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2012年9月

2012年9月29日 (土)

今日、土曜日の午後3時「ワサブロー島村利正を語る」トークイベントがあります

■ほとんどアナウンスされていないので、たぶん誰も知らないと思うのですが……、


今日、9月29日(土)午後3時から「信州高遠美術館喫茶室」にて、シャンソン歌手ワサブローさんと作家・島村利正のご子息である嶋村正博氏と、その妹さんによる「島村利正の魅力を語る」というトーク・イベントが開かれます。

主催は高遠町図書館で、先週開催された「高遠ブックフェスティバル」の関連イベントです。興味のあるかたはぜひご来場ください。ただし、美術館入館料500円が必要です。ぼくも行きます。


■このところ、少しずつ読み続けてきた島村利正。感想をツイートしているので以下に転載しておきます。

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高遠町で生まれた作家、島村利正氏に関する文章を拾遺している。やっぱり、詩人の荒川洋治氏の文章が沁みるなぁ。『忘れられた過去』(朝日文庫)P123「『島村利正全集』を読む」と、『いつか王子駅で』堀江敏幸(新潮文庫)解説。


今夜は、伊那中央病院夜間小児一次救急の当番だったのだが、子供は少なかった。すみません、持って行った『青い沼』島村利正(新潮社)より「北山十八間戸」を読了。この邦枝という女性と、鎌倉時代に僧侶忍性が癩病患者のために建てた施設「北山十八間戸」とがミステリアスにリンクして不思議な余韻。


こういう施設が存在したことを、今日まで全く知らなかったのだよなぁ。「北山十八間戸」。島村利正の小説では、ここからの奈良東大寺大仏殿の眺めが重要なポイントとなっていた。


「おんなは狡いんです。結婚して、その幸福に浸りながらも、そのなかでひそかに、自分だけが感じた別のひとの眼のひかりが忘れられない……北京へゆく前に、どうしてもあなたに、さようならだけ云っておきたかったんです」って、何という女の身勝手さ。島村利正氏はこういう女が好みだったのか。


『秩父愁色』島村利正(新潮社)より「板谷峠」を読む。変な小説だな。中央省庁のノンキャリ主人公がキャリア上司の汚職事件の責任を被って冬の山形山中に自殺しに行く話なのだが、思いもよらない方向に展開する。落語「死神」の逆バージョンとでも言うか。不思議と印象に残る小説。


『秩父愁色』島村利正(新潮社)で最も印象的なのは、やっぱり「鮎鷹連想」と、あの3月10日東京大空襲の直後に、島村氏が本所深川で見た壮絶な焦土の風景を綴った「隅田川」の2篇だと思う。


島村利正『秩父愁色』(新潮社)から、表題作を読む。う〜む。暗い! ラストで微かに救われるが。続けて『妙高の秋』島村利正(中央公論社)より「暗い銀河」を読む。う〜む。もっと暗い。救いもないぞ。それにしても、この2作に登場するヒロインに絡む男は、ほんと最低な奴だな。いじいじねちねち。


そこいくと『妙高の秋』収録の「みどりの風」や『青い沼』収録の「乳首山の見える場所」はいい。結構気に入っている。童貞青年をいたぶる中年年増の女の身勝手な残虐性、ヰタ・セクスアリス。


島村利正『奈良登大路町・妙高の秋』(講談社文芸文庫)より「神田連雀町」「佃島薄暮」の連作を読む。これはよかった。妹に婚約者を奪われたヒロインは、叔母が嫁いだ犬吠埼の旅館、北島館に身を置かせて貰う。既に叔母は亡く、60半ば過ぎで脳卒中後のリハビリ中の義理の叔父の介護をさせられる。


叔父と姪の関係とはいえ、血は繋がっていない。ヒロインは34歳だった。そして…… それから……。というような話だ。この連作の発端となった短篇が『清流譜』(中央公論社)に収録された「潮来」なのだが、これは未読。読まなきゃな。


