フランスで認められたシャンソン歌手「ワサブロー」コンサート
■いよいよ開演「1ヵ月前」となりましたので、こちらでも告知させていただきます。
あの、「ワサブローさん」のコンサートが、高遠で実現することになりました!
■高遠町で生まれた、知る人ぞ知る作家「島村利正」の不思議なご縁で、ぼくはワサブローさんと知り合ったのでした。そのあたりの話は、以前このブログに書いたのだけれど、まとめてまた載せますね。すみません。
・「ワサブローさんのブログ」
■いよいよ開演「1ヵ月前」となりましたので、こちらでも告知させていただきます。
あの、「ワサブローさん」のコンサートが、高遠で実現することになりました!
■高遠町で生まれた、知る人ぞ知る作家「島村利正」の不思議なご縁で、ぼくはワサブローさんと知り合ったのでした。そのあたりの話は、以前このブログに書いたのだけれど、まとめてまた載せますね。すみません。
・「ワサブローさんのブログ」
■長年BBQをやってきて、ひとつ自信がついたことがある。「炭の火おこし」だ。最初のころは、ずいぶんと苦労したものだ。ここがお父さんの腕の見せ所なんてね。でも、今やガスバーナーを使えばものの10分で炭に火が付いてしまうのだった。
何も額に汗して、火吹き竹で「ふーふー」する必要はないのだよ。
ただ、その弊害もあって、必要以上に炭を熾してしまうのだな。最近。
だから、いつも焼くものが全てなくなった後に、ちょうどいい遠赤外線を発する熾火が完成してしまうことが、ほんとうにもったいない。
■今回は、まずはグリーンファームまで行って買ってきた、虫食いかも?トウモロコシ5本入り(¥250) を、網に乗せてハケで醤油を付けながら焼く。やっぱ、焼きトウモロコシが最高。
続いては、ベルシャイン伊那で仕入れた、ニジマスとブラックタイガーに岩塩を振りかけて遠火で焼く。とにかく川魚は「遠火の加減」が一番重要なのだ。
さてあとは、焼き鳥でしょ、国産黒毛和牛カルビに、カナダ産の牛タン。ベルシャインではめったに見ない「牛タン」が2パック残っていたから、あわてて買い物籠に妻が入れたのだが、これは正解だったね。ほんと旨かったぞ。
そうして、シメのデザートは、マシュマロ焼き。これもわが家の定番です。犬のレオも、この夜は一緒に(物干し竿に繋がれてだけれど)野外でのBBQに最後まで参加してました。
■今日の日曜日は、パパズ久々の遠征だ。メンバーも5人全員そろって倉科さんの車に同乗。午前8:30、伊那発→中央道→長野道→信州中野インター下車→国道18号をさらに北上→信越線「牟礼駅」→飯綱町町民会館「元気の館」着(午前10:30)
<本日のメニュー>
1)『はじめまして』新沢としひこ(鈴木出版)
2)『いろいろおふろはいり隊!』穂高順也・作、西村敏雄・絵(教育画劇)→伊東 3)『あなのなか』森あさ子(岩崎書店)→北原
4)『かごからとびだした』いぬかいせいじ・文、藤本ともひこ・絵(アリス館)
5)『どうぶつサーカスはじまるよ』西村敏雄(福音館書店)→坂本
6)『いいからいいから 2』長谷川義史(絵本館)→宮脇
7)『うちのおばけ』谷口國博・文、村上康成・絵(世界文化社)
8)『ちゃいますちゃいます』内田麟太郎・作(教育画劇)→倉科
9)『ふうせん』(アリス館)
10)『世界じゅうのこどもたちが』(ポプラ社)
■帰路、中野インター前の「JA産直センター」で、きのこ、ブドウ、おやき、ねまがり竹水煮をお土産に購入。
倉科さん、長距離ドライブありがとうございました。
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■飯綱町子育て支援センターの小林さんからメールをいただきました。こういう感想を聞かせていただけると、ほんとありがたいです。感謝です。
昨日は楽しい時間をありがとうございました。
参加者88名(大人38名、子ども51名)でした。参加者のアンケート(24枚回収)
