2015年6月28日 (日)

伊那のパパズ絵本ライヴ(その115)東京都大田区南千束「大岡山幼稚園」

■これまた、ずいぶんと前の話になってしまいましたが、さる 6月7日(日)われわれ「伊那のパパズ」の5人は、朝7時に「やまめ堂」に集合し、宮脇さんの運転するホンダ・ステップワゴンに同乗させてもらって、一路「東京」へと向かったのでした。

めざすは、東急目黒線と大井町線が交差する「大岡山」の東京工業大学キャンパス近くに位置する「福音ルーテル協会:大岡山幼稚園」だ。なんと! 今回ぼくらは東京初進出なのだった。

日曜日の「中央道」上り線は案外空いていて、順調に都内に入った宮脇ステップワゴンは、高井戸インターを下りて「環八」を南下。田園調布が近づくと、高級外車のショールームばかりが目に付く。東横線を横切って、さらに南へ。途中で左折し、ナビの指示どおりに狭い一方通行の道路を何度も曲がってゆくと、あーら不思議。一度も迷うことなく、午前10時過ぎに「大岡山幼稚園」の正面に到着したのでした。すごいぞ、宮脇さん。

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■そうして、この日の会場となったのが、なんと! 教会の礼拝堂なのでした。

おいおい、神さまの前でやるのか。やっていいのか? (^^;;

やりましたよ。『うんこしりとり』。ごめんなさい。

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    <本日のメニュー>

1)『はじめまして』新沢としひこ

2)『このすしなあに』塚本やすし(ポプラ社)→伊東

3)『でんしゃはうたう』三宮麻由子(福音館書店)→伊東

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4)『ふってきました』もとしたいずみ・文、石井聖岳・絵(絵本館)→北原

5)『かごからとびだした』(アリス館)

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6)『ねぎぼうずのあさたろう』飯野和好(福音館書店)→坂本

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7)『バナナ事件』高畠那生(BL出版)→宮脇

8)『うんこしりとり』tupera tupera(白泉社)

9)『おーいかばくん』

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10)『じごくのそうべえ』田島征彦(童心社)→倉科

11)『ふうせん』(アリス館)

12)『世界じゅうのこどもたちが』(ポプラ社)

13)『大阪うまいもんのうた』長谷川義史(佼成出版社)→アンコール

終了後、再びステップワゴンに同乗し、首都高目黒線から新宿に向かって再び中央道。夕方7時まえに伊那に帰り着きました。宮脇さん、行き帰りの運転、ほんとうにありがとうございました。

ぼくは後ろの席に乗ってるだけで楽だったワケだけれど、そうは言っても、東京日帰りは正直つかれたな。ほんと。みなさまお疲れさまでした。

2015年6月21日 (日)

「高遠エフェクト」展 at the 信州高遠美術館

■なかなか時間が取れなくて、今日になってようやく行ってきました。信州高遠美術館。

5月28日〜7月12日(日)まで、次世代を担うピチピチの若手アーティスト7人が集結した「高遠エフェクト」展が開催されているのだ。田舎の公設美術館としては、かなりの実験的冒険企画だと思うのだが、実力のある若手美術家に美術館の展示スペースを「すべて」与えて、自由に跳びはねてもらおうって、いやぁ、なかなかできないよ。ほんと。すごいな。

それに、若手ならではのフットワークの軽さからか、参加アーティストが講師を務めるワークショップが6つも企画されている。

僕らが美術館を訪れた日曜日の午後にも「美術展づくりをロールプレイ! 〜自分だったらこんな美術展を作ってみたいな!」というWSが開催されていた。講師は、ムカイヤマ達也さん。見た感じ、まだ20代だよな。

第一展示室に入ると、まずは左の壁一面に、約10m近くにわたって「藤沢まゆ」さんの染色画が、左から右へと「物語」を奏でる巨大な壁画のような圧倒的な迫力と繊細な美しさで、見る者を別世界へとトリップさせてくれる。これは本当にすばらしい!

面白いのは、オブジェが「平面」ではなくて「立体的」に展示されていることだ。

つまり、染色された布の裏に型紙を貼り付け、ハサミで型を切り取って、蝶々や魚、蛾やキノコたちを「奥ゆき」があるかの如く少し前後に重ねて配置することで、作品の「3D的」楽しさが新たに加わっているのだった。

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(写真をクリックすると、もう少し大きくなります)

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藤沢まゆさんのことは、ちょうど5年前の2010年6月20日に、信州高遠美術館で個展を開いた時のことを「ここ」に書いた。

現在、「新宿ルミネ1」のエレベーター各階の扉と内装の絵として、彼女の作品を見ることができるのだそうだ。(6月いっぱいまで。8月からは、横浜ルミネのエレベータで展示されます。)

第二展示室に入るといきなり、正面ショーケース内の「オオカミの着ぐるみ」の展示で、度肝を抜かれる。さらに左手に目を向けると、上伊那郡中川村に住み、農業を営みながら地元農民と山の木々を対比した絵を書いている「北島遊」さんが描く「超ど迫力の農村画」(なんと、全ての絵のタイトルが同じ「生きる」なのだ)が目を引く。

ちょっと見、「原田泰治」風の「ほのぼの田舎絵」なのだが、ところがどっこい、裏山の森の杉の木は、ゴッホが好んで描いた南仏糸杉の「ぐるぐる渦巻」みたいになっていて、おどろおどろしい得体の知れない力を秘めた自然の驚異と、人間が根本的に持つ情念と不安と恐怖のイメージをダイレクトに醸し出しているし、絵の最前面に小さく配置された人物像だって、原田泰治と言うよりは、どう見ても「いがらしみきお」の漫画に登場する一癖も二癖もある人物のような感じだ。

そう、「いがらしみきお」だよ。「I・アイ」とか「かむろば村へ」とかね。

これは是非、本物を見るべきです。オススメです!

