2013年2月13日 (水)

『想像ラジオ』いとうせいこう(文藝 2013 春号)読了

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■読み終わって、いとうせいこうさんは何て真摯な人なんだろう、って思った。テレ朝「シルシルミシル」に、居なくてもいいのに何となく画面に映っているだけの人かと思ったら、大違いだった。


いや、昔からその存在は存じ上げていました。宮沢章夫さん、竹中直人さんと、芝居をしていた人。マンションのベランダでガーデニングしている人。著書『ノーライフキング』とか、じつは一冊も読んだことないけれど、何故か昔から気になっていた人。

司会をしてるところとか見てると、どことなく糸井重里さんかと勘違いしてしまう人。「いとう」と「いとい」は似てるしね。

だから、何となくツイッターをフォローしていて、反原発デモでラップしているのを YouTube で見て、カッコいいなぁって思う人。

ま、そのくらいの認識しかなかったワケだ。ぼくの中では。
ホント、ごめんなさい。恐れ入りました。


よかったです。いや、ホント読んでよかった。
こういう小説を(勇気を持って)16年ぶりに書こうと決意し、しかも、書き上げてくれたことが嬉しいのです。ほんと、ありがとうございました。

じつはもっと変化球や癖球(クセダマ)を駆使して、技巧に満ちたカメレオン七変化みたいな小説を想像しながら読み始めたのだけれど、ところがどっこい、何のギミックもない「直球ド真ん中」じゃないですか!
ほんとビックリした。



     <閑話休題>

■ツイッターって、ラジオだと思ってきた。

誰もが「自分の言いたいこと」を勝手に放送する場所だからだ。
ただ、だからと言って「他の人の放送」に「耳を傾けたことがある」かどうかは疑問だな。自分だけが言いたいことの言い放し。パナシ!

誰も、自分のことだけでいっぱいいっぱいで、他人の呟きに「耳を澄ます」なんて余裕は全然ないのが今の時代じゃないのか? 実はそう思っていたんだ、最近ずっとね。

ツイッターで300人くらいフォローして、毎日彼ら彼女らの呟きを読んでみると、みな、じつは考えていることは同じなんだな。
「俺のはなしを聴け〜」。そう、クレイジー・ケン・バンドの「タイガー&ドラゴン」なワケです。

ほんと、そんな中で、

「俺の話を聴いてくれぇ!」って、空想ラジオで叫んだDJがいたんですよね。DJアークがさ。人知れず「杉の木」のてっぺんに仰向けで横になってさ。軽やかな一人語りがテンポよく、読んでいて何とも気持ちいい。まるで、春風亭柳好の落語を聴いているみたいな心地よさだ。



で、読みながら思い出したのだけれど、高校生の頃、深夜放送ファンだったぼくは「日曜日の深夜」が恐怖だった。何故なら、東京キー局はすべて日曜の深夜だけ放送を休止していたからだ。

当然、地方局も沈黙する。

そんな夜中に一人まだ起きているぼくは、とんでもない孤独を味わって恐怖におののくのだった。

ラジオのチューナーを左端から右端まで回しても、聞こえてくるのは「ヨビゲン、クッパミゲン、ゴ、スミダ!」という北朝鮮国営放送のみ。「おーい! 誰かいませんかぁ?」ラジオの前で一人ぼくは耳を澄ましている。
そう、あの頃ぼくは山を幾つも超えて遠くからやって来る電波を、信州伊那谷の高遠町で、深夜に必死で捕まえようと、ラジオから流れてくるDJの声に耳を傾けていたんだ。

それは、北海道のラジオ局だったり、仙台は東北放送から流れてきた、吉川団十郎の「そうだっちゃ!」っていう仙台弁(『うる星やつら』のラムちゃん以外で、この時初めて聞いたんだ)だったりした。

それから暫くして、日曜日の深夜午前2時過ぎに、日本中で唯一放送しているラジオ局を発見した。ラジオ大阪だ。うざったい男が二人でだらだらと喋っていた。それが『鶴瓶・新野の、ぬかるみの世界』


この放送を知ったぼくは、ようやく救われた。もう日曜の深夜に、日本中でただ一人だけ起きているかもしれないという果てしない孤独から解放されたからだ。

ぼくにとってのラジオとは、世界とつながっている「唯一の証し」だったに違いない。信州の山奥に居ながら、ラジオを通して解放されていたんだと思う。そういうことを、この小説『想像ラジオ』を読みながら思い出していた。


あと、ラジオの番組で重要なことは「ディスク・ジョッキーの選曲のセンス」ね。これ重要! 糸井五郎さんのオールナイト・ニッポンとか、林美雄アナの「ミドリブタ・パック」とか。聞いていてずいぶんと影響を受けたものだ。

そして、この小説に登場するDJアークも、抜群の音楽的センスをしている。モンキーズの『デイドリーム・ビリーバー』に始まって、ジョビン&エリス・レジーナの『三月の水』。三月の水だよ! 谷川俊太郎の『三月のうた』を最近聞いた時もドキっとしたけれど、そうか。『三月の水』か。曲調はあんなに穏やかで楽しい曲なのにね。

あと、『私を野球につれてって』は、このあいだ土岐麻子のヴァージョンで聞いたし、マイケル・フランシスの『アバンダンド・ガーデン』も、たしか聞いたことある。あと、モーツァルトの『レクイエム』と、松崎しげる『愛のメモリー』もね。

