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2012年12月30日 (日)

『物語論 17人の創作者が語る物語が紡がれていく過程』木村俊介(講談社現代新書)に載っていた「是枝裕和」インタビュー

■先だって、買ってきたまま「積ん読」だった『この本』が僕を呼んだのだ。たぶん、そうに違いない。廊下に積み上げられた本の山の底のあたりで、ちょっとだけ背表紙が飛び出して自己主張していたんだ。

ん? と「本の山」が崩れないように、そうっと抜き取って見たら、緑色の帯に「是枝裕和」の文字を発見。おぉっ!

著者の木村俊介氏は、あの名著、斉須政雄『調理場という戦場』を聞き書きした、新進気鋭の若手インタビュアー。彼が「週刊文春」「小説現代」「小説トリッパー」「週刊モーニング」のために取材した、現在注目される17人のクリエーターへのインタビューをまとめたものだ。

面白いのは、漫画家のパート(荒木飛呂彦、うえやまとち、弘兼憲史、かわぐちかいじ)と、作家のパート(村上春樹、橋本治、伊坂幸太郎、島田雅彦、桜庭一樹、重松清、平野啓一郎)なのだが、そんな中に、映画監督「是枝裕和」氏のパートが入っていたのだ。


<以下、勝手に抜粋>

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「映画にしなきゃ、というのはやめようと思いました」是枝裕和/映画監督
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 映画監督の是枝裕和氏(1962年生まれ)は、『幻の光』『ワンダフルライフ』『ディスタンス』『誰も知らない』などで、ドキュメンタリーのように映画を製作する手法を開拓してきた。取材日は 2008年の5月8日。初出は「週刊文春」(文藝春秋)2008年6月5日号だった。


 大学生時代に、有楽町にあった映像カルチャーホールで、NHKの演出家をしていた佐々木昭一郎さんの作品を『四季・ユートピアノ』『川の流れはバイオリンの音』などいくつか観たんです。

 登場人物が語る言葉のひとつひとつがまるで詩のように美しくて、作品全体もドラマにもドキュメンタリーにもジャンル分けできないような映像で、衝撃的でした。こんなにも説明的ではないものがテレビとして成立しているんだ、と当時の日本映画よりも圧倒的に憧れたんです。

 それでテレビマンユニオンというテレビ製作会社に入ったけれど、当時の1980年代後半のテレビの周辺というのは表現の衰退と荒廃を感じることばかりで、正直しんどかったですね。現実の仕事で関わだるを得ないテレビと、自分が理想とするテレビとのギャップがかなり大きく、もがいていました。(中略)


 でも、ディレクターの仕事をやるようになったら、おもしろくなってきました。ディレクターとしての初仕事は高級官僚の夫を亡くした奥さんに取材したものでした。番組を作って、のちにそれを本にまとめる過程で、野田正彰さんの『喪の途上にて』(岩波書店)を読んだのがとても大きかった。
飛行機事故の遺族がどう癒されたり癒されなかったりするのかについてが、精神科医として付き添う視点から書かれ、喪の途上でも人は創造的であり得るし、喪の途上の姿というのは美しいと書いてあった。

「残された奥さんに話を聞かせてもらった時に僕が感じていたのは、たぶんこういうことだったんだ」と思いました。最初の取材でそうして人の陰影に美しさを感じたことは、その後の僕に影響を与えてはいるのでしょう。


 僕はよく「死を描く」と言われるけれど、実際には残された人のことを描き続けているんじゃないかと思うんです。いい本に出会って、そんなことを考えていた時期に、『もう一つの教育』というドキュメンタリーのために長野県の伊那小学校で子どもを取材していました。

 三年間、仕事の合間に東京から通って子どもたちを撮影していたんですが、学校で牛を育てて種付けをして乳搾りをしようというところで母牛が死産してしまったんです。

 みんなでワンワン泣いて、葬式もして。でも、乳牛って死産でも乳が出るんですね。その時書いた子どもたちの詩や作文を読ませてもらうと「悲しいけれど乳しぼる」とか、「悲しいけれど、牛乳は美味しい」とか、悲しみを経験したあとの文章には、明らかに以前とちがう複雑な屈折がありました。


 結果的にですが、僕はそういう脱皮の過程と言うか、喪を媒介にして人間が輝く姿に引き寄せられたのだろうと思います。

 映画を撮るきっかけは「宮本輝さんの『幻の光』を映画化するという話がある。あなたが官僚の自殺を追ったドキュメンタリーに通じるものがあるから、監督をやってみないか」と誘ってもらったからですね。

 さいわい評価もいただけて、予想外のいい着地ができたのですが、反省点はいくつかありました。当時単館映画は 7000万円から 8000万円ぐらいで作らなければ資金を回収することはむずかしいのに、何もわからないまま製作費を一億円使ってしまいましたし。

 それから、演出面では『非情城市』などの映画を撮ったホウ・シャオシェン(候孝賢)監督から「構図を事前に決めているだろう。役者の芝居を見る前に、なぜどこから撮るか決められるんだ? ドキュメンタリー出身なんだからわかるだろう」と鋭く指摘されたのが決定的でした。

 自身がなかったので、事前の設計図をなぞるような形で撮影に臨んでしまったことにあとになって気が付きました。ですから、再び映画監督をやれるという機会をいただいた時には、まず「映画にしなくちゃと思うのはもうやめよう」「自分はテレビの人間なのだから、テレビディレクターとしておもしろいものを撮影しよう」と思いました。

