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2010年1月 9日 (土)

『もののけ姫』と『神無き月十番目の夜』

■いま、テレビで宮崎駿監督作品『もののけ姫』をやっている。この映画を見るのは、「おっこと(乙事)」や「えぼし(烏帽子)」という名の地区がある、諏訪郡富士見町に住んでいた頃に、松本の映画館で観て以来のことだ。いま調べたら、1997年7月12日公開とあった。すごく面白かったのだが、ラストが不満だった。なんか中途半端で投げやりで、大風呂敷を広げるだけ広げといて、きちんと落とし前をつけなかったから。

何故そう思ったのかというと、この映画を観る前に、ほぼ同じ主題の小説『神無き月十番目の夜』飯嶋和一(河出書房新社)を読んでいたからだ。いま調べたら、この小説が発刊されたのが 1997年6月25日で、奇遇にも『もののけ姫』とほとんど同時期だった。当時、この小説と『もののけ姫』との類似性に触れた映画評はなかったと思う。

時代設定は微妙に違う。『もののけ姫』が室町時代末期、『神無き月十番目の夜』は徳川家康が江戸幕府を開く前年、慶長七年十月の出来事。舞台も、山陰地方と関東常陸と違うが、網野善彦の歴史観に大きく影響されているところが共通している。それから、アジールとしての「里山」と、そこに縄文の大昔から中世まで、人々から奉られてきた「土着の神」の存在。ここも同じ。

そこへ「近代」を象徴する専業武士(職業軍人)の軍隊が攻め入り、土着の神と民との共同体を殲滅する話。つまりは、時代の転換点を活写していることでは共通しているのだ。それなのに、小説『神無き月十番目の夜』には読後の圧倒的なカタルシス(かつ、圧倒的な虚無感)があったのに対して、映画『もののけ姫』には残念ながら「それ」はなかった。たぶんそれが不満だったのだ。


■ぼくは、とことん暗い「これでもか!」っていう話が好きなのだ。コーマック・マッカーシー『ブラッド・メリディアン』は、ようやく「第6章」まで読み終わった。まだ全体の 1/4。主人公の少年が、メキシコ・チワワ市の刑務所で、あのトードヴァィンやホールデン 判事と再会し、釈放されたところだ。これからいよいよインディアンの頭皮狩りが始まる。こういう(『神無き月十番目の夜』と同じく、読者に有無も言わせぬ)小説がぼくは好きなのだ。


■閑話休題。今日(昨日)は、今年初めての伊那中央病院救急部の当番日。前回と違って、救急車が1台も入らず、全体に閑な夜だったのだが、夜の8時半を過ぎてから子供が受診しだした。来るならもっと早く受診してよね。だって、聞けば「子供の熱」は今日の午前中からだったり、午後2時からだったりしてるのだ。だったら、日中に開業医を受診できたでしょうに。そう思っても、決して親御さんには直接は言わない。

午後9時までに2人診て、さて帰ろうかと救急部の廊下へ出たら、発熱の子供が受付していた。見て見ぬふりして帰る訳にもいかない。しかたなく第2診察室に戻って、看護師さんの問診が済むのを待つ。夜の9時20分を回っていた。診察が終わって、インフルエンザの迅速診断の結果を待ち、陰性を確認してから処方を打ち込み、親御さんに説明し終わって、さて、今度こそ帰ろうかと思って救急部の廊下へ出たら、デジャブーのように、新たな発熱の子供が受付していた。

でも、ここは心を鬼にして「その子」を無視し、救急口玄関を後にした。だっておいら、明日も午後2時まで診療があるのだよ。しかも、明後日の日曜日は、午前と午後の「まる一日」、伊那市保健センターで小学生に新型インフルエンザの集団予防接種に従事することになっているのだよ。ごめんね。

2009年12月27日 (日)

映画『ミスト』フランク・ダラボン監督

今日の日曜日も、新型インフルエンザのワクチン接種。喘息の子の2回目と、1〜6歳児の積み残しで合計75人。午前9時から始めて午後3時で終了。今日は早く終わってよかった。BGMは、再発改訂盤『Free Soul』の2枚。