でも、ブラッド・スウェット&ティアーズ『ソー・マッチ・ラヴ』や、コーリーヌ・ベイリー・レイ『あの日の海』、ブームタウンラッツ『哀愁のマンディ』は聴いたことがなかった。早速、YouTube でチェックしてみようじゃないか。気になるからね。


DJアークがラストにかけた曲は、想像ネームSさんからのリクエストで、ボブ・マーリー『リデンプション・ソング』だった。

ぼくはこの曲、バンド・ヴァージョンでしか持ってなくて、ボブ・マーリーがギター1本で弾き語りしたヴァージョンを聴いたことがなかったんだ。想像ネームSさん(いとうせいこうさん自身ですね、きっと)のリクエストは、こっちの弾き語りヴァージョンだった。

YouTube を検索してみたら、あったあった。映像つきじゃん。


YouTube: Bob Marley - redemption song acustic


YouTube: Bob Marley - Redemption Song Live In Dortmund, Germany

■それから、『文藝 2013』p126 で、いとうせいこう氏がこう言っているのだ。

『中島岳志さんとたまたま飲んでるときにどんな小説を書いているか訊かれて、「言ってみれば死者論です」と答えたら、日本の思想史では死者論はとても少なくて代表的な作品はこれとこれですよと教えてくれた。それが自分

でちょうど調べて読んでいたものだったからありがたかったんですね。

不安で仕方なかったから。もちろん「死者と生者が抱きしめ合って生きていくしかないだろう」というのは自分の感覚をベースにしてますけど、何も分からず死者の話を書いてしまったらまずいなとも思っていた。』


で、中島岳志氏は、どの本を挙げたのだろう? 気になるなぁ。

これはたぶん確信をもって言えるのだが、その中の1冊は、『魂にふれる』若松英輔(トランスビュー)だったに違いない。


この本のことは、以前ぼくも取り上げたことがある。

「死者とともに生きるということ」


   死者は観念ではなく。実在である。

   それは思われる対象であるよりも、

   思う主体であり、

   呼びかけを待つ者ではなく、

   呼びかける者なのである。

            『魂にふれる』若松英輔(64ページより)

 

■未だ浮かばれぬ「死者たち」が、聴く耳を持つ「生者たち」と混然となりながら、DJアークの一人語りにポリフォニックに呼応し合うラストは、何だか凄く感動的だったりした。

そして、あぁ、それでいいんだ。

そう思った。

■追伸:昨日の夕方、伊那市立図書館に行って『群像3月号』を読んだんだ。創作合評で、野崎歓氏、町田康氏、片山社秀氏が『想像ラジオ』を批評していると、ツイッターで知ったからね。


でも、残念だったなぁ。町田康氏は、この小説を「オカルト」や「スピリチュアル」という言葉で括ろうとしていたから。


そうじゃないと思うよ。これほど論理的でリアルで、オカルトとも

スピリチュアルとも、最も遠くにある(作者は注意深く、そう誤解されることを避けるように書いている)小説はないんじゃないかな。


最後に、

「想ー像ーラジオー」って、節をつけてジングルしてみる。

イメージとしては、「ファー、ファー、ミー、ド、レー」かな?

「オールナイト・ニッポン」とか、
「パック・イン・ミュージック。TBS」とかね。

そんな感じで。

2013年2月 4日 (月)

父親の子育てに関する小説

■伊那市のNPO法人「こどもネットいな」が年に一度出している『ひとなる』という小冊子のために書いた文章なのだが、途中で書き進めなくなってしまい、自分でボツにしてしまったものです。でも、せっかく書いたのでここにアップしておくことにしました。お目汚し失礼致します。



小説に登場する「父親の子育て」

北原こどもクリニック 北原文徳

 

 平成10423日に伊那市境区で小児科医院を開業して、今年で15年になります。それにしても早いものです。あっという間でした。15年という年月が正直信じられません。ただ、開業時にまだ妻のお腹の中にいた次男がいま中学2年生で、当時1歳だった長男も高校1年生となり、今にも父親の背丈を追い越す勢いなのだから、子供たちの成長が、この15年の確かな証しなのだなあと、しみじみ感じています。

 

 本当に、子供はあれよあれよと大きくなります。6年前の夏、当時8月の終わりに鳩吹公園で毎年開催されていた「まほらいな地球元気村」に何回か親子4人で参加し、その機関誌『元気村通信』(2006年秋号 vol.42)に「父親の子育て」に関して文章を載せてもらったことがありました。個人的にすごく思い入れのある文章なので、すみませんが以下に再録させて頂きます。

 

 

 ぼくの父は、映画『東京物語』で山村聰が演じていたような町医者だった。夜中でも、日曜日でも、急患があれば年中無休で往診に出かけた。それが当たり前の時代だったのだ。だから、年の離れた二人の兄たちは、父親に何処かに連れて行ってもらった記憶があまりないという。でも、三男のぼくは違った。父は日曜日になると、ぼくを車に乗せてあちこちよく出かけたのだ。11年前に亡くなった父にその真意を確かめることはできないが、自分が父親になってみると、当時の父の気持ちが何となく判るような気がする。

 

 子供はあれよあれよと大きくなってゆく。長男は10歳になった。小2の次男もこの半年でぐんと背が伸びた。あと10年もしないうちに、二人ともわが家から巣立っていってしまう。一つ屋根の下、親子水入らずでいっしょに暮らす期間というのは案外短いのだ。ぼくの父はそのことに気が付いたに違いない。

 

