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2011年9月 9日 (金)

伊那市で撮影された映画のこと

■映画『大鹿村騒動記』は、長野県下伊那郡大鹿村でオールロケされた。この映画に限らず、最近立て続けに伊那谷で映画のロケがあったそうだ。なぜそれほど東京から3時間以上もかかる「この田舎」に映画のロケ隊がやって来るのか? それは、

「伊那市フィルムコミッション」があるからです。

ここのブログには載っていませんが、このほかに、


・三谷幸喜監督作品『ステキな金縛り』で、主演の落ちこぼれ弁護士役の深津絵里と落ち武者幽霊役の西田敏行が高遠町にある「山室鉱泉」でロケしたそうです。この撮影で、すっかり高遠が気に入った? 三谷幸喜さんは、この8月に再び高遠を訪れ、WOWOW開局20周年記念ドラマ『ショートカット』を撮影したとのこと。主演は、中井貴一と鈴木京香。助演に、NHK朝ドラ「ゲゲゲの女房」で、貧乏なマンガ編集者を好演した、梶原善


・さらには、来年初頭に公開予定の、山崎貴監督作品『Always 3丁目の夕日 '64』で、吉岡秀隆クンが実家(長野県出身という設定だった)を訪れるシーンが高遠町で撮影されたとのことです。


ツイッターで拾った「いろんな噂」によると、天竜町の飲み屋街のバーのカウンターで吉岡秀隆が飲んでいたとか、高遠町の居酒屋で三谷幸喜が飲んでいたとか、高遠町の西澤ショッパーズで鈴木京香が買い物していたとか、ナイスロード沿いの雑貨屋「グラスオニオン」に、ふらりと梶原善が訪れたとか……

なんか、楽しいね。


今度、高遠にはキャイーン!の「ウドちゃん」が一遍上人役で来るらしいし。


■でも、この伊那谷でロケされた映画は過去にもいっぱいあったのです。


有名なところでは、鶴田浩二主演『聖職の碑』。三浦友和、大竹しのぶも箕輪町に来たみたいです。

そうして、佐分利信、岸恵子主演『化石』小林正樹監督作品で、高遠城趾公園の満開の桜のシーンが撮られた。


それから、市川崑監督作品『股旅』。主演:萩原健一。共演:小倉一郎、尾藤イサオ。長谷村の廃屋を使ってロケされたそうだ。この映画のナレーションは、佐藤慶じゃなかったっけ。あ、違うみたいだごめんなさい。でも、この映画は傑作だったなぁ。時代劇としても画期的だったし、なによりも青春映画として素晴らしかった。結局、尾藤イサオは切られた刀傷から破傷風に感染して、痙笑しながら死んでいったのだったよ。(ネタバレ御免)

最近の映画では、妻夫木聡主演の『さよならクロ』のラスト近くのアルプスの遠景は、北アルプスじゃなくって、伊那市西箕輪から見た南アルプス仙丈ヶ岳だ。


マイナーなところでは、ホラー映画『ひぐらしのなく頃に・誓』が、旧高遠町役場、鉾持神社、山室鉱泉、竜東線沿いのレストラン「アルハンブラ」などで撮影されたもよう。


■テレビドラマだと、まだまだあるぞ。


『思えば遠くへ来たもんだ』(TBS・1981年)主演:古谷一行 は、高遠町でロケされた(天女橋あたり)。

『坊さんが行く』(NHK・1998年)主演:竹中直人、沢口靖子では、確か高遠町勝間のしだれ桜でロケされたように記憶している。


ちょっと古いところでは、


『怪奇大作戦』(TBS・1968年)「第12話 霧の童話」は、高遠町旧河南小学校、建福寺、蓮華寺ほかでロケされた。

これは以前にも書いた記憶があるが、当時小学生だったぼくは、高遠町の竹松旅館に泊まっていた勝呂誉、松山省二を見に行った。ただこの時は、岸田森は高遠には来ていなかった。残念だ。暗くなっても1時間近く竹松旅館の前で友達の中嶋達朗くんといっしょに待っていたら、勝呂誉さんが一人わざわざ外へ出て来てくれて、ぼくらにサインしてくれたのだ。うれしかったなぁ。テレビに登場するスター(大空真弓の元夫)を直に見たのは、この時が初めてだったと思う。

2011年9月 3日 (土)

映画『大鹿村騒動記』を伊那旭座で見た。

■毎週水曜日の午後は休診にさせていただいている。


週の真ん中に、個人的に自由に出来る時間があると何かと便利なのだ。例えば、歯医者さんへの通院。実際いま、伊那市駅前の「中村歯科医院」へ水曜日の午後通っている。


ただ、この8月末から10月末までの2ヵ月間は、毎年「上伊那医師会付属准看護学院」での小児看護の講義が水曜日の午後3時半から5時まで計8回あって、講義の予習準備とか試験問題を作ったりとか、けっこう大変だったのだ。まる10年間お務めしたのでそろそろ引退したいと思い、伊那中央病院小児科の木下先生に講師を代わってもらえないか打診したら、思いがけず快く引き受けてくれたのだ。木下先生、ほんと有難うございました。


■という訳で、今年は准看護学院の講義が9月10月の水曜日の午後は入っていない。ありがたいなぁ、ほんと。


で、かねてから映画館で是非見たいと思っていた、原田芳雄さんの遺作『大鹿村騒動記』が伊那旭座にかかっていたので、早速今週の水曜日の午後に伊那旭座へ行って見てきました。東映配給だったんだね、知らなかった。しかも! 前売り券なしで入場料が1000円均一。これって、けっこう英断だよなぁ。映画を見る前からすっごく得した気分だ。


映画館に入ると、思いのほか入場者が多い。と言っても、ぼくより年配の方々が10数人、既に着席していた。伊那旭座にしては「大入り」のほうなんじゃないか?


