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2022年2月13日 (日)

佐々木昭一郎のラジオドラマ『都会の二つの顔』

■先週の土曜日の夕方、伊那の「黒猫 通り町店」に行ったら、犬風さんは関東演奏ツアー中で居ず、田口さんが一人店にいた。

このあいだ久々に見た、佐々木昭一郎の『さすらい』の話をしてみたら、田口さんは、そんなのもちろんご存じで、「遠藤賢司が出ているヤツね。佐々木昭一郎は、ラジオドラマで面白いものがありますよ。若い男女が出会って魚河岸に行く話。街頭録音でドキュメンタリーみたいな。何てタイトルだったかなあ? 確かレコードにもなっているんですよ」

ややっ、ぜんぜん知らない。佐々木昭一郎のラジオドラマは全くノーチェックだった! まるで赤子の手を捻るみたいに、簡単に田口さんにかわされてしまったぞ。 正直悔しい。

帰って『創るということ』佐々木昭一郎(青土社)を調べてみたら、『都会の二つの顔』という題だと判った。

『都会の二つの顔』(30分ラジオドラマ)1963年12月制作。語りとピアノ:林光、脚本:福田善之+佐々木昭一郎 / 出演:宮本信子、横溝誠洸 <ある日出会った若い男女の一日の物語。魚河岸で働く若者と舞台を夢見る少女。二人は人生を語る>

YouTube にはなかった。でも、「ニコニコ動画」にあったのだね。さっそく聴いてみたよ。

主演の二人。役柄も実際にも、境遇のまったく異なる二人。若者は、佐々木昭一郎の高校時代の親友で、都内北区滝野川で魚屋を営業している。俳優ではない。ずぶの素人。少女役の宮本信子は、あの伊丹十三の妻の宮本信子で、当時まだ高校を卒業したばかりの18歳。文学座の研究生になって役者の勉強を始めたばかりの頃だ。

【ストーリー】師走の夜11時過ぎ。青山のボウリング場。初めて来た若者が、友だちを待っている女の子をナンパする。すっかり意気投合した二人。深夜の六本木、レストランに入って若者はビールとビフテキを注文する。「すげえな、このビフテキ。わらじみたいだ、チューチューいっちゃってんの」。そうすると女の子がコロコロ笑い出す。今度はナイフで切りはじめる。「この、のこぎり全然切れねえや」「のこぎりっていうんじゃないの。ナイフ」。

深夜のスナック(クラブ?)へ移動する二人。女の子の顔見知りの男女がすでにいる。男はラリっている。話が合わず、その場にまったく馴染めない若者。「おれ、ちょっと失礼して、トイレに行ってくらあ」と行って店を出てしまう。あわてて追いかけてきた女の子。「なんでそんなに怒ってるの?」「なんでえ、今のやつら」「あれはああいう人たちなの。ああいう人たちもいるのよ」。

もう午前3時近くか。二人は六本木飯倉片町の交差点から東京タワーに向かって歩いて行く。神社に寄ってお参りして、浜松町を過ぎて竹芝桟橋まで海を見に行く。東京オリンピックの前年だから、深夜でもトラックが行き交う。

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■2年後の1965年。椎名誠『哀愁の町に霧は降るのだ(上)』を読むと、この頃の椎名誠は六本木のピザ屋「ニコラス」で皿洗いのバイトをしていた。『東京アンダーワールド』に登場するマフィアのボス、ニコラ・ザペッティの店だ。仕事は夜8時から午前3時半まで。終了時には、バスも地下鉄も動いていないから、バイト仲間と連れだって歩いて浜松町まで行って、始発に乗って更に1時間かけて帰ったという。

「10月から始めたこの皿洗いのアルバイトもいつのまにか12月になって、冬の夜明けの通りはものすごく寒かった。飯倉の角から東京タワーの下を通り、長い坂道を下りながらおれたちはわりあいいつも黙りこんで歩いた。」(『哀愁の町に霧は降るのだ(上)』(情報センター出版局)166ページ

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『創るということ』佐々木昭一郎(青土社)81ページで、佐々木はこう言っている。

 魚屋の青年の中を流れている意識が快活でね、非常にいいんだよ。今でも思い出すけど宮本信子と二人で寒い六本木の街を歩くんだね。そうすると向こうからバーッとダンプカーが来たりする。それから”火の用心”なんて書いてある。

寒いから「寒いなあ!」なんていうと「息がまっ白」なんて言うんだ。耳が冷たいっていうと魚屋が耳にパッとさわるんだ。「わァ、手があたたかい」って宮本信子がまた言う。そういうところ、今テープを聞き返してもいいなあと思うところなんだね。それは自然のうちに出てきた会話なんだ。ぼくは二人腕組んで歩いてくれって注文しただけ。

竹芝桟橋で、夜明け前の東京湾を見つめる二人。「浜のにおいがする! 空が大きい!」と宮本信子。なんだか桂三木助の『芝浜』みたいだな。この時まで彼女は知らなかったのだが、実際に彼は勝五郎みたいな江戸っ子の魚屋なのだ。

ほんと、この若者の口調は落語の主人公みたいで、江戸前の気っぷの良さと、べらんめえだけど爽やかさがあって、彼の声は聴いていて実に気持ちがいい。裕次郎みたいに歌も上手いぞ。

それから、宮本信子もいい。飾らなくて自然で、明るくて。場面は変わって築地魚河岸。若者の仲間が大勢いる。六本木とは打って変わって、水を得た魚のように生き生きしだす若者。そうすると今度は女の子が置いてけぼり。午前11時。待ちくたびれた女の子。「わたし帰る。さよなら」って言う。また会いましょうとも言わない。

「どこだっけうち? トラック乗っていくか?」「じゃあ乗っけてもらおうか」「どこまでだよ」「どこまで?」「どこまでだっていいよ」(おしまい)

       【参考文献】『創るということ』佐々木昭一郎(青土社)

「ほぼ日」の佐々木昭一郎インタビュー にもあるけれど、このラジオドラマ『都会の二つの顔』が「彼の作風の原点」になっているんだね。なるほどなあ。黒猫の田口さんに教えてもらって、ほんとよかったよ。ありがとうございました。

「ニコニコ動画」には、佐々木昭一郎のラジオドラマがあと2本アップされていた。

 ・『おはよう、インディア』(1964)

 ・『コメット・イケヤ』(1966)

こちらも聴いてみよう!

それから、「てれびのスキマの温故知新 〜テレビの偉人たちに学ぶ〜」戸部田誠(第27回)2022/01/26 で、ちょうど佐々木昭一郎が取り上げられている。そろそろまた、NHKBSP で『さすらい』をはじめ、佐々木昭一郎の作品群が再放送されないかな。

2022年2月 4日 (金)

渋谷・百軒店・『さすらい』 追補

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■百軒店にあった「ブラックホーク」には、僕は入ったことはない。店の前は何度も通りすぎたけれども。

この店に関しては『渋谷百軒店 ブラック・ホーク伝説』(音楽出版社)そして、松平維秋『SMALL TOWN TALK~ヒューマン・ソングをたどって』(VIVID BOOKS)の2冊が出版されているが、僕はどちらも未読。

以下は、『渋谷系』若杉実(シンコーミュージック)10〜11ページより。

 ブラック・ホークを開業することになる水上義憲は、大学在学中に父の知人である金融業者から「これからの時代は日銭商売がいい」と教唆されるように指南され、出物の話を持ちかけられる。それはジャズ喫茶の名店として知られていた「渋谷DIG」。

(しろくま注:新宿DIG の姉妹店としてオーナーの中平穂積氏が、1963年7月、渋谷百軒店に出店したが、1966年の秋、店に泥棒が入り一枚だけを残しレコードがすべて盗まれてしまう。残ったレコードがケニー・ドーハムの「マタドール」。犯人は捕まりレコードはすべて戻ったのだけれど、残った一枚のレコード「マタドール」が、泥棒からのメッセージ「また盗る」と不吉に思ったのか、嫌気がさしたオーナーの中平穂積氏は店を手放すことにしたのだという)

スタッフ(レコード係の松平維秋)とレコード一式を残し店を畳むことになっていたのだ。つまり、それをもとに新しい店をやれ、と。水上は姉のサポートをもと在学中にジャズ喫茶のオーナーになる。

 百軒店にはジャズ喫茶であふれ返っていた。ブラック・ホークが入るビルの2階に「SAV」。ライヴを中心としていた「オスカー」。メインストリーム系の「スイング」「ブルーノート」。そして名前どおり、こぢんまりとした「ありんこ」。百軒店のすこし手前、恋人横丁のそばにも老舗「デュエット」があった。(中略)

 だが皮肉なことに、それからほどなくして世間でのジャズ喫茶ブームに陰りが見えはじめる。こうした時勢に鑑み、水上は「DIG」から「ブラック・ホーク」と名前を変え、ロック専門の喫茶店へとリニューアルする。1969年のことだった。(中略)

 ブラック・ホークに流れるロックは一筋縄ではいかないものばかりだった。ジョニ・ミッチェルやレナード・コーエンなどシンガーソングライターはもとより、ガイ・クラーク、ガストリー・トーマスのようなカントリー系、ベンタングルやフェアポート・コンヴェンションといったブリティッシュトラッドなど、まるでフォークの世界地図を目にしているようだった。