『物語論』木村俊介(講談社現代文庫)p65〜68。

2012年12月26日 (水)

『クイック・ジャパン』vol.105(最新号)太田出版 より、是枝裕和インタビュー

■ゴールデンボンバー特集の『クイック・ジャパン』最新号に、是枝裕和監督初の連続テレビドラマ『ゴーイングマイホーム』に関するインタビュー記事が載っていると、ツイッターで知って、早速「いなっせ」1F「BOOKS ニシザワ」に行って立ち読みしてきた。いや、ももクロには興味があるけど、ゴールデンボンバーはね、ちょっと。だからごめん、立ち読みで済ませたんだ。(追記:でも正確を期すべく、結局もう一度行って買ってきたのだ)


◆『ゴーイング マイ ホーム』最終回直前 是枝裕和(監督・脚本)インタビュー <テレビを支配する「わかりやすさ」への回答>


面白かったのは、このドラマに関する批判として「テレビドラマに映画的手法を持ち込んだ勘違い」という、ほんとよくある切り口を、「うん、そう言ってる人は映画のこともテレビのこともよくわかっていないと思いますけど(笑)。」と、あっさり一蹴していることだ。爽快ですらある。

カンヌ映画祭で賞を取った日本の有名映画監督が、ちょっとテレビで「連続ドラマ」撮ってみたけれどみごと惨敗。的レベルでの批判は、ほんと底が浅い。

そういうことを言う人たちは、是枝さんのことをほとんど全くなんにも理解していないんだと思った。是枝さんは元々が「テレビの人」で、映画を撮るようになったのは後の話だ。

■なんて偉そうなこと言ったぼくも、実は『幻の光』も『歩いても歩いても』も『空気少女』も見ていないのだが。


【ポイント】は……


1)企画、脚本、演出、編集をすべて是枝監督一人でやったこと。


ふつう、テレビの連ドラは脚本家は一人だが、演出家は別に複数いて、例えば、NHK朝の連続テレビ小説の場合、週ごとに変わる。是枝監督は言う。

「今の連ドラってシステムとしては完全に確立されちゃってるじゃないですか。もちろん中には面白い作品もありますけど、『これが連ドラだよ』っていうものの捉え方が、作ってる側も観てる側も固まっていて、とても窮屈になってるように見える。

だから、こうやって脚本と演出を一人が兼ねて全話やるというかたちでも連ドラが成立するんだって思ってもらえたら。テレビの捉え方が広がるんじゃないかなって。それは、テレビドラマで育ってきた自分にとって、チャレンジし甲斐があることだと思ったんですよね。」


2)テレビの分かりやすさについての疑問


「そういうことはドラマに関わらず、テレビでドキュメンタリーを作っていた25年前から、ずっと言われ続けてきたことなんですよ。『どうせテレビなんてみんなちゃんと観てないんだから、集中して観てなくてもわかるように作らなきゃダメだ』とか『番組の中で同じことを三回言え』とか。局のプロデューサーの中には、本当に平気で『視聴者はバカだから』って言う人がいるから。


どうして自分の関わっているメディアなのに、そのお客さんを軽蔑しながら作るんだろうと、そこにはずっと違和感があった。


今回、なるべくセリフの主語や固有名詞を省いていて、『あれ』や『これ』で済ませているんです。日常生活では、『お砂糖取って』じゃなくて『それ取って』っていうでしょ。そういう演出がもし暴力的に映るとしたら、それはむしろ、もう一方の『わかりやすくわかりやすく』っていうテレビの暴力性こそむしろ浮き彫りにしているだけだと思います。」


「うん。だから、今回はそれを全部出そうと思った。テンポがゆったりしているとも言われるけど、全然そんなつもりはないんだよね。確かに表面だけ観ていたらストーリーは『ゆるい』かもしれないけれど、言葉にならない感情だったり表情だったりを画面からすくい取ろうとしている人にとって、この作品って相当な情報量が入ってる作品だと思うよ。


それをすくい取ろうとしている人にとっては一話があっという間に終わるし、そうじゃない人はテンポが遅く感じる。」


3)3.11. 以後のドラマ作りについて


「企画自体がスタートしたのは3年前なんですけど、明確にそういうテーマへと向かっていく話にしようと思ったのは、やっぱり震災があってからですね。放射能という『目に見えないもの』もどこかでそのテーマと繋がっていったし、自分達がこれまで送ってきた生活の方向性とは違うものを一方に置いて、それを意識し始める人達の話にしようって思いも生まれてきた。


それは、同じような経験が自分の中にも大きくあったからで、そこを前面に押し出そうとは思ってなかったけれど、今のほとんどのテレビドラマがあたかも震災などなかったかのようにドラマを作り続けている状況は、やっぱり恥ずかしいことだと僕は思うから。ドキュメンタリーであれだけやってるのに、なぜドラマだけが震災の前と後とで変わらないのかっていうのは、考えるべきことだと思うんですよ。」


4)偶然テレビを見ていて、もの凄いものを見てしまったという「出会いの経験」を視聴者にしてほしかった。


「ただ、映画と違ってテレビってシステムとして偶発性を孕んでいるじゃないですか。映画の場合、観客が劇場に観に行くのは、面白そうだと思った作品だけですけど、テレビの場合は人々の日常の中で、突然始まったり、突然終わったりするものだから。

