『ゴーイングマイホーム』(つづき)
■今週火曜日の『ゴーイングマイホーム』(第4話)は、面白かったなぁ。
■今週火曜日の『ゴーイングマイホーム』(第4話)は、面白かったなぁ。
■8月お盆過ぎの一時期と、10月22日から今日11月4日までの2週間、当地(伊那・高遠・辰野・諏訪・富士見)で長期ロケが行われた、関西テレビ制作テレビドラマ『ゴーイング マイ ホーム』が、とにかく面白い。
主演の阿部寛は、映画『テルマエ・ロマエ』を見た時にも思ったけど、真面目な顔してすっとぼけたコメディを演じさせると、ほんと可笑しい。
■初回オンエアーを見ながら、「これって、もしかして是枝裕和監督による『東京物語』なんじゃないか?」って思った。
YOUは、そのまんま「杉村春子」だし、長男役の阿部寛は「山村聰」。その妻、山口智子は「三宅邦子」で、吉行和子は「東山千枝子」。夏八木勲が「笠智衆」だから、ここは『東京物語』と夫婦で役割が逆転している。西田敏行は、そうだなあ「佐分利信」か「東野英治郎」。
そうすると、もちろん宮崎あおいは「原節子」っていう訳だな。
映画では「中村伸郎」が演じた髪結の亭主役を、大泉洋が所属する演劇集団 TEAM NACS のメンバー安田顕(ヤスケン。昔は『水曜どうでしょう』でしか見たことなかったが、最近はピンでNHKを始めいろんなドラマに出ているねぇ)がやっていて、これまた「そんまんま」のいい味だしていて笑ってしまった。
買い物行ってレジ袋から歯ブラシが出てきたり、奥さんのYOUをベッドの上で丁寧にマッサージしたり、妻の実家で庭の水まいてたり。それから、倒れた義父が社長を務める会社の本社に出向いて「マツケンいるかな?」と本気で期待したり。なんか、そこはかとなく可笑しいのだ。第2話、第3話には登場しなかったのが淋しいぞ。今週の第4話に期待。
あと、阿部寛と彼の娘(蒔田彩珠ちゃん)が朝食をキッチンテーブルで食べずに、なぜかリビングのソファーに座って低いテーブルに並べたおかずを食べているのが妙で「あれっ?」と思ったのだが、じつはキッチンテーブルは「妻:山口智子の仕事場」であることが次のシーンで明かされる。
山口智子は売れっ子の「フードスタイリスト」で、今朝作った娘のお弁当も大切な商売道具の「作品」だったんだね。で、出来上がりをテーブルに載せて写真を撮る。
カメラは、山口智子のオシャレなエプロンを撮すようなふりをして、大胆にも山口智子の「大きなおしり」を正面から捕らえる。これって、小津安二郎が得意とした画面構成じゃん。女優の「おしり」を平気で映すのって。ちなみに、YOUの「おしり」もやっぱり撮している。
■このドラマ、すでに3話までオンエア済みだ。「ロンバケ」の山口智子と「篤姫」宮崎あおい共演なのに、視聴率は芳しくないらしい。ちなみに視聴率って、録画しておいて後から見る人も数に入ってるんだろうか?
