読んだ本 Feed

2013年7月 8日 (月)

『夢でまた逢えたら』亀和田武(光文社)

■亀和田さんはミーハーだ。

テレビに出るのが好きだし、テレビを見るのも好き。
そして、アイドルが好き。

亀和田さんが「週刊文春」誌上で連載する「テレビ評」に、何時になったら『あまちゃん』が取り上げられるのかって、やきもきしてたら、しばらく前にようやく載った。やっぱりなぁ、亀和田さん能年玲奈が可愛くてしかたないのだ。

この週の週刊文春は凄かったな。亀和田さんの他に、小林信彦御大も、みうらじゅん氏も『あまちゃん』を語っていたからだ。


そしたら、毎日新聞夕刊でアイドル評論家(いや、今や能年評論家)中森明夫氏と『あまちゃん対談』なんてしてるし。


■亀和田さんの名前は、ずいぶんと前から知っていた。本も買った。
『ホンコンフラワーの博物誌』亀和田武(本の雑誌社)だ。
そうか、あの頃『本の雑誌』を読んでいて、亀和田さんの名前を覚えたのか。

■ところで、亀和田さんの新作『夢でまた逢えたら』(光文社)の評判がやたらいいので気になって、本屋さんで探したが見つからず、結局アマゾンで入手した。

読み出したら止まらない。面白い!
さすが、文章のキレが違う。めちゃくちゃ巧い。傑作だ。

導入の「漫才ブーム直前。四谷ホワイトで遭遇した寡黙な芸人」がまずは読ませる。印象的な場面は、中野神明小学校の3年生に転校してきた亀和田少年がクラスで出会った2人の少女のうちの地味な方、市川さんと春草の繁る土手で「市川さんの父親自家製の梅酒」を飲む場面だ。

なんか、映画の1シーンみたいに、ぼくの心に刻印されてしまったよ。

それから、かつての『笑っていいとも!』タモリの「テレフォンショッキング」みたいに、次から次へと僕の大好きな(ちょっとマイナーな著名人たち)が連想ゲームみたいに登場してくるのだ。いや、まいったなぁ。
亀和田さんは(かつて〜今も)知り合いだった人々のことを、親愛の情を込めて懐かしくしみじみと語っているのだよ。

高信太郎、ビートたけし、ナンシー関、佐野洋子。

ナンシー関がテーブルに彼女の名刺をばらまく場面がカッコイイったらない。それから、佐野洋子さんの別れた夫、広瀬郁氏のデザイン事務所に、コピーライターとしてあの芹沢俊介氏が務めていて、ヨーコさんに
「セリザワさんってマジメでさあ。一緒にいても、退屈でおもしろくないのよ。ギャグいっても、つまらないし。マジメな人って、あたし苦手」と言わせる。

当時若手では吉本隆明の一番弟子といわれ、いまも教育や文芸評論の分野で活躍している芹沢俊介さんも、ヨーコさんにかかると散々である。

あはは! 笑ったなぁ。

『ミッドナイト in 六本木』の頃の話では、森田健作に、若くして亡くなったショコタンの父親、中川勝彦が絡む。そしてドクター荒井。4代目桂三木助に、松野頼久のダークさ加減。館ひろしがCMタイムにいきなり司会席にやってきて、ピンクレディのミイちゃんを口説き始めたこと。スゲー世界だなぁ。

それから、亀和田さんが何故『本の雑誌』に連載していたのかずっと不思議だったのだが、そうだったのか! 亀和田さんは、目黒考二氏の会社の後輩だったんだ。知らなかったなぁ。


あと、嵐山光三郎氏の忠告。国立駅南口にある深夜ジャズ喫茶 → 国分寺駅南口にあったジャズ・バー「ピーター・キャット」と村上春樹のこと。同時期に国分寺駅北口にあったジャズ喫茶「モダン」に、亀和田さんは高校生のころ入り浸りで、午前中から行って弁当食ってても、ウエイトレスのお姉さんは優しく黙認してくれて、どうも後になって思うと、彼女は『海炭市叙景』の佐藤泰志の奥さんだったかも? っていう話とか。しみじみ読ませるなぁ。

千駄ヶ谷に移転したからの「ピーター・キャット」の話は、シュートアロー氏の『東京ジャズメモリー』(文芸社)に詳しい。


ジャズつながりで、マイク・モラスキー『ジャズ喫茶論』は前に読んだし、片岡義男氏がデビューする前に、あの『マイナス・ゼロ』を書いたSF作家、広瀬正氏からテナー・サックスの手解きを受けていたこと。ビックリだよ。

堺屋太一の女子プロレス好きにも驚いた。横山剣がメジャーになる前から亀和田さんはずっと押していたこと、さすがだ。マンガの神様、手塚治虫氏との会話。ゴジラ松井秀喜の哀愁。デーモン小暮の素顔。鈴木いづみが阿部薫に左足の小指を切断された時の話を佐藤愛子としている「週刊微笑」の記事。


ナンシー関に「この間、亀和田武さんに会ったら、やっぱり裕木奈江好きだって言ってたもの。とことん一緒に堕ちてみたい、田舎の温泉宿に恋の逃避行して住みついて、裕木奈江が仲居になって自分が下足番やれたらいい、だって(笑)。」って言われてるし。山崎ハコも林美雄の名前も出てくるし。

沖縄コザにあったライブハウスのオーナー、カッチャンこと川満勝弘氏のこと。五つの赤い風船の歌「まぼろしのつばさとともに」を彷彿とさせるような、1969年、避暑地の別荘にかくまったアメリカ脱走兵の話。あと「噂の真相」の元編集長、岡留安則氏はいま那覇に住んでるんだ。

ラストは、最近落語評論家として売り出し中の広瀬和生さんの話。彼の本は3〜4冊持ってるよ。


なんかなぁ。亀和田さんがしみじみ羨ましいなぁ。こんなにも素敵な人たちと知り合いでさ。

2013年6月16日 (日)

『想像ラジオ』いとうせいこう(河出書房新社)感想ノーカット版

  『想像ラジオ』いとうせいこう著(河出書房新社)

 

                    上伊那医師会   北原文徳

 

 もし本屋さんで「この本」を見かけたなら、試しにちょっと本のカバーを外してみて欲しい。真っ白いシンプルな表紙の左上に、ただ小さくこう書かれているはずだ。

 

  想ー像ーラジオー。

 

 ラジオの深夜放送で、CMブレイクの前後に流されるジングル。「オールナイト・ニッポン」とか「パック・イン・ミュージック、TBS」とかね、懐かしいあの音。

 70年代〜80年代にかけて、ラジオの深夜放送が僕の心の友だった。帰宅後夕飯を食べたら、まずはすぐに寝る。夜11時に起こしてもらって、それからが勉強だ。夜中ひとりで起きていると、怖いし淋しい。だからラジオをつける。すると、DJが明るい声で僕のために語りかけてくれるのだ。「淋しいのは君だけじゃないよ!」ってね。

 高校2年生の春、TBSラジオの「林美雄パック」に投稿して採用され、TBSのネーム入りライターを貰った。自慢しようと学校へ持って行ったら、現国の伊藤先生に見つかって取り上げられてしまった。高校生にライターを景品に贈るというアバウトさ。今なら考えられないことだ。

 林美雄アナウンサーは、伝説のサブカル・カリスマ・リーダーだった。僕がまだ中坊だった頃、深夜のスタジオで荒井由実が『ベルベット・イースター』をピアノで弾き語りした。石川セリの『八月の濡れた砂』を聴いたのも、タモリの「4カ国親善麻雀」を初めて聴いたのも、原田芳雄と松田優作が『リンゴ追分』を生デュエットしたのも、すべて「林美雄ミドリブタ・パック」だった。