人が意図しないで出会ってしまうというチャンスがテレビにはあるから。そこが一番面白いと思うし、そんな出会いをこのドラマでしてくれた人が、今まで自分達が観てきたものだけがドラマじゃないんだなって思ってくれて、何か違うものに手を伸ばしてもらうきっかけになればいいと思ってます。」


「自分が10代の時、NHKで佐々木昭一郎(当時NHK所属、現在テレビマンユニオン所属の演出家)さんの『四季・ユートピアノ』という作品が放映されたんですね。音楽を主題にした、一般の人が出てくるドキュメンタリーともドラマとも呼べないような作品なんですけど、それをたまたま観た時に『これはなんだ!』ってすごく衝撃を受けたんです。

映画だと日常があって、劇場という非日常があって、また日常に戻るわけですけど、テレビって日常の中で突然、そういった異なる時間、異なる体験が訪れることがある。

自分の作品を佐々木さんと比べるのはおこがましいですけど、その時、これは作り手が自分の本当に観たいものを作っているんだってことが圧倒的な説得力で伝わってきたんです。僕は、今のテレビにもそういうものがあってもいいと思うんです。」(『クイック・ジャパン vol.105』太田出版 p177〜p182 より抜粋)


2012年12月23日 (日)

『ゴーイングマイホーム』第10話(最終回)感想の追補

■ゴンチチの「サントラ」を iTunes Store で購入した。槇原敬之「四葉のクローバー」もいっしょにダウンロードして最初と最後に入れ、CDに焼いて診療中にずっと流しているのだ。聞いていて、なんとも優しい気持ちになれる。


■最終話の感想の追補

「このサイト」を見ると、最終話のロケに夏八木勲さんが参加しているのだが、実際のオンエアーでは夏八木さんは登場しない。いや、顔は映らないが、最初のほうでヤスケンが焼香する場面の向こうに横たわっている遺体を実際に演じたのだろうか?

でも、この最終回に遺体になった夏八木さんの顔を撮さないのには、意味がある。大いにある。伊丹十三『お葬式』では撮していたし、棺桶の中の遺体から見た「棺桶を覗き込む遺族」のカットまであった。


遺影を吉行和子が急に変えたいというシーンが前にあって、札幌五輪、笠谷幸生の金メダルジャンプを真似る息子の膝を、しっかりと支えた父親の手の感触がありありと甦った阿部寛が、ふと父親の遺影に視線を移す場面がある。すると、遺影の夏八木勲が笑っているのだ。ここで父と息子が繋がる。この大切なシーンのために取っておいたんだね。きっと。


・ぼくは、サントリー「金麦」のCMで檀れい演じる「夫の帰りを待つ妻」が大嫌いなんだ。あんな奥さん、世の中に絶対いないよ。いるワケないよ。それこそアナクロ男のファンタジーだ。最近同じようなCMがまた出てきて鬱陶しい。「新キャベジンコーワS」の常盤貴子。もう、やめてくれと言いたい。ぜんぜんリアリティがないじゃないか。


でも、この最終話ラストシーンでの山口智子にはリアリティがある。それは、第1話から欠かすことなくずっと見続けてきた視聴者だけに共有することが許された「妻のやさしさ」であり「めしあがれ」なんだと思う。

感想のツイートを読んでいたら、連続ドラマじゃなくて「2時間ドラマ」くらいだったらよかったんじゃないか、という感想が散見されたが、それは違うと思う。

NHK朝ドラの傑作『ちりとてちん』『カーネーション』は最初からずっと見続けてきたけれど、放送終了後に作られた「総集編」は、なんだかぜんぜん味わいがなくてつまらなかったな。是枝監督がインタビューで言っているが、映画では不可能な「この長さ」が大事だったんだ。


■ジョン・バーミンガムの絵本に『おじいちゃん』という絵本があって、大好きなおじいちゃんがいつも座っていた椅子が、終わりのほうで空席のまま描かれているページがある。何も言わなくても、何も説明しなくても、絵本を見れば全てが理解できる。そういうものさ。


■あと、ぼくが子供だった頃の「ホームドラマ」ってさ、たいがい家族そろってごはん食べているシーンがあった。『時間ですよ』とか『寺内貫太郎一家』とか。あと、池内淳子の『女と味噌汁』とか。毎回、特にこれといった劇的展開なんてなかったなぁ。いっぱい笑って、最後に何となくしんみりする。いつもそんな感じだった。それで十分満足してたんだ。

そんなことも思い出したりした。

2012年12月20日 (木)

『ゴーイングマイホーム』第10話(最終回)

■ゴンチチの『ゴーイングマイホーム』サウンドトラックが、iTunes で発売になった。でも、2,000円かぁ。曲数は多いのだが、収録時間は短いんだよなぁ。だから、試聴だけでも大方聴けてしまったりするのだ。


う〜む、でも欲しいぞ! 聴きたいぞ! というワケで思い切って購入することに決めたのだが、なんか、パスワードが違うって言われてしまった。困ったな。


■ところで、『ゴーイングマイホーム』の最終回は実はリアルタイムで見ることができなかったのだ。火曜日の夜は、天竜町の「青龍」で「北原こどもクリニック」の忘年会だったからね。一次会だけで終わったのに、思いのほか盛り上がって家に帰ったら夜10時半をとうに過ぎていた。


で、ラストの10分間だけオンタイムで見たのだが、バーミックスを使った、カリフラワーと長ネギとジャガイモのスープ。仕上げに生クリームをかけて出来上がり。山口智子が「めしあがれ!」と言って、差し出したトレイに乗ったスープの美味しそうなことと言ったら!

