2011年9月20日 (火)

ラーメンズの公演をナマで見たいものだ

知ってる人はよく知っていて、知らない人はぜんぜん知らないのが「ラーメンズ」だ。

1999年の春、NHKの『爆笑オンエアバトル』でテレビ・デビューした時には、いわゆるよくある「お笑いコンビの二人組」かと思われていたのだが、この頃の映像をいま見ると、やはり当初から「いわゆる普通のお笑い」ではないことが今さらながらによく判る。


たぶん彼らも、制限時間とか表現上のタブーとか、いろいろとやっかいな制約だらけのテレビ界とは相性が悪いことに早くから気付いていたのだろうな。その後の「ラーメンズ」の主な活躍の場は、劇場の「ナマ舞台の場」へと限られてゆく。彼らの舞台は、お笑いコントと言うよりも、二人芝居の演劇に近い点が評価されだしたし、コアな熱烈ファンも急増した。


この頃収録された『日本の形』が傑作だ。わが家にもDVDがある。この中の1本「鮨編」を YouTube で見ることができる。






YouTube: 日本の形『鮨』


■このように「お笑い」の新次元を前衛的に突き進んでいる「ラーメンズ」ではあるのだが、ぼく自身の評価は、浅草の舞台に立つ「コント55号」の「身体的なお笑い」を踏襲する、伝統に則った「お笑いコンビ」だと思うのだ。


コント55号のコントは、欽ちゃんがその全てを統括していて、ちょうどお釈迦様の手のひらで右往左往する孫悟空の役目が坂上二郎さんだ。この役割分担は、小林賢太郎(欽ちゃん)と片桐仁(坂上二郎)に、そのまま当てはまる。


小林賢太郎は、何度も綿密にリハーサルして計算し尽くして考え抜いた「理系のお笑い」を演じる。それはそれでとても面白い。例えば、最近NHKBSで放送された「小林賢太郎テレビ3」だ。


YouTube: 小林賢太郎テレビ3「のりしろ」「戸塚区」


これはこれで、ものすごくクオリティが高いお笑いで、感動モノではあるのだが、ぼくは「頭だけで成り立つお笑い」だと思ってしまう。小林賢太郎さん一人だと、どうしても「身体」が「おいてけぼり」になってしまうのだよ。


それは、欽ちゃん一人だと「ギャグ」が成り立たなくって、いろんな素人をいじって笑いを作っく方向へ向かったように、コント55号には坂上二郎さんが絶対的に必要だったのだ。それは、お笑いを「身体的」に変換する作業と一致する。お笑いは、頭ではない。身体だ。


まったく同じことが「ラーメンズ」でも言える。


「笑いの天才」と言われる小林賢太郎ひとりでは、頭だけの笑いになってしまうのだ。だから、身体性を精いっぱい、お釈迦様の手のひらの上で四苦八苦しながら、即興的な瞬発力でもってさまざまな表現しようとする、片桐仁(坂上二郎の代役)が絶対的に必要なのだ。ぼくはそう思う。


2011年9月17日 (土)

『いますぐ書け、の文章法』堀井憲一郎(ちくま新書)

■もしかして、この本「名著」になるんじゃないか。


いや、今夜は伊那中央病院の小児一次救急の当番だったのだが案外ヒマで、持っていったこの本『いますぐ書け、の文章法』堀井憲一郎(ちくま新書)を読了したのだ。


堀井憲一郎氏の本が好きで、出れば買って読むようにしている。特に「落語本」に傑作が多くハズレがない。でも、読み終わって即効性の効果が期待できるという意味では、この本が堀井氏一番の「読んでためになる、おもしろ傑作本」となった。


昔から「文章読本」の類は数多あった。谷崎潤一郎、三島由紀夫、丸谷才一、井上ひさし、本多勝一などなど。でも読んでみたことなかったな。人は人、おいらはおいらだから。


いろんな人の文章を読んで、その度に彼等(例えば、東海林さだお、殿山泰司、伊丹十三、山下洋輔、椎名誠、嵐山光三郎、立川志らく、柳家喬太郎、いしいしんじ、北尾トロ、小西康陽、村上春樹、小林賢太郎、菊地成孔、須賀敦子、山登敬之、杉山登志郎、森岡正博、佐藤泰志、志水辰夫、島村利正などなど)の文体に影響されて、その混沌とした中から「ぼくの文体」が生まれた。

オリジナルじゃないのだ。所詮は「人まね」。それでいいじゃん。と、堀井憲一郎氏は「この本」の中で言ってる。


■「この本」の特筆すべきことは、文章を書くことの「身体性」を、初めて文章化したことだ。


「事前に考えたことしか書かれていない文章は失敗である」と、堀井氏は言い切る。


大切なのは、自分をとことん追い込んで初めて無意識から浮かび上がってくる「言葉」の即興性を大切にせよ! ということだ。さらに彼は言う。「文章は頭だけで書いても、ちっとも面白くない」