 林アナが「これを聴け!」とプッシュしたミュージシャンは、まず間違いがなかった。佐野元春、山崎ハコ、上田正樹。みんな彼に教わった。それに、映画『青春の蹉跌』と『フォロー・ミー』もね。当時の深夜放送DJは、ラジオリスナーに対して絶対的な影響力があったのだ。

 ところで、この『想像ラジオ』は深夜午前246分から明け方まで毎晩放送されている。

 

  こんばんは。

  あるいはおはよう。

  もしくはこんにちは。

  想像ラジオです。

 

と、軽快に語り始めるのはDJアークだ。ただこの想像ラジオ、スポンサーはないし、ラジオ局もスタジオも電波塔もマイクすらもない。昼夜を問わず、リスナーの「想像力」の中だけでオンエアされているという特殊な番組なのだ。

 まるで、三代目春風亭柳好の落語「野ざらし」を聴いているみたいな歌い調子で小気味よく、軽やかに語りかけてくるDJアークは38歳。年上の妻と中2の息子が一人いる。音楽業界の仕事に疲れ郷里に戻り、海沿いの小さな町で心機一転頑張ろうとした矢先に記憶が途切れ、気が付いたら、高い杉の木のてっぺんに引っかかって、赤いヤッケを着たまま仰向けになっていた。その状態でラジオ放送を続けているという何とも不条理な状況設定。

 しかし、読んでいて不思議とリアリティがある。DJアークの声も、彼がかける曲も実際に聞こえてくるようだ。番組最初の1曲は、モンキーズの『デイドリーム・ビリーバー』。リスナーによっては、忌野清志郎の日本語バージョンでオンエアされる。想像ラジオだからね。4曲目は、ボサノバの巨匠アントニオ・カルロス・ジョビンで『三月の水』。ブラジルの歌姫エリス・レジーナとジョビン本人がデュエットしているCDは僕も持っている。二人の寛いだ雰囲気が何とも楽しい曲だ。

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 DJアークのもとには、放送を聴いたリスナーから次々とメールやお便りが寄せられる。直接電話してくる人もいる。ただ、誰もが「この放送」を聴ける訳ではない。例えば、いとうせいこう氏本人を思わせる「私」には聴こえない。DJアークの妻と息子にも、この放送は届いていないらしい。

 5曲目、ジョビンの熱烈なファンであり『アントニオの歌』のヒットで知られるマイケル・フランクスが、ジョビンの死を悼んで作った『アバンダンド・ガーデン(打ち棄てられた庭)』。そして6曲目が『あの日の海』コリーヌ・ベイリー・レイ。この曲は知らなかったが、松本の中古CD店で見つけて買って帰った。静かで優しい曲調の歌だったが、最後のフレーズの訳詩を見て驚いた。

 

  海よ

  荘厳な海よ、あなたは

  全てを壊し

  全てを砕き

  全てを洗い浄め

  私の全てを

  呑み込んでくれるのね

 

そう、想像ラジオで流される曲は、あの事実と密接にリンクしていたのだ。246分、三月の水、打ち棄てられた庭、そして、あの日の海。ということは、このラジオのリスナーたちはみな、「あの日」に亡くなった死者たちなのか? じゃぁ、DJアークも? 死者たちの声は、生き残った者たちの耳には聴こえないのか? それこそが、この小説のテーマだ。

 

3.11 以降「当事者」でない者が、安全地帯に居ながら偉そうに語ることは不謹慎だとさんざん言われてきた。著者は、それを十分承知の上で「第二章」「第四章」で持論を述べる。ここは読み応えがあった。以下は「私」たちがボランティア活動を終え、被災地から帰る深夜の車中での会話。

 「俺もあくまで相手のためみたいな顔で同情してみせて、ほんとはなんていうか、他人の不幸を妄想の刺激剤にして、しかもその妄想にふけることで鎮魂してみせた気分になって満足するだとしたら、それは他人を自分のために利用していると思う。(中略)だけどだよ、心の奥でならどうか。てか、行動と同時にひそかに心の底の方で、亡くなった人の悔しさや恐ろしさや心残りやらに耳を傾けようとしないならば、ウチらの行動はうすっぺらいもんになってしまうんじゃないか。」

「いくら耳を傾けようとしたって。溺れて水に巻かれて胸をかきむしって海水を飲んで亡くなった人の苦しみは絶対に絶対に、生きている僕らに理解できない。聴こえるなんて考えるのはとんでもない思い上がりだし、何か聴こえたところで生きる望みを失う瞬間の本当の恐ろしさ、悲しさなんか絶対にわかるわけがない」(p69p72

 さらに第四章で交わされる、かつての不倫相手と「私」との会話。

 「実際に聴こえてくるのは陽気さを装った言葉ばっかりだよ。テレビからもラジオからも新聞からも、街の中からも。死者を弔って遠ざけてそれを猛スピードで忘れようとしているし、そのやりかたが社会を前進させる唯一の道みたいになってる」(中略)「死者と共にこの国を作り直して行くしかないのに、まるで何もなかったように事態にフタをしていく僕らはなんなんだ。この国はどうなっちゃったんだ」(中略)「亡くなった人はこの世にいない。すぐに忘れて自分の人生を生きるべきだ。まったくそうだ。いつまでもとらわれていたら生き残った人の時間も奪われてしまう。でも、本当にそれだけが正しい道だろうか。亡くなった人の声に時間をかけて耳を傾けて悲しんで悼んで、同時に少しずつ前に歩くんじゃないのか。死者と共に」(p124p133

 この「第四章」のリアリティを理解するのはちょっと難しい。こうして「生者」のそばにいる「死者」は、幽霊でもオカルトでもスピリチュアルでもなく、でも確かに実在する存在なのだ。そのあたりのことは、気鋭の哲学者、若松英輔氏の著書『魂にふれる 大震災と生きている死者』(トランスビュー)を読むと少し分かってくる。

 柳田國男は、ある日「あとは先祖になるのです」と話す初老の男性に出会う。幸せな人生を生きることができたのは、自分とその家族の毎日を守護する「先祖」のお陰であり、死者となってからは、今度は自分もその一翼を担いたいと言うのだ。

「死者は遠くへはいかない。愛する人のもとに留まる。また『顕幽二界』、すなわちこの世とあの世の往き来はしばしば行われる。祭りは、もともと死者と生者が協同する営みだが、死者の来訪は春秋の祭りに限定されない。また、生者と死者が互いに相手を思えば、その心はかならず伝わる。」(『魂にふれる』p130 古来日本人はみな、そう信じてきたのではなかったか。さらに若松氏は言う。

 

 「死を経験した人はいない。しかし、文学、哲学、あるいは宗教が死を語る。一方、死者を知る者は無数にいるだろう。人は、語らずとも内心で死者と言葉を交わした経験を持つ。だが、死者を語る者は少なく、宗教者ですら事情は大きくは変わらない。死者を感じる人がいても、それを受けとめる者がいなければ、人はいつの間にか、自分の経験を疑い始める。ここでの『死者』とは、生者の記憶の中に生きる残像ではない。私たちの五感に感じる世界の彼方に実在する者、『生ける死者』である。(中略)

 死者が接近するとき、私たちの魂は悲しみにふるえる。悲しみは、死者が訪れる合図である。それは悲哀の経験だが、私たちに寄り添う死者の実在を知る、慰めの経験でもある。」

「悲しいと感じるそのとき、君は近くに、亡き愛する人を感じたことはないだろうか。ぼくらが悲しいのは、その人がいなくなったことよりも、むしろ、近くにいるからだ、そう思ったことはないだろうか。

 もちろん、姿は見えず、声は聞こえない。手を伸ばしても触れることはできない。(中略)でも、ぼくらは、ただ悲しいだけじゃないことも知っている。心の内に言葉が湧きあがり、知らず知らず、声にならない会話を交わし、その人を、触れられるほど、すぐそこに感じたことはないだろうか。ぼくは、ある。」(『魂にふれる』 p7 p11

