ジャズ Feed

2014年2月22日 (土)

エリック・ドルフィーを聴いている

■ときどき、無性に「ドルフィー」が聴きたくなるのだ。

Photo_2


エリック・ドルフィー『ベルリン・コンサート』より1曲目「Hot House」を聴いている。やっぱり、ドルフィーはチャーリー・パーカーが大好きなんだろうなあ。だからこそ彼は、パーカーのソロと同じフレーズを絶対になぞらないように、周到に注意深く演奏している。まるでデレク・ベイリーみたいじゃないか!(2014/02/19)

このところずっと、エリック・ドルフィーについて考えているのだけれど、きっと彼の脳味噌はブラック・ボックスだったんだろうな。インプットとアウトプットの差が尋常でなくかけ離れている。彼の脳の高性能なアンプリファイアーの不思議を思う。(2014/02/19)

それにしても、あの有名な「おでこのコブ」をドルフィーはずっと気にしていて、手術で切除してしまっていたとは、ぜんぜん知らなかったぞ。

『エリック・ドルフィーの瘤』(菊地成孔「粋な夜電波」第55回より)

『続・ドルフィーの瘤』(菊地成孔「粋な夜電波」第59回より)

Dolphy bass clarinet
YouTube: Dolphy bass clarinet


『JAZZ 100の扉』村井康司(アステルパブリッシング)を買って読んでいるのだが、エリック・ドルフィー『アウト・トゥ・ランチ』の解説(79ページ)にこんなことが書いてあった。

「そして何より恐ろしいのは、彼の演奏が『何を言っているかはわからないが、そこには確固としたセオリーが確実に存在していて、音楽総体が発する意味は確実にこちらに伝わってくる』ということにあるのだ」(中略)

「しかしそこにドルフィーのアルトやバス・クラリネットのよじれたフレーズが乗ると、世界は『正確無比に狂った時計』のような様相を示し始めるのだ。」 なんてスルドイ分析なのだろう。


YouTube: Charles Mingus Sextet in Europe, 1964

ただ、ドルフィーに関する考察で、「あっ!」と思ったのは、何と言ってもSF作家・田中啓文氏の文章。

「エリック・ドルフィー(1)」(田中啓文 ビッグバンド漫談より)

「エリック・ドルフィー(2)」(田中啓文 ビッグバンド漫談より)

「エリック・ドルフィー(3)」(田中啓文 ビッグバンド漫談より)

■それから、バリトン・サックス奏者で、フリージャズ関係に詳しい、吉田隆一氏の分析が、もっともっと聴きたいと思うのは、僕だけではあるまい。

 

2013年7月15日 (月)

伝説のジャズ歌手「安田南」のこと

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■今の若い人にも、案外「有名人」なんじゃないかな、安田南。

西岡恭蔵が作った『プカプカ』に登場する「あたい」が、安田南であることは誰もが知る事実だからだ。

でも、僕ら昭和30年代生まれで「深夜放送黄金時代」と併走してきた人間からしてみれば、安田南と言えば 1974年にFM東京で始まった「気まぐれ飛行船」なのだった。声が渋い片岡義男氏に、やる気のない適当な合いの手を入れるのが彼女の役目だった。

放送中でもたぶんタバコをプカプカ吸ってたんじゃないかな。いつも痰がからんだような『プレイガール』の元締め、沢たまきみたいな、ちょっとしゃがれた声をしていたように思う。


YouTube: 安田南 in 気まぐれ飛行船 with 片岡義男[1/6]

■検索すると、「気まぐれ飛行船」のラジオ放送がちゃんとアップされている。沢たまきの声じゃなかったな。もっと素敵な、落ち着いたアルトの声。


■先日、松本の丸善で購入した『ジャズ批評7月号』 の特集が「日本映画とジャズ」で、さらにその巻頭特集記事が「伝説の女優=ジャズシンガー 安田南と沖山秀子」だった。

寺岡ユウジ氏が、彼女たちのことを昔からよく知る人たち(佐藤信、片岡義男、渚ようこ、渋谷毅、杉田誠一、五所純子、柳町光男)にインタビューして廻って、記事にまとめた労作だ。安田南に関しては、佐藤信、片岡義男。そして沖山秀子に関しては柳町光男監督のインタビューが読ませる。


黒テントの佐藤信氏は、安田南の中学時代からの付き合いがあり、俳優座養成所第14期生で同期だった串田和美、吉田日出子と共に劇団自由劇場を旗揚げした。原田芳雄は一つ下の第15期卒業生だった。この「花の15期生」には、太地喜和子、林隆三、地井武男、高橋長英、秋野太作、浜畑賢吉、前田吟、夏八木勲、河原崎次郎、村井国夫、三田和代、栗原小巻と、キラ星のような有名俳優がいる。

安田南も同期で入ったようだが、卒業はしていないらしい。

面白かったのは、黒テントと関西フォーク人の密接な関係で、当時、吉田日出子と岡林信康がデキていたとか、名曲『プカプカ』誕生の様子とかだな。「俺のあん娘はタバコが好きで」の「俺」とは、西岡恭蔵じゃなくて、やっぱり原田芳雄のことなんだね。


■沖山秀子といえば、映画『十九歳の地図』だ。監督は柳町光男。音楽は板橋文夫だった。『あまちゃん』の「じっちゃ」役で人気急上昇中の蟹江敬三が映画の中で「かさぶただらけのマリアさま」と仰ぎ見たのが沖山秀子だ。


■安田南の名前を、意外な人が書いていてビックリした。

先週の「週刊文春」7月18日号 p56「本音を申せば」連載第757回だ。小林信彦御大は、最初に「毎日、NHKの朝ドラ『あまちゃん』を観ている」と書く。しかも、前半(東北編)で見逃したのは2回のみ!と豪語する。流石だ。

小林信彦氏は、とにかく美人好きだし、アイドル好きだ。最近では、映画『桐島、部活やめるってよ』を見て、すっかり橋本愛のファンになったらしい。でも、この週刊文春のでの連載では、小林氏が「アキちゃん」押しなのか「ユイちゃん」押しなのかは明らかにしていないのが不満だな。

小林信彦氏は、次のパートで女優「真木よう子」を絶賛している。美人で巨乳好きなのか!?