ここで大事なのは、即興性である。一回性でもいいや。いま、この瞬間にたまたまおもいついたことを大事にして、それを書く。事前に、文章をじっくり練らない。書いたあともじっくりいじらない。書いている寸館の、そのときにしか書けないことを書く。それが大事だった。(p152)


つまりは、シャーマンのごとく、天から「言葉」が降りてくるのを、日照りの中で「雨乞いの踊りをおどりながら」じっと待つのだ。


こういう話は、作家さんのインタビューとか、内田樹先生のブログとかで断片的には聞いてきた。でもこれほどまでセキララに「文章を書くことの身体性」を綴った文章に出会ったことはない。そのとおりだよな。書き始めると、その日の調子が良ければ勝手に手が動いて、文章を自動で筆記してくれるのだ。


あとで読み返してみて、俺ってこんなこと考えていたのか! って、自分でも驚くような表現をしてたりする。


文章を書くことの醍醐味は、「それ」に尽きるのではないか。


■以下、Twitter に書いた記事から追加。


『ウイスキーは日本の酒である』輿水精一(新潮新書)と『いますぐ書け、の文章法』堀井憲一郎(ちくま新書)を、伊那のTSUTAYAで買う。堀井さんの文章が読みやすいのは、たぶん落語のリズム・テンポで文章が書かれているからだ。
9月13日


『いますぐ書け、の文章法』堀井憲一郎(ちくま新書)を、毎日ちびりちびり読んでいる。この本は金言の宝庫だ。思わずボールペンで赤線を引きまくっている。例えばこんな一言。「文章は、発表した人のものではない。読んでくれる人が存在して、初めて意味がある。つまり文章は読み手のものである。」
9月17日

2011年9月15日 (木)

今月の「もう一曲」。『満月の夕』

■中秋の名月はもう終わってしまったけれど、満月の夜には「この歌」を聴きたい。


YouTube: ソウル・フラワー・ユニオン 満月の夕

「この歌」は、1995年1月17日に起きた「阪神淡路大震災」当日の夜、神戸の海に上った満月を見て作られた、ソウル・フラワー・ユニオンのオリジナル曲なのだそうだ。ちょっと沖縄民謡のテイストがある名曲だ。ぼくは、アン・サリーのカヴァーで初めて聴いた。悲しいけれど、ホントいい曲だなぁ。しみじみ思ったよ。


YouTube: アン・サリー 満月の夕(ゆうべ)

あれから16年が経った今年の夏の終わりに、日本外来小児科学会が神戸であって行ってきたのだが、その爪痕の痕跡はまったく残ってはいなかった。ほんとビックリするほどに。 あの震災は無かったのか? 僕は、ふとそう思ってしまった。でも絶対に違うのだよ。通りすがりの旅人には分からないけれど、地元神戸に住んで生活している人たちは決して忘れはしまい。ことあるごとに「あの日」を思い出しているに違いないのだ。この曲にあるようにね。 さて、最近になって新たな「この曲」のカヴァーが YouTube に投稿された。これだ。


YouTube: 満月の夕 Noche de Luna Llena ラテンアメリカ連帯バージョン

歌っているのは、知る人ぞ知る「闘う、ラテン歌手」八木啓代さんだ。 キューバ、メキシコ、アルゼンチン、チリ。八木さんは中南米音楽・情勢の専門家であり、自らも歌う歌手。まだ、インターネットが始まる前から、ニフティのフォーラムでは「パンドラ」のハンドル名で一世を風靡していたし、当時から絶大な人気を誇っていた人だ。かく言う僕も、彼女の大ファンで、「ハバタンパ」のCDも購入したし、『パンドラ・レポート 喝采がお待ちかね』ほか彼女の著書を何冊も買って持っている。 最近は、例の前田特捜部検事の不祥事事件を追っている。頑張って欲しいと思うぞ。 ■あと、もう一人。忘れられたジャズ・シンガー「酒井俊」が「この曲」を「現地」で唱ったヴァージョンが素晴らしい! これだ。


YouTube: 酒井俊『満月の夕』東北関東大震災 チャリティーJAZZライブ

2011年9月13日 (火)

伊那のパパズ絵本ライヴ(その83)木祖村地域図書館

■9月11日(日)午前10時半から、木曽郡木祖村小学校内、木祖村地域図書館での「伊那のパパズ絵本ライヴ」(その83)が行われた。木祖村地域図書館司書の三井さん、いろいろとありがとうございました。送っていただいた写真、すみません勝手に使わせていただきました。


当日、母の三回忌だった僕と、伊東パパは欠席で、倉科・宮脇・坂本の3人で頑張ってくれました。ありがとうね!