 いとうせいこう氏は、こう続ける。「つまり生者と死者は持ちつ持たれつなんだよ。決して一方的な関係じゃない。どちらかだけがあるんじゃなくて、ふたでひとつなんだ」(『想像ラジオ』p138

 DJアークは、この世でもあの世でもない「中有」にいるらしい。

「今まで僕が想像力こそが電波と言ってきたのは不正確で、本当は悲しみが電波なのかもしれないし、悲しみがマイクであり、スタジオであり、今みんなに聴こえている僕の声そのものかもしれない」彼はそう呟く。すると、ツイッターのような同時多元放送を通じて、沢山のリスナーがポリフォニックに次々と声かけをし、DJアークを励ます。「想像せよ」「想像するんだ」と。こうして悲しみ愛する「悲愛」というチャンネルを通じて死者と生者が手を取り合うラストは本当に感動的であった。

 その余韻の中で、番組を終えるDJアークが最後にかけた曲は、「私」がリクエストした、ボブ・マーリーの『リデンプション・ソング』だ。

 

  原子力など恐れるな

  奴らに時まで止めることはできやしない

  あまりにも長いこと 奴らは

  俺たちの予言者を殺しつづけてきた

  俺たちは、傍観していただけだった

 

 ある者は それは聖書に書かれているという

  そして 俺たちは 

  予言の書を完成せねばならない

  この自由の歌を 一緒に歌ってくれないか

  なぜなら、俺が今まで歌ってきたのは

  すべて救いの歌だけだ

  そう 俺の歌ってきた歌は

  すべて救いの歌なんだ

 

 宮沢章夫、シティボーイズと共に芝居を続ける現役の役者であり、ヒップホップの草分けとして反原発デモではラップを披露し、三社祭では御輿を担ぐ。いとうせいこう氏はとことん格好いい。

作家としては、この『想像ラジオ』を16年の沈黙を破って書き上げた。いとう氏の奢らない真摯な思いが、読者の心に確かなメッセージとして真っ直ぐに突き刺さる傑作である。

2013年5月22日 (水)

2000字予定の原稿を、4800字も書いてしまった

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■「上伊那医師会報」の巻頭言に続いて「長野医報」7月号の原稿、苦しんで苦しんで、ようやく書き上げた。締め切りをとうに過ぎていた。

取っかかりの関係ない話が長くなり過ぎたことと、引用がやたら多くなってしまったことで、予定の2,000字を大幅にオーバーして、4,800字も書いてしまった。何度も削って、それでも4,000字。これ以上は短くできないぞ。


ポイントは、『想像ラジオでかかった「楽曲」について、きちんと言及すること。アマゾンの感想や、いろんな書評を読んでみて感じたことは、「音楽」の重要性に触れた感想がひとつもなかったことだ。みんな、ちゃんと聴いてないんじゃないの?


それから、いとうせいこう氏が「死者論」の参考にしたであろう、柳田國男『先祖の話』と、若松英輔『魂にふれる』に言及した感想が、まったくなかったことだ。そのあたりのことを書いてみました。


依頼原稿はどうも苦手なのだ。しかも、指定字数以内ではまず書けない。だから、ぼくは絶対にプロのライターにはなれないのだな。

2013年5月 1日 (水)

『彼岸からの言葉』宮沢章夫(新潮文庫)

■広島から帰った後、めずらしくタチの悪い風邪をひいた。

高熱は出なかったのだが、からだが怠く、喉がめちゃくちゃ痛くて、粘稠な黄緑色の鼻水がだーだー出続けるのだ。しかも、1週間が経つというのに、ちっとも良くならない。さらには、ここへきて咳が酷くなってきた。まいったな。こんなことは、ここ何年もなかったことだ。
 
 
■そんな訳で、原稿は書けないし、本も読めない。それでも、トイレに置いて毎日少しずつ読み進んできた『彼岸からの言葉』だけは読了した。噂に違わぬ傑作だった。
 
あの、大傑作エッセイ集『牛への道』よりも5年も前に世に出た、宮沢章夫初の「幻のエッセイ集」が、新潮文庫からこのたび復刊されたのだ。
 
 
「凡庸だからこそ、そこに漂うなんら緊張もなく白熱もない空気が私を引きつける。だから何もない場所に私の思考は働き始めるのだし、何かあるなら別に考える必要もないのだ。」p190。
 
 
処女作にしてこの決意。これは、最新作『考えない人』(新潮文庫)に至るまで、宮沢さんのその後のエッセイ本すべてに脈々と引き継がれて行くことになる。
 
 
 
■人は深く考えているようでいて、実は何も考えていない。少なくとも僕はそうだ。妻にもよく言われる。そして、前後の脈絡も何も考えずに不用意な言葉を発してしまう。発した後になって「しまった!」と思う。後の祭りだ。その言葉はトラウマとなって、何十年経っても僕の脳内で今日も渦巻いている。
 
それが、いわゆる「彼岸からの言葉」だ。
 
 
でも宮沢さんは、もっと様々なシチュエーションで発せられた、いろいろな「彼岸からの言葉」をたくさん収拾してきて、読者に開示分析してみせる。
その文章は真面目で硬質な文体で書かれており、当時流行していた、椎名誠や嵐山光三郎に代表される「であーる。なのだ!」的文章でもって「自嘲自虐ネタ」で読者を笑わす「面白エッセイ」とは対極にある。
 
でも、その真面目くさった語り口と絶妙な間合いから、不意に圧倒的な爆笑が生まれるのだ。不思議だな。
 
 
■『彼岸からの言葉』での一番のポイントは、「嘘は書かれていない」ということだ。
 
宮沢氏の奥さんは、本当に「訳の分からない変な寝言」をよく言う人なんだろうし、高平哲郎氏は表参道の事務所で二日酔だったし、古関安弘(きたろう)氏の肖像も事実だろう。そして、戸川純は本当にラジオの生放送本番中に怒ってドアを蹴飛ばし外へ出て行ってしまったに違いない。
 
宮沢さんは、数々の「縛り」を自分が書く文章に課した。
 
 
だから、『彼岸からの言葉』はまだ若いころの、むきだしの言葉による、むしろどこかいかれてしまった人間によって書かれた奇妙な熱狂である。さらに年齢を重ね、でたらめになったのち、どこかいかれてしまった熱狂で文章は書けるだろうか。(p203)

 
「いや、たぶんもう二度と書けないであろう。」とは、宮沢氏は決して書かない。でも、ぼくは思う。この本以上にとんがって張り詰めていて、危うさに満ちたギリギリの文章を、宮沢氏は書けないと自分で判っているに違いない。
 
 
「この本」について、重要なポイントを押さえているのが、松尾スズキ氏の解説だ。流石としか言いようがない。
 
 僕は26歳の、まだなにものでもなかったプータローの頃、『ラジカル・ガジベリビンバ・システム』の、知性とくだらなさが融合した新しい笑いと、お洒落とも野蛮ともとれるスピーディーな舞台構成に感動し、実際に自ら宮沢さんに直談判して宮沢さんの舞台に強引に立ったという、今の演劇界では考えられないアグレッシブなデビューの仕方をしたわけで、よく考えたら宮沢さんも、こんなに目つきも姿勢も悪い、ついでにいえばセリフ覚えも悪い貧乏臭い若者をよくぞ舞台に使ったなとも思います。
 
そして、当時の宮沢さんの演出は本当に刺激的でおもしろかったのを昨日のことのように記憶しているのです。ある設定を与えてアドリブで俳優に演技をさせる(エチュードといいます)のですが、ところどころで宮沢さんが提案するアイデアや口立てで挟み込む台詞がほんとうに笑える。
 
俳優に自由に演じさせながら、この俳優がこの状況でこういう動きをしたら、あるいは、こういう台詞を言ったら、どうおもしろくなるだろうという、それを、演出席でジーッと、ときには爆笑しながら観察し(演出家の爆笑も俳優にとっては重要なガソリンなのです。勘違いの原因にもときにはなりますが)指示を与える。
 
