■『長距離走者の孤独』アラン・シリトー著、丸谷才一・河野一郎訳(集英社文庫)を読んでいる。昨日は「アーネストおじさん」を読んだ。哀しいはなしだ。
第一次世界大戦に出征して、その時の体験のPTSDをずっと引きずったまま、何の生きる目的も希望もない中年男アーネスト。妻は呆れて家を出て行き、兄弟親戚からも見捨てられた孤独で淋しい男だ。ある日のカフェで遅い朝食をとっていた彼の席に、二人の幼い姉妹が同席する。無邪気を装ったしたたかなガキども。でも彼には自分の娘のような、生きる希望の天使に見えてしまったのだな。でも、現実はあまりに残酷だった……
「アーネストおじさん」というと、ぼくは即座に、ベルギーの絵本作家ガブリエル・バンサンの代表作「くまのアーネストおじさんとネズミのセレスティーヌ」のシリーズを思い浮かべてしまう。孤独な中年男のアーネストに拾われた、おてんば少女ねずみのセレスティーヌ。この二人が慎ましく生活する物語だ。もしかして、ガブリエル・バンサンはシリトーの「アーネストおじさん」を読んでいて、あまりに不憫に感じて「くまのアーネストおじさん」のシリーズを作ったのではないか? ふと、そう思った。
まんざら外れてはいないんじゃないか。
■さて、野呂邦暢氏が絶賛していた『漁船の絵』のこと。
先に読んだ「長距離走者の孤独」とはずいぶんと文章のタッチ、スピード感が違っていてまずは驚いた。先だってのロンドン暴動を彷彿とさせる、まだ10代の怒れる青年の語りと、50過ぎのしがない中年男の回想録では、おのずと文章は異なってくるものか。
以下、先日の僕のツイート。
●『長距離走者の孤独』アラン・シリトー著、丸谷才一・河野一郎訳(集英社文庫)より、ようやく「漁船の絵」を読了した。これ、凄いぞ! わずか32ページの短篇なのに、情けなくやるせない、不器用でもどかしい、その場の空気を読むこともすっかり忘れてしまって、ダメダメな展開に陥った元夫婦の物語(10月23日)
●なんかね、身につまされるんだ。『漁船の絵』。例えばこんな記述。
「ふーん」と、おれはいった。気持ちを隠したいときには、いつも「ふーん」というのだ。でも、これは安全な言葉だ。「ふーん」というときは、いつだって、もう他の言葉は出てこないからな。(129ページ)
●(続き)それにしても、この主人公の郵便配達夫。切なすぎるぞ。バカだ。お前!
「でも、真夜中に、寂しくってやりきれないときでも、自分のことはちょっぴり、キャスパー(元女房)のことはたっぷり、おれは考えた。おれが苦しんだよりもずっとひどい苦しみ方をあいつはしたんだ、ということが判った」(137ページ)
■以下、本文より少しずつ抜粋。
二十八年間、郵便配達をしてきた。(中略)結婚したのも二十八年前だ。(中略)おれといっしょに暮らして、あいつは最初からしあわせじゃなかった。それに、おれだってそうだった。あいつの知ってる人がみんな ----- たいていは家族の者だ ----- 何べんも、おれたちの結婚は五分間しかつづかないといった(中略)
でも、おれたちの結婚は、みんなが予言した五分間よりはつづいた。六年間つづいたんだ。おれが三十、むこうが三十四の年に、あいつは出て行った。(中略)
あいつがかけおちしたペンキ屋というのは、テラスの向こうにある家に住んでいたのだ。(中略)近所の連中は、一年くらい前から二人があやしかったという話しを、おれに聞かせたくてたまらない様子だった ----- もちろん、かけおちが終わってからだ。あいつらがどこへ逃げたのか、誰ひとり知らなかった。たぶん、おれが追いかけてゆくと思ってたんだろう。でも、そんな考えは一ぺんだって思いつかなかったな。だって、どうすりゃあいいんだ。男をぶん殴って、キャスティーを、髪をつかんで引きずって来るか。やなこった。
こんなふうに、生活ががらりと変わっても、いっこうに平気だったなんて書けば、そりゃぁもちろん嘘になる。六年間も同じ家に暮らした女なら、たとえどんなに喧嘩ばかりしていたって、やはり、いなくなれば寂しい。それに ----- おれたち二人には、やはり楽しいときもあったんだし。(中略)
慣れてみると、こういう暮らしもまんざらじゃなかった。ちょっぴり寂しかったが、すくなくとも落ちつけたし、まあ、なんとなく月日がたった。(中略)