■場内が暗転し、スクリーンに光が照射される。最初はお決まりの「不法録画防止啓発ビデオ」だ。その次は、次回上映の映画の予告編かと思ったら、いきなし本篇が始まった。


美しい大鹿村の遠景をバックに白字で『大鹿村騒動記』のタイトルが縦書きで現れる。けっこう癖のある字だが下手ではない。味がある字だ。これはエンドロールで明かされることなのだが、主演の原田芳雄さんが書いた字なのだそうだ。


映画『大鹿村騒動記』は、伊那市長谷市ノ瀬から南へ「ゼロ磁場」で有名な分杭峠を超えれば、下伊那郡大鹿村となるのだが、その長野県に実在する「大鹿村」でオールロケされた映画なのだった。変に気負いがなくて、フットワークも軽く何気なくさらっと撮影された映画なのだが、往年の名優そろいぶみの贅沢なキャスティングで、主演の原田芳雄をもり立てているのだ。

ああ、いいなあ。ほんといい映画だった。満足しました。評点は、ちょっとオマケして星4っつ半! ★★★★☆


■やはり、映画の基本は「男2人女1人」の三角関係だ。古くは『冒険者たち』って、同じ話を「佐藤泰志」の小説『君の鳥はうたえる』『そこのみにて光輝く』の感想文で書いたばかりだな。


で、「この映画」もちゃんと「それ」を踏襲しているのだ。

ただ、圧倒的に違うことは、主人公を含む3人組(原田芳雄、岸部一徳、大楠道代)が、青春真っ直中にあるのではなくて、団塊世代の既に60歳を超えた「年寄り」であることだ。


■じつは「大鹿歌舞伎」を題材にしたドラマと映画が以前にもあった。NHK長野局が制作した単発ドラマ『おシャシャのシャン!』(2008年1月放送)と、後藤俊夫監督の映画『Beautyうつくしいもの』だ。

この『おシャシャのシャン!』には、原田芳雄さんも重要な役どころ(ヒロインの父親で大鹿歌舞伎では主役を演じる)で出演していて、この撮影で原田さんは実際に大鹿村を訪れ「大鹿歌舞伎」を知ったのだった。


このドラマもなかなかよくできた脚本で面白かったのだが、舞台で演じられる歌舞伎の演目の内容と実際のストーリーが絶妙にリンクしてラスト盛り上がる『大鹿村騒動記』の方に軍配は上がるな。ほんと、荒井晴彦と阪本順治の脚本はよく書けている。


■映画の中で演じられる大鹿歌舞伎は「『六千両後日文章』 重忠館の段」で、原田芳雄さんが主役を務めるのが「平景清」。おお! 知ってるぞ「景清」。落語の演目にある、あの「景清」ではないか! 桂米朝と桂文楽のCDで持っているし、新宿末廣亭で四代目三遊亭金馬が演じたのを生で聴いた。それに、何よりもあのNHK朝の連続テレビ小説『ちりとてちん』で、徒然亭草々が一生懸命稽古していた「ネタ」じゃないか。


落語では、腕のいい木工職人だった定次郎が失明してしまい、再び目が見えるようになりますようにと、清水の観音さんに願掛けで1000日通う。この観音さんは、むかし平家の落人の景清が「源氏の世は見たくない」と自分で両眼をくり抜いて納めたという所。その満願成就の日、結局定次郎の眼は見えるようにはならなかった。ところがその帰り道、空がにわかにかき曇り暗雲垂れ込め車軸の雨。ガラガラ、どしーん!と定次郎に雷が落ちた。さて、それから……


■映画に出ている役者がみな、一癖もふた癖もある渋い役者さんばかり。おけつ丸出しで温泉にダイブする岸部一徳、その鹿塩館の主人に小野武彦(「踊る大捜査線」スリーアミーゴスの人ですね)。そして、リニア新幹線誘致で対立する土建屋社長役の石橋蓮司と、中国の勤労研修生にバカにされている白菜農家の小倉一郎。久しぶりだなぁ、小倉一郎。『俺たちの朝』以来か。


あと、貫禄の三国連太郎。あのお歳で大鹿村のロケに参加されたのだなぁ。晩秋の大鹿村と青い空をバックに、三国連太郎が遠くシベリアの地で死に果てた友の墓に木彫りの仏を供えるシーンが重く美しい。


それから、何と言っても大楠道代がいい。原田さんと共演した鈴木清順『ツィゴイネルワイゼン』の時とぜんぜん変わらない色っぽさじゃないか。イカの塩辛の瓶詰め。いいなぁ。


若いところでは、松たか子もよかったが、『ちりとてちん』で徒然亭四草を演じて、一躍注目を集めた加藤虎之助がちゃっかり出ている。みなが一丸となって、主役の原田芳雄さんを盛り立てている。その雰囲気がスクリーンに溢れているのだ。


とにかく、スクリーンの原田芳雄さんがカッコイイ。

テンガロンハットにサングラス。それに黄色いゴム長靴。似合っているのだ。これ以外ないって感じでね。

彼は『ディア・イーター』という名前の鹿肉食堂をやっている。あはは! ディア・ハンターじゃなくってね。あと、原田さんが松たか子に「木綿のハンカチーフ」を歌って聴かせるシーンがあるのだが、何故か下手。あんなに歌が上手い人なのにね。可笑しかったな。