それが、必ず、おもしろい。おもしろくならなければ、とことん、何度でも何度でもやる。観察して分析して、そして実践する。しかも、そのシーンを作りながら、次のまったく異なるコントを絶妙なさじ加減でカットアップ的につなげていく。
 
机上ではなく、稽古場で、その場で、です。いやあ、かっこよかった。(中略)
 
ほんとうにもう、かっこよくてしかたがないとしか言いようがない稽古風景だったのです。僕は、宮沢さんの横に牡蠣のごとく張り付いて少しでもそのセンスを吸収しようと必死でした。
 
宮沢さんは現場ではあの独特のカッカッカッカという笑い声で「くだらないなあ!」と椅子からずり落ちても、その直後に、いや、こんなことで笑わせちゃあだめだろう、と頭を抱えるのです。
 
「くだらない」一つとってもレベルがあるという矜持をを常に持っていらっしゃるので、というより煎じつめれば「笑いへの矜持しかない!」とも言える現場であり、「笑いがなければいけないこと」と「そのレベルで笑わせてはいけないこと」を見極める。その厳しいジャッジを含めて「勉強になるなあ!」と素直に毎日感動していた自分がいたのです。(中略)
 
 
これは、宮沢さんはあくまで「やらせる側」の人であり、僕は自分でも「やる側」の人だという違いも関係していると思います。
 
あと、多分、宮沢さんは「笑われる」ことを厳しく禁じている人であり、僕ももちろん自分の仕事の第一義は「笑わせる」ことにあると思っているのですが、これはもう性分としか言いようがないのですが「笑われる」ことも、時と場合によっては「ありかな?」になってしまうのです。(p208 〜 210)

 
だからこそ、185ページで宮沢氏は、美術関係の人が書いた小説ともエッセイともつかぬ不思議な本の後書きを読んで怒り心頭に達する。
 
冗談を書くことは、真面目な部分の糧(かて)になるといった意味のことを著者は書く。つまり私がほとんど笑えなかった程度の笑いが本来の仕事のコヤシになると、この美術関係者は言うのだ。しかし私は断言する。笑いはそんなもんのコヤシじゃねえんだー。(p186)

2013年4月23日 (火)

最近読んだ本、いま読んでる本

■平和公園内にある、広島国際会議場で開催された日本小児科学会に参加してきた。

広島は思ったよりもずっと遠かった。伊那から6時間半。高速バスと新幹線を乗り継いでやっと着いた。お尻が痛くなった。

行きの途中で読んだ本は、『蒼茫の大地、滅ぶ(上)』西村寿行(講談社文庫)と『エデン』近藤史恵(新潮社文庫)の2冊。西村寿行は、ずいぶんと昔に100円で入手した文庫本なので活字が小さい。老眼には厳しいサイズだ。だから、結局 50ページまでしか読めなかった。


『エデン』は活字も大きいし、300ページそこそこだったので、一気に読めた。もちろん、すっごく面白かったからだけど。でも、この小説「ツール・ド・フランス」を見たことがない読者にも、ちゃんと伝わるんだろうか? って心配になってしまうくらい、自転車ロードレースの専門用語が何の説明もなしに出てくる。

前作の『サクリファイス』で、名古屋在住の大谷博子さんが解説済みだから大丈夫なんだろうか?

「グルペット」とか「個人タイムトライアル」とか、「アルプス山脈、ラルプ・デュエズの綴れ織り山頂ゴール」の意味とか、読者は本当に理解できているのだろうか? なんか心配になっちゃうんだようなぁ。

推理小説の完成度としては、前作に軍配が挙がるとは思うが、あの「ツール・ド・フランス」の全貌を、これほどまで雰囲気そのままに小説として仕上げてみせた作者の手腕に、ぼくは素直にエールを送りたいと思うぞ。面白かった。


■以下は、最近読んだ本に関するツイートを集めてみました。


広島から帰ってきた。小児科学会だったのだ。昨日も今日も、朝8時前からのモーニング実践セミナーから会場入りして、ずっと真面目に勉強してきた。書き付けたノートも満杯になった。明日からの診療に生かせるかな。それにしても「汁なし担々麺」の花山椒の辛さは癖になるな。旨かった。広島の新名物だ。

4月21日(日)の中日新聞朝刊に「ナナちゃん解体新書」として名古屋駅前名鉄百貨店の正面に立つ巨大マネキン「ナナちゃん」は、今までスイス生まれとされてきたが、実は長野県伊那市高遠町の木材会社「高遠製函」で40年前に製造されたとの記事。当時の写真も! そうだったのか、おいらと同じ
高遠の生まれなのか。


『おなべふこどもしんりょうじょ』やぎゅうげんいちろう(福音館書店)を購入。小児科医「おなべふ先生」のブッ飛び診療にあっと驚く。その容姿にもおったまげたぞ。ツルッ禿げ頭に目が飛び出てて、不気味すぎる。でも、

聴診器は赤色でオシャレ。



村上春樹『パン屋襲撃』という短篇小説が実在するとは知らなかった。リファイン版『パン屋を襲う』で初めて読んだが、面白いじゃないか! ぼくはてっきり『長距離走者の孤独』の主人公がパン屋を襲撃して捕まり、少年院送りになる話と呼応しているとばかり思っていたのに、ぜんぜん関係ないじゃん。

『柳田國男集 幽冥談』東雅夫・編(ちくま文庫)より、p102「魂の行くえ」を読む。先祖の魂は山の高い処に留まっていて、盆には子孫が「そこ」まで迎えに行く。ただ、山の上まで行くのは大変だから、信州上伊那郡の「黒河内民俗誌」によると「六道原」へ新盆の家は死者を迎えに行くとあって驚いた。


『遮断地区』ミネット・ウォルターズ(創元推理文庫)出てすぐ購入したのだが、ようやく読み始める。面白いじゃないか! やらなきゃいけない事がいっぱいあるのに、途中で止められなくて読みふけっている。


『遮断地区』読了。久々に一気読み。面白かったなぁ。でも、実に不思議なミステリーだ。物語の終板になるまで、誰が死ぬ(殺される)のか判らないのだ。変でしょ! そんなミステリーで今まであった? 人が死んだところから普通物語が始まるのにね。あと、サッチャーが生んだ格差社会の矛盾を斬る! 


『遮断地区』の面白さは、ノンストップ現在進行形の先が見えない不安と恐怖にあるワケだが、そのリアリティを支えているのは、登場人物すべてに血を通わせ、善人も悪人もキャラ立ちまくりにした作者の圧倒的な力量にあるに違いない。


福音館書店の月刊誌『母の友』5月号は【特集1】大人と子どものいい関係 【特集2】林明子の世界。これは林明子ファン必読だな。力の入った特集記事だよ。



『演劇 VS. 映画』想田和弘(岩波書店)と読んでいる。すっごく面白い! 映画を見て疑問に思ったところ、意味がよく分からなかったところ、全然気が付かなかったところ。みんな載っている。特に後半の対談、鼎談、座談会に発見が多い。映画を観た人は必読なんじゃないか?


