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2015年8月21日 (金)

大貫妙子『私の暮らしかた』新潮社

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・引き続き、ミュージシャンが書いた本を読んでいる。大貫妙子さんの本は初めて読んだが、簡素だけれどシャンと背筋の伸びた気持ちのいい文章を書く人だなあ。

大貫妙子『私の暮らしかた』(新潮社)を「空蝉の夏」まで読む。大貫さんの御尊父が特攻隊員の生き残りだったとは知らなかった。たまたま偶然手にして読み始めたのだが、今日読んで本当によかった。ずしりと重く堪える文章。素晴らしい文章だ。「空蝉の夏」。

・この本は、季刊誌『考える人』2006年冬号〜2013年夏号に7年半連載されていたエッセイをまとめたものだ。この間に大貫妙子さんは坂本龍一氏と2人だけのコンサート・ツアーで全国を回り、秋田に田植えに行き、葉山の自宅の庭でせっせと草むしりに励むかと思えば、故障したエアコンに嘆きつつ、暑さの夏を冷房なしで過ごし、なついたノラ猫がタヌキの皮膚病をもらって死んで、その子供が今度は居着き、銀ちゃんて名付けて可愛がり、折角仲好しになったと思ったら、銀ちゃんはふらりと行方不明になってしまう。でも、ヤモリはまた夏になると帰って来るのだった。

そうこうするうちに、2011年3月11日が来て、大貫さんは東北の山へボランティアの「樹木の皮むき間伐ツアー」に一般参加する。

そうして、2012年の冬、脳幹出血のため大貫さんのおかあさんが亡くなる。さらにその一月後、お父さんも。

こうして読んでくると、大貫妙子さんにとって、大変な7年半だったのだなぁって、しみじみ思う。でも、彼女の淡々とした文章からは日々の日常の「なんでもない暮らしの大切さ」が、ひしひしと伝わってくるのだった。

 1973年にシュガー・ベイブを結成し、その後ソロ活動に移って、四十年が経った。そのとき一緒にバンドを組んだ山下達郎さんと会うたびに「こんなに長く続けるとは思わなかったね」と話す。彼のようにバリバリの現役がそんなことを口にするほど、商業音楽の地盤はつねに不確かなものだ。

 誰かに雇われている身ではない以上、音楽を書き続けなければ生活ができないということもあったと思うが、支持してくださる方がいなければ自分だけ頑張ってもどうしようもない。

 しかし現在、数々のアルバムを録音してきたスタジオもつぎつぎと閉鎖になり、今や都内のスタジオは風前の灯に近い。

 時代の要請はテクノロジーの変化と対であるように音楽もそうなのだ。レコードからCDになり配信ダウンロードになった。

 俯瞰してみれば、流行というのは、忘れた頃にまた同じようなものがやってくる。結局、創る者は自分の色を鮮明にして、愚直にやち続けることで、流行とは別のところに自分の場所を築き上げていく。音楽に限らずそういう人を私は支持しているし、そうやって長く続けている人はどんどん自由になっていく。

 先日読んだ小説の中に見つけた「自分の仕事はかならず自分にかえってくる」(松家仁之『火山のふもとで』)という言葉。自分が納得できないものは世に出さない、というのは、頑固というより自分に対する責任なのだと思う。(「荷物をおろして」221〜222ページ)

お父さんのことを語った「空蝉の夏」と、おかあさんとの別れを綴った「お母さん、さようなら」の2篇が、やはり白眉だ。

保坂和志氏の書評

会ったことのない祖母だが、私の中にはその面影が色濃く残っていて、60年を経てもその思いの強さが私を支えているように感じられてならない。「おまえは、死んだ母親に似ている」と、ときどき思い出したように父は私に言った。(83ページ「空蝉の夏」より)

・大貫妙子さんの決してブレることのない凛とした「生き方」は、たぶんこの「おばあちゃん」から受け継いでいるのだろうなぁ。そう思った。

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