« 2011年9月 | メイン | 2011年11月 »

2011年10月

2011年10月30日 (日)

伊那のパパズ絵本ライヴ(その84)箕輪町上古田保育園

■今日は、箕輪町上古田保育園の父親参観での「伊那のパパズ絵本ライヴ」。

上古田地区は天竜川から見て西の端に位置し、中央アルプス山麓に広がる「赤そばの里」で有名なところだ。午前10時現地集合ということだったので、ぼくはちょいと早めに家を出た。車に荷物を積んでエンジンをかけ、ナビに「箕輪町おごち保育園」を登録。


あれ? 実はすっかり勘違いしていて、今日行くのは「おごち保育園」だと勝手に思い込んでいたのだ。同じ箕輪町にある保育園だが、場所は天竜川を挟んで東と西で極端に離れている。


午前10時前、ゴールのずいぶん手前で「目的地周辺です。気をつけて御走行下さい」とナビが言ったきり黙ってしまったので、結局は道を何回か間違えたすえ、ようやく「おごち保育園」に到着。でも、やけに静かだ。車が一台も停まっていないぞ。なんか変だな? あれ?? そこで初めて会場を間違えたことを理解した。

ときどき、こうゆう間違いをやらかすんだよなぁ、俺。


あわててUターンし坂を下って天竜川を渡り、今度はずんずん坂を上って山際まで。開演10分前になって上古田保育園に到着。よかった間に合った。ふぅ、あぶないあぶない。


<本日のメニュー>

1)『はじめまして』(すずき出版)

2)『くだものなんだ』きうちかつ(福音館書店) → 伊東
3)『ラーメンちゃん』長谷川義史(絵本館) → 北原
4)『わがはいはのっぺらぼう』富安陽子・文、 飯野和好・絵(童心社) → 坂本(〜のであーる。が楽しい!)

5)『かごからとびだした』(アリス館)

6)『ながいいぬのかいかた』 矢玉四郎(ポプラ社) → 宮脇
7)『山んばあさんむじな』いとうじゅんいち(徳間書店) → 倉科(逆に小さめの声で読む倉科さんに、子供たちは身を乗り出してずんずん集中して行ったんで驚いたぞ)


8)『ふうせん』(アリス館)
9)『世界中のこどもたちが』(ポプラ社)


おとうさんたちへの刺激になってくれたかな。だったらいいな。

2011年10月24日 (月)

アラン・シリトー『漁船の絵』を読んだ

■『長距離走者の孤独』アラン・シリトー著、丸谷才一・河野一郎訳(集英社文庫)を読んでいる。昨日は「アーネストおじさん」を読んだ。哀しいはなしだ。


第一次世界大戦に出征して、その時の体験のPTSDをずっと引きずったまま、何の生きる目的も希望もない中年男アーネスト。妻は呆れて家を出て行き、兄弟親戚からも見捨てられた孤独で淋しい男だ。ある日のカフェで遅い朝食をとっていた彼の席に、二人の幼い姉妹が同席する。無邪気を装ったしたたかなガキども。でも彼には自分の娘のような、生きる希望の天使に見えてしまったのだな。でも、現実はあまりに残酷だった……


「アーネストおじさん」というと、ぼくは即座に、ベルギーの絵本作家ガブリエル・バンサンの代表作「くまのアーネストおじさんとネズミのセレスティーヌ」のシリーズを思い浮かべてしまう。孤独な中年男のアーネストに拾われた、おてんば少女ねずみのセレスティーヌ。この二人が慎ましく生活する物語だ。もしかして、ガブリエル・バンサンはシリトーの「アーネストおじさん」を読んでいて、あまりに不憫に感じて「くまのアーネストおじさん」のシリーズを作ったのではないか? ふと、そう思った。

まんざら外れてはいないんじゃないか。


■さて、野呂邦暢氏が絶賛していた『漁船の絵』のこと。


先に読んだ「長距離走者の孤独」とはずいぶんと文章のタッチ、スピード感が違っていてまずは驚いた。先だってのロンドン暴動を彷彿とさせる、まだ10代の怒れる青年の語りと、50過ぎのしがない中年男の回想録では、おのずと文章は異なってくるものか。


以下、先日の僕のツイート。


●『長距離走者の孤独』アラン・シリトー著、丸谷才一・河野一郎訳(集英社文庫)より、ようやく「漁船の絵」を読了した。これ、凄いぞ! わずか32ページの短篇なのに、情けなくやるせない、不器用でもどかしい、その場の空気を読むこともすっかり忘れてしまって、ダメダメな展開に陥った元夫婦の物語(10月23日)


●なんかね、身につまされるんだ。『漁船の絵』。例えばこんな記述。

「ふーん」と、おれはいった。気持ちを隠したいときには、いつも「ふーん」というのだ。でも、これは安全な言葉だ。「ふーん」というときは、いつだって、もう他の言葉は出てこないからな。(129ページ)


●(続き)それにしても、この主人公の郵便配達夫。切なすぎるぞ。バカだ。お前!