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倉科です。

木祖小学校、無事終わりました。


昨日は、小学校のプレイルーム、大人子供、計約40名くらい、
とても落ち着いて、よく聞いてくれました。久し振りの3人パパ’S、当日のメニューです。

1)『はじめまして』
2)『パパのしごとはわるものです』板橋 雅弘 ・文、吉田 尚令・絵 →坂本
3)『パンツのきまり』トッド・パール(フレーベル館) →宮脇

4)『カゴからとびだした』(アリス館)


5)『すいはんきのあきやすみ』村上しい子・作、長谷川義史・絵(PHP研究所)→倉科

6)『パンツのはきかた』岸田今日子・文。佐野洋子・絵(福音館書店) →全員


7)『うみやまがっせん』長谷川摂子・再話(福音館書店)→坂本
8)『へんしんマジック』あきやまただし(金の星社)→宮脇

9)『ふうせん』(アリス館) →全員
10)『世界中のこどもたちが』(ポプラ社) →全員


ふうせん、二人で頑張ってくれましたよ。

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2011年9月10日 (土)

今月のこの1曲。 サケロック「やおや」

■作曲家としての星野源はスゴイ。 ぼくは個人的に、日本のセロニアス・モンクだと思っている。 あの独特のタイム感覚。絶対に誰にも真似できない音楽だ。 演奏家としての星野源は、マリンバ奏法がとにかく異常に上手い。 まるで谷啓みたいなトロンボーンを吹く浜野謙太(ハマケン)とのデュオ演奏には、なんとも言えない人生の情けなさと、どうしようもなさを。そうして、どうでもいいような日々のくだらなさと適当さの匂いがある。そうさ、人間そう毎日「有意義」には生きていないのだよ。だから、そんなに力まずに肩肘張らずに、何となくのほほ〜んて生きていければいいじゃん、ってことを、宣言してくれているような音楽なのだな。 そういう音楽って、いままでありそうでなかった。と思う。だから、サケロックは貴重だ。


YouTube: インストバンド / SAKEROCK(PV)


YouTube: SAKEROCK / 会社員と今の私 PV

■このところ毎日聴いているCDが、サケロックの『ホニャララ』。 中でも好きなのが、「老夫婦」と「やおや」だ。 でも、ネットで探しても画像も音源も無料ではないみたい。試聴はできます。 「こちら」で。 このCDの中では、ラストに収録された「エブリデー・モーニン」も実に味わい深い、なかなかの名曲であるぞ!

2011年9月 9日 (金)

伊那市で撮影された映画のこと

■映画『大鹿村騒動記』は、長野県下伊那郡大鹿村でオールロケされた。この映画に限らず、最近立て続けに伊那谷で映画のロケがあったそうだ。なぜそれほど東京から3時間以上もかかる「この田舎」に映画のロケ隊がやって来るのか? それは、

「伊那市フィルムコミッション」があるからです。

ここのブログには載っていませんが、このほかに、


・三谷幸喜監督作品『ステキな金縛り』で、主演の落ちこぼれ弁護士役の深津絵里と落ち武者幽霊役の西田敏行が高遠町にある「山室鉱泉」でロケしたそうです。この撮影で、すっかり高遠が気に入った? 三谷幸喜さんは、この8月に再び高遠を訪れ、WOWOW開局20周年記念ドラマ『ショートカット』を撮影したとのこと。主演は、中井貴一と鈴木京香。助演に、NHK朝ドラ「ゲゲゲの女房」で、貧乏なマンガ編集者を好演した、梶原善


・さらには、来年初頭に公開予定の、山崎貴監督作品『Always 3丁目の夕日 '64』で、吉岡秀隆クンが実家(長野県出身という設定だった)を訪れるシーンが高遠町で撮影されたとのことです。


ツイッターで拾った「いろんな噂」によると、天竜町の飲み屋街のバーのカウンターで吉岡秀隆が飲んでいたとか、高遠町の居酒屋で三谷幸喜が飲んでいたとか、高遠町の西澤ショッパーズで鈴木京香が買い物していたとか、ナイスロード沿いの雑貨屋「グラスオニオン」に、ふらりと梶原善が訪れたとか……