最近になって初めて、向田邦子の『父の詫び状』(文春文庫)を読んだ。正直たまげた。こういうエッセイがあったのだ。上手い、巧すぎる。続いて『向田邦子の恋文』向田和子(新潮社)を読む。向田邦子は生涯独身であったが、それには深い訳があったのだ。


昭和25年、向田邦子が実践女子専門学校を卒業して最初に就職した先が教育映画を作る「財政文化社」だった。そこで、カメラマンのN氏と出会う。彼には妻子があった。


以来、向田邦子とN氏との不倫関係は足かけ14年にも及ぶことになる。N氏は既に妻子とは別居していた。が、東京オリンピックの2年ほど前、N氏は脳卒中で倒れる。邦子は献身的に介護した。しかし、N氏は昭和39年2月自死。邦子34歳。この話を読むと、島村利正のヒロインと重なるのだった


明日、土曜日午後3時からの「島村利正トークイベント」に備えて『妙高の秋』を再読した。やっぱりいいなぁ、これはいい。この短篇は川端康成文学賞の候補作になった。取れなかったけど。さて、次は『暁雲』を読もうか。



2012年9月20日 (木)

作家・島村利正と、シャンソン歌手ワサブローさん

■長野日報に電話とメールして、信州高遠美術館での 9月30日(日)の「ワサブロー・コンサート」を是非記事にしてください! って、先週初めにお願いしたのに、いまだ梨の礫(つぶて)だ。返信のメールもなければ、記者からの携帯もかかってこない。


昨日の水曜日の午後は休診にしているのだが、もしかして長野日報の記者さんから電話が入るかもしれないからと、診察室で事務仕事をしながら電話番をしていたのだが、次々とかかってくる電話はみな別要件ばかりで、疲れてしまったよ。


こうなったら、頼みの綱は「中日新聞」か。


ところで、今朝の「信濃毎日新聞」飯田・伊那版(23面)に、今週末の「高遠ブックフェスティバル」の記事が載っていて、その関連イベントに、高遠出身の作家、島村利正 生誕100年記念コンサートとして、信州高遠美術館が9月30日に「ワサブロー・コンサート」を企画していることが紹介されている。

「本の町プロジェクト」代表で、高遠観光タクシーの春日裕くん、信毎さん、本当にありがとうございました。

Wasaburo2


■ワサブローさんは、20代前半に単身フランスに渡り、プロのシャンソン歌手として本場で認められ、以後30年間、フランスに留まり歌手活動を続けてきました。ここ数年は、出身地の京都に戻り、国内と海外とを行ったり来たりの歌手生活をされています。


そんなワサブローさんが、一昨年、友人から「読んでみたら」と薦められた文庫本が、高遠町出身の作家、
島村利正の『奈良登大路町・妙高の秋』(講談社文芸文庫)でした。ワサブローさんは、この本を読んで、作家・島村利正に惚れ込んでしまったのです。


http://wasaburo.cocolog-nifty.com/paris/2011/01/post-dc0a.html


ちょうどその頃、僕も自分のブログで「島村利正」の本をはじめて読んだ感想を書いていて、それをワサブローさんが検索で見つけ、

「あなたは高遠町の出身なら、島村利正のお墓が高遠の何処にあるかご存じないですか? ぜひ高遠へ行って、島村利正の墓参りがしたいのです。」

と、僕のブログにコメントをくれたのです。

それが、東日本大震災が起こる前、昨年1月のことでした。



それから暫くして、フランスでの仕事を終えて帰国したワサブローさんは、11月11日(金)NHK総合テレビのお昼の番組「金曜バラエティー」に生出演を終えると、中央本線を「あずさ」で松本に移動。松本在住の友人財津氏とともに、
11月13日(日)ついに高遠を訪問しました。


当日は、島村利正氏の実家「カネニ嶋村商店」と菩提寺「蓮華寺」を訪れ、念願の墓参りができたのでした。嶋村商店のご主人は、多忙にもかかわらずワサブローさんを歓待してくださり、ワサブローさんはいたく感激したそうです。



この時、2012年(平成24年)がちょうど「島村利正生誕100年」に当たることがわかり、それなら、これも不思議なご縁だから、ぜひ生誕100年を記念して、高遠でシャンソンを歌いたい、そうワサブローさんが仰ったのでした。


