映画『パシフィック・リム』には、ほんと興奮したぜ! 傑作だ
■8月16日のツイートから。
岡谷スカラ座で、話題の『パシフィック・リム』を観てきた。2D字幕版。夫婦割引で、1000円。でも妻は、次男といっしょに『モンスターズ・ユニバーシティ』の方を見た。それでもOKなんだって。いやぁ、往年の東宝怪獣映画好きには堪らない映画だ。とにかくデカい。無駄にでかい。怪獣も人型ロボットもね。
■8月16日のツイートから。
岡谷スカラ座で、話題の『パシフィック・リム』を観てきた。2D字幕版。夫婦割引で、1000円。でも妻は、次男といっしょに『モンスターズ・ユニバーシティ』の方を見た。それでもOKなんだって。いやぁ、往年の東宝怪獣映画好きには堪らない映画だ。とにかくデカい。無駄にでかい。怪獣も人型ロボットもね。
■『演劇1』のファーストシーン、アゴラ劇場の稽古場で3人の役者が『ヤルタ会談』の稽古をしている。役者の実に些細なセリフの言い回しや間合いに何度も「ダメだし」する平田オリザ。その度に、役者たちは同じシーンをはじめから何度でも繰り返す。しごく当たり前のように。観客はまずここでビックリする。
次のシーン。どこか地方の体育館。平田氏が「演劇ワークショップ」を行っている。”エアー長縄跳び”の実演だ。平田オリザは言う。
「演劇ってのは基本的にこのイメージを共有するゲームなわけです。舞台上でなんかやってて観客が観てるわけですけど、これしょせん嘘ですから。裸の大様みたいなもので、子供がとことこ入ってきて『なんか一生懸命やってるけど、ここ劇場じゃないか』って言ったらシラケちゃうような、架空のイメージを作る仕事ですね。ただ、このイメージが上手く作れると、それが伝わって観客もあたかもそういう世界で生きているような気分になる。」
この説明を聞いていて、あぁ、落語と同じじゃん。そう思った。もしかして平田オリザは、先代の「桂文楽」を目指していたんじゃないかな。何度でも、同じ演目を数秒違わず再現して見せた桂文楽をね。
実際、ぼくは映画を観ながら、ドキュメンタリー映画『小三治』のことを思い出していた。あの映画も、3年半にわたって被写体に密着し撮影を続けたドキュメンタリーだ。こういう映画って、監督の直向きな「被写体への愛」がなければ絶対に完成しないんじゃないか。
■平田オリザ氏は「まさか自分が生きているうちに、自分のドキュメンタリー映画ができるとは思ってもいなかった。」と書いているが、じつは「似たような番組」をテレビでは毎週日曜日の夜にやっている。TBSの『情熱大陸』だ。
最近『笑っていいとも』のテレフォン・ショッキングに登場した「ノマドワーカー」の姉ちゃんも、確か「あの番組」を足掛かりに名前を売った。有名になった。かっこいいナレーションに、葉加瀬太郎のテーマ曲が被さって、彼女が颯爽と街をかっ歩している映像がテレビで流れた。
『情熱大陸』の毎日放送スタッフは、相当しつこく時間をかけて取材を続けるのだそうだ。たしか、中川ひろたか氏がそう言ってた。でも、たかだか30分番組で、CMタイムを差し引くと正味何分だ? で、あのナレーションとBGMだろ。だから、なんか毎回みんな「おんなじ雰囲気」になっちゃうんだよ。
そうじゃないんだ。
本来のドキュメンタリー映画ってぇのはね。
想田和弘監督は、きっとそう思っているに違いない。
だから彼は、ナレーションも、テロップも、BGMも使わない、こだわって作った「観察映画」と言うのだろう。
■ただ、テレビの『情熱大陸』では、必ず被写体の「私生活」にTVカメラが潜入する。オンとオフ、その両方をカメラに収めるためにね。
そういうふうに見てみると、映画『演劇1』『演劇2』に、平田オリザの「オフシーン」は、ほとんど撮影されていないことに気がづく。電車のシーンだって、ましてや寝ているシーンだって、平田オリザにとっては「オン・タイム」なのだ。そこが、この映画のものすごいところなのかもしれない。
平田オリザの私生活が唯一垣間見えるのが、大阪大学でのロボット演劇の場面で初めて登場する平田オリザ氏の妻が語るシーン。この場面が撮影させた2年後、平田氏は彼女と離婚している。
そういう「大切なこと」は、この映画では一切説明されない。平田オリザは、「平田オリザ」という公的な役柄を「この映画」の中で、ただひたすら演じ続けているのだな。
いや、たぶん平田オリザ氏は「オフタイム」だって全く変わらぬあの笑顔のままで、何にも変化ないんじゃないか? その直向きさ、一生懸命さに、観客である僕らは感動するんじゃないか。
■あと、この映画で隠されている「トリック」がもう一つあって、まだ民主党政権が誕生する前に撮影されている「この映画」の中で、当時の民主党参議院議員、松井孝治氏が暗躍しているのが、確かな証拠として映っているのだが、
このあと、民主党は選挙で大勝し鳩山政権が誕生するワケだ。鳩山さんの元で内閣官房副長官となった松井孝治氏は、民間から人脈をいろいろと参入させた。平田オリザ氏がその筆頭だ。あと、湯浅誠氏やさとなお氏にも声がかかった。
フランス政府のように、文化資源に関して最大限の予算を配布するのと、真逆な政策(事業仕分けとして)を打ち出す民主党政権の中にあって、いったい平田オリザ氏はどのように行動してきたのか?