7月12日(日)までだから、あと3週間やってます。

2015年6月13日 (土)

今月のこの1曲。 クラムボン『Folklore』

■クラムボンのCDを集め出したのは、じつは最近のことだ。

彼らの周辺ミュージシャンは昔から好きで、おおはた雄一とか、ハナレグミとか、最近では「スーパー・バター・ドッグ」のキーボードだった、レキシとか。

で、デビュー盤からあらためて聴いてきたのだが、当初より完成された3人の完璧な音楽性に圧倒されながらも、3人の要はやはり、ミトくんですかね。彼はホント凄い。

そんなミトくんが作詞・作曲した「Folklore(フォークロア)」。

ぼくは「この曲」が特別好きだ。

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何かが変わってゆくような そんな気がした あと少しで

何ごともなく消えてゆく 6月6号 あと少しで あと少しで

気持がすぅっと軽くなる そんな気分さ あと少しで あと少しで

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季節外れの台風一過。景色のすべてが一掃される瞬間を捉えた歌だ。

 


YouTube: Folklore / クラムボン


YouTube: Clammbon - Re-Folklore

■このPVが撮影されたスタジオは、山梨県北杜市小淵沢にある「星と虹レコーディング・スタジオ」に違いない。あの「世界中のこどもたちが」も、ここで収録された。

場所は、中央道小淵沢インターを降りて右折し、鉢巻き道路へ向かって上っていって、「キースヘリング美術館」のちょうど反対側を少し入ったところに、「八ヶ岳 星と虹歯科診療所」っていう歯医者さんがあって、先生は藤森義昭先生っていうんだけど、趣味が高じてプロのミュージシャンでもあるんだ。そうか、北海道は礼文島の出身だったのか。それに、あの「ジム・オルーク」とも親交があるらしいぞ。で、1978年に歯科診療所に併設してアルム(大屋根)の家を建て、その2階を「レコーディング・スタジオ」にしてしまったのだった。

東京から車で2時間の距離で、大自然の別世界の中、ミュージシャンが泊まり込み合宿で集中してレコーディングできる穴場として、昔から「知る人ぞ知る」スタジオだったのだ。クラムボンも4作目の『id』からずっと使ってきた。

最近では、レコーディング機材も一新され、ここでのレコーディングを希望するミュージシャンはあとをたたないっていう噂だ。

ぼくは一度だけ、その藤森先生にお目に掛かったことがある。

今から20年くらい前かな。

当時ぼくは富士見高原病院小児科に勤務していて、循環器内科医長だった岩村先生がアフター・アワーのジャム・セッションでジャズピアノを弾くというので、原村で家具工房を開いていた出戸明さんの、お兄さんが富山から原村に移り住んで、弟さんの工房の隣にオープンした森の喫茶店「Song Of The Bird」に行ったのだった。

その夜、地元に住むいろんなミュージシャンが次々に登場して音楽を披露した。

「カントリー・キッチン」の次男の方も来ていて、ウッド・ベースを弾いていた。そうして、小淵沢から鉢巻き道路をはるばるやって来たのが、藤森先生だったのだ。先生はたしか、歌を唄った。クラプトンだかニール・ヤングだったか、よく憶えていないけれど、澄んだいい声で、しみじみ聞き入ってしまった。

2015年6月 7日 (日)

伊那のパパズ絵本ライヴ(その114)富士見町図書館 4月26日(日)

■もう、ずいぶんと昔のはなしになってしまったが、去る 4月26日(日)に、諏訪郡富士見町図書館へ呼ばれて行ってきた。報告するのをすっかり忘れてしまっていたんだ。

当日参加したのは、倉科・坂本・北原の3人。

まず最初に、地元の絵本読み聞かせグループの方々が「しかけ絵本」で『しあわせなら手をたたこう』

続いて、図書館司書の池田さんが、大型絵本『バムとケロのおかいもの』

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<本日のメニュー> 詳しいことは忘れてしまったので不正確ごめんなさい。

1)『はじめまして』

2)『てんとうむし ぱっ』中川ひろたか・文、奥田高文・写真(ブロンズ新社)→北原

3)『ねこガム』きむらよしお(福音館書店)→坂本

4)『おめんです』いしかわこうじ(偕成社)→坂本

5)『かごからとびだした』(アリス館)

6)『うんこしりとり』tupera tupera(白泉社)

7)『うどんやの たぁちゃん』鍋田敬子(福音館書店)→倉科

8)『世界中のこどもたちが』(ポプラ社)

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■終了後、白州シャトレーゼ工場に樽だしワインを買いに行こうということになって、そしたら、国道20号からシャトレーゼに入る手前に「じんぐう」っていうドライブインがあって、地元の人たちの間では「とんかつ茶漬け」が美味しいと、もっぱらの評判だと坂本さんに教えてもらって行ってきましたよ。「じんぐう」。

でも、メニューに載ってない!

で、店のおばちゃんに恐る恐る倉科さんが訊いてみたら、あるって。1080円。

「とんかつ茶漬け」って……。

なかなかイメージできないよね。駒ヶ根のソースかつ丼が「びちゃびちゃ」の床上浸水になってる画像しか想像できなかったのだが、それじゃぁ食欲湧かないよなぁ。だいたい、とんかつソースとお茶が混ざったら、絶対マズいに違いないもの。

■不安に苛まれながらも、怖いもの見たさで待つこと15分。

おばちゃんが運んできたのが、これだ。

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そうか、とんかつは事前に「お茶漬け」にはなってなかったのだな。

カツは別盛り。でも、湯通しした千切りキャベツに、醤油ベースの甘辛タレと海苔が乗っかっている。

なるほど! ソースじゃないんだ。最初から「和風」仕込みだったんだね。ただし、とんかつ自体には味付けはされてなくて、普通のサクサクしたとんかつ。

ごはんに、梅干し・三ツ葉・昆布をトッピングしてから急須のお茶をかけ、そこにカツを乗っけていただく。これが、ビックリするくらい何の違和感もなく美味しく食べられるから不思議だ。カツの肉も厚くて実に旨い。ごはんの量が多くて食べきれないかと思ったが、お茶漬けにするとサラサラとお腹に入っていって、気がつけば、しっかり完食していましたよ。

 

2015年5月31日 (日)

NHK 朝ドラ『まれ』は、どうして面白くなっていかないのか?

