「小津の水平線」(『家郷のガラス絵』長谷川摂子)より
■先だって亡くなった長谷川摂子さんの大ファンだ。
『おっきょちゃんとかっぱ』『ぐやんよやん』『めっきらもっきらどおんどん』『きょだいなきょだいな』『うみやまがっせん』などなど、彼女が福音館で作った絵本はみんな好きだ。
それから、彼女の講演が好きだ。下伊那郡喬木村と、上伊那郡飯島町との2回、ぼくは講演を聴くことが出来た。ラッキーだった。彼女の「絵本読み聞かせ」が素晴らしいのだ。その実演を2回も聴けた。あの、ゆったりとした穏やかな声。こどもたちに寄り添った目線。あくまでも主役はこどもたちであることが判っている「大人」としての謙虚な態度。彼女から自然と滲み出でるそれらすべてが素晴らしかった。
あと、彼女の書いた本が素晴らしい。
『とんぼの目玉』の感想は、ここいらへんに書いたし、彼女が少女時代を過ごした、島根県平田市での日々を綴った『人形の旅立ち』は名作だ。
■そんな彼女の遺作が『家郷のガラス絵』長谷川摂子(未来社)なのだが、もったいないので、最初から一気に読むことはせず、後ろの方から少しずつ少しずつ読んでいる。
で、すごく面白かったのが4篇収録された「小津安二郎論」だ。まさか長谷川摂子さんから小津映画の魅力を聞かされるとは思わなかったな。最近読んで意外だった「小津論」に『うほほいシネクラブ・街場の映画論』内田樹(文春新書)があったが、内田先生よりも長谷川摂子さんのほうがずっとずっと深いぞ。
まず、「小津映画とフェルメール」が凄い。何カ所か引用してみる。
小津映画を十年近くくり返し見てきて、毎回、胸のときめく場面があるのだが、それは部分的なシーンで、映画が始まったとたん、私を包むあの透明な空気、全体を流れている、五臓六腑がしーんとなっていくあの直接的な鎮静作用をどう表現したらいいのだろうか……。ここで、仮説としてずいぶん前から感じていることを、思い切って打ち出してもよいではないか、という気持ちが、私の中でだんだん昂じてくる。私は学者でも研究者でもない。ただどうしようもなく小津映画が好きなだけである。ここで言おうとしていることは私自身の仮説であり、比喩でもあることを前提にちょっと気息を整えて始めることにする。(中略)
私はフェルメールの絵を見ていると小津映画を、小津映画を見ているとフェルメールを感じてしまう。この不思議な交互作用の体験の根拠はどこにあるのか、今回はそこを考えてみたい。(中略)
大きく言えば、フェルメールの絵が伝統的な宗教画ではなく、普通の市民の暮らしの一瞬が室内で捉えられていることだと思う。小津の映画も圧倒的に室内の撮影が多い。
室内 ---- これは大空や海や大地の広がりと違って、人間の身体を包囲する立体的な額縁がある、ということ。その額縁は部屋という立体空間の内側である。フェルメールの絵のほとんでは壁と壁が九十度に交わる部屋の隅が構図の中におさめられていて、それがあまり大きくない部屋の中であることが私たちに伝わる。
たいてい左手に窓があって、そこから光が差し込んでいる。図版で示せないのが残念だが、この構図は、「ワイングラスを持つ娘」「中断されたレッスン」「ぶどう酒のグラス」「兵士と笑う娘」など、枚挙にいとまないほどだ。有名な「牛乳を注ぐ女」の部屋の窓などもそうで、窓には日本の障子のサンそっくりの縦横の格子が走っている。(中略)
正面の壁には絵が一枚、あるいは数枚、あるいは大きな地図が置かれていることが多く、これが遠近法で先細りになっている窓とは対照的にばっちりと正面からの長方形で陣取っている。それ以外にも、楽器やいすの背や机など、ニュアンスの違う四角形がさりげなく、しかし、絶妙のバランスで置かれている。壁に囲まれた部屋の中の四角は大小さまざま、これまた幾何学的な音楽を奏でているように思える。(中略)
この正面性のことを考えていたら、私は絵本作家ディック。ブルーナのことに思い至った。まっすぐことらを見ている「うさこちゃん」。ブルーナの絵本はまぎれもなく正面性がつらぬかれている。彼もオランダ人だ。(中略)
小津映画の室内。あらためて『麦秋』を見て、いろいろ確かめた。廊下にしろ、部屋にしろ、人物は基本的に縦長の奥行きのある部屋の中に置かれている。その奥行きの遠近法に正面性が働いている。画面を正面から見つめる観客の目はそれにしたがってずれることがないのだ。二間続きの和室はあいだのふすまが、そして廊下と座敷の境の障子が、つねに開け放たれている。手前のふすまと次の間のふすまは短い距離を置いて大小の長方形の二重奏を奏で、まっすぐ遠近法を際立たせている。それに障子が重なれば、縦横のサンの美しい文様をもつ長方形がいちばん奥の左右にくる。
今回『麦秋』を見ていて初めて気づいたのだが、このふすまの下の角と接しながら、いくつかのたたみのヘリの線がつながって、遠近法そのままにまっすぐ中央への奥行きを示している。小津は座布団の柄の走りにも注意して、その置き方に神経を配った、といわれているが、それはこの部屋の中の正面性の秩序を乱すことがないように、という配慮だったのだと思う。そのほか日本家屋の欄間、箪笥などの家具、みんあフェルメールと同様、幾何学的な音楽の材料になっている。(『家郷のガラス絵』長谷川摂子より「小津映画とフェルメール」p157〜p160 より抜粋)
ぼくは「この文章」を読んで、どうしても「フェルメールの絵」が見たくなり、3月下旬『フェルメール光の王国』の著者、福岡伸一先生が監修した「フェルメール・センター銀座」へ行って実際に見てきたのだった。
福岡先生の著書に出てくる、フェルメールの親友レーウェンフックが発明した「シングルレンズの顕微鏡」とかもちゃんと展示してあって、なかなかに興味深かったのだが、如何せん「レプリカは贋物」なんだな。あぁ、ホンモノのフェルメールの絵、特に『真珠の首飾りの少女』が見たい! 行くぞ、国立西洋美術館。
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