ぼくは「この点」を最も知りたかったのだけれど、この映画では語られることはなかった。アゴラ劇場は、はたして文化庁から、東京都から「拠点施設」としての特別支援事業として、予算が認められたんだろうか?
いずれにしても、これらのことはみな、取材撮影が終了した後の出来事のワケで、文句を言っても仕方ないことなんだけれど、ぼくのこうした疑問に、観察映画『演劇3』として、想田監督がはたして答えてくれるのかどうかは定かではない。
そのあたりのことは、『演劇 vs 映画 --- ドキュメンタリーは「虚構」を映せるか 』想田和弘(岩波書店)に書かれているんだろうか?
とにかく、読んでみなくちゃね。
それから、『演劇2』のラストシーンで平田オリザ氏が着ている黒いTシャツ。「ツール・ド・フランス」の公式ロゴが入っているな。めずらしくオシャレ。フランスみやげかな。
■劇団青年団の芝居は一度も観たことがないのだ。
■3月17日(日)電車に乗って松本まで行き、まつもと市民芸術館「小ホール」で、ドキュメンタリー映画『演劇1』『演劇2』を観てきた。
午前10時前に家を出て、映画の上映開始が午後2時。1と2の間に10分間の休憩を挟んで、映画が終了したのは午後7時55分だった。上映時間5時間42分という、想像を絶する体力勝負の大長編を覚悟して見に来た観客はさすがに少なく、30人にも満たなかった。
でも、ぼくを含めたぶん全員が予想外に笑い、驚き、思わぬ発見をし、感心して、心底面白がり、共感したんじゃないか? この長時間、全く退屈することなく、まんじりともせずにね。いいものを見させてもらったなぁ。ぼくは大満足で劇場を後にした。駅前でラーメンと餃子を食って、夜9時過ぎの電車に乗って岡谷で乗り換え、家に帰り着いたら午後10時半をまわっていた。
■この映画を見てみようと思ったのは、いくつかの偶然が重なったからだ。自分にとっての大切なものとの出会いは、たいていは同じような偶然を装った「必然」がお膳立てしてきたように思う。いつだってそうだったからね。
最初に読んだのは「さとなおさんのブログ」でだった。「おっ!?」って思ったんだ。
で、映画の被写体が「平田オリザと青年団」だったことが、その次の理由。じつは僕が「芝居好き」だった期間は短くて、30年前の数年間だった。わざわざ東京まで行って追っかけた劇団はたったのふたつ。
太田省吾の『状況劇場』と、串田和美、吉田日出子の『自由劇場』だ。大好きだったんだ。あの頃。
あと、松本演劇フェスティバルなどで「ブリキの自発団」「プロジェクト・ナビ」「善人会議」の六角精児、「劇団離風霊船」高橋克実主演の『ゴジラ』、竹内銃一郎の『あの大鴉、さえも』も観た。
でも、劇団「青年団」の出世作『S高原から』と『東京ノート』は、すごく興味があったにも係わらずその舞台を観ることはかなわなかった。いや、観に行くパワーが、その頃(今から17年前)のぼくには、すでになかったのだ。たぶん。
そういう訳で、平田オリザと劇団青年団は「憧れつつも諦めてしまった対象」として、ぼくの中ではずっと心残りだったワケだ。その舞台を一度も観たことがない「矛盾するファン」としてね。
そして3番目の理由に、ドキュメンタリー映画監督の想田和弘氏への関心がある。ここ1〜2年で登場した若手論客の中で、突出しているのが、中島岳志氏と、この想田和弘氏だと僕はしみじみ感じていたからね。
だから、中島岳志氏と想田和弘氏のツイートをフォローしている。
特に、ここずっと「TPP」が如何に日本にとってトンデモ条項であるのか、必死でツイートし続ける想田和弘氏には感動すら覚えた。さすが、「元」東大新聞の編集長だ。
■ある日、ツイッターを眺めていたら、想田和弘氏が「松本シネマ・セレクト」が『演劇1』『演劇2』を上映することをリツイートしてたのね。あ、もしかして、これは運命かな? って、思ったワケさ。だから、松本まで観に行ったんだ。それは、決して僕が主体的に観に行ってやったんではなくて、僕は「映画」に呼ばれて観に行ったんだな。ここは、やっぱり重要だ。
■『演劇1』『演劇2』の関係は、たぶん一般的には「正篇」「続篇」を思い浮かべるのではないか。要するに、時系列的に並べられていると。
でも、それは間違いだ。この2本の映画は「正篇」「続篇」ではなくて、「side A」「side B」の違いなんだね。だから、時間軸的には『演劇2』の方が「古い映像」だったりする。