「でも、真夜中に、寂しくってやりきれないときでも、自分のことはちょっぴり、キャスパー(元女房)のことはたっぷり、おれは考えた。おれが苦しんだよりもずっとひどい苦しみ方をあいつはしたんだ、ということが判った」(137ページ)

■以下、本文より少しずつ抜粋。


 二十八年間、郵便配達をしてきた。(中略)結婚したのも二十八年前だ。(中略)おれといっしょに暮らして、あいつは最初からしあわせじゃなかった。それに、おれだってそうだった。あいつの知ってる人がみんな ----- たいていは家族の者だ ----- 何べんも、おれたちの結婚は五分間しかつづかないといった(中略)


 でも、おれたちの結婚は、みんなが予言した五分間よりはつづいた。六年間つづいたんだ。おれが三十、むこうが三十四の年に、あいつは出て行った。(中略)


 あいつがかけおちしたペンキ屋というのは、テラスの向こうにある家に住んでいたのだ。(中略)近所の連中は、一年くらい前から二人があやしかったという話しを、おれに聞かせたくてたまらない様子だった ----- もちろん、かけおちが終わってからだ。あいつらがどこへ逃げたのか、誰ひとり知らなかった。たぶん、おれが追いかけてゆくと思ってたんだろう。でも、そんな考えは一ぺんだって思いつかなかったな。だって、どうすりゃあいいんだ。男をぶん殴って、キャスティーを、髪をつかんで引きずって来るか。やなこった。


 こんなふうに、生活ががらりと変わっても、いっこうに平気だったなんて書けば、そりゃぁもちろん嘘になる。六年間も同じ家に暮らした女なら、たとえどんなに喧嘩ばかりしていたって、やはり、いなくなれば寂しい。それに ----- おれたち二人には、やはり楽しいときもあったんだし。(中略)

 慣れてみると、こういう暮らしもまんざらじゃなかった。ちょっぴり寂しかったが、すくなくとも落ちつけたし、まあ、なんとなく月日がたった。(中略)


 十年間、こんな具合さ。あとで知ったことだが、キャスティーはペンキ屋といっしょにレスターに住んでたのだそうだ。それからノッティンガムに戻ってきた。ある金曜日の晩 ------ 給料日だから金曜日だ ------ おれを訪ねてきた。つまりこれはあいつのとって、いちばんいい時間だったわけさ。(中略)


 あいつは戦争中、毎週木曜日の晩に、だいたい同じ時間にやって来た。天気の話や、戦争の話や、あいつの仕事やおれの仕事のこと、つまりあまり大事じゃないことを、おれたちはすこしばかりしゃべった。おれたちはしょっちゅう、部屋のなかの離ればなれの位置から炉の火を眺めながら、長いあいだ椅子に腰かけていた。(中略)


 あいつはいつも同じ茶いろのオーバーを着ていたが、それがぐんぐんみすぼらしくなっていった。そして帰るときにはいつも、きまって、二シリングか三シリング借りていった。(中略)あいつを助けてやれるのは嬉しかった。それに、他に誰ひとり助けてやる人はいないんだからな、と自分で自分にいいきかせたものだ。住所を訊いたことなんか一度もなかった。もっとも、あいつのほうで一ぺんか二へん、今でもスニーントンのほうにいるような話をしたことはあった。(中略)


 やって来ると、あいつはきまって、サイドボードの上の壁にかかってる、あの艦隊の生き残りの漁船の絵を、ときどき、ちらっちっらっと見た。そして、何度も、とてもきれいだと思うとか、ぜったい手放しちゃいけないとか、日の出や船や女が実に真に迫っている、とかいい、すこし間を置いてから必ず、自分のものにして持っていたらどんなに嬉しいだろう、と謎をかけたけれど、それをすればけっきょく、質屋ゆきになることが判っていたから、おれは何もいわなかった。(中略)


 しかしとうとう最後に、はっきり、絵がほしいと切り出したし、それほど熱心なら、断る理由はべつになかったのだ。あいつがはじめてやってきた六年前のときのように、おれは埃をはらい、何枚かのハトロン紙に丁寧に包み、郵便局の紐でゆわえて、くれてやった。(中略)


 たいていの奴は、おれに判りはじめたことが判っちゃいねえ。それにしても、判ったってどうしようもないころになって、やっと判るなんて、おれはひどく恥ずかしい。(中略)


 ところがここまで来ると、真っ暗な闇のなかから晴れやかな考え方が、鎧を着た騎士みたいにあらわれてきて訊ねる。もしお前があの女を愛していたのなら ------ (もちろん、おれはものすごく愛していた) ------ もしそれが愛として思い出すことのできるものなら、そんならお前たち二人にできるのは、ただあれだけのことだったのだ。さあ、お前は愛していたか?(『漁船の絵』より抜粋)


■この郵便配達夫は、24歳で結婚して、それから28年間生きてきたワケだから、これを書いている「いま」は 52歳ってことか。なんか、しみじみしちゃうなぁ。俺、いま53歳。この郵便配達夫にすっごく似ている男だ。僕もよく女房に言われたものさ。



「あなたって、興奮すること、決してなかったわね、ハリー」
「うん」
とおれは正直に答えた。
「まあ、なかったな」
「興奮すればよかったのに」
 と、あいつは変にぼんやりした調子で、
「そしたら、あたしたち、あんなことにならなくてすんだのに」(120ページ)


■読み終わっても、いつまでも心の片隅に住み着いてしまって、忘れることのできない小説がときどきある。


最近では、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』がそうだった。ふと気が付くと、小説の主人公のことを考えていた。そうして、いましばらくは『漁船の絵』を一人語りした中年男がぼくに取り憑いてしまって離れないのだった。


ふと思い出したのは、成瀬巳喜男の代表作『浮雲』だ。腐れ縁の男と女。本当はもっと明るい未来が待っていたに違いない女が、戦時中の南洋で妻子ある男とデキてしまった。戦争が終わって、その男が女に会いに来た。拒めばいいのに女はズルズルと、その男と底なしの泥沼にはまってゆく。落ちに落ちて、彼女の終焉の地は屋久島だった。


この映画では、女がどうしようもなく馬鹿だが、この小説「漁船の絵」では、男がどうしようもないお人好しでバカだ。もう、イライラしてしまうじゃないか。ほんと、もう!