一切れ浮かんだニンジンが「クーナの帽子」の形をしていて、そこに槇原敬之の『四葉のクローバー』が流れてエンド・ロールが始まったものだから、オイオイと次から次へと涙が止めどなく流れて来たのだった。
このドラマに、ずっと付き合ってこれて、ほんと、幸せだったなぁ。しみじみそう思ったよ。


■で、さっき録画を2回見終わったところなんだが、今にして思えば、この最終回が言いたいがための(1〜9話)だったんだなぁ。
第9話で、阿部寛が仕掛けたワナにかかったクーナ?を、ざるを押さえながら阿部寛が左手に触れたような感じのシーンが強調されていた。なんか、不自然だったんだ。

それから、夏八木勲が大きな口をあけて「大イビキ」で寝ているシーンも第9話にあったな。まるで、死期間近のチェイン・ストークス呼吸だった。


■そうして、阿部寛が通夜の夜にふと父親の棺を開けて、また口を開けてしまっている父親の口を閉じようと顎を「左手」で触った瞬間、すっかり忘れていた幼い頃の記憶が甦るのだ。このシーンで泣いた。阿部寛といっしょに泣いた。


是枝監督は、やっぱり小津安二郎を意識しているよね。父親の家でほとんどのシーンが撮られたこの最終話では、日本家屋の「ふすま」が実に上手く使われていたよ。あと、実家の玄関のドアが開いて閉まり、萌江ちゃんもまた、庭のフェンスの扉を開けて閉めていた。


■それから、このドラマは最初から「不可能なこと」にチャレンジしょうとしていたんじゃないかって思う。

映像では視覚しか刺激されないはずなのに、このドラマを見続けていて僕が刺激されたのは、飯島奈美が喚起した「味覚」であり「嗅覚」であり、クーナの囁きに耳をそばだてる「聴覚」だったりした、で、主人公が死んだ父親の顔のヒゲに触れた「触覚」の驚きを、視聴者も確かに感覚として追体験できた、そういう、視覚以外の人間が持つ感覚にあえて訴えようとしたんじゃないかな。


最終回のドラマは時系列にそって淡々と進む。お通夜、葬儀、火葬。東京では、まだ自宅で葬儀をするのだろうか? 伊那の田舎では、今はほとんど、平安閣か、JAのグレースに、藤沢造花など、それぞれの「葬儀社専用会場」が通夜から葬儀まで一切を仕切って、喪主とその家族はずいぶんと楽になったものだが。

■最近ぼくの礼服は、結婚式で着る機会が圧倒的に少ない。つい先だっても、叔父の葬儀と四十九日法要で着たばかり。ぼくも親戚もみな年をとったということか。


■一人の死者(夏八木勲)に対して、残された人々の頭の中に残る彼のイメージはそれぞれぜんぜん異なる。そういうことも、よくわかるドラマだったな。妻、息子、娘。雪だるまを作って持ってきた大地くんに、西田敏行、そして宮崎あおい。人は死んでも、後に残されたそれぞれの人々の心の中で、生き続けるのだ。

信濃境の駅に降り立ってタクシーを待つ宮崎あおいが、しみじみとした口調で西田敏行にこう言う。

「死んでもいなくなったりしないんだね」

うん、そこが一番大事だと思った。そうさ、死んでもいなくなったりしないんだよ。少なくとも「クーナ」の存在を信じることができる人には、分かってもらえると思う。


「死者」を忘れないこと。いい思い出ばかりじゃなく「後悔」だって、忘れちゃったらできないじゃないか。


「ただいま」
「おかえり」
「めしあがれ」


なんでもない日々の暮らしの中に、じつは「しあわせ」がそっと僕らに寄り添ってくれていたんだね。

2012年12月16日 (日)

『ゴーイングマイホーム』第9話。(つづき)

■特にどうってことない回なんだが、何故か気に入って録画を繰り返し見ている。深夜、みなが寝静まってからリビングの照明を落とし、ワインでもちびちびやりながら一人『ゴーイングマイホーム』第9話を見る。

最高に贅沢な時間だ。もう4回は見たな。


今回はお気に入りのシーンがいっぱいあるのだ。

1)「天竜みそ」の味噌蔵のシーン。ホンモノの店主がいい味だしてた。

2)「萬里」の店主(こちらは本物じゃなくて役者さん)が「料理の鉄人」
   の話をする場面。それにしても、山口智子が萬里に来たのか。

3)「クーナの森」の美しさ。ここはどうも富士見高原らしいな。

4)「クーナ研究家」錦織がワナを手に「骨折はするか…」という場面。

5) 山口智子と宮崎あおいが、楽しそうに見つめ合い「焼きおにぎり」
   を炭火で焼く場面での、手持ちカメラのアップ映像。

6) 堤看護師役の江口のり子さんがベニテングダケの帽子をかぶって
   微笑むシーン。彼女、第9話で初めて笑ったんじゃないか?