想田和弘氏が興味を持った「平田オリザ」という被写体に密着し撮影したのは、2008年7月〜2009年3月までの期間で、まだ民主党政権が誕生する前のこと。撮影日数はのべ60日、撮影時間は 307時間にもおよんだ。さらに2年間の編集作業を経て、計4年間の時間を費やして、5時間42分にまで「なんとか」短縮し完成したのが「この映画」なワケで、観客もそれなりの覚悟をもって、この映画に対峙する必要があるのだな。(もう少し続く)
■この映像は、日本映画専門チャンネルが 2006年6月に「佐々木昭一郎の全作品」を集中放送した時に制作された特別番組だ。この時はまだCSを見る環境になかったので、こんな特集が組まれていたとはちっとも知らなかった。
今は「日本映画専門チャンネル」を受信できるから、なんとかもう一度「佐々木昭一郎特集」を企画してもらえないだろうか。ぜひとも。
■ところで、この『映像の詩人・佐々木昭一郎』には、彼をリスペクトする若手映画監督のインタビューが出てくる。塚本晋也、河瀬直美、是枝裕和の3人だ。インタビューの時間は短いが、どれほど衝撃を受けたかがよく分かって面白い。
■『ゴーイングマイホーム』(第8話)に関してのツイート。
いやぁ、号泣しながら笑ってしまったよ『ゴーイングマイホーム』。番組ラストの西田敏行と宮崎あおい父娘のやり取り。それから、常田富士男が、亡き妻の石膏で象られた上顎歯形を愛おしそうに指で優しく撫でるシーンにも泣いた。でも今回は何と言っても宮崎あおいだな。高遠町役場屋上で掌を太陽にかざす顔のアップとか。
続き)つれない元夫との別れ際に、さっと振り返って「横向きアップ」になった時の涙腺決壊寸前で魅せる眼力の強さ。しみじみすっごい女優だなぁ。
ところで、加瀬亮が働く牛舎。てっきり富士見町あたりで撮影されたとばかり思っていたのだが、なんと高遠なのか。高遠町下山田にある竹内牧場とのことです。
■ぼくが初めて見た、是枝裕和監督の映画は『ワンダフルライフ』だった。映画館で見た記憶がないから、レンタルビデオで見たのか? どうして借りて見ようって思ったのか、まったく記憶にない。
でも、圧倒されたのだ。この映画に。どこか都内の取り壊しが近い古いコンクリート造りの研究施設が舞台だった。季節は冬。ちょうど今朝のように、宮沢賢治の『永訣の朝』みたいな「みぞれ混じりの雪」が施設屋上に積もっていたように思う。
いまで言えば「北野ブルー」の冷たい冬の色調で統一された静かな画面。
たったいま死んだばかりの人たちが「この施設」に集まってくる。施設職員は、彼らから1週間かけて「生前の一番大切な思い出」を聞き出し、最終日にその場面を再現して「記念写真」を撮るのだ。
今にして思えば、是枝監督が追い求めてきたテーマは一貫しているのだね。つまりは、「死者に対する敬意」だ。だからこそ、あの 3.11. を経験して、テレビドラマ『ゴーングマイホーム』が作られたに違いない。
「クーナ」は、生者が忘れられない「愛しい死者」に引き合わせてくれる存在なのだから。
■つい最近、このTVドラマとは全く関係なく、映画『ワンダフルライフ』の1シーンが鮮明に甦った。ちょうど、本を読んでいたんだ。『なんらかの事情』岸本佐知子(筑摩書房)p42 『上映』だ。
死ぬ間際には、それまでの人生の思い出が走馬灯のように目の前に立ち現れるとよく言われる。
その走馬灯の準備を、そろそろしておいたほうがいいのではないかと最近思うようになった。
死ぬ時はたぶん苦しい。どこかが痛いかもしれないし呼吸もできないかもしれない。血とか内臓とかが出ていたりするかもしれない。だったらせめて目の前で上映されるシーンくらいは、楽しいものや愉快なもの、ドラマチックなものだけで構成されていてほしい。そのほうが気がまぎれるし、いい人生だったなあと思いながら死ぬことができようというものだ。
岸本エッセイでは、いつものようにこの後どんどん脱線してゆき、とんでもない着地点に降り立つことになるのだが、それはまた別のはなし。
■その次に見た是枝作品は『誰も知らない』。これは「伊那旭座」で見た。休診にしている水曜日の午後だった(2004年12月16日、18日の日記参照)
この映画も沁みたなぁ。育児放棄の YOUに無性に腹が立ち、長男として必死に妹弟たちを守ろうとする設楽君に涙した。
■いろんな人が誉めていたのでね、これは映画館で見ようって、決めていたんだ。そしたら、伊那「旭座」で上映中じゃん。で、お盆休みの最後の日に妻と次男と3人で見に行ってきた。
アニメ映画なのに2時間もあったから、旭座の座席が例によってスプリングが硬く、尻が痛くなってしまいちょっと辛かった。でも、映画は2時間全く飽きさせることなく面白かったぞ。
