2015年9月13日 (日)

アート・ペッパー『おもいでの夏』(その2)

■前回の続き■

『ザ・トリップ』で、ぼくが一番好きな演奏は、A面2曲目に収録された「A SONG FOR RICHARD」だ。いまでもよく聴いている。これです。ジョージ・ケイブルスのピアノソロも実に美しい。


YouTube: A Song for Richard ART PEPPER


そして、この曲に続くのが、ウディ・ショウの名曲「スウィート・ラヴ・オブ・マイン」。エルヴィン・ジョーンズの控えめでありながら、全員をぐいぐいプッシュしてゆくドラミングが、とにかく素晴らしい。


YouTube: Sweet Love of Mine ART PEPPER

・このレコードが発売された年の 1977年4月に、アート・ペッパーは初来日した。

ただし、麻薬使用の問題から入国が危ぶまれたために、事前に宣伝されることもなく、カル・ジェイダー(vib)セクステットの特別ゲストとして、彼はひっそり来日したのだった。

しかし、どこかで噂を聞きつけた日本のファンは、公演初日の 1977年4月5日、東京芝の郵便貯金ホールに大挙して押しかけ、アート・ペッパーの登場を今か今かと待ち構えていたのだ。以下は『アート・ペッパー・メモリアル・コレクション Vol.1(ライヴ・イン山形)』(トリオ・レコード)の、油井正一氏のライナーノーツ(1983年3月24日記)冒頭部分です。

 1977年4月5日(火)はおそらくアート・ペッパーにとって生涯忘れ得ぬ夜だったと思う。カル・ジェイダー(vib) 六重奏団のゲスト・プレイヤーとして初めて日本のステージに立った夜である。芝の郵便貯金ホールでのことだった。

第二部に入ってジェイダーが「アート・ペッパー!」と紹介し、ペッパーが下手から白蝋のような顔で登場すると、客席は興奮のるつぼと化した。マイクの前まで歩み寄っても拍手は収まらず、ペッパーはなすところなく立ちつくした。

「おじぎをして拍手のおさまるのを待った。少なくとも5分間はそのまま立っていたと思う。何ともいえないすばらしい思いに浸っていた。あんなことは初めてだった。あとでローリー(妻)にきいたが、彼女は客席にいて観客の暖かな愛をひしひしと感じ、子供のように泣いてしまったという。僕の期待は裏切られなかったのだ。日本は僕を裏切らなかった。本当に僕は受け入れられたのだ。(中略)生きていてよかった、と僕は思った」(自伝『ストレート・ライフ』p469/ スイング・ジャーナル社刊)

■この時の演奏を、なんとTBSラジオが録音していたのだ。そして、1989年に『ART PEPPER  First Live In Japan』として発売された。聴いてみると、アート・ペッパーが舞台に登場したとたん、本当に割れんばかりの拍手が起こる。1曲目の「チェロキー」の演奏が終わった直後、客席から「うぉ〜〜!」と怒濤のような歓声と拍手が湧き起こる瞬間は、何度聴いてもゾクゾクする。

残念ながらYouTube には、この時の「チェロキー」の演奏はアップされていない。でも、CD5曲目に収録された「ストレート・ライフ」はあったぞ。


YouTube: Art Pepper Tokyo Debut -Straight Life-

■このCDのオリジナル日本盤のライナーノーツを書いているのが、『再会』ほか、ペッパー復帰後数々のレコーディングを手がけた石原康行氏だ。以下引用。

(前略)ペッパーとの7回のレコーディング・セッションの機会を持った私の個人的なエネルギーは何であったかと考えた。それは、1977年4月5日、アート・ペッパーが初めて日本を訪れ(カル・ジェイダーのゲストとして)あの会場を圧倒したファンの万雷の様な拍手でありペッパーのプレイであったことを再び想い出すことが出来た。そのライヴコンサートの演奏がこのアルバム「アート・ペッパー・ファースト・ライヴ・イン・ジャパン」の総べてなのである。(中略)

彼が代表的な白人アルト奏者として名声を受けていながら麻薬禍に浸り、監獄生活など波乱な人生を送っていただけに東京で聴くことが出来るとは夢にも想っていなかった。それだけに強烈な印象であり喜びでもあった。(中略)

現実的にはゲスト・プレイヤーが同行するとは聞いていたがペッパーが参加することは当日まで知らされていなかった(多分入国の問題などで)し、4月5日の当日の郵便貯金ホールは主であるカル・ジェイダーへの期待より、申し訳ないがゲストのペッパーに会場の聴衆は注目していたと云っても過言ではなかった。

第一部のカルのスケジュールが終了、第二部に入ってゲスト登場となる。そしてMCのペッパーの紹介に竜巻の様な拍手が会場をゆるがせると上手より、ペッパーがアルトを持ってステージの人となった。

決して健康とは云えない顔色から永い闘病生活の影が消えていないし、ペッパー自身も不安な面があったのではないかと思われる様な陰影があった。だが会場の拍手によりペッパーの顔が一瞬赤みを生み、日本のファンの歓迎を意外と感じた様であった。この日から彼は日本のファンに対して限りない愛着を持ったと後日話してくれ、以後この感激をペッパーは心の中に永く持ち続けることになったのである。(1989年12月26日 石原康行)

■油井正一氏と石原氏とで、アート・ペッパーが舞台の下手から登場したか上手からか違っているぞ(笑)。

ところで、石原氏によるアメリカでのレコーディングの現地コーディネーターを務めたのが、大村麻利子さん。ぼくには懐かしい名前だ。1971年ころだったか、中学生になってラジオの深夜放送を聴き始めた。当時よく聴いていたのが、TBSラジオ「パック・イン・ミュージック」火曜日の愛川欽也だ。

いまは「radiko」のネット・ラジオでクリアーな安定した音で聞けるが、当時TBSラジオを信州高遠で聞くのは必死だった。ラジオを954hz にチューニングして雑音まみれの微かな電波を拾っていた。夜11時くらいからだったか、TBSラジオで『麻利子産業株式会社』という不思議な番組を放送していて、DJを担当していたのが、大村麻利子さんだ。落ち着いた大人の雰囲気の彼女の声が実に魅力的で、一気に引き込まれたものだ。

ところが、それから間もなく番組は終了してしまう。大村麻利子さんがアメリカへ行ってしまったからだった。

■日本のファンのために、初来日の翌年、今度は自己のカルテットでアート・ペッパーは再来日する。彼の体調は芳しくなく、日本全国を廻る旅公演のタイトなスケジュール(21日間で、19公演)に疲労は重なるばかりだったが、それでも、行く先々で最高の歓迎を受け、気力だけで乗り切った。

この時の日本最終公演が山形で、やはり地元のラジオ局が録音した音源がレコード化(VOL.1 VOL.2 の2枚)されている。この「VOL.2」のほうに、「おもいでの夏」が再び収録されているのだ。

現在『ART PEPPER LIVE IN JAPAN』として、2枚組CDで出ている。

アート・ペッパーは快調に飛ばしているし、小さめの会場のためか、客席との一体感もアットホームな感じでいいのだが、個人的には、ミルチョ・レビエフのピアノがちょっと品がなくてどうしても好きになれないのだよなぁ。



2015年9月12日 (土)

今月のもう一曲。アート・ペッパー『おもいでの夏』

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■これは以前にも書いたような気がするが、ぼくがこの40年近く、一番多く何度も何度も繰り返し聴いてきたジャズレコードが、アート・ペッパー『ザ・トリップ』(コンテンポラリー)なんです。(ちなみに、最もよく聴いたフォークのレコードは、加川良『親愛なるQに捧ぐ』)

とにかく、生まれて初めて買ったジャズレコードだったから、大学1年生の学生宿舎で、暑い暑い夏だったか、来る日も来る日も「このレコード」を繰り返し聴いていたんだ。なにせジャズ素人でしょ、1回聴いただけじゃぜんぜん理解できなかったからね。しかも、当時2500円も払って購入したレコード。もったいないじゃない。だから、A面B面、何度も何度もレコードをひっくり返して聴きましたよ。で、だんだんと「ジャズの魅力」に取り憑かれていったのです。

どうして「このレコード」を買おうと思ったのか?