それから、初回「2時間スペシャル」ってのが正直失敗だったな。
次の週にサッカー「日本 × ブラジル戦」生中継が入ってしまったために、こういう無理な編成になってしまったのだ。本来なら、第一話の最後で宮崎あおいが登場して、彼女は誰? って謎を残して次週の第二話をお楽しみに!っていう脚本だったんじゃないかな。
いま、録画しておいた初回『ゴーイング マイ ホーム』を見直しているところだが、前回見て気が付かなかったセリフやカットが、第二話、第三話を見てから初めて気が付く「伏線」になっていて、このドラマは録画で何度見ても、その度に新たな発見がある、まるで噛めば噛むほど味わいが増すスルメみたいなドラマだ。
その点でも小津安二郎の映画に似ている。
■ところで、このドラマは「ちょい役」でありながら毎回短時間だけ画面に登場し、主役を食う曲者の役者がいっぱい登場していて、そこも楽しみ。
富士見町「信濃境」駅前でいつも待っているタクシー運転手の阿部サダヲ。CMプロダクションの後輩、新井浩文。長野日報記者役の中村靖日と、JTのCMでタバコ吸ってる、巡査役の山中崇。あと、町立辰野病院の病棟看護婦役の「野田と申します」の人、江口のりこさん。それから、同じマンションに住むバカリズム。あの、バス停のシーンは好きだな。
長身の阿部寛の横に小柄なバカリズム。彼らの頭の先端を結んだ線の先に子供がいる。見事な幾何学的相似形だ。
■先だって、つい最近フォローした中村靖日さんのツイートを読んでたら、10月31日にこんなツイートがあった。
↓才能あるキムチを撮影中の新井浩文くん。と、山中崇くんの『松ヶ根』兄弟と呑んでるよー。殺されんように気をつけんと。pic.twitter.com/lsNZSn28
この元ツイートは、新井浩文さんで、これです。
https://twitter.com/araihirofumi/status/263585956823699457
■ETV特集『希望をフクシマの地から~プロジェクトfukushima!の挑戦』を、10月9日(日)よる 22:00〜23:30(Eテレ)で見た。で、大きく心を動かされた。ただ「感動した!」とかそういう感情ではなくって、何だかよく判らないのだけれど、心の奥底から突き上げて来るマグマのような混沌とした感情に打ち震えた。とでも言えばよいか。もちろん、中心人物である大友良英さんの奢りのない正直で真摯な言葉と行動力には、心からリスペクトを憶えたし、番組そのものに対しても高評価を与えたいと思った次第。
■大友良英さんはギター1本でインプロビゼィションを繰り広げ、ワールドワイドに活躍するフリージャズ・ミュージシャンだ。大友氏は福島県の出身。この3月11日以降、予定していた海外公演を全てキャンセルし日本に留まった。いや、留まざろうえなかった。
そのあたりの彼の想いは、4月24日に行われた「芸大での講演」で読んで知っていた。こうした流れから、ごく自然に8月15日の『プロジェクトfukushima!』の企画が展開されていったのだな。こちらの「6月26日付のインタビュー」を読むと、その経緯がよくわかる。
■この番組『希望をフクシマの地から~プロジェクトfukushima!の挑戦』を見ていて一番に感じたことは、単なる「音楽イベント」のダイジェストにするつもりは毛頭ないぞ! という番組担当NHKディレクター山岸氏の確固たる意志がじんじん伝わってきたことだ。いままで数々の傑作音楽ドキュメントがあった。『真夏の夜のジャズ』とか『ウッドストック』とか。マイナーなところでは『吉祥寺発赤い電車』とか。ただ、どの映画も監督の強烈な個性が全面に出たことで傑作たり得たのだと思う。
大友氏と同じく福島出身である山岸ディレクターは、当事者である大友氏とは別の視点にこだわった。それは、ドキュメンタリー作家としての意固地な信念だ。そうして、その思い(問題提起)は視聴者に確かに伝わったのではないか。
山岸ディレクターの意図は、この番組の中で「福島」をめぐる人びとを「5種類」に分けで、視聴者がそれぞれの人の立場になって考えてみる場を提供しようとしたことだと思う。その5種類とは、