7) 吉行和子とYOUの母娘が、年賀状の相談をしている場面。
   異様に長廻しなのだが、ぜんぜん不自然さがないことが凄い。
   そこに横から登場するヤスケンが、これまたいい味だしてる
   んだ、これが。ドトールの持ち帰りコーヒーの一件、

   それから、欲しかった義父のゴルフセットを譲ってもらって
   車に積み込むシーンでの、YOUとの会話が可笑しい。


8) 宮崎あおいが森で「山の神さま」にお祈りするシーン。急に風が
   吹いて木葉がはらはらと舞う。その向こうに西田敏行の心配顔。

9) それからもちろん、阿部寛と阿部サダヲのやり取り。


いったいなんなんだろうなぁ。心が和むというか、見ていて、何ともあったかい優しい気持ちになれるのだ。そうして、いつまでも「このドラマの世界」にいっしょに居たいと思ってしまうんだな。だから、何度も何度も繰り返し見てしまうし、しかも飽きることがない。

その度に新たな発見もある。

そういう稀有なテレビドラマだと、ぼくは思っています。


「最初に書いた感想」でも言ったとおり、やはりこのドラマは「是枝版・東京物語」なんじゃないか。最終回の予告を見て、ますますその感を強めたのだった。

2012年12月12日 (水)

『ゴーイングマイホーム』第9話。ツイートのまとめ

■ゴンチチがマッキーのテーマ曲をインストロメンタルで弾くのは今夜が初めてなんじゃないか?『ゴーイングマイホーム』。



■「いいか、世界は目に見えるものだけで出来ているんじゃないんだ」


 でも、クーナの阿部サダヲは言う。

「悪意とか失望とか……。目に見えないものには、もっと怖いものもたくさんあると思うよ。ちゃんと怖がらないとな。」

 これは意味深な言葉だなぁ。



『「ことば」は「おかあさん」からもらいます。みなさんが、おかあさんからもらった一番大切なものは「いのち」です。これは厳然たる事実です。それと同時に「いのちの器」である「からだ」をもらいました。そして、この「いのちを支えている」のが「ことば」なのです。』松居直氏は語る --- (2002年11月、辰野町図書館での講演より)(その1)


『今の子どもたちは、常に騒音の中に曝されていて、沈黙するということができません。沈黙・静寂がないと「ことば」は貧しくなります。「ことば」を失うこと=人間性を失うこと。その結果、子どもたちは「暴力」に訴えるようになるのです。電子メディア時代における人間性の崩壊ということを、
私はとても危惧しています。』 松居直氏は語る(その2)


『しかも、「ことば」というものは本質的に「目に見えないもの」なのです。人間にとって大切なものはみな、目に見えない。これは「星の王子さま」の口癖ですね。ことば・時間・こころ・しあわせ・愛・かなしみ……みんな「目には見えない」』 松居直氏は語る(その3)



■ただ、「目に見えないもの」がみな、人間が生きてゆくのに大切なものばかりじゃないことを、ぼくはすっかり忘れていたよ。悪意、ねたみ、そねみ、憎しみ。そうして、放射能。『ゴーイングマイホーム』



■「カーディガンを着た人に悪い人間はいない」と言ったのは宮沢章夫氏だが、イギリス貴族だったカーディガン氏はとんでもない悪人だったらしい。『考える人』宮沢章夫(新潮文庫)でも、夏八木勲が着ている朱色のカーディガンはオシャレだ。『ゴーイングマイホーム』。


続き)宮沢章夫氏のカーディガンの話は、『牛への道』(新潮文庫)p132
「カーディガンを着る悪党はいない」と、『考えない人』(新潮文庫)p289「プログレッシブ人生・まる2」に載ってます。「考える人」に連載されている『考えない人』の誤りでした。ごめんなさい。



■本来「目に見えないもの」であったはずの人間の「悪意」や「ねたみ・そねみ」が、ツイッターの「つぶやき」として「目に見えるもの」となってしまったことは、ある意味ほんとうに不幸なことだと思う。『ゴーイングマイホーム』



■「ずいぶん死んだんだなぁ……。すまない!」って、西田敏行は言う。福島県出身の人だからね。竜胆って書いて「りんどう」と読む。なんか中国語みたいだよね、竜胆。クーナのお墓には、リンドウが手向けられるのだ。ダムができたために、原発ができたために、クーナは予想外に死んでしまったんだ。

2012年12月 7日 (金)

是枝裕和監督の『ワンダフルライフ』と『ゴーイングマイホーム』

■『ゴーイングマイホーム』(第8話)に関してのツイート。


いやぁ、号泣しながら笑ってしまったよ『ゴーイングマイホーム』。番組ラストの西田敏行と宮崎あおい父娘のやり取り。それから、常田富士男が、亡き妻の石膏で象られた上顎歯形を愛おしそうに指で優しく撫でるシーンにも泣いた。でも今回は何と言っても宮崎あおいだな。高遠町役場屋上で掌を太陽にかざす顔のアップとか。


