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2012年12月30日 (日)

『物語論 17人の創作者が語る物語が紡がれていく過程』木村俊介(講談社現代新書)に載っていた「是枝裕和」インタビュー

■先だって、買ってきたまま「積ん読」だった『この本』が僕を呼んだのだ。たぶん、そうに違いない。廊下に積み上げられた本の山の底のあたりで、ちょっとだけ背表紙が飛び出して自己主張していたんだ。

ん? と「本の山」が崩れないように、そうっと抜き取って見たら、緑色の帯に「是枝裕和」の文字を発見。おぉっ!

著者の木村俊介氏は、あの名著、斉須政雄『調理場という戦場』を聞き書きした、新進気鋭の若手インタビュアー。彼が「週刊文春」「小説現代」「小説トリッパー」「週刊モーニング」のために取材した、現在注目される17人のクリエーターへのインタビューをまとめたものだ。

面白いのは、漫画家のパート(荒木飛呂彦、うえやまとち、弘兼憲史、かわぐちかいじ)と、作家のパート(村上春樹、橋本治、伊坂幸太郎、島田雅彦、桜庭一樹、重松清、平野啓一郎)なのだが、そんな中に、映画監督「是枝裕和」氏のパートが入っていたのだ。


<以下、勝手に抜粋>

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「映画にしなきゃ、というのはやめようと思いました」是枝裕和/映画監督
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 映画監督の是枝裕和氏(1962年生まれ)は、『幻の光』『ワンダフルライフ』『ディスタンス』『誰も知らない』などで、ドキュメンタリーのように映画を製作する手法を開拓してきた。取材日は 2008年の5月8日。初出は「週刊文春」(文藝春秋)2008年6月5日号だった。


 大学生時代に、有楽町にあった映像カルチャーホールで、NHKの演出家をしていた佐々木昭一郎さんの作品を『四季・ユートピアノ』『川の流れはバイオリンの音』などいくつか観たんです。

 登場人物が語る言葉のひとつひとつがまるで詩のように美しくて、作品全体もドラマにもドキュメンタリーにもジャンル分けできないような映像で、衝撃的でした。こんなにも説明的ではないものがテレビとして成立しているんだ、と当時の日本映画よりも圧倒的に憧れたんです。

 それでテレビマンユニオンというテレビ製作会社に入ったけれど、当時の1980年代後半のテレビの周辺というのは表現の衰退と荒廃を感じることばかりで、正直しんどかったですね。現実の仕事で関わだるを得ないテレビと、自分が理想とするテレビとのギャップがかなり大きく、もがいていました。(中略)


 でも、ディレクターの仕事をやるようになったら、おもしろくなってきました。ディレクターとしての初仕事は高級官僚の夫を亡くした奥さんに取材したものでした。番組を作って、のちにそれを本にまとめる過程で、野田正彰さんの『喪の途上にて』(岩波書店)を読んだのがとても大きかった。
飛行機事故の遺族がどう癒されたり癒されなかったりするのかについてが、精神科医として付き添う視点から書かれ、喪の途上でも人は創造的であり得るし、喪の途上の姿というのは美しいと書いてあった。

「残された奥さんに話を聞かせてもらった時に僕が感じていたのは、たぶんこういうことだったんだ」と思いました。最初の取材でそうして人の陰影に美しさを感じたことは、その後の僕に影響を与えてはいるのでしょう。


 僕はよく「死を描く」と言われるけれど、実際には残された人のことを描き続けているんじゃないかと思うんです。いい本に出会って、そんなことを考えていた時期に、『もう一つの教育』というドキュメンタリーのために長野県の伊那小学校で子どもを取材していました。

 三年間、仕事の合間に東京から通って子どもたちを撮影していたんですが、学校で牛を育てて種付けをして乳搾りをしようというところで母牛が死産してしまったんです。

 みんなでワンワン泣いて、葬式もして。でも、乳牛って死産でも乳が出るんですね。その時書いた子どもたちの詩や作文を読ませてもらうと「悲しいけれど乳しぼる」とか、「悲しいけれど、牛乳は美味しい」とか、悲しみを経験したあとの文章には、明らかに以前とちがう複雑な屈折がありました。


 結果的にですが、僕はそういう脱皮の過程と言うか、喪を媒介にして人間が輝く姿に引き寄せられたのだろうと思います。

 映画を撮るきっかけは「宮本輝さんの『幻の光』を映画化するという話がある。あなたが官僚の自殺を追ったドキュメンタリーに通じるものがあるから、監督をやってみないか」と誘ってもらったからですね。

 さいわい評価もいただけて、予想外のいい着地ができたのですが、反省点はいくつかありました。当時単館映画は 7000万円から 8000万円ぐらいで作らなければ資金を回収することはむずかしいのに、何もわからないまま製作費を一億円使ってしまいましたし。

 それから、演出面では『非情城市』などの映画を撮ったホウ・シャオシェン(候孝賢)監督から「構図を事前に決めているだろう。役者の芝居を見る前に、なぜどこから撮るか決められるんだ? ドキュメンタリー出身なんだからわかるだろう」と鋭く指摘されたのが決定的でした。

 自身がなかったので、事前の設計図をなぞるような形で撮影に臨んでしまったことにあとになって気が付きました。ですから、再び映画監督をやれるという機会をいただいた時には、まず「映画にしなくちゃと思うのはもうやめよう」「自分はテレビの人間なのだから、テレビディレクターとしておもしろいものを撮影しよう」と思いました。

『物語論』木村俊介(講談社現代文庫)p65〜68。

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