 父が死んだ翌年の夏、ぼくの長男は生まれた。父親になったぼくは、赤ん坊を抱っこしながら、親子でキャッチボールをしたり、本気でプロレスごっこに興じる姿を思い浮かべた。さらには、渓流に二人して黙って釣り糸を垂れ、夜にはテント横の焚き火を囲んで、少し日焼けした息子の顔を見ながら「わんぱくでもいい。たくましく育ってほしい」そう思っている自分をイメージした。教条的な父親にだけはなりたくないな、そう思っていた。大好きな椎名誠さんの『岳物語』に多分に影響されていたからだ。

 

 あれから10年が経つが、現実は理想通りにはゆかない。4の字固めですら息子にかけられないし、コントロールの悪いぼくの投球は、息子のグローブの1m上空を越えて行く。先日の尾白川キャンプでは、満足にテントも設営できなかった。格好悪い父親だった。次男は一生懸命、彼なりに慰めてくれた。思春期の手前にさしかかった長男は、ちょっと冷ややかな目でぼくを見上げた。彼が父親を越えて行く日も近いのかもしれない。『十五少年漂流記』を息子が寝る前に読み聞かせしながら、ぼくはふとそう感じた。

 

 この夏、『川の名前』川端裕人(ハヤカワ文庫)を読み終わり、カヤックで川下りする話を思い出し、久しぶりに『続岳物語』を手に取った。やはりこの本は傑作だ。既に椎名私小説の最新作『かえっていく場所』を読んでいただけに、しみじみしてしまう。そうだ、俺は野田知佑さんを目指せばよいのだ。伊那のパパ'sにはうちの息子たちの他に元気のいい男の子が5人いる。彼らの「モ・ノンクル(僕のおじさん)」になろう! ちょっと不良な小父さんにね。

そう思ったら、少し気が楽になった。

 

 

 いま読むと、多分にアウトドアを意識した文章が可笑しいですが、あの時に西町の「アウトドアショップK」で購入した小川のテントも、長男が中学に入学した後は部活が忙しくて、結局一度も使われることなく裏のイナバ物置に収納されたままです。中学生になると、父親とはもう遊んでくれません。淋しいものですね。

 

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『続 岳物語』椎名誠(集英社文庫)も、椎名誠氏の長男「岳君」の中学入学式当日の場面で終わっています。愛読者としては『続々岳物語』を読んでみたかったのですが、さすがの椎名氏も、思春期の嵐真っ直中の中学生時代の「岳君」を小説の題材にすることはできなかったようです。やはり、父と子の蜜月時代は小学校までなのですね。

 この小説の中で僕が特に好きなのは、巻頭の「あかるい春です」と中盤の「チャンピオン・ベルト」。地の果てパタゴニアで椎名さんが息子のために手作りしたチャンピオン・ベルトを巡って、父と子で壮絶なプロレスの死闘が繰り広げられるのです。この部分、最初に読んだ時、ものすごくうらやましかった。

【図1『チリ最南端の町、プンタアレナスの金物屋「アギラ」で材料を調達した椎名誠氏自家製のチャンピオン・ベルト

 

 岳君は10歳になり、小学校高学年を通して、野田知祐氏から釣りやカヌーの手ほどきを受けます。野田さんは、この本の解説で「いい父親であるのは難しいが、いいおじさんであるのはやさしい」と書いていて、父と子の縦の関係よりも、小父と子の「斜めの関係」が案外重要であることを示唆しています。

 

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 父親と息子が登場する小説で印象的なのが『川の名前』川端裕人(ハヤカワ文庫)です。この作者は少年が主人公の話が本当に上手い。NHKでアニメにもなった『銀河のワールドカップ』(集英社文庫)もそう。

『川の名前』は、東京都内に住む夏休み前の小学生の主人公が、教室からふと窓の外を眺めると、多摩川支流のその川に「小さな恐竜」を一瞬見たような気がした。そして……というお話。これ面白いです。一気に読めます。川端さんの小説はどれもいいですが、ぼくが一番好きなのは『手のひらの中の宇宙』(角川文庫)。やはり父親と息子の物語ですが、時間と空間、生命と死といった深淵で壮大な世界を垣間見せてくれる不思議な小説です。

 

Photo_3  いま、ふと思い出した「父と息子」の短篇小説がありました。それは、昨年生誕100年を迎えた高遠町出身の小説家、島村利正の私小説『妙高の秋』です。これもいい。すごくいい。江戸末期、高遠城下で御用商人を務めた老舗海産物商の長男として生まれた島村氏は、文学への道をどうしても捨てきれず、父親の期待を裏切って家出のようにして高遠の家を捨てるのです。まだ14歳の3月初めのことでした。

そうした父と子の確執と和解を綴っていて、淡々とした文章でありながら、著者の胸の裡に去来する様々な思いを、読者は否応なく体感させられます。『仙酔島』『庭の千草』も、決して幸せではなかった祖母や叔母の人生を「あれでいいのだ」と肯定してあげる著者の優しさが心に沁みます。


 伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』(新潮文庫)は映画版もよかったですね。ある日突然、首相暗殺の犯人に仕立て上げられた堺雅人が仙台の街中を逃げ回ります。彼の実家に押し寄せたTVレポーターに向かって、父親の伊東四朗が言い放った言葉に泣けました。父親はこうでなきゃいけない。

「おまえ、雅春のことをどれだけ知ってるんだ?言えよ。どれだけ詳しいんだよ。信じたい気持ちは分かる? おまえに分かるのか? いいか、俺は信じたいんじゃない。 知ってんだよ。俺は知ってんだ。あいつは犯人じゃない。雅春、ちゃっちゃと逃げろ!」