で、最後に取り上げているのが「安田南」だったのだ。以下引用する。

 

        「ある歌手のこと」

 昨年の本誌に、2009年に亡くなった安田南さん(ジャズ歌手)の想い出を書いたせいか、彼女の特集をした「ジャズ批評」という雑誌が送られてきた。ぼくの文章は「映画の話は多くなって」(文藝春秋刊)に収められている。

 この特集のおかげで、ぼくが彼女の歌をきいたのは青山のロブロイという店であること、彼女とFM放送をやっていた片岡義男氏がSPレコードのアンドリュー・シスターズからジャズに入ったことを知った。

 すでに書いたように、ばくはアンドリュー・シスターズが好きで、CDを数枚持っている。彼女が三人ならんで敬礼する姿を夢想した。


■ところで、当時南青山にあった「ロブロイ」は、あの阿部穣二の奥さんだった、もとスッチーの遠藤子さんがママをしていた。本も2冊出ている。青森から上京してきたばかりの、まだ10代だった矢野顕子が、ロブロイでピアノを弾いていたことは有名な話。


ロブロイでのライヴ音源は、安田南+山本剛トリオ『South.』 のほかに、初代山下洋輔トリオのサックッスだった、中村誠一のレコードを持っているが、こちらもなかなかの熱演でお気に入りの一枚だ。


■安田南は「気まぐれ飛行船」のDJを辞めたあとは、ずっと行方知れずのままだった。それがなんと、2009年に亡くなっていたのか……

知らなかった。

2013年6月 2日 (日)

John Coltrane 『 sun ship the complete session 』

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■1965年8月26日。マッコイ・タイナー(p)、ジミー・ギャリソン(b)、エルヴィン・ジョーンズ(drs) を擁した、ジョン・コルトレーン(ts) は、朋友であるディレクター(プロデューサー)ボブ・シールのもと、ニューヨークはRCA ビクター・スタジオにいた。彼の音作りを知り尽くした、ルディ・ヴァン・ゲルダーのスタジオではなかった。だから、サックスの音が割れてしまって、いつになく貧弱な音の録音だったのか。今にして思えば。

鉄壁の「黄金カルテット」と称された彼らの、図らずも最後のスタジオ録音(註:これは間違いで、1965年9月2日にニュー・ジャージー州にあるルディ・ヴァン・ゲルダーのスタジオで収録された『first Meditations』が本当のラスト・レコーディング)がこれから行われるのだ。

これが世に言う「『サンシップ』セッション」なわけだが、結局この日の録音は、コルトレーンが生きているうちに発表されることはなかった。何故か「お蔵入り」にされてしまったのだ。

いや、決してデキが悪かった訳ではない。あの傑作の誉れ高い『トランジション』(1965年6月録音)だって「お蔵入り」にされていたのだから。


以前にも書いたが、1965年のコルトレーン・カルテットが一番素晴らしいと僕は信じている。だから「このレコード」は、まずは輸入盤で安く入手して、その後に国内盤の再発を買った。膨大なコルトレーンの作品群の中でも、個人的ベスト10には必ず入る大好きなレコードなのだ。

ただ、実際に聴くのはもっぱらA面ばかりだった。「SUN SHIP」「DEALY BELOVED」「AMEN」の3曲。

初っ端からフルパワー全速力のコルトレーン。何ていうか「音のすべて」が切実なのだ。「俺はもっともっと高い次元に到達したいのだ!」でも、思うようにならない苛立ちと焦燥感。そんなリーダーに必死で着いていこうとする、マッコイ・タイナーとエルヴィン・ジョーンズ。「でも、もうダメだぁ。おいらいち抜けた」と今にも言い出しそうな不協和音が漂い始めている。

まるで、離婚間近の夫婦みたいな、異様に張り詰めた息苦しいほどの緊張感が、びんびん伝わってくる演奏なのだ。だから、聴く方もスピーカーの前にきちんと正座して、この「音のかたまり」と対峙する覚悟が必要になる。いい加減な気持ちでは絶対に聴けないレコードなのだ。


■ところが、今回このCD2枚組『 sun ship the complete session 』を聴いてみて驚いた。案外和やかな雰囲気の中で収録が進められていたからだ。

それは、レコードには下を向いて何だか暗いマッコイ・タイナーと、疲れた表情のエルヴィン・ジョーンズの写真が載っていたのに、CDのパンフには「エルヴィンとマッコイが寛いでポットのコーヒーを飲んでいる写真」が最後に載っていて、これを見れば、この日、コルトレーン・カルテットが完全燃焼したことが一目で分かった気がした。

このシーンは、持てる力を出し切って、充実した時間を互いに過ごした戦友を讃え合う、満足しきった写真に違いない。


さらには、Disck2 の冒頭に収録された、コントロール・ルームにいるボブ・シールと、スタジオ内のコルトレーンとの愉快なやり取り。

レコードではB面2曲目に入っている「ASCENT」は、正直今までほとんど聴いたことがなかった。この曲は、この日のセッションでは4曲目に収録され、なんとこの日最多の「Take 8」 まで取り直しがされていた。