1)かつて福島で暮らし生活していたが、今は遠く離れて東京で日常をおくっている人びと(大友良英氏、遠藤ミチロウ氏、NHK山岸番組担当ディレクター)
2)昔から福島で生きてきて、3月11日以後もそのまま福島で生活を続けている人びと(現役高校教師で詩人の和合亮一氏、安斎果樹園の年取ったお父さん。福島から避難したくてもできないで、昼も自宅の雨戸を閉めたまま生活を続ける、まだ若い父母と、娘の誉田和奏ちゃん)
3)生まれた時からずっと福島で暮らしてきたのだが、原発事故のあと、もうこれ以上の放射能被曝を避けるべく、福島県外へ脱出していった人たち。
特に、3月11日の翌日、いち早く原発事故を予測し、まだ福島第一原発が爆発事故を起こして放射能をまき散らす前に、北海道へ避難した人がいた。安斎果樹園の息子さん家族だ。夫婦と幼い子供2人。祖父母は福島に残り、家族は分裂した。結果的には、彼の行動は素晴らしいほどの大正解で、子供たちは被曝をまのがれることができたのだ。
4)大震災前後とも、福島とは関係のない土地に住みながら、当事者気取りで好き勝手な発言を繰り返す人たち、自分には関係ないことと思っている人たち、ずっと何となく気にはしているのだけれど何もできないでいる人たちなど(ぼくを含め、日本全国にはここに入る人たちが一番多いはず。)
5)3月11日以前は、福島とはぜんぜん関係なかったのだけれど、その日以降、頻回に福島入りして活動し、終いには福島へ定住しようとしている人(『ETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図~福島原発事故から2か月~」』に登場した木村真三先生。)
フェスティバルを県外から見に来た人たち、出演者として参加したプロのミュージシャンたちも、ここに入るかな。
■3)の安斎果樹園の息子さん安斎伸也氏は、山岸ディレクターとは福島高校の同級生だ。だから、山岸ディレクターは自らカメラの前に登場し、避難先の北海道まで追いかけて行って安斎氏と対峙する。普通、ドキュメンタリーではこういう展開はない。出しゃばり好きのマイケル・ムーア監督は別だが。
安斎伸也さんは、桃の収穫のために単身一時帰宅する。そして、8月15日には「プロジェクトfukushima!」屋外会場に隣接した物販販売コーナーで安斎果樹園の桃を売る。でもぜんぜん売れない。美味しそうな桃が並べられた大きなざるに、通り雨の大粒の水滴がただ無残にたまる映像が鮮烈だった。
振り返ってみれば、安斎伸也さんが取った行動は、誰が何と言おうと全くもって正しい。誰からも非難される筋合いはない。それなのに、番組では彼が一番冷たい視線を浴びせられていたように感じた。何と理不尽なことか。何という悲劇か。彼は何にも悪いことしてないんだよ! 正しい行動だけしてきたんだよ! それなのに、この仕打ち。あぁ、これが今の福島県民の想いなのか。
■番組を見た人たちの感想をぜひ聞きたいと思い、Twitter で検索したら、音楽評論家・プロデューサーの高橋健太郎氏をはじめ、思いのほか否定的な意見が多く挙がっていて驚いた。大きく分けて、今現在も被曝の怖れあるこの時期に、福島で屋外音楽フェスティバルを行ったことに対する否定的意見と、番組ディレクターの演出方法に対する否定的な意見に分けられる。
一連の発言のまとめが「こちら」にアップされているのでご覧ください。
ぼく自身は、この番組を傑作として高く評価します。
詩人の和合亮一氏が、自作のポエトリー・リーディングの結びに、
「明けない夜はない」
と、静かな声でゆっくりと語った、その言葉が、何よりも一番心に残った。
■ただちょっと残念なのは、9月に入って、NHK朝ドラ『おひさま』の進行テンポが一気に減速した感があること。それから、ドラマの緊迫感(つまりは「リアリティ」ということ)が欠如し、やたらと間延びさせているような印象だ。
それは、最終週だというのに今週も当てはまる。
なんか、出演者のみなさん、言い残したことはありませんか?篇 みたい。
今日なんか、串田和美氏が一世一代の長台詞を初めてしゃべったぞ!