『演劇1』『演劇2』を観て、劇団青年団の役者さんたちって演出家の将棋の駒にすぎないのか? ロボットと同じなのか? カリスマ絶対教祖にひれ伏す信者たちなのか? っていう疑問があったのだけれど、決してそうじゃないんだね。役者自身の主体性は大切にされてるし、ふざけた遊びも許されているし

あと、平田オリザ・チルドレン的立ち位置の劇作家&演出家、岡田理規氏との対談が面白かった。「冒険王」で古舘さんがダメ出しされて「それは一体どういう意味だろう?」と言う場面で思わず「そのくらいわかれよ!」って映画を観ながら声に出して突っ込み入れた岡田氏が可笑しい『演劇 vs.映画』。



『他者と死者』内田樹(文春文庫)前半は落語の「蒟蒻問答」で理解できたのだが、後半は歯が立たなかかった。難しい。他者=死者でよいのか? わからない。



『ウイルス・プラネット』(飛鳥新社)読了。面白かったなぁ。コンラッド『闇の奥』と HIV (AIDS) ウイルスの密接な関連に驚いてしまった。いや、本文には書いてはないのだが、地図を見ると「そこ」だったから。殺人ウイルスは、中央アフリカの闇の奥から出てくるのだ。エボラウイルスもね



遅ればせながら『昔日の客』関口良雄(夏葉社)を読んでいる。面白い! 短い文章の中に滋味があって、それから独特のユーモアが隠し味になっているんだな。個人的には、著者の出身地である飯田時代の話が好きだ。「恋文」「イボ地蔵様」「花空先生」ね


続き)昔日の客である、野呂邦暢氏が書いた、大森の古書店「山王書房」店主、関口良雄氏の「思い入れたっぷり」の描写に対して、関口さんは案外「あっさり」していて、あぁ所詮「店主」と「客」の関係なんて、その程度のものなのかなぁって、思ってしまったが、よーく読むと、関口さん独特の「照れ」だ

続き)『昔日の客』89ページ「某月某日」に、藤沢清造の『根津権現裏』を山王書房で手にして感激した花空先生が、二回り近く年下のうら若き女性と結婚した話。大丈夫か?花空先生。『根津権現裏』なんか読んでて。西村賢太解説の新潮文庫版なら、わが家にもある。


関口良雄『昔日の客』読了。ラストの一篇と、息子さんの後書きを読んで泣けた。まだまだ若かったのにね。持ちネタは、この本に書かれた10倍くらいあったんじゃないか。読んだことのある、好きで納得がいく本しか店に並べていない古本屋店主なんて、信じられないけれど本当にいたんだ。温もりの一冊



「くだらない」の中に日々の日常と真実があるに違いない。あぁ、セキララで残念な星野源の日常はホント可笑しいじゃないか!『そして生活はつづく』星野源(文春文庫)を読んでいる。面白いぞ!

 

2013年4月 6日 (土)

岸本佐知子「トーク&サイン会」平安堂長野店(その4)

■東京では「岸本佐知子トーク・イヴェント」は何回も開催されいるにも係わらず、その内容を詳細にレポートしたブログは、ググっても殆どアップされていない。

これはやはり、何かあるんじゃないか? しゃべると呪いがかけられるとか……

いや、そうはいっても、あの「抱腹絶倒」1時間半のトーク&サイン会のことを(著者未認可ブートレクとして)記録に留める人が1人くらいいてもいいではないか。ねぇ!


実際、岸本佐知子さんは、ほんと若々しくて、美人で聡明で、ユーモアと機知に富んでいて、その飾らない気さくなお人柄に、ぼくはますますファンになってしまったのでした。


■あとは忘れないうちに、個人的な覚え書きの羅列です。


・サントリー宣伝部に突然、あの開高健がやって来た時の話。昼休みだったから、岸本さん以外誰も部署にいなかった。「なんで誰もいないんだぁ?」脳天から突き出るような高音で、ビール樽に細い足が突き出したような体型の開高氏は叫んだ。

・サントリー宣伝部制作CMが大賞を取ると、決まって新入女子社員が余興をする「ならわし」になっていた。その年は1ヵ月間特訓して「ラインダンス」をやらされた。あまりに評判が良かったので、大阪本社まで行って、もう一度踊った。
その次の年は、聖子ちゃんの歌で流れたペンギンのビールCMが大賞を取ったので、今度は「ペンギンの着ぐるみ」を着せられて踊った。

・サントリー宣伝部には独特の符牒があった。岸本さんが配属されるまでは、それは「山根」と呼ばれていたのだが、岸本さんが「1000万円の伝票」を無くすとか、信じられないようなドジを繰り返すうちに、いつしか、大橋巨泉のクイズ・ダービーで「はらたいらに5000ガバス」とかいう代わりに、あの失敗は「300 岸本」だな、などと言われるようになったという。

ただ、1000万円の伝票をなくしたのは、絶対に私のせいではない! そう岸本さんは声を大にしていたぞ。


・不向きな事務仕事が辛くなったので、勤務時間外に生き甲斐を求めようと、部活動のつもりで入った翻訳学校は、まるで「翻訳・虎の穴」の世界だった。講師は中田耕治さん。その初回、岸本さんは泣きながら家へ帰ったそうだ。

中田耕治さんのテキストは、大抵はパルプフィクションから取られたものだった。ハードボイルドだね。その中には、僕の大好きなローレンス・ブロックの短篇も含まれていたそうだ。


・お堅い『翻訳の世界』という雑誌にエッセイを書くことになったきっかけは、編集部に友人がいて「何か書いて」と言われたから。仕方なく初めて書いたのが、『気になる部分』p166 収録の「恋人よ、これが私の --- 1994年を振り返って ---」。ロシア民謡「一週間」ていう歌は変だぞ!という話。

それを読んだ読者(中年男性?)から「お叱りの電話」が編集部にかかってきて、翻訳とは全然関係のないあんなくだらない文章は二度と載せるな! と言ったんだって。それを聞いた岸本さんは、よし、それなら逆に今後絶対に翻訳に関する話は書いてやらないぞ! と天に誓ったのだそうだ。


・岸本さんの「妄想」に対して、松田氏は「それって、結局は夢だったんじゃない?」と訊いたのだが、岸本さんはそれには答えず、「いいえ、私にとっては全て本当のことです。私は絶対に虚構だけの話は書けません。人間の記憶は事実ではないかもしれないけれど、その人にとっては真実なんですよ!」たしか、そんな意味のことを言ってた。カズオ・イシグロの小説に登場する主人公みたいな話をね。

・2冊の単行本化の際に、月刊「ちくま」連載分のうち20数編が「ボツ」になっている。そのうち数編は『ねにもつタイプ』文庫版に復活収録された。ボツにした根拠は、岸本さんが面白くないと感じた回のもの。中にはお父さんが電話してきて「あれはつまらなかった」って言ったのも含まれているとか。

ところが松田さんに言わせると、ボツにされたエッセイの中に面白いものがいっぱいあるとのことだ。まわりで評判がいいエッセイは、切羽詰まってきて怒り心頭で書き上げた時のものが案外多いのだそうだ。
「リスボンの路面電車」とかね。


・私の人生で、最も辛かったのは「幼稚園時代」なんです。毎日泣いてばかりいた。ちょうど、宇宙人が地球人に成りすまして、この地球上で生活していて、決して宇宙人だとバレないように、私は注意深く振る舞っていました。

だって本当は、おもちゃのダンプカーとミキサー車を正面衝突させる遊びが大好きなのに、大嫌いな「お人形遊び」を近所の子と放課後にしなければならなかったんですから。

でも、この「宇宙人が地球人のふりをすること」が、幼稚園が終わって小学生になっても、中学生になっても、大人になっても、ずっとずっと必要になるのだと気づいた時の圧倒的な絶望感は、誰にも判ってもらえないんじゃないでしょうか。


・「私は自分のことを『10歳の少年だと思っているんです。」

その言葉を聞いて、僕は『サンタクロースの部屋』松岡享子(こぐま社)で、足を貰った代わりに尾っぽを失った人魚姫の哀しみに触れた文章「尾と脚」のことを思い出した。

松岡さんが大阪の図書館で働いていた頃、カウンターに来てはあれこれおしゃべりしていく男の子がいて、あるときカウンターのはしに腰をかけて、ひどく思い入れのこもった調子で、「人間、ええのは、まあ、小学校2,3年までやなあ。それすぎたら、もうなーんもおもろいことあらへん。」と言ったんだって。その男の子と岸本さんが重なって見えたのだ。