たしか、FM東京だか、NHKFMだったかのジャズ番組で、本多俊夫氏(アルトサックス奏者の本多俊之氏のお父さん)が紹介していたのを聴いたのだ。この時、ぴーんと僕の琴線に触れたのが、ミッシェル・ルグランの「おもいでの夏」だった。これです。


YouTube: The Summer Knows ART PEPPER

■この曲を収録するにあたって、アート・ペッパーはこう言っている。

「おもいでの夏」は偉大な作曲家、ミシェル・ルグランの曲だ。これに彼が付けたコードも素晴らしい。イントロのEフラット・マイナーの1小節、続くAフラット・マイナーの1小節あたりは最高だ。ここの繰り返しは、マイルス・デイビスのような感じで、物悲しく、寂しい雰囲気がよく出ている。そしてメロディに入るが、これがこの上なく美しい。

私はバラードを演奏するのが好きだからね。エルヴィンのワイヤー・ブラッシュも信じられないほど非の打ちどころがないんだ。(『THE TRIP』ライナーノーツより)

■アート・ファーマーの「おもいでの夏」も、なかなかに渋くていいぞ。これだ。


YouTube: Art Farmer / The Summer Knows

■ファースト・ネームが同じ、アート・ファーマー(tp) とアート・ペッパー(as) だが、案外共演したレコードは少ない。名盤『ザ・トリップ』を録音する (1976年9月15日&16日) のわずか1月半前に、ロサンゼルスの同じスタジオで収録された2人の貴重な共演盤が、『オン・ザ・ロード』アート・ファーマー(1976年7月26日28日&8月16日録音)だ。


YouTube: Art Farmer - Hampton Hawes Duet 1976 ~ My Funny Valentine

・YouTube では、残念ながら、ピアノのハンプトン・ホースとアート・ファーマーのデュオしか見つからなかった。



2015年9月 4日 (金)

今月のこの1曲。CRYSTAL GREEN『 FEEL LIKE MAKIN' LOVE 』

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■このところのBGMは、もっぱら クリスタル・グリーンの『レインボー』だ。このCDが録音された1976年5月15日というのは、超人気バンド「Stuff」も「STEPS」も、まだ誕生する前のはなし。それなのに、EAST WIND レーベルの日本人プロデューサーが「これは!」と見込んだ、ニューヨークの実力派スタジオ・ミュージシャンを集めて録音し日本で発売したレコードが「これ」なのだった。

参加ミュージシャンが凄い。マイケル・ブレッカー(ts)に、コーネル・デュプリー(g)、エリック・ゲイル(g)、ゴードン・エドワーズ(b)、スティーヴ・ガッド(ds)、ラルフ・マクドナルド(per)、ウィル・ブールウェア(key)。

アルバムの最後に収録されているのが、ロバータ・フラックが 1974年に全米チャート1位のミリオン・セラーを記録した名曲「FEEL LIKE MAKIN' LOVE(愛のためいき)」だ。


YouTube: Feel Like Makin' Love / M. Brecker S. Gadd C. Dupree

昨日、テルメで久々に走っていたら、iPod から流れてきたのが、またしても「FEEL LIKE MAKIN' LOVE」。歌っていたのは、マリーナ・ショウ。 本家のダイアナ・ロスよりも、ファンキーで楽しい。


YouTube: Marlena Shaw - Feel Like Makin' Love

最近、松尾潔氏の本や『新R&B入門』といった本を読みながら、1990年代以降の「R&B」を勉強しているところなのだけれど、近ごろ来日して再び大きな注目を集めている、ディアンジェロが2000年に出した傑作『Voodoo』を聴いていたら、なんと、また「FEEL LIKE MAKIN' LOVE」の登場と相成った。これだ。


YouTube: D'angelo - Feel Like Makin' Love

■TBSラジオ『菊地成孔の粋な夜電波』のゲストに、松尾潔氏が登場した回を聴いたのだが、その中で菊地成孔氏が「R&Bって、結局は房中音楽だからね」みたいなことを確か言っていたけど、なるほどなぁって思ってしまう1曲。




2015年8月21日 (金)

大貫妙子『私の暮らしかた』新潮社

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・引き続き、ミュージシャンが書いた本を読んでいる。大貫妙子さんの本は初めて読んだが、簡素だけれどシャンと背筋の伸びた気持ちのいい文章を書く人だなあ。

大貫妙子『私の暮らしかた』(新潮社)を「空蝉の夏」まで読む。大貫さんの御尊父が特攻隊員の生き残りだったとは知らなかった。たまたま偶然手にして読み始めたのだが、今日読んで本当によかった。ずしりと重く堪える文章。素晴らしい文章だ。「空蝉の夏」。

・この本は、季刊誌『考える人』2006年冬号〜2013年夏号に7年半連載されていたエッセイをまとめたものだ。この間に大貫妙子さんは坂本龍一氏と2人だけのコンサート・ツアーで全国を回り、秋田に田植えに行き、葉山の自宅の庭でせっせと草むしりに励むかと思えば、故障したエアコンに嘆きつつ、暑さの夏を冷房なしで過ごし、なついたノラ猫がタヌキの皮膚病をもらって死んで、その子供が今度は居着き、銀ちゃんて名付けて可愛がり、折角仲好しになったと思ったら、銀ちゃんはふらりと行方不明になってしまう。でも、ヤモリはまた夏になると帰って来るのだった。

そうこうするうちに、2011年3月11日が来て、大貫さんは東北の山へボランティアの「樹木の皮むき間伐ツアー」に一般参加する。

そうして、2012年の冬、脳幹出血のため大貫さんのおかあさんが亡くなる。さらにその一月後、お父さんも。

こうして読んでくると、大貫妙子さんにとって、大変な7年半だったのだなぁって、しみじみ思う。でも、彼女の淡々とした文章からは日々の日常の「なんでもない暮らしの大切さ」が、ひしひしと伝わってくるのだった。

 1973年にシュガー・ベイブを結成し、その後ソロ活動に移って、四十年が経った。そのとき一緒にバンドを組んだ山下達郎さんと会うたびに「こんなに長く続けるとは思わなかったね」と話す。彼のようにバリバリの現役がそんなことを口にするほど、商業音楽の地盤はつねに不確かなものだ。

 誰かに雇われている身ではない以上、音楽を書き続けなければ生活ができないということもあったと思うが、支持してくださる方がいなければ自分だけ頑張ってもどうしようもない。

 しかし現在、数々のアルバムを録音してきたスタジオもつぎつぎと閉鎖になり、今や都内のスタジオは風前の灯に近い。

 時代の要請はテクノロジーの変化と対であるように音楽もそうなのだ。レコードからCDになり配信ダウンロードになった。

 俯瞰してみれば、流行というのは、忘れた頃にまた同じようなものがやってくる。結局、創る者は自分の色を鮮明にして、愚直にやち続けることで、流行とは別のところに自分の場所を築き上げていく。音楽に限らずそういう人を私は支持しているし、そうやって長く続けている人はどんどん自由になっていく。

 先日読んだ小説の中に見つけた「自分の仕事はかならず自分にかえってくる」(松家仁之『火山のふもとで』)という言葉。自分が納得できないものは世に出さない、というのは、頑固というより自分に対する責任なのだと思う。(「荷物をおろして」221〜222ページ)

お父さんのことを語った「空蝉の夏」と、おかあさんとの別れを綴った「お母さん、さようなら」の2篇が、やはり白眉だ。

保坂和志氏の書評

会ったことのない祖母だが、私の中にはその面影が色濃く残っていて、60年を経てもその思いの強さが私を支えているように感じられてならない。「おまえは、死んだ母親に似ている」と、ときどき思い出したように父は私に言った。(83ページ「空蝉の夏」より)

・大貫妙子さんの決してブレることのない凛とした「生き方」は、たぶんこの「おばあちゃん」から受け継いでいるのだろうなぁ。そう思った。

2015年8月 6日 (木)

最近読んだ本のまとめ

■最近は、本を読んだ感想はツイッターでしかつぶやかないので、読書感想のツイートを時系列で列挙してみました。

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旅の途中から『タイタンの妖女』カート・ヴォネガット・ジュニア(ハヤカワ文庫)を読んでいる。面白い! いま、288ページ。まだ水星だ。著者は1922年にインディアナポリスでドイツ系移民の家庭に生まれた。兵隊で捕虜になったドイツ・ドレスデンで、身方の大空襲により死ぬ思いをした。

『タイタンの妖女』を読み終わった。いや、じつは初めて読んだんだ。カート・ヴォネカット・ジュニア。SF好きのふりして、ごめんなさい。ほんと面白かった! 今まで無視してきて悪かったよ。読者が主人公と共にジェットコースターに乗って、予想も付かない荒唐無稽な世界を体験できる希有な小説だ。