ネタバレなしで感想を書くのは正直不可能な映画だ。
でも、見て直後の感想をツイッターに書いたので、以下に載せます。
今日の午後、伊那「旭座」に映画『おおかみこどもの雨と雪』を見に行く。木曜サービスデイで、大人1200円、中学生1000円だった。ラッキー。映画は泣けた。なんか切なくってやるせなくって……。無償の愛。子育てって、そういうものかもしれないなあ。
あと、ラストで流れるアン・サリーの歌がよい。子育て真っ最中の母親の気持がよくでていた。こんなにもこんなにも、子供たちのことを思ってあげてるのに、一人で勝手に大きくなったみたいな気になって、家を出て行く。
YouTube: おかあさんの唄【歌ってみた】おおかみこどもの雨と雪/主題歌
0歳児と5歳児の母であるらしい「愛書婦人会」さんの感想を読んだが、う〜む。なんか違うんじゃないか。クーヨンもシュタイナーも本筋とは関係ない。大切なことは、おおかみこどもは確かに「あっ」という間に大きくなるけど、人間の子供だって、あれよあれと大きくなるよ。親子が同じ屋根の下で暮らす、いっしょにいる期間、時間て、じつは本当に短いんだよ。
だからこそ、いまここの親子の時間を、子供たちも、母親もそれぞれに掛け替えのない、二度と戻らない切実な時間として大切に忘れないで欲しい。そういう映画なんじゃないか。
■ネットでこの映画の感想をいろいろと読んでみたが、思いのほか賛否両論だったので驚いた。確かに僕自身も見ながらいっぱい引っかかる点がある映画だったので、大絶賛するつもりはなかったのだが、それでも大いに感心したから「4つ星半」を進呈する。
正直、子供を育てたことのない独身の若者には「わからない」映画だと思った。ただ、もしかして勘違いし、子育てしてみたいなぁ、なんて思った若者もいたかもしれない。そしたら儲けもんだな。
意外だったのが、案外、現在子育て真っ最中の「おかあさん方」の評価が厳しいことだ。あれだけ「母親礼賛」の映画だというのにね。
で、つらつら考えを巡らせてみて気が付いたのだが、彼女らは、近い将来訪れるであろう「子別れ」をリアルに想像できないのではないか? ということ。
■少子化のこの時代、最も成功した子育ての結果として、ロンドン・オリンピックを見た人が何人いただろうか? たぶん、何万人もいたんじゃないか?
例えば、卓球の愛ちゃん。それから、柔道の中矢力のおかあさんを見よ。
子供がまだ小さい頃から、母親が全てを支配して、母親の思うとおりに我が子の人生を導いてゆく。それって、子供にとってはいい迷惑だよね。たぶん、そうした母親の思いに正しく応えることができた子供って、オリンピック選手になって、メダルを取るくらい稀なことなんじゃないかと思う。
つまり、成功例はマレだっていうこと。
じゃぁ、母親支配に失敗すればどうなるのか?そういう例は、世の中ごまんとある。
例えば、引きこもりの40代男性。
それから、先だって亡くなった絵本作家、佐野洋子さんの母親「シズ子さん」。「女ねずみ小僧シリーズ」で一世を風靡した小川真由美の娘が書いた『ポイズン・ママ―母・小川真由美との40年戦争』や、斉藤環『母は娘の人生を支配する―なぜ「母殺し」は難しいのか』(NHK出版)を読めば、たぶんよく判ると思う。(ぼくはまだ読んでいないけれども)
つまりは、それだけ我が子の人生を支配しようとする母親が多いということだ。
それに対して、この映画は容赦なく「否」を突きつける。
■個人的には、「ここ」が一番大切なんじゃないかと思った。子供は子供自身の人生を生きて行く。それは決して母親が引いたレールの上には決してないのだよ。
たぶん、現在子育て中のお母さんは、その事実をじつは認めたくはないんじゃないか。
■追記:あと、この映画を見た感想で、ぼくが感じたもろもろのことを、うまく文章にしてくれたサイトを以下に挙げます。勝手に引用ごめんなさい。それから、決定的に「ネタバレ」ですのでご注意ください。
1)「おおかみこどもの雨と雪」に見る、絶望的なまでの父性と野生の喪失
「おおかみこども」は傑作でした。徹夜明けで観たのに寝なかったし。僕の睡眠採点法では★★★★1/2。ちなみに「ダークナイト・ライジング」は★★★★。前半寝たから。
しかし傑作といえども何点か問題はある。韮崎が登場するなり菅原文太にしか見えない件と、「花」がずっとアメ玉を頬張っている件。母性神話を体現する崇高なヒロインなのに…