ボブ:「曲のタイトルを教えてくれ」
コルトレーン:「ASCENT だ
ボブ:「えっ!? アセンションだって? おちょくらないでくれよ。この間やったばかりの曲じゃないか。なんだって?違うの。スペルは何?」
コルトレーン:「ASCENT


■あと、ものすごく意外だったことは、コルトレーンのレコードなのに、最初から収録テープにハサミを入れて編集することを前提に、この日の収録が進められていたことだ。そうだったのか! 実際に、世に出たレコードでは、編集されていないのは「AMEN Take2」のみだった。

ASCENT 」では、最初のながーいジミー・ギャリソンのベースソロを省略して、いきなりコルトレーンのソロから収録された Take 4 〜 Take 8 が一番の聴き所だったな。変幻自在なコルトレーン。凄いぞ!

2013年1月11日 (金)

『東京ジャズメモリー』シュート・アロー(文芸社)(その2)

■『東京ジャズメモリー』の著者は、ぼくより4つ年下だ。だから微妙に「同じ渋谷」でも印象・記憶が少し違うのかもしれない。


ぼくが「BLAKEY」に通っていた頃は、第2章に登場する、渋谷「SWING」は、百軒店『ムルギー』左隣『音楽館』の斜向かいにあった。宇田川町の輸入レコード店「CISCO」の地下へ移転したのは、それから暫くしてからのことだ。

自由が丘の「ALFIE」は、ぼくも一度だけ行ったことがある。たしか、デヴィッド・マレイ『ロンドン・コンサート』が鳴っていた。

あと、この本でうれしいのは、巻末に載っている「昭和55年頃の渋谷ジャズ喫茶マップ」だ。そうそう、東急本店通り(今は何て言うんだ?)の右側のパチンコ屋横の狭い階段を地下に降りて行くと、ジャズレコード専門店「ジャロ」があったあった。南口から「メアリー・ジェーン」を探して行ったこともある。渋谷界隈限定のディープでローカルな「ジャズ体験」が個人的に泣けるのだなぁ。


■ちょうど、『ポートレイト・イン・ジャズ』村上春樹・和田誠(新潮文庫)を同時に再読していたから、余計にそう感じたのかもしれないが、センチメンタルでメランコリックで思い入れたっぷりの村上春樹氏の文章と比べて、『東京ジャズメモリー』の著者、シュート・アロー氏は案外あっさりとした文章を書く。いや、良い意味で「泥臭くない」のだ。

江戸っ子の粋とでも言うか、照れもあるからなのか、語りすぎないのだね。そこが「この本」のカッコイイところだと思った。


■それから、とにかく文章が上手い。さすがに音楽を生業としている人だけあって、読んでいて「息継ぎが楽な文章」を書く人だ。

氏の筆が乗ってくるのは、中盤の「田園コロシアム」の項あたりから「新宿西口広場のマイルス」のあたり。都会人でクールなはずのアロー氏が、思わず熱く熱く語ってしまっているのだ。(以下、引用)


 なお、ピクニック気分でビールを飲みながらジャズを楽しむというコンセプトの斑尾高原ジャズフェスティバルが(バドワイザーがスポンサー)、田コロにおけるライブ・アンダーの終焉に合わせたかのように、1982年から開催されたのは偶然なのであろうか。(中略)

 2010年代に至っては、バーはもちろん、居酒屋、食堂、ラーメン屋、すし屋といった飲食店以外にも、本屋、雑貨屋、美容院、床屋、ホテルのエレベータ内などなど日本中いたる所にジャズが溢れかえっている。

しかしジャズブーム、ジャズライブが盛況、CD販売好調、ジャズファンが増加といったニュースは聞いたことがない。あくまでも手軽で耳あたりの良いBGMになりさがってしまっている。

 一方、昔ながらの大音量でジャズを聴かせるジャズ喫茶に至っては、全くの瀕死状態だ。たまに本格派ジャズ喫茶に行くと客はほとんどが中高年の男性で、若い男女はほとんど見られない。というよりそもそも客がいないことが多い。

残念ながらジャズ喫茶はすでに過去の遺物、化石、マイク・モラスキー氏の『ジャズ喫茶論』で言うところの ”博物館” となりつつあるというか、なってしまった。(p91〜92)



■ぼくは田園コロシアムも復帰後のマイルスも、直接聴きに行ったことはない。(レコード・CDは持っている。)

斑尾ジャズ・フェスティバルは、ぼくが北信総合病院小児科に勤務していた夏に「第3回」が開催されて、見に行った記憶がある。1984年のことだ。斑尾のジャズフェスはその後もずいぶんと頑張って続いた。1989年〜1991年は、飯山日赤小児科に在籍していたので、3年間毎年見に行った。

僕が尊敬するジャズ評論家の大御所、野口久光氏にサインしてもらったのも、この時の斑尾(夜のジャムセッション)でだ。いま考えてみると、確かに信じられないくらい「いい時代」だったのだなぁ。

シュート・アロー氏が主張するように、1981年頃の日本のジャズ状況が「日本ジャズ史において恐らく最も多くの人々がジャズに親しみ、楽しみ、盛り上がった時代であり、少なくとも戦後におけるジャズブームのひとつとして語り継がれる必要があるはずである。」のかもしれない。