 

続き)読んだのは、松本「アガタ書房」で購入した新装版。古書で350円だった。老眼の身には活字が大きくて有り難かったよ。あわてて、納戸から1990年に新刊で購入したまま積んでおいた『猫のゆりかご』を探し出してきたところだ。活字は小さいし、「本書には真実はいっさいない」と書いてあるぞ

 

続き)ただ、『タイタンの妖女』ってタイトル。「宇宙英雄ロダーン」シリーズのB級スペース・オペラを連想させて、損してるよな。太田光氏が大好きなのは知ってたが、糸井重里さんも好きだったんだ。あと、たぶん『おおかみこどもの雨と雪』の監督さんも好きなんだと思うぞ。なんとなくね。

 

 

『芸人という生きもの』吉川潮(新潮選書)を読んだ。これはしみじみよかったなぁ。特に、すでに故人となった色物芸人たちへのリスペクトあふれる記述が読ませる。あと、玉置宏氏の章。ラジオ名人寄席で著作権問題をちくったKって、てっきり京須偕充氏のことかと思ったら違った。川戸貞吉氏だったか。(5月16日)

 

伊那の平安堂書店になくて、座光寺店にあったのを取り寄せてもらった『紙の動物園』ケン・リュウ著、古沢嘉通=編・訳(早川書房)をようやく入手。表題作に続いて『もののあはれ』を読んでいる。この人はほんといいぞ。昨日、いなっせ1F「ブックス・ニシザワ」の海外文庫の棚に1冊残っていたよ。(5月16日)

 

『紙の動物園』ケン・リュウ(早川書房)より、「太平洋横断海底トンネル小史」を読んでいる。これ、好きだなぁ。あっと驚く「歴史改変もの」+「黒部の太陽」みたいな苦難のトンネル掘削物語。ちょっと違うか?(5月19日)

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SFマガジン6月号より、ケン・リュウ「『 輸送年報』より「長距離貨物輸送飛行船」」を読む。これはよかったなぁ。『紙の動物園』のような若夫婦が2人きりで巨大硬式飛行船を中国蘭州からシベリア、アラスカを経てラスベガスまで飛行操縦して行く話。飛行船を使った状況設定がめちゃくちゃ上手いぞ(5月20日)

ケン・リュウ『紙の動物園』(早川書房)より「円弧(アーク)」を読み終わり、遠い目になっている。円弧というのは、日の出から日没までの太陽の航跡を表しているのかな。『100万回生きたねこ』みたいな話か。いや、だいぶ違うけど。

テッド・チャン『地獄とは神の不在なり』を読み終わって呆然としながらテレビを付けたら、WOWOWで昔映画館で見た『ベルリン天使の詩』やってて、ピーター・フォークが堕天使の先輩役として登場した。同じく天使が降臨する話なのに、びっくりするくらい違うぞ。

ケン・リュウ『紙の動物園』より、「文字占い師」を読む。う〜ん。これはズシリと重かった。台湾映画『非情城市』は公開時に銀座で見たけど、内容はすっかり忘れている。外省人の側からの視点が新鮮だ。あと「羊」という漢字。いまの日本国民を象徴する漢字でもあるな。(6月14日)

 

少しずつ読んできた『紙の動物園』ケン・リュウ著、古沢嘉道=編・訳(早川書房)。今日の昼休みで読了した。堪能したなぁ。各短編の配置が絶妙なんだ。だから、ラストの「良い狩りを」が一番好き。聊斎志異+テッド・チャン『息吹』か。あと「結縄」「太平洋横断海底トンネル小史」「円弧」が特に好き(6月18日)

 

密かにトイレで読み続けてきた『突然ノックの音が』エトガル・ケレット著(新潮クレスト・ブックス)。ようやく「金魚」まできた。「金魚」。これは傑作だ。最初読んですぐには、オチが分からなかったんだ。じつは。あと、個人的には保険外交員の頭の上へ自殺青年が降ってきた話がなんか好き。(6月20日)

 

続き)そうそう、「バッド・カルマ」ってはなし。あと、「嘘の国」と「プードル」もよかったな。『突然ノックの音が』(新潮クレスト・ブックス)より。(6月20日)

 

『突然ノックの音が』エトガル・ケレット著、母袋夏生・訳(新潮クレスト・ブックス)より「喪の食事」(p179〜183)を読む。たった5ページの掌篇なのに、主人公の女性がそれまで生きてきた何十年もの人生を追体験したかのようだ。これは泣ける。(7月1日)

 

続いて『孫物語』椎名誠(新潮社)を読み始める。あれ? 集英社じゃないんだ。『岳物語』と同じ判型・装丁に「わざと」しているのだね。(7月9日)

『TV Bros.(7.4 >>> 7.17)』創刊28周年記念超特大号を買ってきた。33ページ下段、豊崎由美「書評の帝王、帝王の書評」で、ケン・リュウ『紙の動物園』(早川書房)を「SFというジャンルを超え、一般読者に広く愛される可能性をはらむ『古典』になること必定の名作」と絶賛(7月1日)

大学生の頃、ちょうど少女マンガがブームで、大島弓子『綿の国星』とか「花ゆめコミックス」買って読んでたけれど、当時一番好きだったのが「清原なつの」だったから、彼女が連載していた『りぼん』は毎月買ってチェックしていた。そうすると必然的に、陸奥A子の藤色のペンケースとか付録で付いてきた(7月14日)

『本屋になりたい』宇田智子(ちくまプリマー新書)を読んでいる。挿絵は、なんと、高野文子! すごいじゃないか。1980年生まれの著者が、全国チェーンの大型書店(ジュンク堂)を辞めて、沖縄那覇市の国際通りからちょいと入った「市場中央通り」のアーケードで、3畳の古本屋を営むはなし。(7月1日)

『本屋になりたい』宇田智子(ちくまプリマー新書)読了。これはいい本だ。著者の真っ直ぐさ、一生懸命さが文章のはしはしから溢れていて、読んでいて何とも言えない爽やかで前向きな気分になれる。こういった書き手は貴重だ。女性の古本屋店主の本を読むのは、倉敷の「蟲文庫」田中美穂さん以来かも。(7月24日)

 

『突然ノックの音が』エトガル・ケレット。傑作「喪の食事」以後の6作を読了。皆なかなかの味わいだったのだが、やはり「グアバ」は短いだけに強烈だ。その次の「サプライズ・パーティ」の宙ぶらりん加減も好き。そして、本谷有希子さんの書評はさすが。(7月28日)

『ビッグコミックオリジナル戦後70周年増刊号』を買ってきた。パラパラとめくっていたら、山上たつひこ『光る風』が載っていて驚いた。どの部分だろう? と見たら、やっぱり兄ちゃんの場面か。そうだよな。ここだよな。(8月1日)

 

2015年7月31日 (金)

今月のこの3曲。 細野晴臣『三時の子守歌』と『熱帯夜』


YouTube: Ronny Jordan -Off the record -"Keep your head up"

・あっという間に7月が終わってしまう。おっと、そういえば「今月のこの1曲」がまだだったのだ。当初、ミシェル・ルグラン『ロシュフォールの恋人たち』のサウンドトラック盤を入手したので、今月は「You Must Believe In Spring」Bill Evans Trio にしようって、決めていたのだけれど、連日体温なみ(36.0℃)の猛暑が続く中で、春の哀しい曲の話はないよな。

でも、8月になっちゃうし、コルトレーンの「マイ・フェイヴァリット・シングス」では、ありきたりだし。そう悩みながら、テルメに行って iPod のイヤホンを付けたら、最初に流れてきた曲が、ロニー・ジョーダンの『Keep Your Head Up 』だったのだ。橋本徹監修の「ULTIMATE Free Soul / Blue Note 」の「CD3」6曲目に収録されている。

橋本氏の解説を読むと、こう書かれていた。

ロニー・ジョーダンは、90年代初頭のアシッド・ジャズ期にマイルス・デイヴィスの「So What」やタニア・マリアの「Come With Me」のカヴァーをクラブ・ヒットさせ、コートニー・パインらとともに、レア・グルーヴ〜クラブ・ミュージック世代のジャズ・アーティストとして人気を集めたギタリスト。ヴォーカルにフェイ・シンプソンを迎えたブラックネス薫るこのR&Bナンバーは、2001年の『Off The Record』に収録。