 そのフェアポート・コンヴェンションがバックを務めるニック・ジョーンズの『バラッズ&ソングス』がきっかけでトラッドに開眼したという松平維秋は、渋谷DIG 時代からレコード係としてブラック・ホークを支えてきた人物。店内に流れた音楽をみずから”ヒューマンソング”と命名する。


YouTube: Nic Jones - Ballads and Songs

■ジャズ喫茶のマッチコレクションで知った、豊丘村在住のムッシュ松尾氏の 2022/01/18 のツイートにこんなことが書いてあったぞ。勝手に転載してごめんなさい。

僕が東京のジャズ喫茶巡りをしていたのにはちょっとした訳がありますそれは渋谷にあったロック喫茶に行く為そこで聴いたレコードをレコード店で探す為。当時音楽雑誌ニューミュージックマガジンの広告に載っていた見た事も聞いたこともない音楽に出会う為。その音楽一言で言えばヒューマンソングという

その店でブリティッシュトラッドと言う音楽を覚えた。昔ながらの伝統のフォークトラッドと新しい若者たちが試みるエレクトリックトラッドと言う音楽。ペンタングルを始めフェアポートコンベンション、スティーライスパンなどのエレクトリックトラッドに心を奪われていく。そう伝説のブラックホークだ!

なるほど、この父親のもとで育ったわけなのだな。妙に納得してしまった。スタジオジブリ『アーヤと魔女』挿入歌「The House in Lime Avenue 」 by GLIM SPANKY。


YouTube: The House in Lime Avenue

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■「佐々木昭一郎」の初期の作品には、プロの役者はまったく登場しない(「はみだし劇場」と『紅い花』は除く)

カメラの前で、素人に演技をさせるのだ。しかも、手持ちカメラだから画像は揺れるし、いきなり人物に寄るし、急にパンするし、まるで「ドキュメンタリー」のような映像が映し出される。緊張感とリアリズム。それでいて、詩情あふれるシーンも随所に挿入され、そこには必ず印象的な音楽が使われるのだ。

 『夢の島少女』→ 「パッヘルベルのカノン」

 『四季・ユートピアノ』→ 「マーラー交響曲4番」

 『川の流れはバイオリンの音』→ 「チャイコフスキー弦楽セレナーデ」

 『紅い花』→ 「ドノバン:ザ・リヴァー・ソング」

 『さすらい』→「ザ・バーズ /イージー・ライダーのバラード」


YouTube: The Byrds (ザ・バーズ) / Ballad of Easy Rider 「イージー・ライダーのバラード」

■『さすらい』の主人公「ヒロシ」は、横浜の山手通りで他人のバイクを勝手にエンジンふかしてイタズラしているところを佐々木昭一郎に発見されスカウトされた。15歳だった。父はアメリカ人で母は日本人。混血孤児で、エリザベス・サンダースホームの出身。

栗田ひろみも、佐々木が発見した。佐々木の友人(池田)の知り合いで「妹っていうイメージで12,3歳の子供が要るんだけど、ちょっと色が黒くて目がクリクリしているような子いないかって言ったら、あの子連れて来た」「放送終わったらものすごい電話が鳴るんだ、今の女の子誰ですかって」「1,2年後に大島渚の『夏の妹』っていうのに出た。初出演って、まあ大島さんが見つけたみたいになってたけど、いちゃもんは全然つける気はないけど、ぼくのに最初に出した。」(『創るということ』佐々木昭一郎より)

「笠井紀美子は、アメリカに出発する直前だった。彼女が演じた、さすらうシンガーのシーンは、出発3日前に撮った」(『創るということ』佐々木昭一郎より)

■佐々木昭一郎の作品の中では、ぼくは『さすらい』が一番好きだ。

主人公ヒロシは孤児。おとうさんも、おかあさんもいない。兄弟もいない。だから、さすらいながら探し、そして出会う。

友川かずきは兄貴だ。栗田ひろみは妹。キグレサーカスの綱渡りの女は母親のイメージか。笠井紀美子は、唄をうたう「お姉さん」だ。「交流」するためにアメリカへ行こうとしている。

ここじゃない。他のところ。この人じゃない、他の人。今ない、他のとき。自分じゃない、他の自分……。」

主人公の青年、海から出てきて、また海に帰って行く。

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■渋谷に生まれ、渋谷で育ち、いま現在も渋谷に暮らす、井上順さん。彼のツイートは、このところ毎朝の楽しみになっている。進行形の渋谷の街並みに溶け込む彼の写真とお決まりのダジャレ。

そのダンディな装いとは逆に、飾らない人柄が溢れ出た笑顔がなんとも素敵な人だ。最近出たばかりの本『グッモー!』井上順(PARCO出版 2021/10/14)は、変わりゆく渋谷の写真も満載で楽しい一冊だ。

井上順は、1947年2月、渋谷区富ヶ岡1丁目にあった「井上馬場」に生まれた。少し北へ行くと代々木八幡宮がある。祖父は獣医師で、サラブレッドの輸入にも関与し、経営する馬場には宮様方も乗馬に訪れたという。

3人兄弟の末っ子だった彼がまだ幼い頃に両親は離婚。やり手の母親は自ら会社を立ち上げバリバリ働いた。今で言えばジャニーズ系のイケメンだった彼が中学1年生の時、母親は彼が将来芸能界で活躍できるかも? とでも考えたのか、彼を「六本木野獣会」に入れる。

川添浩史・梶子夫妻の評伝『キャンティ物語』野地秩嘉(幻冬舎文庫)にも、120ページに「六本木野獣会」が登場する。渡辺プロダクションの副社長、渡邊美佐が目を付け選んだタレント候補生の集まりで、ジェリー藤尾、田辺靖雄、大原麗子ら約20人のメンバーが、六本木飯倉片町の「キャンティ」近辺にたむろしていたのだった。

井上順は峰岸徹の弟分となり「キャンティ」隣の写真家の立木義浩氏の自宅にも、よく遊びに連れていってもらったという。そして、彼が16歳の時に、ザ・スパイダースの最年少メンバーとして加入することになる(少し先に加入した堺正章は、彼と同学年だが 1946年8月生まれ)。

ザ・スパイダースは、リーダーの田邊昭知のマネージメント能力とリーダーシップ、それから、かまやつひろしの新しいものを直ちに取り入れるシャープな感性と音楽センスによるところが大きかったと。メンバーの大野克夫、井上堯之は、のちに作曲家としても大きな功績を残した。

田邊昭知はいまや、タモリも所属する田邊エージェンシーの社長だ。奥さんはあの、小林麻美。

追補)井上順さんのツイートを読んでいて驚いたのは、彼が海外ミステリー、ハードボイルド、冒険小説のファンで、新刊も欠かさずしっかりフォローしていることだ。

ハヤカワの「暗殺者グレイマン」のシリーズ、講談社文庫マイクル・コナリー「ハリー・ボッシュ」シリーズ、そのほか最近の人気シリーズものや、創元推理文庫のシブいところまで、とにかくよく読んでいてビックリしてしまったぞ。すごいな!

2022年1月26日 (水)

1971年の渋谷 道玄坂 百軒店(ひゃっけんだな)円山町。そして、佐々木昭一郎『さすらい』


YouTube: 「さすらい」 佐々木昭一郎演出 ダイジェスト

■渋谷道玄坂 百軒店(ひゃっけんだな)のことを調べていたら、いろいろと面白い。まずは、戦後1960年代〜1990年代〜そして現在に至る「渋谷」という街の変貌が、分かりやすい印象的な文章でまとめれた、『月刊 pen』での連載【速水健朗の文化的東京案内。渋谷編 ①〜⑥ が読み応えある。

<その⑥>が「若者の街、渋谷の原点は百軒店にあった」だ。この中に出てくる 1971年公開の日活映画『不良少女 魔子』(なんと、あの『八月の濡れた砂』との2本立て上映だった!)が、amazon prime video(無料ではない?)あるらしい。見てみたいな。

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『2000年 の「渋谷」の地図』

写真をクリックすると大きくなります>

■「百軒店」の歴史は古い。西武の前身「箱根土地」の堤康次郎は、入手した旧中川伯爵邸跡地を高級住宅地として分譲しようとしていたが、1923年、関東大震災が起きてしまったためその考えをやめて、被災した銀座・上野の名店(精養軒、資生堂、山野楽器、天賞堂、聚楽座など 117店)の仮店舗を誘致して、渋谷に浅草をもしのぐ繁華街を作り上げた。それが「百軒店」だ。

しかし、復興が進んで名店が都心に戻ると寂れ、隣接する花街・円山町の待ち合わせの街として発展した。東京大空襲で全て焼失したが、戦後は円山町が花街からラブホテル街へと変化するにつれ、喫茶店や飲食店や映画館が建ち並んだ。

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【1978年 頃の百軒店:店舗一覧】

「エクリア」と書いてある所が『ムルギー』 。その奥のビルとマンションには、かつて映画館が3館:テアトルハイツ(1950〜68年)テアトル渋谷(47〜68年)テアトルSS(51〜74年)あった。映画『不良少女 魔子』に登場するボーリング場は、この映画館あと地(図の、ハイネスマンション→いまのサンモール道玄坂)に出来たもの。