・全員のかたからとても楽しかったという感想をいただきました。
・大人も子どもも楽しめました。音楽にのせて、絵本の世界をとても楽しく感じることができました。
・始まった瞬間から気持ちのよいリズムときれいなハーモニーで絵本を聞くことができました。
・男性の低くてあたたかい声での読み聞かせ、とても心地良かったです。
・絵本、歌、手遊びのコラボ、初めてでとっても楽しかったです。あっという間の一時間でした。
・それぞれの方の絵本の選び方がステキでした。
・伊那からは遠いですがまた来てくださいという声も沢山ありました。
・久しぶりにこどもと一緒にいい時間がすごせました。2歳の息子は音楽にのりのりでした。
本日、子育て支援センター利用された方からもお話がありました。
・夫婦と子どもで参加された方(母親より):昨夜主人がはじめて子ども(1歳6ヵ月)に絵本の読み聞かせをしました。たどたどしかったけどとてもうれしかったです。また、長野などで伊那さんのライブがあったら行きたいです。とお話いただきました。
本当にありがとうございました。飯綱町のも、こんなグループができたらステキですね。 子育て支援センター、小林悦子
■いろんな人が誉めていたのでね、これは映画館で見ようって、決めていたんだ。そしたら、伊那「旭座」で上映中じゃん。で、お盆休みの最後の日に妻と次男と3人で見に行ってきた。
アニメ映画なのに2時間もあったから、旭座の座席が例によってスプリングが硬く、尻が痛くなってしまいちょっと辛かった。でも、映画は2時間全く飽きさせることなく面白かったぞ。
ネタバレなしで感想を書くのは正直不可能な映画だ。
でも、見て直後の感想をツイッターに書いたので、以下に載せます。
今日の午後、伊那「旭座」に映画『おおかみこどもの雨と雪』を見に行く。木曜サービスデイで、大人1200円、中学生1000円だった。ラッキー。映画は泣けた。なんか切なくってやるせなくって……。無償の愛。子育てって、そういうものかもしれないなあ。
あと、ラストで流れるアン・サリーの歌がよい。子育て真っ最中の母親の気持がよくでていた。こんなにもこんなにも、子供たちのことを思ってあげてるのに、一人で勝手に大きくなったみたいな気になって、家を出て行く。
YouTube: おかあさんの唄【歌ってみた】おおかみこどもの雨と雪/主題歌
0歳児と5歳児の母であるらしい「愛書婦人会」さんの感想を読んだが、う〜む。なんか違うんじゃないか。クーヨンもシュタイナーも本筋とは関係ない。大切なことは、おおかみこどもは確かに「あっ」という間に大きくなるけど、人間の子供だって、あれよあれと大きくなるよ。親子が同じ屋根の下で暮らす、いっしょにいる期間、時間て、じつは本当に短いんだよ。
だからこそ、いまここの親子の時間を、子供たちも、母親もそれぞれに掛け替えのない、二度と戻らない切実な時間として大切に忘れないで欲しい。そういう映画なんじゃないか。
■ネットでこの映画の感想をいろいろと読んでみたが、思いのほか賛否両論だったので驚いた。確かに僕自身も見ながらいっぱい引っかかる点がある映画だったので、大絶賛するつもりはなかったのだが、それでも大いに感心したから「4つ星半」を進呈する。
正直、子供を育てたことのない独身の若者には「わからない」映画だと思った。ただ、もしかして勘違いし、子育てしてみたいなぁ、なんて思った若者もいたかもしれない。そしたら儲けもんだな。
意外だったのが、案外、現在子育て真っ最中の「おかあさん方」の評価が厳しいことだ。あれだけ「母親礼賛」の映画だというのにね。
で、つらつら考えを巡らせてみて気が付いたのだが、彼女らは、近い将来訪れるであろう「子別れ」をリアルに想像できないのではないか? ということ。
■少子化のこの時代、最も成功した子育ての結果として、ロンドン・オリンピックを見た人が何人いただろうか? たぶん、何万人もいたんじゃないか?