■NHK朝の連続テレビ小説のファンだ。

あの傑作『ちりとてちん』以降、だいたいフォローしてきた。

中でも、『カーネーション』と『あまちゃん』の2本は、名作と言ってよいと思う。脚本家と演出家そして役者さんたちのタッグが、ほんとうに上手く噛み合っていた。いや、直近の『花子とアン』と『マッサン』だって、なかなか強かに練られた脚本で、最後まで緊張感が途切れることなく毎日楽しみにしていたものだ。

ところがどうだ。今シーズンの『まれ』は。

能登編も横浜編も、渋くてイイ役者さんをたくさん使っているにも関わらず、なんだか画面がいつもワサワサと、とっ散らかっていて落ち着きがない。この人、このシーンに必要なの? って感じの人ばかりいて、その脇役の役者さんたちが、いっこうにメイン・ストーリーと噛み合ってこないのだ。

例えば、門脇麦。彼女は今週になってようやく表舞台に出てきたのだが、ぼく個人的には「こういう使われ方」をするために、彼女はキャスティングされたのかと思うと、ものすごく残念でならない。たぶん、彼女の役割は『ちりとてちん』で言えば「貫地谷しほり」の小浜での親友、ジュンちゃん(宮嶋麻衣)に相当するのだろうが、だとしたら、今週の展開はあまりにその場しのぎの場当たり的すぎて、今後の発展は何も期待できないのではないか? 予想では、来週から画面から消え去って、今後登場の機会は「三つ子」でも生んだ時しかないものと思われる。

キャストが使い捨てなんだな。初めのころ登場した田中泯と田中裕子の息子夫婦(池内博之)だって、反省して東京へ帰ったきり、その後はぜんぜん登場してこない。

つまりね、脚本家の思いつきで、その度に登場人物たちが人形のようにただ動かされているだけなので、見ていて血の通った生身の人間としてのリアリティが全く感じられないのだ。たぶん、脚本家は「それまでの朝ドラの定石」を踏襲する振りをして、ことごとくオフ・ビート的にワザと外しているのかな。

これって、『純と愛』と同じだ。『純と愛』もずっと見ていたが、あれは本当に凄かった。主人公を次々と不幸が襲うのだ。母親(森下愛子)は若年性アルツハイマーで、父親(武田鉄矢)は溺れて死ぬ。就職したホテルの同僚(黒木華)は腹黒で、兄ちゃん(速水もこみち)は根なし草のフリーター。夫である風間俊介の家族はみな病気持ち且つサイキックの持ち主。

主人公が次に務めた大阪の簡易宿屋は火事で全焼し、宮古島で新に始めるプチ・ホテルも、オープン前に台風の襲来でボロボロになってしまう。風間俊介は脳腫瘍に冒され、結局、最終回まで昏睡状態のまま目覚めることなく終わった。毎朝暗い気持ちにさせられながらも、最後まで見てしまったという、めちゃくちゃな朝ドラだった。

『まれ』を見ていて思うのは、『純と愛』を見ていた時とおんなじ。あれじゃぁ役者さんたちが可哀想だ。

(もう少し続く)

2015年5月24日 (日)

今月のこの1曲。ジェイムス・テイラー「How Sweet It Is」

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ジェイムス・テイラーのレコード『ゴリラ』を買ったのは、高校2年生の時だった。1975年だ。このレコードはほんとよく聴いたなぁ。大好きなんだ。

A面1曲目「MEXICO」4曲目「WANDERING」5曲目「GORILLA」それから、B面2曲目の「I WAS A FOOL TO CARE」と、3曲目「LIGHTHOUSE」が、特にお気に入りだった。もともと日本のフォーク少年だったから、アコースティックな楽曲がよかったのだ。

A面3曲目に収録された「HOW SWEET IT IS TO BE LOVED BY YOU」は、派手でコテコテのR&Bだったから、当時イマイチその良さがわからなかったのだが、「この曲」はシングルカットされてスマッシュ・ヒットを飛ばし、同年のビルボード・ヒット・チャートでは5位を獲得している。

2枚あとに出た「JT」に収録された「ハンディ・マン」もそうだけど、ジェイムス・テイラーは「こういう曲」のカヴァーがほんと上手い。


YouTube: James Taylor - How sweet it is (to be loved by you)

オリジナルは、マービン・ゲイの「これ」


YouTube: Marvin Gaye - How Sweet It Is (To Be Loved by You)

■土曜日の午前中、NHKFMでゴンチチがナビゲートする「世界の快適音楽セレクション」の選曲を担当している、渡辺亨氏が出したディスク・ガイド本『音楽の架け橋』(シンコーミュージック)でも取り上げられている。(65ページ)

■音楽評論家・天辰保文氏の「ここの文章」がめちゃくちゃいい!

さとなおさんも、むかし「このレコード」を紹介していたな。

■ぼくも以前、カーリー・サイモン『イントゥ・ホワイト』の記事で取り上げたことがある。

 さらに、「ここ」を下の方へスクロールして行くと、『オクトーバー・ロード』の紹介記事もあります。

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 (写真をクリックすると、もう少し大きくなります)

ノー天気でお気楽なこの曲は、聴いていて何とも気持ちいいのだが、そのもとは、ミディアム・スローのテンポと、弾むようなシャッフル・リズムにある。ドラム・ソロのところで分かるのだが、「タタタ、タタタ、タタタ、タタタ」という「三連符」で出来ているんだ。

同じく「シャッフル・ビート」で超有名な曲が「これ」だ。


YouTube: Stevie Wonder - Isn't She Lovely

■「ウン・パ、タタタ・ンパ」というリズムになると、これは「ドドンパ」です。

日本で一時期流行した謎のリズム「ドドンパ」に関しては、『踊る昭和歌謡:リズムからみる体臭音楽』輪島裕介(NHK出版新書)の中で、その成立の由来が詳しく調べられている。

■シャッフルやドドンパとはぜんぜん関係はないんだけれど、最近お気に入りで毎日聴いている曲がこれ。

ファレル・ウイリアムスと「Daft Punk」が、2014年にグラミー賞を取った「Get Lucky」を、フランスの女性歌手ハイリーン・ギルがカヴァーして歌っているのだが、この歌声、なかなかに心地よいのだ。


YouTube: Get Lucky (Bonus Track - 2014) - Hyleen Gil

本家、ファレル・ウイリアムスの歌声がこちら。リズムは、往年の1980年代ディスコ・ミュージックの感じだな。

 


YouTube: Daft Punk - Get Lucky (Full Video)



2015年5月19日 (火)

『風の歌を聴け』その3(拾遺)

■このところ、どんどん更新が遅くなっていくのは、書きたいと思ったネタはあるのだけれど、思うように書けなくて、長くなって、そのうち書くのが面倒になってほったらかし、という悪循環に陥っているからだ。

という訳で、今回でようやく『風の歌を聴け』の話題も終了です。

1)■『妊娠小説』斎藤美奈子(筑摩書房)から以下引用。

 80年代、文学業界は完全に「僕小説」の時代に入っていた。ザ・キング・オブ僕小説作家、村上春樹の登場はそれを象徴するできごとだったろう。

 ところで、その村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』(79) が妊娠小説だった、ということはあまり知られていない。知られていないのは、これが一見そうとは見えない、きわめてトリッキーな妊娠小説だからである。(中略)