なんか、楽しいね。


今度、高遠にはキャイーン!の「ウドちゃん」が一遍上人役で来るらしいし。


■でも、この伊那谷でロケされた映画は過去にもいっぱいあったのです。


有名なところでは、鶴田浩二主演『聖職の碑』。三浦友和、大竹しのぶも箕輪町に来たみたいです。

そうして、佐分利信、岸恵子主演『化石』小林正樹監督作品で、高遠城趾公園の満開の桜のシーンが撮られた。


それから、市川崑監督作品『股旅』。主演:萩原健一。共演:小倉一郎、尾藤イサオ。長谷村の廃屋を使ってロケされたそうだ。この映画のナレーションは、佐藤慶じゃなかったっけ。あ、違うみたいだごめんなさい。でも、この映画は傑作だったなぁ。時代劇としても画期的だったし、なによりも青春映画として素晴らしかった。結局、尾藤イサオは切られた刀傷から破傷風に感染して、痙笑しながら死んでいったのだったよ。(ネタバレ御免)

最近の映画では、妻夫木聡主演の『さよならクロ』のラスト近くのアルプスの遠景は、北アルプスじゃなくって、伊那市西箕輪から見た南アルプス仙丈ヶ岳だ。


マイナーなところでは、ホラー映画『ひぐらしのなく頃に・誓』が、旧高遠町役場、鉾持神社、山室鉱泉、竜東線沿いのレストラン「アルハンブラ」などで撮影されたもよう。


■テレビドラマだと、まだまだあるぞ。


『思えば遠くへ来たもんだ』(TBS・1981年)主演:古谷一行 は、高遠町でロケされた(天女橋あたり)。

『坊さんが行く』(NHK・1998年)主演:竹中直人、沢口靖子では、確か高遠町勝間のしだれ桜でロケされたように記憶している。


ちょっと古いところでは、


『怪奇大作戦』(TBS・1968年)「第12話 霧の童話」は、高遠町旧河南小学校、建福寺、蓮華寺ほかでロケされた。

これは以前にも書いた記憶があるが、当時小学生だったぼくは、高遠町の竹松旅館に泊まっていた勝呂誉、松山省二を見に行った。ただこの時は、岸田森は高遠には来ていなかった。残念だ。暗くなっても1時間近く竹松旅館の前で友達の中嶋達朗くんといっしょに待っていたら、勝呂誉さんが一人わざわざ外へ出て来てくれて、ぼくらにサインしてくれたのだ。うれしかったなぁ。テレビに登場するスター(大空真弓の元夫)を直に見たのは、この時が初めてだったと思う。

2011年9月 3日 (土)

映画『大鹿村騒動記』を伊那旭座で見た。

■毎週水曜日の午後は休診にさせていただいている。


週の真ん中に、個人的に自由に出来る時間があると何かと便利なのだ。例えば、歯医者さんへの通院。実際いま、伊那市駅前の「中村歯科医院」へ水曜日の午後通っている。


ただ、この8月末から10月末までの2ヵ月間は、毎年「上伊那医師会付属准看護学院」での小児看護の講義が水曜日の午後3時半から5時まで計8回あって、講義の予習準備とか試験問題を作ったりとか、けっこう大変だったのだ。まる10年間お務めしたのでそろそろ引退したいと思い、伊那中央病院小児科の木下先生に講師を代わってもらえないか打診したら、思いがけず快く引き受けてくれたのだ。木下先生、ほんと有難うございました。


■という訳で、今年は准看護学院の講義が9月10月の水曜日の午後は入っていない。ありがたいなぁ、ほんと。


で、かねてから映画館で是非見たいと思っていた、原田芳雄さんの遺作『大鹿村騒動記』が伊那旭座にかかっていたので、早速今週の水曜日の午後に伊那旭座へ行って見てきました。東映配給だったんだね、知らなかった。しかも! 前売り券なしで入場料が1000円均一。これって、けっこう英断だよなぁ。映画を見る前からすっごく得した気分だ。


映画館に入ると、思いのほか入場者が多い。と言っても、ぼくより年配の方々が10数人、既に着席していた。伊那旭座にしては「大入り」のほうなんじゃないか?


■場内が暗転し、スクリーンに光が照射される。最初はお決まりの「不法録画防止啓発ビデオ」だ。その次は、次回上映の映画の予告編かと思ったら、いきなし本篇が始まった。


美しい大鹿村の遠景をバックに白字で『大鹿村騒動記』のタイトルが縦書きで現れる。けっこう癖のある字だが下手ではない。味がある字だ。これはエンドロールで明かされることなのだが、主演の原田芳雄さんが書いた字なのだそうだ。