■ところで、この本の著者は、某楽器メーカー勤務の匿名サラリーマンなのだが、著者が新人時代に勤務した渋谷店が道玄坂にあったこと(いまはない)、本社が浜松にあること、著者がマイク・スターンやネイザン・イーストと懇意であることなどから考えると、シュート・アロー氏は「ヤマハ楽器」に勤務されているのではないか。うん、たぶんそうに違いない。

2013年1月 9日 (水)

『東京ジャズメモリー』シュート・アロー(文芸社)と、ジャズ喫茶「BLAKEY」のこと(その1)

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■この本『東京ジャズメモリー』のことを知ったのは、例によって『週刊文春』の読書欄「文春図書館」最終ページの連載『文庫本を狙え!』坪内祐三のコーナーでだった。以下、少しだけ引用する。

文芸社というのは自費出版を中心に刊行している版元で、文庫サイズのこの本も自費出版かもしれない。

 だがとても面白い。

 まず渋谷を中心とした東京本として楽しめる。

<僕が高校入学した昭和53年(1978年)は、渋谷三角地帯がまさに再開発され、109 が建設されている最中であった> と書いているから著者は昭和37年生まれ、私の4歳下だ。だから私の見て来た風景と重なる。(中略)

 

渋谷の百軒店にあった BLAKEY というジャズ喫茶(1977年開店 82年閉店)。「扉を閉めて外部からの光を遮断してしまうと、大袈裟ではなく真っ暗で何も見えないのである。一般に暗いとされる『占いの館』や遊園地のお化け屋敷よりも暗い」。

「目が慣れるまで暗くて全く何も見えないにも係わらず、マスターが席まで誘導するというごく当たり前な行為も一切なかったので、一応客であるはずの僕らは中腰で自ら手探り・足探り? で空いている席にたどりつかねばならなかった」。

「店内のところどころに客の気配、人影を感じるのだが基本的にほとんど動かず石のように固まっている。」

 1980年代の渋谷は白くピカピカしたイメージがあるがまだこのような空間も残っていたのか。(後略)

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■ぼくは、坪内氏の「この文章」を読んで、ビックリ仰天した。


大学に入りたての頃、茨城から週末になると常磐線に乗っては上京し、池袋文芸座で土曜の夜のオールナイトを見て、始発の山手線で寝ながら3周半ぐらいして、午前9時半の「ブレイキー」開店を待ったものだ。

もしくは、当時「目蒲線」西小山に住んでいた次兄の部屋に泊めてもらって、渋谷に出かけて行った。

ハチ公口からスクランブル交差点を渡って道玄坂を上がって行き、「百軒店」の看板を右折する。当時、そのすぐ左手には、グルメ評論家の山本益博氏が絶賛したことで有名になる前のラーメン店「喜楽」があった。(小綺麗なビルになっていまもある)

右手に「道頓堀ヌード劇場」。渋谷なのに、なぜ「道頓堀」なのか? いまだに謎だ。坂を登り切った正面が、印度料理店『ムルギー』だ。

『ムルギー』の話は、たぶん何度もしたので今日は省略する。

■今日の主題は、そう、ジャズ喫茶「ブレイキー」のこと。

当時、茨城県新治郡桜村在住だった僕が、たぶん一番ジャズの勉強をさせてもらった道場みたいな場所が、渋谷百軒店ジャズ喫茶「BLAKEY」だった。あの頃、筑波にはまだジャズ喫茶はなかったのだ。(『AKUAKU』がオープンしたのは、1979年9月9日のこと)

ネットで「BLAKEY」のことを検索しても、そのうちの半分は「ぼくが書いた文章」という有様。そうか、誰も知らないんだ、渋谷百軒店ジャズ喫茶「BLAKEY」のことなんて。

ぼくはずっとそう思ってきた。ところがどうだ! この本『東京ジャズメモリー』の巻頭に、いきなし「BLAKEY」が登場しているではないか!
ほんと、ビックリした。(amazon「クリック」なか見!検索で、その部分が読めます。)


で、とってもうれしかった。

僕だけじゃなかったんだ。あのジャズ喫茶で修業して、いまだに忘れられないでいるジャズ・ファンがいたんだ!

「ブレイキー」のことは、「2009/09/09」の日記  にも書いた。

1982年8月号の『Jazz Life』(写真)にも投稿した。以下転載。

 4月。久しぶりの渋谷。ハチ公口からスクランブル交差点を斜めにつっきって 109 方面へ。つぎつぎとすれ違う、都会のねぇちゃん達の群に感動したり、ため息ついたり。考えてみると、初めて、JAZZ を聴きにこの街へ来た5年前には 109 なんてなかったし、「道頓堀ヌード劇場」のわきの坂を登っていっても、すれ違うのは、上役サラリーマン風の男と、まだ顔のほてりを隠しきれない OL の2人づれぐらいだった。
 
 百軒店界隈もどんどん変わっていくねぇ、などと感心しながら、まずは『ムルギー』のたまご入りカレーで腹を満たす。よし、ここだけはまだ大丈夫。おっと、それからもう一軒。『音楽館』のかどを右へ折れると、目指す JAZZ喫茶『ブレイキー』。

 ……と、あれっ、ない。『ブレイキー』が無い! 音のしない2階の方をただポカンと見上げていると、人の良さそうなおじさんが階段を下りてきた。

「あ、ここ、今度、ふつーの喫茶店になるんだよ」 「つぶれちゃったんですか?」

 「……そーいう言い方しちゃいけないな。都合でやめたんだ。あんた、よく来てたの、そう、じゃあこれからもよろしくね」
 おじさんは忙しそうに、また2階へ消えていってしまった。

