわたり市議会議員を務めつつ店を経営しました。ただ彼は、当初から「アクアク」は20世紀のうちにお終いにすると決めていて、2000年12月に数々の伝説を生んだ名店「アクアク」は、出演者からも観客からも惜しまれつつ閉店しました。

 

 今年の2月末のことです。ツイッターのDMに野口さんから連絡が入りました。「アクアクのスタッフだった横沢紅太郎が、串田和美『キング・リア』の舞台監督を務めるから、松本まで観に行こうと思っている。おい北原、折角だから会えないかな?」そうして茨城から奥さんと軽自動車に乗って、はるばる松本まで野口さんはやって来ました。

 お会いするのは実に40年ぶり!でも、気さくで飄々とした佇まいは昔とぜんぜん変わらない。同期生の山登敬之君と以前アクアクの話をしていて、彼が「野口さんて、1955年生まれだから僕らと年そんなに違わないんだよ」と教えてくれて驚いたのを思い出しました。

 観劇のあとロビーにいたピアニストの谷川賢作さんとヒカシューの巻上公一さんを見つけると、野口さんは「よう」と気軽に声をかけ、彼らも「あれ、野口さん!」と旧知の親しい間柄であることが知れました。暫し話し込んだあと彼らとは別れて「しづか」に場所を移し、郷土料理を食べながら昔話に花が咲きます。じつに楽しい一夜でした。

(『長野医報』11月号 p14〜18 より転載。一部改変あり)

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長野医報11月号用 医師会会員にFAXで送った「原稿募集のための招請文」


YouTube: 一杯のコーヒーから 霧島昇・ミスコロムビア

 

特集「一杯のコーヒーから」

 

 「一杯のコーヒーから、夢の花咲くこともある〜」ミス・コロンビアと霧島昇が昭和14年に歌ってヒットしたこの曲は、服部良一が作った明るく爽やかな曲調が今聴いてもモダンで新鮮に感じます。日中戦争は泥沼化し、日本が太平洋戦争へ突き進もうとしていた当時の流行歌とは、とても信じられないです。

 現在に目を向ければ、新型コロナウイルスの流行は一向に収まらず、ロシアのウクライナ侵攻は長期化、国内情勢も円安と統一教会問題で揺れていて、ますます不安で暗い気分の毎日です。

 さて皆さん。ここはひとつ美味しいコーヒーでも飲みながら「ほっ」とひと息入れませんか? 毎朝ぼくは、ケニアかエチオピアの豆を碾いて実験用のフラスコみたいなケメックスのコーヒーメーカーで入れた一杯を飲み干してから「よし」と診察室に向かいます。

 コーヒー関連の楽曲には他にも「コーヒールンバ」ザ・ピーナッツ、「学生街の喫茶店」ガロ、高田渡が京都イノダコーヒーのことを唄った「珈琲不演唱」、海外では「Black Coffee」ペギー・リーがありますね。

 

 という訳で、コーヒーにまつわる投稿を募集します。お気に入りのコーヒー豆について。スタバでスマートに注文する方法。隠れ家にしている喫茶店。むかし通った名曲喫茶。文筆家の平川克美氏は荏原中延で『隣町珈琲』を営みながら新たな「共有地」の可能性を模索しています。

 いろんな切り口があるかと思います。皆様のご投稿を切にお待ちしております。

 

広報委員 北原文徳

2022年8月 7日 (日)

映画『プリズン・サークル』

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■長野県医師会の月刊誌『長野医報8月号』が発刊されました。今月の特集は「おススメの映画」です。ぼくも寄稿しました。以下に転載させていただきます。

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ドキュメンタリー映画『プリズン・サークル』

上伊那医師会 北原文徳

 

 このコロナ禍で観ることができなかった評判のドキュメンタリー映画『プリズン・サークル』坂上香監督作品(2019年/日本/136分)の自主上映会が、3月13 日に茅野市民館マルチホールであり観に行ってきました。

 映画の舞台となる「島根あさひ社会復帰センター」は、2008年に新しく開設された最大収容者数2000人のれっきとした刑務所で、犯罪傾向の進んでいない、初犯で刑期8年までの男性が収容されています。

従来の高く厚いコンクリートの壁はなく、2重のフェンスで囲われるだけで外からはとても刑務所には見えません。しかし、最新鋭の監視システムを備えた超厳重保安施設には違いなく、その一番の特徴は官民協働で矯正教育や職業訓練を行い、受刑者の就労支援に取り組む「更生の場」として位置づけられていることです。

 しかし本当の新しさは、TC(Therapeutic Community:回復共同体)という教育プログラムを日本で唯一導入している点にあります。円座(サークル)になって受刑者同士が「対話」を繰り返すことで、自ら犯罪の原因を探り、問題の対処法を身につけることを目指します。参加できるのは希望者の中から条件を満たした40名のみ。彼らは半年から2年程度このユニットに在籍し、寝食や作業を共にしながら週12時間のプログラムを受講します。運営するのは、アメリカで研修してきた民間の支援員で、心理・福祉の専門家たちです。

 

 取材撮影許可が下りるまで6年、撮影に2年、公開まで10年を要したこの映画では、4人の若い受刑者にカメラが向けられます。拓也(22歳)はオレオレ詐欺の受け子をして逮捕されました。刑期は2年4ヵ月。真人(24歳)は、オヤジ狩り(強盗致傷)窃盗で刑期は計8年。翔(29歳)は傷害致死罪で刑期はこの刑務所では最長の8年。健太郎(27歳)は強盗傷人で5年の刑期です。

 彼らには自分の気持ちを表現する「言葉」がありません。怒り、憎しみ、妬み、劣等感、寂しさ、不安、自己憐憫、被害者意識。こうした様々な感情をどう解釈すればいいのか分からないまま、自分の感情を言葉にする代わりに「暴力」がその発露となりました。また逆に、自分の感情に蓋をして特に何も感じなくなってしまった(感盲:emotional illiteracy)受刑者たち。

 彼らの多くが幼少期に親から虐待され、学校では壮絶ないじめを受けていました。その逆境体験の苦痛を封じ込めるために、感情を麻痺させることで彼らは何とか生き延びてきたのです。「暴力」は学び取られた行為(learned behavior)だと言われています。人は突然暴力的になるのではない。彼らの多くは加害に至る以前に暴力の被害者であったのです。だからこそTCでは暴力を「学び落とす:unlearn」授業が必要になります。また「感情の筋肉」を鍛えるために、気持ちを感じて、言葉にして、相手にきちんと伝える訓練を繰り返します。

 新入りの健太郎は当初「鉄仮面」と仲間から呼ばれるほどの無表情、感情鈍麻でしたが、先輩の発言に耳を澄まして語り方を学び、語彙を増やし、自分の拙い言葉でも真剣にちゃんと聞いてアドバイスしてくれるサークルの仲間がいることで、彼は着実に変わって行きます。受刑者たちが安心して本音で語り合える場所(サンクチュアリ:安全基地・避難所)の形成と維持がTCでは何よりも重要となるのです。

 映画の終盤に印象的なシーンがありました。健太郎が犯した事件の関係者をサークルの仲間がロールプレイする場面です。健太郎は彼自身を演じ、被害者とその妻、それに妊娠中だった彼の婚約者の役の受刑者が次々と厳しい言葉を彼に投げかけます。すると、健太郎はうつむいて身体をよじり、右手の鉛筆を強く握りしめ感極まって泣き崩れてしまいます。彼を問い詰めた被害者役の受刑者も涙をぬぐっていました。

 幼少期の過酷な体験は心の奥底に封印され、自覚されず言語化されない記憶として自らを傷つけ、他者を傷つける行為につながって行きます。サンクチュアリという安全な場所があって初めてその封印は解かれ、彼らは辛い過去を思い出し語り始めるのでした。その語りに耳を傾ける仲間たちもまた、彼の話に感応することで自分の気持ちも解放されるのでしょう。

 現在4人の若者はみな刑期を終えて出所しています。日本の刑務所は再犯率が50%と言われていますが、「島根あさひ」でTCを受けた受刑者の再犯率は20%以下なのだそうです。