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■夜7時からは、伊那中央病院小児一次救急の当番。今日は子供が多かった。9時半まで12人診る。ほとんどが発熱。看護師さんが診察前にインフルエンザの迅速診断検査をしておいてくれたので、停滞なくスムーズに診療がすすんだ。でも、陽性に出たのは2人だけ。偶然、箕輪中部小学校1年生の同じクラスの子が4人発熱で受診した。3人は陰性だったが、全員限りなく怪しいな。


■このところ落ち着いて海外小説を読む気分になれず、読書は停滞中だ。夜は深夜にテレビばかり見ている。木曜日のイヴの晩は、フジTV系列で「とんねるず」の2人が、離婚したばかりの「爆笑問題」田中の家に押し入り、好き勝手する番組を見た。AI のサプライズには感動したな。soulfulで、実にいい声してる。金曜の夜は、小田和正の「クリスマスの約束」。こちらにも AI が出ていた。それにしても、よくもこれだけの売れっ子ミュージシャンを何日も拘束して練習したね。メドレー凄かったな。泣いちゃったよ。やっぱり、小田さんが「いま」の流行り歌を歌う企画より、「本人」が歌ったほうがいいよね。


■今夜はいま、NHKで「サラリーマン・NEO 冬スペシャル」を見ているところだが、昨日の晩はなに見てたっけ? そうそう、松本人志の「すべらない話」を見て、NHK-HV で「週刊ブックレビュー」の年末特集を見た。そのあと、TSUTAYA から借りてきたDVDを見たんだ。スティーヴン・キング原作、フランク・ダラボン監督『ミスト』だ。TSUTAYA では今「旧作100円」キャンペーン中で、準新作が半額になるレシートももらってあったから、あと、クリント・イーストウッドの『グラン・トリノ』も借りた。


で、『ミスト』を再生して見始めたら途中で止められなくなってしまい、結局ラストシーンの後もエンドロール終了後にサプライズ映像があるんじゃないかと(結局なかったが)じっと見続けたら午前3時を回っていた。今日一日、眠かったワケだ。賛否両論の映画として話題になったけど、結論から言うと、ぼくは否定派だ。

スティーヴン・キングの中篇「霧」が収録された『闇の展覧会(1)』(ハヤカワ文庫)を読んだのは、20数年前だ。ちょうど飯山日赤の小児科一人医長だった頃のことで、しんしんと雪が降る深夜に読了した記憶がある。これは傑作だと思った。たしか「この小説」は、キングの(扶桑社文庫)版にも収録されているが、ラストを含めて少し違っているとのことだった。そのストーリーの大方を忘れてしまったが、霧深いハイウェーをメイン州から車で南へ南へと、ひたすら南下する主人公たちは、決して「希望」を捨ててはいなかったと記憶している。結果は知らないけどね。

ところがどうだ! これはないんじゃないの! ダメだよ、この映画。スティーヴン・キング原作、フランク・ダラボン監督作品では、『ショーシャンクの空に』を封切り映画館で観ている。今はなき「松本中劇シネサロン」でだ。原作は既に読んでいた。『刑務所のリタ・ヘイワース』。これは映画の勝ちだな、そう思った。

次の、トム・ハンクス主演『グリーン・マイル』はテレビで見た。やはり原作は読了済み。これは「原作」の勝ちかな、そう思った。


で、『ミスト』だ。監督のフランク・ダラボンが、原作『霧』に入れ込んでいる気持ちはよく分かった。でも、この映画のラストは、原作とぜんぜん違うじゃん。しかも、この映画の売りが「ラスト15分」にあることが、キング・ファンのぼくには納得いかない。原作者のキングは、小説のラストは別にどうでもよかったはずなのに、この映画は、原作の気品を台無しにしている。主題がぜんぜん違うじゃん。ぼくは嫌だな、この映画のラストは。


コーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』を読み始めた時、ぼくは思った。この父と息子の物語は、南へと向かう、キングの『霧』の親子の物語の「続き」に違いないと。確かに、そこには「希望」はない。でも、父と子は、こうでなくっちゃいけないよ。そうでしょ。いま、問題のラストシーンを再生し直しているところだが、確かに、あの「短髪の母親」が画面に一瞬だけ映っていた。なんで? なんでそうなるの? フランク・ダラボンは、世の中の不条理を映画にしたかったのか? 

ぼくには、どうしても納得がいかない。

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