 

Photo_4  小説ではありませんが、向田邦子『父の詫び状』(文春文庫)を読むと、明治生まれの頑固な父親像が、娘の目を通して様々なエピソードと共に印象的に描かれていて実に読み応えがあります。向田さんの文章は、読んでいて読者の五感に直接訴えてきます。食べ物の美味しそうなにおい、写真館で担任の先生の手が彼女の肩に触れた感触など、視覚聴覚以外の感覚(嗅覚、触覚、味覚など)もリアルに刺激されるのです。


 戦前の一家の家長として暴君のように威張って君臨した父親の人生。私生児として生まれ、親戚からは村八分にあいながら、母親の賃仕事で大きくなった惨めな少年時代。高等小学校卒で給仕として保険会社(第一徴兵保険)に就職。しかしその後、誰の引き立てもなしに会社始まって以来といわれる昇進を果たし、保険会社の支店長にまで登りつめるのです。以後、宇都宮→東京→高松→鹿児島→東京→仙台と各支店を家族と共に転勤してまわります。


中でも、鹿児島時代のエピソードが出色で、「ねずみ花火」「記念写真」「細長い海」あたりが実にすばらしい。向田邦子は、9〜10歳頃の前思春期時代のことを実に鮮明に記憶していてほんと驚いてしまいます。


せっかちで、空威張りで、それでいて涙もろく子供っぽいところもある父親のことを、向田邦子さんは一見すごく鬱陶しく嫌っているようでいて、その実ほんとうは愛おしく思っているのですね。

そして、彼女の振るまいの其処此処に父親の影を感じる自分がいる。父と娘。じつはよく似た二人だったのです。(未完)


■追記■

<取り上げる予定だった本>


・『なずな』堀江敏幸(集英社)

・『きつねのつき』北野勇作(河出書房新社)

・『13日で「名文」を書けるようになる方法』高橋源一郎(朝日新聞出版)


2013年1月24日 (木)

「炭酸水」製造器は、ほんと便利だ!

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「GLASS ONION」で、クリスマスプレゼントとして妻に買ってもらった「SodaSparkle ツインボトルスターターキット」 が、とても重宝している。これはいいや。

液体二酸化炭素のカートリッジ(1本 50円)をセットして、微炭酸なら 1.3L、強炭酸水は 1L できる。


炭酸好きのぼくは、西友で「PEPSI NEX ZERO」1.5L や、350ml のアルミ缶入り炭酸ソーダに、500ml のペットボトル「クラブソーダ」を、テルメに行った帰りに必ず買って帰るので、わが家は「ペットボトル」が山のように貯まってしまうのだった。

ビン、缶、ペットボトルの回収の日には、うちのペットボトルだけで回収箱があふれてしまうので、妻は「恥ずかしい」と、いつも言っていた。


でもしかし、この「SodaSparkle」を購入後はペットボトルを全く買わなくなったのだ。子供らも「おとうさん、炭酸水作って」と言っては、毎晩「カルピスソーダ」を楽しんでいる。妻も機嫌がいい。よかったよかった。

2013年1月17日 (木)

「古今亭志ん朝・大須演芸場CDブック」を聴く

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■せっかく書いた文章が、アップする前に接続が切れてしまったため、消えてしまった。頑張っていっぱい書いたのに、やれやれ。


高遠の兄から『古今亭志ん朝・大須演芸場CDブック』を借りてきた。これは凄いな。CD30枚組。豪華ケース入り。


志ん朝師が、経営悪化で四苦八苦している名古屋大須演芸場の席亭を救うべく、1990年10月から 1999年11月までの10年間、毎年秋に大須演芸場に出向き「三夜連続独演会」を開催した。

いつもは閑古鳥が鳴く大須演芸場も、この時ばかりは大入り満員だったそうだ。晩年の志ん朝師は、浅草演芸ホールでの夏の「住吉踊り」と、秋の名古屋大須演芸場での独演会を何よりも大切にしていたという。


■小林信彦『名人 志ん生、そして志ん朝』(朝日選書)を読んだので、大須演芸場での独演会のことは知っていた。実際に行って聴くことのできた人たちが、ものすごく羨ましかった。

その大須演芸場の「音源」が、まさかこうして公に出るとは思いも寄らなかった。


もともと、雑務で忙しい席亭が個人的に後で聴くために志ん朝師に頼んで師の公演をカセットテープに録音させてもらったもので、その年によって録音状況がずいぶんと異なっている、いわば私家版のブートレクなのだ。

だから、演目によっては音は極端に悪い。


でも、その欠点を補っても余るほどに、この「音源」を聴くことができた喜びは大きいな。

なによりも「マクラがたっぷり」なことが出色だ。

それに、リラックスしてくつろいだ普段着の志ん朝師が感じられる。

独演会とはいえ、大須演芸場の「場」が醸し出す「雰囲気」が、志ん朝師をいつになく普段の「寄席」での高座の気分にさせたのであろう。


それに、晩年の志ん朝師の高座を、これだけ沢山の演目と共に集めた音源は他にはないはずだ。そこが貴重。

2013年1月13日 (日)

佐々木昭一郎をリスペクトする映画監督たち


YouTube: 映像の詩人 佐々木昭一郎 (1/2)


YouTube: 映像の詩人 佐々木昭一郎 (2/2)