島村利正は、古本愛好家の間でも、知る人ぞ知る渋い地味な小説家ですが、ワサブローさんのように、気にいると入れ込んでしまう読者が多いようです。
嶋村商店のご主人の話では、そうした熱烈な愛読者が、年に2〜3人高遠の嶋村商店を訪ねてくるそうです。


島村利正は、戦前戦後にわたって芥川賞候補に4回なり(結局、賞は取れなかったですが)、『青い沼』で平林たい子賞を、『妙高の秋』で読売文学賞を受賞している、神田神保町界隈では非常に有名な作家ですが、残念ながら地元の高遠ではほとんど忘れられた存在となってしまいました。


同い年生まれの新田次郎は、諏訪市で今年さかんに生誕100年関連事業が行われていますが、残念ながら、島村利正に関しては、伊那市では一切記念行事は企画されませんでした。



今回の「ワサブロー。コンサート」は、その唯一の行事です。

本の町プロジェクトの皆様のご好意で、「高遠ブックフェスティバル」の関連イベントとして認めていただきました。


そんなような経緯(いきさつ)があったのです。

2012年9月10日 (月)

NO NUKES JAZZ ORCHESTRA を聴いた。凄いぞ!

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■今から30年以上も前の話だが、当時のジャズ専門誌には、老舗雑誌「スィング・ジャーナル」「ジャズ批評」の他に、新興雑誌「ジャズ・ライフ」が頑張っていた。

その読者投稿欄に「ジャズの同時代性について」と題して投稿したのだ。力入ってたし結構自信もあったのだが、あっさりボツにされた。もちろん、未熟で稚拙な文章だったからだが、いまどきコンテンポラリー(同時代性)だなんて「ケッ」と、はなで笑われた感じだった。確かに、時代はバブルで浮かれていたな。

 

■以下、9月2日夜の、ぼくのツイートより転載。

 

NO NUKES JAZZ ORCHESTRA のCDを買った。これ凄いんじゃないか。「いまここ」を表現するのが、JAZZの使命さ。特に3曲目が好き。ミンガスかモンクみたいな2曲目もいいな。スティーヴ・ライヒ的な現代音楽も入ってるし、「ショーロクラブ」の人だから、ブラジリアン・ミュージックもね。

 

 
 
 
 
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あとヴォーカルでは、アン・サリーの『満月の夕』(池本本門寺でのライブ版は、YouTubeで以前にさんざん聴いた)がいいのは勿論のこと、おおたか静流の2曲『3月のうた』谷川俊太郎・作詞、武満徹・作曲『スマイル』チャップリン作曲、が素晴らしい。泣ける。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
8曲目『夜のラッシュアワー』も実に美しい印象的な曲だ。パット・メセニーのCDみたいな感じで始まって、後半はギル・エヴァンズかエリント
ン・オーケストラのブラス・アンサンブルが聴かせる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
10曲目「Gray-zone(妄想と現実の狭間)」の緊張感も尋常じゃないぞ。Gray-Zone っていうユニット、要注目だ。是非ライヴで聴いてみたい。ギターの人いい。パット・メセニーかと思ったら、デレク・ベイリーじゃん。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
■以下、追補。
 
 
11曲目「Circle Line」。いきなり始まる弦楽が奏でるテーマに驚愕する曲。ふつう、ジャズを弦楽が表現しようとすると、どうしても「もっさり、どんより」してしまうのだ。例えば「クロノス・カルテット」がそう。
 
ところが、このオーケストラに参加している弦楽四重奏団は違うな。キレがいい。リズム感がいい。音が、とがっている。これは特筆すべき点だ。
 
何度も聴いてみて、すごく好きな曲だと感じた。ぼくの大好きな、エリック・ドルフィーのアルト・ソロを連想させる、音が極端に高低するスピードの快感にあるからだと思う。
 
 
12曲目「Blue March(宛名のない未来への手紙)」
 
弦が爪弾かれる音の感じは、海の底だ。大量の水と共に放出され続ける(もしくは地下の土壌から海へ染み出て行く)放射性物質が拡散してゆく様がイメージされる。その海には、魚が泳いでいて、海藻もプランクトンもいて、黒潮に乗って回遊魚もやってくるのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
・政治的プロパガンダを、ジャズを演奏することで表現し、強く大衆に訴えてきた人といえば、まずはチャールズ・ミンガスが上げられる。「直立猿人」「ハイチアン・ファイトソング」「フォーバス知事の寓話」など、ミンガスは何時でも世の中に怒っていた。
 
