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2010年8月 1日 (日)

可楽の一瞬の精気『寄席放浪記』色川武大

■再び、色川武大『寄席放浪記』(河出文庫)からの抜粋

「可楽の一瞬の精気」

 私は小さいころから寄席にかよっていたわりに、可楽との出会いはおそかった。空襲直前の大塚鈴本ではじめてその高座を見たのだと思う。当時私は中学生で、大塚はすの中学のお膝元だったから、教師の眼が怖くて、そこに寄席があることを知っていながらほとんど立ち寄らなかった。(中略)

 たしか日曜の昼席で、なんだか特殊な催しだったと思う。まだ春風亭小柳枝といっていた時分の可楽が、後年と同じく、「にらみ返し」という落語に出てくる借金取り撃退業の男を地で行くような顔つきで(着流しだったような印象がある)、ぬっと出て来た。

 中入前くらいの出番だったがたっぷり時間をとり、「らくだ」を演じた。小さく会釈をして、すぐに暗い悲しい独特の眼つきになり、「クズウいー」久六がおずおずと長屋に入ってくる、もうそのへんで私は圧倒されていた。陰気、といってもしょぼしょぼしたものでなく、もっと構築された派手な(?)陰気さに見えた。(中略)


 あとで知ったが、可楽は、文楽や志ん生とほぼ同じキャリアの持ち主だった由。長い不遇のうちに、あの暗く煮立ったような顔ができあがったのか。(中略)
 
 しかし可楽を継いでからはほぼ順調に、特異な定着を示した。私は「らくだ」には最初のときほど驚かなくなったが、そのかわり、「二番煎じ」「味噌蔵」「反魂香」この三本を演じる可楽の大のファンになった。まったく可楽のエッセンスは、「らくだ」を含めたこの四本に尽きると思う。他にもよく演じるネタはあったが、大方はつまらない。

 調子でまくしたてる話が迫力が出ず、くすぐりだくさんが似合わず、感情の変化を深く見せる話がいけない。もっとも可楽に中毒すると、ぼそぼそして退屈なところが、実に捨て難くおかしいのであるが。(中略)


可楽の可楽たるところはこういう一瞬の切れ味にあったと思う。「反魂香」の枕で、物の陰陽に触れて、陽気な宗旨、陰気な宗旨を小噺にして寄席を沸かせたあとで、

「ーー淋しいにはなにかてェますと、夜中の一つ鐘で」と口調が改まり、ふっと間があって、「カーン、ーー」ここでまた絶妙な間があって、「南無や南無南無ーー」と主人公島田重三郎の夜更けの読経の声につながっていく、ああいうところの、凜烈とでもいうのか、暗く豪壮な中にどこか甘さを含んだものを一瞬の精気で打ち出すのが独特で、短くはしょった口説の中に飛躍が快く重なり、他のどの落語家にもない味わいがあった。

 可楽の精髄を示す演目の中には、こうしたすぐれた一瞬がいくつも重なっていて、それは何十度、何百度聴いてもあきることがない。まことに不思議な落語家であった。(p41〜p44)

■八代目三笑亭可楽の不思議な魅力に関して、これほど的確に鋭く分析してみせた人は、色川氏以外にはいまい。

     Karaku

2010年7月15日 (木)

『ヤノマミ』国分拓(NHK出版) その2

■医師会の仕事が忙しくて、更新せずにそのままになっていたのだが、ずっと気にはなっていた。

医院の方はこのとこころ暇で患者さんが少ないから、昨日も午前11時半前には待合室に誰もいなくなったので、自宅リビングに戻って水出しアイスコーヒーを飲みながらテレビを付ける。チャンネルが、何故かCSになっていて、画像にに映し出されたのは、日本映画専門チャンネルで放送中の『台風クラブ』相米慎二監督作品だった。

封切り当時から、相米監督の最高傑作と言われながら、ぼくは今日まで「この映画」を観たことがなかった。でも、ふとオンしたチャンネルから映し出されたこの「映画」に吸い込まれるように、ぼくは思わず見入ってしまったのだ。なるほど傑作だ。映像にとてつもなく勢いがある。

映画はすでに終盤に達していた。台風が通過するという、中学生たちの「非日常」の興奮が、見事にフイルムに焼きつけられていたな。相米監督の不自然な「長まわし」が、いつもはすっごく気になるのに、この映画では全く気にならないのだ。もう一度最初からちゃんと見てみよう『台風クラブ』。


■ところで、NHKのドキュメンタリー映像「ヤノマミ」を見ただけでは、全くわからなかったことが、「この本」にはいっぱい書かれている。そのことが、すっごく重要だと思う。

1)この番組のディレクター、国分拓氏が、帰国後に嘔吐や下痢、夜尿症などの心身不調に長らく悩まされたこと。(ある種のカルチャー・ショックのためか?)