・「エッセイスト」って言われるのが、ものすごく恥ずかしいんです。
 「パンティ」って口に出して言うくらい恥ずかしい。

・「奥の小部屋」ね。大きな乳鉢でグリグリと磨り潰して、真っ赤な肉だんごにしちゃうのが快感ですね。

・『気になる気分』の表紙。三つ編みの女の子のイラストは、すっごく気に入っているんです。近々取り壊される予定の「青山円形劇場」の前を通った時に、貼られていたポスターに目が釘付けになったんです。おどろおどろしいイラスト。

私、思わず劇場に入って「この絵を描いた人誰ですか? このポスター下さい!」って訊いたんですよ。ポスターは既になくて、チラシだけもらって帰りました。土谷尚武さんていうイラストレーター。

で、『気になる部分』を出す時に、表紙は土谷さんのイラストじゃなきゃヤダって、駄々こねたんです。


■質問コーナーでは、真面目そうな青年がこう訊いた

「岸本さんが訳される小説は、ご自分で見つけてこられるのですか?」
最初のうちはね、編集者が「こんな小説あるんですけど、訳してみてくれませんか?」って持ってきてくれたの。ニコルソン・ベイカーとかはね。でも、最近はみな遠慮してしまって、誰も推薦してくれないから、仕方なく自分で見つけているんです。

・次の質問者は女性だった。

「あの、『ホッホグルグル問題』とか『べぼや橋』とかあるじゃないですか。それに対して、読者から解答は寄せられないんですか?」

「あ、最近はね、ツイッターで教えてもらっているんですよ。ロープウェイ露天風呂って、本当にあるんですって。ビックリしました。まさか本当にあるとはね。ホッホグルグル問題は私の疑問じゃなくて、友人の疑問だったんですけど、こちらも最近解決しました。実際にヨーロッパのどこかに、本当にそういう地名があるんですってね。あ、オーストリアですか。


そうかそうか、ということは、僕が長年疑問に思ってきた「秋元むき玉子」問題が、その後どうなったのか訊いてみてもいいかもって思ったのだけれど、さすがに女性ばかりの会場で、にっかつロマン・ポルノの話を出したらドン引きだよなぁって思って、遠慮したのでした。

130410

岸本佐知子「トーク&サイン会」平安堂長野店(その3)

■新潮社の季刊誌『考える人』編集長が出しているメルマガを読むと、最新号の「小林秀雄特集」に関して、こんなふうに書いている。

そうか、小林秀雄は対談記事や講演録に、徹底的に手を入れたんだね。だから、
そもそも講演の依頼自体を基本的には断り続けた小林ですが、仮に引き受けた場合でも、自分の話をテープに録ることは断じて許さず、たとえ速記録であっても、自分の目を通さないままでは絶対に活字化させないという姿勢を貫きました。何度か出講の機会を取り付けた国民文化研究会理事長だった小田村寅二郎氏は、小林から次のように厳しく釘を刺されたと証言しています。


〈僕は文筆で生活してゐます。話すことは話すが、話すことと書くこととは全く別のことなんだ。物を書くには、時に、一字のひらがなを“は”にするか“が”にするかだけで、二日も三日も考へ続けることだつてある。話したことをそのまま活字にするなどといふことは、NHKにだつて認めたことはないし、それはお断りします。録音テープを取るのも困る〉(「二十年余の御縁をいただいて」、「新潮 小林秀雄追悼記念号」1983年所収)


■ということはですよ、僕が勝手に「岸本佐知子トーク会」の詳細を文章化することは、絶対に許されないことなのではないか?

2013年4月 4日 (木)

岸本佐知子「トーク&サイン会」平安堂長野店(その2)

■(承前)という訳で、ようやく本題に入れた。やれやれ。

サンクゼールのレストランに入った時には、まだ雨は降っていなかったのだ。ところが、ランチを食べ終わってワイナリーへ移動する頃には傘が必要なほどのけっこうな雨。

だから、長野駅前到着後も傘をさして平安堂「長野店」へ向かった。


13:55分、3階の書店内カフェ「ぺえじ」に到着。やれやれ間に合ったぞ。

狭い店内に椅子が並べられていて、すでに大方の席が埋まっている。50人の定員で、そのほとんどが女性だ。男は僕を入れて3〜4人しかいない。そうか、岸本佐知子のファンは女性が圧倒的に多いのか。ということは、エッセイよりも翻訳本を読んでのファンが多いということなのかな? 実際、エッセイ本じゃなくて翻訳本にサインして貰っている人が案外多くて驚いた。


■トーク会は、元筑摩書房編集者の松田哲夫氏が聞き手となって対談の形で進行した。こういう時、ぼくはいつでも「講演会ノート」を持っていく。この小型ノート(メモ帳)は時系列で既にもう10数冊たまっているのだ。小児科学会、外来小児科学会、地方会、絵本作家の講演会、医師会講演会と、ジャンルに関係なく次々とメモしてゆくワケです。

当然、今回も「講演会ノート」を持参して白いページを広げ、ボールペンを手に待機していたのだが、どうも周りの雰囲気が「それ」を許していないのだね。そんな野暮なことは恥ずかしいから止めろ!ってね。

なので、録音もメモも何もない状態で、いまこうして少しずつ思い出しながら書いているので、トーク会の詳細を正確に再現することはできません。ごめんなさい。


■午後2時過ぎ、松田哲夫氏と岸本佐知子さんがテーブルに着席しトークショーは始まった。開口一番、松田氏は言った。

「岸本さんは、雨女なんですってね。天気予報では、午後からは雨が上がるということでしたが、岸本さんの面目躍如の天候となりました。ところで、岸本さん。以前にも長野にいらしたことはあるのですか?」

・岸本佐知子さんは、上智大学を卒業後サントリー宣伝部に就職し、6年半勤務した。この「寿酒店」時代のことは、『気になる部分』(白水社)に載っている「国際きのこ会館の思ひ出」や「六年半」「寅」に詳しい。

松田氏の問いに対して、岸本さんは答えた。「斑尾ジャズ・フェスティバルって、長野県でしたっけ? サントリーの社員は毎年手伝いに駆りだされたんですよ」 うんうん、同じ時に僕も行ってたよ、斑尾ジャズフェスティバル。バブルだったんだなぁ。

その時の話は、『ねにもつタイプ』単行本の p164「十五光年」と、『なんらかの事情』p158 「M高原の馬」に詳しい。彼女は言った。

「バドワイザーの会社が、アメリカでビール樽を馬車で引っ張る力持ちの大馬を一頭、サントリーにプレゼントしたみたいで、会場売店テントの裏側に、誰も知られずひっそりと、その馬がいたんです。ものすごく大きな馬。この会場くらいの大きさ。ひずめだって、こんなに大きかった!」と、両手を直径30cm大に彼女は広げてそう言った。いやはや、これだよ。あはは! これこれ。そうさ、岸本妄想炸裂! (まだまだ続く)

2013年4月 3日 (水)

日曜日は、野沢温泉村→飯山市→飯綱町→長野市と移動

■春休みに何処へも出かけないのは淋しいって、息子たち(高1&中2)が言うのだ。でも、休みに入ってほぼ毎日「部活」がある彼らは忙しい。少なくとも、3月24日(日)の「春の高校伊那駅伝大会」が終わるまでは、2人とも身動きが取れないのだった。

で、ようやく予定のない週末(3/30〜3/31)に野沢温泉まで行ってきた。スキーはしないで、ただ「温泉三昧」に浸りたいというご所望だったのだ。


■野沢温泉で我が家が定宿としているのは「村のホテル住吉屋」だ。でも、息子等の予定が決まらないうちに、3/30(土)は何時しか満室になっていた。仕方ないので「大湯」の手前にある「常盤屋」を予約した。ここの内湯は、なかなかに良いのだよ。実は、20年近く前に一度泊まったことがあるのだ。

■伊那から野沢温泉までは案外近い。車で2時間とちょっとで着いた。車から降りると、周囲に硫黄の臭いがたちこめている。この臭いは渋温泉にはない。予想外に雪が少なくて驚いた。あれだけの豪雪地帯なのにね。ぼくが中野市や飯山市に住んでた頃のほうが、もっとこの時期残雪は多かったんじゃないか?