■平安堂で立ち読みしていた『TV Bros. / 2022年2月号』p54〜55「細野晴臣と星野源の地平線相談」の今月のテーマが「渋谷の再開発」だったんで、買ってきたら、細野さんがこんなことを言っていた。

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細野:僕の脳内では、渋谷の風景は、はっぴいえんどの時代で止まってるね。(中略)僕らがしょっちゅう通っていた「マックスロード」というカフェもなくなっちゃった。

星野:どこにあったんですか。

細野:桜丘。驚いたんだけど、あの一角って、まるで爆弾でも落とされたみたいに、軒並み建物が解体されたよね。すごく大規模な再開発が始まったらしい。(中略)

星野:「マックスロード」の他に、はっぴいえんどのメンバーが渋谷でよく行っていた店というとどこになりますか。

細野:百軒店にはしばしば足を運んだね。ロック喫茶の「ブラックホーク」とか、ジャズ喫茶の「DIG」とか。

星野:そういう店って、レコードがいっぱい置いてあって、コーヒーを飲みながら聴くという仕組みなんですか。

細野:そう。あれだけでっかい音でレコードを聴く機会はなかなかなかったから、そういう意味では貴重な場所だったんだよ。(中略)あと、渋谷には、道玄坂の「ヤマハ」をはじめとして楽器屋も多かったから、よくのぞきに行ったもんだよ。

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■「マックスロード」のことは『細野晴臣と彼らの時代』門間雄介(文藝春秋)p139にも登場する。1970年、はっぴいえんどのマネージャーとなった石浦信三は、松本隆と青南小学校、慶應義塾中等部、高校、大学(学部は違う)まで一緒の幼なじみで、松本と文学について議論を交わしてきた親友だった。『ゆでめん』の歌詞カードの癖の強い手書きの字は、石浦によるもの。

 松本と石浦は渋谷の桜丘町にあった喫茶店「マックスロード」に入りびたった。石浦(談)「2人でもっぱら戦後詩の本を片っ端から読破していってね。詩潮社の現代詩文庫なんかは、出る片はじから読んでしまった。」

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■そういえば、以前「黒猫」で買った古書『風都市伝説 1970年代の街とロックの記憶から』北中正和責任編集(CDジャーナルムック 音楽出版社)があったのを思い出し、納戸から出してきて読み始めた。

1971年の春。渋谷道玄坂百軒店の路地の一角に『BYG』という全く新しいコンセプトの音楽喫茶が誕生した。店長の酒井五郎は「新宿ピットイン」を立ち上げた敏腕マネージャーだったが、オーナーとのトラブルで辞めた人。地下にライヴ・スペースがあり、1階は自然食、2階はレコードをかけるロック喫茶という構成だった。

梁山泊の如く『BYG』に集まってきた若者4人(石塚幸一・前島邦昭・石浦信三・上村律夫)は、やがて『風都市』と名乗り、さまざまな企画・運営にたずさわり、はっぴいえんど、はちみつぱい、あがた森魚、、小坂忠とフォー・ジョー・ハーフ、南佳孝、吉田美奈子、シュガー・ベイブ、山下洋輔トリオのマネージメントにも乗り出したのだった。

■時代は少し過ぎて、1977年の春のこと。やはり4人の若者が、自分たちで「アーバン・トランスレーション」という翻訳会社を渋谷道玄坂に立ち上げる。会社のオフィスは、しぶや百軒店のジャズ喫茶『スウィング』と『音楽館』の奥の雑居ビルの1階に構えた。

経営者のメインの2人は小学校からの幼なじみで、その若者の名前は、平川克美と内田樹。

 村上春樹の『1973年のピンボール』という小説には、大学を出た後、友人と二人で渋谷で翻訳会社を経営することになった若者が出てきます。

 平川くんはよく知り合いから、「この小説のモデルは平川さんたちでしょ?」と聞かれたそうです。

 たしかに、登場人物と僕たちの境遇はよく似ていました。あの時代に渋谷に20代の若者が学生時代の友人と設立した翻訳会社なんてうちしかありませんでしたから、どうやって僕たちのことを知ったんだろうと不思議な気持ちになりました。

『そのうちなんとかなるだろう』内田樹(マガジンハウス)p103


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■速水健朗氏は取り上げていなかったが、1971年の渋谷・映画館・フォークシンガー・百軒店・円山町と言えば、僕にとって忘れられないのが、NHKのテレビドラマ:佐々木昭一郎『さすらい』(1971年 90分 オールフィルム)なのだった。

1970年代にNHKのカリスマ・ディレクターだった、佐々木昭一郎が作・演出したテレビドラマは『夢の島少女』『四季・ユートピアノ』『紅い花』『川の流れはバイオリンの音』など、世界的に評価が高い作品が多く、現役の映画監督の中でも、是枝裕和監督をはじめ大きな影響を受けたことを公言している監督は多い。

その佐々木昭一郎が『マザー』(1969)に続いて撮った「2作目」が、『さすらい』(1971)だ。現在、YouTube 上で『夢の島少女』『四季・ユートピアノ』『紅い花』『川の流れはバイオリンの音』は全篇見ることが出来る(画質はよくないけれど)。しかし、この『さすらい』だけは「90分の完全版」のアップロードはなく、冒頭に上げた「9分56秒のダイジェスト版」のみなのだった。

★【ストーリー】★ 北海道の施設で育った主人公の青年ひろし(15歳)は、上京して渋谷の映画館に掲げる映画の看板屋に就職する。その仕事場にいた先輩が、プロの歌手を目指す「友川かずき」だった。円山町にある会社の寮へ連れて行ってもらって、食堂でカレーライスを食べる二人。

踏切で待つ中学生、栗田ひろみ。真っ赤なミニのワンピース。彼女がストレートロングヘアーを右手でかき揚げる仕草に、主人公の目は釘付けだ。 妹?それとも、彼女? エロい妄想に浸る主人公。

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雨の日比谷野外音楽堂。ステージには遠藤賢司がぽつんと一人、無人の客席に向かって歌い始める。

看板屋を辞めた青年は、北を目指して旅に出る。福島では「キグレサーカス」の団員たちと、気仙沼では「はみだし劇場」の劇団員と共に過ごす日々。そして、基地の町の青森県三沢では「氷屋」になってリヤカーでバーやスナックに氷を届ける。そこで、ジャズシンガー笠井紀美子と出会う。それから……。

主人公の青年、海から出てきて、また海に帰って行く。

ここじゃない。他のところ。この人じゃない、他の人。今ない、他のとき……。」

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「栗田ひろみ」も後で登場する、京王井の頭線 神泉駅前の踏切(渋谷 円山町)

■ミュージックマガジン増刊『遠藤賢司 不滅の純音楽』p97 には「ミュージックマガジン 2007年3月号」の遠藤賢司特集に載った記事「遠藤賢司が出演したドラマ『さすらい』演出家・佐々木昭一郎に聞く」というインタビュー記事がある。以下、一部引用する。

「さすらい」は、主人公の流転を描く物語。主人公を客観的に突き放したり、引き寄せたりして描いていかなきゃいけない。で、引き寄せた時に(というのは、作者として主人公と手を取り合った時に)歌を響かせたいと思ったんですよ。

 ぼくは音楽を研究したんです。クラシック音楽から勉強しなおした。その中からボブ・ディランの姿が浮かんだんですよ。やっぱりものすごい歌手だと思った。しかもボブ・ディランというのは自分自身を歌ってるんだよね。それに痛く共鳴してね。どうしてもこの作品には音楽家を、歌を歌う人を出したかった。

 というのは、反動があったのね。ベ平連なんかが新宿とかで歌を歌っていた。それから、歌を媒介にして集団で暴力的になっていったんだ、みんな。そういう歌もハヤリはじめたんで、つき合っちゃいられないと思った。そうじゃなくて、一人で孤独に歌ってる、力のある人がいないかと思って、そういう人を起用することに決めた。それで友川かずきを見つけて、笠井紀美子、遠藤賢司と、3人、歌う人が出てくるんですけど、いずれもNHKの音楽部が拒否した人たちなんですよ(笑)。

 友川はすごい才能がある奴だと思ったよ。その場でどんどん曲を書いていくんだ。ぼくの目の前でノートを広げてね。その時に彼が、「遠藤賢司はギターが上手い」って言ったの。「抜群に上手い。あのくらい弾けたら、俺はすぐデビューできる」って。

それで、助監督の和田智充君に、遠藤賢司に会って来い、って言った。カレーライスについての歌を歌ってもらえないか、って聞いてもらったんです。ちょうど主人公と友川かずきがカレーライスを食べる場面を撮ったところだったから。二人が兄弟のような、憧れと憎しみがせめぎあっているような状態を。

そしたら「既に彼は歌ってるんです」って言うんだね。もともとシナリオに、カレーライスを食べる場面が書いてあって、カレーライスの歌を歌うところも書いてあった。ただ、誰が歌うかなんて書いてない。カレーライスの歌と1行書いてあるだけだった。