 玉石混淆、さまざまな批評の対象になった村上春樹『風の歌を聴け』。21歳の「僕」が夏休みに帰省した町で友人の「鼠」とビールを飲んで「小指のない女の子」と知り合ってラジオを聞いてレコードを買った、といったような話だ。(中略)

 知られているように、テキストは「1」から「40」まで四十(途中の☆印まで入れれば 53)の断片で構成されている。組み立て前のジグソーパズルみたいな小説だから、ばらばらの断片(ピース)を手にとって眺めていても見えてくる絵には限界がある。全体の解読には、40(または 53)の断片を整理し、配置しなおさなくてはならない。わたしたちなりの推理を公開しよう。

 手がかりのひとつは、幾重にも重なった「時間」だ。(中略)さらに…やたらと具体的な数字が頻出するのはなぜか。『風の歌を聴け』のテキストは、読者に「パズルの解読」をこそ要求している。「数字」こそ、その最大のヒントと考えるべきなのだ。(中略)

「時間」に続くふたつめの手がかりは、幾重にも交錯した「人物」である。物語には「僕」と「鼠」と「小指のない女の子」の、三人の中心人物がいる。「僕」はこのふたりと別々に交流を持つのだが、それだけだろうか。「鼠」と「小指のない女の子」の間に関係はなかったか。

 「時間」を解く鍵が「数字」であったように、「人物」を解く鍵は「人物名」にある。すなわち<ジョン・F・ケネディ>だ。(中略)

               ☆

 異彩を放っているのは②だ。<鼠は……気がした>という記述からもわかるように、一貫して「僕」の視点で進行するテキストのなかで、②を含む「6」だけが、テキストのルールを逸脱し、「鼠」の視点で記されている。(中略)

 ときに「5」と「6」とは同じ内容を綴っている。「鼠」による「海洋遭難」の物語だ。(中略)ついでにテキストにはないけれども、実在の J・F・K が、海軍時代、南太平洋での遭難から生還して英雄になった人物だという事実を知っていると、ここで<ジョン・F・ケネディ>が出てくるのがさほど唐突ではないこともわかってくるだろう。

         『妊娠小説』斎藤美奈子(筑摩書房)p75〜85

        ☆

2)■『音楽談義』保坂和志 × 湯浅学(Pヴァイン)より

保坂:最近はもう村上春樹は読まないけど、というか『ノルウェイの森』からすでに読んでないんだけど(中略)村上春樹がなぜ売れるかというと、「なぜ」で心理を書くから。心理の変化が正しく因果関係によって説明される。心理と因果関係のふたつが肯定されている。いまどき極めて珍しい。それに非常に感傷的であるということと、もうひとつ、隠し味というほど隠れていないけど、スパイスのように暴力が入っているところ。

『風の歌を聴け』で小指がないのはいいんだけど、「その小指どこいったんだろう」までいうところが村上春樹の暴力性で、そこにはみんなたいして注意がいかないんだけど、その暴力性が好きなんだよ。(p31〜32)

保坂:でもね、村上春樹はぼくは初期しか読んでいないんだけど、庄司薫の『白鳥の歌なんか聞こえない』(73年)で由美子って子のおじいさんの書架にはいっていく場面があるんだけど、本の倉庫のなかでカオルくんかなんかが考えるんだけど、そのときの文体がまんま村上春樹なんだよね。丸写しみたいなものなんだけど。

湯浅:村上春樹の庄司薫からの影響をいうひとは最近あまりいないね。庄司薫を読むひともいないのかもしれないけれど。(中略)

保坂:丸谷才一が大絶賛だったからね。丸谷さんは亡くなるまで村上春樹を絶賛しつづけた。(中略)村上春樹の不思議なのは、あらゆる分野にファンがいて、そのひとたちが本来とても辛口で斜にみるひとなのに、そういうひとでも村上春樹だけは手放しで褒める風潮があるんだよ。(p162〜164)

   ☆

3)■「デレク・ハートフィールド & 庄司薫」で検索すると一番上に出てくるサイト。これは興味深いな。とは言え、ぼくは『赤頭巾ちゃん』も『白鳥の歌なんか聞こえない』も読んでない。岡田裕介が主演した映画はテレビで見た記憶がある。NHKでドラマになったような気もするな。

      ☆

4)村上春樹氏が『風の歌を聴け』を書いた当時のことを回想した文章が2つある。ひとつは、

『村上春樹全作品 1979~1989〈1〉 風の歌を聴け;1973年のピンボール 』(講談社)の付録として添付された小冊子「自著を語る」。図書館本にはちゃんと「この別冊」が本に張り付けてあります。

もう一つは、季刊誌:柴田元幸 責任編集『MONKEY vol.5 / Spring 2015』(Switch Publishing)で連載されている、『職業としての小説家』:村上春樹私的講演録(第5回)「小説家になった頃」だ。ふたつとも、ほぼ同じ話が書かれているのだが、『MONKEY』の方が、字数も多く丁寧に振り返っている。

ハンガリー生まれの作家、アゴタ・クリストフが、母国語でないフランス語で『悪童日記』を書いた話が面白い。

      ☆

5)『村上春樹イエローページ<1>』加藤典洋・編(幻冬舎文庫) にも示唆に富んだ記載がある。ラジオDJの言葉。

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 あるものは貧しい家の灯りだ。あるものは大きな屋敷の灯りだ。あるものはホテルのだし、学校のもあれば、会社のもある。実にいろんな人がそれぞれに生きてたんだ、と僕は思った。そんな風に感じたのは初めてだった。そう思うとね、急に涙が出てきた。(中略)でもね、いいかい、君に同情して泣いたわけじゃないんだ。僕の言いたいのはこういうことなんだ。一度しか言わないからよく聞いておいてくれよ。

 僕は・君たちが・好きだ。

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『風の歌を聴け』を読むと、この最後のディスク・ジョッキーの言葉が、なにか作者の読者に向けた、無言のメッセージのように聞こえる。気がつくと、わたし達は、ほんとうは話の筋とは無関係なのに。この難病の女の子の手紙とDJの言葉を、この小説の中心からやってくる言葉として受けとめている。なぜだろう。

