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2010年8月

2010年8月30日 (月)

外来小児科学会で、福岡に行ってきた

8月27日(金)28日(土)29日(日)と、福岡で日本外来小児科学会があって、一人で九州まで行ってきた。


当初、高速バスで名古屋へ出て、あとは新幹線という行程を考えていたのだが、23日(月)の深夜、暑くてぜんぜん眠れないので仕方なく起き出してきて、ネットで新幹線の運賃とか調べてみたら思いのほか結構かかる。それなら、飛行機は? と、松本空港(13:35 発)→ 福岡空港(15:05 着)FDA (Fuji Dream Airlines) を調べてみたら、まだ割引チケットで空席があって、片道 24,400円とのこと。それなら、割高でも飛行機の方が楽だなと、深夜の2時半過ぎに「ぽちっ」とチケット購入ボタンを押してしまったのでした。


ただ難点があって、帰りの便が日曜日の早朝、福岡発(07:40)→ 松本着(09:05)1日1便しかないのだ。車で行って松本空港の無料駐車場に駐めておくので、帰りは新幹線という訳にはいかない。月曜日の朝着では、診療に間に合わないので、日曜日も午後の市民講演会まで聴いて帰るつもりだったのだが、あきらめて日曜日の予定をすべて止めにした次第。


28日(土)の午前9時から、ぼくがリーダを勤めるWS「あなたも絵本の読み聞かせに挑戦してみよう!」があるので、金曜日は朝から1日臨時休診としてあったのだが、ゆっくりと午前11時過ぎに家を出て、途中塩尻のブックオフへ寄り道。諸星大二郎のコミックスを4冊と堀晃『遺跡の声』(創元SF文庫)を購入。それでも、フライトの1時間以上前に松本空港へ到着した。この6月から就航したFDA機は、80人乗りの小さなピンクの機体がかわいいジェット機だったよ。


松本空港は山里の谷間の空港なので、離陸後高度を上げるために松本平を2回ぐるぐると旋回して高度を稼ぐ。でも、小さいながらもジェット機は快適だ。ドリンクとシャトレーゼのお菓子のサービス、キャンディも配ってくれた。で、午後 2:55 には福岡空港着。地下鉄で10分も乗らないうちにJR博多駅に到着した。


JR博多駅中央改札前で、WSサブリーダーの住谷先生と待ち合わせ、バスで移動して福岡国際会議場5階のWS会場と、子供たちの前で絵本の読み聞かせ実践をさせていただく、学会会場から徒歩10分の所にある「みなと保育園」の下見。まずは酒瀬川園長先生にご挨拶。きれいな保育園で、全館クーラーが効いている。子供たちもみな人懐っこい。これならいけるな、大丈夫だ! ぼくはそう確信した。


夜は先輩と約束があるという住谷先生と別れて、宿泊先のデュークスホテル中洲へ。福岡の歓楽街、中洲の北の外れにある。この日の夕飯はすでに決めてあった。「さとなお」さんのサイトで知った、居酒屋「久米」だ。場所がよく判らなかったので、ホテルのフロントで調べてもらって、タクシーに乗り込む。天神から国体道路を西へ進んで、警固(けご)小学校の通り(大正通り)に左折。しばらく行って秋本病院を通り越してすぐの左手にあった。ほとんど目立たない小さな古い店なので、タクシーの運ちゃんは見逃して通り過ぎてしまったよ。


一人きりだったので、店に入るのに勇気がいった。予約なしだったが、ラッキーにもカウンター席が空いていた。ぜんぜん気取ったところがない店で、女将さんも人懐っこい下町のおばちゃんといった感じで、ひとりの一見さんにもかかわらず優しく親切に応対してくれて助かったな、ほんと。

食べたものは、石鯛刺身の昆布じめ、牛テールの塩焼き、しいたけ、おでん(だいこん、いわし団子)、それに、〆の「中華そば」。いやぁ、本当にどれもこれもしみじみ旨かったなぁ。牛テール肉のとろける柔らかさ、薄めの上品な出汁が効いた大根、焼き椎茸にはだし汁をかけて一味唐辛子が少量ふってあって、噛みつくと口の中にじゅわ〜っとだし汁が沁みだしてくるのだ。たまりませんね。

そうして、小ぶりのお椀に入った中華そば。これが絶品でしたよ。きれいに澄んだスープに極細縮れ麺。福岡なのに、豚骨スープじゃありません。このスープが、今までどこのラーメン屋でも味わったことのない、こくと深みのあるスープでほんと、感動してしまったな。ぜひもう一度行きたい!