白川由実も久々に登場したし。
噂では、最終回に年とった「満島ひかり」役で、黒柳徹子が登場するらしい。ちなみに、年取った「真智子さん」は司葉子が演じるそうだ。
■このドラマ『おひさま』の魅力を、タイミングよく亀和田武氏が『週刊文春 9月29日号』103ページで文章化してくれている。なるほどなぁ、まさにそういうことなんだ。「ファンタジィ」なのだから「リアリティ」をドラマに求めること自体がそもそも間違いなのか。(以下引用)
最終回まで、もう残りは僅か。朝の連続テレビ小説『おひさま』を欠かさず観る生活はまだ続いている。こんなことってあるんだなあ。NHKの朝ドラ的世界からもっとも遠い男が、半年もの時間、たっぷりドラマに浸ることができた。
ヒロイン陽子(井上真央)の存在が、もちろんドラマの核だ。でも同じくらい観ていてうれしいのは、その周囲に集う人間までが、彼女と触れ合うことによって、幸福そうになっていくことだ。(中略)
ドラマを貫く太い芯は、女学校時代からの親友、育子(満島ひかり)、真智子(マイコ)との変わらぬ友情だ。
戦火に焼かれ、心に秘めた恋人を戦争で喪っても、彼女たちは自分の力と、陽子の優しさによって、はい上がってくる。
半年の放送を振り返って思う。ああ、これは今の日本に住む者にとってのファンタジィなのだな、と。戦争の時代に、大切なものを奪われながらも、無垢な明るさと、強い生命力を持った ”おひさま” のようなヒロインがいたおかげで、みんな笑顔を絶やさずにいられた土地が、信州の一隅に奇跡的にあった。そんな日本人の切ない願望が込められていたから、多くの人が観つづけたのではないか。
男たちは、誰もが控えめで誠実だ。陽子の夫、和成(高良健吾)は優しく家族を支え、野心も持たず、妙な自己主張もしない。黙って、魅力的な女性たちに接する男たちの姿は、静かな感動を誘う。(中略)
脚本の岡田恵和は、しかし苦いテイストも一滴たらす。陽子の初恋の人、川原は、満州で妻に死なれ帰国した。酒に酔った彼は、幸福な人びとに叫ぶ。「この国の連中は…… 忘れ過ぎだよ。あの戦争はすっかりなかったことになっているのか!」と川原は吠える。「俺は嫌だね、そんなの。たとえ日本中が忘れて幸せになっても、この気持ちのまま生きつづけて、この気持ちのまま死んでいく」
こんな偏屈な男を登場させたことで、ドラマに深みが生まれた。十代半ばに、世間に対して覚えた違和を、いまもどこかに抱えて生きる私にも、ぐさり突き刺さった。
■団塊世代の亀和田さんは、ラストのセンテンスにほろ苦い気持ちを託したのだろうな。
■2011年9月も、あっという間に最終週を迎えた。
と言うことは、NHK朝の連続テレビ小説『おひさま』も今週土曜日で最終回なのだな。
ぼくは基本的に、アバウトな構成を勢いだけで半年間突っ走る感じの、NHK大阪制作の朝ドラ(『ちりとてちん』『てっぱん』『ふたりっ子』『てるてる家族』など)が好きなのだが、この春は珍しく東京局制作の『おひさま』をずっと見てきた。
長野県松本市と安曇野市が舞台だったからね、それが見始めた動機。
だから、長野県での『おひさま』視聴率は平均して30%近くもあったのだそうだ。
ところが驚くべきことに、そんな信州以上に、福島県をはじめとする東北6県での『おひさま』視聴率が高いのだという。連日30%以上。その理由が「ここ」に載っているが、本当だろうか?
ぼくは案外「こんなところ」にその理由があるような気がする。
でも、何なんだろうなぁ。このドラマの魅力とは?