この言葉は、小説を横切るこのもう一つの「話」の中では、向こうの世界、鼠たちのいる異界からの返答として、ここに置かれる。この最後の返答は、この往還の構造に中に置かれると、小説の核心からの声となって、わたし達のもとにやってくるのである。

    「否定から肯定への物語」

 この小説を読んで、わたし達はこのDJの述懐、「僕は・君たちが・好きだ。」という言葉に、なぜか自分でもわたらないまま、心深く動かされることになる。しかしそれは単なる偶然でもなければ、センチメンタルなわたし達の感情移入の結果でもない。

   ☆

加藤典洋氏がスルドイところは、村上春樹の小説はみな「幽霊譚」であることを看破したことだ。『風の歌を聴け』においては、死者たちのいる「彼岸」と、主人公や読者がいる「此岸」をつなぐ「蝶番」の役割を果たしているのが「ジェイズ・バー」であり、土曜のラジオ・リクエスト番組であるということ。

ラジオのDJは、死者たちの声を代弁しているのだ。

あれっ? それって『想像ラジオ』と同じじゃない?

   ☆

共同通信の小山鉄郎氏がインタビューした「村上春樹さん、時代と歴史と物語を語る(上)」(2015/4/21 中日新聞)を読むと、『アンダーグラウンド』から『約束された場所で』の仕事に関して

村上:被害者たちの話を一生懸命に聞いていると、みんな物語を持っていることがわかります。派手なものではないかもしれないが、その多くは身銭を切った自分の物語です。それらが集まるとすごい説得力を持ってくる。でもオウム真理教の人の語る物語は、本当の自分の物語というよりは、借り物っぽい、深みを欠いた物語であることが多い。

小山:その仕事で何か自分に変化がありましたか?

村上:人に対する自然な信頼感みたいなものが生まれたと思う。電車に乗っても、以前はただ人がたくさんいるなあというくらいだったが、今は一人一人に物語があって、みんな一生懸命に生きているのだなあと感じます。

今回の読者とのメールのやりとりにも同じものを感じます。だからこそ、丁寧に正直に答えたいと思うのです。

「僕は・君たちが・好きだ。」という言葉は、いまこのインタビューからも、ほら、聞こえてくるじゃないか。

この新聞記事を読んで、村上春樹氏がデビューした時から一貫してブレることなく作品を作り続けていることを、ぼくは確信したのでした。(おわり)

2015年5月14日 (木)

大森一樹監督作品:映画『風の歌を聴け』(1981)

■ずっと前に「日本映画専門チャンネル」で録画しておいて、見る機会がなかった映画『風の歌を聴け』をようやく見た。監督は、当時新進気鋭の若手映像作家だった大森一樹

京都府立医大を卒業し国試も合格した医師であり、かつ、プロの映画監督となった。メジャーデビュー作『オレンジロード急行』と2作目の『ヒポクラテスたち』を、ぼくはどちらも封切り映画館のスクリーンで見ている。特に医大生の青春群像を瑞々しいタッチで描いた『ヒポクラテスたち』は、オールタイムベストに入る大好きな映画だ。

ただ、彼の3作目である『風の歌を聴け』は映画館に見には行かなかった。

一番の理由は、原作をたぶんまだ読んでなかったし、映画の評判もあまり良くはなかったから、積極的に見たいとは思わなかったのだろう。

30年以上もたって、ようやく見た映画の感想は、正直ちょっと複雑だ。

映画のはじまりは東京。深夜バスの切符売り場。広瀬昌助(藤田敏八『八月の濡れた砂』主演)が「ドリーム号の予約ですね。えっ、神戸まで?」と言う。ここまで、手持ちカメラ目線で、主人公が誰だか、今が何時なのかは判らない。画面は急に風が吹いたようにワイプし、白くなってタイトルが映し出される。続いて、原作 村上春樹 脚本・監督 大森一樹の文字。

その後、電話ボックスの女の顔がアップになって、巻上公一が外で待ちながら I.W.HAPER を瓶でガブ飲みしている。BGMはフリー・ジャズだ。出演者のテロップと共に、酔っ払った巻上公一の視点になったカメラが、暴動のあった「あの夜の神戸まつり」の祭りのあとの残骸を深夜の路上に映し出して行く。

早朝、ドリーム号は神戸三宮に着く。主人公はその足でまだ営業中のはずのジャズ・バーへの階段を上がる。店主の中国人を坂田明(山下洋輔トリオのアルト・サックス奏者)が好演する「ジェイズ・バー」だ。床には客が食い散らかしたピーナツの殻が散らばっている。バックで流れているジャズは、鈴木勲『BLUE CITY』A面2曲目、ウディ・ショウの「Sweet Love On Mine」。

映画の配役はこうだ。

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僕:小林薫

鼠:巻上公一(ヒカシュー)

小指のない女の子:真行寺君枝

僕が3番目に寝た女の子:室井滋

ジェイズ・バーのバーテン:坂田明

鼠の彼女:蕭淑美

ラジオのDJ:阿藤海(声のみ)

少年時代の僕の緘黙症を治療する精神科医:黒木和雄(映画監督『龍馬暗殺』『日本の悪霊』ほか)

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☆とにかく、真行寺君枝がいい! ちょうど、佐々木マキがマンガで描く女の子の実写版そのままだ。特にネコみたいな「あの眼」。原作の「左手の小指がない女の子」のイメージそのまま。双子の妹のほう。

それから、まだ若かりし頃の室井滋。彼女も実にいいな。当時すでに、自主映画の女王と言われていた室井滋だけれど、メジャー・デビュー作は「この映画」だったのか?

役者ではないが、巻上公一の「鼠」がいい味だしていたな。彼も、坂田明もミュージシャンだ。ただ、主演の小林薫はちょっと原作と雰囲気が違う。そこが残念だ。でも、いまもう一度映画を見直しているところなのだが、大森一樹の映画として実によくできているし、小林薫も決してミス・キャストではなかったと思い直しているところだ。

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■映画が原作と違うところを列挙してみよう。

・原作も時系列の異なるエピソードがシャッフルされて語れているが、映画ではさらに細分化されて前後を入れ替え再構成して描かれる。例えば、

・原作では、120〜123ページに書かれている、デレク・ハートフィールド『火星の井戸』の中の文章「君の抜けてきた井戸は時の歪みに沿って掘られているんだ。つまり我々は時の間を彷徨っているわけさ。宇宙の創生から死までをね。だから我々のは生もなければ死もない。風だ。」

 という文章が、映画では冒頭でいきなり紹介される。主人公のナレーションで。「風だ。」これは、映画の方がかっこいいな。

・夜行長距離バス、ドリーム号

・ラジオ局から送られてきた特製Tシャツのデザイン。これも、映画のほうがセンスいい。

・僕が寝た最初の彼女が進学した大学は、内田樹先生が勤務していた神戸女学院なのか?