3人は坂上監督と連絡を取り合っていますが、健太郎だけが消息不明とのことでした。出所したTC修了生には「くまの会」というサンクチュアリの場が用意されており、元支援員やボランティアと共に定期的な会合が持たれています。

 映画上映後、1年2ヵ月前に出所した翔君と上映会実行委員長で富士見町在住の スクールソーシャルワーカー山下英三郎さんがリモートでオンライン対談した映像がネット配信されました。映画では顔にボカシが入っていた翔君は素顔を出していました。

 TCを体験したことの意味を訊かれて「ちゃんと、しっかり人と話すことができるようになったことを一番実感している。自分はこのまま幸せになっていいんだろうか?とずっと問い続けている」と答え、配信画像を見ていても、相手の話を傾聴し誠意をもって適確に解答する姿がとても印象的でした。

 

 「会話:Conversation」と「対話:Dialogue」は異なります。会話は、すでに知り合った者同士の楽しいお喋りであり、対話は、理解できない「他者」と交わす新たな情報交換や交流のことであると平田オリザ氏は言います。また、歴史的に日本という「狭い閉じた社会」では、人々は「他者」とは出会わなかった。そこから生まれる言語は、同化を促進する「会話」であり、差異を許容する「対話」は必要とされて来なかったと指摘します。 ---『対話のレッスン』平田オリザ著(講談社学術文庫)より---

  

 いま精神科領域では、フィンランドで始まった「オープンダイアローグ」が注目されています。この映画のキーワードも「対話」だと思います。興味を持って下さった方に是非映画を観て頂きたいのですが、実際の受刑者が登場するため、残念ながら今のところネット配信やDVD発売の予定はありません。すみませんが全国各地で続く自主上映会をチェックしてみて下さい。この3月末には、監督自身による映画の副音声解説とも言える書籍『プリズン・サークル』坂上香著(岩波書店)も出ましたので、読んでから観るというのもありだと思います。

 最後に、映画のパンフレットに載っていた著明人のコメントの中で印象的なものを2つご紹介してお終いにします。

 

「人の苦しみがすべて他者との関わりから生まれるものなら、それを癒すのもまた他者との関わりでしかあり得ない。他者と関わる手段は『会話』であること、暴力へのカウンターは『言葉』であることに改めて思いを巡らせました。全刑務所でTCが導入されればと思います」

ブレイディ・みかこ(ライター)

 

「加害性だけを自覚し、強い意志で新しい生き方を目指そうとすることは、必ずしも罪を償うことにつながらない。むしろ、蓋をしてきた痛む過去を受け入れ、受け入れられることで、はじめて加害の意味に気づく。傷ついていた、という認識は、傷つけていた、という認識に先行するのだ。償うことは、過去を清算することではなく、過去とともに生き続けることだということを、この映画は教えてくれる」

熊谷晋一郎(東京大学先端科学技術研究センター教授/小児科医)

・・・

『長野医報』2022年8月号(722号)p21〜24より転載

2022年2月13日 (日)

佐々木昭一郎のラジオドラマ『都会の二つの顔』

■先週の土曜日の夕方、伊那の「黒猫 通り町店」に行ったら、犬風さんは関東演奏ツアー中で居ず、田口さんが一人店にいた。

このあいだ久々に見た、佐々木昭一郎の『さすらい』の話をしてみたら、田口さんは、そんなのもちろんご存じで、「遠藤賢司が出ているヤツね。佐々木昭一郎は、ラジオドラマで面白いものがありますよ。若い男女が出会って魚河岸に行く話。街頭録音でドキュメンタリーみたいな。何てタイトルだったかなあ? 確かレコードにもなっているんですよ」

ややっ、ぜんぜん知らない。佐々木昭一郎のラジオドラマは全くノーチェックだった! まるで赤子の手を捻るみたいに、簡単に田口さんにかわされてしまったぞ。 正直悔しい。

帰って『創るということ』佐々木昭一郎(青土社)を調べてみたら、『都会の二つの顔』という題だと判った。

『都会の二つの顔』(30分ラジオドラマ)1963年12月制作。語りとピアノ:林光、脚本:福田善之+佐々木昭一郎 / 出演:宮本信子、横溝誠洸 <ある日出会った若い男女の一日の物語。魚河岸で働く若者と舞台を夢見る少女。二人は人生を語る>

YouTube にはなかった。でも、「ニコニコ動画」にあったのだね。さっそく聴いてみたよ。

主演の二人。役柄も実際にも、境遇のまったく異なる二人。若者は、佐々木昭一郎の高校時代の親友で、都内北区滝野川で魚屋を営業している。俳優ではない。ずぶの素人。少女役の宮本信子は、あの伊丹十三の妻の宮本信子で、当時まだ高校を卒業したばかりの18歳。文学座の研究生になって役者の勉強を始めたばかりの頃だ。

【ストーリー】師走の夜11時過ぎ。青山のボウリング場。初めて来た若者が、友だちを待っている女の子をナンパする。すっかり意気投合した二人。深夜の六本木、レストランに入って若者はビールとビフテキを注文する。「すげえな、このビフテキ。わらじみたいだ、チューチューいっちゃってんの」。そうすると女の子がコロコロ笑い出す。今度はナイフで切りはじめる。「この、のこぎり全然切れねえや」「のこぎりっていうんじゃないの。ナイフ」。

深夜のスナック(クラブ?)へ移動する二人。女の子の顔見知りの男女がすでにいる。男はラリっている。話が合わず、その場にまったく馴染めない若者。「おれ、ちょっと失礼して、トイレに行ってくらあ」と行って店を出てしまう。あわてて追いかけてきた女の子。「なんでそんなに怒ってるの?」「なんでえ、今のやつら」「あれはああいう人たちなの。ああいう人たちもいるのよ」。

もう午前3時近くか。二人は六本木飯倉片町の交差点から東京タワーに向かって歩いて行く。神社に寄ってお参りして、浜松町を過ぎて竹芝桟橋まで海を見に行く。東京オリンピックの前年だから、深夜でもトラックが行き交う。

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■2年後の1965年。椎名誠『哀愁の町に霧は降るのだ(上)』を読むと、この頃の椎名誠は六本木のピザ屋「ニコラス」で皿洗いのバイトをしていた。『東京アンダーワールド』に登場するマフィアのボス、ニコラ・ザペッティの店だ。仕事は夜8時から午前3時半まで。終了時には、バスも地下鉄も動いていないから、バイト仲間と連れだって歩いて浜松町まで行って、始発に乗って更に1時間かけて帰ったという。

「10月から始めたこの皿洗いのアルバイトもいつのまにか12月になって、冬の夜明けの通りはものすごく寒かった。飯倉の角から東京タワーの下を通り、長い坂道を下りながらおれたちはわりあいいつも黙りこんで歩いた。」(『哀愁の町に霧は降るのだ(上)』(情報センター出版局)166ページ

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『創るということ』佐々木昭一郎(青土社)81ページで、佐々木はこう言っている。

 魚屋の青年の中を流れている意識が快活でね、非常にいいんだよ。今でも思い出すけど宮本信子と二人で寒い六本木の街を歩くんだね。そうすると向こうからバーッとダンプカーが来たりする。それから”火の用心”なんて書いてある。

寒いから「寒いなあ!」なんていうと「息がまっ白」なんて言うんだ。耳が冷たいっていうと魚屋が耳にパッとさわるんだ。「わァ、手があたたかい」って宮本信子がまた言う。そういうところ、今テープを聞き返してもいいなあと思うところなんだね。それは自然のうちに出てきた会話なんだ。ぼくは二人腕組んで歩いてくれって注文しただけ。

竹芝桟橋で、夜明け前の東京湾を見つめる二人。「浜のにおいがする! 空が大きい!」と宮本信子。なんだか桂三木助の『芝浜』みたいだな。この時まで彼女は知らなかったのだが、実際に彼は勝五郎みたいな江戸っ子の魚屋なのだ。

ほんと、この若者の口調は落語の主人公みたいで、江戸前の気っぷの良さと、べらんめえだけど爽やかさがあって、彼の声は聴いていて実に気持ちがいい。裕次郎みたいに歌も上手いぞ。

それから、宮本信子もいい。飾らなくて自然で、明るくて。場面は変わって築地魚河岸。若者の仲間が大勢いる。六本木とは打って変わって、水を得た魚のように生き生きしだす若者。そうすると今度は女の子が置いてけぼり。午前11時。待ちくたびれた女の子。「わたし帰る。さよなら」って言う。また会いましょうとも言わない。

「どこだっけうち? トラック乗っていくか?」「じゃあ乗っけてもらおうか」「どこまでだよ」「どこまで?」「どこまでだっていいよ」(おしまい)

       【参考文献】『創るということ』佐々木昭一郎(青土社)

「ほぼ日」の佐々木昭一郎インタビュー にもあるけれど、このラジオドラマ『都会の二つの顔』が「彼の作風の原点」になっているんだね。なるほどなあ。黒猫の田口さんに教えてもらって、ほんとよかったよ。ありがとうございました。

「ニコニコ動画」には、佐々木昭一郎のラジオドラマがあと2本アップされていた。

 ・『おはよう、インディア』(1964)

 ・『コメット・イケヤ』(1966)

こちらも聴いてみよう!