2)取材したヤノマミの集落では、当たり前のように「嬰児殺し」が実の母親の手(足)によってなされているが、重要なことがテレビカメラからは全く伝わってこなかった。というのは、他の集落に比べて、NHKが取材したこの集落での「嬰児殺し率」が際だって高いこと(本書にはその記載がある。197ページ)は、テレビ番組では全く触れられなかったからだ。

たぶん、以前は「嬰児殺し」の必要性はそうはなかったのではないか。でも、村の近くにブラジル政府が支援する「保健所」ができて、生まれた子供たちには必要な予防接種が全て行われるようになった。その結果、それまでは早死にしていた子供たちが生き延びる確率が飛躍的に伸びてしまったのだ。だから、文明人が介入する以前には、何も「人為的な作為」は必要なく、子供たちを育てることができた「ヤノマミ」だったのに、集団生活を行う仲間たちの生活を守るためには、新たに「人為的な作為」を「正しいこと」として、彼らの文化に組み込まれていったに違いないのだ。

そのことを思うと、ぼくは何とも複雑な気持ちになってしまう。


3)国分氏が滞在した集落ワトリキの酋長(村長)は、シャボリ・バタという老人だ。皆から尊敬されている偉大なるシャーマン。彼は30年以上も前からわれわれの文明と既に接触しているのだが、他のヤマノミと違って便利で楽な文明の力に溺れることなく、家族や仲間たちを率いて1万年以上前から続く伝統的な彼らの生活・文化を守り続けてきた。

ワトリキ集落の精神的支えであるシャボリ・バタが死んだとき、扇の要が外れたように皆バラバラになってしまうのではないか。そう国分氏は危惧していた。はたして、いま現在のワトリキ集落はどうなっているのだろうか?

2010年6月 2日 (水)

『ヤノマミ』国分拓(NHK出版) その1

■明日の水曜日は、きのう家族みんなで話し合って「ノー・テレビ、ノー・ゲーム、ノー・インターネット・デイ」とすることに決まった。なぜ明日になったかと言うと、次男が「嵐の番組がないから水曜日がいい」と言ったからだ。でも、中日 × オリックス戦のプロ野球中継はあるぞ、大丈夫か?>次男。でも、誰も次男のことなど心配してはいない。と言うのも、耐えられないのは「おとうさん」だけだと、みんな思っているからだ。なにくそ! 耐えてみせるぞ24時間。


■という訳で、あと25分ほどでこの MacBook をシャットダウンしなければならない。再起動は25時間後。

日曜日の夜から、話題の『ヤノマミ』国分拓(NHK出版)を読んでいる。とっても面白い。いま 178ページ。読んでいて、吸い込まれていくような、不思議と怖い感覚に襲われる。読みながら何時しか知らぬ間に著者と同化してしまっているのだ。だから、ぼくの魂が遠くアマゾンの奥地に連れさらわれたまま帰ってこれなくなってしまうような不安に苛まれてしまうのだ。

ちょっと呪術的で怖ろしい本。

■未開の地に踏み込んで、野蛮な原住民と接触する話は過去にもいっぱいあった。有名なのは、コンラッド『闇の奥』だ。ワイルド・シングスとか、バーバリアンとか呼ばれるアフリカの野蛮人を、当時のヨーロッパの人たちは徹底的にバカにした。いまのアメリカ白人が黒人を差別するような感覚とは決定的に違う。

差別とか嫌悪というのは、近親憎悪とでもいうか「同じ人間である」と認めているから生まれる感情だ。ということは、ヨーロッパ人はアフリカ原住民のことを「同じ人間でる」とは認めていなかったんだな。彼らは人間ではなくて「ペット」と同じなのだと。そういう感覚なのだ。だから差別も嫌悪もない。だって、人間じゃないんだから。

コンラッド『闇の奥』に登場する、象牙密輸人のクルツも同じ感覚だったに違いない。彼は「密林の王」になることを夢見た。しかし、闇の奥で何時しか精神を蝕まれ「怖ろしい!怖ろしい!」と、うなされながら消えていった。

『ヤノマミ』も構造的には『闇の奥』と同じだ。

闇、なのだ。全くの、闇なのだ。 初めての体験だった。それは月のない夜で、どこからか、ぬるく湿った風が吹いていた。。僕は赤道直下の深い森の中にいて、一人、陽が沈んでいくのを見ていた。

ただ、決定的に違っていたことがある。

NHK取材班の国分氏らは、彼ら「ヤノマミ」から人間以下の存在「ナプ」と呼ばれ、徹底的に蔑まれバカにされ、差別され続けたのだ。これは読みながらすごく意外だった。彼らに比べれば、圧倒的な科学技術と文明と文化を持つ我々のほうが逆に「人間以下」の存在としてヤノマミから軽蔑されたことに。

著者らは、「男」としても認められなかったらしい。だからこそ逆に、ヤノマミの男たちが決して見ることができない「女だけの現場」をカメラに納めることができたのだ。


「ヤノマミ」とは、彼らの言葉で「人間」を意味する。(つづく)

2010年5月27日 (木)

『パラドックス13』東野圭吾(毎日新聞社)