ヒロイン陽子の「おひさま」に照らされる周りの人々がみな、幸せになってゆくってことなんだろうなぁ。見ているぼくらも、その「おすそわけ」を毎日もらって、朝から何となくのほほんと幸せな気分になって、日々なんとか生きて来れたように思う。特にドラマ後半は、ほとんど東日本大震災とシンクロしていったから、福島県をはじめとする東北・北関東の人々は、ほとんど「我が身」のごとく「このドラマ」を見入ったのではないか。
このドラマには「悪人」が一人も登場しない。みんな「いい人」。
そのあたりの設定に、例えば名古屋の大矢さんなんかはすっごく違和感、嫌悪感を感じるらしいのだが、それはね、このドラマを最初からちゃんと見てないからです。違うんです。
悪人は何人も登場した。特に憎らしかったのが「ピエール瀧」演じる軍事教練担当の代用教員だ。これでもか、これでもかとヒロイン陽子をいじめまくったのだよ。それでも、ピエール瀧は最後の出演場面で「いい人」として散華してゆくのだ。この回の放送はもう、ボロボロ泣いてしまったよ。
あとは、そうだなぁ。平泉成。陽子の親友「真知子」の父親で、安曇野の帝王と言われた成金趣味の男。ところが、彼にも人には言えない苦労に満ちた人間ドラマがあったのだ。ぼくは「かあさん。星がきれいだなぁ!」そう、思わずしゃがれ声で声色をものまねしてしまうのだった。
それから、陽子の父親役の寺脇康文がとってもよかった。背筋をしゃんと伸ばして、いっつも正坐。とにかく姿勢がいい。それでいて、情けない「オヤジギャグ」を毎回かましてくれる。あはは! ほんと愛すべきキャラクターだ。
その、寺脇康文が毎夜松本の映画館に通って、とある映画を見続けたのだという。若くして亡くなった妻(原田知世)にそっくりな女優が出ていたからだ。
あれ? どこかで見たシーンだぞ。あ、そうだ。ビクトル・エリセ監督作品『エル・スール』じゃないか。スペイン北部に住む、一人の少女の物語だ。彼女の父親は、スペイン内戦の時はアンダルシアにいて人民戦線軍だった。この時彼は一人の女優と実らぬ恋に落ちた。今は北部地方で妻と一人娘と暮らす。そんな父が毎夜町に行き1本の映画を見ている。主演はあの女優だ。謎に満ちた父親の行動の真意を理解すべく少女は南(スール)へと旅立つ。(つづく)
■知ってる人はよく知っていて、知らない人はぜんぜん知らないのが「ラーメンズ」だ。
1999年の春、NHKの『爆笑オンエアバトル』でテレビ・デビューした時には、いわゆるよくある「お笑いコンビの二人組」かと思われていたのだが、この頃の映像をいま見ると、やはり当初から「いわゆる普通のお笑い」ではないことが今さらながらによく判る。
たぶん彼らも、制限時間とか表現上のタブーとか、いろいろとやっかいな制約だらけのテレビ界とは相性が悪いことに早くから気付いていたのだろうな。その後の「ラーメンズ」の主な活躍の場は、劇場の「ナマ舞台の場」へと限られてゆく。彼らの舞台は、お笑いコントと言うよりも、二人芝居の演劇に近い点が評価されだしたし、コアな熱烈ファンも急増した。
この頃収録された『日本の形』が傑作だ。わが家にもDVDがある。この中の1本「鮨編」を YouTube で見ることができる。
■このように「お笑い」の新次元を前衛的に突き進んでいる「ラーメンズ」ではあるのだが、ぼく自身の評価は、浅草の舞台に立つ「コント55号」の「身体的なお笑い」を踏襲する、伝統に則った「お笑いコンビ」だと思うのだ。
コント55号のコントは、欽ちゃんがその全てを統括していて、ちょうどお釈迦様の手のひらで右往左往する孫悟空の役目が坂上二郎さんだ。この役割分担は、小林賢太郎(欽ちゃん)と片桐仁(坂上二郎)に、そのまま当てはまる。
小林賢太郎は、何度も綿密にリハーサルして計算し尽くして考え抜いた「理系のお笑い」を演じる。それはそれでとても面白い。例えば、最近NHKBSで放送された「小林賢太郎テレビ3」だ。
これはこれで、ものすごくクオリティが高いお笑いで、感動モノではあるのだが、ぼくは「頭だけで成り立つお笑い」だと思ってしまう。小林賢太郎さん一人だと、どうしても「身体」が「おいてけぼり」になってしまうのだよ。