感想は色々あるけど、やっぱり「キャラの孤独な出立」を繰り返し描く点はパヤヲっぽい。あと「水」関係の描写! 画面の湿り気がハンパない。台風と雨が嫌らしいほどリアル。台風の午後の”ほの明るい”あの感じも。
伊藤剛のいわゆる「マンガのおばけ」ならぬ「アニメのおばけ」のマジックも素晴らしい。とくにカーテンごしの雪の変身シーン。これはテクスチャー抜きでキャラが描けるアニメ絵の勝利。メリダの頭髪を一本単位でレンダリングするピクサーには無理だろうな。いや観てませんけどもあっちは。
おおかみこどもは可愛いけど、それは爪とか耳とか鼻とかまでの話。もし雪の密生する体毛が実写やCGで描かれたら、きっと草平でも「ちょwケモノとかwwマジ勘弁」と謝るレベル。むろん草平がケモナーという裏設定もありです。
ただ草平の発言「ケモノくさい」はヤバい。リアルなら雪は三〇代まで自己臭症とか引きずりかねない。そもそも前思春期に「女の子」を選んだ時点で、体毛の密生するオオカミの身体は徹底して抑圧されるはず。
あ、でもオオカミなので思春期はないのか。動物には青年期も老年期もないか、あってもごく短いからね。あ、でもそうすると雨も雪もドッグイヤー的に短命になるのかな。それは嫌だな。
母性に関して。オオカミなので自立も早いし本能もあるから教育もたいして必要ない。身体が決定的に異質な個体に自然な愛着が湧くとも考えにくい。そもそも子育てに費やした人工的努力の総体が母性なのであって、そこにはかけらも『自然』などない、という作者のメッセージが聞こえたが幻聴かも知れない
母性神話については、リン・ラムジー監督「少年は残酷な弓を射る」がお勧め。これぞ母性のディストピア。ありえないのにホラーな感じは、母性神話支配の強固さを逆照射する。いやパンフに解説書いただけなんですけども。
「おおかみこどもの雨と雪」、ポスト「隣りのトトロ」と言っていいかもしれない。トトロの飛翔感に対してこちらには疾走感がある。トトロでは里山は精霊と人とが出会う場所だが「雨と雪」は精霊と人が別れる場所なのだ。ただし、「雨と雪」は子供の物語ではない。妻であり母でもある女性の物語。傑作。
■何故か、SFが読みたかったのだ。
で、『創世の島』バーナード・ベケット著、小野田和子・訳(早川書房)を手に取った。
松尾たいこさんのカヴァー・イラストに誘われて。彼女が描いた表紙を見て「おっ!」と思った本は、ほぼ間違いなく「当たり!」だからだ。例えば、シオドア・スタージョン『不思議のひと触れ』それから『輝く断片』(河出書房新社)。
『創世の島』の表紙には、岩場の海岸線を裸足の少女が一人、後ろ向きで描かれている。海の水平線は見えない。何故なら、諫早湾に作られた堤防と同じような、高さ30mにも及ぶ隔壁が島の全周を包囲しているから。
この「大海洋フェンス」が築かれたのは、2051年。「最終戦争」が始まってから11ヵ月後のことだった。2052年末にはじめて伝染病菌がばらまかれた頃には、アオテアロア(ニュージーランド)はすでに外界から隔絶された状態になっていた。外界からの最後の放送が受信されたのは 2053年6月。その頃には、大富豪プラトンがアオテアロアに建設した<共和国>は完成していたのだった。
2058年、共和国にとっての救世主となったアダム・フォードが生まれる。
このスーパースター「アダム・フォード」の生涯(2058 - 2077)とその業績に関して、主人公である少女アナックスは、共和国の最高機関である「アカデミー」への入学試験(4時間にわたる口頭試問)に臨むのだった。
■いやぁ、面白かった。短いから一晩で読めた。
でも、ぼくの評価は 3.75点かな。
だって、98ページまで読んだところで、主人公の置かれた状況が読めてしまったからだ。
たぶん、すれっからしのミステリ・ファンなら誰だって気が付くと思うよ。
それくらい「使い古されたネタ」ではあるからだ。
でも、この小説の優れているところは、ネタがばれたとしても最後まで予断を許さずに納得がいく結末に読者を導いてくれている点に尽きる。そうか、そういうことだったのか! ぼくは読み終わって十分に満足した。
■この小説でキーワードとなる言葉は「思考」だ。心や魂(たましい)も関係する。
免疫学でノーベル賞をとった、利根川進先生は、次は「脳」だとばかり、人間の記憶は遺伝子(RNA DNA)によって保存されているという仮説を立てた。しかし、それは間違いだった。
記憶は核酸でできた遺伝子ではなくて、シナプス「回路」だったのだ。
じゃぁ、意識とは何か? 思考とは? 心とは?