続き)つれない元夫との別れ際に、さっと振り返って「横向きアップ」になった時の涙腺決壊寸前で魅せる眼力の強さ。しみじみすっごい女優だなぁ。

ところで、加瀬亮が働く牛舎。てっきり富士見町あたりで撮影されたとばかり思っていたのだが、なんと高遠なのか。高遠町下山田にある竹内牧場とのことです。


■ぼくが初めて見た、是枝裕和監督の映画は『ワンダフルライフ』だった。映画館で見た記憶がないから、レンタルビデオで見たのか? どうして借りて見ようって思ったのか、まったく記憶にない。


でも、圧倒されたのだ。この映画に。どこか都内の取り壊しが近い古いコンクリート造りの研究施設が舞台だった。季節は冬。ちょうど今朝のように、宮沢賢治の『永訣の朝』みたいな「みぞれ混じりの雪」が施設屋上に積もっていたように思う。


いまで言えば「北野ブルー」の冷たい冬の色調で統一された静かな画面。


たったいま死んだばかりの人たちが「この施設」に集まってくる。施設職員は、彼らから1週間かけて「生前の一番大切な思い出」を聞き出し、最終日にその場面を再現して「記念写真」を撮るのだ。



今にして思えば、是枝監督が追い求めてきたテーマは一貫しているのだね。つまりは、「死者に対する敬意」だ。だからこそ、あの 3.11. を経験して、テレビドラマ『ゴーングマイホーム』が作られたに違いない。


「クーナ」は、生者が忘れられない「愛しい死者」に引き合わせてくれる存在なのだから。



■つい最近、このTVドラマとは全く関係なく、映画『ワンダフルライフ』の1シーンが鮮明に甦った。ちょうど、本を読んでいたんだ。『なんらかの事情』岸本佐知子(筑摩書房)p42 『上映』だ。


 死ぬ間際には、それまでの人生の思い出が走馬灯のように目の前に立ち現れるとよく言われる。

 その走馬灯の準備を、そろそろしておいたほうがいいのではないかと最近思うようになった。

 死ぬ時はたぶん苦しい。どこかが痛いかもしれないし呼吸もできないかもしれない。血とか内臓とかが出ていたりするかもしれない。だったらせめて目の前で上映されるシーンくらいは、楽しいものや愉快なもの、ドラマチックなものだけで構成されていてほしい。そのほうが気がまぎれるし、いい人生だったなあと思いながら死ぬことができようというものだ。


岸本エッセイでは、いつものようにこの後どんどん脱線してゆき、とんでもない着地点に降り立つことになるのだが、それはまた別のはなし。



■その次に見た是枝作品は『誰も知らない』。これは「伊那旭座」で見た。休診にしている水曜日の午後だった(2004年12月16日、18日の日記参照)

この映画も沁みたなぁ。育児放棄の YOUに無性に腹が立ち、長男として必死に妹弟たちを守ろうとする設楽君に涙した。



「伊那旭座」といえば、つい最近、あの「スキマスイッチ」が新曲のPVを伊那で撮っていて、旭座、錦町新地、西箕輪公民館でロケされたらしい。

2012年12月 1日 (土)

ゴーイングマイホーム(第5話、第6話、第7話)ツイートのまとめ

【第7話 に関して】


『ゴーイングマイホーム』今週のツボは、萌江ちゃんが「ふすま」を開けると、向こうにおじいちゃんが見えるシーン。これ、やっぱり先週から続く伏線だったんだね。戸を開けて閉めての繰り返し。今週はもろ、ジョン・フォードでした。


あと、山の上の高圧送電線と、ひこうき雲。あれは高遠だな。五郎山か? 小牧空港もセントレアも、名古屋着の東方面からの国内便は、必ず高遠上空を飛ぶのだ。以前、仙台空港から小牧まで乗った時、真下に美和ダムが見えて興奮した。


阿部寛が実家の2階の自分の部屋で「GORO」だか「写真時代」だか、昔のグラビア雑誌を見ていたな。そして、階段を昇りきった所に設置された「乳
幼児の転落防止柵」を開け閉めするシーンで、ちょっとジーンときた。

『ゴーイングマイホーム』昨日の録画を見直してたら、昨夜のぼくのツイートは間違ってましたね。ごめんなさい。阿部寛が実家2階の自分の部屋で見ていたのは斉藤由貴の写真集。壁にもピナップが貼ってあった。ぼくは持ってないけれど、是枝監督自身が所持する写真集なんだって。でも、斉藤由貴のベストCDは僕も持ってる。今でも。「卒業」とか、むかし結構好きだったなぁ。


あと、あの2階の階段手前にあったのは、乳幼児転落防止柵じゃなくて、小さな納戸の壊れた扉でした。ごめんなさい。でも、防止柵を取り付けた跡はあったか?



■『ゴーイングマイホーム』。ずっと思ってるんだけど、このドラマ、映画館のスクリーンで見たい。1か所でいいから、6つスクリーンがあるどこかのシネコンで、それぞれ2話ずつ繰り返し映写するってのはどうだろう? 入館料は同一で、その気になれば1日で全10話みんな見ることができるのだ。



あれだけ仲の良さそうな、YOUとヤスケンの夫婦。昨日のYOUの表情を見ていると、どうもいろいろと悩みを抱えているみたいだ。そうか、大変なんだ。いろいろと。あと、車中からの移動撮影で、ちょうど高遠大橋を渡りながらカメラが「ヤマウラ高遠支所」の屋根の向こうに月蔵山の紅葉を捕らえたシーンが本当にキレイだった。