そう思ってしまうのも、この男がとても他人とは思えないからだ。ぼくが彼の立場だったら、きっと同じ行動を取るに違いないからね。


2011年10月21日 (金)

ぼくのトラウマ絵本『ウラパン・オコサ』

211021


■昨日の木曜日の昼休み。近くの竜東保育園で年中組と未満児さんの内科健診。半年経つとずいぶんと違うなぁ、子供たち。自分の診察の番が来るまできちんと整列して体育坐りしてる。もちろん隣の子との私語もなく、静かにちゃんといい子で待つことができる。凄いなぁ、こどもたち。この世に生を受けてまだ4〜5年だというのに。


■例によって、健診の後に先生に頼んで絵本を読ませてもらう。最近入手した絵本を数冊持ち込んで、こどもたちの実際の反応を試してみる貴重な機会なのだ。この日読んだ絵本は、

1)『じゃがいもポテトくん』長谷川義史(小学館)
2)『ちんころりん』こどものとも年少版 / 2011年10月号(福音館書店)
3)『ウラパン・オコサ』谷川晃一(童心社)
4)『ラーメンちゃん』長谷川義史(絵本館)


とにかくこの日は、最後に『ラーメンちゃん』を読むことだけを決めて行った。
『ラーメンちゃん』。これはいい絵本だなぁ。しみじみそう思うよ。


最後の、「こどもたち Go!」は、こどもたちといっしょになって、ぼくも先生方も、大きな声で右手を振り上げて3回、言ったよ。「こどもたち Go!」って。気持ちよかったなぁ。読み終わったあと、こどもたちが口々に「ラ、ラ、ラ、ラーメンちゃん!」て、呪文のように繰り返し繰り返し言ってた。耳から離れなくなっちゃったんだね。あはっ!


■ところでこの日の試読絵本の中で、ぼくが一番にこども達の反応を見てみたかった絵本が『ウラパン・オコサ』なのだ。


年中さんには、ちょっと無理だよなぁ。数学だもんなぁ。
でも、さっきまで「2進法の絵本」だと確信していたのだが、よーく考えてみたら2進法は(0,1)だけだから「オコサ」がない。ていうことは、この絵本は「3進法」なのか! これは4歳児には無理だよ。やっぱり。


じつはこの絵本、ぼくは大嫌いだった。個人的トラウマがあるからです。


そのことは、「2006年12月28日の日記」にも書いた。以前参加した「絵本の読み聞かせ講習会」で、ぼくは初めて『ウラパン・オコサ』を見た。その日会場に集まった100人近くの人たちは、読み聞かせ経験豊富な女性(多くはオバサンたち。ゴメンナサイ)がほとんどで、男は僕をふくめて2人だけだった。オバサンたちは「この絵本」のことを既によく知っているみたいで、講師の越高さんの音頭に合わせ声をそろえてお経のお題目のように「オコサ、オコサ、ウラパン」と絵を見ながら楽しそうに即座に答えていた。


ぼくは、何がウラパンで、何がオコサなんだかか、訳が分からなかった。みんな分かっているのに僕一人だけ何も理解できない。何がなんだかさっぱり分からなくて、一人だけ仲間外れにされたようで、何とも言えない淋しさと恐怖感を味わされたのだった。いま思い返してみても、あれは不気味な雰囲気だったよなぁ。


それ以来、『ウラパン・オコサ』が苦手になってしまったのだ。
あの、悪夢のような『ウラパン・ドコサ』。


でも、ぼくはあの「トラウマ」を乗り越えない限り、こどもたちに絵本を読むことができないと、ずっと感じてきたのだった。


■保育園で絵本を読み始めてもう、10年が過ぎた。そろそろ「あれ」に挑戦してもいいんじゃないか? そう思ったんだ。たまたま、伊那のブックオフに『ウラパン・ドコサ』の新古絵本が出ていたのだ。500円だった。ぼくは「あっ!」と驚いて一瞬後ずさったのだが、その5秒後には躊躇なく「この絵本」をレジに持って行った。だからいま、ぼくの手元にあるのです。


僕が初めて「この絵本」に出会った時には、ちんぷんかんぷんで、何が進行しているのか「その場」に参加できずに、すっごく寂しい思いをした。でも、こどもたちは違うんじゃないか。そういう希望があった。


で、実際に読んでみて安心したのは、ぼくみたいに「意味不明」で、ついて行けなかった子供が 2/3ぐらいだったかな。でも、残りの 1/3 の子は驚くべきことに、ちゃんと絵本の内容を理解して「オコサ、オコサ、ウラパン」と大きな声で答えてくれたのだ。

これには驚いたなぁ。


「この絵本」。他の保育園、他の年代のこども達にも読んでみて実験してみよう。



2011年10月18日 (火)