久米を後にしたぼくは、満腹で満足しきっていたので、そのまま歩いてホテルまで。途中、天神のブックオフに寄って絵本を物色。なんだ、九州福岡まで来て BookOff かよ。


2010年8月26日 (木)

島村利正の小説に登場する、古きよき高遠の人と街並み

■『奈良登大路町』島村利正(新潮社)に収録されている「庭の千草」がよい。『島村利正全集・第二巻』(未地谷)では、p109〜p164に収録。この小説は、昭和44年2月「新潮」誌上に発表された。

島村氏は「あとがき」の中で、こう書いている。

 私はながい間、私小説風の作品が書けませんでした。確たる材料をもとに、虚構を組立てる苦しみと喜びのなかに、自分の小説があると、いつも考えていましたが、私は私小説も好きでした。この小説集のなかには、はじめての、私風の私小説も何篇かあります。いちばんながい「庭の千草」は、瀧井孝作先生と「新潮」編集部の激励と叱咤がなければ、できなかったかも知れません。


「庭の千草」は、四季折々の高遠の祭りと街並みの風景を織り込みつつ、高遠でも屈指の富裕な家の一人娘として生まれながら、大正・昭和(戦前・戦中・戦後)の大半を、ただただ悲しみと苦しみの中で生きた島村氏の叔母の数奇な半生が描かれている。


 私の家は横町をくだってきた突き当たり、本町の丁字路のところにあった。屋号が杉村屋という魚屋だった。魚屋といっても東京風の魚屋でなく、塩物、乾物類を扱う店といった方が当たっているかも知れなかった。魚の量より氷の量が多いような樽詰、箱詰で、他国からはいってくる生物の鮪類は貴重品で、その他はほとんど塩物、乾物類が多かった。


 この「杉村屋」は、江戸時代は高遠藩の御用商人としてずいぶん繁盛した老舗なのだが、明治になって店を継いだ一人息子の亀太郎は、いわゆる二代目の若旦那で身上を潰しかけた(詳しくは『仙醉島』参照)。島村氏の祖父母にあたる、この亀太郎とウメには子供がなかったので、横町の「高遠でも屈指の富裕な家」から養子を迎えた。それが、島村氏の父親だ。だから、この小説の主人公の叔母は父の実の妹に当たる。


■小説は、島村氏が生まれ故郷の高遠へ帰って来た場面で始まる。

 

 車の行手には仙丈ヶ岳が見えていた。木曾駒とは反対に、重厚な肩からしぼられたような山頂は高く鋭くそびえ、やはり頂きに初雪をのせた黒っぽい巨大な山容は見事であった。私は伊那市から八キロの道をはしりながら、いつもこのふたつの岳を眺め、帰って来たな、と思うのだった。

 やがて、むかしは鉾持桟道とよばれ、古戦場のひとつであり難所であった町の入口までくると、私は新宿を発つときから考えていたように、そこで車を降りた。荷物はショルダーバッグひとつであった。そこに立って眺めると、故郷の町、高遠は、晩秋の陽ざしのなかで、屋根、屋根が肩をよせ合い、周囲の山々の、燃えるような紅葉の色につつまれながら、こぢんまりとくすんだ表情をして沈んでいた。大きな洋館は役場のほか一、二軒しかなく、むかし風に屋根の上に石を載せた家も何軒か見えて、私はあらためて、変わらない町だな、と思った。

この後もうしばらく続く、鉾持桟道から見た高遠の街並みの描写がすばらしい。見事な導入部だ。


■島村利正は女性の心理描写が実にうまい。様々なタイプの女性が登場するが、みな鮮やかに描き分けてみせる。そうして、もうひとつの特徴。島村氏の文章からは、読みながら「その景色」がまざまざとリアルに目の前に立ち上がってくるのだ。すごく視覚的な文章。もちろん、ぼくが高遠町の出身だから当然なのかもしれないが、でも、ぼくの目の前に浮かぶその景色は、ぼくが生まれる30年も40年も前の高遠の街並みなのだった。