■今日の昼休みは、竜東保育園年長さんの内科健診。終了後に絵本を読ませてもらった。あまり考えずに、そこにあった絵本を持って行った。ただ、今日は『うんこ』は止めにしたのだ。

1)『ふわふわくもパン』 ペク ヒナ・作(小学館)
2)『つきよのかいじゅう』 長新太(佼成出版社)
3)『つきよのくじら』 戸田和代・作、沢田としき・絵(すずき出版)

 「つきよ」がダブってしまったな。


■最近は、読んだ本の感想を Twitter に書いてしまうので、ブログであらためて感想を書くのがめんどくさくなってしまった。でも、何を読んだのか記録に残らないとそれも困る。少なくとも面白かった本に関しては。そこで、Twitter上に書いたことを一部改稿してここに再録させていただきます。手抜きでゴメンナサイ。


■呟くのも、走りに行くのも忘れて2日間で読み終わった『さよならまでの三週間』C.J.ボックス(ハヤカワ文庫)。抜群のリーダビリティで一気読みだったが、読後のカタルシスに乏しい。惜しいな、星 3.75/5 点。


小説『さよならまでの三週間』は、角田光代『八日目の蝉』とイーストウッド『グラントリノ』を足して2で割ったような小説だ。しかも舞台がコロラド州デンバー。多田富雄『ダウンタウンに時は流れて』を読んで慣れ親しんだ土地だ。


非力な主人公が、突然理不尽な要求を突きつけられる。養子に迎えた9ヵ月の娘を、実父とその父親が3週間以内に返せ、と言ってきたのだ。しかもその相手は、デンバーでは絶対的な権威と信用を誇る連邦判事。最初から全く勝ち目はない。


しかし、主人公とその妻は養女が生まれてくる前から養子縁組をして待っていた。血は繋がっていなくとも、娘と父母に間には愛着形成が既に成されている。それを今頃になって引き離そうとしても無理だ。しかし、血縁では養女の祖父の連邦判事は容赦ないのだった。


しかも、実父にあたる判事の息子はまだ未成年の18歳。コイツがとんでもない不良で、地元のスパニッシュのギャングと連んで主人公の家族に次々と嫌がらせを始めるのだ。

我慢に我慢を重ね、耐えに耐えた主人公も、とうとう堪忍袋の緒が切れる。で、孤独な主人公がランボーの如く一人だけで絶対悪に立ち向かうのか、と思ったら、そうじゃないんだな。そこが、僕の一番の不満。


立ち上がるのは、主人公の幼なじみの親友2人と、その叔父さんで、主人公自身は安全地帯にいてずっと他力本願なんだ。ぼくはそこが気に入らない。似たような小説なら、ぼくは『ミレニアム2』のほうがずっと好きだ。リスベット・サランデルは決して他人を頼らないからね。でも、この「親友の叔父さん」のキャラが立ちまくりで泣かせるのだ。ここがこの小説の一番の読みどころデス!

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■サバイバル・ノンフィクションが大好きなんだ。『エンデュアランス号漂流』とか『脱出記』とか『凍える海』が。だから、フィクションでも『ザ・ロード』を読んで心が打ち震えたのだ。絶望的な状況下、圧倒的な自然の力に翻弄されながらも、それでも諦めずに前に進もうとする人間の姿に感動するのだよ。


そういった意味で、先ほど読了した『パラドックス13』東野圭吾(毎日新聞社)には十分満足した。いや、本当に面白かった。昨夜読み始めた時には鈴木光司『エッジ』と同じ話なのかもと危惧したんだ。宇宙規模での物理法則に人間が立ち向かう話だったから。


p398「諦めるわけじゃない。どんな法則があろうとも、俺は生き延びてみせる。みんなのことも生かしてみせる。俺は、この世に生命というものが誕生したのは奇跡だと思っている。本当ならこの宇宙は、時間と空間だけに支配されているはずなんだ。ところが生命が誕生したことで、」(つづく)

p398〜399「数学的に説明できない知性というものが生じた。それは時間と空間にとっては、とんでもない誤算だった。だったら、ここでもう一度誤算を起こさせることも出来るんじゃないか。それを期待したっていいんじゃないか」熱っぽく語る兄の顔を眺めながら、冬樹は苦笑していた。


ところで、この『パラドックス13』ぼくは全く読む気がなかった。『「悪」と戦う』を読み始めたばかりだったからね。でも、先に読み終わった次男が「おとうさんも読んでみなよ」って言ったんだ。たぶん彼には判っていたんだ、これは父さんの趣味に合う本だって。明日の朝になったら息子にそう言おう。

■以下は、 Twitter で呟かなかった追加事項です。


『パラドックス13』はジャンルとしては SF小説だが、帝国ホテルがモデルと思われるホテルのレストランで、ドンペリ飲んでキャビアをたらふく食って酔っぱらって倒れていた、13番目の生存者、SF好きの河瀬でも、さすがに「この小説」には「センス・オブ・ワンダー」を感じなかっただろうと思う。