 
 
 
 
・それから、チャーリー・ヘイデンの「リベレーション・ミュージック・オーケストラ」。それに、沢田穣治氏率いる、この「ノー・ニュークス・ジャズ・オーケストラ」。興味深いことは、3人とも「ベーシスト」であること。
 
 
 
らに共通する、もう一つの大切な事柄は、まず何よりも「音楽性に優れている」「音で聴かせる」ということだ。
 
 
 
 
 
 
 
・この『NO NUKES JAZZ OCHESTRAでは、短いピアノソロ(デュオ?)に始まって、最後もまたピアノソロでクローズされる。
 
 
 
中にサンドイッチされる楽曲は、弦楽器も加えた大きな編成のジャズバンド。続いて、菊地成孔的モーダル・コーダルなスリリングでかっこいい曲。グレー・ゾーンによる先鋭的フリージャズに、弦楽四重奏を主役とした現代音楽と、ショーロクラブのブラジル音楽。それから、それぞれに個性的で心に沁みるヴォーカルが4曲。
 
 
これらが全く違和感なく、見事な統一感でもって、曲と曲とが密接に関連しあいながら、全15曲を構成している。
 
 
 
 
その事がとにかく素晴らしい。壮大な叙事詩となっているのだ。これは、コンポーザー沢田穣治の力量の成せる技だと思った。
 
 
 
 
 
 
 
 
・あと、このCDは「音がいい」。これも重要。
 
 
 
・おおたか静流が歌う「三月のうた」は英語の歌詞で歌われているが、日本語で歌われたものを『アルフォンシーナと海』波多野睦美&つのだたかし のCDで以前に聴いた。
 
 
 
 
 
 
   『三月のうた』   谷川俊太郎
 
 
 
 
   JASRAC からの通告のため、歌詞を削除しました(2019/08/06)
 
 
 
 
 
 
・ブラジル人のヘナート・モタとパトリシア・ロバートが歌う「プロミス」は静かで子守歌みたいに優しい曲だけれど、「われわれが何とかします」っていう、責任と意志と決意の表れのような曲だ。
 
 
 
誰に対しての「約束」かって? それはもちろん、ぼくらが死んだあとの未来を生きてゆく、いまの子供たちに対してだ。

2012年9月 3日 (月)

ところで、島村利正って誰?

■高遠町在住ならば、たぶん一度は聞いたことのある名前だと思う。いや、60代以上ならそうかもしれないが、50代以下だとどうかなぁ。

作家、島村利正。


でも、その本を読んだことのある高遠町住民は数えるほどしかいないんじゃないか。偉そうなこと言う僕でさえ、2年前に初めて読んだという体たらく。ごめんなさい。
ところで、前回リンクした、ウィキペディアの島村利正の記載は淋しい。もっとちゃんと故郷の作家を紹介してもらいたいぞ!


で調べたら、ポプラ社から出た「百年文庫」第10巻、『季・円地文子、島村利正、井上靖』に載っている「人と作品」での紹介文がいいみたいだ。早速購入したので、以下に転載させていただきます。


 島村利正(1912〜1981年)は長野県生まれ。小学校時代に教師の影響で文学に目覚め、学校の図書館で夏目漱石、武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎などの作品を愛読した。

1926年、高遠実業学校に入学。実家は海産物商で、長男だった利正は実家を継ぐことを求められたが、それに反発。家を出て、尋常高等小学校の修学旅行で知った奈良の飛鳥園へ行く。小川晴暘が主宰する飛鳥園は古美術写真や美術雑誌の出版をおこなっており、利正はここで小川の薫陶を受けた。また、小川の使いで、このころ奈良に住んでいた志賀直哉邸や瀧井孝作邸を訪ねることもあった。