■この映像は、日本映画専門チャンネルが 2006年6月に「佐々木昭一郎の全作品」を集中放送した時に制作された特別番組だ。この時はまだCSを見る環境になかったので、こんな特集が組まれていたとはちっとも知らなかった。

今は「日本映画専門チャンネル」を受信できるから、なんとかもう一度「佐々木昭一郎特集」を企画してもらえないだろうか。ぜひとも。


■ところで、この『映像の詩人・佐々木昭一郎』には、彼をリスペクトする若手映画監督のインタビューが出てくる。塚本晋也、河瀬直美、是枝裕和の3人だ。インタビューの時間は短いが、どれほど衝撃を受けたかがよく分かって面白い。


2013年1月11日 (金)

『東京ジャズメモリー』シュート・アロー(文芸社)(その2)

■『東京ジャズメモリー』の著者は、ぼくより4つ年下だ。だから微妙に「同じ渋谷」でも印象・記憶が少し違うのかもしれない。


ぼくが「BLAKEY」に通っていた頃は、第2章に登場する、渋谷「SWING」は、百軒店『ムルギー』左隣『音楽館』の斜向かいにあった。宇田川町の輸入レコード店「CISCO」の地下へ移転したのは、それから暫くしてからのことだ。

自由が丘の「ALFIE」は、ぼくも一度だけ行ったことがある。たしか、デヴィッド・マレイ『ロンドン・コンサート』が鳴っていた。

あと、この本でうれしいのは、巻末に載っている「昭和55年頃の渋谷ジャズ喫茶マップ」だ。そうそう、東急本店通り(今は何て言うんだ?)の右側のパチンコ屋横の狭い階段を地下に降りて行くと、ジャズレコード専門店「ジャロ」があったあった。南口から「メアリー・ジェーン」を探して行ったこともある。渋谷界隈限定のディープでローカルな「ジャズ体験」が個人的に泣けるのだなぁ。


■ちょうど、『ポートレイト・イン・ジャズ』村上春樹・和田誠(新潮文庫)を同時に再読していたから、余計にそう感じたのかもしれないが、センチメンタルでメランコリックで思い入れたっぷりの村上春樹氏の文章と比べて、『東京ジャズメモリー』の著者、シュート・アロー氏は案外あっさりとした文章を書く。いや、良い意味で「泥臭くない」のだ。

江戸っ子の粋とでも言うか、照れもあるからなのか、語りすぎないのだね。そこが「この本」のカッコイイところだと思った。


■それから、とにかく文章が上手い。さすがに音楽を生業としている人だけあって、読んでいて「息継ぎが楽な文章」を書く人だ。

氏の筆が乗ってくるのは、中盤の「田園コロシアム」の項あたりから「新宿西口広場のマイルス」のあたり。都会人でクールなはずのアロー氏が、思わず熱く熱く語ってしまっているのだ。(以下、引用)


 なお、ピクニック気分でビールを飲みながらジャズを楽しむというコンセプトの斑尾高原ジャズフェスティバルが(バドワイザーがスポンサー)、田コロにおけるライブ・アンダーの終焉に合わせたかのように、1982年から開催されたのは偶然なのであろうか。(中略)

 2010年代に至っては、バーはもちろん、居酒屋、食堂、ラーメン屋、すし屋といった飲食店以外にも、本屋、雑貨屋、美容院、床屋、ホテルのエレベータ内などなど日本中いたる所にジャズが溢れかえっている。

しかしジャズブーム、ジャズライブが盛況、CD販売好調、ジャズファンが増加といったニュースは聞いたことがない。あくまでも手軽で耳あたりの良いBGMになりさがってしまっている。

 一方、昔ながらの大音量でジャズを聴かせるジャズ喫茶に至っては、全くの瀕死状態だ。たまに本格派ジャズ喫茶に行くと客はほとんどが中高年の男性で、若い男女はほとんど見られない。というよりそもそも客がいないことが多い。

残念ながらジャズ喫茶はすでに過去の遺物、化石、マイク・モラスキー氏の『ジャズ喫茶論』で言うところの ”博物館” となりつつあるというか、なってしまった。(p91〜92)



■ぼくは田園コロシアムも復帰後のマイルスも、直接聴きに行ったことはない。(レコード・CDは持っている。)

斑尾ジャズ・フェスティバルは、ぼくが北信総合病院小児科に勤務していた夏に「第3回」が開催されて、見に行った記憶がある。1984年のことだ。斑尾のジャズフェスはその後もずいぶんと頑張って続いた。1989年〜1991年は、飯山日赤小児科に在籍していたので、3年間毎年見に行った。

僕が尊敬するジャズ評論家の大御所、野口久光氏にサインしてもらったのも、この時の斑尾(夜のジャムセッション)でだ。いま考えてみると、確かに信じられないくらい「いい時代」だったのだなぁ。

シュート・アロー氏が主張するように、1981年頃の日本のジャズ状況が「日本ジャズ史において恐らく最も多くの人々がジャズに親しみ、楽しみ、盛り上がった時代であり、少なくとも戦後におけるジャズブームのひとつとして語り継がれる必要があるはずである。」のかもしれない。


■ところで、この本の著者は、某楽器メーカー勤務の匿名サラリーマンなのだが、著者が新人時代に勤務した渋谷店が道玄坂にあったこと(いまはない)、本社が浜松にあること、著者がマイク・スターンやネイザン・イーストと懇意であることなどから考えると、シュート・アロー氏は「ヤマハ楽器」に勤務されているのではないか。うん、たぶんそうに違いない。