明るく子供好きな(でも子供がいない)叔母さんが、その夫、藤田とサーカスを見に肩寄せ合って天女橋を渡って来る場面がいい。その藤田が、桜町の芸者の鶴代をお行馬橋(おやらいばし)の向こうに妾として囲う。四月、鉾持神社の祭礼。御輿行列の先頭には、大なたを持ったお面の赤天狗が露払いに立った。その役を担った「安さ」が、鶴代の家の庭仕事をしていて、著者と従兄弟とが鶴代の家に石を投げ入れたところを、その「安さ」に捕まってしまうのだった。


四月下旬になると、城趾公園の桜が満開になる。その夜桜見物のシーンが、まるで映画のようだ。偶然、小学性の著者と叔母が、向こうからやって来る鶴代一行とすれ違う場面。すごい緊迫感。読みながら匂いがしてくる。女の人の淫靡な匂いが。


そのつぎは、秋の「灯籠祭り」のシーン。鶴代の次に藤田は花柳界の仕込みっ娘だった素朴な田舎娘「お兼」を囲って子供を作る。


 燈籠祭りは、伊那谷でも珍しい風雅な祭りだった。その日はどの家でも、丈の高い孟宗竹を一本ずつ切取ってきて、家の前にすこし前かがみに立て、それに小さな滑車で動く麻縄をつけ、その縄に赤い提燈を上から下まで十くらい吊して、夕刻から一斉に燈を入れるのだった。
 青竹に赤提燈のならんだ町通りは、ながい夢のトンネルのようで、その夜の本町、仲町、霜町とつづくながい通りは、不思議なひかりで彩られる。(中略)

 本町通りのなかほどに、桜町の方からあがってきた暗い路地の口があった。片方は黒弁という醤油屋の蔵と塀で、反対側は伊吹屋という料理屋の板壁になっていた。

 叔母はそこまできて、人通りのなかでふと立停り、路地の入口から通りの賑わいを珍しそうに見ている、四、五歳の女の子に気づいた。紅い小綺麗な着物をきて、切下げ髪にしていた。叔母は色の白い、眼鼻立ちの美しいその子を見てハッとした。お兼の囲われている家が、その路地をくだっていった裏通りにあることも、頭のなかにあったかもしれない。叔母は瞬間的に、藤田の子だ、お兼の子に違いないと思った。


ぼくは、このシーンが一番好きだ。「その路地」とは、今で言えば「牛山文房具店」と「にんべん酒店」の間の路地に違いない。通りを挟んで反対側には、酒造「仙醸」の蔵元がある。


■登場人物たちが交わす会話も、読みながらしみじみしてしまう。

「そうだに」 「〜だなえ」 いまではあまり聞かれない言い回しだ。意外と「ずら」を使っていないことが面白い。


■著者が小学性のころ、深夜近くになって、高砂町から嫁入り行列がやってくる場面、同じく、新内流しが三味線を弾きながら、高砂町から横町に曲がって、新町、袋町の料亭方面へ向かっていく夜の闇の暗さ。まだ寂れ行く前の、大正時代の高遠の町の賑わい。そういった諸々が、じつに見事に描かれている。ほんとうに美しい小説だ。


ラストシーンは、著者が月蔵山に登って、頂上から遙か夕暮れの高遠の町を見下ろす場面で終わる。実に、しみじみと美しい描写だ。


■せっかく「高遠ブックフェスティバル」が開催されるなら、高遠が生んだ偉大なる「昭和の文士」島村利正氏の「この小説」もしくは他の小説『城趾のある町』『仙醉島』などに描かれた「高遠の各地・場所」を巡るツアーみたいな企画が、あってもいいのではないかな? ふとそう思った。 


2010年8月25日 (水)