映画『大鹿村騒動記』は、伊那市長谷市ノ瀬から南へ「ゼロ磁場」で有名な分杭峠を超えれば、下伊那郡大鹿村となるのだが、その長野県に実在する「大鹿村」でオールロケされた映画なのだった。変に気負いがなくて、フットワークも軽く何気なくさらっと撮影された映画なのだが、往年の名優そろいぶみの贅沢なキャスティングで、主演の原田芳雄をもり立てているのだ。

ああ、いいなあ。ほんといい映画だった。満足しました。評点は、ちょっとオマケして星4っつ半! ★★★★☆


■やはり、映画の基本は「男2人女1人」の三角関係だ。古くは『冒険者たち』って、同じ話を「佐藤泰志」の小説『君の鳥はうたえる』『そこのみにて光輝く』の感想文で書いたばかりだな。


で、「この映画」もちゃんと「それ」を踏襲しているのだ。

ただ、圧倒的に違うことは、主人公を含む3人組(原田芳雄、岸部一徳、大楠道代)が、青春真っ直中にあるのではなくて、団塊世代の既に60歳を超えた「年寄り」であることだ。


■じつは「大鹿歌舞伎」を題材にしたドラマと映画が以前にもあった。NHK長野局が制作した単発ドラマ『おシャシャのシャン!』(2008年1月放送)と、後藤俊夫監督の映画『Beautyうつくしいもの』だ。

この『おシャシャのシャン!』には、原田芳雄さんも重要な役どころ(ヒロインの父親で大鹿歌舞伎では主役を演じる)で出演していて、この撮影で原田さんは実際に大鹿村を訪れ「大鹿歌舞伎」を知ったのだった。


このドラマもなかなかよくできた脚本で面白かったのだが、舞台で演じられる歌舞伎の演目の内容と実際のストーリーが絶妙にリンクしてラスト盛り上がる『大鹿村騒動記』の方に軍配は上がるな。ほんと、荒井晴彦と阪本順治の脚本はよく書けている。


■映画の中で演じられる大鹿歌舞伎は「『六千両後日文章』 重忠館の段」で、原田芳雄さんが主役を務めるのが「平景清」。おお! 知ってるぞ「景清」。落語の演目にある、あの「景清」ではないか! 桂米朝と桂文楽のCDで持っているし、新宿末廣亭で四代目三遊亭金馬が演じたのを生で聴いた。それに、何よりもあのNHK朝の連続テレビ小説『ちりとてちん』で、徒然亭草々が一生懸命稽古していた「ネタ」じゃないか。


落語では、腕のいい木工職人だった定次郎が失明してしまい、再び目が見えるようになりますようにと、清水の観音さんに願掛けで1000日通う。この観音さんは、むかし平家の落人の景清が「源氏の世は見たくない」と自分で両眼をくり抜いて納めたという所。その満願成就の日、結局定次郎の眼は見えるようにはならなかった。ところがその帰り道、空がにわかにかき曇り暗雲垂れ込め車軸の雨。ガラガラ、どしーん!と定次郎に雷が落ちた。さて、それから……


■映画に出ている役者がみな、一癖もふた癖もある渋い役者さんばかり。おけつ丸出しで温泉にダイブする岸部一徳、その鹿塩館の主人に小野武彦(「踊る大捜査線」スリーアミーゴスの人ですね)。そして、リニア新幹線誘致で対立する土建屋社長役の石橋蓮司と、中国の勤労研修生にバカにされている白菜農家の小倉一郎。久しぶりだなぁ、小倉一郎。『俺たちの朝』以来か。


あと、貫禄の三国連太郎。あのお歳で大鹿村のロケに参加されたのだなぁ。晩秋の大鹿村と青い空をバックに、三国連太郎が遠くシベリアの地で死に果てた友の墓に木彫りの仏を供えるシーンが重く美しい。


それから、何と言っても大楠道代がいい。原田さんと共演した鈴木清順『ツィゴイネルワイゼン』の時とぜんぜん変わらない色っぽさじゃないか。イカの塩辛の瓶詰め。いいなぁ。


若いところでは、松たか子もよかったが、『ちりとてちん』で徒然亭四草を演じて、一躍注目を集めた加藤虎之助がちゃっかり出ている。みなが一丸となって、主役の原田芳雄さんを盛り立てている。その雰囲気がスクリーンに溢れているのだ。


とにかく、スクリーンの原田芳雄さんがカッコイイ。

テンガロンハットにサングラス。それに黄色いゴム長靴。似合っているのだ。これ以外ないって感じでね。

彼は『ディア・イーター』という名前の鹿肉食堂をやっている。あはは! ディア・ハンターじゃなくってね。あと、原田さんが松たか子に「木綿のハンカチーフ」を歌って聴かせるシーンがあるのだが、何故か下手。あんなに歌が上手い人なのにね。可笑しかったな。