・2番目の女の子が1週間滞在した、東京の僕の6畳一間のアパート。ジャックス『からっぽの世界』はっぴえんど『風街ろまん』のレコード。本棚には、高橋和巳『わが解体』『日本の悪霊』『黄昏の橋』吉本隆明全集が並んでいる。

・『ヒポクラテスたち』の出演者3人が演じる、当たり屋の狂言。BGMは、浅川マキ。

・僕が小指のない女の子の務めるレコード・ショップで購入したレコード。原作では3枚だが、映画では何故か「はしだのりひことシューベルツ」のLPが追加されていた。

・僕が、室井滋とサンドイッチを食べながらテレビで見る映画。原作では『戦場に架ける橋』なのに対し、映画では、ジェーン・フォンダ『ひとりぼっちの青春』。引用されたのは、原作となった『彼らは廃馬を撃つ』のラスト・シーンからなのだそうだ(僕は原作も映画も見ていない)。日本語吹き替えは、野沢那智と小原乃梨子(ジェーン・フォンダの吹き替えと言えば、この人。タイムボカン・シリーズのドモンジョの声もね)。

・鼠の女。原作では、結局登場しない(ただし、後述するが、ずっと出ていたという解釈もある)。映画では何度か登場し、鼠はチャイナ・ドレスの彼女を新幹線・新神戸駅のホームで見送る。鼠と僕は、彼女が引っ越した後のがらんとしたマンションの部屋(鼠の父親に囲われていた?)を訪れる。

・動物園の猿と鼠の父親。息子の父親殺しの物語。原作では周到に隠されていた裏テーマを、大森一樹は「神戸まつり暴動」を介して顕在化させ、鼠が何に対してそんなに悩んでいたのかという彼なりの解答を示した。

・さらに大森一樹が凄いのは、原作では「鼠」に小説を書かせていたけど、映画では自主制作映画を撮らせたことだ。タイトルは『ホール(掘〜る)』。この映画の中で、鼠は「自分が立っているすぐ足元の土」を掘るには、どうしたらよいのか悩む。これは予言的映像とでも言ってもいいんじゃないか。と言うのも、この映画が公開されたずっと後になってから、村上春樹にとっては自分の脳味噌に穴を(井戸を)掘って無意識の領域まで下りて行くことが、彼の小説作りにおいてすごく大切なことなのだと確認されるのだから。

・「何だか不思議だね。何もかもほんとに起こったことじゃないみたい」

 「本当に起こったことさ。ただ消えてしまったんだ」

 「戻ってみたかった?」

 「戻りようもないさ。ずっと昔に死んでしまった時間の断片なんだから」

 「それでも、それは、あたたかい想いじゃないの?」

 「いくらかはね。古い光のように!」

 「古い光? ふふっ」「いつまでも、あなたのボーナス・ライトであることを祈ってるわ」

・ただ、どうしても判らないのは、原作を読んでいて、何だか分からないうちに感動してしまった「あのセリフ」。ラジオDJの「僕は・君たちが・好きだ。」(144ページ)を、映画では消去してしまった(出てこない)ことだ。小説の中では、最重要タームじゃなかったのか?

・それから、原作では、128〜129ページ。「しかし彼女は間違っている。僕はひとつしか嘘をつかなかった」

この小説で、ポイントとなるキーワードだが、僕がついた嘘に関しては、いろんな解釈が成り立つ。後年の解説書によると、「子供が欲しい」が「そのウソ」ではないか? とのことだが、映画では違った。

「言い忘れてたんだ。」が、嘘だったと。

その直後に挿入されるシーン。

真行寺君枝が正面のバスト・ショットで不思議な雰囲気の微笑を浮かべてこう言う。

「ウソつき!」

なんて色っぽい、素敵な表情なんだ!

 

  

・映画の中では、「いつか風向きも変わるさ」っていう台詞が、いろんな人から交わされるけど、こんなセリフ、原作にあったっけ。あったあった。140ページだ。

 「…ずっと嫌なことばかり。頭の上をね、いつも悪い風が吹いているのよ。」

 「風向きも変わるさ。」

 「本当にそう思う?」

 「いつかね。」

・映画のラスト近く。10年後の廃墟と化した「ジェイズ・バー」。床いっぱいに5センチの厚さでピーナツの殻がまち散らかしてある。そこにふと一陣の風が吹く。スローモーションで巻き上がるピーナツの殻。映画的に、ほんとうに美しいシーンだ。

・ラストシーン。主人公の独白。「神戸行きドリーム号は…… もう、ない」

ビーチ・ボーイズ「カリフォルニア・ガールズ」が流れる中、エンドロール。このタイミングがめちゃくちゃカッコイイ。いやいや、やっぱり何だかんだ言って凄くいい映画だったんじゃないか?

(まだまだ続く)

2015年4月26日 (日)

再読『風の歌を聴け』村上春樹(講談社文庫)

■村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』を読んだ。33年ぶりか。

どんな話だったのか、ぜんぜん憶えていなかった。

そういうものだ。

    ☆

どうして再読したのかって?

きっかけは、「ドーナツ」だ。

    ☆

『なんたってドーナツ』早川茉莉・編(ちくま文庫)第三章、167ページ。千早茜「解けない景色」というエッセイの中に、印象的なドーナツのシーンが出てくる。

    ☆

高校生の頃の彼女(千早茜さん)は非常に偏屈だった。だって、

読書においては「死んだ人しか読まない」というポリシーを貫いて純文学ばかり読んでいた(『なんたってドーナツ』172ページ)

からだ。

『風の歌を聴け』p22にも、鼠と僕との「こんな会話」がある。

    ☆

「何故本ばかり読む?」(中略)

「フローベルがもう死んじまった人間だからさ。」

「生きている作家の本は読まない?」

「生きてる作家になんてなんの価値もないよ。」

「何故?」

「死んだ人間に対しては大抵のことが許せそうな気がするんだな」

    ☆

不思議なシンクロニシティだ。

死んだ作家の文学しか読まない彼女が、どうして生きている村上春樹の文章と出会ったのか?