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■青年と友川かずきは、成人映画の大きな看板を抱えて歩行者天国で賑わう道玄坂商店街から映画館がある百軒店へと入って行く。それを苦笑しながら見守る外国人観光客

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■1990年代に入ると、渋谷の音楽文化の発信基地は「百軒店」から、センター街にできた「HMV」や宇田川町に雨後の竹の子のように乱立した輸入レコード店たちにすっかり取って代わってしまった。例の「渋谷系」ってヤツの誕生だ。それはまた別の話だけれど。

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■いっぽう、1997年3月9日午前零時ころ、渋谷区円山町、神泉駅近くの古アパート「喜寿荘」1階の空き部屋で「東電OL」が殺害される。いわゆる「東電OL事件」だ。

強盗殺人罪で逮捕起訴されたネパール人ゴビンダ・プラサド・マイナリは、一審無罪、二審で逆転有罪の判決を受け、最高裁で無期懲役が確定。ゴビンダは無罪を訴え再三にわたる再審請求を行い、2011年、被害者から採取された精液や体毛のDNAがゴビンタ以外の男のものであることが判明し、2012年再審開始。11月に無罪判定となり、冤罪であったことが確定した。

2021年12月 1日 (水)

映画『海辺の彼女たち』を、赤石商店で観てきた

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■日曜日に伊那市「赤石商店」で映画『海辺の彼女たち』脚本・監督:藤本明緒(2020年/日本=ベトナム 88分)を観てきた。ずっと見たかったのだ。期待以上だった。劇映画なのだが、出演者がみな自然な演技をしていて、撮影はハンディ・カメラだし、ドキュメンタリーかと見紛う出来だ。これは、佐々木昭一郎の演出手法だね。

この映画は、観客の五感をことごとく刺激する。ベトナムから3ヵ月前に技能実習生として来日した若き女性3人。超ブラックの職場を早々に脱出して、同国出身の闇ブローカーの斡旋で北の海辺の寒村へと派遣される。在留身分証明書も保険証もない不正滞在労働者となって。そんな危険な身にに陥ってまでも

彼女等は本国で貧乏な両親と弟妹たちに仕送りしなければならない責務があるのだった。もちろん、闇ブローカーの男は法外な仲介料を請求する。保険証がないから、病気になっても医者にはかかれない。

■フェーリーに乗って逃避行した彼女らは、港に到着後さらにワンボックス車で長距離移動。ようやく到着した雪深き海辺の寒村は青森か?

 彼女等は腰まで一体化された長靴(天竜川で鮎釣りしてる人が履いるヤツね)で、厚手のゴム手袋はめて漁船から水揚げされたイワシを選別する。もしくは網に取り付ける丸い大きな「浮き」にこびり付いたフジツボをノミでこぎ落とす作業。彼女らは雪降る堤防わきに座って、ただ黙々と専念する。寒いだろう、冷たいだろう。

スクリーンから、彼女等の長靴の中の足の小指が、しもやけになる冷たさと、頬に突き刺さる北風が僕の肌でも感じられた。あと、主演のホアン・フォン(彼女の演技がホント素晴らしい!)がお腹痛いのを我慢しながら、病院を探して延々と街を彷徨うシーン。

ここは見ていてほんと辛かったな。もういいよ、もういいよって、画面を見ながら思わず願っていた。

そうして、ようやく辿り着いた総合病院。はたして事務受付で偽造保険証を見破られないか? 見ていてハラハラした。よかった!大丈夫だ(でも、医療従事者としては、それほど日本の保険医療機関は甘くはないぞ!とも思うけれど。)

外来はエレベーターで5階だ。そこで診察してもらって聴く「ある音」に、彼女は涙する。ここは泣けたな。夜遅く飯場(はんば)に帰り着いた彼女は、ストーブの上の鍋で煮えたスープをカップによそって啜る。彼女の舌が感知するスープの熱さと故郷の味。判るよ!

■映画『海辺の彼女たち』の感想追補。 観客の「五感」を刺激する映画だと言いつつ、嗅覚については触れてなかったな。それは彼女等の作業場に漂う魚の生臭さだ。フォンは途中で耐え切れなくなって、雪の上に嘔吐する。あと、ラスト近くのスープのにおい。何故かナンプラーとパクチーの匂いがした。

■上映時間が88分しかない映画の中で、異様にむだに?長いシーンが2つあった。それが主演のフォンが弘前の町を延々とさまよう場面と、この夕食の場面だ。ここには間違いなく監督が一番言いたいメッセージが込められているのであろう。だからこそ観客はみな固唾を飲んでスクリーンを見つめるのだ。

この夕食の場面。いろいろな思いが交錯する。ベトナムから一緒にやって来た仲間二人の思い。映画をずっと観て来た観客の思い。そして当事者フォンの思い。人間どんなに辛い事があっても「おなか」はすくのだ。生きてるから。明日も生きてゆかなければならないから。そんな覚悟が彼女の瞳に表れていた。

■そのことを僕が実感するのは、自分の母親が死んだ時と、受け持ち患者さんが亡くなった日のことを思い出していたからだ。こんなに辛いのに、こんなに申し訳ないのに、それでも俺の腹は空くのか! そんな絶望的な気分に陥ってしまった「あの日」のこと。

映画のポスターに書かれているキャッチコピーにはこうある。そういうことだ。

--- 生きていく。この世界で ---

■さらに追補。

映画のロケ地が弘前だったかどうかは分かりません。ただ、弘前駅から町の中心街へはかなり遠くて、バスに乗らないと無理です。冬の弘前は学生の時に一度だけ行ったな。

ジャズ喫茶「Suga」が繁華街の近くにあった。この日は弘前市民会館でマービン・ピーターソンのライヴを何故か聴いた覚えがある。もう1軒寄ったジャズ喫茶は「オーヨー」だったかな? いや『仁夢』か。

2021年10月25日 (月)

小津安二郎と戦争


YouTube: GoutDuSake-Ozu

■『秋刀魚の味』は、小津安二郎監督の遺作となった映画だ。この映画で最も印象深いシーンが、メイン・ストーリーとは関係ない「トリス・バー」での加東大介と、湯上がりで色っぽい岸田今日子が登場する場面。小津はこのシーンに自らの「戦争観」を込めた。

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小津の映画の中では『秋刀魚の味』が一番好きだと、かねてから公言している内田樹氏は、鈴木正文氏(そう、矢作俊彦が小説にした、あのフランスの名車「ドー・シー・ボー」に乗って会津へ行ったスズキさんだ!)が編集長を務める『GQ』誌上において、小津と戦争に関して「こんなふうに」書いている。

しかし、月刊文芸誌『新潮』をたまたま読んでたら、そこに「平山周吉」の名前を見つけたのだ。この名前、小津安二郎の最高傑作『東京物語』で笠智衆が演じた主人公の名前じゃないか! 彼が連載するタイトルは、なんと!『小津安二郎(11)』。読んでみた。面白い! しかも、よーく調べている。ベースとなっているのは、田中眞澄氏が集めた文献だが、それ以外にも新たな資料を見つけてきて載せていた。

それにしても「平山周吉」なんて人を食ったようなペンネームを使う輩はいったい何者なのか? (つづく)

「平山周吉」で検索すると、笠智衆の他に見つかったのがこの人。1952年東京生まれで、慶應義塾大学文学部国文科卒業後に文藝春秋社に入社。週刊文春の編集を経て、文芸誌『文學界』の編集者となり、江藤淳を担当。あの、江藤淳が自死したその日に最後に会った人でもある。その顛末を本にした。『江藤淳は甦える』平山周吉著(新潮社)だ。

■小津は、『父ありき』(1942年)から明らかに作風が変わったように思う。曾我兄弟の墓石が突然挿入されたりとかね。いったい何があったのか?