それは、欽ちゃん一人だと「ギャグ」が成り立たなくって、いろんな素人をいじって笑いを作っく方向へ向かったように、コント55号には坂上二郎さんが絶対的に必要だったのだ。それは、お笑いを「身体的」に変換する作業と一致する。お笑いは、頭ではない。身体だ。
まったく同じことが「ラーメンズ」でも言える。
「笑いの天才」と言われる小林賢太郎ひとりでは、頭だけの笑いになってしまうのだ。だから、身体性を精いっぱい、お釈迦様の手のひらの上で四苦八苦しながら、即興的な瞬発力でもってさまざまな表現しようとする、片桐仁(坂上二郎の代役)が絶対的に必要なのだ。ぼくはそう思う。
■先日の日曜の夜に、NHK教育テレビで放送された「ETV特集・ネットワークでつくる放射能汚染地図 ~福島原発事故から2か月~」は衝撃的だった。
「放射能」というものは、「目に見えない」ということが一番怖ろしい。しかも、今現在、大量の放射能を浴び続けていたとしても、痛くも痒くもないのだ。もちろん、10年もすれば寿命を全うして死んでゆく年寄りは関係ない。でも、これから人生が始まったばかりの子供たちはどうか? その危険性に正しく答える人は、文科省にも厚労省にも原子力安全保安院にも誰もいない。
福島第一原発の近隣住民として避難を余儀なくされた人たちの、避難先の浪江町赤宇木公民館の方が、避難してきた自宅よりも数十倍も放射能が高かったなんて、思わず笑っちゃう話じゃないですか。番組では、3万羽のニワトリを餓死させた養鶏場の経営主や、大正時代から続くサラブレッド産地の牧場主とかが、あまりに理不尽で不条理な仕打ちに文句も言えずにいる表情をカメラは捕らえていた。
いや、それは何も彼らだけではない。先祖代々生まれ育った土地を、ワケの分からない目に見えない放射能に汚染されたという政府発表だけで、集団移住を余儀なくされた人々。
もしかすると、20年経っても30年経っても、生まれ故郷はチェルノブイリと同様、人が住めない汚染地帯として閉鎖されたまま、帰ることができないのかしれないのだ。そう考えると、とんでもない事態が進行中なのだと気づき、怖ろしくなってしまった。
■この番組のラストシーンは、爆心地に近い自宅に残してきたペットの犬・猫に餌を与えに帰った老夫婦の車に同乗させてもらったNHKのカメラが、必死で飼い主の車をを追いかけ、とうとう諦めて立ち止まる愛犬(まるで、絵本『アンジュール』のようだった)を望遠でとらえたシーンで終わっていた。悲しかった。切なかった。日本という国は、いったい、どうなってしまったのだろうか。
■写真は、アンドレイ・タルコフスキー監督作品の映画の中で、ぼくが一番好きな『ストーカー』LDの裏表紙から撮ったものだ。一番好きと言っても、見たことがあるのは『惑星ソラリス』『ノスタルジア』『サクリファイス』『僕の村は戦場だった』と、『ストーカー』だけなのだけれど。
■これはよく言われることだが、タルコフスキーは「水のイメージに異様に執着する作家」だ。
なかでも映画『ストーカー』は、ほとんど「みずびたし」の映画だった。
■ロシアの片田舎に巨大な隕石が落下したという政府発表があり、その周囲は危険な放射能が満ちているために周辺地域住民は強制退去させられ「ゾーン」と呼ばれる立ち入り禁止区域となった。
しかし、その「ゾーン」内には人間の一番切実な望みをかなえる「部屋」があるという噂があり、そこへ行きたいと願う作家と教授の2人を秘密裏に案内するのが、主人公の「ストーカー」の役目だった。
映画では「ゾーン」の外はモノクロ、ゾーン内に入るとカラーになるという仕掛けがあった。ゾーン内には「目に見えない」危険な区域がいっぱいあって、案内人のストーカーは「それ」を巧妙に回避しながらゴールの「部屋」へと向かう。
あの「部屋」へと至る彼らの行程は、福島第一原発の原子炉がメルトダウンし、放水を浴びながら、地下に汚染された水が何万トンと貯まった原子炉建屋の状況とまったく同じだ。ほんと怖ろしいほどに。どちらも徹底的に「みずびたし」じゃないか。
■もしかすると、タルコフスキーには「今回の事態が」目に見えていたのではないのか?