ぼくも感じなかった。SF的な面白さはね。でも、リアルなサバイバル小説としては実に面白かったんだ。


小説の舞台が、大都市「東京」のど真ん中。田舎者のぼくだって、何度も歩いたことがある場所だ。銀座四丁目から晴海通りを「がんセンター」方面へ行ったり、東京駅の八重洲口地下とか、皇居周辺の内堀通りから永田町の国会議事堂をジョギングしながら眺めたこともある。

「あの場所」を、日本橋人形町に住む東野圭吾さんは、たぶんメチャクチャにしてみたかったんだな。そのめちゃくちゃ加減が凄かったのだ。ぼくだってリアルに映像がうかんだよ。ここが一番面白かったところだ。

そうだよな、ぼくだってまずは銀座の寿司屋へ行くよ(^^;;


ぼくの次男はまだ小学校6年生だ。こういうパニック小説だから、R15 的年齢制限が必要な描写は登場しないよなって、高をくくって読み進んだのだが、終盤で男女のセックスの問題が書かれていた。おっと、まずいじゃないか! もう遅いが。息子に質問されたら、どう答えればいいのだろうか?

2010年4月27日 (火)

『老人賭博』松尾スズキ(文藝春秋)

■ラジオ日本『ラジカントロプス2.0』で放送された「大森望・豊崎由美 文学賞メッタ斬り!(芥川賞 / 編)」を、いま聴いているところです。なんか最近は読むよりも聴いたほうが楽だな。今日初めて聴いたのだが、掛合漫才みたいでホント面白い。文化放送の木曜日「大竹まこと・大竹紳士交友録」で大森望氏の声を毎週聴いているので、こうやってポッドキャストを聴くほうが、耳に馴染んでいて思いのほか自然と頭に入ってくるのだな。これは発見。

■という訳で、ぼくはこの小説を一昨日帰りの東北新幹線「盛岡→東京」車中で読み終えた。小説の終盤、ぼくが「クククッ」と笑いを噛みしめながらページを急いで捲っているその左隣で、学会でポスター発表し終えたであろう小児科の女医さんは『1Q84, Book3』を「カバーも掛けずに」黙々と読んでいた。これって、案外驚きの事実かもしれない。だって、混み合う電車内では「買った本のブックカバー」をして他人には何を読んでいるのか知られたくはないのが今までの常識だったからだ。

つまりは、「読書」というのは個人的な体験であって、べつに他人に追体験して欲しいわけではないのだよ、本来は。でも、時代が求めるものは「ぼくがいま、読んでいる本をフォローして欲しい!」てなワケもありなんだね。そういう時代なのか。
まぁ『1Q84 Book3』だったから特別だったのか?

そうは言いつつも、ぼくだって『老人賭博』にカバーをかけずに読んでいた。だって、高遠町図書館で借りてきた本だったから(^^;;

■で、ようやく『老人賭博』松尾スズキ・著(文藝春秋)のはなし。


トヨザキ社長は例の小関老人を関根勤がよくものまねする名優、大滝秀治を思い浮かべながら読んだらしいのだが、ぼくは違った。やっぱり、バイプレイヤーの老人といえば、殿山泰司さんでしょう!(でも、このポッドキャスト聴いたら、大滝秀治のような気がしてきたぞ!)

なにゆえ、トヨザキ社長がこれほどまでに「この小説」に入れ込むのかと言うと、主題がギャンブルだからだ。

ぼくはギャンブルをしない。

だから、競馬・パチンコで身上潰しそうになったトヨザキ社長の気持ちはわからないし、この小説に登場する人たちが実にくだらないトトカルチョに熱中する気持ちが理解できない。ホントのことを言えば、ぼく自信は「ギャンブルは病気」だとさえ思っている。


それでも『老人賭博』松尾スズキ(文藝春秋)は、めちゃくちゃ面白い!
ラスト近くでは、読者も緊張感が高まってページを繰る手ももどかしいほど面白い!


バカらしいけれども、いのちを賭けているんだ。みんな。

それから、センセイを筆頭に、ほとんど精神的な「こども」しか登場しない小説だ。
唯一「大人」なのは、まだ未成年のくせしてタバコが止められないグラビア・アイドル「いしかわ海」だけだったりする。


人間て、なんて愚かでダメダメで、狡くてあざといんだろうと思いつつ、くだらないことに真剣に取り組んでいる人間の姿が妙に愛おしくて感動してしまったりもする実に不思議な感触の小説でした。芥川賞とれなくて残念だったね。


2010年4月10日 (土)

『考えない人』宮沢章夫(新潮社)その2

■前々回、タイトルだけで内容が伴わない記事だったのを反省して、続きを書きます。

書くからには責任持ってきちんとした感想を述べねばと思い、もう一度読んだ。
そして、気に入ったフレーズに付箋を貼った。もう、いっぱい貼った。
でも、その部分をここに書き出してみても、ちっとも面白くないんだな。