『本と怠け者』から『長距離走者の孤独』を読み始める

■昨日の続き。

『夕暮の緑の光』野呂邦暢・随筆選(みすず書房)には、『昔日の客』の著者、関口良雄氏がやっていた古本屋「山王書房」の話が2つ載っている。「S書房主人」(p60) と「山王書房店主」(p86) だ。どちらも同じ話なのだが、微妙に異なる。後者は『昔日の客』と『関口良雄を偲ぶ』を読んでから野呂邦暢が書いたもの。「昔日の客」とは、野呂邦暢のことなのだった。(『本と怠け者』37ページ参照)


『夕暮の緑の光』を読んでいると、42歳で急遽した野呂邦暢氏が、子供の頃から本当に本好きであったことがよくわかる。冒頭の「東京から来た少女」がいい。62ページ「貸借」には笑った。「古書店主」にはこんな一節があった。

 初めての店に踏み入れるときの心のたかぶりをどう説明したらいいものだろう。

 長い間、さがしていた本が見つかるかもしれない。思いがけない掘り出しものをするかもしれない。胸がしきりにときめくのである。ちょうど女と逢い引きするときのような、不安でいて甘美な期待に満ちた瞬間に似ている。薄暗い店にはいって、左側の棚からひとまずざっと見渡す。全部の本を見るのに五秒とかからない。それから元に戻って一冊ずつじっくりと点検する。

 勝負は最初の五秒で決するといっていい。どんな隅っこにあっても、自分の探している本はわかるものだ。本が「私はここに居ますよ、早く埃の中から救い出して下さい」とでもいいたげに呼びかけるからである。(『夕暮の緑の光』p59)


■注目したのは、6ページの「漁船の絵」だ。

『長距離走者の孤独』『土曜の夜と日曜の朝』で有名な英国の作家アラン・シリトーの作品の中で、野呂邦暢氏は「この一作」といわれたなら私はためらうことなく「漁船の絵」をあげる。と書いている。そして彼が書いた小説の第一作は「漁船の絵」からとって「壁の絵」と題されたのだった。


 平易な語り口というのは難解な文章の反対のことではない。話し言葉を多く使うことでもない。平明な語りが散文として体をなすには、作者の胸の裡に何か熱いものが蔵されているのでなければ意味がない。

「何か熱いもの」とは人生に対する愛情といいかえてもいい。シニカルでないことである。「漁船の絵」を読んで私はじっとしていることができなくなった。喫茶店をとび出して縦横無尽に町を歩きまわったことを覚えている。いい音楽を聴いたあと、心が昂揚するのに似ていた。やがて商店街にともった明りがとてつもなくきれいに見えたことを今も忘れない。(『夕暮の緑の光』7ページ)


■こんな文章を読んじゃうと、どうしても読みたくなるじゃないですか「漁船の絵」。で、近所の新古書店「ワンツーブック」へ行って探したら、文庫の100円コーナーにありました『長距離走者の孤独』アラン・シリトー著、河野一郎・訳(集英社文庫)。この短編集の中に「漁船の絵」が収録されていたのだ。ラッキー!


そう言えば、佐藤泰志の小説にもアラン・シリトーが出てきたっけ。でも、映画にもなった「The Loneliness of the Long-Distance Runner」は読んだことなかったので、まずは冒頭のこの小説から読み始めた次第。

いま読んでいるところは、主人公が友達のマイクと「パン屋を襲撃」する場面だ。


あれ? パン屋を襲撃するって、どこかで聞いたことある話だぞ。そうだ、村上春樹の短篇に「パン屋襲撃」と「パン屋再襲撃」があるじゃないか。ということは、村上春樹もアラン・シリトーの小説が好きだったのだろうか?


タッ、タッ、タッ。ハッ、ハッ、ハッ。ペタッ、ペタッ、ペタッ ----- 堅い土の上を足はひた走る。シュッ、シュッ、シュッ、腕と脇が灌木のあわれな枝にふれて鳴る。おれは十七、奴らがここから出してくれたら ------- (『長距離走者の孤独』p12)


あ、村上春樹さんはマラソン・ランナーだから、「この小説」を気に入っているのは間違いないな!


『長距離走者の孤独』の、17ページにはこんなことが書いてあった。

はっきり言って、おれは感化院ではぜんぜんつらい思いをしなかったからだ。さしずめおれの返事は、軍隊はどれくらいいやだったかと訊かれて、仲間の一人が答えた返事と同じだ。そいつは言ったものだ ------- 「いやじゃなかったぜ。食わしてくれ、着せてくれ、死物狂いで稼ぎでもしなきゃ手にはいらねえほどたっぷりの小遣い銭までくれ、たいていは仕事もさせてくれず、ただ失業手当支給所へ週に二回行くだけだもんな」


あれ? 同じような文章を最近どこかで読んだぞ。


あ、そうだ!『本と怠け者』83ページの「ワーキングプアと戦争」だ。


赤木智弘著『若者を見殺しにする国』(双風舎→朝日文庫)を読んでいて、わたしがおもいだしたのは、臼井吉見の次のような文章だった。

<田植の辛さにくらべれば演習など何でもないという農村出の兵、住みこみの奉公人の生活よりは軍隊のほうがよっぽどましだという職人や丁稚たち。食って、着て、寝るところのある軍隊生活を内心は喜んでいた多くの兵をぼくもまた知っている。>(『本と怠け者』87ページ)