「島村利正」がなぜかマイブーム

■このところ、このブログもずっとワンパターンの本の感想文のみ。
すみません、今日もそうです。しかも、Twitter からのコピペ。


高遠の実家で『奈良登大路町』島村利正(新潮社)のハードカバー本を見つけ、巻頭の「庭の千草」を読み始める。あぁ、これはいいなぁ。島村利正氏は高遠町の出身。氏の生家は本町の「カネニ嶋村商店」だ。長男であった島村氏は何故か家を継がなかった。「庭の千草」は氏の叔母さんの話。(つづく)
11:13 PM Aug 13th webから


すっかり忘れられた作家であった島村利正氏に、思いがけず再びスポットが当たった。それは、堀江敏幸氏が『いつか王子駅で』の中で、作家・島村利正を紹介したからだ。曰く、「このひとの行文から漂ってくる気韻に似たものはいったいなんだろう(中略) ああ、これは、檜の香りだな、と思い到った。」
11:30 PM Aug 13th webから


母の「お新盆」の祭壇を片付けに、今日夕方、高遠の実家へ行った。お新盆はほんと大変だったが、何とか無事のりきってホントよかった。帰りに高遠町図書館に寄って、『島村利正全集・第一巻、第二巻』を借りる。第二巻に収録の「庭の千草」が、戦前戦後の高遠の町を見事に活写していて、たまげたからだ
2010年8月19日 00:00:15JST webから


で、今日借りてきた第二巻には、同じく島村氏の故郷「高遠」を題材とした『城趾のある町』が収録されている。先ほどから読み始めたのだが、p377にある記載「本町には問屋門を構えた本陣が遺っていて、その家がそのまま、南原という医院になっていた。先生は可怕い人であった。」とあるが僕の祖父だ
2010年8月19日 00:06:58JST webから


島村利正、昭和19年の短編『仙醉島』を読む。『庭の千草』『城趾のある町』に先駆けて書かれた、高遠の祖母の話。明治時代、夜昼となく様々な物資を載せた駄馬が街道に五百頭、高遠の町内に五百頭動いていたという。遙か昔の高遠の町が目に浮かぶようだ。
2010年8月23日 23:18:36JST webから


島村利正『仙醉島』は、この10月にポプラ社から刊行される「百年文庫」50巻の第10巻(季)に、円地文子、井上靖の短編といっしょに収録されるらしい。堀江敏幸『いつか王子駅で』には、38ページに記載がある。
2010年8月23日 23:58:25JST webから


毎日少しずつ島村利正の短編小説を読んでいる。今日は昭和18年に書かれた『暁雲』。この小説は芥川賞候補になった。この小説もいい。じつにいい。新しい撚糸の開発に昼夜心血を注ぐ若き夫をそっと支える妻の話。でも、ゲゲゲの女房とはぜんぜん違う妻と夫。『いつか王子駅で』では35ページ。
2010年8月25日 21:55 webから

2010年8月22日 (日)

『昭和の爆笑王 三遊亭歌笑』岡本和明(その3)

さて、ようやく『昭和の爆笑王 三遊亭歌笑』岡本和明(新潮社)の感想。


・ちょうど、NHK朝の連続テレビ小説『ゲゲゲの女房』と同じ感じ、とでも言えばよいか、400ページ近い本の全体の 2/3近くが、売れる前の下積み時代の話が続く。これが読ませるのだ。

・歌笑は、他の貧乏な落語家の幼少時代とは異なり、いいとこのお坊ちゃんだった。東京の西の外れ五日市で、歌笑の父親は女工50人以上も抱える製糸工場の社長で、地元でも屈指の裕福な家だった。

・本来なら、御曹司として(次男ではあったが)父母の元で愛情に満ちた幼少時代を送るはずだったのだが、生来の斜視と弱視と出っ歯による特異な顔貌のために、母親からは「何であの子だけがあんな顔で生まれたのか……」と嫌われ、すぐに里子に出されてしまう。だから彼は、ほんとうの「母の愛」を知らない。母親との愛着形成ができなかったのだ。


