『東京ジャズメモリー』シュート・アロー(文芸社)(その2)
■『東京ジャズメモリー』の著者は、ぼくより4つ年下だ。だから微妙に「同じ渋谷」でも印象・記憶が少し違うのかもしれない。
ぼくが「BLAKEY」に通っていた頃は、第2章に登場する、渋谷「SWING」は、百軒店『ムルギー』左隣『音楽館』の斜向かいにあった。宇田川町の輸入レコード店「CISCO」の地下へ移転したのは、それから暫くしてからのことだ。
自由が丘の「ALFIE」は、ぼくも一度だけ行ったことがある。たしか、デヴィッド・マレイ『ロンドン・コンサート』が鳴っていた。
あと、この本でうれしいのは、巻末に載っている「昭和55年頃の渋谷ジャズ喫茶マップ」だ。そうそう、東急本店通り(今は何て言うんだ?)の右側のパチンコ屋横の狭い階段を地下に降りて行くと、ジャズレコード専門店「ジャロ」があったあった。南口から「メアリー・ジェーン」を探して行ったこともある。渋谷界隈限定のディープでローカルな「ジャズ体験」が個人的に泣けるのだなぁ。
■ちょうど、『ポートレイト・イン・ジャズ』村上春樹・和田誠(新潮文庫)を同時に再読していたから、余計にそう感じたのかもしれないが、センチメンタルでメランコリックで思い入れたっぷりの村上春樹氏の文章と比べて、『東京ジャズメモリー』の著者、シュート・アロー氏は案外あっさりとした文章を書く。いや、良い意味で「泥臭くない」のだ。
江戸っ子の粋とでも言うか、照れもあるからなのか、語りすぎないのだね。そこが「この本」のカッコイイところだと思った。
■それから、とにかく文章が上手い。さすがに音楽を生業としている人だけあって、読んでいて「息継ぎが楽な文章」を書く人だ。
氏の筆が乗ってくるのは、中盤の「田園コロシアム」の項あたりから「新宿西口広場のマイルス」のあたり。都会人でクールなはずのアロー氏が、思わず熱く熱く語ってしまっているのだ。(以下、引用)
なお、ピクニック気分でビールを飲みながらジャズを楽しむというコンセプトの斑尾高原ジャズフェスティバルが(バドワイザーがスポンサー)、田コロにおけるライブ・アンダーの終焉に合わせたかのように、1982年から開催されたのは偶然なのであろうか。(中略)
2010年代に至っては、バーはもちろん、居酒屋、食堂、ラーメン屋、すし屋といった飲食店以外にも、本屋、雑貨屋、美容院、床屋、ホテルのエレベータ内などなど日本中いたる所にジャズが溢れかえっている。
しかしジャズブーム、ジャズライブが盛況、CD販売好調、ジャズファンが増加といったニュースは聞いたことがない。あくまでも手軽で耳あたりの良いBGMになりさがってしまっている。
一方、昔ながらの大音量でジャズを聴かせるジャズ喫茶に至っては、全くの瀕死状態だ。たまに本格派ジャズ喫茶に行くと客はほとんどが中高年の男性で、若い男女はほとんど見られない。というよりそもそも客がいないことが多い。
残念ながらジャズ喫茶はすでに過去の遺物、化石、マイク・モラスキー氏の『ジャズ喫茶論』で言うところの ”博物館” となりつつあるというか、なってしまった。(p91〜92)
■ぼくは田園コロシアムも復帰後のマイルスも、直接聴きに行ったことはない。(レコード・CDは持っている。)
斑尾ジャズ・フェスティバルは、ぼくが北信総合病院小児科に勤務していた夏に「第3回」が開催されて、見に行った記憶がある。1984年のことだ。斑尾のジャズフェスはその後もずいぶんと頑張って続いた。1989年〜1991年は、飯山日赤小児科に在籍していたので、3年間毎年見に行った。
僕が尊敬するジャズ評論家の大御所、野口久光氏にサインしてもらったのも、この時の斑尾(夜のジャムセッション)でだ。いま考えてみると、確かに信じられないくらい「いい時代」だったのだなぁ。
シュート・アロー氏が主張するように、1981年頃の日本のジャズ状況が「日本ジャズ史において恐らく最も多くの人々がジャズに親しみ、楽しみ、盛り上がった時代であり、少なくとも戦後におけるジャズブームのひとつとして語り継がれる必要があるはずである。」のかもしれない。
■ところで、この本の著者は、某楽器メーカー勤務の匿名サラリーマンなのだが、著者が新人時代に勤務した渋谷店が道玄坂にあったこと(いまはない)、本社が浜松にあること、著者がマイク・スターンやネイザン・イーストと懇意であることなどから考えると、シュート・アロー氏は「ヤマハ楽器」に勤務されているのではないか。うん、たぶんそうに違いない。
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