 「エ~~、ウッソ~~」ほんとうにそう言いたかった。日本じゅう、いろんな所を旅したけど、やっぱりここが一番、いつもそう思っていた。レイ・ブライアント、ジュニア・マンス、ワーデル・グレイ、リー・モーガン、ビリー・ホリデイの『レディ・イン・サテン』。それに、もちろん、ドルフィー、アイラー、コルトレーンにロリンズ。それからマレイ、アダムス、ビリー・バング。僕のレコード棚はみんな『ブレイキー』で聴いたレコードばっかしだ。

 ミンガスが消えた時も、モンクがいなくなった時も、ちっとも悲しくなんかなかった。だって、いつでもレコードで会えるもの。一体、どうしてくれるんだい、えっ、『ブレイキー』さん! JAZZ もとうとうおしまいだね、なんて深刻に考えてしまったではないですかい、えっ。わざわざ東京へ出ていっても、もう行くところがないんですよ、えっ。

 取り乱しちゃって失礼しました。最近、ちょっと酒乱ぎみなもので。まあ、でも、いつか知らない街角からあの ALTEC 612-C モニターのハード・ドライビング・サウンドが再び聞こえてくることを、切に願っている今日、このごろのわけで。
            (Jazz Life/ 1982年8月号)より

■ただ、ちょっと気になるのは、ぼくが通っていた頃は(1977年〜79年)何も見えないほど「真っ暗」ではなかったことと、マスターは小柄だけれど痩せていて、角刈り(五分刈り?)で黒縁の四角いメガネをかけていた。

だから、この本に登場するマスター(ボサボサの長髪で無精ひげをはやし、丸眼鏡をかけた小太りのマスター)と、とても同一人物とは思えないのだが。昼と夜とで人が交代してたんだろうか?

いや、確か夜行った時も「同じマスター」にしか会ったことはないぞ。

2013年1月 1日 (火)

去年、ほんとによく聴いたCDたち

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■新年、明けましておめでとうございます。
 本年もどうぞよろしくお願いいたします。


■昨年よく聴いたCDたち。 左から縦に(順不同です)

  震災後に幾多のミュージシャンが「コンセプト・アルバム」を出したが
  このCDは、被災者の哀しみに寄り添う姿勢が本物だと判る音造りがな
  されていると思う。静かでスローテンポの曲で統一されていて、こんな
  にも切ない「禁じられた遊び」は、これまで聴いたことがない。
 
  ラストの「しゃぼんだま」は、彼らが震災前にコンサートで訪れた
  北茨城市が野口雨情の出身地であることから選ばれた。報道ではあま
  り取り上げられないが、北茨城市も地震と津波の被害は大きかったの
  だ。
 
2)『ハンバートワイズマン』 このCDがたぶん一番数多く聴いたかな。

3)『俳句・椅子』ワサブロー 高遠でワサブローさんのコンサートができ
   て、ほんとうに幸せだ。ワサブローさん、ありがとうございました。

4)『リトルメロディ』 七尾旅人 これも傑作。


6)NO NUKES JAZZ ORCHESTRA  これも傑作。

7)『オラトゥンジ・コンサート』 ジョン・コルトレーン


9)『夏草の誘い』ジョニ・ミッチェル 今年は「巳年」だしね!

2012年12月31日 (月)

破滅型の天才白人ジャズマン、ビックス・バイダーベック

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『ジャズ・アネクドーツ』ビル・クロウ著、村上春樹・訳(新潮文庫)を読んでいる。ジャズマンのいろんな逸話を集めた小話集なのだが、前半は期待したほど、とんでもない「おバカ野郎」があまり登場せず、案外みんなマジメなんだなぁって、ちょと残念に思った。

そしたら、やっぱりいたんだ! 愛すべきおバカ野郎が。


彼の名は、ビックス・バイダーベック。


 ビックス・バイダーベックはコルネットを美しく生気溢れる音で演奏した。エディ・コンドンはそれを「イエス、と言っている娘みたいな」音だと表現している。ビックスはレコードにあわせて吹くことによってその楽器を習得した。そしてトーンとフレージングのまったく独自なコンセプトを発展させていった。

ほかのジャズ・ミュージシャンのほぼ全員がルイ・アームストロングの呪縛下にあったその時代にである。ビックスはシカゴに住んでいて、その当時アームストロングもまたシカゴで演奏していた。彼はルイの演奏を耳にして、心を引かれた。しかしそれにもかかわらず独自のスタイルで演奏を続け、多くの追従者たちを生み出した。(『ジャズ・アネクドーツ』p247 〜 p261)


■ビックスは、子供の頃から上の前歯が「差し歯」だった。でも、歯医者に行くのが嫌でずっとそのままだったから、成人してからしょっちゅう「差し歯」が抜け落ちた。咳をしたり、頭をさっと振ったりしただけで、すぽっと外れてしまうようになった。前歯がないとラッパは吹けない。


差し歯なしには彼はただの一音も吹けなかった。どこで仕事をしていても、バンドの連中が床にしゃがみこんでビックスの差し歯を探し回るというのは毎度の光景だった。

あるとき、シンシナティーで明け方の五時、雪の積もった道路を1922年型のエセックスで進んでいるときに、ビックスが「車を停めろ!」と叫んだ。ワイルド・ビル・デイヴィソンとカール・クローヴが一緒だった。まわりを見てももぐり酒場はない。「どうしたんだよ?」とデイヴィソンが訊いた。「歯をなくしちまった」ビックスが言った。