映画では案外、原田芳雄さんのアップシーンが少ない。わりと離れて画面の片隅に原田さんを配置している。アップは一番重要なシーンで使われるからだ。

もう一回、見にいってもいいかな。この映画。


【追伸】映画『大鹿村騒動記』の監督と脚本家「阪本順治 × 荒井晴彦 対談(前編)」  「阪本順治 × 荒井晴彦 対談(後編)」が、たいへん興味深かったです。


2011年5月18日 (水)

絵本『アライバル』と、映画『ストーカー』のこと

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■先日の日曜の夜に、NHK教育テレビで放送された「ETV特集・ネットワークでつくる放射能汚染地図 ~福島原発事故から2か月~」は衝撃的だった。

「放射能」というものは、「目に見えない」ということが一番怖ろしい。しかも、今現在、大量の放射能を浴び続けていたとしても、痛くも痒くもないのだ。もちろん、10年もすれば寿命を全うして死んでゆく年寄りは関係ない。でも、これから人生が始まったばかりの子供たちはどうか? その危険性に正しく答える人は、文科省にも厚労省にも原子力安全保安院にも誰もいない。


福島第一原発の近隣住民として避難を余儀なくされた人たちの、避難先の浪江町赤宇木公民館の方が、避難してきた自宅よりも数十倍も放射能が高かったなんて、思わず笑っちゃう話じゃないですか。番組では、3万羽のニワトリを餓死させた養鶏場の経営主や、大正時代から続くサラブレッド産地の牧場主とかが、あまりに理不尽で不条理な仕打ちに文句も言えずにいる表情をカメラは捕らえていた。

いや、それは何も彼らだけではない。先祖代々生まれ育った土地を、ワケの分からない目に見えない放射能に汚染されたという政府発表だけで、集団移住を余儀なくされた人々。

もしかすると、20年経っても30年経っても、生まれ故郷はチェルノブイリと同様、人が住めない汚染地帯として閉鎖されたまま、帰ることができないのかしれないのだ。そう考えると、とんでもない事態が進行中なのだと気づき、怖ろしくなってしまった。


■この番組のラストシーンは、爆心地に近い自宅に残してきたペットの犬・猫に餌を与えに帰った老夫婦の車に同乗させてもらったNHKのカメラが、必死で飼い主の車をを追いかけ、とうとう諦めて立ち止まる愛犬(まるで、絵本『アンジュール』のようだった)を望遠でとらえたシーンで終わっていた。悲しかった。切なかった。日本という国は、いったい、どうなってしまったのだろうか。


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■写真は、アンドレイ・タルコフスキー監督作品の映画の中で、ぼくが一番好きな『ストーカー』LDの裏表紙から撮ったものだ。一番好きと言っても、見たことがあるのは『惑星ソラリス』『ノスタルジア』『サクリファイス』『僕の村は戦場だった』と、『ストーカー』だけなのだけれど。


■これはよく言われることだが、タルコフスキーは「水のイメージに異様に執着する作家」だ。


なかでも映画『ストーカー』は、ほとんど「みずびたし」の映画だった。


■ロシアの片田舎に巨大な隕石が落下したという政府発表があり、その周囲は危険な放射能が満ちているために周辺地域住民は強制退去させられ「ゾーン」と呼ばれる立ち入り禁止区域となった。

しかし、その「ゾーン」内には人間の一番切実な望みをかなえる「部屋」があるという噂があり、そこへ行きたいと願う作家と教授の2人を秘密裏に案内するのが、主人公の「ストーカー」の役目だった。

映画では「ゾーン」の外はモノクロ、ゾーン内に入るとカラーになるという仕掛けがあった。ゾーン内には「目に見えない」危険な区域がいっぱいあって、案内人のストーカーは「それ」を巧妙に回避しながらゴールの「部屋」へと向かう。


あの「部屋」へと至る彼らの行程は、福島第一原発の原子炉がメルトダウンし、放水を浴びながら、地下に汚染された水が何万トンと貯まった原子炉建屋の状況とまったく同じだ。ほんと怖ろしいほどに。どちらも徹底的に「みずびたし」じゃないか。


■もしかすると、タルコフスキーには「今回の事態が」目に見えていたのではないのか?

ほんと、そう思いたくなるほど「リアル」な映像が「この映画」には充ち満ちている。

2010年4月18日 (日)

映画『ホノカアボーイ』

■ジェイムス・テイラー&キャロル・キングの日本武道館でのコンサートの模様が、そこかしこにアップされてきた。

「rockin'on ライブレポート
「ぐうたらRYOSEIのチェロ修行日記」
「McGuffin.」
「自然と音楽を愛する者」


■いま『レコード・コレクターズ増刊/ シンガー・ソングライター』を読んでいるところなのだが、36ページからの「細野晴臣インタヴュー」がとっても面白い。


「たしか小倉エージに”こんなのはどう?”って紹介されたのがJTだったわけ。彼の歌は、僕にもぴったりとくる音域だったんだ。しかもノン・ヴィブラートのストレートな発声法っていうのは初めてだった。ロックにもフォークにもなかったのね、JTスタイルは」(中略)

「まず、ギブソンのJ50、あのギターにあこがれたんだよ。あの地味な音がね、なかなか出ないの。他の人はだいたいマーチン系の派手な音でやってたの。で、小坂忠がJ50を手にいれてね、それで『ありがとう』を作った」


そっかぁ、初期の小坂忠は「和製ジェイムス・テイラー」って言われてたっけ。だから僕は小坂忠が好きなんだ。でも、『ほうろう』の頃には細野さんも小坂忠も JTからずいぶんと離れていってしまったなぁ。