映画では案外、原田芳雄さんのアップシーンが少ない。わりと離れて画面の片隅に原田さんを配置している。アップは一番重要なシーンで使われるからだ。

もう一回、見にいってもいいかな。この映画。


【追伸】映画『大鹿村騒動記』の監督と脚本家「阪本順治 × 荒井晴彦 対談(前編)」  「阪本順治 × 荒井晴彦 対談(後編)」が、たいへん興味深かったです。


2011年8月24日 (水)

『そこのみにて光輝く』佐藤泰志(河出文庫)つづき

■先だっての日曜日、伊那市図書館へ行って「週刊読書人 8月19日号」を読む。「佐藤泰志ルネサンス」と題された特集は1〜2面全部を使ったたいへん力の入ったもので、作家の堀江敏幸氏と書評家岡崎武志氏との対談は非常に読み応えがあった。


同じく岡崎武志氏が、佐藤泰志の全作をレビューした『新刊展望6月号』は未読なので、なんとか読んでみたい。


あと、『本の雑誌8月号』の18ページには「すべての青春の人達へ」と題された、松村雄策氏による佐藤泰志トリビュートが載っている。この文章もいい。松村氏のいろいろな思いが込められていて実に読ませるぞ。


■以前にも書いたが、佐藤泰志は「男2人+女1人」が、あたかも偶然のように必然的に出会い、ひと夏を過ごす話(しかも、必ず彼らは海に行く)にこだわる。初期の傑作『きみの鳥はうたえる』の構造がまさにそうだ。これから読む予定の『黄金の服』は「男3人+女2人」の『ハチミツとクローバー』関係みたいだが。

そういう意味では『そこのみにて光輝く』は、まさにその「定型」に填め込んだ小説ではあるのだが、『きみの鳥はうたえる』とは作者は意識的に離れようと試みているところがまずは面白い。以下にその相違点をあげる。


1)舞台が東京近郊、中央線沿線「国分寺」あたりではなく、作者の生まれた故郷「函館」であること。

2)「男2人+女1人」が、決して三角関係にはならないという関係であること。つまりは、姉・弟とその友人。

3)「海」が出かけてゆく場所ではなくて、彼らの生活の場そのものであること。


4)『きみの鳥はうたえる』の3人が全員、21歳の青春真っ直中だったのに対し、この小説の主人公、達夫と千夏はやはり同い年ではあるのだが、既に青春とは言えない 29歳であること。


5)『きみの鳥はうたえる』の主人公は、いつも冷静でクールで、自分からは自らの状況を逆転するような思い切った行動は決してしない。そう、いつも俯瞰している傍観者なのだ。でも『そこのみにて光輝く』の主人公達夫は、いつも冷静でクールで無口ではあるのだが、自らの状況を自ら切り開いてゆく覚悟と決断力がある。


6)千夏と拓児の姉弟そして彼らの両親は、北海道の地方都市「函館」の中でも最も虐げられて蔑まれてきた、地元ではアンタッッチャブルな地域に居住する住人だ。この設定は、中上健次の「路地」の人々とつながってくる。しかし、中上健次の小説と決定的に異なることは、佐藤泰志の小説には「路地の熱狂」がないことだ。なぜなら、佐藤泰志の主人公は路地の外の人間であること。それから、千夏の家族以外の人々(親戚とか隣近所の住人)は一切登場しない。


■解説で福間健二氏が書いているが、『そこのみにて光輝く』という小説の最もすばらしいところは、「千夏」という女のキャラが立ちまくっていることだ。なんて「いい女」なんだ! バブル崩壊前の時代。すでに不況が始まり、函館最大手の企業「造船所」にもリストラの嵐が吹いていた。時代は忘れ去られた地方から翳りを見せていたのだ。そんな地方都市の郊外のゴミ貯めに、一点のみ「光輝く」のが、千夏なのだった。以下、読んでいて気に入った文章を引用する。

千夏が語気を強めて睨んだ。達夫は溜息をこらえた。千夏の顔を見た。女を感じた。怒りに満ちた眼が、整った顔だちをひときわ際立たせていた。たぶん、この女自身は知らないだろう。そう思うと欲望が達夫のなかで形を取りそうだった。


 千夏が煙草を砂に突き立てて消した。そして、もう若くはない、別に三十間近だからというわけではなく、青春はとっくに終わったわ、と話した。離婚のことをいっているのだ、と思った。