2013年1月 9日 (水)

『東京ジャズメモリー』シュート・アロー(文芸社)と、ジャズ喫茶「BLAKEY」のこと(その1)

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■この本『東京ジャズメモリー』のことを知ったのは、例によって『週刊文春』の読書欄「文春図書館」最終ページの連載『文庫本を狙え!』坪内祐三のコーナーでだった。以下、少しだけ引用する。

文芸社というのは自費出版を中心に刊行している版元で、文庫サイズのこの本も自費出版かもしれない。

 だがとても面白い。

 まず渋谷を中心とした東京本として楽しめる。

<僕が高校入学した昭和53年(1978年)は、渋谷三角地帯がまさに再開発され、109 が建設されている最中であった> と書いているから著者は昭和37年生まれ、私の4歳下だ。だから私の見て来た風景と重なる。(中略)

 

渋谷の百軒店にあった BLAKEY というジャズ喫茶(1977年開店 82年閉店)。「扉を閉めて外部からの光を遮断してしまうと、大袈裟ではなく真っ暗で何も見えないのである。一般に暗いとされる『占いの館』や遊園地のお化け屋敷よりも暗い」。

「目が慣れるまで暗くて全く何も見えないにも係わらず、マスターが席まで誘導するというごく当たり前な行為も一切なかったので、一応客であるはずの僕らは中腰で自ら手探り・足探り? で空いている席にたどりつかねばならなかった」。

「店内のところどころに客の気配、人影を感じるのだが基本的にほとんど動かず石のように固まっている。」

 1980年代の渋谷は白くピカピカしたイメージがあるがまだこのような空間も残っていたのか。(後略)

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■ぼくは、坪内氏の「この文章」を読んで、ビックリ仰天した。


大学に入りたての頃、茨城から週末になると常磐線に乗っては上京し、池袋文芸座で土曜の夜のオールナイトを見て、始発の山手線で寝ながら3周半ぐらいして、午前9時半の「ブレイキー」開店を待ったものだ。

もしくは、当時「目蒲線」西小山に住んでいた次兄の部屋に泊めてもらって、渋谷に出かけて行った。

ハチ公口からスクランブル交差点を渡って道玄坂を上がって行き、「百軒店」の看板を右折する。当時、そのすぐ左手には、グルメ評論家の山本益博氏が絶賛したことで有名になる前のラーメン店「喜楽」があった。(小綺麗なビルになっていまもある)

右手に「道頓堀ヌード劇場」。渋谷なのに、なぜ「道頓堀」なのか? いまだに謎だ。坂を登り切った正面が、印度料理店『ムルギー』だ。

『ムルギー』の話は、たぶん何度もしたので今日は省略する。

■今日の主題は、そう、ジャズ喫茶「ブレイキー」のこと。

当時、茨城県新治郡桜村在住だった僕が、たぶん一番ジャズの勉強をさせてもらった道場みたいな場所が、渋谷百軒店ジャズ喫茶「BLAKEY」だった。あの頃、筑波にはまだジャズ喫茶はなかったのだ。(『AKUAKU』がオープンしたのは、1979年9月9日のこと)

ネットで「BLAKEY」のことを検索しても、そのうちの半分は「ぼくが書いた文章」という有様。そうか、誰も知らないんだ、渋谷百軒店ジャズ喫茶「BLAKEY」のことなんて。

ぼくはずっとそう思ってきた。ところがどうだ! この本『東京ジャズメモリー』の巻頭に、いきなし「BLAKEY」が登場しているではないか!
ほんと、ビックリした。(amazon「クリック」なか見!検索で、その部分が読めます。)


で、とってもうれしかった。

僕だけじゃなかったんだ。あのジャズ喫茶で修業して、いまだに忘れられないでいるジャズ・ファンがいたんだ!

「ブレイキー」のことは、「2009/09/09」の日記  にも書いた。

1982年8月号の『Jazz Life』(写真)にも投稿した。以下転載。

 4月。久しぶりの渋谷。ハチ公口からスクランブル交差点を斜めにつっきって 109 方面へ。つぎつぎとすれ違う、都会のねぇちゃん達の群に感動したり、ため息ついたり。考えてみると、初めて、JAZZ を聴きにこの街へ来た5年前には 109 なんてなかったし、「道頓堀ヌード劇場」のわきの坂を登っていっても、すれ違うのは、上役サラリーマン風の男と、まだ顔のほてりを隠しきれない OL の2人づれぐらいだった。
 
 百軒店界隈もどんどん変わっていくねぇ、などと感心しながら、まずは『ムルギー』のたまご入りカレーで腹を満たす。よし、ここだけはまだ大丈夫。おっと、それからもう一軒。『音楽館』のかどを右へ折れると、目指す JAZZ喫茶『ブレイキー』。

 ……と、あれっ、ない。『ブレイキー』が無い! 音のしない2階の方をただポカンと見上げていると、人の良さそうなおじさんが階段を下りてきた。

「あ、ここ、今度、ふつーの喫茶店になるんだよ」 「つぶれちゃったんですか?」

 「……そーいう言い方しちゃいけないな。都合でやめたんだ。あんた、よく来てたの、そう、じゃあこれからもよろしくね」
 おじさんは忙しそうに、また2階へ消えていってしまった。