彼らは車を降りて、積もったばかりの雪の中をしらみつぶしに探した。ずいぶん長く探し回ったあとで、デイヴィンソンが雪の上の小さな穴を目にした。歯はその穴の中にみつかった。それは静かに道路に向かって沈んでいく途中だった。

ビックスはそれを口の中にはめ込み、みんなは「ホール・イン・ザ・ウォール」に向かった。彼らはそこでポークチョップ・サンドイッチとジンのために毎朝演奏をしていたのだ。ビックスがその歯を固定してしまわないのは、とくに驚くべきことではなかった。彼は歯医者になんか行くような人間ではなかったのだ。(中略)

バイダーベックの心を引きつけていたのは音楽とアルコールで、それ以外のことはほとんど眼中になかった。身なりにもまったく関心がなく、きちんとした服装を要求される仕事が入ったときには、しばしば問題が生じた。



ビックス・バイダーベックが活躍したのは、1920年代のこと。アメリカの禁酒法時代。いわゆる、華麗なるギャツビーの「ジャズ・エイジ」だ。
そんな時代だったのに、ビックスは酒好きで、しかもとんでもなく大酒飲みだった。

1929年。大恐慌がやって来る。ビックスがポール・ホワイトマン楽団の地方巡業で稼いで銀行に貯め込んだ貯金も、すべて水の泡となった。

あとは、破滅型ジャズマンおなじみの転落の道まっしぐら。アルコール中毒が進行し、まともにラッパも吹けなくなってしまって、ニューヨークの友人のアパートメントに転がり込んだバイダーベックは、弱り切った身体を肺炎にやられ、あっけなく死んだ。享年28。


■ビックス・バイダーベックのことは、村上春樹が『ポートレイト・イン・ジャズ』和田誠・村上春樹(新潮文庫)の中でこう書いている。
 
 ビックスの音楽の素晴らしさは、同時代性にある。もちろん音楽スタイルは古い。でも彼の紡ぎ出す、真にオリジナルなサウンドとフレージングは、古びることがない。その音楽がたたえる喜びや哀しみは見事にありありとしていて、こんこんと湧き出る泉のような潤いは、今ここにいる僕らの心の中に、躊躇なく、何のてらいもなく沁み込んでくる。それは懐古趣味とは無縁なものだ。
 
 ビックスの音楽を耳にした人がおそらく最初に感じるのは、「この音楽は誰にも媚びていない」ということだろう。コルネットの響きは奇妙なくらい自立的で、省察的でさえある。ビックスがじっと見つめているのは、楽譜でも聴衆でもなく、生の深淵の中にひそむ密やかな音楽の芯のようなものだ。そのような誠実さに、時代の違いはない。

 ビックスの偉大な才能を知るには、たった二曲を聴くだけで十分だ。

"Singin' the Blues" と "I'm Comin' Viginia" 。素敵な演奏はほかにもいっぱいある。しかし異能のサックス奏者フランキー・トランバウアーと組んだこの二曲を越える演奏は、どこにもない。それは死や税金や潮の満干と同じくらい明瞭で動かしがたい真実である。たった三分間の演奏の中に、宇宙がある。(『ポートレイト・イン・ジャズ』p78 〜 p83)



■『ジャズ・アネクドーツ』(新潮文庫)には、ビックスが酒を飲み過ぎた時の話、密造酒を取りに行って列車にひかれそうになった話、電車を乗り間違えて仕事に間に合わなくなった時の話、死期が近い頃の心温まる話、死後55年経ってからの話など、それはそれは面白い。


読むと彼のラッパの音がどうしても聴いてみたくなる。

でも、ぼくは今まで「この人」全くのノーチェックで、CDもレコードも持ってないし、ちゃんと聴いたこともなかった。いや恥ずかしい。

1920年代〜1930年代の古い演奏を集めた『ジャズ・クラッシックス・マスターピース』(Emarcy / CD4枚組)は持っていたので、もしかして収録されているのでは? と、出してきてみたら、あったあった、2枚目にフランキー・トランバウアーとの"Singin' the Blues" 、3枚目にホワイトマン楽団での "San"がそれ。

2012年11月26日 (月)

コルトレーン、コルトレーン。

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黄金カルテット絶頂期の1964年頃には、アラン・グランドが司会する『ポートレイツ・イン・ジャズ』というWABC-FM(95.5MHz)のラジオ番組があり、毎週金曜日、ここ『ハーフノート』から生中継され、時代の音楽を流し続け好評を博した。スティーリー・ダンのキーボーディスト、ドナルド・フェィゲンもこの『ハーフノート』のコルトレーンのライヴとラジオの生中継をよく覚えている人物の一人だ。


「狭いカウンターの上にコルトレーンとドラムのエルビンが差し向かいで対峙して、阿吽の呼吸から丁々発止のアドリブの応酬だ。ホントに凄かったなあ。」


1965年3月26日には通称 ”ペダル・ブレイキングの曲”と呼ばれる『ワン・ダウン・ワン・アップ』が放送された。それは、エルヴィンが勢い余ってバスドラをキックしすぎ、ペダルを壊してしまった時の演奏である。その間ラジオは、バスドラムの音が聴こえないままコルトレーンとの応酬が進行してゆく様を生中継していたので、その名が付いた。エルヴィンのキック力は桁外れで、そのため彼のドラムセットの横にはつねに予備のペダルが二組も置かれていた。(p139)

