今日、土曜日の午後3時「ワサブロー島村利正を語る」トークイベントがあります
■ほとんどアナウンスされていないので、たぶん誰も知らないと思うのですが……、
今日、9月29日(土)午後3時から「信州高遠美術館喫茶室」にて、シャンソン歌手ワサブローさんと作家・島村利正のご子息である嶋村正博氏と、その妹さんによる「島村利正の魅力を語る」というトーク・イベントが開かれます。
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■ほとんどアナウンスされていないので、たぶん誰も知らないと思うのですが……、
今日、9月29日(土)午後3時から「信州高遠美術館喫茶室」にて、シャンソン歌手ワサブローさんと作家・島村利正のご子息である嶋村正博氏と、その妹さんによる「島村利正の魅力を語る」というトーク・イベントが開かれます。
■長野日報に電話とメールして、信州高遠美術館での 9月30日(日)の「ワサブロー・コンサート」を是非記事にしてください! って、先週初めにお願いしたのに、いまだ梨の礫(つぶて)だ。返信のメールもなければ、記者からの携帯もかかってこない。
■ワサブローさんは、20代前半に単身フランスに渡り、プロのシャンソン歌手として本場で認められ、以後30年間、フランスに留まり歌手活動を続けてきました。ここ数年は、出身地の京都に戻り、国内と海外とを行ったり来たりの歌手生活をされています。
そんなワサブローさんが、一昨年、友人から「読んでみたら」と薦められた文庫本が、高遠町出身の作家、島村利正の『奈良登大路町・妙高の秋』(講談社文芸文庫)でした。ワサブローさんは、この本を読んで、作家・島村利正に惚れ込んでしまったのです。
http://wasaburo.cocolog-nifty.com/paris/2011/01/post-dc0a.html
ちょうどその頃、僕も自分のブログで「島村利正」の本をはじめて読んだ感想を書いていて、それをワサブローさんが検索で見つけ、
「あなたは高遠町の出身なら、島村利正のお墓が高遠の何処にあるかご存じないですか? ぜひ高遠へ行って、島村利正の墓参りがしたいのです。」
と、僕のブログにコメントをくれたのです。
それが、東日本大震災が起こる前、昨年1月のことでした。
それから暫くして、フランスでの仕事を終えて帰国したワサブローさんは、11月11日(金)NHK総合テレビのお昼の番組「金曜バラエティー」に生出演を終えると、中央本線を「あずさ」で松本に移動。松本在住の友人財津氏とともに、11月13日(日)ついに高遠を訪問しました。
当日は、島村利正氏の実家「カネニ嶋村商店」と菩提寺「蓮華寺」を訪れ、念願の墓参りができたのでした。嶋村商店のご主人は、多忙にもかかわらずワサブローさんを歓待してくださり、ワサブローさんはいたく感激したそうです。
この時、2012年(平成24年)がちょうど「島村利正生誕100年」に当たることがわかり、それなら、これも不思議なご縁だから、ぜひ生誕100年を記念して、高遠でシャンソンを歌いたい、そうワサブローさんが仰ったのでした。
島村利正は、古本愛好家の間でも、知る人ぞ知る渋い地味な小説家ですが、ワサブローさんのように、気にいると入れ込んでしまう読者が多いようです。嶋村商店のご主人の話では、そうした熱烈な愛読者が、年に2〜3人高遠の嶋村商店を訪ねてくるそうです。
島村利正は、戦前戦後にわたって芥川賞候補に4回なり(結局、賞は取れなかったですが)、『青い沼』で平林たい子賞を、『妙高の秋』で読売文学賞を受賞している、神田神保町界隈では非常に有名な作家ですが、残念ながら地元の高遠ではほとんど忘れられた存在となってしまいました。
同い年生まれの新田次郎は、諏訪市で今年さかんに生誕100年関連事業が行われていますが、残念ながら、島村利正に関しては、伊那市では一切記念行事は企画されませんでした。
今回の「ワサブロー。コンサート」は、その唯一の行事です。
本の町プロジェクトの皆様のご好意で、「高遠ブックフェスティバル」の関連イベントとして認めていただきました。
そんなような経緯(いきさつ)があったのです。
■今から30年以上も前の話だが、当時のジャズ専門誌には、老舗雑誌「スィング・ジャーナル」「ジャズ批評」の他に、新興雑誌「ジャズ・ライフ」が頑張っていた。
その読者投稿欄に「ジャズの同時代性について」と題して投稿したのだ。力入ってたし結構自信もあったのだが、あっさりボツにされた。もちろん、未熟で稚拙な文章だったからだが、いまどきコンテンポラリー(同時代性)だなんて「ケッ」と、はなで笑われた感じだった。確かに、時代はバブルで浮かれていたな。
■以下、9月2日夜の、ぼくのツイートより転載。
『NO NUKES JAZZ ORCHESTRA 』 のCDを買った。これ凄いんじゃないか。「いまここ」を表現するのが、JAZZの使命さ。特に3曲目が好き。ミンガスかモンクみたいな2曲目もいいな。スティーヴ・ライヒ的な現代音楽も入ってるし、「ショーロクラブ」の人だから、ブラジリアン・ミュージックもね。