それから、「てれびのスキマの温故知新 〜テレビの偉人たちに学ぶ〜」戸部田誠(第27回)2022/01/26 で、ちょうど佐々木昭一郎が取り上げられている。そろそろまた、NHKBSP で『さすらい』をはじめ、佐々木昭一郎の作品群が再放送されないかな。

2022年2月 4日 (金)

渋谷・百軒店・『さすらい』 追補

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■百軒店にあった「ブラックホーク」には、僕は入ったことはない。店の前は何度も通りすぎたけれども。

この店に関しては『渋谷百軒店 ブラック・ホーク伝説』(音楽出版社)そして、松平維秋『SMALL TOWN TALK~ヒューマン・ソングをたどって』(VIVID BOOKS)の2冊が出版されているが、僕はどちらも未読。

以下は、『渋谷系』若杉実(シンコーミュージック)10〜11ページより。

 ブラック・ホークを開業することになる水上義憲は、大学在学中に父の知人である金融業者から「これからの時代は日銭商売がいい」と教唆されるように指南され、出物の話を持ちかけられる。それはジャズ喫茶の名店として知られていた「渋谷DIG」。

(しろくま注:新宿DIG の姉妹店としてオーナーの中平穂積氏が、1963年7月、渋谷百軒店に出店したが、1966年の秋、店に泥棒が入り一枚だけを残しレコードがすべて盗まれてしまう。残ったレコードがケニー・ドーハムの「マタドール」。犯人は捕まりレコードはすべて戻ったのだけれど、残った一枚のレコード「マタドール」が、泥棒からのメッセージ「また盗る」と不吉に思ったのか、嫌気がさしたオーナーの中平穂積氏は店を手放すことにしたのだという)

スタッフ(レコード係の松平維秋)とレコード一式を残し店を畳むことになっていたのだ。つまり、それをもとに新しい店をやれ、と。水上は姉のサポートをもと在学中にジャズ喫茶のオーナーになる。

 百軒店にはジャズ喫茶であふれ返っていた。ブラック・ホークが入るビルの2階に「SAV」。ライヴを中心としていた「オスカー」。メインストリーム系の「スイング」「ブルーノート」。そして名前どおり、こぢんまりとした「ありんこ」。百軒店のすこし手前、恋人横丁のそばにも老舗「デュエット」があった。(中略)

 だが皮肉なことに、それからほどなくして世間でのジャズ喫茶ブームに陰りが見えはじめる。こうした時勢に鑑み、水上は「DIG」から「ブラック・ホーク」と名前を変え、ロック専門の喫茶店へとリニューアルする。1969年のことだった。(中略)

 ブラック・ホークに流れるロックは一筋縄ではいかないものばかりだった。ジョニ・ミッチェルやレナード・コーエンなどシンガーソングライターはもとより、ガイ・クラーク、ガストリー・トーマスのようなカントリー系、ベンタングルやフェアポート・コンヴェンションといったブリティッシュトラッドなど、まるでフォークの世界地図を目にしているようだった。

 そのフェアポート・コンヴェンションがバックを務めるニック・ジョーンズの『バラッズ&ソングス』がきっかけでトラッドに開眼したという松平維秋は、渋谷DIG 時代からレコード係としてブラック・ホークを支えてきた人物。店内に流れた音楽をみずから”ヒューマンソング”と命名する。


YouTube: Nic Jones - Ballads and Songs

■ジャズ喫茶のマッチコレクションで知った、豊丘村在住のムッシュ松尾氏の 2022/01/18 のツイートにこんなことが書いてあったぞ。勝手に転載してごめんなさい。

僕が東京のジャズ喫茶巡りをしていたのにはちょっとした訳がありますそれは渋谷にあったロック喫茶に行く為そこで聴いたレコードをレコード店で探す為。当時音楽雑誌ニューミュージックマガジンの広告に載っていた見た事も聞いたこともない音楽に出会う為。その音楽一言で言えばヒューマンソングという

その店でブリティッシュトラッドと言う音楽を覚えた。昔ながらの伝統のフォークトラッドと新しい若者たちが試みるエレクトリックトラッドと言う音楽。ペンタングルを始めフェアポートコンベンション、スティーライスパンなどのエレクトリックトラッドに心を奪われていく。そう伝説のブラックホークだ!

なるほど、この父親のもとで育ったわけなのだな。妙に納得してしまった。スタジオジブリ『アーヤと魔女』挿入歌「The House in Lime Avenue 」 by GLIM SPANKY。


YouTube: The House in Lime Avenue

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■「佐々木昭一郎」の初期の作品には、プロの役者はまったく登場しない(「はみだし劇場」と『紅い花』は除く)

カメラの前で、素人に演技をさせるのだ。しかも、手持ちカメラだから画像は揺れるし、いきなり人物に寄るし、急にパンするし、まるで「ドキュメンタリー」のような映像が映し出される。緊張感とリアリズム。それでいて、詩情あふれるシーンも随所に挿入され、そこには必ず印象的な音楽が使われるのだ。

 『夢の島少女』→ 「パッヘルベルのカノン」

 『四季・ユートピアノ』→ 「マーラー交響曲4番」

 『川の流れはバイオリンの音』→ 「チャイコフスキー弦楽セレナーデ」

 『紅い花』→ 「ドノバン:ザ・リヴァー・ソング」

 『さすらい』→「ザ・バーズ /イージー・ライダーのバラード」


YouTube: The Byrds (ザ・バーズ) / Ballad of Easy Rider 「イージー・ライダーのバラード」

■『さすらい』の主人公「ヒロシ」は、横浜の山手通りで他人のバイクを勝手にエンジンふかしてイタズラしているところを佐々木昭一郎に発見されスカウトされた。15歳だった。父はアメリカ人で母は日本人。混血孤児で、エリザベス・サンダースホームの出身。

栗田ひろみも、佐々木が発見した。佐々木の友人(池田)の知り合いで「妹っていうイメージで12,3歳の子供が要るんだけど、ちょっと色が黒くて目がクリクリしているような子いないかって言ったら、あの子連れて来た」「放送終わったらものすごい電話が鳴るんだ、今の女の子誰ですかって」「1,2年後に大島渚の『夏の妹』っていうのに出た。初出演って、まあ大島さんが見つけたみたいになってたけど、いちゃもんは全然つける気はないけど、ぼくのに最初に出した。」(『創るということ』佐々木昭一郎より)

「笠井紀美子は、アメリカに出発する直前だった。彼女が演じた、さすらうシンガーのシーンは、出発3日前に撮った」(『創るということ』佐々木昭一郎より)

■佐々木昭一郎の作品の中では、ぼくは『さすらい』が一番好きだ。

主人公ヒロシは孤児。おとうさんも、おかあさんもいない。兄弟もいない。だから、さすらいながら探し、そして出会う。

友川かずきは兄貴だ。栗田ひろみは妹。キグレサーカスの綱渡りの女は母親のイメージか。笠井紀美子は、唄をうたう「お姉さん」だ。「交流」するためにアメリカへ行こうとしている。