宮崎あおいが、高遠町相生町の角を曲がって多町の坂を自転車で降ってくるシーンが印象的だった。郵便ポスト前に止めてあった松本ナンバーの軽自動車の下から猫が出てくるのだ。是枝監督も、さすがに猫には演出できないはずだか、監督の期待通りの演技を猫がしていたな。


【第6話】


クーナ事務局の本棚に「ハリー・ポッター」の原書が並んでいたよ。『ゴー
イングマイホーム』


高遠町役場4階のあの会議室、知ってる。今年の「高遠ブックフェス準備会議」が行われた場所だ。ワサブローさんのコンサートを宣伝するために、僕も参加したのです。それにしても、螢雪次朗さんが高遠に来てたとは! 昔いっぱい見たよぉ、滝田洋二郎監督のピンク映画に主演してたよね。懐かしいなぁ。


高遠町下山田の雑貨屋「栄喜屋商店」のオバサン役で、クーナ一家のおばあちゃん役を演じているのは、「劇団青い鳥」の芹川藍さん。宮崎あおいの母親「久美」の写真は、同じく「劇団青い鳥」の天光眞弓さん

それから、廃校になった小学校を案内する元校長先生。『友だちのうちはどこ?』で一躍世界的名声を得たイランの映画監督アッバス・キアロスタミが日本で撮った『ライク・サムワン・イン・ラブ』に主演した、奥野匡。渋い人たちが何気なく出ているなぁ。



あぁそうか。生きていると、いろんな関係の中で同時にいろんな役割を果たさなきゃならないんだよね。人間て。夫婦とか、母娘とか、父娘とか、いろいろとね。なんか、今日の山口智子と娘「萌江」との関係が修復されつつあるみたい。そうか、料理だって「見えないもの」こそが主役なのか。


【第5話に関して】


クルマ、福島ナンバーだ。そうか、宮崎あおい親子が住む市営住宅にいた東北弁の若い夫婦、福島から長野へ避難してきていたんだね。ゴーイングマイホーム、見てる。


あの福島の若夫婦が車で去った後の町営住宅。同じカメラアングルなのに、なんかものすごい空虚感。あ、これ、映画『秋刀魚の味』で、岩下志麻が嫁に行った後の笠智衆の家の2階の鏡台を撮したカットと続く階段のカットの感じと似てる。


阿部寛の娘、萌江(蒔田彩珠)が長野から持ち帰ってしまった「クーナ像」にフェイドインしてまた、フェイドアウトした場面。それから萌江の横顔に当たる光線の加減。ほんとキレイだった。ビクトル・エリセ『ミツバチのささやき』を思い出した。


「でも、思い出されないよりはマシだよね」って、山口智子の母親「りりィ」が言う。「そうだよねぇ」と娘。そう、忘れないことが「死者」に対する一番の供養さ。「死んだ女よりもっと哀れなのは、忘れられた女です」(マリー・ローランサン『鎮静剤』堀口大学・訳)を思い出した。


今さらだけれど、萌江ちゃんが子供部屋となりのクローゼットのドアを開け閉めすることで「クーナ像」がフェイドインして、それから、暗転フェイドアウトするんだね。


吉行和子が「さくらホテル」からお友達の「モーニングさん」に電話しながら食べている饅頭。あれはやっぱり高遠饅頭だな。亀まんじゃぁなくて。で
も、あんな「白い包み」には入ってないけれど。



宮崎あおい親子が住む町営住宅。どうしても場所が何処だか判らないのだが、辰野じゃぁないな。あの後ろの山は、杖突峠から有賀峠にかけての山並みに似ている。ていうことは、諏訪市湖南あたりなのか?




『ゴーイングマイホーム』第5話での娘、萌江は、ただひたすらドアを開けて閉める動作を繰り返していることに、いま気が付いた。教室のドアを開けて閉める。礼拝堂のドアを開けて閉める。倉庫のドアを開けて閉める。再び教室のドアを開けて閉める。自宅子供部屋のクローゼットの戸を開けて閉める。で、


主人公の少女が「引き戸」を右へ開けて外の明かりが眩しく目がくらむシーンと言えば、斉藤耕一監督『旅の重さ』の高橋洋子。ジョン・フォード『捜索者』もね。僕にとっての「でんぐり返し」は森光子じゃぁなくて、神代辰
巳監督『宵待草』の高橋洋子だよな。


映画『捜索者』の冒頭シーンとラストシーン。動画を探したらようやく見つかった。

『旅の重さ』はこれ。


2012年11月23日 (金)

ゴーイングマイホーム(その3)

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■それにしても「ラーメンサラダ」なる食べ物が北海道にあるとは知らなんだ。いや、フジTV、火曜日よる10時『ゴーイングマイホーム』(第6話)のはなし。


宮崎あおいが、彼女と息子が暮らす町営住宅で阿部寛にご馳走するのが、この「ラーメンサラダ」。とにかく、このドラマに登場する料理は、どれもこれも旨そうで見ていて堪らなくなるな。


それもそのはず、山口智子が演じる、売れっ子「フードスタイリスト」のモデルになっているのが、実はこの飯島奈美さんで、彼女自身が「このドラマ」のフードスタイリストなのだった。そう、あのフィンランド・オールロケの映画『かもめ食堂』や『南極料理人』の料理を手がけた人ね。


イトイさんの「ほぼ日」で、初めて彼女のレシピが載ったのは、たしか「おとうさんの、ナポリタン」だったよな。これ、自分で作ってみたんだ。そしたらね、本当に美味しかったんだよ。たまげたね。

以来すっかり飯島さんのファンで、本もこのとおり4冊ある。


第6話で、確か山口智子が「焼きみそ」とか何とか言ってたような気がしたが、もしかして 10月24日の午後、伊那市上牧の「天竜みそ」でロケしていた話につながるのかな? 

