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2013年1月

2013年1月24日 (木)

「炭酸水」製造器は、ほんと便利だ!

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「GLASS ONION」で、クリスマスプレゼントとして妻に買ってもらった「SodaSparkle ツインボトルスターターキット」 が、とても重宝している。これはいいや。

液体二酸化炭素のカートリッジ(1本 50円)をセットして、微炭酸なら 1.3L、強炭酸水は 1L できる。


炭酸好きのぼくは、西友で「PEPSI NEX ZERO」1.5L や、350ml のアルミ缶入り炭酸ソーダに、500ml のペットボトル「クラブソーダ」を、テルメに行った帰りに必ず買って帰るので、わが家は「ペットボトル」が山のように貯まってしまうのだった。

ビン、缶、ペットボトルの回収の日には、うちのペットボトルだけで回収箱があふれてしまうので、妻は「恥ずかしい」と、いつも言っていた。


でもしかし、この「SodaSparkle」を購入後はペットボトルを全く買わなくなったのだ。子供らも「おとうさん、炭酸水作って」と言っては、毎晩「カルピスソーダ」を楽しんでいる。妻も機嫌がいい。よかったよかった。

2013年1月17日 (木)

「古今亭志ん朝・大須演芸場CDブック」を聴く

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■せっかく書いた文章が、アップする前に接続が切れてしまったため、消えてしまった。頑張っていっぱい書いたのに、やれやれ。


高遠の兄から『古今亭志ん朝・大須演芸場CDブック』を借りてきた。これは凄いな。CD30枚組。豪華ケース入り。


志ん朝師が、経営悪化で四苦八苦している名古屋大須演芸場の席亭を救うべく、1990年10月から 1999年11月までの10年間、毎年秋に大須演芸場に出向き「三夜連続独演会」を開催した。

いつもは閑古鳥が鳴く大須演芸場も、この時ばかりは大入り満員だったそうだ。晩年の志ん朝師は、浅草演芸ホールでの夏の「住吉踊り」と、秋の名古屋大須演芸場での独演会を何よりも大切にしていたという。


■小林信彦『名人 志ん生、そして志ん朝』(朝日選書)を読んだので、大須演芸場での独演会のことは知っていた。実際に行って聴くことのできた人たちが、ものすごく羨ましかった。

その大須演芸場の「音源」が、まさかこうして公に出るとは思いも寄らなかった。


もともと、雑務で忙しい席亭が個人的に後で聴くために志ん朝師に頼んで師の公演をカセットテープに録音させてもらったもので、その年によって録音状況がずいぶんと異なっている、いわば私家版のブートレクなのだ。

だから、演目によっては音は極端に悪い。


でも、その欠点を補っても余るほどに、この「音源」を聴くことができた喜びは大きいな。

なによりも「マクラがたっぷり」なことが出色だ。

それに、リラックスしてくつろいだ普段着の志ん朝師が感じられる。

独演会とはいえ、大須演芸場の「場」が醸し出す「雰囲気」が、志ん朝師をいつになく普段の「寄席」での高座の気分にさせたのであろう。


それに、晩年の志ん朝師の高座を、これだけ沢山の演目と共に集めた音源は他にはないはずだ。そこが貴重。

2013年1月13日 (日)

佐々木昭一郎をリスペクトする映画監督たち


YouTube: 映像の詩人 佐々木昭一郎 (1/2)


YouTube: 映像の詩人 佐々木昭一郎 (2/2)


■この映像は、日本映画専門チャンネルが 2006年6月に「佐々木昭一郎の全作品」を集中放送した時に制作された特別番組だ。この時はまだCSを見る環境になかったので、こんな特集が組まれていたとはちっとも知らなかった。

今は「日本映画専門チャンネル」を受信できるから、なんとかもう一度「佐々木昭一郎特集」を企画してもらえないだろうか。ぜひとも。


■ところで、この『映像の詩人・佐々木昭一郎』には、彼をリスペクトする若手映画監督のインタビューが出てくる。塚本晋也、河瀬直美、是枝裕和の3人だ。インタビューの時間は短いが、どれほど衝撃を受けたかがよく分かって面白い。


2013年1月11日 (金)

『東京ジャズメモリー』シュート・アロー(文芸社)(その2)

■『東京ジャズメモリー』の著者は、ぼくより4つ年下だ。だから微妙に「同じ渋谷」でも印象・記憶が少し違うのかもしれない。


ぼくが「BLAKEY」に通っていた頃は、第2章に登場する、渋谷「SWING」は、百軒店『ムルギー』左隣『音楽館』の斜向かいにあった。宇田川町の輸入レコード店「CISCO」の地下へ移転したのは、それから暫くしてからのことだ。