ここじゃない。他のところ。この人じゃない、他の人。今ない、他のとき。自分じゃない、他の自分……。」

主人公の青年、海から出てきて、また海に帰って行く。

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■渋谷に生まれ、渋谷で育ち、いま現在も渋谷に暮らす、井上順さん。彼のツイートは、このところ毎朝の楽しみになっている。進行形の渋谷の街並みに溶け込む彼の写真とお決まりのダジャレ。

そのダンディな装いとは逆に、飾らない人柄が溢れ出た笑顔がなんとも素敵な人だ。最近出たばかりの本『グッモー!』井上順(PARCO出版 2021/10/14)は、変わりゆく渋谷の写真も満載で楽しい一冊だ。

井上順は、1947年2月、渋谷区富ヶ岡1丁目にあった「井上馬場」に生まれた。少し北へ行くと代々木八幡宮がある。祖父は獣医師で、サラブレッドの輸入にも関与し、経営する馬場には宮様方も乗馬に訪れたという。

3人兄弟の末っ子だった彼がまだ幼い頃に両親は離婚。やり手の母親は自ら会社を立ち上げバリバリ働いた。今で言えばジャニーズ系のイケメンだった彼が中学1年生の時、母親は彼が将来芸能界で活躍できるかも? とでも考えたのか、彼を「六本木野獣会」に入れる。

川添浩史・梶子夫妻の評伝『キャンティ物語』野地秩嘉(幻冬舎文庫)にも、120ページに「六本木野獣会」が登場する。渡辺プロダクションの副社長、渡邊美佐が目を付け選んだタレント候補生の集まりで、ジェリー藤尾、田辺靖雄、大原麗子ら約20人のメンバーが、六本木飯倉片町の「キャンティ」近辺にたむろしていたのだった。

井上順は峰岸徹の弟分となり「キャンティ」隣の写真家の立木義浩氏の自宅にも、よく遊びに連れていってもらったという。そして、彼が16歳の時に、ザ・スパイダースの最年少メンバーとして加入することになる(少し先に加入した堺正章は、彼と同学年だが 1946年8月生まれ)。

ザ・スパイダースは、リーダーの田邊昭知のマネージメント能力とリーダーシップ、それから、かまやつひろしの新しいものを直ちに取り入れるシャープな感性と音楽センスによるところが大きかったと。メンバーの大野克夫、井上堯之は、のちに作曲家としても大きな功績を残した。

田邊昭知はいまや、タモリも所属する田邊エージェンシーの社長だ。奥さんはあの、小林麻美。

追補)井上順さんのツイートを読んでいて驚いたのは、彼が海外ミステリー、ハードボイルド、冒険小説のファンで、新刊も欠かさずしっかりフォローしていることだ。

ハヤカワの「暗殺者グレイマン」のシリーズ、講談社文庫マイクル・コナリー「ハリー・ボッシュ」シリーズ、そのほか最近の人気シリーズものや、創元推理文庫のシブいところまで、とにかくよく読んでいてビックリしてしまったぞ。すごいな!

2022年1月26日 (水)

1971年の渋谷 道玄坂 百軒店(ひゃっけんだな)円山町。そして、佐々木昭一郎『さすらい』


YouTube: 「さすらい」 佐々木昭一郎演出 ダイジェスト

■渋谷道玄坂 百軒店(ひゃっけんだな)のことを調べていたら、いろいろと面白い。まずは、戦後1960年代〜1990年代〜そして現在に至る「渋谷」という街の変貌が、分かりやすい印象的な文章でまとめれた、『月刊 pen』での連載【速水健朗の文化的東京案内。渋谷編 ①〜⑥ が読み応えある。

<その⑥>が「若者の街、渋谷の原点は百軒店にあった」だ。この中に出てくる 1971年公開の日活映画『不良少女 魔子』(なんと、あの『八月の濡れた砂』との2本立て上映だった!)が、amazon prime video(無料ではない?)あるらしい。見てみたいな。

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『2000年 の「渋谷」の地図』

写真をクリックすると大きくなります>

■「百軒店」の歴史は古い。西武の前身「箱根土地」の堤康次郎は、入手した旧中川伯爵邸跡地を高級住宅地として分譲しようとしていたが、1923年、関東大震災が起きてしまったためその考えをやめて、被災した銀座・上野の名店(精養軒、資生堂、山野楽器、天賞堂、聚楽座など 117店)の仮店舗を誘致して、渋谷に浅草をもしのぐ繁華街を作り上げた。それが「百軒店」だ。

しかし、復興が進んで名店が都心に戻ると寂れ、隣接する花街・円山町の待ち合わせの街として発展した。東京大空襲で全て焼失したが、戦後は円山町が花街からラブホテル街へと変化するにつれ、喫茶店や飲食店や映画館が建ち並んだ。

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【1978年 頃の百軒店:店舗一覧】

「エクリア」と書いてある所が『ムルギー』 。その奥のビルとマンションには、かつて映画館が3館:テアトルハイツ(1950〜68年)テアトル渋谷(47〜68年)テアトルSS(51〜74年)あった。映画『不良少女 魔子』に登場するボーリング場は、この映画館あと地(図の、ハイネスマンション→いまのサンモール道玄坂)に出来たもの。

■平安堂で立ち読みしていた『TV Bros. / 2022年2月号』p54〜55「細野晴臣と星野源の地平線相談」の今月のテーマが「渋谷の再開発」だったんで、買ってきたら、細野さんがこんなことを言っていた。

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細野:僕の脳内では、渋谷の風景は、はっぴいえんどの時代で止まってるね。(中略)僕らがしょっちゅう通っていた「マックスロード」というカフェもなくなっちゃった。

星野:どこにあったんですか。

細野:桜丘。驚いたんだけど、あの一角って、まるで爆弾でも落とされたみたいに、軒並み建物が解体されたよね。すごく大規模な再開発が始まったらしい。(中略)

星野:「マックスロード」の他に、はっぴいえんどのメンバーが渋谷でよく行っていた店というとどこになりますか。

細野:百軒店にはしばしば足を運んだね。ロック喫茶の「ブラックホーク」とか、ジャズ喫茶の「DIG」とか。

星野:そういう店って、レコードがいっぱい置いてあって、コーヒーを飲みながら聴くという仕組みなんですか。

細野:そう。あれだけでっかい音でレコードを聴く機会はなかなかなかったから、そういう意味では貴重な場所だったんだよ。(中略)あと、渋谷には、道玄坂の「ヤマハ」をはじめとして楽器屋も多かったから、よくのぞきに行ったもんだよ。

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■「マックスロード」のことは『細野晴臣と彼らの時代』門間雄介(文藝春秋)p139にも登場する。1970年、はっぴいえんどのマネージャーとなった石浦信三は、松本隆と青南小学校、慶應義塾中等部、高校、大学(学部は違う)まで一緒の幼なじみで、松本と文学について議論を交わしてきた親友だった。『ゆでめん』の歌詞カードの癖の強い手書きの字は、石浦によるもの。

 松本と石浦は渋谷の桜丘町にあった喫茶店「マックスロード」に入りびたった。石浦(談)「2人でもっぱら戦後詩の本を片っ端から読破していってね。詩潮社の現代詩文庫なんかは、出る片はじから読んでしまった。」

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■そういえば、以前「黒猫」で買った古書『風都市伝説 1970年代の街とロックの記憶から』北中正和責任編集(CDジャーナルムック 音楽出版社)があったのを思い出し、納戸から出してきて読み始めた。

1971年の春。渋谷道玄坂百軒店の路地の一角に『BYG』という全く新しいコンセプトの音楽喫茶が誕生した。店長の酒井五郎は「新宿ピットイン」を立ち上げた敏腕マネージャーだったが、オーナーとのトラブルで辞めた人。地下にライヴ・スペースがあり、1階は自然食、2階はレコードをかけるロック喫茶という構成だった。

梁山泊の如く『BYG』に集まってきた若者4人(石塚幸一・前島邦昭・石浦信三・上村律夫)は、やがて『風都市』と名乗り、さまざまな企画・運営にたずさわり、はっぴいえんど、はちみつぱい、あがた森魚、、小坂忠とフォー・ジョー・ハーフ、南佳孝、吉田美奈子、シュガー・ベイブ、山下洋輔トリオのマネージメントにも乗り出したのだった。