ただ、も一度読み終わってしみじみ思ったことは、
やっぱりぼくは、この本に登場する鈴木慶一さんより客観的に見ても「考えない人」だ。判ってはいたが、ちょっとショック。

鈴木慶一氏は好きだ。でも「この本」を読んだら、もっと好きになったよ。

  「ここに出るのか」
  「でかいなぁ」
  「そこまでは考えていなかった」
  「マン地下」。頭に「ロ」を付けると、「ロマンチカ」だ。ロマン地下。
   人はしばしば「度を越す」のだった。ではいったい、「度」とはなんだろう。
   火事は恐ろしい。なにも考えずに、パジャマ姿で外に出る。


以上、付箋を貼ったところを引用してみたが、どこが面白いのかぜんぜん判らないでしょ。


■ところで、新潮社の季刊誌『考える人』では、今でも宮沢章夫氏の「考えない」という連載は続いている。最新刊「はじめて読む聖書」(2010年春号)には、その連載31回が載っている。題して「ちくっとしますよ」だ。これにも笑った。もう、声をたてて笑ってしまったよ。ちょっとだけ引用する。


 病院で定期的に検査をしているのは、以前も書いたように一昨年の夏、心臓付近の大きな手術を受けたからだ。レントゲン、心電図、エコーといくつかある検査のなかで、私がもっとも好きなのは、血液検査だ。

なぜなら、血液検査は、なにも考えなくていいからだ。だってそうだろう。いったいなにを考える余地があるというのだ。シャツをまくりあげ腕を出す。親指を内側に入れてこぶしをつくる。ゴムの管で腕をきつく縛る。血管が腕の内側に浮かび上がる。(中略)


 では、レントゲンを撮られるとき、人はなにか考えているだろうか。
 血液検査と同様、なにも考えていないと思われがちだが、じつはレントゲンはさまざまなことを人に考えさせる複雑な検査である。なぜなら、レントゲンが目に見えないからだ。いったい、レントゲンというやつは何者なんだ。もちろん私も、レントゲンがどのように開発されたかについて多少の知識はあるし、「レントゲン」という名前がX線を発見したドイツの学者の名前からきていることぐらい知らないわけではない。

たとえば、X線を、日本の科学者が発見していたらどうだったろう。たとえばその人の名が権田原だったらどうだったか。

 病院に行くと係の人から言われるのだ。
「宮沢さん。きょうはまず、ゴンダワラの検査ですから」
 そんなものは受けたくないのだ。
(『考える人』2010年春号/新潮社 p260〜261)


あははは。ゴンダワラだって!

ゴンダワラ。凄い語感だ。
ラーメンズの「日本語教室」に出てきたら面白いのに。

2010年4月 6日 (火)

『考えない人』宮沢章夫(新潮社)その他の話題

■少し前のことになるが「こどもネット伊那」の井上さんが、この間の「独演会」の感想アンケートを持ってきてくれた。



●いつも病院にいる時の先生と
ぜんぜんちがくて ビックリしました。
すごく おもしろかったです。

●いつも北原こどもクリニックではお世話になっています。
先生がとてもおもしろくてビックリしました。
絵本もとても楽しいのばかりでまた子供と読んでみたいと思いました!
ありがとうございました。


●パパ's ライブも楽器持参で親子で足を運ぶ程、ファンです!!
知らなかった絵本によって 世界が広がっていく喜びは、
子どもだけでなく 大人も同じです。

また近くでライブがある際には
是非 駆けつけます!
応援しています!


●今日、初めて参加させて頂きました。
先生の明るく楽しいお話が
最後なのは残念です。
ぜひ、早い時期に活動を再開してほしいと思います。
              (3ヵ月児の母より)

ほか多数、頂戴しました。みなさん、本当にありがとうございます。


■このアンケート用紙を読んだ妻はこう言った。

「いつも診察室ではどれだけ無愛想なの? もっと明るくしたら?」


いや、でもぼくは「明石家さんま」じゃないのだよ。
24時間ハイテンションを維持することはとても出来ない。


このはなしは以前にもしたことがあるが、
ぼくがまだ開業する前、厚生連富士見高原病院小児科一人医長だった時のことだ。

ある昼休みの病棟休憩室で、当時の病棟婦長だった樋口婦長が言った。
「先生ね、このあいだ娘を諏訪の歯医者に連れてったの。そしたら、この歯医者さん、あっかるいのよ! はいっ! どうしましたぁ〜? って大きな声でにこやかに、まるで歌うようにね。先生も見習ったら」って。


そう言われた僕は、そうかなるほどな、と思った。
で、次の日の朝のこと。
小児科外来にやって来た最初の患者さんに対して
思いっきりの笑顔と大きな声で、
「はい〜っ、どうしましました〜?」って言いながら
聴診器をあて続けた。