「常盤屋」では、3階の角部屋しか空いてなかったから、ちょっと高くついたが、お料理が予想外に美味しくて大満足だった。京風の上品な薄味で統一されているんだよ。なかなかの板前さんだと思った。

夕食後は手拭い肩に「外湯」巡りだ。「大湯」→麻釜で足湯と温泉玉子→「麻釜の湯」→「上寺湯」→「河原湯」と廻って帰宿。部屋に戻って、もう一度内湯に入る。やっぱ、掛け流し温泉は最高だなぁ。


■翌日の日曜日、チェックアウトして飯山「仏壇町」へ。ここには「高橋まゆみ人形館」があるのだ。初めて訪れたが、ここはいい! なるほど、団体観光バスが必ず寄る飯山新名所だ。

飯山を後に、一路三水村へ。あ、今は牟礼村と合併して「飯綱町」になったんだった。ここには「サンクゼール」のワイナリーがある。

ここのレストランで、一昨年の秋に姪が結婚式を挙げた。思い出に残る、素晴らしい結婚式だった。で、もう一度行ってみたくなったのだ。予約はしてなかった。季節外れのシーズンだからね、レストランがやってるかどうかさえ不安だったんだ。

ところが、次から次へとお客さんがやってくる。いつしかレストランのテーブルはほとんど満席になっていた。驚いたね。そうして、出てきたお料理の美味しかったことといったら! いや、ほんとビックリ。キッシュとビーフシチューのコースだったのだが、これほどのキッシュも、ビーフシチューも食べたことはないな。ここのシェフは、ちょっと凄いんじゃないか?


あと、アフリカのタンザニアから三水村の農家に嫁に来た、フィディアさん がいいんだよ。明るくってさ。あの笑顔と不思議な髪型。うちの妻はすっかりフィディアさんと打ち解けていた。アンドレア先生みたいな感じでね。
帰りに駐車場に駐められた車のナンバープレイトを見たら、そのほとんどが地元「長野」ナンバーだった。愛されているレストランなんだね。

さて、それから長野駅前までは40分くらいだったか。長電の立体駐車場に何とか車を駐めて、妻と息子たちは「東急シェルシェ」に買い物。ぼくは早足で「平安堂長野本店」に向かう。この日、午後2時から3時半まで、平安堂3Fのカフェで「岸本佐知子&松田哲夫 トークショー&サイン会」が開催されるからだ。(これからようやく本題に入ります。すみません)


2013年4月 2日 (火)

岸本佐知子さんの「トーク&サイン会」平安堂長野店

■ずいぶん以前に書いた、岸本佐知子さんの「エッセイ本」に関する文章を以下にアップしました。
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『気になる部分』岸本佐知子(白水 Uブックス)\920+ 税    2006/06/28

●『フェルマータ』ニコルソン・ベイカー(白水社)という、へんてこりんな小説を読んだのは富士見に住んでいた頃だったか。主人公の男が「時間よ止まれ!」パチンと指を鳴らせば、周囲の世界は一瞬にして固まってしまう。その中を彼一人だけが動き回れるのだ。さて、彼はいったいどういう行動をとったのか? 透明人間の話とちょっと似ているがぜんぜん違う。この本の訳者が、岸本佐知子さんだった。

変な小説を好んで訳す、岸本佐知子さんも相当に「変な人」だ。彼女のエッセイ集『気になる部分』を読んでたまげてしまった。これは久々にホームランだ。大笑いしたあと、しみじみ懐かしくなって、読んでいるうちに次第に現実感覚が崩壊してきて、夢ともうつつともつかない奇妙な宙ぶらりんな感覚にもってゆかれるのだ。いや本当に凄い書き手だね。もっともっと読んでみたいぞ。

笑った話は、「私の健康法」の中の数々の「ひがみネタ」。<飲食店で邪険にされた思い出> <自分だけ仲間はずれにされた> <旅先でボラれた> <自分の並ぶ列が必ず一番遅い>など、その時の気分に応じて好みのネタをセレクトし、心ゆくまでひがみエクスタシーを味わったあと、すっきりした気分で安眠するのだという。変な人だね(^^;) 「ラプンツェル未遂事件」も笑った。これは脚色はないんだろうな、きっと。

彼女が某洋酒メーカー(ぼくが想像するに、サントリーではないかと思うのだが)の宣伝部に勤めていたころの話も抱腹絶倒だ。中でも傑作なのが、「国際きのこ会館」の思ひ出 だ。全て本当の話なんだろうが、語り口がシュールなのね。ぼくは、筒井康隆の傑作短編『熊の木本線』の、あの不気味な雰囲気を思い出した。終いまで読んだら、彼女はどうも相当な筒井フリークであるらしい。やっぱしな(^^;)

「寅」の、”流しの OL”もよかったな。あと、個人的に大笑いしたのは、「じっけんアワー」の懐中電灯で月を照らしてみて、しかし、どんなに目を凝らしても、月の私が照らしているあたりが明るくなったようには見えなかった、という子供の頃の話と、「真のエバーグリーン」の中の、『秋元むき玉子』の話だ。ぼくも、「秘本むき玉子」とかいうタイトルを高校生の頃見て、ドキドキしたことがある。エッセイ中には「腰元むき玉子」という映画があったとあるが、これは絶対『秘本むき玉子』(1975年、日活ロマンポルノ)のことだと思うぞ。

■しかし、このエッセイ集の中で一番に読み応えがあるのは、彼女の子供の頃の話だ。「気になる部分」の新幹線の一番前の、あの丸い部分。よく泊まりにいった祖母の家の枕に住んでいた「日本兵」の行軍のはなし。「カノッサの屈辱」という、彼女が通ったカノッサ幼稚園の思い出。あと、すごく好きなのが「石のありか」と、それに続く「夜の森の親切な小人」「夜になると鶏は……」(これって、サイモンとガーファンクルの曲「四月になれば彼女は」なんだろうね)「サルの不安」、そうして「トモダチ」だ。 この路線が、彼女には一番合っていると思う。

ここを読んで思い浮かべるのは、『人形の旅立ち』長谷川摂子(福音館書店)や、内田百けん『冥途』だ。夢か現(うつつ)か、知らないうちに読者の足下をすくわれるような現実崩壊感を、ぼくらは読みながら味わうことになるのだ。現実と虚構の境目なんて、じつはないんだよね! 岸本佐知子さんには、ぜひ小説を書いて欲しいように思うのは、ぼくだけだろうか?