プロデュースはジェイムス・ボイザー&ヴィクター・デュプレ。ジェイムス・ボイザーは J・ディラやクエストラヴらとプロデュース・チーム、ソウルクリエイリアンズを結成した人物で、ブラック・ミュージック史に残るディアンジェロ2000年の金字塔『Voodoo』も彼らが手がけている。ビート・メイキングや空間構築のセンスやメロウネスは、彼とネオ・ソウル〜ネオ・フィリーの雄であるヴィクター・デュプレのセンスによるところが大きいだろう。

ロニーは残念ながら、2014年1月にこの世を去っている。

ロニー・ジョーダンのことは正直知らなかったのだ。案外聴きやすい「懐かしい」ギター・サウンドだな。そう、ウエス・モンゴメリーみたいな感じなのだ。

ウエスが CTI レーベルで出した『夢のカリフォルニア』を、1990年代〜2000年代でやったら「こうなる!」的な、ギター演奏なのだ。そこがいい。めちゃくちゃいい。どうにも面倒臭そうでアンニュイなヴォーカルのバックで、リフを繰り返すロニー・ジョーダン。その演奏のB級加減がたまらない。

ここで「この曲」を何度も聴いていたら、すっかり気に入ってしまい、結局アマゾンで中古盤を購入することになってしまった。近々届く予定です。

■ただ、ここ連日の猛暑を乗り切るべく、先だって伊那の平安堂で入手した『トロピカル・ダンディ』細野晴臣を日中はリピートしてずっと聴いてトロピカル気分に浸っている。ブルー・スペック盤は、確かに音がいい! しかも、ティン・パン・アレイ名義のレコードから細野さんの曲が4曲、ボーナス・トラックとして追加収録されているのだ。「北京ダック」とか大好きな曲がいっぱいあるけど、以前からよく知っていた「お気に入り」の曲が、『三時の子守歌』なのだ。

ぼくが最初に聴いたのは、アン・サリー。だから、オリジナルよりも「こっち」のほうが好き!


YouTube: 「三時の子守唄」聴き比べ♪ 細野晴臣~アン・サリー~西岡恭蔵

それから、やっぱりコレでしょう。「熱帯夜」


YouTube: Haruomi Hosono - Nettaiya (Tropical Night)


2015年7月27日 (月)

細野晴臣『とまっていた時計がまたうごきはじめた』(その3)

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このところ続けて「音楽本」を読んでいる。その音楽分野に関して既によく知っていればいいのだが、知らないミュージシャン、聴いたことのない楽曲が出てくると、読書を中断して YouTbe で検索し実際に聴いてみることになる。

ただ、これからは電子書籍で実際の楽曲とリンクさせたり、あるいは「紙の本」でも、著者が「Apple Music」に「プレイリスト」を作っておいて、読者は本を読みながらアクセスし、ストリーミングで「その曲」を聴くことができるようになって行くのだろうなぁ。特に、いろんな音楽ジャンルのガイドブックの立ち位置が激変する予感がする。

田中康夫『たまらなく、アーベイン』(河出書房新社)も、再刊にあたっては取り上げたレコードのジャケット写真くらいは新に載せて(もちろんカラーでね)、最後のインデックスも、今現在「その音源」を入手アクセスできる形で丁寧に作り直してくれてあれば、もっと売れたんじゃないか? 著者があくまでも「完全復刻版」にこだわった意味はなに?

米歌手ホイットニー・ヒューストンさんの娘ボビー・クリスティナ・ブラウンさんが26日に亡くなりました。22歳でした。今年1月末に自宅の浴槽で意識不明でいるところを発見されて以来、意識が回復しない状態が続いていました(英語記事) 

つい先程の、ぼくのツイート

ちょうど『松尾潔のメロウな季節』松尾潔(SPACE SHOWER BOOK)を読み始めたところで、いま47ページ。ボビー・ブラウンの項のラスト。ホイットニー・ヒューストンが愛娘ボビー・クリスティーナを抱っこして出てきた場面。次のページの追記も読んだ。なんということだ。享年22。

 

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■ さて、細野さんの本『とまっていた時計がうごきはじめた』(平凡社)の続きです。

 

たぶん我慢してるわけじゃないんだよ。堪え忍んでいるという感じもぼくにはぜんぜんない。きっと忘れてるだけだよ(笑)。日本人は本当に忘れっぽいんだと思うな。

---- 単に、忘れっぽい?

ぼくもそうだけど、どんなにイヤなことがあってもすぐ忘れちゃうから。

---- それってある種、日本人の才能なんでしょうか?

そう、才能かもしれない。それでも忘れちゃいけないことはあるんじゃないかとは思うよ。特にこの一年くらいの間の出来事は、まさか忘れることはないだろうとは思うけど、忘れようとしてる空気は感じるね。(24〜25ページ / 2012/7/11 白金のスタジオにて)

SP盤は聴くよ。だけど、普通のレコードを聴けるプレーヤーはどっかにしまっちゃったから。

---- 蓄音機だけがある?

 地震のときに倒れちゃって、脚が折れたのね。それで横倒しのまま。直さなきゃ。あれは停電のときのために取ってあるようなもんだね。蓄音機は電気を使わないから。(75ページ)

 こないだまたキャラメル・ママが集まって、なおかつユーミンも来てね、大貫妙子トリビュートをやったんだよ。前に集まったときもそうだったんだけど、みんななにも変わってないなと思った。若いなと思ったの。みんな還暦だけど、いろいろなことが巡って、最近またキャラメル・ママのみんなとつながってる感じがしてるんだ。

---- いいですね。やっぱり、大きくひと巡りしたんですね。

 そうかもね。そういえば震災後2年以上経つけど、あれから最近まで自分のなかの時計がとまっていたことがこの前はっきりしたんだ。

---- 細野さんのなかの時計がとまっていた?

 うん。震災から放置していた部屋の荷物を整理しはじめたのがきっかけなんだけど。自分の声が聞こえたの、天の声みたいに。「いま片付けないと寿命が縮むぞ」って言われたんで、もう少し生きたいから部屋を片付けたんだ(笑)

 (中略)

 それで十月に入ってやっと取りかかったんだけど、地震で倒れたままだったゼンマイの蓄音機を起こして、脚が折れていたのを直したんだ。なかにホーギー・カーマイケルの「香港ブルース」のSP盤が入ってたんだよ。それでゼンマイを巻いてかけてみたら、ちゃんと音が出た。そこから時計がまたうごきはじめて、いろんなことが起こりはじめた。(中略)

福島に行くとみんなそうなんだよ。みんな時計がとまってるって言うんだ。ぼくもそこは共有してた。(283〜285ページ)

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■「香港ブルース」は、『泰安洋行』の2曲目で、細野さん自身がカヴァーしている。

ホーギー・カーマイケルと言えば、ジャズ・スタンダード「スターダスト」の作者として有名だが、まだ学生時代に、薄倖の天才白人トランペッター、ビックス・バイダーベックに見出され、彼のバンドでピアノを弾いていた。

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---- そういえば最近、大瀧さんと連絡を取られたって聞きましたけれど。

 うん。そう。人づてにメッセージを伝えてもらったんだよ。

---- なんてお伝えしたんですか?

 作品をつくる気になったらいつでも手伝うよ、ってなことを伝えたんだけどね。

---- 返事は来ましたか?

 来た来た。「それは細野流の挨拶だ」って(笑)。(中略)

そういえば、昔、はっぴいえんどがやくざにからまれた話ってしたっけ?

---- なんですかそれ?(笑)

 昔、霞町のあたりに新しいうどん屋ができたって言うんで、みんなで食べに行ったんだよ。そしたら、ぼくらが食べてる向こうに、着流しを着たやくざと弟分がいてね。

---- 着流しですか?

 そう。あのころはまだいたんだよ。で、大瀧くんがあの目つきでしょ。「なにガンくれてんだ」ってその着流しの五分刈りにからまれてね。「表に出ろ」って言われて、仕方なく出て行ったわけ。で、舗道に並ばされて、五分刈りが「懐には匕首(あいくち)がある」って脅かすんだ。

---- で、どうしたんですか?

 まず大瀧くんの謝罪からはじまった。この流れじゃとりあえずそうするしかない。悔しかっただろうな。で、そのあと順番にメンバーの腹を殴っていくわけだよ。まず、鈴木の腹をどん。で、茂が「うっ」ってうずくまる。次に、松本がどん。で、「うっ」って。

---- で、いよいよ。

 そう。自分の番になって、どん、ってどつかれるんだけど、なんと驚いたことに寸止めなんだよ。

---- え? どういうことですか?