■時代は少し過ぎて、1977年の春のこと。やはり4人の若者が、自分たちで「アーバン・トランスレーション」という翻訳会社を渋谷道玄坂に立ち上げる。会社のオフィスは、しぶや百軒店のジャズ喫茶『スウィング』と『音楽館』の奥の雑居ビルの1階に構えた。

経営者のメインの2人は小学校からの幼なじみで、その若者の名前は、平川克美と内田樹。

 村上春樹の『1973年のピンボール』という小説には、大学を出た後、友人と二人で渋谷で翻訳会社を経営することになった若者が出てきます。

 平川くんはよく知り合いから、「この小説のモデルは平川さんたちでしょ?」と聞かれたそうです。

 たしかに、登場人物と僕たちの境遇はよく似ていました。あの時代に渋谷に20代の若者が学生時代の友人と設立した翻訳会社なんてうちしかありませんでしたから、どうやって僕たちのことを知ったんだろうと不思議な気持ちになりました。

『そのうちなんとかなるだろう』内田樹(マガジンハウス)p103


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■速水健朗氏は取り上げていなかったが、1971年の渋谷・映画館・フォークシンガー・百軒店・円山町と言えば、僕にとって忘れられないのが、NHKのテレビドラマ:佐々木昭一郎『さすらい』(1971年 90分 オールフィルム)なのだった。

1970年代にNHKのカリスマ・ディレクターだった、佐々木昭一郎が作・演出したテレビドラマは『夢の島少女』『四季・ユートピアノ』『紅い花』『川の流れはバイオリンの音』など、世界的に評価が高い作品が多く、現役の映画監督の中でも、是枝裕和監督をはじめ大きな影響を受けたことを公言している監督は多い。

その佐々木昭一郎が『マザー』(1969)に続いて撮った「2作目」が、『さすらい』(1971)だ。現在、YouTube 上で『夢の島少女』『四季・ユートピアノ』『紅い花』『川の流れはバイオリンの音』は全篇見ることが出来る(画質はよくないけれど)。しかし、この『さすらい』だけは「90分の完全版」のアップロードはなく、冒頭に上げた「9分56秒のダイジェスト版」のみなのだった。

★【ストーリー】★ 北海道の施設で育った主人公の青年ひろし(15歳)は、上京して渋谷の映画館に掲げる映画の看板屋に就職する。その仕事場にいた先輩が、プロの歌手を目指す「友川かずき」だった。円山町にある会社の寮へ連れて行ってもらって、食堂でカレーライスを食べる二人。

踏切で待つ中学生、栗田ひろみ。真っ赤なミニのワンピース。彼女がストレートロングヘアーを右手でかき揚げる仕草に、主人公の目は釘付けだ。 妹?それとも、彼女? エロい妄想に浸る主人公。

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雨の日比谷野外音楽堂。ステージには遠藤賢司がぽつんと一人、無人の客席に向かって歌い始める。

看板屋を辞めた青年は、北を目指して旅に出る。福島では「キグレサーカス」の団員たちと、気仙沼では「はみだし劇場」の劇団員と共に過ごす日々。そして、基地の町の青森県三沢では「氷屋」になってリヤカーでバーやスナックに氷を届ける。そこで、ジャズシンガー笠井紀美子と出会う。それから……。

主人公の青年、海から出てきて、また海に帰って行く。

ここじゃない。他のところ。この人じゃない、他の人。今ない、他のとき……。」

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「栗田ひろみ」も後で登場する、京王井の頭線 神泉駅前の踏切(渋谷 円山町)

■ミュージックマガジン増刊『遠藤賢司 不滅の純音楽』p97 には「ミュージックマガジン 2007年3月号」の遠藤賢司特集に載った記事「遠藤賢司が出演したドラマ『さすらい』演出家・佐々木昭一郎に聞く」というインタビュー記事がある。以下、一部引用する。

「さすらい」は、主人公の流転を描く物語。主人公を客観的に突き放したり、引き寄せたりして描いていかなきゃいけない。で、引き寄せた時に(というのは、作者として主人公と手を取り合った時に)歌を響かせたいと思ったんですよ。

 ぼくは音楽を研究したんです。クラシック音楽から勉強しなおした。その中からボブ・ディランの姿が浮かんだんですよ。やっぱりものすごい歌手だと思った。しかもボブ・ディランというのは自分自身を歌ってるんだよね。それに痛く共鳴してね。どうしてもこの作品には音楽家を、歌を歌う人を出したかった。

 というのは、反動があったのね。ベ平連なんかが新宿とかで歌を歌っていた。それから、歌を媒介にして集団で暴力的になっていったんだ、みんな。そういう歌もハヤリはじめたんで、つき合っちゃいられないと思った。そうじゃなくて、一人で孤独に歌ってる、力のある人がいないかと思って、そういう人を起用することに決めた。それで友川かずきを見つけて、笠井紀美子、遠藤賢司と、3人、歌う人が出てくるんですけど、いずれもNHKの音楽部が拒否した人たちなんですよ(笑)。

 友川はすごい才能がある奴だと思ったよ。その場でどんどん曲を書いていくんだ。ぼくの目の前でノートを広げてね。その時に彼が、「遠藤賢司はギターが上手い」って言ったの。「抜群に上手い。あのくらい弾けたら、俺はすぐデビューできる」って。

それで、助監督の和田智充君に、遠藤賢司に会って来い、って言った。カレーライスについての歌を歌ってもらえないか、って聞いてもらったんです。ちょうど主人公と友川かずきがカレーライスを食べる場面を撮ったところだったから。二人が兄弟のような、憧れと憎しみがせめぎあっているような状態を。

そしたら「既に彼は歌ってるんです」って言うんだね。もともとシナリオに、カレーライスを食べる場面が書いてあって、カレーライスの歌を歌うところも書いてあった。ただ、誰が歌うかなんて書いてない。カレーライスの歌と1行書いてあるだけだった。

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■青年と友川かずきは、成人映画の大きな看板を抱えて歩行者天国で賑わう道玄坂商店街から映画館がある百軒店へと入って行く。それを苦笑しながら見守る外国人観光客

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■1990年代に入ると、渋谷の音楽文化の発信基地は「百軒店」から、センター街にできた「HMV」や宇田川町に雨後の竹の子のように乱立した輸入レコード店たちにすっかり取って代わってしまった。例の「渋谷系」ってヤツの誕生だ。それはまた別の話だけれど。

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■いっぽう、1997年3月9日午前零時ころ、渋谷区円山町、神泉駅近くの古アパート「喜寿荘」1階の空き部屋で「東電OL」が殺害される。いわゆる「東電OL事件」だ。

強盗殺人罪で逮捕起訴されたネパール人ゴビンダ・プラサド・マイナリは、一審無罪、二審で逆転有罪の判決を受け、最高裁で無期懲役が確定。ゴビンダは無罪を訴え再三にわたる再審請求を行い、2011年、被害者から採取された精液や体毛のDNAがゴビンタ以外の男のものであることが判明し、2012年再審開始。11月に無罪判定となり、冤罪であったことが確定した。

2021年12月 1日 (水)

映画『海辺の彼女たち』を、赤石商店で観てきた

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■日曜日に伊那市「赤石商店」で映画『海辺の彼女たち』脚本・監督:藤本明緒(2020年/日本=ベトナム 88分)を観てきた。ずっと見たかったのだ。期待以上だった。劇映画なのだが、出演者がみな自然な演技をしていて、撮影はハンディ・カメラだし、ドキュメンタリーかと見紛う出来だ。これは、佐々木昭一郎の演出手法だね。

この映画は、観客の五感をことごとく刺激する。ベトナムから3ヵ月前に技能実習生として来日した若き女性3人。超ブラックの職場を早々に脱出して、同国出身の闇ブローカーの斡旋で北の海辺の寒村へと派遣される。在留身分証明書も保険証もない不正滞在労働者となって。そんな危険な身にに陥ってまでも

彼女等は本国で貧乏な両親と弟妹たちに仕送りしなければならない責務があるのだった。もちろん、闇ブローカーの男は法外な仲介料を請求する。保険証がないから、病気になっても医者にはかかれない。

■フェーリーに乗って逃避行した彼女らは、港に到着後さらにワンボックス車で長距離移動。ようやく到着した雪深き海辺の寒村は青森か?