動物にも意識はあるのか? 心はあるのか? そういう話なのだ。
またしても、ネタバレなしには紹介できない本なので困ってしまったのでした。
■GW中に、伊那市立図書館へ行って「DVDコーナー」を見ていたら、なんと、以前から是非見たいと思っていた落語のDVDがあって感動してしまった。それは、「桂 歌丸 牡丹燈籠DVD5巻完全セット」と「ドキュメンタリー映画 小三治」だ。
で、『牡丹燈籠・お札はがし』『牡丹燈籠・栗橋宿』『映画・小三治』の3本をカウンターに持って行ったら「DVDは2本までしか貸し出しできません」とのこと。仕方ないので、『お札はがし』と『小三治』の2本を借りた。
■『小三治』を見たのは、5月5日の午後。最初に特典映像から見てしまった。そうか、小三治師は「シロクマ好き」だったのか! なんか、すっごくうれしくなってしまったよ。
この映画の中で主役小三治に次いで注目すべき人は、なんといっても「入船亭扇橋師」だ。この2人、昔からすっごく仲がいい。入船亭扇橋師は、昭和6年(1931年)5月29日生まれで、小三治師が昭和14年(1939年)生まれだから、なんと8つも年上(落語界入門は扇橋師が2年早いが、真打ち昇進は小三治師のほうが半年早い。二人とも十何人抜きの大抜擢での真打ち昇進だったそうだ)なのに、扇橋師は小三治師のことをものすごくリスペクトしているし、絶対的な信頼感でもって頼りきっているのだ。そこが可笑しい。
映画の後半、二人旅で東北の温泉旅館に一泊するシーンがある。あっ! この温泉知ってる。小児科学会が一昨年の春に盛岡であった時に、飯田の矢野先生ほかといっしょに泊まった、つなぎ温泉「四季亭」じゃないのか? それにしてもよく食べるね、この二人。
扇橋師は、新宿末廣亭で2回、あと上野鈴本でも確か聴いたことがある。マイクを通しても、何を言ってんだかちっとも判別できない、ごにょごにょとした小さな声で、しかも上半身が常に不規則に揺れていて、観客はみな「このじいちゃん、ホント大丈夫?」と心配してしまう。演目は「弥次郎」だったり「三人旅」だったり「つる」だったり「小三治をよろしく」みたいな漫談なのだが、たいてい突然歌い出すのだ。
「そーらーは、どうして〜 青いの〜」って。これは、そのむかし和田誠さんと永六輔さんが作って、平野レミさんが歌っていた。ぼくも大学生の頃に、TBSラジオで何度も聴いて知っている曲。それを落語とはぜんぜん関係なく、ほんと突然歌い出すんですよ。扇橋師。でも、好きだなぁ。ものすごく好きなんだ、このすっとぼけたような飄々とした佇まいが。
映画では、そんな扇橋師の可笑しさがじつによく捉えられていた。
よく言われることだが、『ねずみ』とか『鰍沢』『茄子娘』など、師の落語は「唱い調子」で完成されている。そういう意味では、春風亭柳好の落語と似ている。もともと浪曲が大好きで、広澤虎造に惚れ込んで最初は浪曲師になろうとしていた人だった。ただ、浪曲師にはなれなず、落語家になったのだ。彼の師匠は三代目桂三木助。三木助と五代目柳家小さんとは「兄弟仁義」の仲。そういうワケで、三木助は長男の名前を小さんの本名をもらって「小林盛夫」と名付けた。それが自死してしまった四代目桂三木助だ。三代目が亡くなって、まだ二つ目だった扇橋師は「小さん門下」の一員となる。
俳句作りは、中学生のころから玄人肌でならし、「光石」の俳号を持つ俳人でもあり、小三治、小沢昭一、永六輔、加藤武、桂米朝らが参加する「東京やなぎ句会」の宗匠でもあるのだ。
ちなみに、扇橋師も小三治師も下戸で酒は一滴も飲めない。あと扇橋師は、焼肉と「メーヤウ」の激辛タイカレーが大好きでトマトが嫌い。そんな兄弟子のことを、小三治師もすごくリスペクトしている。それは、このドキュメンタリー映画を見れば自然と判るようにできている。
■さて、映画のファーストシーンは、柳亭こみちが高座の座布団を返して舞台袖に引っ込み、続いて「 二上がりかっこ」の出囃子とともに小三治師が肩を左右に揺らしながら、すこし面倒くさそうに高座に向かう場面を下手幕袖の舞台斜め後ろからカメラはとらえる。さらに高座に上がった小三治師を舞台下手真横からカメラは撮す。演目は『あくび指南』。そこにタイトル「小三治」。これがすっごくいい。
失敗をしでかした前座に対しての小三治師。「しつれい、じゃないよ、お前」
前座「はい。ひつれいしました」