田中眞澄『小津安二郎周游(上)』(岩波現代文庫)を読むと、映画監督小津安二郎は、一年志願兵を務めて陸軍歩兵伍長の軍籍にあった。1933年9月、彼は演習招集で三重県久居の陸軍歩兵第33聯隊に入隊した。そこで主として「毒ガス戦」の訓練を受けている。

1937年9月9日、小津に召集令状が来た。それより僅か2週間前、映画監督:山中貞雄にも召集令状が届く。それはちょうど『人情紙風船』の封切り日。この日は撮影所で「人情紙風船」の試写が行われた日でもあったから、スタッフ、出演者が集まっていた。(『新潮 2021 7月号』p229 参照)

試写が済んだあと、撮影所の芝生で山中監督をかこんで皆で雑談していた時、誰かがもってきて渡した ”赤紙” を見た山中はサッと顔色を変えた。無言の間がちょっとあって、「これがわいの最後の映画じゃ死にきれんな」とボソッといった。

 加東大介は、まさにその場に居合わせた一人だった。

「私は昭和7年(1932)に現役にいき、千葉の陸軍病院に [衛生兵として] はいりました。軍隊ではいわゆるらくな役だったのですが、その間に満州事変がおき、内地にとどまったままで、下士官要員として返されました。その後、支那事変が始まりましたが、東宝撮影所の芝生で一緒にねころんでいた監督の山中貞雄さんに赤紙がきてびっくりしました。」(加東大介談:『新潮 2021 7月号』p229

■ちょうど、日本映画専門チャンネルで、デジタル・リマスター版が続けて放映された、現存するたった3本の山中貞雄監督作品『丹下左膳余話 百萬両の壺』(1935年)『河内山宗俊』(1936年)人情紙風船』(1937年)を見たばかりで、当時まだ前進座の役者で「加東大介」の芸名ではなく「市川莚司」の名前で出演していた彼を発見したから、ちょっとウルッときてしまった。

『丹下左膳余話 百万両の壺』には、加東大介は出演していない。しかし、彼によく似た役者さんがぐうたらな旗本御大名の役で出ていた。沢村国太郎(長門裕之・津川雅彦の父)だ。なんと!彼の実の兄さんだった。ちなみに姉は沢村貞子。

その加東大介に召集令状が来たのは、それからずいぶん経って昭和18年(1943)になってからだった。彼はニューギニア戦線に投入される。詳細は彼の著書『南の島に雪が降る』(映画化もされた)をご参照ください。

■1937年10月。招集された小津は、上海に上陸する。12月?(1938年6月という説も)には陥落後の「南京」に入城している。明けて1月12日には南京近郊の句容で、一足先に出生していた山中貞雄と面会する。わずか30分の邂逅だったという。

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『小津安二郎大全』松浦莞二・宮本明子/編著(朝日新聞出版)p223 より

山中貞雄は、その後所属部隊と共に河北省へ移動。1938年9月17日、山中は戦闘中に飲み込んだ河川の濁流が原因で急性腸炎(赤痢?)を発症し、極度の脱水症と栄養失調のため開封市に設置された野戦病院で死亡する。享年28。天才の若すぎる非業の死であった。

■小津にとっての山中貞雄は、年下だけれど映画界においては、そのアメリカ的でハードボイルドな格好良くスピーディで洗練された演出センスと映像技術をもって大いに尊敬する先輩であり、しのぎを削るライバルでもあった。そして何よりも「映画」をこよなく愛する同志であり無二の親友であった。

小津は山中の死をいつ知ったのか?

1938年8月。まだ南京に駐留していた小津は、「古雛鳴寺」で現地の住職から「無」の書を受ける。この書を小津は生涯大切に保管した。9月、ほどなくして山中の死を知った小津は、突然口をつぐみ、数日間無言でいたという。悲しみに耐えている背中を戦友たちが目撃している。(『小津安二郎大全』松浦莞二・宮本明子/編著(朝日新聞出版)p223 より)

■その後、南京からさらに西進した小津の部隊(近衛歩兵第三連隊:毒ガス部隊)は、修水河での壮絶な戦闘に参加する。毒ガス弾三千発、毒ガス筒五千発が投入された激戦であった。(第一次世界大戦が終わった後、1925年に国際的に認定された「ジュネーヴ議定書」では、毒ガスの使用は禁止されていたのに、日本軍は秘密裏に使用したのだった。ちなみに、重慶空襲も日本軍が最初に行った民間人虐殺の始まり。その後、ドレスデン空襲、1945年3月10日の東京大空襲へとつながってゆく

2021年10月 1日 (金)

デンマーク映画『わたしの叔父さん』を、赤石商店で観た。

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■伊那市「赤石商店」で映画『わたしの叔父さん』を観てきた。もろ好みの映画。とってもよかった。これは、デンマーク版『晩春』だ。赤石商店のご主人が、本物の「ヌテラ」を蔵の前で売ってたよ。あと、「ナンプレ」(数独?)のコピーもくれた。

主人公が食事中にいつも読んでいる本が「ナンプレ」で、夕食後に叔父さんと遊ぶボードゲームは「スクラブル」だ。映画が始まって10分近く二人にまったく会話はなく、買い出しに出かけたスーパーで叔父さんが初めて発したセリフが「ヌテラを」だった。


YouTube: 晩春 1949


YouTube: 映画『わたしの叔父さん』予告編

■ただ、さすがに小津安二郎『晩春』の父娘をそのまま現代に移植すると近親相姦的になりすぎて、映画のリアリティがなくなる。で、叔父と姪の設定となったのだろう。この二人の演技が自然でじつにイイ雰囲気(無愛想でつっけんどんなのに、そこはかとなく愛がある)を醸し出しているのだ。実はこの二人、実際に叔父と姪の関係で、しかも叔父は役者ではなく、ロケされた農場・牛舎・自宅で本当に生活している農場主なのだった。

この映画の監督は、撮影に入る前に彼の農場に長期間寝泊まりして、実際に農作業や牛の世話、乳搾りを体験。それから脚本を書き上げたという。なんだか、傑作映画『サウダーヂ』『バンコクナイツ』を撮った富田克也監督が率いる『空族』の映画の作り方と同じじゃないか!

■カメラアングルやカット割りとかは決して「小津調」ではない。ただ「朱色」の使い方。叔父さんのTシャツ、トラクターやコンバインの色、初デートに着る勝負服。地味な色合いの画面に印象的なアクセントとなっていた。


YouTube: Aki Kaurismaki on Ozu

それから、彼氏と横並びで同じ方向に視線を向ける場面(教会、水門のレストラン傍の土手)は、『東京物語』の熱海の朝の堤防だ。

【以下、映画のラストに触れます(できるだけネタバレにならぬようには配慮したつもりですが…)】

デンマーク映画『わたしの叔父さん』の感想(つづき)。ダイニングキッチンにやや上方斜め45度で固定されたカメラ。姪と叔父はテーブルを挟んで常に90度で対峙する。カメラには映らない後方の冷蔵庫の上にあるテレビから絶えず世界の深刻なニュースが流れている。北朝鮮がミサイルを発射した、イタリアに難民が漂着したとアナウンサーが語ってる。


でも、デンマークの片田舎の厩舎に暮らす二人は、毎日朝から晩まで変わりなく平凡なルーチンをただこなすだけだ。サイモン&ガーファンクルの「7時のニュース/きよしこの夜」を思い出した。映画のラスト、初めてカメラがダイニング背面を映す。壊れたテレビを叩く叔父。でも付かない。無音のままカメラはパンする。


で、ラストシーンとなるのだが、これには参った。
そこで終わるのか!

あと独特のユーモア。回転寿司があるのだね、コペンハーゲンには。それから映画館での場面。上映されていたアメリカ映画は何? 同じような場面があった『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』でかかっていたのは「リオブラボー」


■このラストをどう考えるかは、観客に委ねられている。


いくつか映画の感想を読んだし、監督インタビューも読んだ。でもぼくは、以前から大好きだった映画『ギルバートグレイプ』を思い浮かべたな。ジョニー・デップとレオナルド・デカプリオを初めて発見した映画だ。

 アメリカのド田舎の小さな町に暮らすジョニー・デップ。息が詰まりそうな閉塞感。百貫デブでベッドから起き上がれなくなってしまった母親と、高いところが大好きな自閉症の弟を支えながら変化のない淡々とした毎日がただ過ぎてゆく。唯一の楽しみは、倦怠期の人妻との昼下がりの情事だ。

ジョニー・デップは自らの夢と希望を語らない。もうこのまま一生この町を出ることなく家族と共に暮らしてゆくのだ。仕方ないのだと、諦め切っている。監督は、やはり北欧スウェーデン出身の、ラッセ・ハルストレム監督。

■じゃあ、『わたしの叔父さん』の主人公がジョニー・デップと同じ思いでいるかというと、それは違う。彼女にとっての叔父さんは、決して彼女の人生を台無しにした厄介な存在ではないのだな。ほら、『巨人の星』で星飛雄馬がバッターボックスの左門豊作に投球しようとすると、突然ピッチャーマウンドに左門豊作の弟や妹たちが現れて、皆で星飛雄馬を羽交い締めにしてボールを投げさせないようにするじゃない?