なんだか、堂々巡りになってきたなあ。でも、もう少しだけお付き合いのほどを。


『本と怠け者』 127ページ「科学と宗教と文学の問題」を読むと、こんな一節が目に跳び込んできた。


 オウム真理教に会った宮内勝典は、信者たちがまったくといっていいくらい文学書に親しんでいなかったことに気づいたという。


荻原魚雷氏は「この意見はちょっとひっかかった。文学を読んでいれば、大丈夫なのか。」と否定的な見解を述べる。なるほど確かにそうかもしれない。

でも、まったく同じことを、数多くのオウム信者にインタビューした村上春樹氏も言っている(たしか『村上春樹全作品(1990~2000 7)約束された場所で』の作者解説か『村上春樹雑文集』にあったと思う。)のだ。だから僕は「このこと」は案外重要なんじゃないかと思っているのです。


■『本と怠け者』より、もう1ヵ所だけ抜粋。「批評のこと」より、292ページ。


 たしか、小林秀雄は、石にお灸のことわざを引き合いにし、自分がもっとも批判したい、面の皮が厚くて、ふてぶてしくて無自覚な人には批評は届かず、本来、自分がまったく批判する気のない人が深読みしすぎて、傷つけてしまうことがある、というようなことを書いている。


 ある種の論争も、正しさよりも、相手のいうことに聞く耳を持たず、打たれ強さ(何をいわれても平気)という人のほうが有利になってしまうことが、しばしばある。
 批評が勝ち負けの世界であれば、自分の考えを微塵も変える気がなく、相手を否定することに躊躇がない人のほうが強い。

 逆に、弱者が、弱者であることを盾に、相手を否定しまくるという場合もある。


このところのツイッターを見ていると、ほんと「そういう人」が多いよなぁ。


■追記:筑摩書房のPR誌「ちくま」に載った、浅生ハルミンさんの荻原魚雷氏『本と怠け者』紹介文「休まないで歩き続けること」

2011年10月17日 (月)

『本と怠け者』荻原雷魚(ちくま文庫)読了。

■荻原魚雷『本と怠け者』(ちくま文庫)を読了した。もったいないから、いとおしいから、少しずつ、ゆっくりゆっくり読んだ。堪能したなぁ。面白かったなぁ。読書の喜びとは、ふと思いがけず、こういう本と出会えることに違いない。


彼が最も敬愛する尾崎一雄のことを綴った「冬眠先生」で終わる前半の「怠けモノ文士列伝」がとにかく傑作だが、後半に置かれた「批評三部作」もなかなかに味わい深いぞ。真ん中の「精神の緊張度」は、結局なにを言いたいんだかよく分からなかったが、「限度の自覚」と「批評のこと」が素晴らしい。


■というツイートを先ほどアップしたばかり。ついでに、この本を読み始めた頃にアップしたツイートは以下。


金曜日は松本へ買い物に行った。妻とは別行動で、僕は例によって「ほんやらどお」で中古CDを物色し、そのあとパルコ地下の本屋リブロへ。探していた絵本『ラーメンちゃん』長谷川義史(絵本館)と『本と怠け者』荻原魚雷(ちくま文庫)を無事見つけて購入。(9月25日)


長谷川義史さんの『ラーメンちゃん』はね、TBS『情熱大陸』見て感動したから是非欲しいと思ってたんだ。


YouTube: 長谷川義史「ラーメンちゃん」


実際に手にしたら、予想以上の出来に驚く。何よりも「色使い」がいい。ラーメンちゃんのピンクがいい。地面の色の変化がいい。そして「こどもたちGo」が素晴らしい!今度、高遠第一保育園の内科健診のあと読んでみよう(9月25日)


荻原魚雷『本と怠け者』(ちくま文庫)を読んでいる。面白い!この人。まだ若いのに病弱なジジイみたいだ。ちょうど、つげ義春のマンガ『無能の人』に登場する古本屋店主、山井を思い出した。彼は、江戸末期に伊那谷を放浪して野垂れ死にした俳人「井上井月」を崇拝していた。(9月27日)


『本と怠け者』から「昔日の客と写真集」を昨日読んだ。大森にあった古本屋「山王書房」店主の関口良雄氏が出した幻のエッセイ本『昔日の客』に登場する文人たちの逸話の中から、野呂邦暢のはなし。いや、偶然だなぁ。ちょうどこの日、伊那市図書館で『夕暮の緑の光』野呂邦暢随筆選を借りてきたばかり(9月27日)

■というワケでもないけど、今夜は『昔日の客』をめぐる、ちょいとイイ話。


・最初は、「ジュンク堂・仙台ロフト店」に勤務する、佐藤純子さんの文章。これがいいんだ。ほんと。

       「往復書簡をはじめませんか 第2回」


・次は、意外な人の「ちょっとイイ話」


       てれびのスキマ「ピース又吉の邂逅の書」

       「夏葉社 島田潤一郎さんのブログに載った、ことの顛末」


あぁ、本好きの人たちは、いつかどこかで、必ず出会うようにできているんだな。

2011年10月15日 (土)

10月14日付、信濃毎日新聞夕刊コラム「今日の視角」姜尚中

先週土曜日の10月8日。「伊那弥生ヶ丘高校創立100周年記念式典」が伊那文化会館で開かれた。

記念講演の講師として招かれたのは、今をときめく姜尚中(カンサンジュン)氏だ。

こう言っては失礼かもしれないけれど、多忙で超売れっ子の姜尚中氏が、よくまあ講演依頼を承諾したものだ。すごいなあ、伊那弥生ヶ丘高校。って思った。


そしたら、昨日の信毎夕刊1面の『今日の視角』で、「見えない糸」と題するコラムを、金曜日担当の姜尚中氏が書いていて、なるほどそういう訳だったのか、とすっごく納得した次第です。