■ところで、「ほぼ日刊イトイ新聞」の黒柳徹子さんインタヴューがとっても面白い。
特に「森繁久弥さんのはなし」。すっごいなぁ、森繁さん。

ちなみに、森繁久弥さんの血液型はB型。渥美清さんもB型。柳家喬太郎さんもB型。じつは、芸能人には多いのだB型の人。血液型の話をすると、松尾貴史さんに怒鳴られそうだが、でもぼくは結構信じていたりする、血液型。特に、B型の人をリスペクトしているのだ。この人たちは、DNAからして「特別」で、ぼくがどんなに努力して背伸びしてみても、絶対に追いつけないものを既に手にしているのだよ。すごいジェラシーを感じているのだ。

そういう思いって、B型の人たちには、決して判ってもらえないのだろうなぁ。


■あ、映画『ホノカアボーイ』。じつはまだ見終わっていないのだ。
感想はまた後日。

2010年3月27日 (土)

『ゴールデンスランバー』伊坂幸太郎(新潮社)読了

■ 休診にしている今週の水曜日の午後、冷たい雨の中を車で松本まで行ってきた。
東宝映画『ゴールデンスランバー』を見るためだ。


原作を読んだ息子たちが春休み中に是非見たいと言っていた映画なのだ。
幸いなことに、その前日の深夜、ぼくも読み終わった。『ゴールデンスランバー』伊坂幸太郎(新潮社)


3月は何かと忙しく、ちょうど真ん中へんで中断してしばらく読まかったので、緊張の糸が切れてしまったのだが、それでも、展開が全く読めなくて、主人公の気分でハラハラドキドキしながら読了した。いや、面白かった。


読みながら思ったことは、この小説自体がビジュアルを意識して書かれているので、映画にしたらさぞやヒットするに違いないということだった。実際、映画になったものを見て、やっぱりなぁ、というシーンが幾つか。そうして、おっ! 映画ではそうきたのか! というシーンもいくつか。例えば、iPod の使い方とか、トドロッキーの台詞とか。驚いたのは、小鳩沢役で登場したあの「サード」の永島敏行が、常に無表情で無言のまま次々とショットガンをぶっ放すところだ。小説のイメージとは違ったが、ものすごく不気味だった。彼は映画の方がよかったかな。あと、キルオ役の濱田岳もよかった。


そして何よりも、本を読んでいる時には「音楽」は聞こえてこないワケで。
ビートルズがどうのこうのと本に書かれていても、手元に音源がなければ判らない。


でも、映画では堺雅人が、吉岡秀隆が、そして劇団ひとりも「ゴールデンスランバー」を口ずさむ。それがとってもいい。そして、ポールのオリジナルではなくカバーだけれども、バックで流される「ゴールデンスランバ〜〜」と歌うサビの部分は心に「ジン」ときたな。


主人公を囲む昔の友達。あわせて4人。
ビートルズといっしょ。

LP『レット・イット・ビー』が、彼らのラストアルバムではあるのだが、
最後にスタジオで録音されたのは『アビーロード』のほうなんだって。
4人の心はもうバラバラで、
それでも、みんなの心をつなぎ止めようとポール・マーッカトニーは奔走する。
そうして、誰もいなくなったスタジオで、彼は歌うのだ。


『ゴールデンスランバー』を。

原作を読んだ時には、ストーリーを追うのにやっとで、
作者の本当の意図を理解することができなかったのだが、
映画を見て初めてわかった。

あ、そうか。これは青春小説なのだと。
理不尽な苦難に陥った、かつての仲間を、
他の3人がタッグを組んで救う話だったのだ。


謀略小説でも、経済小説でも、スパイ小説でも推理小説でもない。
やっぱり、青春小説の王道なのだと。

■さて、この本の中でぼくが付箋を貼った場面をいくつか抜き書きしておきます。


「おまえは逃げるしかねえってことだ。いいか、青柳、逃げろよ。無様な姿を晒してもいいから、とにかく逃げて、生きろ。人間、生きててなんぼだ」


「結局、人っていうのは、身近にいる、年上の人間から影響を受けるんですよ。小学校だと、六年生が一番年長ですよね。だから、六年生は、自分たちの感覚がそのままなんです。ただ、中学校に入れば、中学三年生が最年長です。そうなると、中三の感覚が、自分を刺激してくるんですよ。良くも、悪くも。思春期真っ最中の中学三年生が自分の見本なわけです。」

「花火大会ってのはよ、規模じゃないんだよな」
「その町とか村とかによって、予算は違うけどな、でも、夏休みに、嫁いでいった娘が子供を連れて、実家に戻ってきて、でもって、みんなで観に行ったり、そういうのは同じなんだよな。いろんな仕事やいろんな生活をしている人間がな、花火を観るために集まって、どーんっ打ち上がるのを眺めてよ、ああ、でけえな、綺麗だな、明日もまた頑張るかな、って思って、来年もまた観に来ようって言い合えるのがな、花火大会のいいところなんだよ」


「イメージというのはそういうものだろ。大した根拠もないのに、人はイメージを持つ。イメージで世の中は動く。味の変わらないレストランが急に繁盛するのは、イメージが良くなったからだ。もてはやされた俳優に仕事がなくなるのは、イメージが悪くなったからだ。」


「分からない」青柳雅春は返事をする。「ただ、俺にとって残されている武器は、人を信頼することくらいなんだ」
 そいつはいいや、と三浦は噴き出した。「そんだけ騙されて、まだ信じるんですか? 物好きだなあ。」

「びっくりするくらい空が青いと、この地続きのどこかで、戦争が起きているとか、人が死んでいるとか、いじめられている人がいるとか、そういうことが信じられないですね。」