まるで大リーグボール養成ギプスみたいになって。

ジョニー・デップにとってのデカプリオは、まさにそんな感じだった。愛しい存在ではあるけれど、どうにもならない足枷(あしかせ)。

でも、この映画の主人公にとっての叔父さんはちょっと違う。彼女がひとりぼっちになってしまった14歳の時からいっしょに暮らしてきて、もう一心同体になってしまっているのだよね。お互いに「叔父・姪」がいなければ生きてゆけない存在になってしまった。まあ、「共依存」なわけだ。

だから、新たに登場した彼氏に対して、私と付き合いたいなら(セックスしたいなら)もれなく叔父さんも付録で付いてくるけれど、それでもいい? その覚悟はある? と、彼女は無言のうちに彼に対して大胆な態度をとったのだろう。

とはいえ、彼女が自分の人生のキャリアをすべて諦め切ってしまったわけではない。

それは、この映画のラストが証明している。

■デンマーク映画は、先だって NHKBSP で『バべットの晩餐会』を見て、その鮮やかな出来映えに感心したばかり。フラレ・ピーダセン監督の次回作も、ぜひ観てみたい。

2021年5月27日 (木)

映画『きみが死んだあとで』を観てきた(松本シネマセレクト)

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以下、ツイートを改変再構成したのもです。

■今日(5月23日の日曜日)は松本まで行って、3時間20分もある映画『きみが死んだあとで』を観てきた。全く退屈しなかった。面白かった。上映後の代島治彦監督と信濃むつみ高校の教頭だった竹内忍先生との1時間に及ぶ対談も聴き応えがあった。頑張って出かけて行って良かった。

代島治彦監督は1958年の早生まれで、ぼくより1つ上の学年だ。監督はシラケ世代と言ったが、竹内先生とぼく(同じ1958年生まれ)は「遅れてきた青年」の感覚だった。映画のラスト。監督が羽田弁天橋の欄干に山崎博昭さんの肖像写真を掲げる。雨が降っている。写真のアップ。その雨粒が山崎さんの目から流れた涙に見えた。

ただ、帰宅後に先だって伊那の平安堂書店で買ってきた『映画芸術』最新号 p44〜p53 に載っている、当時バリバリの活動家だった、亀和田武、絓 秀実、小野沢稔彦、荒井晴彦の座談会「1967.10.8 以後の新左翼の変容と敗北 ---- 革命闘争の死者は聖化できるのか」を読んで「う〜む」と考え込んでしまった。だったら、あんたらちゃんと自分たちの言葉で総括してよ。そう思った。

1967年10月8日。この日、佐藤栄作(岸信介の弟)総理大臣が南ベトナム訪問のため羽田から飛びに立つのを阻止すべく、全国各地から「ベトナム反戦」を訴える大学生たちが羽田へ通じる「橋」を目指し集結した。この映画の主人公、山崎博昭(18歳・京都大学1年生:中核派)も仲間と共に京都から深夜夜行バスに乗って駆けつけたのだった。

ただこの日の前日に、法政大学構内において中核派による革マル派幹部への「内ゲバ」リンチが行われていたこと。それから、この日初めてデモプラカードに見せかけた角材(後のゲバ棒)とヘルメットが参加学生たちに支給され、最初の武装闘争となった事実は重要だ。

羽田弁天橋の上で機動隊に撲殺された山﨑の死後、学生たちの暴力は加速化してゆく。投石、火炎瓶。同時に、体制側の機動隊もどんどん武装化していった。内ゲバ殺人も日常化していく。

でも、1969年東大安田講堂での敗北後、学生運動は地下へ潜り、大衆を巻き込んだ大きなうねりの活動から、爆弾テロ、ハイジャックといった、より過激な闘争活動へと突き進んでゆく。その行き尽きた果てが、連合赤軍のリンチ殺人と、浅間山荘での銃撃戦だった。

映画を観たあとになって初めて、この大友さんへのインタビュー動画を見た。師匠「高柳昌行」に対する複雑な想いを、これほど率直に正直に語る大友さんて、初めて見た気がする。これは貴重な動画だな。


YouTube: 『きみが死んだあとで』特別対談①/大友良英(本作音楽)×代島治彦 監督

続けて加藤登紀子さんへのインタビュー。これまた引きつけられる。格好いいなあ。でも、どこか映画の後半、ベトナムのホーチミン市で演説する、元東大全共闘代表の山本義隆氏と重なる感じがした。僕らは決して間違ってはいなかったのだと。


YouTube: 『きみが死んだあとで』特別対談④/加藤登紀子(シンガーソングライター)×代島治彦 監督

・四方田犬彦氏は、小熊英二『1968 上・下』を徹底的に批判していて可笑しい。


YouTube: 『きみが死んだあとで』特別対談③/四方田犬彦(映画誌・比較文学研究)×代島治彦 監督

続き)映画を見ていて少し違和感を持ったのが、佐々木幹郎氏の笑顔だ。彼の詩は「行列」(僕も学生たちのデモ行進の詩だと思った)しか読んだことはない。所有の『やさしい現代詩』にはCDも付いていて、作者自らの朗読が収録されている。その中では彼の朗読は、聴いていてなぜか堪えられない嫌みがあった。個人的な思い込みですみません。でも、「おいらいち抜けた」ってどうよ? ヤクザの世界で「抜ける」のは至難の業だ。セクトから抜けるのって、そんなに簡単だったの? まったく説得力がない。

「記憶」って、ナラティブなんですよね。その時の自分の都合がいいように自由に書き換えることができる。その人の人生って、結局は「物語=ナラティブ」に変換して自分で納得するしかないんですよね。そうじゃないと、この理不尽な世界なんて生きていけないから。

自分の「記憶」という「過去」は、いくらでも変更できる。でも「未来」は既に厳粛に決まっていて、決して自分の思い通りにはならない。というのが、カズオ・イシグロの小説の主題だと思う。『わたしを離さないで』とかね。

また続き)逆に映画を観ていて最もシンパシーを覚えたのは黒瀬準氏と島元恵子氏だ。黒瀬氏は、大手前高校3年生の文化祭で仮装した姿が、山﨑博昭さんの左隣にモノクロ写真に残っている。あの日二人は羽田弁天橋の手前で後衛として配置されていた。しかし、山﨑は我慢しきれず前衛の橋へと走り去る。

その時黒瀬氏は、ヘルメットも被らず、ゲバ棒も持たず徒手空拳で走り去る山﨑を引き留める力はなかった。その悔いを引き摺ったまま、今日まで生きてきた顔をしていた。服装からその後苦労して決して成功者にはなれなかったことが分かった。その歌声は本物だった。

島元恵子さんは、京大教育学部を卒業後、高校の英語教師になった。現在は退職して田舎暮らしをしている。やはり大手前高校の同級生で、10.8 羽田闘争にも参加している。10.17 に日比谷野外音楽堂で開催された「山崎博昭君追悼集会」では、友人代表として弔辞を述べた。その時の「追悼の言葉」をカメラの前で改めて朗読する。

読み終わって、うつむいたままじっと沈黙する島本さん。決して言葉にはできない様々な思いが、彼女の胸のうちに去来する。

それからもう一人印象的だった人物。大手前高校、京都大学ともに山崎の先輩で、京大中核派リーダーだった赤松英一氏だ。イケメンで後輩の女子高生からキャーキャー言われる人気者だった彼は、高校の後輩たちをオルグして中核派に引き入れた。赤松氏は1993年まで中核派の幹部だった。当然、数々の内ゲバリンチ殺人事件の当事者でもあったはずで、そのあたりの事をインタビューで訊かれ、訥々と答えながら途中で何度も押し黙り、言葉を慎重に選んでいた。

自分の胸の裡に留めたまま、墓まで持って行くと決めた事実が、きっと沢山沢山あるのだろうと思った。


さらに続き)あと、映画を観ていて気になった人がいる。デモでパクられた学生たちに差し入れとかして後方援護した救援連絡サンター事務局長、水戸巌の妻水戸喜世子さんだ。彼らは内ゲバ加害者にも差別なく差し入れした。

東大で核物理学の教授だった水戸巌は、生前、反原発運動の理論的先導者だった。しかし、大学生になった双子の息子たちと冬の剱岳に入山したまま吹雪の夜に3人とも谷底へ転落し死亡する。

妻の水戸喜世子さんは、インタビューに答えながら夫と息子達の遭難が事故死ではなかったのではないか?と言う。公安当局か、夫の活動を疎ましく思っていた過激派が当局の情報を得てやったのでは? と。まるで高村薫『マークスの山』じゃないか。

■アフタートークで竹内忍先生も言っていたが、山崎博昭という 18歳で亡くなってしまった同志を、当時を懐かしく想い出しながら仲間で追悼するだけの映画ならば、全く見る気はしなかった。ただ、映画のタイトルが『きみが死んだあとで』だったので、1967年から53年が経って、生き残った彼らが「いま」どう生きているのか? 当時の自分にどう決着をつけているのか? そこにこそ興味があった。

しかし、残念ながらその回答は得られなかったな。

確かに、山崎の死を転機に人生が大きく変わった人もいた。京大を中退し、身体を生業とする舞踏家になって、現在はインドで弟子たちを指導する岡龍二氏だ。ただ他の人たちはどうだったのだろう? インタビューからは、その本心はうかがい知ることができなかった。

2020年12月10日 (木)

ぼくが大好きな映画ベスト30 +おまけ

■NHKBSP では、平日の午後1時から「プレミアム・シネマ」として、懐かしい渋い映画を放送している。ヘップバーン特集とか、マカロニ・ウエスタン特集とかね。

だから毎朝、中日新聞のテレビ欄をチェックしては、ブルーレイ・ディスクにせっせと録画予約している。WOWOW はね、フォローしきれないからノーチェックだ。あとで「オンデマンド」でも見ることができるし。

そんなかんなで録画したブルーレイ・ディスクは、すでに 100枚以上。でも、まだ1枚も見ていない。時間がないからだ。いったい何時見るのだ? Amazon prime にも無料で見たい映画がいっぱいあるというのにね。

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■さらに、昔レーザー・ディスクで買って捨てられずにいまだに持っている、思い入れの強い映画を、ブルーレイで買い直している。いったい何時見るのだ?