例えば、卓球の愛ちゃん。それから、柔道の中矢力のおかあさんを見よ。
子供がまだ小さい頃から、母親が全てを支配して、母親の思うとおりに我が子の人生を導いてゆく。それって、子供にとってはいい迷惑だよね。たぶん、そうした母親の思いに正しく応えることができた子供って、オリンピック選手になって、メダルを取るくらい稀なことなんじゃないかと思う。
つまり、成功例はマレだっていうこと。
じゃぁ、母親支配に失敗すればどうなるのか?そういう例は、世の中ごまんとある。
例えば、引きこもりの40代男性。
それから、先だって亡くなった絵本作家、佐野洋子さんの母親「シズ子さん」。「女ねずみ小僧シリーズ」で一世を風靡した小川真由美の娘が書いた『ポイズン・ママ―母・小川真由美との40年戦争』や、斉藤環『母は娘の人生を支配する―なぜ「母殺し」は難しいのか』(NHK出版)を読めば、たぶんよく判ると思う。(ぼくはまだ読んでいないけれども)
つまりは、それだけ我が子の人生を支配しようとする母親が多いということだ。
それに対して、この映画は容赦なく「否」を突きつける。
■個人的には、「ここ」が一番大切なんじゃないかと思った。子供は子供自身の人生を生きて行く。それは決して母親が引いたレールの上には決してないのだよ。
たぶん、現在子育て中のお母さんは、その事実をじつは認めたくはないんじゃないか。
■追記:あと、この映画を見た感想で、ぼくが感じたもろもろのことを、うまく文章にしてくれたサイトを以下に挙げます。勝手に引用ごめんなさい。それから、決定的に「ネタバレ」ですのでご注意ください。
1)「おおかみこどもの雨と雪」に見る、絶望的なまでの父性と野生の喪失
「おおかみこども」は傑作でした。徹夜明けで観たのに寝なかったし。僕の睡眠採点法では★★★★1/2。ちなみに「ダークナイト・ライジング」は★★★★。前半寝たから。
しかし傑作といえども何点か問題はある。韮崎が登場するなり菅原文太にしか見えない件と、「花」がずっとアメ玉を頬張っている件。母性神話を体現する崇高なヒロインなのに…
感想は色々あるけど、やっぱり「キャラの孤独な出立」を繰り返し描く点はパヤヲっぽい。あと「水」関係の描写! 画面の湿り気がハンパない。台風と雨が嫌らしいほどリアル。台風の午後の”ほの明るい”あの感じも。
伊藤剛のいわゆる「マンガのおばけ」ならぬ「アニメのおばけ」のマジックも素晴らしい。とくにカーテンごしの雪の変身シーン。これはテクスチャー抜きでキャラが描けるアニメ絵の勝利。メリダの頭髪を一本単位でレンダリングするピクサーには無理だろうな。いや観てませんけどもあっちは。
おおかみこどもは可愛いけど、それは爪とか耳とか鼻とかまでの話。もし雪の密生する体毛が実写やCGで描かれたら、きっと草平でも「ちょwケモノとかwwマジ勘弁」と謝るレベル。むろん草平がケモナーという裏設定もありです。
ただ草平の発言「ケモノくさい」はヤバい。リアルなら雪は三〇代まで自己臭症とか引きずりかねない。そもそも前思春期に「女の子」を選んだ時点で、体毛の密生するオオカミの身体は徹底して抑圧されるはず。
あ、でもオオカミなので思春期はないのか。動物には青年期も老年期もないか、あってもごく短いからね。あ、でもそうすると雨も雪もドッグイヤー的に短命になるのかな。それは嫌だな。
母性に関して。オオカミなので自立も早いし本能もあるから教育もたいして必要ない。身体が決定的に異質な個体に自然な愛着が湧くとも考えにくい。そもそも子育てに費やした人工的努力の総体が母性なのであって、そこにはかけらも『自然』などない、という作者のメッセージが聞こえたが幻聴かも知れない
母性神話については、リン・ラムジー監督「少年は残酷な弓を射る」がお勧め。これぞ母性のディストピア。ありえないのにホラーな感じは、母性神話支配の強固さを逆照射する。いやパンフに解説書いただけなんですけども。
「おおかみこどもの雨と雪」、ポスト「隣りのトトロ」と言っていいかもしれない。トトロの飛翔感に対してこちらには疾走感がある。トトロでは里山は精霊と人とが出会う場所だが「雨と雪」は精霊と人が別れる場所なのだ。ただし、「雨と雪」は子供の物語ではない。妻であり母でもある女性の物語。傑作。
■テンプル・グランディンの『動物が幸せを感じるとき』を読んで一番面白かったのは、動物の「情動」をよく理解することが、人間が動物と共に暮らす上で最も重要なことだと言っていることだ。
もちろん、動物にも「情動」はある。それは主に4つ。「探索」「怒り」「恐怖」「パニック」だ。
この本で特に面白かったパートは「動物園」に関して彼女が語った部分。動物園でわれわれがよく目にするのは、動物たちの「常同運動」だ。ライオンが檻の右端から左端へ行ったり来たり繰り返す動作がその代表。
動物園に限らず、ケージの中のマウスやハムスターも常同運動を繰り返す。何故か?