このコラム、以前はWeb上でも読めたのだが、いまはどうも信毎のサイトにはアップされていないみたいだ。仕方ないので、以下に無許可転載させていただきます。


<今日の視角> 見えない糸  姜尚中(2011.10.14)


 今月8日、私は伊那弥生ヶ丘高等学校の創立百周年を祝う記念講演の講師として招待された。校舎は東西駒ヶ岳と仙丈ヶ岳に囲まれ、天竜川の恵みを受けた豊かな伊那の沃野に佇んでいた。校門から続く銀杏並木を眺めていると、わたしは何か見えない糸で結ばれる人生の機微のようなものを感じざるをえなかった。


校長の窪田先生から、前身の伊那高等女学校の時代、金大中元韓国大統領の最初の伴侶であった車容愛(チャヨンエ)女史が学んでいたことを知らされていたからである。金大中先生の自伝『死刑囚から大統領へ』(岩波書店)には、妻の車女史を亡くした時の悲しみが切々と語られている。


 1973年の東京での金大中拉致事件以来、金大中先生の波乱に富んだ生涯は、韓国の激動の現代史と重なり、私もその波濤の飛沫を浴びながら青春時代を過ごした。そして晩年、父親と息子ほどの歳の差がありながらも、親しく先生の謦咳(けいがい)に接する機会に恵まれたのである。先生との見えない糸は今も切れずに続いているかと思うと、感無量であった。


そしてさらに驚いたのは、車女史をはじめ、伊那高等女学校の女学生たちが、敗戦間際の昭和19年から20年にかけて、学徒勤労動員で名古屋の軍需工場で海軍軍用機の生産に従事していたことである。実はこの頃、私の父も名古屋の軍需工場で働いていたのである。生前の父の話では、そこは海軍軍用機を生産する工場であったらしく、同じ工場であった可能性も考えられる。


名古屋空襲で一宮市に逃れた父と母は、一粒種の息子(長男)を亡くしており、父と母にとって名古屋での体験は終生、忘れることができなかったはずだ。

 こうして伊那の地での一日は、過去は死なず、今を生きる者たちと見えない糸で結びついていることを実感させることになったのである。 


■姜尚中氏の父親が、名古屋の軍需工場でゼロ戦を作っていた(たぶん同じ)工場で「ぼくの母親」も働いていた。母は伊那高等女学校の第33回生で、母が入学した同じ年、母と同じクラスメイトになったのが、金大中前夫人の車容愛女史(日本名は安田春美さん)だった。母が生前寄稿した、高遠町婦人会文集「やますそ」に『夫「金大中さん」をささえた我が友、安田さん』という文章が残っている。


(前略)韓国生まれだった彼女は、小学校時代を諏訪に住む親戚の家で過ごし、やがて昭和十六年四月伊那高女に入学、私たちと共に一年一組の生徒となりました。

 彼女は寄宿舎から通学しておりましたが、ふっくらとした頬、端正な顔立ち、しっとりとした落ち着きは私たちより少しお姉さんといった感じでした。いつもクリームの甘い良い匂いがして、何だかとてもうらやましかったような記憶が残っています。

 二年生くらいまでは、まだまだのんびりした学校生活でしたが、やがて授業らしい授業もほとんど行われなくなって、勤労奉仕に明け暮れる日々が続くようになりました。四年生になって間もなくだったでしょうか、米軍の本土爆撃を案じたお父さんが迎えにこられ、彼女は韓国へ帰って行ってしまったのです。

 私たちはその年の夏、学徒動員で名古屋へ出発、その後は彼女の消息もぱったりととだえて、戦後、同年会の度に彼女のことが話題となり、その安否が気遣われておりました。(後略)


■母の文章を読むと、姜尚中氏の記載は一部間違っている。金大中氏の前夫人は、ぼくの母といっしょに名古屋へ行ってはいないのだ。

2011年10月11日 (火)

日曜日夜のETV特集『希望をフクシマの地から~プロジェクトfukushima!の挑戦』を見て、いろいろと考えさせられた。

■ETV特集『希望をフクシマの地から~プロジェクトfukushima!の挑戦』を、10月9日(日)よる 22:00〜23:30(Eテレ)で見た。で、大きく心を動かされた。ただ「感動した!」とかそういう感情ではなくって、何だかよく判らないのだけれど、心の奥底から突き上げて来るマグマのような混沌とした感情に打ち震えた。とでも言えばよいか。もちろん、中心人物である大友良英さんの奢りのない正直で真摯な言葉と行動力には、心からリスペクトを憶えたし、番組そのものに対しても高評価を与えたいと思った次第。


■大友良英さんはギター1本でインプロビゼィションを繰り広げ、ワールドワイドに活躍するフリージャズ・ミュージシャンだ。大友氏は福島県の出身。この3月11日以降、予定していた海外公演を全てキャンセルし日本に留まった。いや、留まざろうえなかった。


そのあたりの彼の想いは、4月24日に行われた「芸大での講演」で読んで知っていた。こうした流れから、ごく自然に8月15日の『プロジェクトfukushima!』の企画が展開されていったのだな。こちらの「6月26日付のインタビュー」を読むと、その経緯がよくわかる。