 彼女等は腰まで一体化された長靴(天竜川で鮎釣りしてる人が履いるヤツね)で、厚手のゴム手袋はめて漁船から水揚げされたイワシを選別する。もしくは網に取り付ける丸い大きな「浮き」にこびり付いたフジツボをノミでこぎ落とす作業。彼女らは雪降る堤防わきに座って、ただ黙々と専念する。寒いだろう、冷たいだろう。

スクリーンから、彼女等の長靴の中の足の小指が、しもやけになる冷たさと、頬に突き刺さる北風が僕の肌でも感じられた。あと、主演のホアン・フォン(彼女の演技がホント素晴らしい!)がお腹痛いのを我慢しながら、病院を探して延々と街を彷徨うシーン。

ここは見ていてほんと辛かったな。もういいよ、もういいよって、画面を見ながら思わず願っていた。

そうして、ようやく辿り着いた総合病院。はたして事務受付で偽造保険証を見破られないか? 見ていてハラハラした。よかった!大丈夫だ(でも、医療従事者としては、それほど日本の保険医療機関は甘くはないぞ!とも思うけれど。)

外来はエレベーターで5階だ。そこで診察してもらって聴く「ある音」に、彼女は涙する。ここは泣けたな。夜遅く飯場(はんば)に帰り着いた彼女は、ストーブの上の鍋で煮えたスープをカップによそって啜る。彼女の舌が感知するスープの熱さと故郷の味。判るよ!

■映画『海辺の彼女たち』の感想追補。 観客の「五感」を刺激する映画だと言いつつ、嗅覚については触れてなかったな。それは彼女等の作業場に漂う魚の生臭さだ。フォンは途中で耐え切れなくなって、雪の上に嘔吐する。あと、ラスト近くのスープのにおい。何故かナンプラーとパクチーの匂いがした。

■上映時間が88分しかない映画の中で、異様にむだに?長いシーンが2つあった。それが主演のフォンが弘前の町を延々とさまよう場面と、この夕食の場面だ。ここには間違いなく監督が一番言いたいメッセージが込められているのであろう。だからこそ観客はみな固唾を飲んでスクリーンを見つめるのだ。

この夕食の場面。いろいろな思いが交錯する。ベトナムから一緒にやって来た仲間二人の思い。映画をずっと観て来た観客の思い。そして当事者フォンの思い。人間どんなに辛い事があっても「おなか」はすくのだ。生きてるから。明日も生きてゆかなければならないから。そんな覚悟が彼女の瞳に表れていた。

■そのことを僕が実感するのは、自分の母親が死んだ時と、受け持ち患者さんが亡くなった日のことを思い出していたからだ。こんなに辛いのに、こんなに申し訳ないのに、それでも俺の腹は空くのか! そんな絶望的な気分に陥ってしまった「あの日」のこと。

映画のポスターに書かれているキャッチコピーにはこうある。そういうことだ。

--- 生きていく。この世界で ---

■さらに追補。

映画のロケ地が弘前だったかどうかは分かりません。ただ、弘前駅から町の中心街へはかなり遠くて、バスに乗らないと無理です。冬の弘前は学生の時に一度だけ行ったな。

ジャズ喫茶「Suga」が繁華街の近くにあった。この日は弘前市民会館でマービン・ピーターソンのライヴを何故か聴いた覚えがある。もう1軒寄ったジャズ喫茶は「オーヨー」だったかな? いや『仁夢』か。

2021年10月25日 (月)

小津安二郎と戦争


YouTube: GoutDuSake-Ozu

■『秋刀魚の味』は、小津安二郎監督の遺作となった映画だ。この映画で最も印象深いシーンが、メイン・ストーリーとは関係ない「トリス・バー」での加東大介と、湯上がりで色っぽい岸田今日子が登場する場面。小津はこのシーンに自らの「戦争観」を込めた。

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小津の映画の中では『秋刀魚の味』が一番好きだと、かねてから公言している内田樹氏は、鈴木正文氏(そう、矢作俊彦が小説にした、あのフランスの名車「ドー・シー・ボー」に乗って会津へ行ったスズキさんだ!)が編集長を務める『GQ』誌上において、小津と戦争に関して「こんなふうに」書いている。

しかし、月刊文芸誌『新潮』をたまたま読んでたら、そこに「平山周吉」の名前を見つけたのだ。この名前、小津安二郎の最高傑作『東京物語』で笠智衆が演じた主人公の名前じゃないか! 彼が連載するタイトルは、なんと!『小津安二郎(11)』。読んでみた。面白い! しかも、よーく調べている。ベースとなっているのは、田中眞澄氏が集めた文献だが、それ以外にも新たな資料を見つけてきて載せていた。

それにしても「平山周吉」なんて人を食ったようなペンネームを使う輩はいったい何者なのか? (つづく)

「平山周吉」で検索すると、笠智衆の他に見つかったのがこの人。1952年東京生まれで、慶應義塾大学文学部国文科卒業後に文藝春秋社に入社。週刊文春の編集を経て、文芸誌『文學界』の編集者となり、江藤淳を担当。あの、江藤淳が自死したその日に最後に会った人でもある。その顛末を本にした。『江藤淳は甦える』平山周吉著(新潮社)だ。

■小津は、『父ありき』(1942年)から明らかに作風が変わったように思う。曾我兄弟の墓石が突然挿入されたりとかね。いったい何があったのか?

田中眞澄『小津安二郎周游(上)』(岩波現代文庫)を読むと、映画監督小津安二郎は、一年志願兵を務めて陸軍歩兵伍長の軍籍にあった。1933年9月、彼は演習招集で三重県久居の陸軍歩兵第33聯隊に入隊した。そこで主として「毒ガス戦」の訓練を受けている。

1937年9月9日、小津に召集令状が来た。それより僅か2週間前、映画監督:山中貞雄にも召集令状が届く。それはちょうど『人情紙風船』の封切り日。この日は撮影所で「人情紙風船」の試写が行われた日でもあったから、スタッフ、出演者が集まっていた。(『新潮 2021 7月号』p229 参照)

試写が済んだあと、撮影所の芝生で山中監督をかこんで皆で雑談していた時、誰かがもってきて渡した ”赤紙” を見た山中はサッと顔色を変えた。無言の間がちょっとあって、「これがわいの最後の映画じゃ死にきれんな」とボソッといった。

 加東大介は、まさにその場に居合わせた一人だった。

「私は昭和7年(1932)に現役にいき、千葉の陸軍病院に [衛生兵として] はいりました。軍隊ではいわゆるらくな役だったのですが、その間に満州事変がおき、内地にとどまったままで、下士官要員として返されました。その後、支那事変が始まりましたが、東宝撮影所の芝生で一緒にねころんでいた監督の山中貞雄さんに赤紙がきてびっくりしました。」(加東大介談:『新潮 2021 7月号』p229

■ちょうど、日本映画専門チャンネルで、デジタル・リマスター版が続けて放映された、現存するたった3本の山中貞雄監督作品『丹下左膳余話 百萬両の壺』(1935年)『河内山宗俊』(1936年)人情紙風船』(1937年)を見たばかりで、当時まだ前進座の役者で「加東大介」の芸名ではなく「市川莚司」の名前で出演していた彼を発見したから、ちょっとウルッときてしまった。

『丹下左膳余話 百万両の壺』には、加東大介は出演していない。しかし、彼によく似た役者さんがぐうたらな旗本御大名の役で出ていた。沢村国太郎(長門裕之・津川雅彦の父)だ。なんと!彼の実の兄さんだった。ちなみに姉は沢村貞子。

その加東大介に召集令状が来たのは、それからずいぶん経って昭和18年(1943)になってからだった。彼はニューギニア戦線に投入される。詳細は彼の著書『南の島に雪が降る』(映画化もされた)をご参照ください。

■1937年10月。招集された小津は、上海に上陸する。12月?(1938年6月という説も)には陥落後の「南京」に入城している。明けて1月12日には南京近郊の句容で、一足先に出生していた山中貞雄と面会する。わずか30分の邂逅だったという。

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『小津安二郎大全』松浦莞二・宮本明子/編著(朝日新聞出版)p223 より

山中貞雄は、その後所属部隊と共に河北省へ移動。1938年9月17日、山中は戦闘中に飲み込んだ河川の濁流が原因で急性腸炎(赤痢?)を発症し、極度の脱水症と栄養失調のため開封市に設置された野戦病院で死亡する。享年28。天才の若すぎる非業の死であった。

■小津にとっての山中貞雄は、年下だけれど映画界においては、そのアメリカ的でハードボイルドな格好良くスピーディで洗練された演出センスと映像技術をもって大いに尊敬する先輩であり、しのぎを削るライバルでもあった。そして何よりも「映画」をこよなく愛する同志であり無二の親友であった。

小津は山中の死をいつ知ったのか?