「前に小野君が言ってたんです。天気がいいとそれだけで嬉しくなるけど、どこかで大変な目に遭っている人のことも想像してしまうって」

「偉い奴らの作った、大きな理不尽なものに襲われたら、まあ、唯一俺たちにできるのは、逃げることぐらいだな」

「俺ね、頭は良くないけれど、それでも知ってるんだよね。政治家とか偉い人を動かすのは、利権なんだよ。偉い人は、個人の性格とか志とかは無関係にさ、そうなっちゃうんだ」

「なんか、そんな気がするんですよね。今はもうあの頃には戻れないし。昔は、帰る道があったのに。いつの間にかみんな、年取って」
 その通りだなあ、と樋口晴子は思った。学生時代ののんびりとした、無為で無益な生活からあっという間に社会人となり、背広を着たり、制服を着たりし、お互いに連絡も取らなくなったが、それでもそれぞれが自分の生活をし、生きている。成長したわけでもないが、少しずつ何かが変化している。

「みんな勝手だ」と青柳雅春は言った。「児島さん、今は信じられないかもしれないけどさ」と続ける。「マスコミって意外に、嘘を平気で流すんだ」とテレビを指さす。


「ビートルズは最後の最後まで、傑作を作って、解散したんですよ」学生時代のファーストフード店で、カズが熱弁をふるっていた。 
「仲が悪かったくせにな」と森田森吾が言った。
「曲を必死に繋いで、メドレーに仕上げたポールは何を考えていたんだろ」こう言ったのは誰だったか、思い出せない。「きっと、ばらばらだったみんなを、もう一度繋ぎ合わせたかったんだ」
 青柳雅春は背を壁につけ、膝を折ったまま、目を閉じた。聴きたかったのではなく、身体に吸収しているという気分だった。

「分かるのか?」
「信じたい気持ちは分かる? おまえに分かるのか? いいか、俺は信じたんじゃない。知ってんだよ。俺は知ってんだ。あいつは犯人じゃねえよ」

「結局、最後の最後まで味方でいるのは、親なんだろうなあ。俺もよっぽどのことがない限り、息子のことは信じてやろうと思ってんだよ」児島安雄は目を閉じたままだった。


「気にはしてるけど、あれだよ、児島さん、人間の最大の武器は、信頼なんだ」



■なんでここに付箋貼ったんだ? ってところもあったけれど、
次に読む妻のために付箋をはがさなきゃならないので、自分の覚え書きとしてここに残しておこう。

確かに荒唐無稽な話ではあるのだが、案外現実的だったりするところがかえって怖い。
市橋容疑者とか、中国の「毒入り餃子」犯人とか。


■原作者の伊坂幸太郎さんが映画の感想を述べているサイトを発見した。<ここ>です。
そうか、伊坂さんはいま、子育て真っ最中のパパなんだ。
ぜひ、子供関連の新作が読んでみたいものだぞ。

2010年2月 4日 (木)

『アバター』(つづき)

■3Dに関しての感想の追加。

3D映像というと、ディズニーランドやユニバーサル・スタジオで
アトラクションとして上映されているものしか見たことなかったので、
所詮「こども騙し」に過ぎないのではないかと思っていた。


実際、『アバター』が始まって、無重力の宇宙船の中で、主人公が長い
人工冬眠から目覚めるシーンで、観客は「おっ、飛び出て見えるじゃん」と
うれしくなるのだけれど、すぐに慣れちゃって「実写場面」の3Dは
どうでもよくなってしまうのだ。


ところが、CGで描かれる「惑星パンドラ」の世界は、3Dが目に馴染むに従って、
逆にどんどんリアリティが増してくるのだ。CGの変な人工的立体感じゃなくなる
とでも言うか。観客はいつしか映画を見ているのではなくて、惑星パンドラを
体験している気分になる。この映画のすごいところは、まずその点にあると思う。

■惑星「パンドラ」と先住民「ナヴィ族」の設定は、
いろいろなところで言われているように既視感が付きまとう。
ナヴィ族はネイティブ・アメリカンそのものだし、その中へ
入っていって通過儀礼をパスし受け入れられる主人公は
『ダンス・ウイズ・ウルブス』のケビン・コスナーだ。


ヒロインが翼竜に乗って自由に空を飛ぶシーンや、巨大な飛行船艦が登場する空中戦、
それに、牛のしっぽのような触手同士をつなげる場面など、『風の谷のナウシカ』を
直ちに想起させた。さらに『天空の城ラピュタ』や『もののけ姫』的な設定も出てきて
宮崎駿の世界をリスペクトしながら上手く取り入れているのだ。


この既視感を、監督は意識的に狙っていたのではないか? そのほうが、こどもから
年寄りまで、世界中のいろんな民族の人々が安心して納得して映画の世界に没入できるから。

■昔から、人類が好む物語構造には「定型」があると言われている。


幼い子供が好む絵本のストーリーにも「定型」があって、児童文学研究者の
瀬田貞二氏は、それを「行きて帰りし物語」であると看破した。


さらに、世界各地に伝わる伝説や神話を長年調査してきたジョーゼフ・キャンベルは
それらに「共通して」みられる特徴(物語構造)をもっているということを発見した。
それがまさに「行きて帰りし物語」なのだった。

1)出立
2)イニシエーション(通過儀礼)
3)帰還

当時 UCLA の学生だったジョージ・ルーカスが、
ジョーゼフ・キャンベル先生の授業を受けていて、この神話構造を学び、
この物語構造をそのまま使って『スターウォーズ』を作ったのは有名な話。