■この番組『希望をフクシマの地から~プロジェクトfukushima!の挑戦』を見ていて一番に感じたことは、単なる「音楽イベント」のダイジェストにするつもりは毛頭ないぞ! という番組担当NHKディレクター山岸氏の確固たる意志がじんじん伝わってきたことだ。いままで数々の傑作音楽ドキュメントがあった。『真夏の夜のジャズ』とか『ウッドストック』とか。マイナーなところでは『吉祥寺発赤い電車』とか。ただ、どの映画も監督の強烈な個性が全面に出たことで傑作たり得たのだと思う。


大友氏と同じく福島出身である山岸ディレクターは、当事者である大友氏とは別の視点にこだわった。それは、ドキュメンタリー作家としての意固地な信念だ。そうして、その思い(問題提起)は視聴者に確かに伝わったのではないか。


山岸ディレクターの意図は、この番組の中で「福島」をめぐる人びとを「5種類」に分けで、視聴者がそれぞれの人の立場になって考えてみる場を提供しようとしたことだと思う。その5種類とは、

1)かつて福島で暮らし生活していたが、今は遠く離れて東京で日常をおくっている人びと(大友良英氏、遠藤ミチロウ氏、NHK山岸番組担当ディレクター)


2)昔から福島で生きてきて、3月11日以後もそのまま福島で生活を続けている人びと(現役高校教師で詩人の和合亮一氏、安斎果樹園の年取ったお父さん。福島から避難したくてもできないで、昼も自宅の雨戸を閉めたまま生活を続ける、まだ若い父母と、娘の誉田和奏ちゃん)


3)生まれた時からずっと福島で暮らしてきたのだが、原発事故のあと、もうこれ以上の放射能被曝を避けるべく、福島県外へ脱出していった人たち。


特に、3月11日の翌日、いち早く原発事故を予測し、まだ福島第一原発が爆発事故を起こして放射能をまき散らす前に、北海道へ避難した人がいた。安斎果樹園の息子さん家族だ。夫婦と幼い子供2人。祖父母は福島に残り、家族は分裂した。結果的には、彼の行動は素晴らしいほどの大正解で、子供たちは被曝をまのがれることができたのだ。

4)大震災前後とも、福島とは関係のない土地に住みながら、当事者気取りで好き勝手な発言を繰り返す人たち、自分には関係ないことと思っている人たち、ずっと何となく気にはしているのだけれど何もできないでいる人たちなど(ぼくを含め、日本全国にはここに入る人たちが一番多いはず。)


5)3月11日以前は、福島とはぜんぜん関係なかったのだけれど、その日以降、頻回に福島入りして活動し、終いには福島へ定住しようとしている人(『ETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図~福島原発事故から2か月~」』に登場した木村真三先生。)

 フェスティバルを県外から見に来た人たち、出演者として参加したプロのミュージシャンたちも、ここに入るかな。

■3)の安斎果樹園の息子さん安斎伸也氏は、山岸ディレクターとは福島高校の同級生だ。だから、山岸ディレクターは自らカメラの前に登場し、避難先の北海道まで追いかけて行って安斎氏と対峙する。普通、ドキュメンタリーではこういう展開はない。出しゃばり好きのマイケル・ムーア監督は別だが。


安斎伸也さんは、桃の収穫のために単身一時帰宅する。そして、8月15日には「プロジェクトfukushima!」屋外会場に隣接した物販販売コーナーで安斎果樹園の桃を売る。でもぜんぜん売れない。美味しそうな桃が並べられた大きなざるに、通り雨の大粒の水滴がただ無残にたまる映像が鮮烈だった。


振り返ってみれば、安斎伸也さんが取った行動は、誰が何と言おうと全くもって正しい。誰からも非難される筋合いはない。それなのに、番組では彼が一番冷たい視線を浴びせられていたように感じた。何と理不尽なことか。何という悲劇か。彼は何にも悪いことしてないんだよ! 正しい行動だけしてきたんだよ! それなのに、この仕打ち。あぁ、これが今の福島県民の想いなのか。


■番組を見た人たちの感想をぜひ聞きたいと思い、Twitter で検索したら、音楽評論家・プロデューサーの高橋健太郎氏をはじめ、思いのほか否定的な意見が多く挙がっていて驚いた。大きく分けて、今現在も被曝の怖れあるこの時期に、福島で屋外音楽フェスティバルを行ったことに対する否定的意見と、番組ディレクターの演出方法に対する否定的な意見に分けられる。


一連の発言のまとめが「こちら」にアップされているのでご覧ください。


ぼく自身は、この番組を傑作として高く評価します。


詩人の和合亮一氏が、自作のポエトリー・リーディングの結びに、

「明けない夜はない」

と、静かな声でゆっくりと語った、その言葉が、何よりも一番心に残った。


2011年10月 7日 (金)

ありがとう! スティーヴ。

わが家の現役 Mac たちです。真ん中は初代の iPod。まだ現役。

1110061


ただ、しばらく引退していたチタン・ボディの「PowerBook G4」を取り出してきて、Ethernet に繋いだのだが、インターネットの設定条件が変わってしまったので、ネットに繋がらず、従って「G4」だけ、アップル・トップページ画面でなくて、なぜか『ぐりとぐら』になってしまった。残念です。


1110063


■ぼくが初めて自分のコンピュータ(Macintosh LC)を手にいれたのは、1990年のことだ。当時ぼくは、飯山日赤小児科の一人医長で、確かあれは2年目の秋だったんじゃないかな。その前年に、飯山駅前のヤマダ電機でパナソニックのワープロを購入した記憶があるから、うん、たぶんそうだ。それ以来20年以上、浮気をすることもなく、ぼくはアップルに操を捧げてきた。