1938年8月。まだ南京に駐留していた小津は、「古雛鳴寺」で現地の住職から「無」の書を受ける。この書を小津は生涯大切に保管した。9月、ほどなくして山中の死を知った小津は、突然口をつぐみ、数日間無言でいたという。悲しみに耐えている背中を戦友たちが目撃している。(『小津安二郎大全』松浦莞二・宮本明子/編著(朝日新聞出版)p223 より)

■その後、南京からさらに西進した小津の部隊(近衛歩兵第三連隊:毒ガス部隊)は、修水河での壮絶な戦闘に参加する。毒ガス弾三千発、毒ガス筒五千発が投入された激戦であった。(第一次世界大戦が終わった後、1925年に国際的に認定された「ジュネーヴ議定書」では、毒ガスの使用は禁止されていたのに、日本軍は秘密裏に使用したのだった。ちなみに、重慶空襲も日本軍が最初に行った民間人虐殺の始まり。その後、ドレスデン空襲、1945年3月10日の東京大空襲へとつながってゆく

2021年10月 1日 (金)

デンマーク映画『わたしの叔父さん』を、赤石商店で観た。

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■伊那市「赤石商店」で映画『わたしの叔父さん』を観てきた。もろ好みの映画。とってもよかった。これは、デンマーク版『晩春』だ。赤石商店のご主人が、本物の「ヌテラ」を蔵の前で売ってたよ。あと、「ナンプレ」(数独?)のコピーもくれた。

主人公が食事中にいつも読んでいる本が「ナンプレ」で、夕食後に叔父さんと遊ぶボードゲームは「スクラブル」だ。映画が始まって10分近く二人にまったく会話はなく、買い出しに出かけたスーパーで叔父さんが初めて発したセリフが「ヌテラを」だった。


YouTube: 晩春 1949


YouTube: 映画『わたしの叔父さん』予告編

■ただ、さすがに小津安二郎『晩春』の父娘をそのまま現代に移植すると近親相姦的になりすぎて、映画のリアリティがなくなる。で、叔父と姪の設定となったのだろう。この二人の演技が自然でじつにイイ雰囲気(無愛想でつっけんどんなのに、そこはかとなく愛がある)を醸し出しているのだ。実はこの二人、実際に叔父と姪の関係で、しかも叔父は役者ではなく、ロケされた農場・牛舎・自宅で本当に生活している農場主なのだった。

この映画の監督は、撮影に入る前に彼の農場に長期間寝泊まりして、実際に農作業や牛の世話、乳搾りを体験。それから脚本を書き上げたという。なんだか、傑作映画『サウダーヂ』『バンコクナイツ』を撮った富田克也監督が率いる『空族』の映画の作り方と同じじゃないか!

■カメラアングルやカット割りとかは決して「小津調」ではない。ただ「朱色」の使い方。叔父さんのTシャツ、トラクターやコンバインの色、初デートに着る勝負服。地味な色合いの画面に印象的なアクセントとなっていた。


YouTube: Aki Kaurismaki on Ozu

それから、彼氏と横並びで同じ方向に視線を向ける場面(教会、水門のレストラン傍の土手)は、『東京物語』の熱海の朝の堤防だ。

【以下、映画のラストに触れます(できるだけネタバレにならぬようには配慮したつもりですが…)】

デンマーク映画『わたしの叔父さん』の感想(つづき)。ダイニングキッチンにやや上方斜め45度で固定されたカメラ。姪と叔父はテーブルを挟んで常に90度で対峙する。カメラには映らない後方の冷蔵庫の上にあるテレビから絶えず世界の深刻なニュースが流れている。北朝鮮がミサイルを発射した、イタリアに難民が漂着したとアナウンサーが語ってる。


でも、デンマークの片田舎の厩舎に暮らす二人は、毎日朝から晩まで変わりなく平凡なルーチンをただこなすだけだ。サイモン&ガーファンクルの「7時のニュース/きよしこの夜」を思い出した。映画のラスト、初めてカメラがダイニング背面を映す。壊れたテレビを叩く叔父。でも付かない。無音のままカメラはパンする。


で、ラストシーンとなるのだが、これには参った。
そこで終わるのか!

あと独特のユーモア。回転寿司があるのだね、コペンハーゲンには。それから映画館での場面。上映されていたアメリカ映画は何? 同じような場面があった『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』でかかっていたのは「リオブラボー」


■このラストをどう考えるかは、観客に委ねられている。


いくつか映画の感想を読んだし、監督インタビューも読んだ。でもぼくは、以前から大好きだった映画『ギルバートグレイプ』を思い浮かべたな。ジョニー・デップとレオナルド・デカプリオを初めて発見した映画だ。

 アメリカのド田舎の小さな町に暮らすジョニー・デップ。息が詰まりそうな閉塞感。百貫デブでベッドから起き上がれなくなってしまった母親と、高いところが大好きな自閉症の弟を支えながら変化のない淡々とした毎日がただ過ぎてゆく。唯一の楽しみは、倦怠期の人妻との昼下がりの情事だ。

ジョニー・デップは自らの夢と希望を語らない。もうこのまま一生この町を出ることなく家族と共に暮らしてゆくのだ。仕方ないのだと、諦め切っている。監督は、やはり北欧スウェーデン出身の、ラッセ・ハルストレム監督。

■じゃあ、『わたしの叔父さん』の主人公がジョニー・デップと同じ思いでいるかというと、それは違う。彼女にとっての叔父さんは、決して彼女の人生を台無しにした厄介な存在ではないのだな。ほら、『巨人の星』で星飛雄馬がバッターボックスの左門豊作に投球しようとすると、突然ピッチャーマウンドに左門豊作の弟や妹たちが現れて、皆で星飛雄馬を羽交い締めにしてボールを投げさせないようにするじゃない?

まるで大リーグボール養成ギプスみたいになって。

ジョニー・デップにとってのデカプリオは、まさにそんな感じだった。愛しい存在ではあるけれど、どうにもならない足枷(あしかせ)。

でも、この映画の主人公にとっての叔父さんはちょっと違う。彼女がひとりぼっちになってしまった14歳の時からいっしょに暮らしてきて、もう一心同体になってしまっているのだよね。お互いに「叔父・姪」がいなければ生きてゆけない存在になってしまった。まあ、「共依存」なわけだ。

だから、新たに登場した彼氏に対して、私と付き合いたいなら(セックスしたいなら)もれなく叔父さんも付録で付いてくるけれど、それでもいい? その覚悟はある? と、彼女は無言のうちに彼に対して大胆な態度をとったのだろう。

とはいえ、彼女が自分の人生のキャリアをすべて諦め切ってしまったわけではない。

それは、この映画のラストが証明している。

■デンマーク映画は、先だって NHKBSP で『バべットの晩餐会』を見て、その鮮やかな出来映えに感心したばかり。フラレ・ピーダセン監督の次回作も、ぜひ観てみたい。

2021年5月27日 (木)

映画『きみが死んだあとで』を観てきた(松本シネマセレクト)

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写真をクリックすると、大きくなります。文字も読めるようになります