小三治「そう。」
そう言ったあとに高座に上がってかけた噺は「らくだ」だ。
これ、いいなぁ。CDでもDVDでも持ってない。
「らくだ」と言えば三笑亭可楽だ。でも、小三治師のはいいんじゃないか。
小三治師が、楽屋で鏡に向かって電気カミソリで髭を剃るシーンが何度もある。師はわりと髭が濃い。見ていると、誰かに似ているなぁ、と思った。そうだ、マリナーズのイチローだ。二人ともB型で、人知れず努力を重ね「その道」を極めた武士というか、求道者のような佇まいが似ているのだな。
「自分で楽しくやれないことはね、ストレスの元だよね。(中略)こんな程度の人生だもの、あんな一生懸命やってどうすんだよ。(中略)しょうがねぇよな。そういう奴だったんだよ、どうも。生まれ育ちかな。なぜ百点取れないんだ!つって、95点の答案を前にして正座させられて親父から小言を言われたっていう、そういう刷り込みっていうのが、やっぱりずうっと消えないんじゃないかなぁ。自分で百点満点を取らないと、自分で自分を許可しない。そういうのが嫌な、それが嫌でこの世界に逃げ込んだのにねぇ、結局はそこから逃れられない。」
■あと、柳家三三の真打ち昇進披露の口上がよかった。実になんとも、うまいこと言うなぁ。
控え室で、サンドイッチを食べながら三遊亭歌る多を相手にしみじみ語るその背後で、三三さんが一人黙々と稽古している場面が好きだ。食べ終わった小三治師は、おもむろに「お手拭き」で目の前のテーブルを拭きはじめる。
「柳家の伝統だよ、テーブル拭くのは。」
「人に言われて気が付いたんだよ。柳家ですねぇって。」
「そう、明らかにそれは小さんの癖なんだよね。」
「うそだろう!? って、ビックリした。えっ、みんな拭くのって。で、自分が拭いていることも意識にない。」
「そういうところがつまり、背中を見て育つってことかねぇ。気が付かないでやっていることがいっぱいあるんだろうねぇ。気が付いていることもいっぱいある。あぁ、これ師匠だなって、いっぱいある。」
「だからねぇ、教えることなんか何もないんだよ」
「ただ見てればいいんだよ」
次のカットで、三三さんが黙々と稽古しているとこに、音声だけで小三治師の指示が入る。すごく具体的で丁寧な教え方だ。あれっ? 三三さんに師匠が教えてるじゃん! ていうのは勘違いで、カメラが引くと、なんと小三治師が「足裏マッサージ」のやり方を柳亭こみちに懇切丁寧に教えているのだった。これには笑っちゃったよ。
小三治師は、スキーも懇切丁寧に教えてくれるらしい。
でも、落語の稽古はつけてくれない。
■それから、映画のナレーション。女優をやっている小三治師の実の娘さんだったんだね。「歌 ま・く・ら」の時、上野鈴本の楽屋に兄嫁といっしょに顔を出している。この時も、入船亭扇橋師の話で盛り上がるのが可笑しい。
■先だって亡くなった長谷川摂子さんの大ファンだ。
『おっきょちゃんとかっぱ』『ぐやんよやん』『めっきらもっきらどおんどん』『きょだいなきょだいな』『うみやまがっせん』などなど、彼女が福音館で作った絵本はみんな好きだ。
それから、彼女の講演が好きだ。下伊那郡喬木村と、上伊那郡飯島町との2回、ぼくは講演を聴くことが出来た。ラッキーだった。彼女の「絵本読み聞かせ」が素晴らしいのだ。その実演を2回も聴けた。あの、ゆったりとした穏やかな声。こどもたちに寄り添った目線。あくまでも主役はこどもたちであることが判っている「大人」としての謙虚な態度。彼女から自然と滲み出でるそれらすべてが素晴らしかった。
あと、彼女の書いた本が素晴らしい。
『とんぼの目玉』の感想は、ここいらへんに書いたし、彼女が少女時代を過ごした、島根県平田市での日々を綴った『人形の旅立ち』は名作だ。
■そんな彼女の遺作が『家郷のガラス絵』長谷川摂子(未来社)なのだが、もったいないので、最初から一気に読むことはせず、後ろの方から少しずつ少しずつ読んでいる。
で、すごく面白かったのが4篇収録された「小津安二郎論」だ。まさか長谷川摂子さんから小津映画の魅力を聞かされるとは思わなかったな。最近読んで意外だった「小津論」に『うほほいシネクラブ・街場の映画論』内田樹(文春新書)があったが、内田先生よりも長谷川摂子さんのほうがずっとずっと深いぞ。
まず、「小津映画とフェルメール」が凄い。何カ所か引用してみる。