・Macintosh LC → Duo230c & DuoDock → iMac → PowerBook G4
 → iMac & MacBook 


ただ、何故アップル・コンピュータを選択したのかはよく憶えていない。それまで、Macintosh SE/30 を代表とする、パーソナル・コンピュータ界のポルシェの異名をとっていたアップルが、路線変更して低価格の「Macintosh LC」を発表したのがこの年で、ようやくぼくの手にも届くモノになったんじゃないか。


当時、長野県下でアップル・コンピュータを扱っているところは少なく、ぼくは塩尻市広岡にあった、何て言ったっけ? 中村さんから購入した。ただ、安くなったとはいえ、13インチモニターと4Mメモリー増設。30Mの外付けHDに、HPのインクジェット・プリンタを付けて、60万以上払ったんじゃなかったっけ。当時は、独身貴族だったのだ。


あの時の飯山日赤には、マック伝道師で脳外科医の大嶋先生がいたので、ずいぶんといろいろ教えてもらって、ほんと助かったな。Macintosh LCを購入してすぐに、小児科学会甲信地方会があって、ぼくは「当院におけるMRSA感染症の実態」という演題をだしていたので、マックを使って初めてスライド原稿を作った。

活躍したのが「マック・ドロー」と「マック・ペイント」だ。マウスで絵を描くのは難しかったが、「消しゴム」がモニター画面上で本当に消してくれること、それから失敗しても「undo」すれば、何度でもやり直しができることが驚きの機能だった。



1110062


■でも、ぼくがマックを触ってみて一番感動したソフトが「ハイパーカード」だ。と言っても、いまのマックでは動かないソフトだし、いったいどれくらいの人が憶えてくれているのか。


初めて『コスミック・オズモ』のスタックで遊んだ日のことは、今でも忘れない。画面のどこかをクリックですと、次々とイベントが起こる。すっごく楽しい!


こういうものを、何も専門のコンピュータ言語を知らなくとも、自分で簡単にプログラミングできるということが画期的だったのだ。


そうして15年ほど前に、ぼくが作ったハイパーカードの「スタック」が、ご覧の『富士見高原病院医局』なワケです。

井上院長。似てるでしょ。それから、次は富士見高原病院・循環器内科医長の岩村先生の似顔絵。岩村先生はね、ジャズ・ピアニストでもあるのだ。(つづく)


2011年10月 2日 (日)

荻原魚雷『本と怠け者』(ちくま文庫)を読んでいる

いま読んでいる『本と怠け者』荻原雷魚(ちくま文庫)が、とにかく面白い。


この著者の名前はずいぶん前から知ってはいたのだが、じつは「この本」で僕は初めて彼の文章を目にした。で、1ページ目からすっかり絡め取られてしまったのだった。巧いな。芸がある文章とはこういうのを言うのか。そう思ったのは、西村賢太『どうで死ぬ身の一踊り』(講談社文庫)以来だ。


表カバー裏の「著者近影」写真を見ると、眼力の無くなった「佐藤泰志」みたいで、思わず笑ってしまった。ごめんなさい。それにしても、荻原魚雷氏の文章は読み進むうちに知らずと僕の体を蝕んでいくのがリアルに感じられる危険な書物だ。あぶない。実にあぶない。オイラも怠け者の仲間だからか?


この人、まだ若いのに病弱なジジイみたいだ。ちょうど、つげ義春のマンガ『無能の人』に登場する古本屋店主、山井を思い出した。彼は、江戸末期に伊那谷を放浪して野垂れ死にした俳人「井上井月」の生き方に傾倒していたっけ。


希望をいえば、好きなだけ本を読んで、好きなだけ寝ていたい。
欲をいえば、酒も飲みたい。
もっと欲をいえば、なるべくやりたくないことをやらず、ぐずぐず、だらだらしていたい。

「怠け者の読書癖 ---- 序にかえて」(『本と怠け者』9ページ)


そうして彼は、しょっちゅう体調を崩し「あまり調子がよくない」と言いつつ「原稿を書いている時間以外は、ひたすら横になり、体力と気力を温存する(p112)」ねたり起きたりの毎日だ。


ここだけ読むと、なんだかとんでもなく無気力でやる気のない、単なる怠惰なダメダメ男かと思うかもしれないが、いや、それは違う。彼は確固たる信念でもって、かたくなに「こういう生き方」を実践しているのであり、そのための「理論武装」として、古書をあたり自分と同じような「怠け者」を過去の文士のなかから次々と見つけ出してくるのだ。


この本『本と怠け者』を読みながら、「正しい古本の楽しみ方」を初めて教えてもらった気がする。なるほどそうか。天変地異や想定外の人災。僕らが生きる時代や環境は目まぐるしく変わっていき、どう生きていったらいいのか分からなくなってしまっているのが現状だ。そういう時、僕らはどうしても「いま」のオピニオン・リーダーの言説に期待する。例えば、中沢新一氏が「緑の党」宣言をしたとか。


でも、荻原魚雷氏は違う。文明や科学がどんなに進歩したって、その中で生きている「人間」は、何万年も前から脳味噌の構造も変わらないままなのだから、考えることは昔の人も今の人も変わらないに違いない。とすれば、案外、古書をあたって昔の人の言説の中にこそ、現代を生き抜く英知が秘められているに違いない。たぶん、彼はそう考えているのではないか。(つづく)

Powered by Six Apart

最近のトラックバック