ほんと、そう思いたくなるほど「リアル」な映像が「この映画」には充ち満ちている。
■日曜日の夜10時から、NHK教育テレビで放送された「ETV特集/カズオ・イシグロをさがして」は期待以上の面白さだった。特に、分子生物学者の福岡伸一先生との対話に注目した。福岡先生は鋭いよなぁ。質問に対して真摯に答えるイシグロ氏にも以前にもまして好感を持った。
再放送の予定は今のところないみたいだが、番組の要点をコンパクトにテキスト化してくれた貴重なサイトを見つけたのでリンクしておきます。「THE MUSIC PLANT 日記」です。ありがとうございました。
やはり、以下の言葉がズシリと胸に響くなぁ。
イシグロ「記憶は死に対する部分的な勝利なのです。我々はとても大切な人を死によって失います。それでも彼らの記憶を持ち続けることはできる。これこそが“記憶”の持つ強力な要素だと思うのです。それは死に対する慰めなのです。それは誰にも奪うことができないものなのです」
■「死者とともに生きる」ことに関して、レヴィナス研究者である内田樹先生の『死と身体―コミュニケーションの磁場』(医学書院)を読んでみなきゃなって前からずっと思ってきたのだが、じつは未読のまま。いろんなヒントが詰まっているに違いないのだが、文庫化はされないのだろうか?
そんなことを考えていたら、今日(4月19日)信濃毎日新聞朝刊 11面『論考 2011』欄に、北海道大学准教授中島岳志氏による「死者と一緒に生きている」と題された文章が載った。これがすばらしい。内田先生も中島氏も、1995年1月17日に神戸と大阪でそれぞれ阪神大震災を被災した。いまググったら、その全文が「こちら」に転載されている。こちらもリンクさせていただきます。すみません、~民宿Dubian~さん。
無心に「凧あげ」をしているジイサンの言葉が、心に沁みる。
「地震でな、家内を亡くしてな。なんかこうやってたこをあげとると、手を握ってる感じがするねん」
■今日の午前3時からは、サッカー・ワールドカップ「オランダ v.s. ウルグアイ」戦が始まるが、さすがに見ずに寝ます。
ツール・ド・フランス「第3ステージ」の後半をライヴでずっと見ていたが、凄いな!あの、狭い石畳コース。連日落車頻発で大荒れのツールだが、今日はなんと! フランク・シュレク(兄貴の方)が落車で鎖骨骨折。そのままリタイアとなってしまった。シュレク兄弟どうする? サクソバンクも作戦の立て直しが必要だぞ。カンチェラーラの役割も変わってくるかもね。
それにしても、今日の石畳コースに手こずって、ランス・アームストロングはトップから2分以上遅れてしまったし、コンタドールに至っては、チーム・メイトに忘れられて(裏切られて?)置いてきぼりを食い、なんと1分半近くも遅れた。万年2位に甘んじているカデル・エヴァンスは何気に3位でゴール。しばらくマイヨジョーヌをキープするかと思われた、フランス人シャバネルは、石畳で2度もパンクし、たった1日の天下に終わってしまった。これは予想外の展開だ。今後もますます荒れ模様の予感。
今日、一番よかったのは何と言っても区間優勝を果たしたフースホフトだろう。昨日の第2ステージではカンチェラーラに「まぁまぁ皆の衆」と制されて区間優勝できなかったからね。昨日の悔しさを見事果たして晴れ晴れとした笑顔で、機嫌を直したゴリラみたいでよかったな。しかも、狙っていた「緑色のジャージ」も手に入ったし。
新城も落車の難をを逃れてしっかり走りきったぞ。明日の第4ステージでは上位入賞に絡んで欲しいな。ガンバレ!