彼女は言う。それは「探索」という情動欲求が満たされていないからだと。動物はみな、結果よりも「それに至るまでの経過」で満たされる。それが「探索」だ。
動物の中で最も長距離を探索し続けるのは、ホッキョクグマだ。オオカミも探索のための行動範囲は広い。
オオカミを祖先にもつ「犬」も、「探索」が大好きだ。だから朝夕の散歩が欠かせない。
わが家にやって来た生後3.5ヵ月になったばかりの子犬も、散歩が大好きだ。「さんぽ」という言葉を耳にすると、狂喜乱舞して飛び跳ね、しっぽがちぎれそうになるくらい振る。
首輪とリードを付けて外に出ると、室内ではほとんどしない動作を繰り返す。鼻をクンクンとあらゆる場所の臭いを嗅ぎまくるのだ。外の世界には犬の嗅覚を刺激する臭いに満ちているのだね。それに、わが家の前の道は「近所の犬の散歩銀座」みたいになっていて、他の犬がマーキングして残していった臭いもいっぱいだ。
そうした臭いの強い場所でいちいち立ち止まっては、クンクンクンクン臭いを嗅ぐ。リードを持つ(嗅覚の弱い)人間としては、何でそこまで嗅ぐのかさっぱり判らないのだが、面倒がらずに彼の「探索」情動をちゃんと満たしてあげることが実は大事なのだね。
いろいろと勉強になるのだった。
■ 1ヵ月以上も前のことだけれど、7月10日のツイートから以下転載。
テンプル・グランディン著『動物が幸せを感じるとき』(NHK出版)を読んでいる。著者は、オリヴァー・サックス『火星の人類学者』にも登場する高名な動物学のコロラド州立大学教授で、高機能自閉症であることをカミングアウトした女性だ。
彼女は、人間の気持ちを推察することは、ほとんどできないけれども、動物の気持ちは、直感的にごく自然と理解できるという。牛でも馬でも、犬でも猫でもね。
テンプル・グランディンで有名なのは、牛が屠殺場に入った時に、できるだけ死の恐怖を感じさせないような通路と牛を安心させつつ包み込むように押さえつける装置を開発したことだ。
わが家に犬がやってきて、なるほどと思ったのだが、うちの子犬は眠くなると人間の太腿の間に頭を突っ込んで、体を周囲から適度に圧迫されると、不思議と落ち着いて心休まるみたいなのだ。人間の赤ちゃんだって、古代から「スウォドリング」と言って、布でぐるぐる巻きにして泣き止ませてきた。
『動物が幸せを感じるとき』(NHK出版)を読んでいて驚いたことは、オオカミは実は群れをなして行動する動物ではなく、家族単位で移動するのが普通なのだという。つまり、群れのリーダー(アルファ=猿の群れで言えばボス)はいず、父母兄弟の関係があるのみだとのこと。へぇー知らなかった
だから、オオカミを祖先にもつ犬も、群れの中のヒエラルヒーを正しく認識して、自分の立ち位置を決めているとばかり信じられていたのだが、どうもぜんぜんそうじゃないみたい。あれま。
■これにはじつは承前があって、以下は 6月15日のツイートから。
本当のことをいうと、犬は苦手なのだった。トラウマがあるのだ。明瞭な記憶があるから、保育園児の頃だと思う。同じ町内の菓子屋「甘水」で飼っていた黒犬、エスの頭を撫でようとして右手親指の付け根を噛まれたのだ。痛かった。3針縫った。
それから1年もしないくらいだったか、父親が知り合いの家から柴犬の子犬(オス)をもらってきた。次郎と名付けられた柴犬は、僕をバカにしきった。わが家の序列の中では、次郎は自らの立ち位置を「下から2番目」と認識したからだ。もちろん、彼の下が僕だ。
だから、僕が次郎の散歩に連れて行くと、家を出るなりいきなし僕の足首に噛みついて「てめぇ、俺の言うことを聞けよな!」っていう態度に出た。だから、当時ぼくの足首は傷だらけだったのだ。
ただ、柴犬「次郎」は短命だった。ジステンバだったか、わが家に来て2〜3年もしないうちに死んでしまった。次にわが家に来たのも柴犬だった。僕は小学校の高学年になっていた。子犬ではなく既に成犬。なんか性格がいじけた犬で、前の飼い主が名付けた名前「コロ」を踏襲した。彼は長生きした。
柴犬コロが死んだのは、ぼくが高校生の頃だったから、わが家に来てから7〜8年は生きたのではないか。当時、次兄は高校生で忙しかったから、朝夕のコロの散歩は僕の役目だった。コロは次郎と違って、僕の足首を噛むことはなかった。彼なりに僕のことを認めてくれていたのだと思う。
■で、そのテンプル・グランディンが『動物が幸せを感じるとき』(NHK出版)の「犬」のパートで主張していたことと同じ話がこの本、『犬はあなたをこう見ている』ジョン・ブラッドショー(河出書房新社)に載っていることを中日新聞日曜版の読書欄で知って、あわてて購入したのだった。
訳文は読みやすいのだが、長くて厚くて、1ページあたりの活字も多く、最初のページから真面目に完読するのはちょっと厳しい。という訳で、少しだけ拾い読みしてみた。
■犬の祖先はオオカミだ。これは間違いない。
では、野生のオオカミを人間は何時からどうやって飼い慣らしたのだろうか?