 「エ~~、ウッソ~~」ほんとうにそう言いたかった。日本じゅう、いろんな所を旅したけど、やっぱりここが一番、いつもそう思っていた。レイ・ブライアント、ジュニア・マンス、ワーデル・グレイ、リー・モーガン、ビリー・ホリデイの『レディ・イン・サテン』。それに、もちろん、ドルフィー、アイラー、コルトレーンにロリンズ。それからマレイ、アダムス、ビリー・バング。僕のレコード棚はみんな『ブレイキー』で聴いたレコードばっかしだ。

 ミンガスが消えた時も、モンクがいなくなった時も、ちっとも悲しくなんかなかった。だって、いつでもレコードで会えるもの。一体、どうしてくれるんだい、えっ、『ブレイキー』さん! JAZZ もとうとうおしまいだね、なんて深刻に考えてしまったではないですかい、えっ。わざわざ東京へ出ていっても、もう行くところがないんですよ、えっ。

 取り乱しちゃって失礼しました。最近、ちょっと酒乱ぎみなもので。まあ、でも、いつか知らない街角からあの ALTEC 612-C モニターのハード・ドライビング・サウンドが再び聞こえてくることを、切に願っている今日、このごろのわけで。
            (Jazz Life/ 1982年8月号)より

■ただ、ちょっと気になるのは、ぼくが通っていた頃は(1977年〜79年)何も見えないほど「真っ暗」ではなかったことと、マスターは小柄だけれど痩せていて、角刈り(五分刈り?)で黒縁の四角いメガネをかけていた。

だから、この本に登場するマスター(ボサボサの長髪で無精ひげをはやし、丸眼鏡をかけた小太りのマスター)と、とても同一人物とは思えないのだが。昼と夜とで人が交代してたんだろうか?

いや、確か夜行った時も「同じマスター」にしか会ったことはないぞ。

2013年1月 6日 (日)

『紅い花』つげ義春・原作、佐々木昭一郎・演出

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■むかし録画した『四季・ユートピアノ』を探しているのだが、どうしても見つからない。代わりに、佐々木昭一郎が「その1本前」に撮った『紅い花』が見つかった。この頃から彼はずっと「川の流れ」にこだわっていたんだなぁ。久しぶりに見入ってしまった。平成15年3月14日「NHKアーカイブス」で再放送されたもの。


NHKで『紅い花』が放映されたのは、1976年。ぼくはこの時、初めて佐々木昭一郎のドラマを見た。つげ義春の漫画を「ガロ」で読んでいて、興味があったからだ。いま見ても不思議なドラマだなぁ。つげ義春の「ゲンセンカ館主人」「沼」「古本と少女」「ねじ式」そして「紅い花」を、ひとつにまとめてある。これがまた、じつに良く出来ているのだ。


主役の女の子、沢井桃子さん。ツイッターで『紅い花』&佐々木昭一郎で検索したら、昨日の1月5日付「朝日新聞」に写真入りで記事が出ているとのこと。ほんとだ。なんでも、30年ぶりで女優業に復帰したという話。それにしても、不思議なシンクロニシティだなぁ。


ところで、佐々木昭一郎はBGMに凝る。

『四季・ユートピアノ』では、マーラーの4番の第四楽章のテーマ。

『春・音の光』では、チャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」。『川の流れはバイオリンの音』は何だったけなぁ?

そうして、この『紅い花』では、ドノヴァンが使われている。これがいいんだよ。

2013年1月 1日 (火)

去年、ほんとによく聴いたCDたち

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■新年、明けましておめでとうございます。
 本年もどうぞよろしくお願いいたします。


■昨年よく聴いたCDたち。 左から縦に(順不同です)

  震災後に幾多のミュージシャンが「コンセプト・アルバム」を出したが
  このCDは、被災者の哀しみに寄り添う姿勢が本物だと判る音造りがな
  されていると思う。静かでスローテンポの曲で統一されていて、こんな
  にも切ない「禁じられた遊び」は、これまで聴いたことがない。
 
  ラストの「しゃぼんだま」は、彼らが震災前にコンサートで訪れた
  北茨城市が野口雨情の出身地であることから選ばれた。報道ではあま
  り取り上げられないが、北茨城市も地震と津波の被害は大きかったの
  だ。
 
2)『ハンバートワイズマン』 このCDがたぶん一番数多く聴いたかな。

3)『俳句・椅子』ワサブロー 高遠でワサブローさんのコンサートができ
   て、ほんとうに幸せだ。ワサブローさん、ありがとうございました。

4)『リトルメロディ』 七尾旅人 これも傑作。


6)NO NUKES JAZZ ORCHESTRA  これも傑作。

7)『オラトゥンジ・コンサート』 ジョン・コルトレーン


9)『夏草の誘い』ジョニ・ミッチェル 今年は「巳年」だしね!

2012年12月31日 (月)

破滅型の天才白人ジャズマン、ビックス・バイダーベック

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『ジャズ・アネクドーツ』ビル・クロウ著、村上春樹・訳(新潮文庫)を読んでいる。ジャズマンのいろんな逸話を集めた小話集なのだが、前半は期待したほど、とんでもない「おバカ野郎」があまり登場せず、案外みんなマジメなんだなぁって、ちょと残念に思った。

そしたら、やっぱりいたんだ! 愛すべきおバカ野郎が。


彼の名は、ビックス・バイダーベック。


 ビックス・バイダーベックはコルネットを美しく生気溢れる音で演奏した。エディ・コンドンはそれを「イエス、と言っている娘みたいな」音だと表現している。ビックスはレコードにあわせて吹くことによってその楽器を習得した。そしてトーンとフレージングのまったく独自なコンセプトを発展させていった。