そしたら、午前10時半前に疲れ切ってしまったのだ。
人間、無理しちゃ続かないね。

ぼくの場合、無理してハイテンションに持ってくと、
翌日の反動が大きいのだ。
一気に落ち込む。
いわゆる「エネルギー保存の法則」ってヤツだね。
別な言い方をすれば、「ゾウの時間とネズミの時間」てヤツか?違うか。

いいじゃないの、めったに見られない「ぼくのハイテンション」を見れたのだから。


てな言い訳を、直ちに妻に返す能力を持ち合わせてはいないので、
妻にそう言われて、ぼくはただ黙ってしまう。
そうすると、妻は決まってこう言うのだ。

「いま、すっごく考えているようなふりして、実は何にも考えていないんでしょ?」

ドキッとしてしまう。
そのとおりなのだ。なにも考えていないのだった。
ポーズを取って気取ってみても、
いつでも妻はお見通しだったんだね。


そうさ、おいら、何時だって考えていません。
そう開き直ってみたいものだ。


そしたら、
『考えない人』宮沢章夫(新潮社)という、おいらにピッタシの本を見つけたので読んでみた。おもしろい。じつに面白い! そして、笑える。


 そうだ。考えたってろくなことはないのだ。考えるなんて無駄である。人生の展望。将来の生活設計。老後の見通し。考えるな。考えたところで、それほど大差はないのであって、考えたからってビル・ゲイツの住むような豪邸に住めるかといったらそんなばかなことはないし、
(『考えない人』宮沢章夫 /新潮社 39ページ)


■そうは書いてあるのだが、じつは宮沢章夫さんはよーく深ーく考える人だ。
このエッセイ集の中核をなす「考えない人」も、新潮社の季刊誌『考える人』に連載されていたもの。
ひとは「考えない」で行動することがよくあるが、それってどういうことなのか? ということを深く深く考察したエッセイなのだった。それでいて、別に何かためになることが書いてあるわけではないのだな。そこがいい。

2010年3月28日 (日)

『通勤電車でよむ詩集』小池昌代・編著(NHK出版生活人新書)より

■詩は、シロウトなんだ。
でも最近、努めていろいろ読むようにしている。

童話館の『ポケット詩集』とか、谷川俊太郎とか、石垣りんの詩集とか。同人「荒地」の田村隆一の詩集や、タオ以前の加嶋祥造の詩集とか。あと、これはと思う詩人が編んだアンソロジーとか。『詩のこころを読む』茨木のり子(岩波ジュニア新書)や『詩の力』吉本隆明(新潮文庫)。


最近でた中では、『通勤電車でよむ詩集』小池昌代・編著(NHK出版生活人新書)がよいな。

シロウト向けかと油断したら、思いのほか手強い。安易な気持ちで手に取ると、ナイフで突き刺されたかのような
危ない「ことば」がいっぱい詰まっている。下手に理解しようなどとしてはいけないのだな、詩は。


そんな中で、初めてよく判る詩に出会った。これだ。


「胸の泉に」   塔 和子


かかわらなければ

  この愛しさを知るすべはなかった
  この親しさは湧かなかった
  この大らかな依存の安らいは得られなかった
  この甘い思いや
  さびしい思いも知らなかった

人はかかわることからさまざまな思いを知る

  子は親とかかわり
  親は子とかかわることによって
  恋も友情も
  かかわることから始まって

かかわったが故に起こる
幸や不幸を
積み重ねて大きくなり
くり返すことで磨かれ
そして人は
人の間で思いを削り思いをふくらませ
生を綴る

ああ
何億の人がいようとも
かかわらなければ路傍の人


  私の胸の泉に

枯れ葉いちまいも
落としてはくれない


小池昌代さんが、何故わかりやすい「この詩」を載せたのか?
作者、塔和子さんの略歴を読んで、
初めてその意味がわかった。


塔和子さんは、1942年にハンセン氏病となり、翌年からずっと香川県国立療養所大島松園での隔離生活を余儀なくされた人なのだ。国から、社会から、世間から、強制的に隔離されて、人のとの「かかわり」を一方的に拒絶されてしまった人なのだ。そういうことを知ると、「この詩」の意味が 180度反転して、ぼくの心に突き刺さってくるのだった。

2010年3月27日 (土)

『ゴールデンスランバー』伊坂幸太郎(新潮社)読了

■ 休診にしている今週の水曜日の午後、冷たい雨の中を車で松本まで行ってきた。
東宝映画『ゴールデンスランバー』を見るためだ。


原作を読んだ息子たちが春休み中に是非見たいと言っていた映画なのだ。
幸いなことに、その前日の深夜、ぼくも読み終わった。『ゴールデンスランバー』伊坂幸太郎(新潮社)


3月は何かと忙しく、ちょうど真ん中へんで中断してしばらく読まかったので、緊張の糸が切れてしまったのだが、それでも、展開が全く読めなくて、主人公の気分でハラハラドキドキしながら読了した。いや、面白かった。