詳しくは、以下の本を参照下さい


『17歳のための世界と日本の見方』 松岡正剛(春秋社)p61~78
『物語論で読む村上春樹と宮崎駿』 大塚英志(角川oneテーマ21)p50~
『幼い子の文学』 瀬田貞二 (中公新書 563)
『神話の力』  ジョーゼフ・キャンベル+ビル・モイヤーズ(早川書房)

■いくつか読んだ映画の感想の中で、これは、と思ったのは以下のブログ。

「キノシタ雑記帳」

「巧言令色 吉野仁」


いかん、『ブラッド・メリディアン』126ページで止まったままだった。


2010年2月 1日 (月)

3D(XpanD)『アバター』見てきた

■なんやかや言って、あちこちで評判がいいので、
昨日の日曜日、岡谷まで『アバター』を見に行ってきた。


本当は松本へ見に行こうと思ったのだが、調べてみたら
長野県下で「3D上映」しているのは、唯一「岡谷スカラ座」のみとのこと。
長野の映画館も、松本の映画館も、佐久でも、2D上映なんだって。

ビックリだね。普通の映写機1台と普通のスクリーンでは3Dは無理なんだ。


だから、すごい人気で映画館は大混雑。
朝いちの回は無理だったので、昼の12時過ぎに家を出て、13:05 の回
に間に合うように映画館へ。開演10分前に着くと、なんとその回は
既に満席。しかたなく、16:20 からの上映(吹き替え版)まで待つことに。

モスバーガーで昼飯を食べて、まだ1時間半あったから、
諏訪インター先のアルペンとモンベルで買い物。

「さとなお」さんに教えてもらった「こちらのサイト」を見ると、
3Dには4つの方式があるのだそうだ。岡谷スカラ座で採用しているのは
「XpanD」方式。


ぼくらの席は、劇場中央左端の席(Gの1,2と、Fの1,2)で、
スクリーンを斜めから見る位置ではあったが、確かに立体感はバッチシだった。

それから、メガネをかけると画面がすごく暗くなる。
メガネを外してもちゃんと違和感なく見れるのだが、逆に明るすぎて疲れる。


ぼくは自分のメガネの上に「3Dメガネ」を重ねてかけたのだが、
重いから、鼻と耳にずっと違和感がつきまとった。レンズも指紋で
汚れていたしね。うちの次男なんて、メガネを頭に固定するヒモが
外れてしまって、結局ほとんどメガネなしの2Dで見ていたらしい。

言えばいいのに。可哀想なことをした。


岡谷スカラ座の3D上映館は、道路をはさんで右側に新たに増設された建物で、
観客席も最新鋭のヤツだったが、それでもさすがに 170分間じっと座っていると
おしりと肩と頭が痛くなった。目も疲れたね。でも、上映中は夢中で見ていた
から、あんまり苦にはならなかったけれど。


■ところで映画の感想だが、これは見に行ってホントよかった。
3Dの吹き替え版で正解だった。

映画を見終わって、「いやぁ凄かった。満足満足。なんとも圧倒的な映像体験だったなぁ」と
何度もため息つきながら、心地よい疲労感をしみじみ味わったのは、
20数年前に長野千石劇場でオリジナル・ノーカット版『七人の侍』を
見終わったとき以来のことだと思う。


映画ってやっぱ凄いなぁって、水野晴郎みたいな感想しか
出てこなかったな、正直。


さとなおさんが言うように、『アバター』以前、『アバター』以後で映画の歴史
が変わったんだろうな。
観客は、この圧倒的な映像にただただ身をゆだねていればよいのだ。

ストーリーと内容に関しては、また次回。

2010年1月13日 (水)

映画『グラン・トリノ』

「キネ旬」ベストテンが発表になった。日本映画では西川美和監督作品『ディア・ドクター』(映画館で見たかったが未見)が、外国映画では、クリント・イーストウッド監督作品『グラン・トリノ』がベストワンになった。


何よりも残念だったことは、『グラン・トリノ』を映画館でちゃんと見れなかったことだ。松本まで見に行くつもりだったのだけれど、気が付いたら上映終了になっていた。『チェンジリング』は山形村アイシティ・シネマで見たのに。小林信彦氏も「週刊文春」のコラムで書いていたが、『グラン・トリノ』は映画館で見ないとダメだ。スクリーンと対峙して、緊張感を維持し一気に集中して鑑賞しないとダメなんだ。


ぼくは、元旦の夜にレンタルDVDで見た。その日が返却日だったからね。でも、泡盛「久米仙」のソーダ割りを飲みながら、家族が寝静まった深夜に見始めたので、途中でテレビも照明も付けっぱなしで眠ってしまった。前日から寝不足だったんだ。記憶に残っているシーンは、イーストウッドがモン族の不良グループの一人に、問答無用の圧倒的な暴力で報復した場面までだった。

気が付いたら、夜が明けていた。どうにも眠たいのでそのまま2階に上がって二度寝。再び起きたら午前9時過ぎ。しまった! TSUTAYA伊那店が開店する午前10時までに返却ポストに返さないと延滞金が発生する。慌てて映画の後半を見る。子供らは「New Super Mario Bros.Wii」を早いとこやろうとコントローラー片手にテレビの前で待ち構えている。そんな状態だったから、画面にぜんぜん集中できなかったし、ラストシーンは早送りで見てお終い。これじゃぁダメだな。


■菊地成孔氏の新しい本が出た。初めての「映画本」だ。「ユングのサウンドトラック~菊地成孔の、映画と映画音楽の本~」イースト・プレス)これは買うつもりでいた。今日の夕方、「いなっせ」1階の西澤書店新刊コーナーで「この本」を発見。中身も確認せずに、そのままレジへ直行する予定だったのだが、どうにも我慢できなくて、この本に収録されている菊池氏の『グラン・トリノ』映画評を立ち読みする。そっかぁ、やっぱりなぁ。イーストウッド自身が歌った主題歌をちゃんと聴かないと、この映画のことを語ってはいけないんだ。