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(写真をクリックすると、大きくなります)

高校生の頃から今までに見てきて、大好きな映画を並べてみた

1)「東京物語」小津安二郎(1953)

2)「マル秘色情めす市場」田中登(1974)

3)「ストーカー」アンドレイ・タルコフスキー(1979)

4)「八月の濡れた砂」藤田敏八(1971)日活

5)「牯嶺街少年殺人事件 」エドワード・ヤン(1991)

6)「ツィゴイネルワイゼン」鈴木清順(1980)

7)「エル・スール」ビクトル・エリセ(1983)

8)「まぼろしの市街戦」フィリップ・ド・ブロカ(1966)

9)「性賊/セックスジャック」若松孝二(1970)

10)「恋恋風塵」侯孝賢(1987)

11)「サウダーヂ」富田克也(2011)

12)「パリ・テキサス」ヴィム・ヴェンダース(1985) 

13)「隠し砦の三悪人」黒澤明(1958)

14)「ギルバート・グレイプ」ラッセ・ハルストレム(1994)

15)「冒険者たち」ロベール・アンリコ(1967)

16)「十九歳の地図」柳町光男(1979)

17)「タンポポ」伊丹十三(1985)

18)「ヒポクラテスたち」大森一樹(1980)

19)「ゆきゆきて、神軍」原一男(1987)

20)「長靴をはいた猫」東映動画(1969)

21)「青春の蹉跌」神代辰巳(1974)東宝

22)「0課の女 赤い手錠(わっぱ)」野田幸男(1974)東映

23)「七人の侍」黒澤明(1954)

24)「切腹」小林正樹(1962)

25)「秋刀魚の味」小津安二郎(1962)

【大好きな映画の拾遺】

・『股旅』市川崑(1973 ATG)萩原健一主演、尾藤イサオ、小倉一郎共演。

この若者3人組がメチャクチャ格好悪い。ロケの多くが長野県伊那市長谷村で撮影された。尾藤イサオは破傷風になる。市川崑はこの後『木枯し紋次郎』を撮ることになる。

・『ル・アーヴルの靴みがき』アキ・カウリスマキ(2011)。

カウリスマキ監督作品は見たいのだけれどなかなか見れない。あと見たのは『過去のない男』のみ。映画館に行けないからね。年老いたロッカーがいい。それから妻役の常連カティ・オウティネン。あはは!の外したラスト。

・『お嬢さん乾杯』木下恵介(1949 松竹)。
 
佐野周二がいい。サンモニ司会、関口宏の父親。小津『麦秋』でのチャラい上司と部下の関係の佐野と原節子もいい味出してるが、原節子の魅力を最大限に引き出したのは、この映画の木下恵介じゃないかと思っている。
 
 
・『さらば愛しき大地』柳町光男(1982)根津甚八・秋吉久美子・蟹江敬三。
 
静かに壊れてゆく根津甚八がとにかく素晴らしい! 茨城県で大学生活を過ごし、土浦東映の最前列でタバコを斜めにくわえながら、この映画をみた。沁みた。
 
 
 
・『枝葉のこと』二ノ宮隆太郎(2017)
 
監督主演の二ノ宮クンの佇まいが見せる。それから、役者木村知貴をこの映画で発見した。『父とゆうちゃん』田口史人(リクロ舎)を読んでいて、舞台も同じ横浜だし構造的にも共通する部分がある。赤石商店で観た。
 

・『フォロー・ミー』キャロル・リード監督ミア・ファロー主演(1972)。

原題は「The Pubrlc Eye」私立探偵のことは「Private Eye」と言う。ジョン・バリーの主題曲は、林美雄ミドリブタ・パックのクロージング・テーマだった。周防正行『Shall we ダンス?』に映画のポスターが

・『霧の中の風景』テオ・アンゲロプロス(1988年/ギリシャ映画)

アンゲロプロスの出世作『旅芸人の記録』は未だ見ていない。上映時間6時間だからね。ビデオもDVDも持ってないし、ネット配信もされていない。でも、いま一番見たい映画かもしれない。

『アレキサンダー大王』と『シテール島への船出』は、レーザー・ディスクで持っている。でも、何度も見直す映画じゃないな。長すぎる。

でも、『霧の中の風景』は何度でも見たい。今でも心に残る印象的なシーンが幾つもあるから。それに、主役の2人が子供なのがいい。

・『タレンタイム』ヤスミン・アフマド監督作品(2009)マレーシア映画

この映画は最近観た中でも特に印象深い愛おしい1本。松本シネマセレクトと「赤石商店」とで2回観た。

女性監督のヤスミン・アフマドさんは、2009年にまだ51歳の若さで亡くなる。脳出血だった。「赤石商店」で今年の8月に観た『細い目』もオススメ!

■しばらく前だったか、麒麟特製レモンサワー(9%)を飲んで酔っぱらったとき、ふと思い付いたことがあった。

上記に挙げた 33本の映画を、ランダムに「赤石商店」の蔵のミニシアターで上映できないだろうか?

もちろん、上映無料。ぼくが見たい映画を、DVDで「赤石商店」さんに所場代払って大画面でもう一度観る。その時に、いっしょに見てもいいよって人がいたら、無料で見れますよ! っていう映画会だ。

町山智浩さんみたいな映画解説はとても出来ないけれど、上映終了後にぼくの個人的な解説を加えることも出来るかもしれない。

ねえ、これって案外おもしろい企画じゃないかな?

2020年8月28日 (金)

最近観た映画『ゆきゆきて神軍』と『細い目』のこと

■この8月中旬以降に観た2本の映画について。ツイッターに投稿した文章を改編して載せます。

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(画像を)クリックすると、大きくなります

■■ 原一男監督作品『ゆきゆきて神軍』■■

【8月16日】 原一男監督作品『ゆきゆきて神軍』を「まつもと市民芸術館小ホール」まで行って観てきた。初見は 1988年1月松本中劇シネサロンで確か観ている。なんと!32年ぶりの再見だったが、今回の方が圧倒されたし、いろいろ腑に落ちた。奥崎謙三は映画撮影時62歳。僕もこの9月で62歳になる。今こそ必見の映画だ。

初見の時は、奥崎謙三の強烈な個性と行動原理にただただ圧倒された。革靴履いたまま、かつての上官を平気で殴る蹴る。トンデモナイおやじだ。そう思った。この映像の場面だ。


YouTube: Do you want the police? - The Emperor's Naked Army Marches On (1987)

奥崎謙三は言う。「私は、責任も取らずにのうのうと生きている人間が許せないのだ」と。その頂点にいるのが「ヒロヒト」だと。

日本は、75年前から今でも何にもまったく変わっていない。誰もちゃんと責任を取らない。そういうことがめんめんと繰り返されている。奥崎謙三は、トンデモナイ性格破綻者であり、世間に迷惑な犯罪者ではあるのだが、彼のこの「行動原理」はまったくもって正しい。「ヤマザキ、天皇を撃て!」奥崎はそう叫んで、パチンコ玉を打った。

彼はずっと、たった一人で国家権力に対し真っ向から刃向かった。

そのためには、暴力を行使することも致し方ない。それが彼の考えだ。

ただ、自らが犯した暴力に関しては、ちゃんと責任を取って刑務所に入った。で、刑期を満了して出所した。それは、彼がピストルを発砲し相手に重傷を負わせた最後の犯罪においても、責任を果たし刑期を満了して出所している。奥崎はいつでも、ちゃんと自分で責任を取って落とし前を付けてきたのだ。それが彼なりの仁義、流儀だった。

■近畿財務局勤務で公文書改ざんを強いられ、自殺に追いやられた赤木俊夫さんの妻、赤木雅子さんが「この映画」を観終わったあと、原一男監督と会ったそうだ。彼女も、たった一人で国家権力に立ち向かおうとしていた。

https://hbol.jp/226688

この映画を観ていてちょっと感動するのは、奥崎の2歳年上の奥さんが、彼のことを絶対的に信頼しいっしょに行動しているとこだ。彼のために、何度も別人(ニューギニア戦線部隊兵士の遺族)のふりもしている。でも、苦労が絶えなかったんだろうなあ。奥崎が収監されたあと、まだ60代だったのに、一人淋しく亡くなる。

■【『ゆきゆきて神軍』追補】:映画が始まって暫くして笑ったのが、奥崎が兵庫県警の公安担当に電話すると、相手は即座にやって来て「先生、今後のご予定は?」と訊く場面だ。警察が奥崎のことを「先生」とヨイショしていて、奥崎はまんざらでもない、いや当たり前だと思っていた節がある。


YouTube: ゆきゆきて神軍 YukiyukiteShingun (introduction)

映画上映後のアフタートークで、リモート出演した原監督はこう言った。「彼の最終目標は、新たな宗教の教主になることだった」と。あの狂信的なパワーの源は、強烈なコンプレックスの裏返しだと。俺のことを、俺が生きた証しを認めてくれ!という切実な願望だったのだと。

奥崎は原監督に言った。「あなたは何故『センセイ』と呼ばないのか?」と。先生と呼んだら、二人の関係は「師弟」になってしまう。弟子になってしまったら、映画は撮れない。あくまでも対等の関係でなければ。さらに、奥崎は最後に実行することになる犯行計画を原監督に明かしていた。その犯行場面を映像に撮れ! と。さすがにそれだけは出来ない。原監督は奥崎に言って断った。


YouTube: ゆきゆきて、神軍 予告編

■奥崎が島根県山中に暮らす妹尾元軍曹を訪ね、突然激高した奥崎は元上官をボコボコ殴り床に組み伏せた。妹尾は首だけ起こしカメラに向かって「いいか、ちゃんと撮れよ!」と言った。暫くして家人に呼ばれた近所の男達3人に逆に押さえつけられ一気に情勢は逆転。

こんどは奥崎が顔だけカメラに向けて情けない表情で「おい、撮るな!止めろ!」と言うシーンには笑ってしまった。妙なユーモアがある映画だったな。

■ぼくが何故、奥崎に惹かれるのかというと、彼がアナキストだからだ。ぼくが大好きな殿山泰司がアナキストだった。奥崎にも同じ匂いがした。伊藤野枝にも、金子文子にも。そして、赤木雅子さんにも!

