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2014年7月 6日 (日)

『クラバート』プロイスラー作、中村浩三・訳(偕成社)

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■『ボラード病』吉村萬壱(文藝春秋)を読んでいて思い出したのは、2つのマンガだった。『羊の木』と、それから『光る風』山上たつひこ(週刊少年マガジン連載 1970年4月26日〜11月15日)だ。奇遇にもどちらも作者は「山上たつひこ」だった。

『光る風』の表紙をめくってすぐの扉に書かれている言葉

過去、現在、未来 ------

この言葉はおもしろい

どのように並べかえても

その意味合いは

少しもかわることがないのだ

ほんとうにそのとおりだ。小学6年生のぼくは、この漫画が連載中の少年マガジンをリアルタイムで読んでいる。あれから44年も経って、この漫画がリアルすぎるくらい現実味を帯びてくるとは、思いも寄らなかった。

あと、気になったこの記事。「ハンナ・アーレントと"悪の凡庸さ"」 やっぱり「この映画」も見ないとダメだ。

それにしても、今すぐ読め!の「旬の小説」だよなぁ。『ボラード病』。

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■伊那のブックオフで 105円だった『クラバート』プロイスラー(偕成社)、入手後長らく積ん読状態だったのだが、少しずつ読み進んで一昨日読了した。いやぁ、これは深い本だな。読み終わってしばらく経った今も、ずっとこの本に囚われたままだ。いろいろと考えさせられる。

宮崎駿監督のお気に入り児童文学で『千と千尋の神隠し』にも取り入れられているという。なるほど、「湯婆婆」のモデルが「荒地の水車場」の親方だったのか。

14歳の主人公クラバートは、夢のお告げに導かれて荒野(あれの)の果ての人里離れた湿地帯のほとりに建つ一軒家の水車場(すいしゃば)の職人見習いになる。そこでは、片眼の親方と11人の先輩職人たちが働いていた。

ぼくが入手した旧版の表紙には、この荒地の水車場と12羽のカラスが描かれている。物語全体を覆う、このじめっとした暗さが何とも不気味で、親方や先輩職人たちの謎に満ちた行動も読んでいて意味が分からずただただ不安はつのるばかり。それが『一年目』(119ページまで)

そして物語は「二年目」「三年目」と同じ季節、同じ年間行事が「3回」繰り返される。これは「昔話」によくある物語構造で、『三匹のこぶた』『やまなしもぎ』『三びきのやぎのがらがらどん』と同じだ。これら絵本では3人は兄弟で別人なのだが、昔話の本来的な意義で考えると、クラバートのように同一人物が「3回繰り返す」ことによって、徐々に成長し最後の3回目には見事目的を達成する、というふうに出来ているのだ。

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■この水車場では、自由に魔法を操れる親方が絶対的権力を握っていて、職人たちはこの職場から逃げ出すことはできない。逃亡を試みても必ず失敗する。その代わり、腹一杯の食事と毎週金曜日の夜に親方から魔法を教わる講義がある。もちろん、簡単に憶えられる呪文はない。弟子それぞれの努力と力量にかかっている。

ただ、その絶対的「親方」にも実は「大親方」がいて、毎月新月の夜に馬車で乗り付け、親方を他の職人と同じにこき使うのだ。親方とて、その「闇のシステム」の中では歯車の一つに過ぎず、さらに圧倒的な巨大なものに支配されているのだった。

職人たちの中には、仲間を絶えず監視していて、怪しい行動をとると直ちに親方に告げ口する奴もいる。もちろん、後輩をかばって何かとクラバートの面倒をみてくれる先輩トンダのような信頼すべき奴も登場する。

こうした水車場での描写は、村上春樹氏のエルサレム講演「壁と卵」に象徴される「システムと個人」の問題、もっと平たく言って、我々がいま暮らしている日本の社会、職場にそのまま当てはまることばかりではないか?

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■この本は、チェコでアニメ映画化され、ドイツでは 2008年に『クラバート 闇の魔法学校』として実写版映画化された。魔法学校なんていうと、ハリー・ポッターみたいなストーリーを思い浮かべるかもしれないが、『クラバートでは魔法のあつかい方も復讐すべき敵も、ハリー・ポッターとはぜんぜん違う。ここが重要。

『クラバート』を突き詰めると、結局ギリシャ悲劇『オイディプス王』になるのではないか?

父親を殺して母親と結婚するオイディプス王。

実際、作者のプロイスラーが少年時代に読んだ、ヴェンド人に伝わる「クラバート伝説」では、「ソロを歌う娘」の役割をクラバートの母親が担っていたという。

少年から青年へ。そして大人へと成長する過程で対決しなければならない「父親」という存在。それから、人魚姫が足を得る代わりに「大切なもの」を失ったように、また、アリステア・マクラウドの短編『すべてのものに季節がある』の主人公が、ある年のクリスマスイヴの晩、父親から一人前の大人としての扱いを受けた思いがけない喜びと裏腹に、魔法の世界で暮らしていた幸福な「子供時代」の終わりに気づかされた、喪失という深い悲しみ。大人になるということは、そういうことだ。クラバートにはその覚悟ができていたのだろうか?

50歳代のオヤジは、変なことを心配してしまうのだった。

意外とあっさりとしたラストだが、昔ばなし風の味わいと余韻があって、ぼくはかえって好きだな。

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