・彼は家族からも疎まれ、近所の子供たちから虐められ、それはそれは惨めな子供時代だったのだが、里子に出された先の「ヒサ」を母のように姉のように慕って育った。ヒサとの間には、確かに愛着形成ができたのが彼には幸いだったと思う。戦後人気者になった歌笑は、実の母親とは最後まで疎遠だったという。その代わり、育ての親のヒサには何度も会いに行ったし、師匠の三代目三遊亭金馬の女将さんや、妻となった二二子さんには、まるで幼児に戻ってしまったような感じで甘えていたという。


・この本に載っているさまざまな面白いエピソードは、前述の『なつかしい芸人たち』色川武大(新潮文庫)や『高座奇人伝』小島貞二(ちくま文庫)にも載っている。でも、三者それぞれ微妙に違っていて、いったいどれが真実なのかよく判らないところが面白い。もちろん、最後に出版された「この本」が一番正確なのであろうが、必ずしもそうじゃないかもしれない? と読者に思わせてしまうところが、「この本」の一番の弱みだと思った。

・というのは、「この本」は読んでいて、まったく暗くないのだ。とにかく美談やいい話に満ちている。しかも、悪人が一人も登場しない。みんないい人。そんな訳ないだろ! 読んでいて、そう思ってしまうのだな。もしも、歌笑の評伝を色川武大が書いていたとしたならば、きっと、もっと主人公に対しての「毒」があったんじゃないかと思う。この本には、その「毒」がないのだ。そこが不満だ。

・でもたぶん、こんな時代(平成22年夏)だからこそ、著者は殺伐とした戦争末期から敗戦後の未来も希望もない時代であった「たった5年間」に、パッと花開いて瞬く間に散っていった、奇跡の「あだ花」歌笑のことを、努めて明るく描ききったのかもしれないな。


・他の本にはない記載で特筆すべきことは、歌笑がどんなに同じ噺家仲間からバカにされ虐められても、彼のことを認めて支えた人たちがいた、ということだ。まずは、彼の師匠、三代目三遊亭金馬。弟子にはもの凄く厳しくて「このバカヤロウ!」と絶えず拳骨を飛ばしていたと言われた師匠だが、この本を読んでみて、大好きな金馬の落語以上に、この人のことが好きになったよ。本当に弟子思いでいい人だ。歌笑がしくじった、愛犬「寿限無」のくだりには、ほんと泣けてしまったな。


・それから、五代目・柳家小さん。歌笑より1つ年上の小さんとの友情も泣かせる。本に書かれている彼の口調が、まさに「小さん」そのものなのでリアリティがあるのだ。桂三木助との兄弟愛といい、歌笑との友情といい、小さんていう人は本当にいい人だったんだなぁ。泣かせるぜぃ。


・あと、歌笑が師匠をしくじって「お前は破門だぁ!」と金馬に言われる度に、実家の五日市に帰り、長兄の照政氏が同行して金馬師匠に詫びを入れたという。不出来ながらも、弟の才能を信じてずっと援助してきた兄、照政。彼なくしては、あの歌笑の絶頂時代はなかったであろう。

・それからもう一つ。歌笑の弟弟子。二代目桂小南との関係。これは、他の本には書かれていない。著者は、生前の桂小南師匠に取材しているという。だからの記載なのだ。これは貴重だったな。歌笑は弟弟子・金太郎(桂小南)と本当に仲が良かったようだ。

・これも有名な話だが、三遊亭金馬の三番弟子、桂小南はずいぶんと苦労した人だ。京都出身で、上京したあと日本橋の呉服問屋に丁稚小僧として修行に入り、みるみる商才を示して頭角を現し、わずか17歳で番頭に抜擢されるほどの実力があった。店主から上野の店を任せられるほどになっていたのに、その全てをなげうって、彼は好きな落語の道に入ることを決意し、金馬の門を叩く。金馬の家にいたのは、当時内弟子であった歌笑だ。

歌笑も「なまり」に苦労したが、桂小南はその京都弁のためにもっと苦労した。ただそれはまた別のはなし。


・ところで、三遊亭歌笑の肉声が、ネット上で聴けるのです。

昭和24年に録音されたSPレコードの復刻盤。


<こちらのサイト>の下のほうにある、「三遊亭歌笑・音楽花電車」をクリックしてみて下さい。そうすると、前編・後編が聴けます。

2010年8月21日 (土)