そのことが確認できたので、結局「この本」は買わずに帰る。ごめんなさい。もう一度ちゃんと見よう。

■さて、最後にこの映画の「ネタバレ」をするので、未見の方は読まないように。


ぼくは映画を見ながら「まるで、小津安二郎の映画じゃん!」そう思った。だって、葬式のシーンに始まって、再び葬式のシーンで終わっているからだ。小津の映画でいうと、『秋日和』が葬式のシーンで始まる。原節子と司葉子が艶めかしい?喪服姿で登場するのだ。(いま調べたら、葬式ではなくて、七回忌の法事だったようだ。すみません)。葬式のシーンで終わるのは、言わずと知れた『東京物語』だ。正確には、葬式のあとの精進落としと、実の息子(山村聡)と実の娘(杉村春子)が東京へ帰ったあとも、戦死した次男の嫁である原節子が尾道に残って、義父の笠智衆を気遣うシーンが続くワケだが。


『グラン・トリノ』では、イーストウッドの妻の葬式の場面から始まる。葬式の特徴は、その日に家族・知人が必ず集結することにある。普段疎遠の親戚も来る。この映画では、実の息子たちとその孫娘(グラン・トリノを形見受けしようと狙っている)が、イーストウッドと仲が悪いことが直ちに観客に理解できるようにできていた。


『東京物語』でいえば、原節子の役回りが、モン族の心優しい青年タオ(北島康介にそっくり!)ということになる。彼とその姉、母親、祖母の演技が良かった。すっごく自然で。それから、とっつぁん坊やの神父さんもよかったな。イーストウッドの映画は、どれもキャスティングが絶妙だ。『チェンジリング』で言えば、殺人犯とその従兄弟。『硫黄島からの手紙』で言えば、二宮クンの友人兵士役の野崎一等兵(松崎ユウキ)かな。


好きなシーンは「床屋」の場面だ。あれはいいな。笑っちゃったよ。メチャクチャ毒舌なんだけど、信頼関係があるんだね。


それにしても、あのラストは……


そういう落とし前しかないのか? それで、アメリカ人は納得するのか? この映画は、イーストウッドの映画の中ではアメリカで一番ヒットしたという。だとすれば、アメリカは再生できるのかも。イーストウッドって、熱心な共和党支持者だよね。その彼が最後に主演する映画を『グラン・トリノ』に選んだってことが、もの凄いことだと思った。


2010年1月10日 (日)

『黄色い涙』永島慎二

昨日の夜、「嵐」の5人がそろって出演したドラマを家族全員で見た。
我が家の次男が、熱烈な「嵐」ファンで、いつしか家族全員が嵐ファンになってしまったからだ。それは、3年前から家族全員で中日ドラゴンズ・ファンになってしまった経緯とまったく同じ。彼の影響力は絶大なのだ。

昨年末、「おとうさんだけ忘年会がいっぱいあっていいな」って言うから、家族忘年会をしようということになり、初めて家族で近くのカラオケ・ボックスへ行った。寒い夜道を歩いてね。夕食後の寝る前の1時間(よる9時まで)がリミットと決めてあったから、彼は最初からエンジン全開で「嵐メドレー」を熱唱した。もうマイクをぜんぜん離さない。最初は遠慮していた長男も、後半は遅れまいと一緒になって盛り上がって歌った。おとうさんがマイクを握ったのは結局30秒くらいしかなかったな。瞬く間に過ぎ去った1時間、彼はぜんぜん歌い足りなくてこう言った。「おとうさん、楽しかったね。これから毎週来ようよ」


■昨年末のNHK紅白歌合戦はすごく面白かったな。それまで、大晦日は除夜の鐘が鳴り出すまで起きていることが出来なかった子供たちも、この日は珍しく眠くならずに最後まで画面を見入っていた。確かに、時代は「嵐」だった。「週刊文春」にも書いてあったが、ジャニーズ・トップの座が、SMAP から嵐へと移行した瞬間を目撃した、時代の証言者にでもなったような気分だった。そして、浜崎あゆみのバックバンドで何気によっちゃん(野村義男)がギターを弾いていたのも凄かった。ジャニーズ恐るべし!

で、昨日のドラマだが、正直たいしたことはなかった。メンバー5人の個性を生かせつつ、サスペンスとサプライズが用意してあり、脚本はなかなかによく考えられていたワケだが、それじゃぁドラマは面白くならないのだよ。はじめにキャストありきだからね。よくある「アイドル映画」といっしょ。


■そこで、映画『黄色い涙』なのだった。1週間前に TSUTAYA から借りてきたこのDVD。今日が返却日だったのだ。

伊那市の新型インフルエンザ集団予防接種から帰って、あわてて午後4時からこの映画を見た。本当は、原作の漫画が大好きだったから、おとうさんも嵐ファンになったついでに借りてきたのだが、そういう感覚で映画を見ると、やっぱり「嵐ファン」の目で映画を見ていて、映画の原作は向こうに押しやられてしまう。そのことが、この映画の悲劇だ。

映画としては、時代考証とかも凝っていてすっごく真面目に原作をリスペクトして作られているのに、観客は皆「嵐」のファンなのだよね。しかも、原作のマンガを知らない。そうして僕はというと、嵐のファンではあるのだが、やっぱり原作と、森本レオ主演のNHKドラマのイメージが強烈だったがために、この映画は最後までしっくりこなかった。嵐の5人に、森本レオや、下条アトム、岸辺シローを演じさせるのは無理だ。大野くんはまぁよかったが、岸辺シロー役の櫻井君は苦しかったな。「ハチクロ」はよかったのに。