自由が丘の「ALFIE」は、ぼくも一度だけ行ったことがある。たしか、デヴィッド・マレイ『ロンドン・コンサート』が鳴っていた。

あと、この本でうれしいのは、巻末に載っている「昭和55年頃の渋谷ジャズ喫茶マップ」だ。そうそう、東急本店通り(今は何て言うんだ?)の右側のパチンコ屋横の狭い階段を地下に降りて行くと、ジャズレコード専門店「ジャロ」があったあった。南口から「メアリー・ジェーン」を探して行ったこともある。渋谷界隈限定のディープでローカルな「ジャズ体験」が個人的に泣けるのだなぁ。


■ちょうど、『ポートレイト・イン・ジャズ』村上春樹・和田誠(新潮文庫)を同時に再読していたから、余計にそう感じたのかもしれないが、センチメンタルでメランコリックで思い入れたっぷりの村上春樹氏の文章と比べて、『東京ジャズメモリー』の著者、シュート・アロー氏は案外あっさりとした文章を書く。いや、良い意味で「泥臭くない」のだ。

江戸っ子の粋とでも言うか、照れもあるからなのか、語りすぎないのだね。そこが「この本」のカッコイイところだと思った。


■それから、とにかく文章が上手い。さすがに音楽を生業としている人だけあって、読んでいて「息継ぎが楽な文章」を書く人だ。

氏の筆が乗ってくるのは、中盤の「田園コロシアム」の項あたりから「新宿西口広場のマイルス」のあたり。都会人でクールなはずのアロー氏が、思わず熱く熱く語ってしまっているのだ。(以下、引用)


 なお、ピクニック気分でビールを飲みながらジャズを楽しむというコンセプトの斑尾高原ジャズフェスティバルが(バドワイザーがスポンサー)、田コロにおけるライブ・アンダーの終焉に合わせたかのように、1982年から開催されたのは偶然なのであろうか。(中略)

 2010年代に至っては、バーはもちろん、居酒屋、食堂、ラーメン屋、すし屋といった飲食店以外にも、本屋、雑貨屋、美容院、床屋、ホテルのエレベータ内などなど日本中いたる所にジャズが溢れかえっている。

しかしジャズブーム、ジャズライブが盛況、CD販売好調、ジャズファンが増加といったニュースは聞いたことがない。あくまでも手軽で耳あたりの良いBGMになりさがってしまっている。

 一方、昔ながらの大音量でジャズを聴かせるジャズ喫茶に至っては、全くの瀕死状態だ。たまに本格派ジャズ喫茶に行くと客はほとんどが中高年の男性で、若い男女はほとんど見られない。というよりそもそも客がいないことが多い。

残念ながらジャズ喫茶はすでに過去の遺物、化石、マイク・モラスキー氏の『ジャズ喫茶論』で言うところの ”博物館” となりつつあるというか、なってしまった。(p91〜92)



■ぼくは田園コロシアムも復帰後のマイルスも、直接聴きに行ったことはない。(レコード・CDは持っている。)

斑尾ジャズ・フェスティバルは、ぼくが北信総合病院小児科に勤務していた夏に「第3回」が開催されて、見に行った記憶がある。1984年のことだ。斑尾のジャズフェスはその後もずいぶんと頑張って続いた。1989年〜1991年は、飯山日赤小児科に在籍していたので、3年間毎年見に行った。

僕が尊敬するジャズ評論家の大御所、野口久光氏にサインしてもらったのも、この時の斑尾(夜のジャムセッション)でだ。いま考えてみると、確かに信じられないくらい「いい時代」だったのだなぁ。

シュート・アロー氏が主張するように、1981年頃の日本のジャズ状況が「日本ジャズ史において恐らく最も多くの人々がジャズに親しみ、楽しみ、盛り上がった時代であり、少なくとも戦後におけるジャズブームのひとつとして語り継がれる必要があるはずである。」のかもしれない。


■ところで、この本の著者は、某楽器メーカー勤務の匿名サラリーマンなのだが、著者が新人時代に勤務した渋谷店が道玄坂にあったこと(いまはない)、本社が浜松にあること、著者がマイク・スターンやネイザン・イーストと懇意であることなどから考えると、シュート・アロー氏は「ヤマハ楽器」に勤務されているのではないか。うん、たぶんそうに違いない。

2013年1月 9日 (水)

『東京ジャズメモリー』シュート・アロー(文芸社)と、ジャズ喫茶「BLAKEY」のこと(その1)

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■この本『東京ジャズメモリー』のことを知ったのは、例によって『週刊文春』の読書欄「文春図書館」最終ページの連載『文庫本を狙え!』坪内祐三のコーナーでだった。以下、少しだけ引用する。