『昭和の爆笑王 三遊亭歌笑』岡本和明(その2)

ちっとも「この本」の感想にたどり着かないのだが、
家に歌笑さんのことが書かれた本が他にもないかどうか探してみたら
もう1冊見つかった。『高座奇人伝』小島貞二(ちくま文庫)だ。
この本は、買ったきり読んでなかったな。


 歌笑は、戦後の暗い、あのやるせない時代に、”笑い”という灯を、国民の胸に灯してくれた点、”歌”を与えてくれた笠置シズ子とともに、忘れることが出来ない。
 文中にもふれたようないきさつで、私と彼は親しい友人だった。そんな縁でその没後、彼のいとこの当代歌笑とも親しくしているし、二二子未亡人とも折にふれて、お目にかかることが多かった。現に「純情詩集」などの作品群も、そのご好意で紹介させていただいたものである。

 この『爆笑王歌笑純情伝』を書いたのは、昭和43年であった。(中略)

 そして、年が改まって53年の2月。
 歌笑の長兄で、五日市の高水家を襲いでいた照政氏がなくなった。享年68。歌笑が育ったこの生家は、大きな製糸工場だったが、その後、工場は閉鎖となり、広い土地を開拓して、うらの秋川渓谷にのぞむあたりに、宿泊も出来る「黒茶屋」を建て、一帯を観光センターにした。

 数年前、私も行ったことがあるが、夏のキャンプ地として、若者で賑わっていた。
 町の名士だけに、その葬儀は盛大をきわめ、ひっきりなしに来る悔やみの客のために、仏壇の電気は、一週間以上も消すことを忘れた。その仏壇の漏電から出火、母屋はアッという間に全焼した。黒茶屋までは火が及ばなかったのは、不幸中の幸いであったというほかない。

 一方、五日市町では、町が生んだ英雄として、歌笑のための顕彰碑を建てる議が進み、準備に入っていた。そのため、歌笑ゆかりの遺品などが、東京から生家に運ばれていた。それも、ほとんど持ち出すひまもなく灰となったという。
 その中に、歌笑自筆のノートや、新聞なののスクラップ・ブックがあった。「純情歌集」などの作品群の載ったものである。

『高座奇人伝』小島貞二・著(ちくま文庫)「爆笑王歌笑純情伝・余滴」p321〜p324

2010年8月20日 (金)

『昭和の爆笑王 三遊亭歌笑』岡本和明(新潮社)

■今夜の『うぬぼれ刑事』は面白かったなぁ。小泉今日子が思いのほか良かったのだ。続いて『熱海の捜査官』が始まる。さて、こちらはどんな展開が待っているのか。楽しみ。


■『昭和の爆笑王 三遊亭歌笑』岡本和明(新潮社)読了。面白くて一気に読んだ。

芸人さんの評伝はみな面白い。春風亭柳朝の評伝『江戸前の男』吉川潮(新潮文庫)、同じく吉川潮氏の二代広澤虎造一代記『江戸っ子だってねぇ』は読んだ。柳家三亀松の評伝『浮かれ三亀松』は未読。吉川潮氏が書く評伝は、まるで落語の人情噺みたいで、笑って泣いてまた泣いて読み終わる頃には、その芸人さんがまだ売れない昔からのファンだったような錯覚に陥ってしまうのだった。

ただ、本を読む前に広澤虎造はCDで「清水次郎長伝」を聴いていたし、春風亭柳朝は小中学生のころ、テレビやラジオで落語を聞いた覚えがある。

しかし、この「三遊亭歌笑」という人は「歌笑・純情詩集」という言葉だけは知っていたが、どんな落語家さんだったのか全く知らなかった。以下の文章を読むまでは。

 十一人兄弟の次男として東京都下西多摩郡五日市の製糸工場に誕生。幼時、眼を患って右眼はくもがかかりまったく見えず、左眼には星があって、天気予報みたいだね、といわれた。(中略)