ぼくは昔、永島慎二のマンガが大好きだった。特に『フーテン』。それから『若者たち』。映画の中で二宮くんが描いていた『かかしがきいたかえるのはなし』は、兄貴が買ってきた月刊誌「ガロ」のオリジナル掲載誌で読んでいる。今でも忘れられない漫画だ。

この『若者たち』が、NHK銀河小説で『黄色い涙』とタイトルも変わってドラマになった。脚本は、当時新進気鋭の脚本家だった市川森一。当時の画像は残っていないが、ドラマのオープニングを再現した画像が、YouTube にあった。これだ。


そうそう、小椋桂の主題歌だったっけ。当時、あれだけ大切にしていたはずの漫画本だったのに、いまは手元にない。何故だろう? そんなかんなを思い出しながらDVDを見たのだが、見ている間は「単なる嵐ファン」だった。アイドル映画としては失敗かな、そう思った。だって、松潤がほとんど出てこないんだもの。まぁ、原作は4人組で、嵐は5人だから仕方ないか。そして、原作大好き人間としては、漫画の内容を、ほとんど忘れてしまっていたことが一番ショックだったりする。


■「ぼのぼの」で有名な漫画家、いがらしみきお氏が熱烈な永島慎二ファンであることは、一部には有名な話だ。彼の自伝を連載しているブログには、何カ所かで永島慎二に言及している。例えば<ここ>とか、<ここ>とか。それから、嵐の映画『黄色い涙』を見た感想もあったぞ。<ここ>だ。


この漫画は特別なのだ。あと、例えば<こういう人>の発言もある。やまだ紫さん、亡くなっちゃったんだね。心して読んだ。

2010年1月 9日 (土)

『もののけ姫』と『神無き月十番目の夜』

■いま、テレビで宮崎駿監督作品『もののけ姫』をやっている。この映画を見るのは、「おっこと(乙事)」や「えぼし(烏帽子)」という名の地区がある、諏訪郡富士見町に住んでいた頃に、松本の映画館で観て以来のことだ。いま調べたら、1997年7月12日公開とあった。すごく面白かったのだが、ラストが不満だった。なんか中途半端で投げやりで、大風呂敷を広げるだけ広げといて、きちんと落とし前をつけなかったから。

何故そう思ったのかというと、この映画を観る前に、ほぼ同じ主題の小説『神無き月十番目の夜』飯嶋和一(河出書房新社)を読んでいたからだ。いま調べたら、この小説が発刊されたのが 1997年6月25日で、奇遇にも『もののけ姫』とほとんど同時期だった。当時、この小説と『もののけ姫』との類似性に触れた映画評はなかったと思う。

時代設定は微妙に違う。『もののけ姫』が室町時代末期、『神無き月十番目の夜』は徳川家康が江戸幕府を開く前年、慶長七年十月の出来事。舞台も、山陰地方と関東常陸と違うが、網野善彦の歴史観に大きく影響されているところが共通している。それから、アジールとしての「里山」と、そこに縄文の大昔から中世まで、人々から奉られてきた「土着の神」の存在。ここも同じ。

そこへ「近代」を象徴する専業武士(職業軍人)の軍隊が攻め入り、土着の神と民との共同体を殲滅する話。つまりは、時代の転換点を活写していることでは共通しているのだ。それなのに、小説『神無き月十番目の夜』には読後の圧倒的なカタルシス(かつ、圧倒的な虚無感)があったのに対して、映画『もののけ姫』には残念ながら「それ」はなかった。たぶんそれが不満だったのだ。


■ぼくは、とことん暗い「これでもか!」っていう話が好きなのだ。コーマック・マッカーシー『ブラッド・メリディアン』は、ようやく「第6章」まで読み終わった。まだ全体の 1/4。主人公の少年が、メキシコ・チワワ市の刑務所で、あのトードヴァィンやホールデン 判事と再会し、釈放されたところだ。これからいよいよインディアンの頭皮狩りが始まる。こういう(『神無き月十番目の夜』と同じく、読者に有無も言わせぬ)小説がぼくは好きなのだ。


■閑話休題。今日(昨日)は、今年初めての伊那中央病院救急部の当番日。前回と違って、救急車が1台も入らず、全体に閑な夜だったのだが、夜の8時半を過ぎてから子供が受診しだした。来るならもっと早く受診してよね。だって、聞けば「子供の熱」は今日の午前中からだったり、午後2時からだったりしてるのだ。だったら、日中に開業医を受診できたでしょうに。そう思っても、決して親御さんには直接は言わない。

午後9時までに2人診て、さて帰ろうかと救急部の廊下へ出たら、発熱の子供が受付していた。見て見ぬふりして帰る訳にもいかない。しかたなく第2診察室に戻って、看護師さんの問診が済むのを待つ。夜の9時20分を回っていた。診察が終わって、インフルエンザの迅速診断の結果を待ち、陰性を確認してから処方を打ち込み、親御さんに説明し終わって、さて、今度こそ帰ろうかと思って救急部の廊下へ出たら、デジャブーのように、新たな発熱の子供が受付していた。

でも、ここは心を鬼にして「その子」を無視し、救急口玄関を後にした。だっておいら、明日も午後2時まで診療があるのだよ。しかも、明後日の日曜日は、午前と午後の「まる一日」、伊那市保健センターで小学生に新型インフルエンザの集団予防接種に従事することになっているのだよ。ごめんね。

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