ほかのジャズ・ミュージシャンのほぼ全員がルイ・アームストロングの呪縛下にあったその時代にである。ビックスはシカゴに住んでいて、その当時アームストロングもまたシカゴで演奏していた。彼はルイの演奏を耳にして、心を引かれた。しかしそれにもかかわらず独自のスタイルで演奏を続け、多くの追従者たちを生み出した。(『ジャズ・アネクドーツ』p247 〜 p261)


■ビックスは、子供の頃から上の前歯が「差し歯」だった。でも、歯医者に行くのが嫌でずっとそのままだったから、成人してからしょっちゅう「差し歯」が抜け落ちた。咳をしたり、頭をさっと振ったりしただけで、すぽっと外れてしまうようになった。前歯がないとラッパは吹けない。


差し歯なしには彼はただの一音も吹けなかった。どこで仕事をしていても、バンドの連中が床にしゃがみこんでビックスの差し歯を探し回るというのは毎度の光景だった。

あるとき、シンシナティーで明け方の五時、雪の積もった道路を1922年型のエセックスで進んでいるときに、ビックスが「車を停めろ!」と叫んだ。ワイルド・ビル・デイヴィソンとカール・クローヴが一緒だった。まわりを見てももぐり酒場はない。「どうしたんだよ?」とデイヴィソンが訊いた。「歯をなくしちまった」ビックスが言った。

彼らは車を降りて、積もったばかりの雪の中をしらみつぶしに探した。ずいぶん長く探し回ったあとで、デイヴィンソンが雪の上の小さな穴を目にした。歯はその穴の中にみつかった。それは静かに道路に向かって沈んでいく途中だった。

ビックスはそれを口の中にはめ込み、みんなは「ホール・イン・ザ・ウォール」に向かった。彼らはそこでポークチョップ・サンドイッチとジンのために毎朝演奏をしていたのだ。ビックスがその歯を固定してしまわないのは、とくに驚くべきことではなかった。彼は歯医者になんか行くような人間ではなかったのだ。(中略)

バイダーベックの心を引きつけていたのは音楽とアルコールで、それ以外のことはほとんど眼中になかった。身なりにもまったく関心がなく、きちんとした服装を要求される仕事が入ったときには、しばしば問題が生じた。



ビックス・バイダーベックが活躍したのは、1920年代のこと。アメリカの禁酒法時代。いわゆる、華麗なるギャツビーの「ジャズ・エイジ」だ。
そんな時代だったのに、ビックスは酒好きで、しかもとんでもなく大酒飲みだった。

1929年。大恐慌がやって来る。ビックスがポール・ホワイトマン楽団の地方巡業で稼いで銀行に貯め込んだ貯金も、すべて水の泡となった。

あとは、破滅型ジャズマンおなじみの転落の道まっしぐら。アルコール中毒が進行し、まともにラッパも吹けなくなってしまって、ニューヨークの友人のアパートメントに転がり込んだバイダーベックは、弱り切った身体を肺炎にやられ、あっけなく死んだ。享年28。


■ビックス・バイダーベックのことは、村上春樹が『ポートレイト・イン・ジャズ』和田誠・村上春樹(新潮文庫)の中でこう書いている。
 
 ビックスの音楽の素晴らしさは、同時代性にある。もちろん音楽スタイルは古い。でも彼の紡ぎ出す、真にオリジナルなサウンドとフレージングは、古びることがない。その音楽がたたえる喜びや哀しみは見事にありありとしていて、こんこんと湧き出る泉のような潤いは、今ここにいる僕らの心の中に、躊躇なく、何のてらいもなく沁み込んでくる。それは懐古趣味とは無縁なものだ。
 
 ビックスの音楽を耳にした人がおそらく最初に感じるのは、「この音楽は誰にも媚びていない」ということだろう。コルネットの響きは奇妙なくらい自立的で、省察的でさえある。ビックスがじっと見つめているのは、楽譜でも聴衆でもなく、生の深淵の中にひそむ密やかな音楽の芯のようなものだ。そのような誠実さに、時代の違いはない。

 ビックスの偉大な才能を知るには、たった二曲を聴くだけで十分だ。

"Singin' the Blues" と "I'm Comin' Viginia" 。素敵な演奏はほかにもいっぱいある。しかし異能のサックス奏者フランキー・トランバウアーと組んだこの二曲を越える演奏は、どこにもない。それは死や税金や潮の満干と同じくらい明瞭で動かしがたい真実である。たった三分間の演奏の中に、宇宙がある。(『ポートレイト・イン・ジャズ』p78 〜 p83)



■『ジャズ・アネクドーツ』(新潮文庫)には、ビックスが酒を飲み過ぎた時の話、密造酒を取りに行って列車にひかれそうになった話、電車を乗り間違えて仕事に間に合わなくなった時の話、死期が近い頃の心温まる話、死後55年経ってからの話など、それはそれは面白い。


読むと彼のラッパの音がどうしても聴いてみたくなる。

でも、ぼくは今まで「この人」全くのノーチェックで、CDもレコードも持ってないし、ちゃんと聴いたこともなかった。いや恥ずかしい。

1920年代〜1930年代の古い演奏を集めた『ジャズ・クラッシックス・マスターピース』(Emarcy / CD4枚組)は持っていたので、もしかして収録されているのでは? と、出してきてみたら、あったあった、2枚目にフランキー・トランバウアーとの"Singin' the Blues" 、3枚目にホワイトマン楽団での "San"がそれ。

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