当日、我が家の長男がそのロケ情報を仕入れてきて、夕方上牧の「元・セブンイレブン」まで行ったのだけれど、すでにロケ隊は撤収したあとだったとのこと。残念。


■ところで、このドラマの「ロケハン」をコーディネートしたのが、「伊那谷フイルムコミッション」と「諏訪圏フィルムコミッション」だ。


伊那・高遠・辰野だけでなく、諏訪・富士見でも重要なシーンがたくさん撮影されていて、そのロケ地に関しては「富士見高原ペンション・ラクーン」さんの報告が詳しいです。

ぼくも富士見には3年間住んでいたけれど、稗の底(稗之底)自然探索路 東出口湧水地」は知らなかったなぁ。すぐ近くまでは何度も行ってるのにね。

2012年11月 9日 (金)

『ゴーイングマイホーム』(つづき)

■今週火曜日の『ゴーイングマイホーム』(第4話)は、面白かったなぁ。

毎週見ているうちに、あの映像のリズムとテンポに身体がすっかり慣れてきたんだね。ゆったりとした流れに身を委ねる感じ。温泉の露天風呂に浸かった時の心地よさとでも言うか。


ちょうど、NHKBSで毎朝7時半から見ている、予想もつかない不穏な展開の『純と愛』が終わって、7:45から自転車に乗った火野正平が画面に映った時の「ほっ」となごむ、何とも言えない安堵感に似てるかな。

この番組、以前は視聴者の葉書に書かれたゴールに到着してから、その風景をバックに火野正平さんがもう一度葉書を読む構成だったのだが、最近は、AM 7:59 過ぎてもゴールに着くかどうかぎりぎりの状況で終わってしまう。

つまり、視聴者も制作サイドも、火野正平がゴールしたシーンを見るのは既に飽きていて、むしろ、極度の高所恐怖症の彼が、はたして瀬戸大橋を渡ることができるのか? っていうハラハラドキドキや、峠にさしかかる急な登り坂の途中で、火野正平が今にもギブアップする場面が見たいのだ。残酷なものだね。

それから、昼食と休憩の時間が好きだ。毎回タバコを吸うのは嫌だが、香川県での昼飯のシーンは良かった。讃岐うどんの製麺所。また行きたいなぁ、讃岐うどんツアー。


■おっと、話を戻そう。『ゴーイングマイホーム』第4話では、初っ端に「クーナ家族」が登場した。「風な? 的な? よぅ、よぅ、ラップ的な?」あはは! いいな、いいよ!阿部サダヲ。何気に、常田富士男さんや、双子の姉妹。それに看護師役だった江口のり子さん、中村靖日さんに、山中崇さんもいる。そうして、阿部寛の父親も目を醒まし、物語はようやく動き始めた。

あと、期待のヤスケン(安田顕)が再登場して、本当に期待通りの芝居を見せてくれていた。義父を見舞いに来た山口智子が差し出した「おみやげ」を受け取り、しきりと袋の中を確認している。中身を開けたくて仕方ないのだ。でもガマンしている。別のシーンでは、ヒマに任せて義母が持ってきた本『俳句歳時記』をしみじみ眺めながら「ソバガキもか。うんうん」って言うシーンが変。「さくらホテル」でのマッサージの場面(カメラはベッド上の夫婦を真後ろから捕らえていて、これまた画像が変。)がまたでて、この夫婦、毎晩夫がマッサージするのが日課なんだね。


それから、CMが終わっても暗転したままの画面(音は少し聞こえる)に「あれ?」っと不安になるのだが、程なくしてスッと明るくなり、電車に乗った山口智子が映る。あ、トンネル抜けたんだ。このシーンが好き。

この回の看護師「江口のり子」さんもよかったな。「わたし、いま、悲しいんです」。


今回のポイントは、「最初は『た!』」のシーンだな。録画した映像を何度も再生してはその度に笑ってしまう。あれはホント可笑しい。

そして、目を醒ました父親と阿部寛との会話。

 父「ほら、何だったかな。古事記の……」
 子「あ、スクナヒコナ。」
 父「あぁ、それだ。オオクニヌシノミコトを助けるんだ。」
 父「あいつらは、死んでる奴と生きてる奴をつないでくれる。だから……   死んだ人に会いたくなった時に……」
 子「会いたい人がいるの?」
 父「でも、あいつら警戒心が強いからな。めったなことでは見つからな    い…… でも、いるんだ。」

 父「いいか、世界は目にみえるものだけで出来てるんじゃないんだ。」


ただ今回は、飯島奈美さんの美味しそうな料理が登場しなかったことが残念。山口智子はキッチンでゴボウを削って、茹で上がった「うどん?」をザルに上げるシーンまでは出てくるのだが。なに作ってんだろう?


西田敏行が「クーナの森」で食べる「カップ焼きそば」が、なぜか美味そうだった。(つづく)

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