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2011年10月18日 (火)

『本と怠け者』から『長距離走者の孤独』を読み始める

■昨日の続き。

『夕暮の緑の光』野呂邦暢・随筆選(みすず書房)には、『昔日の客』の著者、関口良雄氏がやっていた古本屋「山王書房」の話が2つ載っている。「S書房主人」(p60) と「山王書房店主」(p86) だ。どちらも同じ話なのだが、微妙に異なる。後者は『昔日の客』と『関口良雄を偲ぶ』を読んでから野呂邦暢が書いたもの。「昔日の客」とは、野呂邦暢のことなのだった。(『本と怠け者』37ページ参照)


『夕暮の緑の光』を読んでいると、42歳で急遽した野呂邦暢氏が、子供の頃から本当に本好きであったことがよくわかる。冒頭の「東京から来た少女」がいい。62ページ「貸借」には笑った。「古書店主」にはこんな一節があった。

 初めての店に踏み入れるときの心のたかぶりをどう説明したらいいものだろう。

 長い間、さがしていた本が見つかるかもしれない。思いがけない掘り出しものをするかもしれない。胸がしきりにときめくのである。ちょうど女と逢い引きするときのような、不安でいて甘美な期待に満ちた瞬間に似ている。薄暗い店にはいって、左側の棚からひとまずざっと見渡す。全部の本を見るのに五秒とかからない。それから元に戻って一冊ずつじっくりと点検する。

 勝負は最初の五秒で決するといっていい。どんな隅っこにあっても、自分の探している本はわかるものだ。本が「私はここに居ますよ、早く埃の中から救い出して下さい」とでもいいたげに呼びかけるからである。(『夕暮の緑の光』p59)


■注目したのは、6ページの「漁船の絵」だ。

『長距離走者の孤独』『土曜の夜と日曜の朝』で有名な英国の作家アラン・シリトーの作品の中で、野呂邦暢氏は「この一作」といわれたなら私はためらうことなく「漁船の絵」をあげる。と書いている。そして彼が書いた小説の第一作は「漁船の絵」からとって「壁の絵」と題されたのだった。


 平易な語り口というのは難解な文章の反対のことではない。話し言葉を多く使うことでもない。平明な語りが散文として体をなすには、作者の胸の裡に何か熱いものが蔵されているのでなければ意味がない。

「何か熱いもの」とは人生に対する愛情といいかえてもいい。シニカルでないことである。「漁船の絵」を読んで私はじっとしていることができなくなった。喫茶店をとび出して縦横無尽に町を歩きまわったことを覚えている。いい音楽を聴いたあと、心が昂揚するのに似ていた。やがて商店街にともった明りがとてつもなくきれいに見えたことを今も忘れない。(『夕暮の緑の光』7ページ)


■こんな文章を読んじゃうと、どうしても読みたくなるじゃないですか「漁船の絵」。で、近所の新古書店「ワンツーブック」へ行って探したら、文庫の100円コーナーにありました『長距離走者の孤独』アラン・シリトー著、河野一郎・訳(集英社文庫)。この短編集の中に「漁船の絵」が収録されていたのだ。ラッキー!


そう言えば、佐藤泰志の小説にもアラン・シリトーが出てきたっけ。でも、映画にもなった「The Loneliness of the Long-Distance Runner」は読んだことなかったので、まずは冒頭のこの小説から読み始めた次第。

いま読んでいるところは、主人公が友達のマイクと「パン屋を襲撃」する場面だ。


あれ? パン屋を襲撃するって、どこかで聞いたことある話だぞ。そうだ、村上春樹の短篇に「パン屋襲撃」と「パン屋再襲撃」があるじゃないか。ということは、村上春樹もアラン・シリトーの小説が好きだったのだろうか?


タッ、タッ、タッ。ハッ、ハッ、ハッ。ペタッ、ペタッ、ペタッ ----- 堅い土の上を足はひた走る。シュッ、シュッ、シュッ、腕と脇が灌木のあわれな枝にふれて鳴る。おれは十七、奴らがここから出してくれたら ------- (『長距離走者の孤独』p12)


あ、村上春樹さんはマラソン・ランナーだから、「この小説」を気に入っているのは間違いないな!


『長距離走者の孤独』の、17ページにはこんなことが書いてあった。

はっきり言って、おれは感化院ではぜんぜんつらい思いをしなかったからだ。さしずめおれの返事は、軍隊はどれくらいいやだったかと訊かれて、仲間の一人が答えた返事と同じだ。そいつは言ったものだ ------- 「いやじゃなかったぜ。食わしてくれ、着せてくれ、死物狂いで稼ぎでもしなきゃ手にはいらねえほどたっぷりの小遣い銭までくれ、たいていは仕事もさせてくれず、ただ失業手当支給所へ週に二回行くだけだもんな」


あれ? 同じような文章を最近どこかで読んだぞ。


あ、そうだ!『本と怠け者』83ページの「ワーキングプアと戦争」だ。


赤木智弘著『若者を見殺しにする国』(双風舎→朝日文庫)を読んでいて、わたしがおもいだしたのは、臼井吉見の次のような文章だった。

<田植の辛さにくらべれば演習など何でもないという農村出の兵、住みこみの奉公人の生活よりは軍隊のほうがよっぽどましだという職人や丁稚たち。食って、着て、寝るところのある軍隊生活を内心は喜んでいた多くの兵をぼくもまた知っている。>(『本と怠け者』87ページ)


なんだか、堂々巡りになってきたなあ。でも、もう少しだけお付き合いのほどを。


『本と怠け者』 127ページ「科学と宗教と文学の問題」を読むと、こんな一節が目に跳び込んできた。


 オウム真理教に会った宮内勝典は、信者たちがまったくといっていいくらい文学書に親しんでいなかったことに気づいたという。


荻原魚雷氏は「この意見はちょっとひっかかった。文学を読んでいれば、大丈夫なのか。」と否定的な見解を述べる。なるほど確かにそうかもしれない。

でも、まったく同じことを、数多くのオウム信者にインタビューした村上春樹氏も言っている(たしか『村上春樹全作品(1990~2000 7)約束された場所で』の作者解説か『村上春樹雑文集』にあったと思う。)のだ。だから僕は「このこと」は案外重要なんじゃないかと思っているのです。


■『本と怠け者』より、もう1ヵ所だけ抜粋。「批評のこと」より、292ページ。


 たしか、小林秀雄は、石にお灸のことわざを引き合いにし、自分がもっとも批判したい、面の皮が厚くて、ふてぶてしくて無自覚な人には批評は届かず、本来、自分がまったく批判する気のない人が深読みしすぎて、傷つけてしまうことがある、というようなことを書いている。


 ある種の論争も、正しさよりも、相手のいうことに聞く耳を持たず、打たれ強さ(何をいわれても平気)という人のほうが有利になってしまうことが、しばしばある。
 批評が勝ち負けの世界であれば、自分の考えを微塵も変える気がなく、相手を否定することに躊躇がない人のほうが強い。

 逆に、弱者が、弱者であることを盾に、相手を否定しまくるという場合もある。


このところのツイッターを見ていると、ほんと「そういう人」が多いよなぁ。


■追記:筑摩書房のPR誌「ちくま」に載った、浅生ハルミンさんの荻原魚雷氏『本と怠け者』紹介文「休まないで歩き続けること」

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