 あてないの。寸止めで殴ってるフリをしてるわけ。

---- 細野さんどうしたんですか?

 こっちも殴られたフリをするわけだよ。「うっ」って(笑)。

---- どういうことなんですか?

 つまりね、その着流しは、連れの舎弟に向けて自分の強さを見せつけてるわけだよ。

---- 一種のプレイなんですね。

 そうそう。あれはなかなかの職人技だったよ。

---- ある意味、洒落てますね。

 そうとも言えるね。ダンディズムというか。昔はそういうのがいたんだね。霞町のあたりって、あのころはちょっと怖い人もいたんだ。

---- へえ。初めて聞く話ですね。

 内緒にしといてね(笑)。

(288〜291ページ / 対話8 / 2013/10/29 神保町カフェ・デ・プリマベーラにて)

 

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■この(対話8)が収録された2ヵ月後に、大瀧さんは帰らぬ人となってしまった。

次の(対話9)は、7ヵ月後の2014年6月17日に細野さん家の白金のスタジオで行われている。もちろん、大瀧さんの話から始まるわけだが、詳細は「原著」をあたってください。

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  いや、その(大瀧さんの追悼曲を書くこと)前にやることがあるんだよ。

---- そうなんですか?

 大瀧くんとの出会いは、はっぴいえんどからはじまってるわけだけど、そのころのいろんなことを最近よく思い出すんだよ。ぼくは最近カバーをやることが多いじゃない? バッファロー・スプリングフィールドなんかも、ついこの前は「ブルーバード」をやりはじめたんだよ。レコーディングでね。

---- 元に戻っちゃったんですね。

 そうそう(笑)。だから、はっぴえんどを自分のなかで再確認したいというかね。順番としてはそっちのほうが先なんだよ。「Daisy Holiday!」というラジオ番組で大瀧くんの特集をしたときも、大瀧くん本人の曲はかけなかった。ぼくにとって重要なのはバックボーンだから。

そういうことを、もう一度会って話したかったし、確認したかった。どういう時代に生まれて、どういう音楽を聴いてきたのかということはすごく大事なことだから、それをもう一度確認し直すということが、いまやっている仕事の目的。それが、カバーをやってるということの意味なんだ。(318〜319ページ)

---- 世の中のことは考えてます? 新聞のクリッピングはいまでもやってますか?

 やってるよ。新聞じゃなくてネットのあらゆるソースだけど。(中略)

 パソコンに「アカンやろ」っていうフォルダがあるんだけどさ、そのニュースは「アカンやろ」行きだね。

---- 「アカンやろ」? なんで関西弁なんですか?

 わかんない(笑)。(329〜331ページ)

 打ち上げでアッコちゃんと話したよ。アッコちゃんのレパートリーの曲でね、ニューオーリンズ的なリズムの、アラン・トゥーサンっぽい曲があるんだよ。それをティンパンでやると、なんの説明もなくても、すぐにそのノリになる。一拍子みたいな感じにね。

アッコちゃんはそれを意識しているみたいで、このノリが出せるのはあなたたちしかいないから長生きしてねって言われたよ(笑)。

---- 本当ですよ。もはや国宝級。

アッコちゃんはいつもアメリカでレコーディングするでしょ。ミュージシャンたちに毎回「Roochoo Gumbo」を聴かせるんだって。みんな「コレはすごい」って言うんだけど、同じことはできないんだって。不思議だよね。

---- 以前、清志郎さんがメンフィスでレコーディングしたときに、細野さんが日本から送ったトラックを聴いたプロデューサーのスティーヴ・クロッパーBOOKER T. & THE MGs のギタリストだった)が、「こいつは誰だ、何者なんだ? ナニ人なんだ?」って言って、その仮歌のハミングをそのまま採用したという話がありましたよね。

 あったね。

---- すごく好きな話なんです。細野さんは、仮歌だから適当に歌ってるんだけれど、ノリをちゃんと理解してやっていることがクロッパーにもわかるわけですよね。本歌取りっていうヤツですね。向こうのミュージシャンができないことを、日本人がやってるっていう。(352ページ)

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■それから、載せきれなかったけど、注目すべき箇所を最後に挙げておきます。

・映画監督ロマン・ポランスキーの奥さんが惨殺された「シャロン・テート事件」の真相

・細野さんの血液型がA型だったということ

・日本語ロック論争で犬猿の仲だったはずの内田裕也さんが、楽屋に挨拶に行った細野さんをジョー山中に「こいつナイスガイなんだよ!」って紹介したはなし。

・『ロング・バケイション』が出る少し前に、大瀧さんが細野さんの白金の家へキャデラックで乗り付け会いに来たこと。YMOで大活躍の細野さんへの「決意表明」だったと。こんどは俺の番だという。

・いまの若い人たちの音楽観への苦言

 ただ、なりゆきを見ると、ひとりひとり持っている音楽の世界を、それぞれが間違ったやり方で表現しちゃったように見えるな。自分が聴いたものを、そのまま表現しちゃう。自分のなかから出てくる音楽じゃなくてね。

じっくり煮詰めてないし、勉強が足りない感じだ。音楽をより深く知るということが足りないんだ。音楽という、昔から続いている文化の流れが、どれくらい自分にも入ってるか、そこにどうやって自分が加わるのか、音楽の海に自分がどうやって入っていくのか。そういうことについての勉強はみんな足りなかったね。(『とまっていた時計がまたうごきはじめた』143~144ページ)

2015年7月24日 (金)

細野晴臣『分福茶釜』と『とまっていた時計がまたうごきはじめた』(平凡社)

■前回のつづき。読んだ本の感想を書いてなかったので、もう少し追加の話題。

しばらく前のツイッターには、こう書いた。

『地平線の相談』があまりに面白かったから、細野晴臣『分福茶釜』(平凡社)を読み始める。あ、「ご隠居さん」と「八つぁん」の、お気楽のほほん対談は、こっちが元祖だったんだ。でも判った。細野さんは、生粋の江戸っ子なんだね。父方の祖父はタイタニック号の生き残りで、母方の祖父はピアノ調律師

『分福茶釜』細野晴臣&鈴木惣一朗(平凡社)読了。細野さんて、アニミズムの人だったんだ。長新太みたいな人なのだ。しみじみ尊敬。この本もとても面白かったから、5年後に続篇を出すと予告されて、6年後に最近出た続篇『とまっていた時計がまたうごきはじめた』(平凡社)も読むぞ!

■というワケで、『とまっていた時計がまたうごきはじめた』(平凡社)を読了した。これまた面白かった。すごく。

ぼくなんかが読後感想をアップするまでもなく、この対談本のポイントを見事に押さえたサイトがあった。「本と奇妙な煙」だ。

『地平線の相談』

『分福茶釜』

『とまっていた時計がまたうごきはじめた』(その1)

『とまっていた時計がまたうごきはじめた』(その2)

でも、読者それぞれが「重要」と思うポイントは、案外ぜんぜん違っていたりして(まぁ、ぼくだけズレているのかもしれないけれど)面白いなぁと思った次第です。

以下、ぼくが注目した部分を少し拾ってみますね。

細野:そういう自覚はないんだ。苦労してきて、「ああ、いつもツイてないな」と思ってここまで来た。不運な音楽家。ホントなんだよ、これ。はっぴいえんどはたかだか2年ぐらいやって、全然売れないから、誰も聴いてくれないや、って感じで辞めたと。

ソロをつくった。誰か聴いてんだろう、そこそこ数千枚は売れるけど別に誰が聴いているかはわからない。全然話題にもならなかった。で、その後クラウンに移ってつくった二枚。あれはもっと孤独だった。いままで聴いていた人がみんな離れちゃった。怖がって。(中略)

そう。追いやられてた。とにかく苦労してきた。全然売れなかったんだよ。で、YMOで売れちゃったら、それはそれで別の苦労があった。(『分福茶釜』15ページ)

YMOをやるときは、実は、YMOをやるか、あるいは高野山に行くかで迷っていたんだよ。

---- 世を捨てるってことですか?