(2006/ 6/28 記)


『気になる部分』が、あまりに面白かったので、彼女の文章を探している。例えば、


http://media.excite.co.jp/book/special/honyaku/index.html

http://www.fellow-academy.com/fellow/magazine/userMailMagazineView.do?deliveryId=4

それから、『本の雑誌』2005年11月号で、大森望氏、トヨザキ社長との鼎談が笑わせる「フラメンコ書評」の話が楽しかったな。

あと、2002年から2004年にかけて、『母の友』(福音館書店)誌上で、彼女は隔月で書評を書いていて、ぼくはずっと読んできたはずなのに、あまり印象がなかった。で、書庫にとってある『母の友』を探してきて、片っ端から確かめて読んでみたのだが、予想に反して、岸本佐知子さんが好む本の嗜好性と、ぼくの嗜好性とは、ほとんど相容れないことに気が付いた。淋しかった。でもまぁ、彼女が書く文章を読んでいるだけで、幸せになれるんだから、それでもいいか(^^;;) (2006/ 7/14)


 『ねにもつタイプ』岸本佐知子(筑摩書房)           2007/03/23

■2月初めに本やCDをまとめて Amazon に注文したら、いつまでたってもちっとも発送されて来ない。例の村上春樹氏推薦のシダー・ウォルトン(p)トリオのCD『ピットイン』が入手困難となったためで、結局、それ以外の注文品が今週の火曜日になってようやく届いた。その中の一冊に『ねにもつタイプ』岸本佐知子(筑摩書房)があった。

なんか、発刊当初の「旬」で読みたかったなぁ、という残念な思いも強かったが、その他の注文本(例えば『三位一体モデル』中沢新一や『「競争相手は馬鹿ばかり」の世界へようこそ』金井美恵子)は一切ほっぽっといて、この本を真っ先に手にしたのは言うまでもない。

一字一句ねめるように味わいつつ、ページが進むのを惜しみつつ、でも止められない止まらない「かっぱえびせん」状態になってしまい、あっと言う間に読了してしまった。あぁ面白かった(^^)

■以下の文章は『考える人』に載ったエッセイからの引用で、本書『ねにもつタイプ』からのものではないのだが(同じネタの文章はある)こちらの方が「岸本佐知子らしさ」がよく出ていると思うので、以下引用。

 今日も幼稚園で泣いた。お弁当を食べるのがビリだったせいだ。きのうもおとといも泣いた。入園してから泣かなかった日が三個ぐらいしかない。幼稚園なんてなくなればいいのにと思う。
 家に帰ると、たいてい近所のSちゃんの家で遊ぶ。行くと必ずお人形遊びをさせられる。Sちゃんがバービーを手に持って、変な高い声で「お買い物に行きましょう」とか言う。そしたらこっちもタミーの声で「そうしましょう」とか言わないといけない。(中略)

 お人形遊びなんかやりたくない。でもそのことは、なぜだか絶対に言っちゃいけないような気がする。ばれちゃうから。ばれるって何が? わからない。地球人のふりをして生きてる宇宙人も、こんな気持ちかもしれない。
 Sちゃんちで出されるのはいつもカルピスで、飲むと喉の奥に変なモロモロが出る。そのモロモロを口の中で持て余しながら、あーあ、早く大人になりたいな、とか思っている私は、大人には大人の幼稚園やお人形遊びがあることも、「地球人のふりをしている宇宙人の気持ち」が、その後の人生でずっとついて回ることも、この時はまだ知らない。(『カルピスのモロモロ』より)

『考える人』季刊誌2004年秋号(57ページ「子どもをめぐる八つのおはなし」より)。


■ほとんど転載で著作権違反かもしれないがごめんなさい。凄い文章だな、と思う。彼女が味わっていた、こどもの頃の場違いな感じ、居心地の悪さは、ぼくもよく感じていたのでよーくわかる。カルピスを飲む度に、ぼくも「カルピスのモロモロ」が喉の奥に引っかかって気になって仕方なかった。うちの2階にも「シンガーミシン」があって、「マシン」(p13)に書いてあることと、まったく同じ記憶がある。もちろん「ちゃっちゃらちゃ~、ちゃらちゃ、ちゃっちゃらちゃっちゃっちゃー」というサンダーバードのテーマが、頭の中ですぐ鳴るし、「どろろ」も「オオカミ少年ケン」も、彼女より2年早く生まれたぼくは、同時代で経験してきたので共感率が高いのだな。

それにしても、よくもまぁ手を替え品を替え、決して読者をワンパターンで飽きさせないような文章を次から次へと紡ぎ出すものだ。全てのパートが甲乙付けがたい傑作だと思う。ぼくも「マイ富士山」が欲しいぞ。

■それから、ビックリしたのが「くだ」(p49)の冒頭部分だ。(以下引用)

 小学三年生の冬、鰻のあとにプリンを食べたらお腹が痛くなった。いつまでも治らないので、盲腸ではないかと大人たちが言いだした。盲腸なら手術だ。手術は嫌だ。だから「もう痛くない」と嘘をつき、そのまま年を越した。そのうちとうとう歩けなくなって嘘がばれ、病院に担ぎ込まれて即入院、手術の運びとなった。


いや、驚いた。ちょうど先週の火曜日の午後8時過ぎ、その日最後の患者さんが左下腹部痛を主訴とする「小学校3年生の女の子」Rちゃんだった。連れてきたおばあちゃんの話では、2~3日前からお腹を痛がっているのだが、B型のインフルエンザがよくなったばかりだし、学校へ行きたくなくて「そう」言っているんだろうと思っていた、とのことだった。で、彼女に「お腹のどこが痛いの?」と訊くと、左下腹部を人差し指で示して「ここが痛い」と言う。「左には盲腸はないから、急性虫垂炎じゃぁないな」ぼくは自信を持って言った。

でも、触診でお腹を押すと、どうも痛がり方が尋常ではない。「本当にここが痛いの?」と左下腹部を押すと、彼女はちょっとだけ痛そうな顔をして「うん」とスマして答える。これはよく言われていることだが、急性虫垂炎の患者さんは診察室に入ってくるところを見れば判ると、よく言われる。いかにも痛そうに右下腹部を右手で押さえながら、前屈みになって足を引きずるようにして入って来るからだ。ところが、Rちゃんは背筋を伸ばして普通に歩いてきた。試しにその場でジャンプさせてみたが、平気で10回くらい「その場飛び」をして見せてくれた。

それでも、ぼくは気になったので血液検査をしてみたら、白血球増多とCRP↑の所見があったので、伊那中央病院救急センターに「急性腹症の疑い」で紹介することにしたのだ。

その次の日のお昼に、彼女のお母さんから電話が入った。ちょうど彼女のお兄さんが小学3年生だった時に急性虫垂炎になって緊急手術をしていて、その時の記憶が「ものすごい恐怖=手術は怖い!」となって彼女の心に刻まれたのだという。だから、お腹が痛い→急性虫垂炎→手術 という公式が彼女の中で出来上がっていて、怖ろしい手術だけは絶対にイヤだったから、本当は右下腹部が「ものすごく痛かった」のに左下腹部が痛いと嘘を言ったのだという。結局、彼女は本当に急性虫垂炎で、その日の深夜、緊急手術が実施され間一髪で破裂前(腹膜炎前)の虫垂は切除されたのだった。

虫垂は破裂していなかったけれども、腹水が大量に貯まっており、用心のためドレナージの「くだ」が彼女のお腹にも立ったという。幸い腹膜炎は起こしておらず、3月18日に無事退院できたそうだ。いやはや驚いた。ものすごく痛かったであろうに、ぼくの前で平気な顔をして10数回ジャンプして見せてくれたのだよ! 信じられないな、こどもって(^^;;
(2007/ 3/23 記)


『ねにもつタイプ』138頁「床下せんべい」に出てくる『あしたのジョー』の特集を、いま、テレビの「ETV特集」でやっている。その少し前、テレビ東京だか日テレだか、よる10時前の5分間番組で、『ねにもつタイプ』147頁に出てくる「ゴンズイ玉」が実際にテレビに映っていて、これまたビックリした。おぉ、これがゴンズイ玉か!

ビックリしたと言えば、「あとがき」に「べぼや橋」の検索ヒット数は一件から三件に増えた と書かれていたので、試しに「べぼや橋」をググってみたら16200件もヒットして驚いた。岸本佐知子って、知らないうちにこんなにもメジャーになっていたのか!と驚嘆した。しかしよく見ると、実際の「べぼや橋」は8件のみで、あとは「ぼや」にヒットしたものだった。なぁんだ。

ちなみに、「秋元むき玉子」で検索すると、ぼくの「しろくま」のファイルの「2006/06/28の日記」1件しかヒットしない。いやはや(^^;;
(2007/ 3/24)
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