『コルトレーン』藤岡靖洋(岩波新書)より。


■でも、先だって中古盤で購入した『ONE DOWN, ONE UP / Live at the HALF NOTE』Disk1 を何度も聴いているのだけれど、エルヴィンの「バスドラ」ずっと鳴っているように思ったのだが、いま一度聴いて見たら、あっ! 確かに演奏開始後 12分30秒〜15分30秒くらいまで、バスドラの音がしないぞ!! そうして、バスドラが復活した後の「エルヴィン対コルトレーン」対決が凄まじいのであった。


■やはり、個人的には「この時期」のコルトレーン・カルテットが一番好きなんだなぁ。『クレッセント』とか『トランジション』、『サン・シップ』とかの頃。

このCDでも、1曲目「ONE DOWN, ONE UP」で、エルヴィンに主役の座を奪われ欲求不満だったピアノのマッコイ・タイナーが、次の「アフロ・ブルー」でテーマのあといきなり全力疾走する。そのピアノ・ソロに身震いするのであった。ほんと、すごいぞ。コルトレーン黄金カルテットのリズムセクション。マッコイ・タイナー &ジミー・ギャリソン、そうして、エルヴィン・ジョーンズ!


■作家、田中啓文氏の「コルトレーンCD評」が、とっても参考になるのだが、これってたぶん、かなり偏っているから一般向きじゃあないのかな。少なくとも、ぼくにとってはびんびん響いてくるのだが……




■タイムマシンがあったら是非とも行って見たい場所と時間(その3)に、1965年3月26日のニューヨーク「ハーフノート」を書き加えることにしよう。

ちなみに、(その1)が、1961年7月16日のニューヨーク「ファイヴ・スポット」での、エリック・ドルフィー&ブッカー・リトルの双頭コンボのライヴで、(その2)が、1981年4月15日の東京文京区駒込「三百人劇場」での『志ん朝七夜』。演目は、たしか「明烏」と「堀之内」。

2012年10月11日 (木)

陸前高田『ジャズ喫茶ジョニー』のママのその後

■共同通信が配信している連載記事『新日本の幸福』は、信濃毎日新聞では夕刊で連載している。その最新シリーズ「震災1年半 今も傷痕」をこのところずっと読んでいるが、正直とても辛い。でもなぜか読まされてしまうのだ。

昨日の水曜日の記事を読んでいたら、陸前高田「ジャズ喫茶ジョニー」店主、照井由紀子さんのことが載っていた。(以下転載)

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『新日本の幸福』(97) 「震災1年半 今も傷痕」(16)
 
 何のために続けるのか --- 再開した店 友の姿なく ---
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 岩手県陸前高田市の中心部にかつてあった、大きな2階建ての木造家屋。津波に流される前の「ジャズ喫茶ジョニー」は、商店街でも目立つ存在だった。そこから約3キロ離れた国道沿いの高台に、四角いプレハブの仮店舗が4軒並ぶ。右から2軒目が今のジョニー。引き戸を開けると、心地よいジャズのリズムと、コーヒーの香り。

 カウンターの向こうで湯を沸かす店主の照井由紀子(59)の胸には、時折、思いがよぎる。「私は何のために、この店を続けているんだろう」
 隣で雑貨店を営む中野貴徳(42)が、震災前のジョニーを撮った大きな写真を、窓際の明るいテーブルに広げた。「昔は漫画を読むのも難しいぐらい暗かったんだ」

 ジョニーを始めたのは1975年。7千枚近いレコードや骨董品を飾った店で、夫はピアニストの秋吉敏子ら有名なアーティストを呼び、よくライブを開いた。夫ほどジャズへのこだわりがなかった照井は、もっぱら厨房での調理を担当した。客と言葉を交わすことは、ごくわずかだった。

 10年ほど前に離婚したが、1人ででも店を続けるしか生きる方法がなかった。ただ、離婚前から悪くなり始めていた耳は、ほとんど聞こえなくなっていた。診察した医師は「何でほっといたんだ」と叱った。原因は「過度のストレス」と診断された。

 それでも、毎日のように顔を出してくれる常連客の支えで営業は続いた。近くで写真館を営み、震災で亡くなった菅野有恒=当時(57)=もその1人。照井は菅野に教えられてカメラが趣味になった。


      ■             ■

 昨年3月10日夜。コーヒーを飲んでいた菅野は、照井に言った。「何があっても、由紀子さんは僕たちが守るからね」。突然の言葉に驚いたが、うれしかった。

 翌日の午後。照井は激しい揺れが収まると店の外に飛び出した。目にしたのは、海から迫る茶色の”壁”。津波はすぐそこまで来ていた。

 「ゆきちゃん、逃げて」。叫び声が聞こえ、高台に走る。「バリバリ」。背後で店が崩れる音も分かった。木にしがみつき、助かった。

 しかし、多くの友を津波は連れ去った。「私だけ仲間はずれ。置いてけぼりにされたみたい」。菅野は間もなく遺体で見つかった。照井はカメラを手にするのがおっくうになった。

 昨年6月、避難所でコーヒーを入れていた照井を、菅野の写真仲間だった中野が仮設店舗に誘った。資金や機材、ジャズのCDは知人が集めてくれた。同9月、仮店舗でジョニーを再開した。「ここで細く長く続けてやる」と誓った。生き残った自分のため、そして今も支えてくれる仲間のため。

 今ではかつてのジョニーの客も顔を出す。話題は自然と震災のことになる。補聴器を使っても、1人の声を聞き分けるのがやっと。「でも、全部聞いていたら、もたないかも。聞こえないぐらいがちょうどいいのかな」
 (敬称略)
            「信濃毎日新聞夕刊 2012/10/10 2面より転載」

2012年9月10日 (月)

NO NUKES JAZZ ORCHESTRA を聴いた。凄いぞ!