いや、そういうことじゃない。ぼくのアイドルはその当時、お釈迦様だったんだ。お釈迦様は29歳のときに出家したんだよ。で、36歳か37歳のときに悟りを開いた。その頃、ちょうどぼくは同じ年頃だったから、「今だったらできるな」と思ったんだ。京都のお寺に通っていたし、お坊さんとも知り合いだったから、本気で得度しようと思ったらできたかもしれない。

(『分福茶釜』25ページ)

 はっぴいえんどをやっていた頃から、日本に自分たちの居場所をみつけられないって感じはずっとあったんだよ。かといってアメリカにもみつけられない。それで「さよならアメリカ、さよならニッポン」っていう曲をバンドでつくったんだけど、それで両方いられる場所はないっていうことはわかった。

ちゃんとした国籍が持てないっていうか、「自分は日本人だ!」っていう意識は持てないし、かといってアメリカ人でもない。浮いている存在だって、そういう気持がその後ずっとだらだらと続いた。

---- 今もその感じはあります?

今もあるね。だからハワイに行ったらぴったりきた。日本とアメリカの中間だから。マーティン・デニーとか聴いてぴったりきた。それはエキゾティシズムってものと結びついて今も続いてるんだけど。

でも、最近はちょっと変わってきている。自分に江戸っ子気質ってものが出てきたんだ。(中略)ぼくは昭和22年生まれだから、まだそういうものが残っている時代だった。おばあちゃんとかが身のまわりにいたしね。そういうなかで育っているから、案外それが身に付いているんだ。(『分福茶釜』58〜59ページ)

---- (おばあちゃんは)キビシイ人でした?

やさしかった。落語が好きだったり、歌舞伎が好きだったりっていうことで影響を受けたりしている。おばあちゃんだらけだったんだよ、まわりは。おばあちゃんの妹も近所に住んでたし。みんな江戸っ子っぽくてね。

特別な教えなんかないよ、もちろん。でも仕草や言葉だよ、影響されるのは。おならなんて言わないんだよ。「転失気(てんしき)」って言うんだよ。(『分福茶釜』61ページ)

---- 漫画好きですよね。

 映画と同じくらい好きだね。本よりも好きだった。諸星大二郎とか、花輪和一とか。いいんだよ、シャーマニズムの本質が描かれてて。あとは『サザエさん』。何度も読み返す。

(『分福茶釜』159ページ)

「美しい国」って安倍晋三が言ったとき、ちょっと怯えたの。怯えてる人はいっぱいいたんだけど、ところがテレビに出てくるような人たちは何も言わないんだよね。言うべき人が何も言わなかったら、どうなんだろうと思って、ぼくはラジオで何か言わなきゃ、言葉にしなきゃいけないと思って、「憲法改正はいやだ」と言ったんだ。「戦争放棄なんて、カッコいいじゃん」て。

だって、若者はそう思うべきだから。若者のなかに憲法改正賛成なんて言う人がいるって知って、ちょっとイヤだったの。「戦争放棄」なんて紙に書いた一行だけどさ、これがあるかないかでカッコよさが違うから。

スイスってのは永世中立国っていう特異な国家だけれども、そのためには軍隊を持たなきゃいけないわけだ。でも、その上をいくのが日本の憲法。戦争放棄なんて、奇跡的なことなんだ。笑っちゃうくらい。よくそんなことが書かれたなと思うわけ。

だからこそなくなったら二度とつくれない。だって非現実的だから。だからこそ、絵空事でもなんでもいいけど、その文面は残しておかないといけない。

  (中略)

 でも、世の中まだそこまで行ってないと思うから、今のうちになんかこう声に出して行動しておかないと、と思う。ぼくは決して楽観的じゃないから、今後世の中がどうなっていくか知らないけれど、一切語ることもできなくなるって時代もあり得るわかだからね。

日本は戦争中がそうだったんだ。そのなかにも石橋湛山みたいな人もいたけど。今はまだ言えるんだから、言えるうちに言わないと、という気持ちがある。嫌われようと、嫌がられようとね。(『分福茶釜』118〜120ページ / 2008年6月10日初版発行

 ぼくは右も左もないからね。もうそんな時代じゃないしね。それを新聞に書いたらめちゃめちゃ叩かれたけど。誹謗中傷の嵐。右翼だとかも言われた。

---- 細野さんがですか?

 うん。もうそんな時代じゃないでしょ。昔からぼくはノンポリで通してきたんだけどね。結果は左寄りに見えたんだろうけど、「ぼくらは単なる音楽好きだよ」っていう思いしかなかったから、それすらも違和感があった。

ぼくには、右も左も同じに見えるんだ。実際、当時の左翼はみんな右翼になっちゃったし。ディランについて言えば、ディランは左翼じゃないし、プロテストもしてない。心情的にイヤなことをイヤだって言ってるだけなのに、誤解されていると思う。(中略)

---- ディランはかつて、ユダヤ系だったにもかかわらず、クリスチャンの洗礼を受けて批判を浴びましたよね。その後、クリスチャンであることもやめちゃいましたけど。

 信仰心をテーマにしたことは深いことだと思うよ。右とか左とか単純な割り切りではできない。主義主張っていうのは左脳的なことだけど宗教はそうじゃないから。ちなみに、ぼくはアニミズムだよ。それがいまの基本。ものごとを分けること自体がバカバカしいって思ってる。(『とまっていた時計がまたうごきはじめた』102〜103ページ / 2014年11月25日初版)

2015年7月17日 (金)

引き続き、ずっと「細野さん」を読んでいる(聴いてもいるんだ)

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■つい最近、ニール・ヤングの『After the Gold Rush』(今まで持ってなかったのだ)の中古盤をネットで安価で入手した。聴いてたら、何故か無性に「エンケン」が聴きたくなったのだ。遠藤賢司は、日本のニール・ヤングだからね。(エンケンが本人に会った時、自らそう自己紹介したらしい)

ただ、わが家にあるCDは『満足できるかな』だけだ。

CD棚の奥の方、加川良や高田渡、友部正人のCDが並ぶその横に、エンケン唯一のCDはあった。久しぶりにかけてみると、これがまた実にいい。本家のニール・ヤングよりもいいぞ。ぼくがこのレコードで一番好きな曲は、当時エンケンが飼っていた「寝図美」という名前のネコのことを歌にした「寝図美よこれが太平洋だ」。

エンケンがウクレレを弾きながら歌うそのバックで演奏しているのは、大瀧詠一以外の「はっぴいえんど」のメンバー3人。そう、鈴木茂・松本隆、それから、細野晴臣。アット・ホームで和気藹々としてて、実に楽しそうなその収録風景が、目に浮かぶようだ。1971年の録音。その前年に収録された『niyago』(URC)にも、「この3人」は律儀に参加している。

どうも、遠藤賢司と細野さんは、ずいぶんと昔からの友だちなのだな。そのあたりのことは、エンケンの「このインタビュー」に詳しい。茨城から出てきて一浪の後大学生になったエンケン(19歳)が、買いもの帰りで片手に大根ぶら下げて、もう片方にはドノバンのレコード(たぶん『カラーズ』だ。)を持ち、友だちと二人でアパートへ帰ろうとしてたら、電話ボックスから声を掛けてきたのが細野晴臣(まだ高校生の18歳)。この時が初対面。

その場で「うちに遊びに来なよ」って細野さんに言われて白金の実家へ行くと、細野さんのお母さんが、ケーキと紅茶を出してくれて、調子に乗ったエンケンがギターを掻き鳴らしながら絶叫したら、細野さんのお母さんが、ガラッと戸を開けて「静かにしなさい!」って言うくだりがすっごく好きだ。

細野さんて、いいとこのお坊ちゃんだったんだね。

それからずいぶんと経って、エンケンが松本隆の家に遊びに行って聴かせてもらったのが、バッファロー・スプリングフィールドのLPで、ニール・ヤングの「I Am A Child」だったワケで、この時、エンケンは初めてニール・ヤングの歌声を耳にした。

大瀧詠一さんが、初めて細野さんと会ったのも、白金の家の細野さんの部屋。

この時の話は有名だ。ぼくでも知ってる。詳細は「この細野さんのインタビュー」を参照して下さい。黒澤明『七人の侍』の前半、志村喬が「これは!」と思う用心棒たちをリクルートする採用試験のことね。

「こちら」の方が、もう少し読みやすいかも。出会うべき人たちは、必然的に出会うように運命付けられているのだな。

総説「細野晴臣論」として最も優れているのは、『レコード・コレクターズ/MAY.,2000 / Vol.19,No.5』44〜47ページに載っている「内なる響きを求める旅人 細野晴臣の音楽とは?」湯浅学 だと思う。その最初のフレーズを採録する。

