CD『ハンバート・ワイズマン!』より「おなじ話」の話。
■このあいだの日曜日、中学2年生の次男を車に乗せて松本のゼビオに向かう途中、先日購入したばかりの『ハンバート・ワイズマン!』を何気にかけたのだ。
そしたら、1曲目の「おなじ話」が始まってしばらくしてから、後部座席に座っていた次男が言った。
「これ、幽霊のはなし?」 「スルドイなお前! なんで分かったんだ? 彼女がもういないってこと。この曲はね、ハンバートハンバートの名曲中の名曲なんだよ。」
ぼくは感心しきったぞ。 「おなじ話」は、ハンバートハンバートの曲の中で一番知られた代表曲だ。幾つかバージョン違いがあるが、やはりオリジナルCD『11のみじかい話』1曲目に収録されたものが一番いいと思っていた。(シングル盤に収録された別アレンジのアコースティック版は『ハンバートハンバート シングルコレクション』Disc1 5曲目に入っている)
■しかし、ここ連日ずっと午前も午後も繰り返し繰り返し『ハンバート・ワイズマン!』のCDを聴いていたから、この最新ヴァージョンが案外一番いいんじゃないかと確信したのだが、今晩久し振りで「オリジナル演奏」を聴いてみてビックリした。 オリジナルはテンポが思いのほか速いのだ。「えっ?」っていうくらい速い。 それだからかもしれないが、女性ヴォーカルが冷たく「つっけんどん」な印象もつよい。もう、心ここにあらず、といった感じなのだ。
そして、この曲に関しては聴いていて「何とも不安で不穏な男女の居心地の悪さ」を感じてしまう。しかも、最終的には「この男女」は別れるみたいだし。そういう「どうにもならない切なさ」を歌った曲だと理解して正しいと思う。 ただ不思議なのは、「歌詞が不自然」なことろが多々あって、それがどうにも気になっていた。
彼女は、「いるのにいない」し、「いないのにいる」のだ。 という状況を矛盾なく説明するには、うちの次男が言うように「彼女は幽霊なのだ」って、解釈するしかないのではないか。 そう思った根拠は、内田樹センセイが著書『村上春樹にご用心』の中の、p58で「村上春樹の作品はほぼすべてが『幽霊』話である」と看破していることと関係している。
■ハンバートハンバートの名曲「おなじ話」に、なぜ人々が共感して涙を流すのかというと、それは村上春樹の小説を読んで「じん」とくる「切ない喪失感」と同じだからではないのか。つまりこの曲は、「死者と交流」する話なのだ。
■死者との交流で思い出したのだが、じつは、ハンバートハンバートは「そういう曲」をいっぱい歌っている。 「大宴会」「喪に服すとき」「陽炎」。そして、高田渡の「ブラザー軒」。
「東一番町、ブラザー軒。たなばたの夜。キラキラ波うつ硝子簾の向こうの闇に」「死んだおやじが入ってくる。死んだ妹をつれて 氷を食べに、ぼくのわきへ。」(菅原克己・作詞、高田渡・作曲「ブラザー軒」より)
あ、そうだ。今夜は七夕だったね。 という訳で、何度も繰り返し聴いてみて「おなじ話」に関しては最新盤がやっぱり一番しっくりくるんじゃないかと思ってしまう。ジャマイカのロックステディのリズムがスローでゆるく、切ない曲なんだけれども何とも心地よい。
YouTube: おなじ話 総天然色バージョン - ハンバートハンバート×COOL WISE MAN
もともと佐藤良成の「ぶっきらぼうな歌声」は、スカ〜ロックステディのリズム、ブラスアンサンブルと相性はよいはずだし、母親になって、なんか吹っ切れたような力強さを感じさせる佐野遊穂の歌声には、オリジナル版よりも不思議と人間的な暖かみがあるのだ。ホントは幽霊なのにね。あったかいのだよ。聴いていて。そこがいいんだ。
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