ガンバレ!! 赤木さん。

2019年9月12日 (木)

映画『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』

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■最初に、先だってからツイートしてきたものを再録します(一部改変あり)

映画『ニューヨーク公共図書館』を塩尻市の「東座」で観てきた。3時間25分のドキュメンタリー。途中休憩あり。噂に違わず面白かった。何やかや言ってもアメリカの民主主義は「当たり前」なのが凄いな。「図書館は本の置き場ではない。図書館とは人」「図書館は民主主義の柱。図書館は雲の中の虹」
 
 
続き)映画の冒頭、図書館司書が電話で「ユニコーンについて教えて欲しい」という市民に答えている。言わば『人力Google』だ。「中世のある僧がこんなことを書いています。男は外見はオオカミだが、心にユニコーンを飼っている」(ちょっと違うかも?)このシーンから一気に映画に引き込まれていった。
 
 
続き)エルヴィス・コステロの公演インタビューでは、彼の父親(ジャズ歌手)が『天使のハンマー』を歌うビデオが流れた。親子でホントそっくり! あと、コステロが鉄の女サッチャーをケチョンケチョンにけなしていて痛快。(映画ではモノクロ映像で、YouTube とは違う時の演奏だった)
 
 
 
 
続き)アメリカにも「歴史改ざん教科書」問題があったとは驚いた。奴隷をアフリカから働くために移民してきたと記載されていたという。子供たちに奴隷制も公民権運動のことも正しい歴史をきちんと伝えて行かなければならないと、黒人文化研究図書館長は力説する。
 
 
 
 
追補)映画『ニューヨーク公共図書館』。 何でも直ちに検索できるこのネット時代に、図書館なんて存在意義あるの?と思う人はいるだろう。ところが NYPL(ニューヨーク公共図書館)はそれを逆手に取って活動を進める。ネット民はむしろ孤立している。彼らが実際に集まって情報交換する場所を図書館が提供しようと。
 
 
追補)それから、映画を観ていてニューヨークに行った気分になれるのもいい。ぼくは行ったことないけれど。場面のつなぎに必ず街の風景がカットインされていて、○○番街○○丁目という標識がアップで映る。で、ここはハーレムかとか、チャイナタウンかとか何となく分かるのだ。
 

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追補)視覚障害者のための「点字・録音本図書館」で『ロリータ』で有名なウラジミール・ナバコフ『マルゴ』の録音本収録場面。役者志望の青年ボランティアが、感情を込めて「濡れ場」を朗読する。思わず照れてしまって直ちにカット。取り直し。ちょっと笑った。
 
 
追補)ガルシア=マルケス『コレラの時代の愛』の読書会のシーンもよかったな。もうろくしたジジババばかりの読書会だけど、ちゃんと作品を読み込んで来ていて、みな適確な発言をしている。なんてハイブロウなんだ、ニューヨークは。
 
 
追補)ニューヨーク市民の 1/3 が未だにネットにアクセスできないという。このため、NYPLは期限付きだが無料でポータブルWiFi を貸し出している。
 
後半、若き詩人でラッパーのマイルズ・ホッジスが自らの詩をステージ上で暗唱する場面。フロアで赤ん坊が大泣きしている。でも詩人はラップを続ける。その赤ん坊の親も退出しない。他の観客もブーイングもなく真剣に聴き続けている。ニューヨーカーは日本人と較べてなんと寛大なんだ!
 
 
あと、ニューヨークにおける初期のユダヤ人コミュニティが「デリカテッセン」を中心に築かれたという話も面白かったな。
 
 
追補)『利己的な遺伝子』リチャード・ドーキンス博士の講演「アメリカ国民の20%が無宗教で一番多いのに、政治家はキリスト教原理主義者の顔色ばかり伺っている」と怒っていた。「マクロの宇宙もミクロの細胞も突き詰めれば科学的にも詩的にもいっしょだ」とも。
 
 
追補)18世紀のアフリカ・セネガルでムスリムが革命を起こした話。それから、あのマルクスが共和党のリンカーンに奴隷制が労働者の権利を迫害していると手紙を送ったという話。いずれも初めて聞くことばかりで、興味はつきない。
 
 
追補)印象的だったシーン。SF『火星シリーズ』で有名なウイリアム・バロウズの直筆書簡をチェックしている人。詩人イエーツの書簡も NYPL本館に保存されている。それが無料でアクセスできるのだ。凄いぜ! 写真アーカイヴも豊富だ。テーマごとに分類されていて、アンディ・ウォーホルはその写真を何度も盗んだとのこと。
 
 
映画『ニューヨーク公共図書館』を検索していたら発見したサイト。hatenanews.com/articles/2019/ 対談者は「図書館は民主主義の柱」って言うのはどうよ? と発言をしているが違うだろ。ホームレスでもブラックでもメキシコ人の移民でも、アメリカ国民なら誰でも NYPL が収集した知的財産に無料でアクセスできて当然。アメリカ市民はその権利がある。その権利を守り維持してゆくのがニューヨーク公共図書館の義務であるという決意であり心意気なんじゃないのか。それこそ「民主主義」でしょ。
 
 
 
『未来をつくる図書館』菅谷明子著(岩波新書)読了。映画『ニューヨーク公共図書館』に映っていた、そのほぼ全てに関して、この本の中では既に詳しく解説されていた。映画ではよく分からなかった寄付金収集方法も詳細に載っている。2003年刊行で16年前の本だが、図書館のデジタル化に関する記載も映画と同じだ。その情報は、決して古びていない。驚いたな。
 
■映画を観た人は「この本」は必読の書だ。映画のパンフレットよりも断然分かりやすい。あのシーンはこういう意味があったのか! と読みながらいちいち合点がいくのだから。
 
■とにかく長い映画なので、1回しか観てないから記憶違いもたぶん多いと思う。でも、この映画は本当に面白かった! 観察映画の巨匠フレデリック・ワイズマンのドキュメンタリー映画は、今回初体験だった。彼のことを師匠と仰ぐ想田和弘監督の『演劇1』『演劇2』は観た。どちらも、とにかくナレーションも文字テロップも BGMも何もない観客にははなはだ不親切な映画なワケだが、そのためか、逆に観客は真剣にスクリーンを注目せざろう得なくなり、画面に集中することができるのだ。
 
 
映画『ニューヨーク公共図書館』では、頻回に「スタッフ・ミーティング」の場面が繰り返されるのだが、映画では何の解説・テロップっもないから、いったい誰が図書館長なのかが分からない。パンフレットを買って見て、あ、あの饒舌なオジサンが館長さんだったのか! と、初めて分かった。そういう映画なのだ。
 
「ユニコーン」の検索を図書館司書に依頼する男性に続いて、自分のルーツを調べている中年の太った女性が登場する。彼女の祖先は、いったいヨーロッパ大陸の何処から来たのか? すると、図書館司書はいとも簡単にこう言うのだ。「たぶん判ると思いますよ。その人がアメリカに上陸した年月が判れば、当時の移民登録台帳を確認すれば、彼がどの船に乗って来たか判るから、その船が何処から出港したか、たぶん判ります」と。
 
 
ビックリですよね。図書館司書がそこまで調べてくれるとは!
 
図書館の使命はそれだけではありません。失業者のための就職ガイダンスが無料で開催されていて、しかも! 履歴書の書き方から、面接時における対応の仕方まで講師が指導してくれる。「とにかく、大きな声でハキハキと答えましょう!」ってね。
 
 
■大切なことは、NYPL を運営しているのが、ニューヨーク市ではなくて、NPO法人であることだ。図書館の運営資金の半分は、確かにニューヨーク市から貰ってはいるが、あとの半分は、理解ある個人〜法人の寄付金に寄っているということが重要なのだ。
 
だからこそ、時の政府に忖度することなく、右も左も平等に資料を収集し、それを市民に公開している。このことは、本当に重要だと思う。
 
映画の中で、ハーレム135丁目にある『黒人文化研究図書館』の館長が確かこう言っていた(違うかもしれない。ごめんなさい)「赤狩り激しかったころの共和党元代議士○○氏が、当図書館を訪れて公民権運動に関する資料を見て苦虫を噛みつぶしたような顔をした。でも歴史の真実は、未来の子供たちのためにちゃんと保存されて行かなければならない」と。
 
 
 
 

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