 いくつかの断層があるように思う人もいるかもしれない。しかし、細野晴臣の音楽活動には不動の姿勢がある。それは常に自分の中で新鮮なものを求め続け、それを作品として表明する、ということである。

しかもそれら ”そのときどきで心底新鮮だと思えたもの” を、それが新鮮だと感じられなくなった時でも葬り去らない。自分の中から消去しないのだ。身体のどこかにそれらは収納される。

 細野晴臣は音楽を消費しない。好奇心によって蓄積してゆく。それを開陳する術には奥床しさがともなっている。それはこの世代特有の美学なのかもしれない。と思う反面、細野のように自分の感覚を常に開放し続けながら、音楽にひたすら従事してきた者はきわめてめずらしいとも思う。

細野は涼しい顔をしてしぶといことをやってきた、という印象が強い。

『音楽が降りてくる』湯浅学(河出書房新社)31ページより。

この文章が再録された、湯浅学氏の音楽評論集『音楽が降りてくる』には、その前後に「日本語はロックにのるか 日本語のロック vs 英語のロック」「ロックとは? 自問自答の中でまさぐった ”ニュー”」「洋楽好きだからこそなしえた発想と実践 はっぴえんど」「”自分のことば” で歌い続ける 遠藤賢司『niyago』ライナーノーツ」「菩薩の誘い、人生の一大事 遠藤賢司『満足できるかな』ライナーノーツ」「漂うべき空を失った煙の行方 加藤和彦 追悼」

など、重要文献満載なのであった。特に、エンケンのライナーノーツは熱い!

エンケンからニール・ヤングに再び話題は戻る。これで円環が完成だ。

先日読み終わった『とまっていた時計がまたうごきはじめた』細野晴臣、鈴木惣一朗(聞き手)平凡社。

この本も実に面白かったぞ。特に、編集者やインタビュアーが狙った「本筋」からは外れてしまった些細な話題に、個人的には興味が引かれた。

例えば、ニール・ヤングだ。以下引用。

鈴木:ニール・ヤングの自伝には、鉄道模型が彼の癒しアイテムなんだって書いてありました。

細野:鉄ちゃんなの?

鈴木:そう。鉄ちゃんなんです。ニール・ヤングは子供がふたりいるんですけど、ふたりともダウン症で。その子供たちとのコミュニケーションのために、鉄道模型をはじめたらしいんです。自宅にすばらしいジオラマがあるらしいんですけど、ほとんど誰にも見せないんですって。見たのはデヴィッド・クロスビーぐらいだって書いてありましたけど、ニール・ヤングはツアーが終わって家に戻ったら、ジオラマで鉄道模型をいじって過ごすという、すごく静かな生活をしてるんですよ。

細野:誰にも見せたくないという気持はよくわかるな。でも、彼の子供がダウン症だとは知らなかった。

鈴木:ニール・ヤング自身も子供のころ、小児麻痺を患っていたそうです。それで、子供の母親はそれぞれ違うから、ニール・ヤングは自分自身に問題があるんだって責めているそうです。

細野:それは大変な話だね。重い話だ。

鈴木:でも、ニール・ヤングは自分の子供がかわいそうだ、とは思っていないとも言ってます。ダウン症の人は、進化した人間のかたちだって言われることも あるから。

細野:うん。気だてがすごくいいんだよね。(『とまっていた時計がうごきはじめた』170〜171ページ)

2015年7月 1日 (水)

『地平線の相談』細野晴臣&星野源(文藝春秋)

■『地平線の相談』細野晴臣・星野源(文藝春秋)を読んでいる。これ、面白いなぁ。

横町の「ご隠居」の所へ、長屋の「八っつぁん」がバカっぱなしをしに来る落語の感じそのままだ。『TVブロス』はよく買って読んでるけど、この連載は活字が特別小さく、しかも白抜き文字で目がチラついてしまい、老眼の身にはとてもとても読めないので、今まで一度も読んだことがなかったんだ。失敗したなぁ。

 

■星野源は、その著書『働く男』(マガジンハウス)の中で、彼が敬愛してやまない師匠「細野晴臣」を評して、こう書いている。

創り出す音楽はいつだって最高で、顔や服装も超カッコよくてセクシーで、話すこともユーモアにとんでいて面白い。世界中の音楽ファンから「神様」と呼ばれている大大大スター。

でも、行きつけの店が「ジョナサン」だったり、『さま〜ず×さま〜ず』が好きで毎週録画していたり、「歌うときは目をつぶらないようにしてるんだ、自分に酔っているように見えるから」と、いつまでも羞恥心や日本人の普通の感覚をわすれていなかったり。

そのすべて持ち合わせているところが、世界中のどこにもいない僕にとって最も神に近い、大好きな普通の人です。(88ページ)

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☆さて、実際の対談内容についてだが、「ばかばかしい話」の代表として、以下抜粋

細野:実年齢っていうのは、圧倒的な力があるね。今の世の中、なにかやるたびに年齢書かなきゃならないでしょ?

星野:ネットとかでもありますよね。0歳から100歳以上まで選択肢があったり。

細野:そう。ああいうときは思わず嘘ついちゃおうかと思うよ。(中略)

星野:現場に出続けるということは大事ですね。がんばります。

細野:やっぱり、人前に出るときはちゃんとした服装しなきゃならないしね。

星野:それが年を取らない秘訣かも。(中略)

星野:昨年末、細野さんがレコード大賞に出演したときは、別の意味で若返ったんじゃないですか・KARAとかに囲まれて(笑)

細野:若さのエキスを吸うってことね。でも、ほんとに若返るかもしれないよ。

星野:どういうことですか?

細野:昔、太極拳の先生と話したことがあるんだよ。どうやって若さをキープしているのか聞いたら、「若い女性たちと一緒にお風呂に入るんだよ」だって。

星野:ええー!(笑)

細野:すごいよね。恵まれてるよね

星野:恵まれすぎですよ!(笑)

細野:実際、そうやってエキスを吸ってるんだと思うよ

星野:よりによって風呂場で(笑)

細野:普通は、男ってエキスを吸われる側だからね。だから、吸う側の女性は強いじゃない?

星野:いつまでも年取りませんもんね 

細野:そういえば、最近、どうも叶姉妹が気になるんだよ 

星野:あの方々も魔女っぽいですね 

細野:というのも、週に一度は、必ず謎のリムジンを見るんだよ。僕の車の前や後ろを、ベージュの長ーいリムジンが走ってる。曇りガラスで中は見えないんだけれど……

星野:中から出てくるところ見ました?

細野:見てない(笑)。でも、僕は勝手にあれは叶姉妹だと信じ込んでるんだ。

星野:行動範囲が一緒なんですね

細野:もうひとり、僕が行くところに必ずいるのが、野村サッチー

星野:おお!

(2012年3月31日号) 『地平線の相談』文藝春秋 p133〜136より引用

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■まぁ、それにしても「いいかげん」なご隠居だよなぁ。

でも、その発言は無責任なようでいて、とてつもなく哲学的でもあり、人生の深淵をかいま見せてくれているかように読者に錯覚させる「マジック」がある。それこそ、この本の神髄だ。

個人的には、ちょうど6月に読んだからかもしれないけど、27ページ「数字の秘めた不思議な魔力を探ってみたら……。」が、まずは「ピン」ときたんだ。「666」は悪魔の数字。

それから、「揚げ物とドーパミンの関係とは。我々は油に支配されている !?」とか、二人とも「下戸」だったりとか。細野さんは、パジャマに着替えてベッドで寝たことがない(いつもソファーでうたた寝)とか、「貧乏ゆすり」の効用や別名を考えたりとか。まぁ、役に立たない、くだらない話ばかりなんだけれど。

あと、星野源が「くも膜下出血」で入院・手術した前後の話もでてくるぞ。

その他、印象に残った部分をいくつかピックアップ。

星野:そういえば、先生は、何本か映画にでてらっしゃいますよね?