 ドーナツと聞くと、私はその景色をありありと思いだすことができる。正しくは私の頭の中の景色なのだが。私自身はその時、予備校の白く無機質な教室で模擬試験を受けていた。

 マークシート形式の国語の試験で、現代文の評論を終え、小説の項目を読んでいる時だった。(中略)

 その小説はさらりとしていた。

 幼い頃の主人公がカウンセラーの元に連れていかれる。主人公は応接室に通され、そこで出された二個のドーナツのうちひとつを、膝に砂糖をこぼさぬように注意しながら半分食べ、オレンジジュースを飲み干す。そして、カウンセラーと対話する。それだけの話だった。

 私はすらすらとそれを読み終え、問題文に向かい、愕然とした。

 答がなかった。

 五つの選択肢を指でなぞりながらもう一度読んだ。やはり、その中に答はなかった。

 そんなはずはない、おちつけ。自分にそう言い聞かせ、とりあえず小説は後回しにして古文と漢文を先に解くことにした。(中略)

 深呼吸して小説に戻り、本文を読み直した。

 そこで、はじめて私はその文章が今まで自分が読んだことのないタイプの文章であることに気付いた。文字で書かれていないことが頭の中に残っていた。シンプルなのに含みがあり、不可解な気配がある。それを振り払い、問題文に向かおうとするのだが、どうしても蘇ってくる。

 国語の解答というものは文脈にないことを書いてはいけない。それが基本中の基本であることはわかっていた。答の選択肢の中に、恐らく正解であろうものを見つけることもできた。けれど、私はどうしてもその円を塗りつぶすことができなかった。

この物語の答は文脈の中ではなくて、文と文との間の書かれていないところにあって、私にはそれをうまく言葉にすることができない。これは、そういう文章なのだ。。そう思った。

 結局、私は白紙で提出した、講師が驚いた顔で「どうした」と言った。

「この選択肢の中に答はありません」

 そう私は答え、講師は「おいおい」と困った顔で笑った。

 大学に入り、本の話ができる友人ができた。ある日、赤と緑の表紙の本を勧められた。ぱらぱらとめくり、息が止まりそうになった。あの試験の文章にそっくりだった。気付けば「この人、誰?」と大きな声で尋ねていた。私は「死んだ人しか読まない」というルールを止め、その作者の本を片端から読んだ。

 あの時の文章はすぐに見つかった。『風の歌を聴け』という本の一節で、今でも時々読み返す。

 私の中にあの景色は色濃く残っていて、壁時計のこちこちいう音も、少し開いた窓から入ってくる潮風の肌触りも、白い皿の上にこぼれたドーナツの黄色い欠片もありありと浮かぶのに、やはり、文章には書かれていない。問題文で問われていた主人公の気持ちも書かれてはいない。

それらはすべて読んだ人それぞれの心の中にある。小説というものに答えなどないのだということを、私ははじめて実感した。(ちくま文庫『なんたってドーナツ』千早茜「解けない景色」p171〜p174

■ところで、村上春樹と言えば「ドーナツ・ホール・パラドックス」問題である。

ドーナツの穴を空白として捉えるか、あるいは存在として捉えるかはあくまで形而上学的な問題であって、それでドーナツの味が少しなりとも変るわけではないのだ。

『羊をめぐる冒険(上)』111ページ

ただ、「ドーナツの穴」問題の初出は『羊をめぐる冒険』ではなくて、この「スヌーピーのゲッツ」のラーナーノーツ。以前にも何度かリンクさせてもらった。

   ☆

■村上春樹がこだわる「ドーナツの穴」の意味とは?

その答えを明解に解説してくれるのは、やっぱり内田樹センセイだ。『もういちど村上春樹にご用心』(文春文庫)34〜37ページ「トラウマとその『総括』」には、こんなふうに書いてある。

   ☆

作家はどこかで一回、自分のことをまじめに書き切るということが重要みたいです。とことん書き切ることで、そして、それでは「書けない」ことがあるということを思い知って、そうして、ようやく自分自身に取り憑いていた文体上の定型から解き放たれる。

 村上さんの場合、『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』の初期三部作は同じテーマをめぐっています。実際にそういう出来事があったかどうかは別にして、村上さんの個人史に即したトラウマ的経験をめぐって小説が書かれている。(中略)

「トラウマ」が問題なのは、傷口が痛むということよりも、その外傷的経験については「語ることができない」という不能そのものが、人格の骨格をなしているということです。奇妙なことですが、私たちが他人がどんな人間であるかを判断するのは、その人がぺらぺらしゃべることによってではなく、その人が何については語らないか、どのような話題を神経症的に忌避するかなのです。(中略)「トラウマ的経験」とはそのことです。(中略)

でも、作家がローカルな読者圏で「愛される作家」であり続けることを諦めて、「世界」に出て行くためには、いつかはトラウマから離脱しなければならない。(中略)

トラウマというのは「虚空」のようなものです。それは「私はそれをうまく言語化することができない」という不能の様態でしか存立しない。さらさらと言語化できるようなら、そんなものは「トラウマ」とは言われません。

 だから、「トラウマについて言い切る」と言っても、それは「私は実はこのような経験を抑圧していたのでした」というカミングアウトをすることではありません。私たちにできるのは、ある種の欠落や欠如について、取り返しのつかない仕方で何かを喪失し、深く損なわれた私について語ることだけです。

それは「ドーナツの穴」について語ることに似ています。「ドーナツの穴」そのものを直接に「これ」と名指すことはできません。まずドーナツを作って、それを食べてみなければ、「ドーナツの穴」の「味」や機能について理解することはできない。トラウマ的な経験について物語るというのは、「ドーナツの穴を含んだドーナツを作る」作業に似ています。

内田センセイの凄いところは、作家自身が発言するずっと以前の段階で、まったく同じことをすでに代弁してしまっていることだ。例えば、同じ『もういちど村上春樹にご用心』(文春文庫)30ページ。

僕が村上春樹の作家的スケールの大きさに気がついたのは『羊をめぐる冒険』を読んだときです。あの小説には、ご飯を作って食べるシーンと家の中を掃除しているシーンが妙に多いでしょう。それが印象的でした。そんな文学作品て、あまりないから。

 でも、村上作品の中では、ご飯を作ったり、お掃除をしたり、アイロンをかけたりという行為は非常に重要な役割を果たしている。それは生きる上での基本ができていないと、美味しいご飯を作ったり、ていねいにお掃除をしたりすることはできない、ということを村上さんは経験的に確信しているからだと思います。

このことに関連して、村上春樹氏は共同通信のインタビュアーからの質問に答えてこう言っている。

   ☆

 ◇羅針盤

 −−そんな中で、今、村上春樹作品が世界中で読まれているわけです。

 村上 僕の小説はある意味では「ロジックの拡散」という現象に併走しているんじゃないかと思う。僕は小説を書くにあたって意識上の世界よりも意識下の世界を重視しています。意識上の世界はロジックの世界。僕が追究しているのはロジックの地下にある世界なんです。

 −−その作品の特徴は?