この本の 63~64ページを見ると、こんな記載があった。
フランスのアルデンシュ県にあるショーヴェ洞窟は、先史時代の壁画で有名だが、その奥に50m ほど続く8歳から10歳くらいの少年の足跡が残されている。そしてそこには、少年と並んで歩く大型のイヌ科の動物の足跡も残っていて、少年とイヌ科の動物の親しい間柄を物語っているのだ。
イヌ科の動物の足跡は、犬とオオカミの中間の形をしている。少年が手にしていたたいまつのすすによる年代測定で、足跡が刻まれたのは26,000年前とされた。おそらくヨーロッパで最古の人間の足跡だろう。
少しだけ想像をめぐらせると、ひとりの少年が忠実な(原始の)猟犬を連れ、壁に描かれた野生動物の壮大な絵が見たい一心で、勇気をふりしぼって洞窟の奥へと進んでいく様子を思い描くことができる。(『犬はあなたをこう見ている』より引用。)
もう少し続く予定。
■ハンバートハンバートの代表曲『おなじ話』が、なぜ「おなじ話」というタイトルなのか? ということに言及した発言を未だ読んだことがない。
でも、じつは答は意外と簡単で、主人公の男性が、死んでしまったかつての恋人と会話をする設定だから、そこには全く意外性も未来もなくて、発展性のない主人公サイドだけの「いつもの同じはなし」にならざろう得ないのだね。つまりはそういうことだ。
■今日の「信濃毎日新聞」朝刊文化欄に興味深い記事が載っていた。「死者と生きる ---生者と死者の新たな関係を紡ぐ言葉---」と題されたその記事は、共同通信の配信か、それとも信毎独自の記事なのか、検索してもネット上ではまだ読めないみたいなので、勝手にここで転載させていただきます。
多くの死者、行方不明者を出した東日本大震災から2度目の夏。時がたつにつれ、大切な人を亡くした被災者の喪失、その悲しみを置き去りにして、「復興」ばかりが声高に叫ばれてはいないだろうか。今、生者と死者の新たな関係を紡ぐ言葉が、静かに浸透し始めている。私たちは、死者とともに生きている、と。
大学職員の小原武久さん(56)は、宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区の自宅にいた27歳の息子を津波で亡くした。「現実を受け入れられず、夢を見ているような毎日でした」。職場の大学の准教授に手記の執筆を依頼されたのは、震災から3ヵ月がたったころ。同僚が帰った夕暮れ時の職場で、一人パソコンに向かった。在りし日の面影、必死で行方を捜した日々がよみがえり、悲しみが胸を満たしていく。「そのとき、息子が語りかけてくれるような感覚があったんです。息子と2人の時間を過ごし、一緒に書いている。そんな気がして」
死者とは、協同する不可視な「隣人」である--- 。批評家の若松英輔さんは著書「魂にふれる」でそうつづった。「人は死者を思うとき、決して一人で悲しむことはできない。なぜなら、そこには必ず死者がいるから」
若松さん自身も一昨年、妻をがんで亡くした。「死者は存在するという問いは大きな仮説。でも私に取っては実感です」。そこにあるのは「死者によって終わるのではなく、死者として生まれる」という感覚だ。悲しみとは「死者が近づいてくる」合図であり、逆に言えば「悲しみこそが死者の存在を保証している」。
今この瞬間も、言葉も音も持たない死者の「声」を待ち続け、沈黙の渦中にある人々がたくさんいる。その沈黙そのもにに大きな意味がある、と若松さん。「沈黙に至らざるを得ない経験、その苦しみを1歩生きたとき、自分の横に死者がいると感じるのだと思う」
同書で若松さんは「死者と生きることは、死者の思い出に閉じこもることではない。今を、生きることだ」と書いた。死者とは困難を解決してくれる人ではなく、困難とともに歩いてくれる人だと。「死者に支えられ、助けられた人間はいつか必ず誰かを助ける。悲しみ尽くした人は誰よりも人の悲しみを分かってあげられる。今、これ以上の希望があるでしょうか」