1929年、東京へ出て正則英語専門学校に入学。1936年に結婚すると、多摩川砂利掘事業を営む妻の実家に住み、その仕事に従事していた朝鮮人との親交から題材を得て、1940年に『高麗人』を「文学者」に発表、芥川賞候補となる(その後、1943年の『暁雲』、1957年の『残菊抄』、1975年の『青い沼』が芥川賞候補に挙がっているが、いずれも受賞は逸している)。

 作品執筆のかたわら、戦中から撚糸業に従事しており、1955年に日本撚糸株式会社を設立して経営者となった。1957年に作品集『残菊抄』を刊行。しかし、1962年に会社が倒産してからは作家業に専念した。

 師の瀧井孝作は文壇の釣り好きとして知られるが、利正も小さいころから釣りに親しみ、釣りに関する文章を数多く残した。作品集『残菊抄』の序文を寄せた志賀直哉はその中で、「戦後、度強い小説の多い中に島村君のしんみりした静かな作品は、また、その特徴ゆえに読者から喜ばれるのではないかと思っている」と書いている。

『仙醉島』は1944年に「新潮」に発表された作品で、郷里の伊那・高遠の祖母の話を小説にしたものといわれている。



あと、『忘れられる過去』荒川洋治(朝日文庫)p123 に載っている「『島村利正全集』を読む」と題された文章が素晴らしい。(以下抜粋)

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『島村利正全集』を読む     荒川洋治


 戦争のはじまる前に、一見地味ながら、たしかな文章をもって登場し、人や周囲の自然を描いた人。それからはあまり作品を書かない時期があったけれど、1970年代はじめからのほぼ10年間に私小説の世界をひろげる清心な作品を書いて、読む人の心をとらえた人。その人たちにはいまも忘れられない人。それが島村利正である。(中略)


 島村利正は戦前の日本人の庶民の暮らしをいつまでもたいせつに心にしまっていた人で、時代の変化でそれらが曲げられていっても、ときどき思い出したり、取り出して、自分を育てた人たちや時間を振り返った。長く静かな旅をするように、文章を書いた人だ。戦前の人たちのよき姿、つらい姿は、戦後の時間がかさむにつれ次第にかすんでいったが、それでも忘れられないものがある。


 コアジサシは、水辺の小鳥。

「私はそのころ、コアジサシの白い姿を見ていると、思いがけず、少年時代に生れ故郷の山ふかい峠で見た、栗鼠の大群を思い出すことがあった。そして、それにつづいて、奈良の鹿と春日山のこと、若狭の海で見かけた奇妙な動物? と、そのときの旅行などを思い出した。それは私の、風変りな小動物誌でもあったが、私自身をふくめた人間の姿も、戦前の時代色のなかで、それらの動物と共に点滅していた。」(「鮎鷹連想」)


 このあと、それぞれの小さな動物を「点滅」させて文章がつづく。ここにある「私自身をふくめた人間の姿」をとらえることは、島村氏の作品世界の基点であり基調だった。

「私自身」と「人間の姿」は同じものながら。微妙に消息を分かつものである。島村氏はその文学が「私自身」に傾くことを警戒し、ひろく「人間の姿」を知るための視覚を注意深く見定めようとした。「私」という人間が、他のもの、見知らぬもの、遠くのものと、どのようにかかわるのか。またそれをつづる文章が、どうしたら、人間のための文章になっていくのか。それを「私自身」の生活者の感性を台座にして、みきわめようとしたのだ。


「私自身をふくめた人間の姿」という「観念」は、1970年代という最後の「文学の時代」においても、そのあとも、多くの作者たちの作品から(あるいは発想から)失われたもののひとつである。


 島村利正は、文学と生活の両面をみがきながら小説を書きついだ。それはそばにいる人の目にもつかないほどの変化と動揺をかさねる営みだった。「人間の姿」をもつ文学の姿は、この全集の刊行で鮮明になる。(「図書新聞」2001年12月15日号)



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