 戦時中、中学生のころ、神楽坂の寄席ではじめて彼を見た。歌笑というめくりがあったから、もう二つ目だったか。十人くらいの客の前で「高砂屋」をやったが笑い声ひとつたたない。なにしろ、極端な斜視で、口がばか大きくて、その間の鼻が豆粒のよう、ホームベースみたいにエラの張った顔の輪郭、これ以上ないという奇怪なご面相だ。醜男は愛嬌になるが、ここまで極端だと暗い見世物を見ているようで、笑うよりびっくりしてしまうのである。誰よりも当の本人が陰気で、一席終わるとしょんぼりという恰好でおりていった。立ってもチンチクリンの小男で、がりがりに痩せていた。

 それからしばらくして、二度目に出会った歌笑は、別人のように自分のペースを作っていた。登場すると、奇顔を見ていくらかどようめいている客席を見おろすようにして、歯肉までむきだして笑って見せる。それだけでドッと来た。プロになったな、と思ったものだ。(中略)

 そうして終戦。本人もびっくりするくらいのスピードで、超売れっ子になる。(中略)

 歌笑は師匠の金馬以外の当時の寄席関係者から、ゲテ物、異端、というあつかいしか受けていないけれど、まぎれもなく当時の誰よりもモダンであり、前衛であった。(中略)

 ずっと以前、歌笑のことを小説にしようと思って、ずっと取材を重ねていたことがある。歌笑が端的にかわいそうで、小説にする気にならず、材料は山ほどあったのだが放棄した。(中略)

 昭和25年5月30日、夫婦生活誌の大宅壮一氏との対談をすませて、急ぎ足で昭和通りを渡ろうとして、進駐軍のジープにはねられた。内臓破裂で、即死だった。マネージャーは出演予定の映画の打合せで居らず、ジープは逃げ去ったまま。目撃者はたくさん居たが、うやむやのままだ。新居完成祝いが一転して葬式になってしまった。享年三十三。

『なつかしい芸人たち』色川武大(新潮文庫)p182〜p188「歌笑ノート」より

それからもう一冊。『現代落語論』立川談志(三一書房)82ページ。

ラジオはNHKだけなので、落語が聞けるのは日曜日夜のラジオ寄席、金曜日の第二放送の放送演芸会、時折劇場中継としての寄席中継ぐらいのものだった。さらにくわえれば、第二放送の若手演芸会ぐらい。この若手演芸会には、馬生、小金馬(腹話術)、貞鳳、人見明とスイングボーイズなどといった人たちがやっていた。中で何といっても三遊亭歌笑の全盛時代、それと楽しかったのは、当時ちょうど油の乗り切った感じの三木トリローの日曜娯楽版。

 ところがある朝、目がさめるとおふくろに、
 ”お前、歌笑が死んだョ”
 と、新聞をみせてくれた。

 三面に小さく、”歌笑師禍死”と書いてあった。腹が立った。信じられなかった。あの歌笑が死ぬなんて、いやだった。悲しくて口惜しくてたまらなくなり、そんな馬鹿なことがこの世にあるもんかと、涙がこぼれた。

 他人が死んでこんな気持ちになったのは、歌笑と和田信賢が死んだ時ぐらいで、あとにも先にもこの二つぐらいしか思いだせない。



2010年8月13日 (金)

『ジャズ喫茶論 戦後の日本文化を歩く』マイク・モラスキー(筑摩書房)その2


■先ほど読了した。この本はほんと面白かったなぁ。

普通、ジャズ喫茶の話となると、昔はよかったなぁっていう、単なるノスタルジーだけで語られた本がほとんどだったのに、この本は違った。第一に、著者が変な外人(セントルイス生まれのアメリカ人)で、しかも、一橋大学社会学研究科教授の肩書きで「日本語」で書かれた本である、ということが驚きだ。彼の書く日本語がじつによくこなれていて読み易いのだ。


第二に、各ジャズ喫茶が自慢するオーディオ・スペックや、ジャズレコード・コレクションを記載することを、意識的に排除したこと。これが意外だった。当時、ジャズ喫茶のスピーカーは「JBL派」と「アルティック派」とに分かれていた。それぞれの代表が、岩手県一関市の「ベイシー」と、東京は門前中町にあった「タカノ」だ。もちろん、この本には日本のジャズ喫茶のメッカであった、この2つの名店の記載はある。「タカノ」はマッチの写真も載っている。でも、著者は微妙に外して紹介しているのだ。そこに、モラスキー氏のポリシーを感じて面白かった。