文芸社というのは自費出版を中心に刊行している版元で、文庫サイズのこの本も自費出版かもしれない。

 だがとても面白い。

 まず渋谷を中心とした東京本として楽しめる。

<僕が高校入学した昭和53年(1978年)は、渋谷三角地帯がまさに再開発され、109 が建設されている最中であった> と書いているから著者は昭和37年生まれ、私の4歳下だ。だから私の見て来た風景と重なる。(中略)

 

渋谷の百軒店にあった BLAKEY というジャズ喫茶(1977年開店 82年閉店)。「扉を閉めて外部からの光を遮断してしまうと、大袈裟ではなく真っ暗で何も見えないのである。一般に暗いとされる『占いの館』や遊園地のお化け屋敷よりも暗い」。

「目が慣れるまで暗くて全く何も見えないにも係わらず、マスターが席まで誘導するというごく当たり前な行為も一切なかったので、一応客であるはずの僕らは中腰で自ら手探り・足探り? で空いている席にたどりつかねばならなかった」。

「店内のところどころに客の気配、人影を感じるのだが基本的にほとんど動かず石のように固まっている。」

 1980年代の渋谷は白くピカピカしたイメージがあるがまだこのような空間も残っていたのか。(後略)

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■ぼくは、坪内氏の「この文章」を読んで、ビックリ仰天した。


大学に入りたての頃、茨城から週末になると常磐線に乗っては上京し、池袋文芸座で土曜の夜のオールナイトを見て、始発の山手線で寝ながら3周半ぐらいして、午前9時半の「ブレイキー」開店を待ったものだ。

もしくは、当時「目蒲線」西小山に住んでいた次兄の部屋に泊めてもらって、渋谷に出かけて行った。

ハチ公口からスクランブル交差点を渡って道玄坂を上がって行き、「百軒店」の看板を右折する。当時、そのすぐ左手には、グルメ評論家の山本益博氏が絶賛したことで有名になる前のラーメン店「喜楽」があった。(小綺麗なビルになっていまもある)

右手に「道頓堀ヌード劇場」。渋谷なのに、なぜ「道頓堀」なのか? いまだに謎だ。坂を登り切った正面が、印度料理店『ムルギー』だ。

『ムルギー』の話は、たぶん何度もしたので今日は省略する。

■今日の主題は、そう、ジャズ喫茶「ブレイキー」のこと。

当時、茨城県新治郡桜村在住だった僕が、たぶん一番ジャズの勉強をさせてもらった道場みたいな場所が、渋谷百軒店ジャズ喫茶「BLAKEY」だった。あの頃、筑波にはまだジャズ喫茶はなかったのだ。(『AKUAKU』がオープンしたのは、1979年9月9日のこと)

ネットで「BLAKEY」のことを検索しても、そのうちの半分は「ぼくが書いた文章」という有様。そうか、誰も知らないんだ、渋谷百軒店ジャズ喫茶「BLAKEY」のことなんて。

ぼくはずっとそう思ってきた。ところがどうだ! この本『東京ジャズメモリー』の巻頭に、いきなし「BLAKEY」が登場しているではないか!
ほんと、ビックリした。(amazon「クリック」なか見!検索で、その部分が読めます。)


で、とってもうれしかった。

僕だけじゃなかったんだ。あのジャズ喫茶で修業して、いまだに忘れられないでいるジャズ・ファンがいたんだ!

「ブレイキー」のことは、「2009/09/09」の日記  にも書いた。

1982年8月号の『Jazz Life』(写真)にも投稿した。以下転載。

 4月。久しぶりの渋谷。ハチ公口からスクランブル交差点を斜めにつっきって 109 方面へ。つぎつぎとすれ違う、都会のねぇちゃん達の群に感動したり、ため息ついたり。考えてみると、初めて、JAZZ を聴きにこの街へ来た5年前には 109 なんてなかったし、「道頓堀ヌード劇場」のわきの坂を登っていっても、すれ違うのは、上役サラリーマン風の男と、まだ顔のほてりを隠しきれない OL の2人づれぐらいだった。
 
 百軒店界隈もどんどん変わっていくねぇ、などと感心しながら、まずは『ムルギー』のたまご入りカレーで腹を満たす。よし、ここだけはまだ大丈夫。おっと、それからもう一軒。『音楽館』のかどを右へ折れると、目指す JAZZ喫茶『ブレイキー』。

 ……と、あれっ、ない。『ブレイキー』が無い! 音のしない2階の方をただポカンと見上げていると、人の良さそうなおじさんが階段を下りてきた。

「あ、ここ、今度、ふつーの喫茶店になるんだよ」 「つぶれちゃったんですか?」

 「……そーいう言い方しちゃいけないな。都合でやめたんだ。あんた、よく来てたの、そう、じゃあこれからもよろしくね」
 おじさんは忙しそうに、また2階へ消えていってしまった。