十年間、こんな具合さ。あとで知ったことだが、キャスティーはペンキ屋といっしょにレスターに住んでたのだそうだ。それからノッティンガムに戻ってきた。ある金曜日の晩 ------ 給料日だから金曜日だ ------ おれを訪ねてきた。つまりこれはあいつのとって、いちばんいい時間だったわけさ。(中略)
あいつは戦争中、毎週木曜日の晩に、だいたい同じ時間にやって来た。天気の話や、戦争の話や、あいつの仕事やおれの仕事のこと、つまりあまり大事じゃないことを、おれたちはすこしばかりしゃべった。おれたちはしょっちゅう、部屋のなかの離ればなれの位置から炉の火を眺めながら、長いあいだ椅子に腰かけていた。(中略)
あいつはいつも同じ茶いろのオーバーを着ていたが、それがぐんぐんみすぼらしくなっていった。そして帰るときにはいつも、きまって、二シリングか三シリング借りていった。(中略)あいつを助けてやれるのは嬉しかった。それに、他に誰ひとり助けてやる人はいないんだからな、と自分で自分にいいきかせたものだ。住所を訊いたことなんか一度もなかった。もっとも、あいつのほうで一ぺんか二へん、今でもスニーントンのほうにいるような話をしたことはあった。(中略)
やって来ると、あいつはきまって、サイドボードの上の壁にかかってる、あの艦隊の生き残りの漁船の絵を、ときどき、ちらっちっらっと見た。そして、何度も、とてもきれいだと思うとか、ぜったい手放しちゃいけないとか、日の出や船や女が実に真に迫っている、とかいい、すこし間を置いてから必ず、自分のものにして持っていたらどんなに嬉しいだろう、と謎をかけたけれど、それをすればけっきょく、質屋ゆきになることが判っていたから、おれは何もいわなかった。(中略)
しかしとうとう最後に、はっきり、絵がほしいと切り出したし、それほど熱心なら、断る理由はべつになかったのだ。あいつがはじめてやってきた六年前のときのように、おれは埃をはらい、何枚かのハトロン紙に丁寧に包み、郵便局の紐でゆわえて、くれてやった。(中略)
たいていの奴は、おれに判りはじめたことが判っちゃいねえ。それにしても、判ったってどうしようもないころになって、やっと判るなんて、おれはひどく恥ずかしい。(中略)
ところがここまで来ると、真っ暗な闇のなかから晴れやかな考え方が、鎧を着た騎士みたいにあらわれてきて訊ねる。もしお前があの女を愛していたのなら ------ (もちろん、おれはものすごく愛していた) ------ もしそれが愛として思い出すことのできるものなら、そんならお前たち二人にできるのは、ただあれだけのことだったのだ。さあ、お前は愛していたか?(『漁船の絵』より抜粋)
■この郵便配達夫は、24歳で結婚して、それから28年間生きてきたワケだから、これを書いている「いま」は 52歳ってことか。なんか、しみじみしちゃうなぁ。俺、いま53歳。この郵便配達夫にすっごく似ている男だ。僕もよく女房に言われたものさ。
「あなたって、興奮すること、決してなかったわね、ハリー」
「うん」
とおれは正直に答えた。
「まあ、なかったな」
「興奮すればよかったのに」
と、あいつは変にぼんやりした調子で、
「そしたら、あたしたち、あんなことにならなくてすんだのに」(120ページ)
■読み終わっても、いつまでも心の片隅に住み着いてしまって、忘れることのできない小説がときどきある。
最近では、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』がそうだった。ふと気が付くと、小説の主人公のことを考えていた。そうして、いましばらくは『漁船の絵』を一人語りした中年男がぼくに取り憑いてしまって離れないのだった。
ふと思い出したのは、成瀬巳喜男の代表作『浮雲』だ。腐れ縁の男と女。本当はもっと明るい未来が待っていたに違いない女が、戦時中の南洋で妻子ある男とデキてしまった。戦争が終わって、その男が女に会いに来た。拒めばいいのに女はズルズルと、その男と底なしの泥沼にはまってゆく。落ちに落ちて、彼女の終焉の地は屋久島だった。
この映画では、女がどうしようもなく馬鹿だが、この小説「漁船の絵」では、男がどうしようもないお人好しでバカだ。もう、イライラしてしまうじゃないか。ほんと、もう!
そう思ってしまうのも、この男がとても他人とは思えないからだ。ぼくが彼の立場だったら、きっと同じ行動を取るに違いないからね。
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