「何を考えているの」
 千夏が手を伸ばし、ついでおずおずと顔を胸に押しつけて来た。あの家を出たい、とささやいた。そのためなら何をしてもいい、と。


 眼の前で砂や小石の雪崩れている青黒い海面を見た。遠浅の浜のように構わず深みに足を運んだ。足元から不意に支えがなくなった。そのまま沈んだ。夏のざわめきとさっきの千夏の笑いが、あたりにまだ響いていた。どこまで落ちて行くのか。落ちろ、落ちろ、と叫ぶ声があった。両眼はひらいていた。砂や小石がどんどん流れ落ちてくる。底に足がついた。頭は海面に出ない。もっと落ちろ、という叫びが聞こえる。頭上を見上げる。鈍く陽が揺れていた。千夏が跳び込む姿が見え、海面が泡だつ。海水も陽も乱れた。跳び込んだ千夏の全身から、水泡が吹きでるように、一面を覆う。

 千夏は姉のように喋った。そして、顔をのぞきこんで、声を強めた。
「いいことなんて、ひとつもありっこないのよ。わかっているの。あんたもわたしももういい齢よ」

「いい気なもんだわ。男なんて腐るほど知っているのよ。たいてい腐っているわ、あんたもよ」

 達夫はヘッド・ホーンでひさしぶりにエリック・ドルフィを聴いた。まだひとりで暮らしていた頃の彼の唯一の愉しみだった。

■この時、達夫が聴いたエリック・ドルフィ。いったいどのレコードだったのだろう? と僕は思う。


これは断言できるのだが、けっして『アウト・トゥ・ランチ』ではない、ということ。
だとすれば、『ラスト・デイト』A面だろうな。


ブッカー・リトルとの「ファイブスポット」でのライヴ盤。vol.1 か、vol.2 のA面。
ぼくならそうするのだが。

『そこのみにて光輝く』佐藤泰志(河出文庫)

■忘れられた作家「佐藤泰志」の名前を初めて知ったのは、岡崎武志さんのブログでだった。まだ『海炭市叙景』の映画が完成するずっと前のことだたと思う。それ以来、函館出身の作家、佐藤泰志氏のことが気になっていたのだ。で、小学館文庫からでた『海炭市叙景』と、河出文庫の『君の鳥はうたえる』を読んだ。


そして、なんか気に入ってしまったのだ。佐藤泰志。この人、いいんじゃないか?


というわけで、3作目『そこのみにて光輝く』(河出文庫)を読了した。じつにいい小説だった。第一部の鮮烈なラストにも驚いたが、ぼくは案外「第二部:滴る陽のしずくにも」が好きだ。


 達夫は鉱山師の松本から潮風でボディに穴の空いた廃車寸前の車を4万円で買うが、エンジンがちっともかからない。仕方なく前の持ち主である松本を呼び出す。松本は、ほとんど「あうん」の呼吸の域まで達した男と女の機微みたいな感じで、運転手とじゃじゃ馬みたいな癖の強いボロ車のエンジンとの駆け引きを、無駄のない言葉で淡々と達夫に伝授する。この場面で2人の関係が一気に親密になるのだ。ここを読んで、佐藤泰志は巧いなぁと思った。


この「第二部」は、神代辰巳監督作品の『アフリカの光』を思い出させる。田中邦衛とショーケンの、どうしようもない男二人組。拓児はショーケンだ。絶対に行けもしないアフリカを夢見ている。金鉱を掘り当てて、一攫千金の人生が待っていると、じつはマジで信じているのだった。そういう拓児を、主人公の達也と山師松本は、困ったなぁと思いながらも決して排除(仲間はずれ)しないのだった。


達也が海岸で自分の人間関係に思いをはせるラストの余韻もいい。ほんといい。

以下、ツイッターからの転載。


『そこのみにて光輝く』佐藤泰志(河出文庫)を読み始めた。最初の部分は単行本を高遠町図書館から借りてきて、ずいぶん前に読んでいたのだが、文庫本を買ったので改めて読み始めた。猛暑の8月、函館は海岸通りが舞台だ。紫陽花と桔梗が同時に咲いている。「このあたりの地図」は『海炭市叙景』を読んで知っているのだよ。


・読みながら何だか懐かしい気分がしてくる。知ってる場所、知ってる人たち。主人公の達也。市場で行商をしていた父母は既に亡く、肉親は妹のみ。11年務めた造船所を早期退職して今は無職だ。これって映画版『海炭市叙景』の「まだ若い廃墟」兄妹の、あり得たかもしれない別バージョンじゃないか。


・この小説『そこのみにて光輝く』を映画化するとしたら、キャスティングはどうなるのか? 岡崎武志さんは、拓児:松山ケンイチ、達夫:妻夫木聡、千夏:小雪とすれば、ぜったい客が入るラインナップと書いているが、何だかそれじゃぁ『マイ・バック・ページ』じゃん。小雪はないだろ、絶対に。松山ケンイチと実の夫婦なんだから。