小津映画を十年近くくり返し見てきて、毎回、胸のときめく場面があるのだが、それは部分的なシーンで、映画が始まったとたん、私を包むあの透明な空気、全体を流れている、五臓六腑がしーんとなっていくあの直接的な鎮静作用をどう表現したらいいのだろうか……。ここで、仮説としてずいぶん前から感じていることを、思い切って打ち出してもよいではないか、という気持ちが、私の中でだんだん昂じてくる。私は学者でも研究者でもない。ただどうしようもなく小津映画が好きなだけである。ここで言おうとしていることは私自身の仮説であり、比喩でもあることを前提にちょっと気息を整えて始めることにする。(中略)
私はフェルメールの絵を見ていると小津映画を、小津映画を見ているとフェルメールを感じてしまう。この不思議な交互作用の体験の根拠はどこにあるのか、今回はそこを考えてみたい。(中略)
大きく言えば、フェルメールの絵が伝統的な宗教画ではなく、普通の市民の暮らしの一瞬が室内で捉えられていることだと思う。小津の映画も圧倒的に室内の撮影が多い。
室内 ---- これは大空や海や大地の広がりと違って、人間の身体を包囲する立体的な額縁がある、ということ。その額縁は部屋という立体空間の内側である。フェルメールの絵のほとんでは壁と壁が九十度に交わる部屋の隅が構図の中におさめられていて、それがあまり大きくない部屋の中であることが私たちに伝わる。
たいてい左手に窓があって、そこから光が差し込んでいる。図版で示せないのが残念だが、この構図は、「ワイングラスを持つ娘」「中断されたレッスン」「ぶどう酒のグラス」「兵士と笑う娘」など、枚挙にいとまないほどだ。有名な「牛乳を注ぐ女」の部屋の窓などもそうで、窓には日本の障子のサンそっくりの縦横の格子が走っている。(中略)
正面の壁には絵が一枚、あるいは数枚、あるいは大きな地図が置かれていることが多く、これが遠近法で先細りになっている窓とは対照的にばっちりと正面からの長方形で陣取っている。それ以外にも、楽器やいすの背や机など、ニュアンスの違う四角形がさりげなく、しかし、絶妙のバランスで置かれている。壁に囲まれた部屋の中の四角は大小さまざま、これまた幾何学的な音楽を奏でているように思える。(中略)
この正面性のことを考えていたら、私は絵本作家ディック。ブルーナのことに思い至った。まっすぐことらを見ている「うさこちゃん」。ブルーナの絵本はまぎれもなく正面性がつらぬかれている。彼もオランダ人だ。(中略)
小津映画の室内。あらためて『麦秋』を見て、いろいろ確かめた。廊下にしろ、部屋にしろ、人物は基本的に縦長の奥行きのある部屋の中に置かれている。その奥行きの遠近法に正面性が働いている。画面を正面から見つめる観客の目はそれにしたがってずれることがないのだ。二間続きの和室はあいだのふすまが、そして廊下と座敷の境の障子が、つねに開け放たれている。手前のふすまと次の間のふすまは短い距離を置いて大小の長方形の二重奏を奏で、まっすぐ遠近法を際立たせている。それに障子が重なれば、縦横のサンの美しい文様をもつ長方形がいちばん奥の左右にくる。
今回『麦秋』を見ていて初めて気づいたのだが、このふすまの下の角と接しながら、いくつかのたたみのヘリの線がつながって、遠近法そのままにまっすぐ中央への奥行きを示している。小津は座布団の柄の走りにも注意して、その置き方に神経を配った、といわれているが、それはこの部屋の中の正面性の秩序を乱すことがないように、という配慮だったのだと思う。そのほか日本家屋の欄間、箪笥などの家具、みんあフェルメールと同様、幾何学的な音楽の材料になっている。(『家郷のガラス絵』長谷川摂子より「小津映画とフェルメール」p157〜p160 より抜粋)
ぼくは「この文章」を読んで、どうしても「フェルメールの絵」が見たくなり、3月下旬『フェルメール光の王国』の著者、福岡伸一先生が監修した「フェルメール・センター銀座」へ行って実際に見てきたのだった。
福岡先生の著書に出てくる、フェルメールの親友レーウェンフックが発明した「シングルレンズの顕微鏡」とかもちゃんと展示してあって、なかなかに興味深かったのだが、如何せん「レプリカは贋物」なんだな。あぁ、ホンモノのフェルメールの絵、特に『真珠の首飾りの少女』が見たい! 行くぞ、国立西洋美術館。
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