 「エ~~、ウッソ~~」ほんとうにそう言いたかった。日本じゅう、いろんな所を旅したけど、やっぱりここが一番、いつもそう思っていた。レイ・ブライアント、ジュニア・マンス、ワーデル・グレイ、リー・モーガン、ビリー・ホリデイの『レディ・イン・サテン』。それに、もちろん、ドルフィー、アイラー、コルトレーンにロリンズ。それからマレイ、アダムス、ビリー・バング。僕のレコード棚はみんな『ブレイキー』で聴いたレコードばっかしだ。

 ミンガスが消えた時も、モンクがいなくなった時も、ちっとも悲しくなんかなかった。だって、いつでもレコードで会えるもの。一体、どうしてくれるんだい、えっ、『ブレイキー』さん! JAZZ もとうとうおしまいだね、なんて深刻に考えてしまったではないですかい、えっ。わざわざ東京へ出ていっても、もう行くところがないんですよ、えっ。

 取り乱しちゃって失礼しました。最近、ちょっと酒乱ぎみなもので。まあ、でも、いつか知らない街角からあの ALTEC 612-C モニターのハード・ドライビング・サウンドが再び聞こえてくることを、切に願っている今日、このごろのわけで。
            (Jazz Life/ 1982年8月号)より

■ただ、ちょっと気になるのは、ぼくが通っていた頃は(1977年〜79年)何も見えないほど「真っ暗」ではなかったことと、マスターは小柄だけれど痩せていて、角刈り(五分刈り?)で黒縁の四角いメガネをかけていた。

だから、この本に登場するマスター(ボサボサの長髪で無精ひげをはやし、丸眼鏡をかけた小太りのマスター)と、とても同一人物とは思えないのだが。昼と夜とで人が交代してたんだろうか?

いや、確か夜行った時も「同じマスター」にしか会ったことはないぞ。

2013年1月 6日 (日)

『紅い花』つげ義春・原作、佐々木昭一郎・演出

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■むかし録画した『四季・ユートピアノ』を探しているのだが、どうしても見つからない。代わりに、佐々木昭一郎が「その1本前」に撮った『紅い花』が見つかった。この頃から彼はずっと「川の流れ」にこだわっていたんだなぁ。久しぶりに見入ってしまった。平成15年3月14日「NHKアーカイブス」で再放送されたもの。


NHKで『紅い花』が放映されたのは、1976年。ぼくはこの時、初めて佐々木昭一郎のドラマを見た。つげ義春の漫画を「ガロ」で読んでいて、興味があったからだ。いま見ても不思議なドラマだなぁ。つげ義春の「ゲンセンカ館主人」「沼」「古本と少女」「ねじ式」そして「紅い花」を、ひとつにまとめてある。これがまた、じつに良く出来ているのだ。


主役の女の子、沢井桃子さん。ツイッターで『紅い花』&佐々木昭一郎で検索したら、昨日の1月5日付「朝日新聞」に写真入りで記事が出ているとのこと。ほんとだ。なんでも、30年ぶりで女優業に復帰したという話。それにしても、不思議なシンクロニシティだなぁ。


ところで、佐々木昭一郎はBGMに凝る。

『四季・ユートピアノ』では、マーラーの4番の第四楽章のテーマ。

『春・音の光』では、チャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」。『川の流れはバイオリンの音』は何だったけなぁ?

そうして、この『紅い花』では、ドノヴァンが使われている。これがいいんだよ。

2013年1月 1日 (火)

去年、ほんとによく聴いたCDたち

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■新年、明けましておめでとうございます。
 本年もどうぞよろしくお願いいたします。


■昨年よく聴いたCDたち。 左から縦に(順不同です)

  震災後に幾多のミュージシャンが「コンセプト・アルバム」を出したが
  このCDは、被災者の哀しみに寄り添う姿勢が本物だと判る音造りがな
  されていると思う。静かでスローテンポの曲で統一されていて、こんな
  にも切ない「禁じられた遊び」は、これまで聴いたことがない。
 
  ラストの「しゃぼんだま」は、彼らが震災前にコンサートで訪れた
  北茨城市が野口雨情の出身地であることから選ばれた。報道ではあま
  り取り上げられないが、北茨城市も地震と津波の被害は大きかったの
  だ。
 
2)『ハンバートワイズマン』 このCDがたぶん一番数多く聴いたかな。

3)『俳句・椅子』ワサブロー 高遠でワサブローさんのコンサートができ
   て、ほんとうに幸せだ。ワサブローさん、ありがとうございました。

4)『リトルメロディ』 七尾旅人 これも傑作。


6)NO NUKES JAZZ ORCHESTRA  これも傑作。

7)『オラトゥンジ・コンサート』 ジョン・コルトレーン


9)『夏草の誘い』ジョニ・ミッチェル 今年は「巳年」だしね!
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