細野:『パラダイスビュー』(1985)に出たときも向いてないと思った。『居酒屋兆治』(1983)に出たときは函館の居酒屋の常連で、公務員の役だったの。店は加藤登紀子さんと高倉健さんがやってて。伊丹十三さんが酔っ払って入ってきて、くだを巻くという。

星野:すごい店です(笑)

細野:僕が伊丹さんにキレると、後ろから高倉さんが僕を押さえて「まあまあ、ここはひとつ」って。それだけのシーンなんだけれど、「もう二度とやらない」と思った(笑)。

自分のミュージシャンとしての精神が破壊されるんだよ。かなぐり捨てないとできないから。だから、星野くんはすごいなあと思うんだ、両方使い分けてるわけでしょう。

星野:確かに演技しているときに、音楽の心がパーッと破壊されるのを感じます。

細野:修行だ。

星野:修行ですね。(中略)

星野:最近よく聞かれるんです。役者やってるときと音楽やってるときと、どう違うの? って。全然違うんですけど、ただ映画でも音楽でも、自分が楽しくなれるときって、自分がなくなるときなんですよ。なにも考えていないのに、台詞がどんどん出てくるとか。音楽も同じで、空っぽの状態がいいんです。

細野:それはわかるな。その気持ちよさは。(95〜96ページ)

『居酒屋兆治』は、先達て日本映画専門チャンネルで見た。細野さんが出ていてビックリした。ひょろりと背が高くて、くねくねしてて、まるで「アンガールズ」の田中みたいな雰囲気だったぞ。

「小学校の先生から受けたトラウマを語り合いたい!」(212〜215ページ)

細野:星野くんはどんな小学生だったの?

星野:3年生のとき、ウンコを漏らしました(笑)。その後、あだ名が ”ウンコ”になって、ちょっと人生が狂い始めて。

細野:それはかわいそうだなあ。

星野:体育の時間にマラソンしてたらお腹が痛くなっちゃって、先生の許しを得て校舎のトイレに走ったんです。でも、間に合わず、下駄箱のところで漏れちゃって。

細野:もう少しだったのに、悲しいねえ。

  (中略)

細野:僕にも似た経験があるよ。

星野:細野さんもウンコを……?

細野:いや、ウンコは漏らしてない(笑)。僕も、小学4年生まではお調子者って呼ばれるような子どもだったの。自分じゃそんなつもりはなくて、照れ隠しでいろいろふざけてるだけだったんだけど。

星野:その気持ち、わかりますよ。

細野:ところが、新しい担任の教師に、僕は図に乗る生徒として目を付けられちゃった。そのうち、容姿にまで口出しされるようになったんだ。「なんでお前は目と眉毛の間がそんなに離れてるんだ」とかさ。

星野:ひどい! 小学校の先生がそんなこと言うんですか?

細野:そう。まあ、当時はそんなの気にしなかったんだけど、子どもながらにどこか深いところで傷ついていたんだろうね。

「嫌な思い出が忘れられない理由とは?」(236ページ)

星野:人間。生きていると、忘れてしまいたい記憶があるじゃないですか。でも、ふとしたときに思い出して、うわあ! となってしまう。(中略)

細野:わかるよ。僕にもある。ひとりで、ごめんなさいとか謝っちゃうんだよ(笑)。つまり、自分が悪いと思ってるんだよね。

星野:なるほど。

細野:逆に、自分が他人から傷つけられたこととかは忘れちゃうんだよ。(中略) 子どもの頃にさかのぼってみても、そういうことは多いもん。

■でも、二人の会話を読んでいて、これは! と思うのは、やはり「音楽」に関する話題だ。

「ギターを始めた孫を見つつ、自らの音楽開眼を振り返る。」(202〜205ページ)では、細野さんがどうしてベースをやるようになったのかが語られる。細野さん。実は、アコースティック・ギターもキーボードも弾けばめちゃくちゃ上手いのだ。ぼくは、中川イサト『お茶の時間』に収録されている「その気になれば」のピアノ演奏が好き。

(177ページ)、井上陽水の『氷の世界』(1973年)で、

星野「細野さんもベース弾いてるんですね。」

細野「……そうだっけ?」

星野「弾いてますよ!(笑)」

細野「まあ、なんか覚えがあるような……。」

■細野晴臣さんが参加したレコーディングに関しては、HP上で完璧に整理されている。

   ・1970年 ・1971年  ・1972年  ・1973年

この頃のレコードは、けっこう持ってるぞ。荒井由実、加川良、高田渡、友部正人、中川イサト、岡林信康、金延幸子、小坂忠。それに「はっぴいえんど」。

(15〜16ページ)に出てくる、細野さんがベースでスタジオ・ミュージシャンとして参加し、一人だけ遅刻した某歌手のレコーディングって、いつだったんだろう?

■特に沁みたのは、189ページの「”事象の地平線”にみる”地平線の相談”的音楽論」。

細野:星野くんは、”事象の地平線”っていう言葉、知ってる? (中略) 音楽の世界も、今、事象の地平線にさしかかっていると思う。シンプルに言うと、そこで面白いことをやり続けていないと、音楽なんてできないわけだよ。バンドなら解散できるけど、個人は解散できないから。

星野:確かに(笑)。

細野:面白さは、常に自分の中に持っていなくちゃいけないんだけど、そんなの、意図的に持とうと思っても持てるものじゃないし、なくなっちゃうこともある。すると、醒めた感じになっちゃうんだ。

星野:はい、よくわかります。

細野:つい10年前までそんな気持ちだったんだし、あらゆる音楽はもう全部聴き尽くしたなって白けた感じだったの。ところが、それは無知だということが最近わかった。新しい音楽に発見はないんだけど、古い音楽には発見がいっぱいあるんだよ。これは”今までにない体験”なんだよね。(189〜192ページ)

星野:前にも話しましたけど「ゼロ年代という括りはいらない」というのも、音楽を時代で語る必要がもうないと思ったからなんです。様々な音楽が横並びで存在するような状態、時代的な流行がない、でもだからこそ純粋に音楽の本質が楽しめるいい時代がやっときたんだと。

あと、ひとつのジャンルを真摯に追いかけている人は「ホンモノ」と呼ばれますけど、あまり納得がいかなくて。俺は、一見様々な音楽をつまみ食いしているように見えるけど、その人でしかありえないような表現をしている、なぜか専門家や批評家の方からはニセモノ、軽薄と呼ばれてしまっている人のほうが好きだったりします。

細野:僕もそうなんだよね。あのホンモノじゃないモノに惹かれてしまう(笑)

星野:自分が思うのは、細野さんは、ホンモノじゃない人のホンモノなんですよ。

細野:それって褒められてるの?

星野:だから、細野さんの音楽が大好きなんです。どんな種類の音楽をやっていても、そこにいるのは細野さんでしかないんです。憧れに飲み込まれてない。自分もそういう人になりたいし、そういう音楽がもっと増えればいいのにと思っていて……。(200ページ)

細野:アルバムを作るという行為は、セックスみたいなものだと思うんだよ。その結果、子ども、つまり作品が生まれるじゃない? (中略)

だから、どこが一番快感かっていうと、やっぱりレコーディングの最中。

星野:確かに。

細野:いろんな想像しながらわくわくしてさ。だから、エッチなことなんだよ。

星野:アハハハハ! (中略)

星野:とすると、出産はどの段階に当たるんでしょうか。ミックスあたり?

細野:そう! まさにミックスが出産だよ。ちなみに僕は、気に入ったミックスが完成すると、その場で踊るんだよ。

星野:踊っちゃうんですか?(笑)

細野:もう踊らずにはいられない。「この踊り面白い!」と思って、iPhone で自分を撮ったの。そしたら、案の定すごく面白くって、このまま YouTube に上げてもいいかと思ったんだけれど、寝ないで作業してたから、もう見た目がドロッドロ。あまりに汚いんで、ちゃんとした格好で取り直した(笑)。(326〜327ページ)


YouTube: 細野晴臣/The House of Blue Lights

   ☆

■それから、星野源のお父さんがジャズ・ピアニストを、おかあさんがジャズ歌手を目指していたって話。落ち込んだ中学生の星野源に、お父さんが「これを聴け」と、数あるレコードの中から、ニーナ・シモンの「アイ・ラヴ・ユー・ポギー」(ベツレヘム)をかけてくれた話が泣けた。

おかあさんは、アメリカ留学の際、アート・ブレイキー夫妻と仲良しになったなんてのもビックリだ。

『地平線の相談』細野晴臣&星野源に載っていた(175ページ)星野源のお父さんがやってるジャズ喫茶に、ぼくも行ってみたいな。ほんと便利な時代で、ググるとすぐに判明。埼玉県蕨市にある「signal」っていう店だ。なかなかオシャレで、大人の雰囲気の店じゃないか。

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