■ところで、昨年のツール・ド・フランスで大活躍した別府史之は、今シーズン、あのランス・アームストロング率いる「レディオシャック」に属している。ランス以下スター選手を数多く抱える「レディオシャック」では、別府史之はツール・ド・フランスのメンバーには選ばれなかった。これは仕方ないことだ。
「別府史之のブログ」を読んで、何だか泣けてきちゃったよ。ガンバレ!別府史之 応援してるぜ!!
アマゾン奥地に住む原住民「ヤノマミ」の噂を聞いたのは、たしか、WEB「本の雑誌」に連載されている、営業担当の杉江由次さんの「炎の営業日誌」においてだった。こんなふうに書かれれば、誰だって気になるでしょ。
日曜日の夜、テレビを付けてあちこちチャンネルを変えてたら、偶然「この番組」が始まったところだった。「あっ!」と、ぼくは声をあげてしまった。これが例の「ヤノマミ」か…… あわてて録画を開始する。
淡々としたナレーションが、まずは印象的だ。ナレーターは、あの「龍馬伝」に登場し吉田東洋役で圧倒的な存在感を示した田中泯。「彼らにはとてつもない暴力性と純粋無垢な優しさが共に同居している。ヤノマミがアマゾンの深い森に住み始めたのは、およそ1万年前と考えられている」
見ていてまず思ったことは、大森望氏が上半身裸でランニング・パンツ一丁になったなら、彼らと区別はつかないのではないか?ということだ。失礼なことを言ってごめんなさい。大森さん。
それにしても、最初からショッキングな映像が満載だ。よくこのまま放送できたな。凄い!
集落の長老、偉大なるシャーマン「シャボリ・バタ」が語る彼らの死生観が印象的だ。
「人間も死ねば天に昇り精霊になる。地上の死は死ではない。魂は死なず精霊となる。精霊もやがて死ぬ。最後に男は、ハエやアリとなり地上に戻る。女は最後に、ノミやダニとなる。地上で生き、天で生き、虫となって消える。ナプも知らねばならない。誰もが同じ定めを生きる」(ナレーション)質問に答えてくれたのはこの一回きりだった。
(ナレーションつづき)ある満月の夜、女たちに呼ばれた。シャボノで女が産気づいていた。ヤノマミは妊娠や出産は精霊の力によると信じている。母親の胎内に宿った命も、人間ではなく精霊なのだと言う。(中略)女たちが森へ消える。産声が聞こえ、来てもいいという合図があった。地面に胎児がころがっている。だが、母親は抱き上げようとはしない。(中略)ずいぶんたってから、母親がバナナの葉を持ってくる。胎盤が包まれる。直後、母親は初めて子供を抱く。精霊だった子供を人間として迎え入れたことを意味した。
この村ではほとんどの夫婦が一夫一妻だが、男達は出産に一切係わらない。母親は人間として迎え入れた子供を生涯をかけて育てる。子育ては家族全員で助け合い、男は狩りの回数を増やす。精霊か人間か、この村では母親が決める。母親以外は、ただ受け入れる。翌日、森に胎盤がつり下げられた。痛みに強いたくましい子に育って欲しいという願いから、胎盤をアリに食べさせるという。ヤノマミが人間の最後の姿だというアリが、胎盤を食べる。(ナレーション終わり)
「このサイト」の解説がすばらしいです。
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