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2013年3月10日 (日)

『魂にふれる』若松英輔 (その2)と、『想像ラジオ』(その2)

■若松英輔『魂にふれる』で紹介されている、先人たちの「オリジナル本」にはどんな本があるのか、読後興味を持った。わが家にある池田晶子の本は『14歳からの哲学』のみ。小林秀雄に至っては一冊もないという有様。この本にも登場する、小林秀雄の講演テープは図書館から借りてきて聴いたことがあるが。

■そしたらちょうど、著者の若松英輔氏自身が「関連図書」を解説付きで紹介している紀伊國屋書店のサイトを見つけた。 

 【じんぶんや第81講】:若松英輔「魂にふれる 死者がひらく、生者の生き方」 だ。

■あと、ネット上で読める 若松英輔氏のエッセイ

■それから、本書の読後感想が書かれたブログをいくつか読んだのだが、いちばん「なるほど」と思ったのが、 「どこかあるところで、終わりなきままに」。 重要なことは、若松氏の以下の言葉にある。

哲学者池田晶子は、こう言った。「死の床にある人、絶望の底にある人を救うことができるのは、医療ではなくて言葉である。宗教でもなくて、言葉である」(『あたりまえなことばかり』)

 ここで池田がいう「言葉」は、必ずしも言語とは限らない。それは、ときに色であり音であり、光でもあるだろう。それは人間に意味を告げ知らせる働きであり、また、人間に存在の根源を開示する導きとなる実在である。

井筒俊彦は、そうした存在の深みにある「言葉」を「コトバ」と書いて、言語とは異なる存在の位相があることを明示した。池田にとって、「言葉」(あるいは「コトバ」)は、自己を表現する道具ではない。むしろ彼女は、自己が「言葉」の道具になることを願った。「言葉」は、時代の要求に従って、自ずと語り始めると信じたからである。

 死を経験した人はいない。しかし、文学、哲学、あるいは宗教が死を語る。一方、死者を知る者は無数にいるだろう。人は、語らずとも内心で死者と言葉を交わした経験を持つ。だが、死者を語る者は少なく、宗教者ですら事情は大きくは変わらない。

 死者を感じる人がいても、それを受けとめる者がいなければ、人はいつの間にか、自分の経験を疑い始める。ここでの「死者」とは、生者の記憶の中に生きる残像ではない。私たちの五感に感じる世界の彼方に実在する者、「生ける死者」である。(中略)

死者が接近するとき、私たちの魂は悲しみにふるえる。悲しみは、死者が訪れる合図である。それは悲哀の経験だが、私たちに寄り添う死者の実在を知る、慰めの経験でもある。

既に空が青くそこに在り、また、そうとして知っていたならば、再びそれを自身につぶやく必要はない。それではそのつぶやきは、一体誰に向けられたものなのか。私が私につぶやくのではない。私がつぶやきによぎられるのだ。つぶやきは「絶対」の自己確認であり、無私の私がその場所となる。(『事象そのものへ!』)

 

池田晶子の初めての本にある一節である。無私の私になったとき、私たちは悲しみと共に死者と出会う。。男性が「今日は、悲しい」、と言ったのは、テレビカメラに向かってではない。彼がそうつぶやいたのは、死者を傍らに感じていたからである。

 (悲しむ生者と寄り添う死者『魂にふれる』p6〜9)

■集英社の季刊誌『kotoba』vol.7(2012年春号)  の中に、「死者と共に生きる、ということ」と題して、中島岳志 × 若松英輔 の対談が載っている。

■ぼくが、信濃毎日新聞に載った、中島岳志氏の論説に関して書いたのは、2011年4月19日(火)のこと。この時はじめて、中島岳志氏を知ったのだった。

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■いとうせいこう『想像ラジオ』(河出書房新社)を読んで、DJアークがかけた楽曲が気になって仕方がない。

知ってる曲ならばね、頭の中でも想像でいつでも鳴らすことはできるんだ。でも、聴いたことのない曲は、さすがに想像だけでは響いてこない。

だから「YouTube」で確認すればよい訳なのだが、実はそこに「落とし穴」があって、楽曲だけ聴いただけでは、作者いとうせいこう氏が意図する「選曲の意味」は理解できない。つまりは「歌詞」をちゃんと判ってあげないと、ダメなんだよ。

さらには、その楽曲が収録されたCDを最初から最後までトータルで聴いた上での「その楽曲」が選択された意味を理解しないとね。ここは重要。「この本」が書かれた意味を理解しようとする上では、それくらいの個人的努力と実際的な時間と場所と金銭的な労苦は惜しまない。ぼくはね。

海よ

荘厳な海よ、あなたは

全てを壊し

全てを砕き

全てを洗い浄め

私の全てを

呑み込んでくれるのね

(コリーヌ・ベイリー・レイ「あの日の海」のラスト・フレーズ)

さて、次は「ストラヴィンスキー」を入手しなければ。

おっと、演奏するピアニストは、ポリーニじゃなきゃ、絶対にダメなんだよね。(以下、『想像ラジオ』より抜粋)

「さっきからうっすら耳の奥に届いている曲があって、カーラジオ付けてたんかなと途中まで思ってたんやけど、チャラい放送やってることの方が多いし聴くのやめようってナオ君が決めたからスイッチは絶対切ってるんですよ。でも、明らかに聞こえてきてるんです、ラジオから。雑音混じりで。飛び飛びに。

 信じて下さい。聴こえるのはアントニオ・カルロス・ジョビンってボサノバの巨匠の『三月の水』って曲で、原題は  water of march  って言うて、『三月の雨』とか訳されてたりするんやけど、僕とかボサノバが好きな人はあえて『三月の水』って直訳することもあって。それの、エリス・レジーナって歌姫とジョビン本人がデュエットしてる、ガチに定番なバージョンなんです。

 考えてみたら、皮肉なタイトルにもほどがありますよ、被災地からの帰り道に。けど、何回もかかってます。繰り返し繰り返しです。」(中略)

 では、ここで一曲、あなたに。マイケル・フランクスで『アバンダンド・ガーデン』。打ち棄てられた庭。

 いやはや、生楽器とボーカルがしみる一曲でした。昨日、と一応は認識している日の放送で何回もリピートしたブラジルのアントニオ・カルロス・ジョビン。その死を悼んで、彼をこの上もなく敬愛していた米国人マイケル・フランクスが急遽制作したアルバムの中の、これはタイトル曲でありました。1996年の作品。(中略)

 ええと、リスナーの皆さんには一曲聴いてもらっていいですか? 少々僕にも気持ちの整理が必要なようです。

 あの、そうですね、ここでイギリスの若い女性歌手コーリーヌ・ベイリー・レイのしっとりとした声をお送りします。彼女、デビューアルバムが世界的に成功したあと、夫の突然の死があってしばらく音楽から離れるんですよね。

しばらくして出来上がったアルバムが 2010年の『The Sea』。おじいさんが海難事故で亡くなったのを、彼女の叔母が岸辺から見ているしかなかったという事実をモチーフにした表題作をどうぞ。邦題は『あの日の海』。(中略)

 

 では、本当にここで音楽を。

 コーリーヌ・ベイリー・レイで『あの日の海』。

   想像して下さい。(いとうせいこう『想像ラジオ』より引用)

■という訳でぼくは、マイケル・フランクス『アバンダンド・ガーデン』と、コーリーヌ・ベイリー・レイ『あの日の海』の2枚のCDを、最近入手した。歌を聴きながら、歌詞カードを読んでみると、いとうせいこう氏の「深い意図」が初めて見えてくるような気がした。

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