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■今から30年以上も前の話だが、当時のジャズ専門誌には、老舗雑誌「スィング・ジャーナル」「ジャズ批評」の他に、新興雑誌「ジャズ・ライフ」が頑張っていた。

その読者投稿欄に「ジャズの同時代性について」と題して投稿したのだ。力入ってたし結構自信もあったのだが、あっさりボツにされた。もちろん、未熟で稚拙な文章だったからだが、いまどきコンテンポラリー(同時代性)だなんて「ケッ」と、はなで笑われた感じだった。確かに、時代はバブルで浮かれていたな。

 

■以下、9月2日夜の、ぼくのツイートより転載。

 

NO NUKES JAZZ ORCHESTRA のCDを買った。これ凄いんじゃないか。「いまここ」を表現するのが、JAZZの使命さ。特に3曲目が好き。ミンガスかモンクみたいな2曲目もいいな。スティーヴ・ライヒ的な現代音楽も入ってるし、「ショーロクラブ」の人だから、ブラジリアン・ミュージックもね。

 

 
 
 
 
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あとヴォーカルでは、アン・サリーの『満月の夕』(池本本門寺でのライブ版は、YouTubeで以前にさんざん聴いた)がいいのは勿論のこと、おおたか静流の2曲『3月のうた』谷川俊太郎・作詞、武満徹・作曲『スマイル』チャップリン作曲、が素晴らしい。泣ける。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
8曲目『夜のラッシュアワー』も実に美しい印象的な曲だ。パット・メセニーのCDみたいな感じで始まって、後半はギル・エヴァンズかエリント
ン・オーケストラのブラス・アンサンブルが聴かせる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
10曲目「Gray-zone(妄想と現実の狭間)」の緊張感も尋常じゃないぞ。Gray-Zone っていうユニット、要注目だ。是非ライヴで聴いてみたい。ギターの人いい。パット・メセニーかと思ったら、デレク・ベイリーじゃん。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
■以下、追補。
 
 
11曲目「Circle Line」。いきなり始まる弦楽が奏でるテーマに驚愕する曲。ふつう、ジャズを弦楽が表現しようとすると、どうしても「もっさり、どんより」してしまうのだ。例えば「クロノス・カルテット」がそう。
 
ところが、このオーケストラに参加している弦楽四重奏団は違うな。キレがいい。リズム感がいい。音が、とがっている。これは特筆すべき点だ。
 
何度も聴いてみて、すごく好きな曲だと感じた。ぼくの大好きな、エリック・ドルフィーのアルト・ソロを連想させる、音が極端に高低するスピードの快感にあるからだと思う。
 
 
12曲目「Blue March(宛名のない未来への手紙)」
 
弦が爪弾かれる音の感じは、海の底だ。大量の水と共に放出され続ける(もしくは地下の土壌から海へ染み出て行く)放射性物質が拡散してゆく様がイメージされる。その海には、魚が泳いでいて、海藻もプランクトンもいて、黒潮に乗って回遊魚もやってくるのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
・政治的プロパガンダを、ジャズを演奏することで表現し、強く大衆に訴えてきた人といえば、まずはチャールズ・ミンガスが上げられる。「直立猿人」「ハイチアン・ファイトソング」「フォーバス知事の寓話」など、ミンガスは何時でも世の中に怒っていた。
 
 
 
 
 
・それから、チャーリー・ヘイデンの「リベレーション・ミュージック・オーケストラ」。それに、沢田穣治氏率いる、この「ノー・ニュークス・ジャズ・オーケストラ」。興味深いことは、3人とも「ベーシスト」であること。
 
 
 
らに共通する、もう一つの大切な事柄は、まず何よりも「音楽性に優れている」「音で聴かせる」ということだ。
 
 
 
 
 
 
 
・この『NO NUKES JAZZ OCHESTRAでは、短いピアノソロ(デュオ?)に始まって、最後もまたピアノソロでクローズされる。
 
 
 
中にサンドイッチされる楽曲は、弦楽器も加えた大きな編成のジャズバンド。続いて、菊地成孔的モーダル・コーダルなスリリングでかっこいい曲。グレー・ゾーンによる先鋭的フリージャズに、弦楽四重奏を主役とした現代音楽と、ショーロクラブのブラジル音楽。それから、それぞれに個性的で心に沁みるヴォーカルが4曲。
 
 
これらが全く違和感なく、見事な統一感でもって、曲と曲とが密接に関連しあいながら、全15曲を構成している。
 
 
 
 
その事がとにかく素晴らしい。壮大な叙事詩となっているのだ。これは、コンポーザー沢田穣治の力量の成せる技だと思った。
 
 
 
 
 
 
 
 
・あと、このCDは「音がいい」。これも重要。
 
 
 
・おおたか静流が歌う「三月のうた」は英語の歌詞で歌われているが、日本語で歌われたものを『アルフォンシーナと海』波多野睦美&つのだたかし のCDで以前に聴いた。
 
 
 
 
 
 
   『三月のうた』   谷川俊太郎
 
 
 
 
   JASRAC からの通告のため、歌詞を削除しました(2019/08/06)
 
 
 
 
 
 
・ブラジル人のヘナート・モタとパトリシア・ロバートが歌う「プロミス」は静かで子守歌みたいに優しい曲だけれど、「われわれが何とかします」っていう、責任と意志と決意の表れのような曲だ。
 
 
 
誰に対しての「約束」かって? それはもちろん、ぼくらが死んだあとの未来を生きてゆく、いまの子供たちに対してだ。
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