読みながら思ったことは、この小説自体がビジュアルを意識して書かれているので、映画にしたらさぞやヒットするに違いないということだった。実際、映画になったものを見て、やっぱりなぁ、というシーンが幾つか。そうして、おっ! 映画ではそうきたのか! というシーンもいくつか。例えば、iPod の使い方とか、トドロッキーの台詞とか。驚いたのは、小鳩沢役で登場したあの「サード」の永島敏行が、常に無表情で無言のまま次々とショットガンをぶっ放すところだ。小説のイメージとは違ったが、ものすごく不気味だった。彼は映画の方がよかったかな。あと、キルオ役の濱田岳もよかった。


そして何よりも、本を読んでいる時には「音楽」は聞こえてこないワケで。
ビートルズがどうのこうのと本に書かれていても、手元に音源がなければ判らない。


でも、映画では堺雅人が、吉岡秀隆が、そして劇団ひとりも「ゴールデンスランバー」を口ずさむ。それがとってもいい。そして、ポールのオリジナルではなくカバーだけれども、バックで流される「ゴールデンスランバ〜〜」と歌うサビの部分は心に「ジン」ときたな。


主人公を囲む昔の友達。あわせて4人。
ビートルズといっしょ。

LP『レット・イット・ビー』が、彼らのラストアルバムではあるのだが、
最後にスタジオで録音されたのは『アビーロード』のほうなんだって。
4人の心はもうバラバラで、
それでも、みんなの心をつなぎ止めようとポール・マーッカトニーは奔走する。
そうして、誰もいなくなったスタジオで、彼は歌うのだ。


『ゴールデンスランバー』を。

原作を読んだ時には、ストーリーを追うのにやっとで、
作者の本当の意図を理解することができなかったのだが、
映画を見て初めてわかった。

あ、そうか。これは青春小説なのだと。
理不尽な苦難に陥った、かつての仲間を、
他の3人がタッグを組んで救う話だったのだ。


謀略小説でも、経済小説でも、スパイ小説でも推理小説でもない。
やっぱり、青春小説の王道なのだと。

■さて、この本の中でぼくが付箋を貼った場面をいくつか抜き書きしておきます。


「おまえは逃げるしかねえってことだ。いいか、青柳、逃げろよ。無様な姿を晒してもいいから、とにかく逃げて、生きろ。人間、生きててなんぼだ」


「結局、人っていうのは、身近にいる、年上の人間から影響を受けるんですよ。小学校だと、六年生が一番年長ですよね。だから、六年生は、自分たちの感覚がそのままなんです。ただ、中学校に入れば、中学三年生が最年長です。そうなると、中三の感覚が、自分を刺激してくるんですよ。良くも、悪くも。思春期真っ最中の中学三年生が自分の見本なわけです。」

「花火大会ってのはよ、規模じゃないんだよな」
「その町とか村とかによって、予算は違うけどな、でも、夏休みに、嫁いでいった娘が子供を連れて、実家に戻ってきて、でもって、みんなで観に行ったり、そういうのは同じなんだよな。いろんな仕事やいろんな生活をしている人間がな、花火を観るために集まって、どーんっ打ち上がるのを眺めてよ、ああ、でけえな、綺麗だな、明日もまた頑張るかな、って思って、来年もまた観に来ようって言い合えるのがな、花火大会のいいところなんだよ」


「イメージというのはそういうものだろ。大した根拠もないのに、人はイメージを持つ。イメージで世の中は動く。味の変わらないレストランが急に繁盛するのは、イメージが良くなったからだ。もてはやされた俳優に仕事がなくなるのは、イメージが悪くなったからだ。」


「分からない」青柳雅春は返事をする。「ただ、俺にとって残されている武器は、人を信頼することくらいなんだ」
 そいつはいいや、と三浦は噴き出した。「そんだけ騙されて、まだ信じるんですか? 物好きだなあ。」

「びっくりするくらい空が青いと、この地続きのどこかで、戦争が起きているとか、人が死んでいるとか、いじめられている人がいるとか、そういうことが信じられないですね。」

「前に小野君が言ってたんです。天気がいいとそれだけで嬉しくなるけど、どこかで大変な目に遭っている人のことも想像してしまうって」

「偉い奴らの作った、大きな理不尽なものに襲われたら、まあ、唯一俺たちにできるのは、逃げることぐらいだな」

「俺ね、頭は良くないけれど、それでも知ってるんだよね。政治家とか偉い人を動かすのは、利権なんだよ。偉い人は、個人の性格とか志とかは無関係にさ、そうなっちゃうんだ」

「なんか、そんな気がするんですよね。今はもうあの頃には戻れないし。昔は、帰る道があったのに。いつの間にかみんな、年取って」
 その通りだなあ、と樋口晴子は思った。学生時代ののんびりとした、無為で無益な生活からあっという間に社会人となり、背広を着たり、制服を着たりし、お互いに連絡も取らなくなったが、それでもそれぞれが自分の生活をし、生きている。成長したわけでもないが、少しずつ何かが変化している。