 村上 ロジックという枠を外してしまうと、何が善で、何が悪かがだんだん規定できなくなる。善悪が固定された価値観からしたらある種の危険性を感じるかもしれないですが、そのような善悪を簡単に規定できない世界を乗り越えていくことが大切なのです。でもそれには自分の無意識の中にある羅針盤を信じるしかないんです。

 −−村上さんの物語はその闇のような世界から必ず開かれた世界に抜け出てきます。その善い方向を示す羅針盤はどこから生まれてくるのですか?

 村上 体を鍛えて健康にいいものを食べ、深酒をせずに早寝早起きする。これが意外と効きます。一言でいえば日常を丁寧に生きることです。すごく単純ですが。

■それから、39ページには、こんなことが書いてある。

札幌の街のことを書こうと思っても(ギリシャの孤島ではどうしようもないから)手元には何の資料もない。そうすると、自分の頭の中にある記憶のストックから引き出して書くしかない。でも、この「自分の頭の中にある記憶のストック」から情報を引き出すしかないという状況ほど人間の脳が活性化することって、実はないんです。(中略)

 きっと村上さんは、作家的成熟のどこかの段階でそれに気付いたんだと思います。自分の記憶の中には巨大な「アーカイブ」がある。

そうして、季刊誌『MONKEY vol.4』に連載されている、村上春樹私的講演録『職業としての小説家』第4回「さて、何を書けばいいのか?」を読むと、「小説家になろうという人にとって重要なのは、とりあえず本をたくさん読むことでしょう」という文章に続いて、こんなふうに言っている。

 その次に ---おそらく実際に手を動かして文章を書くより先に---来るのは、自分が目にする事物や事象を、とにかく子細に観察する習慣をつけることじゃないでしょうか。まわりにいる人々や、周囲で起こるいろんなものごとを何はともあれ丁寧に、注意深く観察する。

そしてそれについてあれこれ考えをめぐらせる。しかし「考えをめぐらせる」といっても、ものごとの是非や価値について早急に判断を下す必要はありません。結論みたいなものはできるだけ保留し、先送りするように心がけます。

大事なのは明瞭な結論を出すことではなく、そのものごとのありようを、素材=マテリアルとして、なるたけ現状に近い形で頭にありありと留めておくことです。(中略)

 多くの場合、僕が進んで記憶に留めるのは、ある事実の(ある人物の、ある事象の)興味深いいくつかの細部です。全体をそっくりそのまま記憶するのはむずかしいから(というか、記憶したところでたぶんすぐに忘れてしまうから)、そこにある個別の具体的なディテールをいくつか抜き出し、それを思い出しやすいかたちで頭に保管しておくように心がけます。(中略)

 いずれにせよ、小説を書くときに重宝するのは、そういう具体的細部の豊富なコレクションです。僕の経験から言って、スマートでコンパクトな判断や、ロジカルな結論づけみたいなものは、小説を書く人間にとってそんなに役には立ちません。むしろ足を引っ張り、物語の自然な流れを阻害することが少なくありません。

ところが脳内キャビネットに保管しておいた様々な未整理のディテールを、必要に応じて小説の中にそのまま組み入れていくと、そこにある物語が自分でも驚くくらいナチュラルに、生き生きしてきます。(p169〜p174)

   ☆

   ☆

この項、もう少し続く予定。

2015年4月22日 (水)

件(くだん)が登場する漫画

漫画に描かれた、件(くだん)を集めている。

「下駄屋に生まれたというくだんのために、僕らは一家総出で岩国に出向いた。もちろん買い取るためだ。」(津原泰水『11 / eleven』河出文庫 11ページ)という、印象的な書き出しで始まる短篇小説を完全漫画化した『五色の舟』近藤ようこ(KADOKAWA)を最近読んで感銘をうけたからだ。

件(くだん)のことなら知っている。

からだが牛で、顔だけ人間の浅ましい化け物。

牛から生まれて三日にして死し、その間に人間の言葉で、未来の凶福を予言する。

歴史に残る大凶事の前兆として生まれ、数々の予言をし、凶事が終われば死ぬとも言われている。

漫画家 とり・みき氏による解説:「依って件(くだん)の地獄行き

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虹ヶ原ホログラフ』浅野いにお(太田出版)138ページにも登場する。これは、うちの長男に教わった。

ずいぶんと昔に、確か「少年マガジン」で小松左京『くだんのはは』を、石森章太郎が漫画にしたのを読んだ。膿と血で汚れた包帯と洗面器の絵がリアルに記憶されていて、図書館で検索したら『漫画家たちの戦争:未来の戦争』(金の星社)に収録されていることが判った。これです。(写真をクリックすると、もう少し大きくなります)

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■『漫画家たちの戦争 / 未来の戦争』(金の星社)に収録されていたのは、「くだんのはは」石森章太郎、「落雷」星野之宣、「地上(うえ)」山上たつひこ、「飛ぶ教室」ひらまつつとむ、「百鬼夜行」諸星大二郎、「THE WORLD WAR 3 地球 THE END」松本零士、「山の彼方の空紅く」手塚治虫、「ある日…」藤子・F・不二雄。

みな大変な力作で、読み応えがあった。

石ノ森章太郎の「くだんのはは」には、憶えていたとおりの「膿と血で汚れた包帯で山盛りの洗面器」が描いてあった。ただ、この「くだん」は「頭が牛で体は人間」だった。そりゃそうだろう。「くだんのはは」は「人間」なんだから。

 

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■中でもいちばん驚いたのは、手塚治虫『山の彼方の空紅く』だ。1982年にマイナーな漫画雑誌に発表された「この漫画」は、今から33年も前に描かれたのに、沖縄普天間基地の辺野古移転反対運動を予言したかのような漫画だ。これは凄いぞ。ただし、「くだん」は出てこないけどね。

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