10月14日付、信濃毎日新聞夕刊コラム「今日の視角」姜尚中
■先週土曜日の10月8日。「伊那弥生ヶ丘高校創立100周年記念式典」が伊那文化会館で開かれた。
記念講演の講師として招かれたのは、今をときめく姜尚中(カンサンジュン)氏だ。
こう言っては失礼かもしれないけれど、多忙で超売れっ子の姜尚中氏が、よくまあ講演依頼を承諾したものだ。すごいなあ、伊那弥生ヶ丘高校。って思った。
そしたら、昨日の信毎夕刊1面の『今日の視角』で、「見えない糸」と題するコラムを、金曜日担当の姜尚中氏が書いていて、なるほどそういう訳だったのか、とすっごく納得した次第です。
このコラム、以前はWeb上でも読めたのだが、いまはどうも信毎のサイトにはアップされていないみたいだ。仕方ないので、以下に無許可転載させていただきます。
<今日の視角> 見えない糸 姜尚中(2011.10.14)
今月8日、私は伊那弥生ヶ丘高等学校の創立百周年を祝う記念講演の講師として招待された。校舎は東西駒ヶ岳と仙丈ヶ岳に囲まれ、天竜川の恵みを受けた豊かな伊那の沃野に佇んでいた。校門から続く銀杏並木を眺めていると、わたしは何か見えない糸で結ばれる人生の機微のようなものを感じざるをえなかった。
校長の窪田先生から、前身の伊那高等女学校の時代、金大中元韓国大統領の最初の伴侶であった車容愛(チャヨンエ)女史が学んでいたことを知らされていたからである。金大中先生の自伝『死刑囚から大統領へ』(岩波書店)には、妻の車女史を亡くした時の悲しみが切々と語られている。
1973年の東京での金大中拉致事件以来、金大中先生の波乱に富んだ生涯は、韓国の激動の現代史と重なり、私もその波濤の飛沫を浴びながら青春時代を過ごした。そして晩年、父親と息子ほどの歳の差がありながらも、親しく先生の謦咳(けいがい)に接する機会に恵まれたのである。先生との見えない糸は今も切れずに続いているかと思うと、感無量であった。
そしてさらに驚いたのは、車女史をはじめ、伊那高等女学校の女学生たちが、敗戦間際の昭和19年から20年にかけて、学徒勤労動員で名古屋の軍需工場で海軍軍用機の生産に従事していたことである。実はこの頃、私の父も名古屋の軍需工場で働いていたのである。生前の父の話では、そこは海軍軍用機を生産する工場であったらしく、同じ工場であった可能性も考えられる。
名古屋空襲で一宮市に逃れた父と母は、一粒種の息子(長男)を亡くしており、父と母にとって名古屋での体験は終生、忘れることができなかったはずだ。こうして伊那の地での一日は、過去は死なず、今を生きる者たちと見えない糸で結びついていることを実感させることになったのである。
■姜尚中氏の父親が、名古屋の軍需工場でゼロ戦を作っていた(たぶん同じ)工場で「ぼくの母親」も働いていた。母は伊那高等女学校の第33回生で、母が入学した同じ年、母と同じクラスメイトになったのが、金大中前夫人の車容愛女史(日本名は安田春美さん)だった。母が生前寄稿した、高遠町婦人会文集「やますそ」に『夫「金大中さん」をささえた我が友、安田さん』という文章が残っている。
(前略)韓国生まれだった彼女は、小学校時代を諏訪に住む親戚の家で過ごし、やがて昭和十六年四月伊那高女に入学、私たちと共に一年一組の生徒となりました。彼女は寄宿舎から通学しておりましたが、ふっくらとした頬、端正な顔立ち、しっとりとした落ち着きは私たちより少しお姉さんといった感じでした。いつもクリームの甘い良い匂いがして、何だかとてもうらやましかったような記憶が残っています。
二年生くらいまでは、まだまだのんびりした学校生活でしたが、やがて授業らしい授業もほとんど行われなくなって、勤労奉仕に明け暮れる日々が続くようになりました。四年生になって間もなくだったでしょうか、米軍の本土爆撃を案じたお父さんが迎えにこられ、彼女は韓国へ帰って行ってしまったのです。
私たちはその年の夏、学徒動員で名古屋へ出発、その後は彼女の消息もぱったりととだえて、戦後、同年会の度に彼女のことが話題となり、その安否が気遣われておりました。(後略)
■母の文章を読むと、姜尚中氏の記載は一部間違っている。金大中氏の前夫人は、ぼくの母といっしょに名古屋へ行ってはいないのだ。
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