「みんな勝手だ」と青柳雅春は言った。「児島さん、今は信じられないかもしれないけどさ」と続ける。「マスコミって意外に、嘘を平気で流すんだ」とテレビを指さす。


「ビートルズは最後の最後まで、傑作を作って、解散したんですよ」学生時代のファーストフード店で、カズが熱弁をふるっていた。 
「仲が悪かったくせにな」と森田森吾が言った。
「曲を必死に繋いで、メドレーに仕上げたポールは何を考えていたんだろ」こう言ったのは誰だったか、思い出せない。「きっと、ばらばらだったみんなを、もう一度繋ぎ合わせたかったんだ」
 青柳雅春は背を壁につけ、膝を折ったまま、目を閉じた。聴きたかったのではなく、身体に吸収しているという気分だった。

「分かるのか?」
「信じたい気持ちは分かる? おまえに分かるのか? いいか、俺は信じたんじゃない。知ってんだよ。俺は知ってんだ。あいつは犯人じゃねえよ」

「結局、最後の最後まで味方でいるのは、親なんだろうなあ。俺もよっぽどのことがない限り、息子のことは信じてやろうと思ってんだよ」児島安雄は目を閉じたままだった。


「気にはしてるけど、あれだよ、児島さん、人間の最大の武器は、信頼なんだ」



■なんでここに付箋貼ったんだ? ってところもあったけれど、
次に読む妻のために付箋をはがさなきゃならないので、自分の覚え書きとしてここに残しておこう。

確かに荒唐無稽な話ではあるのだが、案外現実的だったりするところがかえって怖い。
市橋容疑者とか、中国の「毒入り餃子」犯人とか。


■原作者の伊坂幸太郎さんが映画の感想を述べているサイトを発見した。<ここ>です。
そうか、伊坂さんはいま、子育て真っ最中のパパなんだ。
ぜひ、子供関連の新作が読んでみたいものだぞ。

2010年3月26日 (金)

『赤ちゃんと絵本をひらいたら』(追補)

■医師会関係の会合が続き、忙しい毎日だ。今日は学術講演会の座長。


3月3日の午後、発達障害児の母子通所施設「小鳩園」で、
お母さん方に「子供の言葉の発達」について話をさせていただいたのだが、
その時のネタ本『ことばの贈りもの』松岡享子(東京子ども図書館)と
『子どもとことば』岡本夏木(岩波新書)の2冊を園長先生に預けてきた。
その本が、今日返ってきたのだ。


最近よく、赤ちゃんへの「語りかけ」や「読み聞かせ」の重要性が強調されるが、
おかあさんやおとうさんが、ただ一方的に赤ちゃんに語りかけていれば
赤ちゃんの言葉が生まれるという訳ではない。

そうじゃないんだな。


むしろ、おかあさん、おとうさんに必要なことは、
「赤ちゃんの語りかけ」に耳を傾けることなのだ。

『ことばの贈りもの』松岡享子(東京子ども図書館)p19〜20には、こんなふうに書かれている。

 講演のあと、ハリディ氏(しろくま註:子どもの言語習得に関して研究しているイギリスの言語学者)とことばを交わす機会があったので、「子どものことばを育てる上で、何が一番大切だとお考えになりますか」と、たずねてみました。すると、言下にかえってきたのは「子どものいうことをよく聞くことです」という答えでした。

 この答えは、私の耳に新鮮に響きました。というのは、それまでに私が耳にしていたのは、もっぱらおとなが子どもに話しかけることの大切さだったからです。保育者のあいだでは、それを「ことばかけ」と呼んでいたようでした。しかし、ハリディ氏は、こちらからことばをかけるより、向こうのいうことに耳を傾ける方が大切だといわれるのです。

「子どものいうことを聞く」といっても、赤ん坊であれば、ことばでいうわけではないでしょう。しぐさ、表情、顔色、声色など、ことばでないもので訴えているものを、しっかり受けとめるということでしょう。それらさまざまなサインに込められた意味を、おとなが理解し、それに合った対応をすれば、子どもは「通じた」という喜びを味わい、相手に対する信頼感を深めるばかりでなく、コミュニケーションへの意欲もわくでしょう。そのために自分が用いる手段 ---- ことばも、ことばでないものも ---- への信頼も強まるでしょう。


■『赤ちゃんと絵本をひらいたら』でも、最後の座談会のパートで、榊原洋一先生と佐々木宏子先生が「そのこと」の重要性に言及している。親と赤ちゃんとが対等の立場で「いっしょに絵本を読みあう」という、双方向に関わり合うことが人間としてのコミュニケーションの基礎となるのだと。


ブックスタートという活動は、絵本を仲介として、おかあさん、おとうさん、保健師さん、図書館司書さん、そして市民ボランティアさんらがみんなで、「赤ちゃんが発する信号」をキャッチする初めての貴重な体験の「場」になっているのだと思う。むしろ周りの大人たちが、真ん中にいる「赤ちゃん」からパワーをもらっているのだ。


一人でも多くの方々に「ブックスタート」の意義を理解して欲しいと、あらためて思った次第です。(おわり)

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