哲学者の森岡正博さんは著書「生者と死者をつなぐ」で「死者とともに生きているというリアルな感覚」をこう描いた。「ふとした街角の光景や、たわいない日常や、自然の移りゆきのただ中に、私たちは死んでしまった人のいのちの存在をありありと見出すのだ」
宗教も、肉体から抜け出る魂の存在も信じていないという森岡さんは、近代以降の日本の死生観に不備があったと指摘する。「われわれは言葉になる以前の感覚として多くの人が持っているものに、言葉を与えられてこなかった」。むしろ、魂の存在や、お盆に死者が帰ってくるという儀式は、この「原体験の感覚」が基本にあり、それを説明するため、後から「発明」されたと考えることもできるのではないか。
生者と死者が出会い、交わるということ。それは一方で「われわれが大切にしてきた伝統的な感受性」だという。例えば、世阿弥の「夢幻能」は、死者が能面をかぶって生者の前に現れ、語りかけ、舞う。「死者の声をどう聞くかというテーマを能は描いてきた。そうした感受性をもとに、死者とともにあるということを、今の視点から言葉に置き換えていく作業が必要です」と森岡さん。
「いわく言い難い感覚であるため、口にしたり、考えたりするのはおかしいのではないかと思っている人々に、それはあり得るんだよ、そこから開けてくる生命観もあるんだよ、と伝えたい」(2012年8月8日付、信濃毎日新聞朝刊13面より)
■ところで、同じようなことを、ずいぶんと昔から繰り返し言ってきた人が他にもいた。
内田樹先生だ。
今日の午後、伊那の TSUTAYA で買ってきた『昭和のエートス』内田樹(文春文庫)を読んでいたら、「死者とのコミュニケーション」(p209) というパートがあった。読んでみたら、過去に同じ文章を読んで「うんうん、そのとおり!」と思った記憶がある。
そうさ。死者とともに生きることができるということが、人間という生物の最も高貴な性質に違いないのだから。
■先週の金曜日に、苗場フジロックフェスティバルに出演した「ハンバート・ワイズマン」。なかなかに評判がよかったらしい。アップされた「ブログ記事1」や「ブログ記事2」や「ブログ写真」を見ると、その雰囲気がよく伝わってくるぞ。
YouTube: ハンバートハンバート× COOL WISE MAN - おなじ話@FUJI ROCK '12
■このメンツで、7月3日にNHK「みんなの広場 ふれあいホール」で公開収録されたライヴが、7月29日(日)の深夜に放送された。
これがすっごくよかったので、再放送の際にはぜひ録音したいと思ったのだ。
で、今日の午前中10時〜11時に、NHKFMで再放送されたものを、なんとか無事エアチェックすることができた。よかったよかった。何せ、ラジオ番組を録音するのは、ほぼ30年ぶりなのだ。
■昔は、ラジカセで簡単にエアチェクできたのに、これが今はどうやっていいのか、さっぱりわからない。
「radiko」や、NHKなら「らじる★らじる」を使ってインターネット経由でラジオを聴くことは簡単だ。ところが、macでインターネットラジオを録音するのはちょっと面倒そうなのだ。う〜むどうしたものかといろいろ検索してみたら、iPad でなら簡単に録音できることがわかった。
アプリ「TuneIn Radio Pro」だ。これが本当にスグレものアプリだった。ただ、聞けるラジオ局が国内では超マイナー局に限られていて、radikoで聴けるメジャーな局はほとんどカバーしていないのが欠点。ただし、NHKは大丈夫。海外のラジオ局は、iTunesのラジオと同様なのだが、now playing の演奏者&曲名とCDジャケットが見られるのがうれしい。
そうか、iPad はラジオとしても使えるんだね。
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