以下、ツイートを改変再構成したのもです。

■今日(5月23日の日曜日)は松本まで行って、3時間20分もある映画『きみが死んだあとで』を観てきた。全く退屈しなかった。面白かった。上映後の代島治彦監督と信濃むつみ高校の教頭だった竹内忍先生との1時間に及ぶ対談も聴き応えがあった。頑張って出かけて行って良かった。

代島治彦監督は1958年の早生まれで、ぼくより1つ上の学年だ。監督はシラケ世代と言ったが、竹内先生とぼく(同じ1958年生まれ)は「遅れてきた青年」の感覚だった。映画のラスト。監督が羽田弁天橋の欄干に山崎博昭さんの肖像写真を掲げる。雨が降っている。写真のアップ。その雨粒が山崎さんの目から流れた涙に見えた。

ただ、帰宅後に先だって伊那の平安堂書店で買ってきた『映画芸術』最新号 p44〜p53 に載っている、当時バリバリの活動家だった、亀和田武、絓 秀実、小野沢稔彦、荒井晴彦の座談会「1967.10.8 以後の新左翼の変容と敗北 ---- 革命闘争の死者は聖化できるのか」を読んで「う〜む」と考え込んでしまった。だったら、あんたらちゃんと自分たちの言葉で総括してよ。そう思った。

1967年10月8日。この日、佐藤栄作(岸信介の弟)総理大臣が南ベトナム訪問のため羽田から飛びに立つのを阻止すべく、全国各地から「ベトナム反戦」を訴える大学生たちが羽田へ通じる「橋」を目指し集結した。この映画の主人公、山崎博昭(18歳・京都大学1年生:中核派)も仲間と共に京都から深夜夜行バスに乗って駆けつけたのだった。

ただこの日の前日に、法政大学構内において中核派による革マル派幹部への「内ゲバ」リンチが行われていたこと。それから、この日初めてデモプラカードに見せかけた角材(後のゲバ棒)とヘルメットが参加学生たちに支給され、最初の武装闘争となった事実は重要だ。

羽田弁天橋の上で機動隊に撲殺された山﨑の死後、学生たちの暴力は加速化してゆく。投石、火炎瓶。同時に、体制側の機動隊もどんどん武装化していった。内ゲバ殺人も日常化していく。

でも、1969年東大安田講堂での敗北後、学生運動は地下へ潜り、大衆を巻き込んだ大きなうねりの活動から、爆弾テロ、ハイジャックといった、より過激な闘争活動へと突き進んでゆく。その行き尽きた果てが、連合赤軍のリンチ殺人と、浅間山荘での銃撃戦だった。

映画を観たあとになって初めて、この大友さんへのインタビュー動画を見た。師匠「高柳昌行」に対する複雑な想いを、これほど率直に正直に語る大友さんて、初めて見た気がする。これは貴重な動画だな。


YouTube: 『きみが死んだあとで』特別対談①/大友良英(本作音楽)×代島治彦 監督

続けて加藤登紀子さんへのインタビュー。これまた引きつけられる。格好いいなあ。でも、どこか映画の後半、ベトナムのホーチミン市で演説する、元東大全共闘代表の山本義隆氏と重なる感じがした。僕らは決して間違ってはいなかったのだと。


YouTube: 『きみが死んだあとで』特別対談④/加藤登紀子(シンガーソングライター)×代島治彦 監督

・四方田犬彦氏は、小熊英二『1968 上・下』を徹底的に批判していて可笑しい。


YouTube: 『きみが死んだあとで』特別対談③/四方田犬彦(映画誌・比較文学研究)×代島治彦 監督

続き)映画を見ていて少し違和感を持ったのが、佐々木幹郎氏の笑顔だ。彼の詩は「行列」(僕も学生たちのデモ行進の詩だと思った)しか読んだことはない。所有の『やさしい現代詩』にはCDも付いていて、作者自らの朗読が収録されている。その中では彼の朗読は、聴いていてなぜか堪えられない嫌みがあった。個人的な思い込みですみません。でも、「おいらいち抜けた」ってどうよ? ヤクザの世界で「抜ける」のは至難の業だ。セクトから抜けるのって、そんなに簡単だったの? まったく説得力がない。

「記憶」って、ナラティブなんですよね。その時の自分の都合がいいように自由に書き換えることができる。その人の人生って、結局は「物語=ナラティブ」に変換して自分で納得するしかないんですよね。そうじゃないと、この理不尽な世界なんて生きていけないから。

自分の「記憶」という「過去」は、いくらでも変更できる。でも「未来」は既に厳粛に決まっていて、決して自分の思い通りにはならない。というのが、カズオ・イシグロの小説の主題だと思う。『わたしを離さないで』とかね。

また続き)逆に映画を観ていて最もシンパシーを覚えたのは黒瀬準氏と島元恵子氏だ。黒瀬氏は、大手前高校3年生の文化祭で仮装した姿が、山﨑博昭さんの左隣にモノクロ写真に残っている。あの日二人は羽田弁天橋の手前で後衛として配置されていた。しかし、山﨑は我慢しきれず前衛の橋へと走り去る。

その時黒瀬氏は、ヘルメットも被らず、ゲバ棒も持たず徒手空拳で走り去る山﨑を引き留める力はなかった。その悔いを引き摺ったまま、今日まで生きてきた顔をしていた。服装からその後苦労して決して成功者にはなれなかったことが分かった。その歌声は本物だった。

島元恵子さんは、京大教育学部を卒業後、高校の英語教師になった。現在は退職して田舎暮らしをしている。やはり大手前高校の同級生で、10.8 羽田闘争にも参加している。10.17 に日比谷野外音楽堂で開催された「山崎博昭君追悼集会」では、友人代表として弔辞を述べた。その時の「追悼の言葉」をカメラの前で改めて朗読する。

読み終わって、うつむいたままじっと沈黙する島本さん。決して言葉にはできない様々な思いが、彼女の胸のうちに去来する。

それからもう一人印象的だった人物。大手前高校、京都大学ともに山崎の先輩で、京大中核派リーダーだった赤松英一氏だ。イケメンで後輩の女子高生からキャーキャー言われる人気者だった彼は、高校の後輩たちをオルグして中核派に引き入れた。赤松氏は1993年まで中核派の幹部だった。当然、数々の内ゲバリンチ殺人事件の当事者でもあったはずで、そのあたりの事をインタビューで訊かれ、訥々と答えながら途中で何度も押し黙り、言葉を慎重に選んでいた。

自分の胸の裡に留めたまま、墓まで持って行くと決めた事実が、きっと沢山沢山あるのだろうと思った。


さらに続き)あと、映画を観ていて気になった人がいる。デモでパクられた学生たちに差し入れとかして後方援護した救援連絡サンター事務局長、水戸巌の妻水戸喜世子さんだ。彼らは内ゲバ加害者にも差別なく差し入れした。

東大で核物理学の教授だった水戸巌は、生前、反原発運動の理論的先導者だった。しかし、大学生になった双子の息子たちと冬の剱岳に入山したまま吹雪の夜に3人とも谷底へ転落し死亡する。

妻の水戸喜世子さんは、インタビューに答えながら夫と息子達の遭難が事故死ではなかったのではないか?と言う。公安当局か、夫の活動を疎ましく思っていた過激派が当局の情報を得てやったのでは? と。まるで高村薫『マークスの山』じゃないか。

■アフタートークで竹内忍先生も言っていたが、山崎博昭という 18歳で亡くなってしまった同志を、当時を懐かしく想い出しながら仲間で追悼するだけの映画ならば、全く見る気はしなかった。ただ、映画のタイトルが『きみが死んだあとで』だったので、1967年から53年が経って、生き残った彼らが「いま」どう生きているのか? 当時の自分にどう決着をつけているのか? そこにこそ興味があった。

しかし、残念ながらその回答は得られなかったな。

確かに、山崎の死を転機に人生が大きく変わった人もいた。京大を中退し、身体を生業とする舞踏家になって、現在はインドで弟子たちを指導する岡龍二氏だ。ただ他の人たちはどうだったのだろう? インタビューからは、その本心はうかがい知ることができなかった。

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