・ぼくのイメージでは、主人公の達夫は、西島秀俊か加瀬亮で、拓児はう〜む分からん。問題は千夏だ。難しい役だな。グラマラスなイメージはない。体躯は細身だ。キツイ目付きが魅力的なので、個人的には、梢ひとみか宮下順子なのだが、今のところ土屋アンナの雰囲気で読んでいる。ちょっと違うか。


・佐藤泰志『そこのみにて光輝く』(河出文庫)読み終わった。これはいい。好きな小説だ。暫く余韻に浸っていたい。どうもこの人の文章のリズム・テンポが僕に合っているのだ。タッタッタと一定のペースで走っている感じ。それにジャズの間合い、呼吸の感じ。そんな彼の文章がとても心地よいのだ。


・佐藤泰志『そこのみにて光輝く』が、もしも映画化されるとしたならば、そのキャスティングはこうだ! この際、NHK朝ドラ『おひさま』組でいったらどうか? 達夫:髙良健吾、千夏:満島ひかり。拓児:柄本時生。松本:串田和美、松本が別れた元妻:樋口可南子。拓児の母親:渡辺えり子。


■■この本に関して「ブクログ」に載った感想の中に、「ライトにした中上健次っていう感じ」というのがあって、上手いこと言うなぁと感心した。なるほど、当時の作者のねらいはそうだったのかもしれない。でも、ぼくがいま読んでみて感じたのは、中上健次の小説とはぜんぜん違った肌ざわりだった。(つづく)


2011年8月16日 (火)

『ジェノサイド』高野和明(角川書店)読了

■『ジェノサイド』高野和明(角川書店)を昨夜11時54分に読了した。
 足かけ3日で一気に読んだ。

「ページターナー本」とは、まさにこの本のことを言うのだな。
それから、壮大なスケールの「ホラばなし」であるということ。しかも、
「ホラ」であることは読者は判りきっているのに、読み込むうちに何時しか「リアル」にこの物語を信じ始めるのだった。これって、結構スゴイことじゃない?


こういうワールドワイドな冒険小説の傑作本が日本から生まれるとは、ビックリだ。


ふと思い返してみて、これほど読者の予測を裏切って最後まで圧倒的なリーダビリティを保証した日本の小説が最近あっただろうか? 個人的に思い出す小説は、『安徳天皇漂海記』宇月原晴明(中公文庫)か、『ワイルド・ソウル』垣根涼介(幻冬舎文庫)、あとは『ゴールデンスランバー』伊坂幸太郎(新潮文庫)ぐらいか。


それくらい『ジェノサイド』という小説は「大ホラ本」であるのだが、現代社会の矛盾をとことんまでリアルに追求した「ノンフィクション本」的な要素も多大に秘めている点が注目に値する。特に、プロローグから登場するアメリカ大統領バーンズは、ジョージ・ブッシュその人であり、副大統領のチェンバレンは、ブッシュ政権でのチェイニー副大統領を彷彿とさせる。


それから、いつまでたっても人間同士で殺し合いを続ける現世人類の「どうしようもないイヤな面」を、作者はこれでもかと見せつける。それは小説のタイトルとも呼応しているのだった。


■ただ、こういう荒唐無稽な構造を小説内に形成すると、直ちに小説のリアリティが瓦解ししてしまい、読者は小説についてきてはくれない。そのあたりの塩梅が、作者は巧みなのだった。巧妙に複線が張ってあって、ミスディレクションの罠もあるし、読者を煙に巻きながらもグイグイと引っ張って行き、終板に向けてその複線たちがみな見事に収拾されてゆき、破綻のない納得のいく物語となっている。いやはやまったく、この作者はただ者ではないぞ!


それから、CGを使ってレセプター(受容体)の立体構造を見極め、そこに結合して本来の反応をブロックする物質をコンピュータ上でデザインして新薬を開発する方法は実際にいま盛んに行われている。例えば、抗インフルエンザ薬の「タミフル」はまさにそうやって開発された薬だ。

インフルエンザ・ウイルスは最初「ぶどうの房」のようにつながって出来るのだが、ヒトの細胞から出るときに、ノイラミダーゼという酵素が「ふさ」をちょん切って1粒づつのウイルス粒子となって外に出て行く。「タミフル」は、インフルエンザ・ウイルス表面にあるノイラミダーゼが結合する部位に先にくっついて、酵素が反応できなくさせるのだ。

このため、ヒトの細胞内でウイルスがどんどん作られても、みんな「ふさ」でつながったままになり、細胞の外へ新たにウイルスが出て行けなくなる、という仕組み。じつによく考えられているのだった。

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