■高遠町在住ならば、たぶん一度は聞いたことのある名前だと思う。いや、60代以上ならそうかもしれないが、50代以下だとどうかなぁ。
島村利正(1912〜1981年)は長野県生まれ。小学校時代に教師の影響で文学に目覚め、学校の図書館で夏目漱石、武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎などの作品を愛読した。
1926年、高遠実業学校に入学。実家は海産物商で、長男だった利正は実家を継ぐことを求められたが、それに反発。家を出て、尋常高等小学校の修学旅行で知った奈良の飛鳥園へ行く。小川晴暘が主宰する飛鳥園は古美術写真や美術雑誌の出版をおこなっており、利正はここで小川の薫陶を受けた。また、小川の使いで、このころ奈良に住んでいた志賀直哉邸や瀧井孝作邸を訪ねることもあった。
1929年、東京へ出て正則英語専門学校に入学。1936年に結婚すると、多摩川砂利掘事業を営む妻の実家に住み、その仕事に従事していた朝鮮人との親交から題材を得て、1940年に『高麗人』を「文学者」に発表、芥川賞候補となる(その後、1943年の『暁雲』、1957年の『残菊抄』、1975年の『青い沼』が芥川賞候補に挙がっているが、いずれも受賞は逸している)。
作品執筆のかたわら、戦中から撚糸業に従事しており、1955年に日本撚糸株式会社を設立して経営者となった。1957年に作品集『残菊抄』を刊行。しかし、1962年に会社が倒産してからは作家業に専念した。
師の瀧井孝作は文壇の釣り好きとして知られるが、利正も小さいころから釣りに親しみ、釣りに関する文章を数多く残した。作品集『残菊抄』の序文を寄せた志賀直哉はその中で、「戦後、度強い小説の多い中に島村君のしんみりした静かな作品は、また、その特徴ゆえに読者から喜ばれるのではないかと思っている」と書いている。
『仙醉島』は1944年に「新潮」に発表された作品で、郷里の伊那・高遠の祖母の話を小説にしたものといわれている。
あと、『忘れられる過去』荒川洋治(朝日文庫)p123 に載っている「『島村利正全集』を読む」と題された文章が素晴らしい。(以下抜粋)
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『島村利正全集』を読む 荒川洋治
戦争のはじまる前に、一見地味ながら、たしかな文章をもって登場し、人や周囲の自然を描いた人。それからはあまり作品を書かない時期があったけれど、1970年代はじめからのほぼ10年間に私小説の世界をひろげる清心な作品を書いて、読む人の心をとらえた人。その人たちにはいまも忘れられない人。それが島村利正である。(中略)
島村利正は戦前の日本人の庶民の暮らしをいつまでもたいせつに心にしまっていた人で、時代の変化でそれらが曲げられていっても、ときどき思い出したり、取り出して、自分を育てた人たちや時間を振り返った。長く静かな旅をするように、文章を書いた人だ。戦前の人たちのよき姿、つらい姿は、戦後の時間がかさむにつれ次第にかすんでいったが、それでも忘れられないものがある。
コアジサシは、水辺の小鳥。
「私はそのころ、コアジサシの白い姿を見ていると、思いがけず、少年時代に生れ故郷の山ふかい峠で見た、栗鼠の大群を思い出すことがあった。そして、それにつづいて、奈良の鹿と春日山のこと、若狭の海で見かけた奇妙な動物? と、そのときの旅行などを思い出した。それは私の、風変りな小動物誌でもあったが、私自身をふくめた人間の姿も、戦前の時代色のなかで、それらの動物と共に点滅していた。」(「鮎鷹連想」)
このあと、それぞれの小さな動物を「点滅」させて文章がつづく。ここにある「私自身をふくめた人間の姿」をとらえることは、島村氏の作品世界の基点であり基調だった。
「私自身」と「人間の姿」は同じものながら。微妙に消息を分かつものである。島村氏はその文学が「私自身」に傾くことを警戒し、ひろく「人間の姿」を知るための視覚を注意深く見定めようとした。「私」という人間が、他のもの、見知らぬもの、遠くのものと、どのようにかかわるのか。またそれをつづる文章が、どうしたら、人間のための文章になっていくのか。それを「私自身」の生活者の感性を台座にして、みきわめようとしたのだ。
「私自身をふくめた人間の姿」という「観念」は、1970年代という最後の「文学の時代」においても、そのあとも、多くの作者たちの作品から(あるいは発想から)失われたもののひとつである。
島村利正は、文学と生活の両面をみがきながら小説を書きついだ。それはそばにいる人の目にもつかないほどの変化と動揺をかさねる営みだった。「人間の姿」をもつ文学の姿は、この全集の刊行で鮮明になる。(「図書新聞」2001年12月15日号)
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