第三に、著者が「ジャズ喫茶」体験をした時期と、ぼくが「ジャズ喫茶」体験をした時期とが、ぴったし一致すること。本書264ページによると、それは「ジャズ喫茶混迷期 --- 1973年頃〜1980年代初頭」に当たる。巻末に載っている、著者が全国旅して取材した各地の「ジャズ喫茶」リストを見ると、ぼくが大学生の頃に日本全国を旅して巡って実際に訪れた「ジャズ喫茶」が25店以上もあった(現在は営業していない店も含めると)。あのころ集めた「ジャズ喫茶のマッチ」を、たしか今でも取ってあったはずなのだが、納戸の奥の段ボール箱の中に仕舞われているみたいで、発見できなかった。残念。


■ぼくは「Web ちくま」に著者の連載が載ったときから、ずっと楽しみに読んできたのだが、1冊の本になって読み返してみると、実に見事に再構成されていて、すごく読み易くなっていることに感心した。


それから、読みながら「はっ!」とさせられる記載が随所にあったことも注目に値する。たとえば、

そして、あまり指摘されないようだが、ジャズ喫茶の店主たちの中に、社会の主流的価値体系に抵抗心は抱いていても、闘争や組織などに直接関わったりする人が少なかったように思える。つまり、個人レベルでは大まかな「反体制精神」は共有していても、基本的に「ノンポリ」の店主が圧倒的だった、ということは見逃せない。(p263)

たしかに、かつてジャズ喫茶の店主でもあった村上春樹は、まさにそうだった。

 基本的には店主がレコードを棚から選択し、ジャケットから盤を取り出し、ほこりをきれいに拭き落とし、ターンテーブルに置く前に表面の針の傷の有無を点検し、そしてターンテーブルに置いてから位置を慎重に定めながら針を落とす。どの行為もきわめて慎重に行われ、見ている客には、レコードとオーディオ装置の希少性が十分に伝わり、同時に店主自身のジャズに対する知識と愛情が披露される結末になる。

 私はこれらの行為を<パフォーマンス>と見なしたい。いわば、<通の演技>である。あるいは、演奏するという不在のミュージシャンの代理行為とでも見なせるかもしれない。(中略)

 ところで、LPに対するフェティシズムはあっても、CDに対するそのような態度をジャズ喫茶ではほとんど見かけない。(中略)

 ジャズ喫茶でCDがヒンシュクを買っているとしたら、その理由は単に音質や上記の具象性をめぐる問題だけに由来するのではないような気がする。店内の秩序を乱し、しかも店主や店員のパフォーマンス的表現の大事な一部を奪ってしまう、という効果も関係しているのではないかと思う。

■この本が、単なるノスタルジーに終わらない店を挙げるとしたら、


1)アメリカ軍基地がある街には「ジャズ喫茶」が数多く存在するに違いない、ということにこだわっているところ。彼はそのために沖縄を何度も訪問している。これは、日本のジャズに言及した評論の中で、欠落していた視点だと思った。


2)地方の、一般にはほとんど知られていない「ジャズ喫茶」にスポットを当てた功績は大きいな。特に、北海道は函館の「バップ」(ここは僕も行ったことがある)とか、海のない埼玉県にある「海」という名のジャズ喫茶とか。あとは、大阪阿倍野区(たぶん飛田遊郭の近く)にあった「マントヒヒ」や、若松プロダクションに所属していたマスターの店「ろくでなし」の紹介。

それから、熱海の遊郭街の外れで細々と営業を続ける「ゆしま」とか。常連は、結婚してもいい相手かどうか、ゆしまのママに鑑定してもらっていたという。


あとは、ジャズ喫茶といえば昔から敵対関係にあった「JASRAC」の著作権に対する取り立ての話も面白かった。断固許さず対決して裁判で負けた、新潟「スワン」のマスターの話をもっと聴きたいぞ。


3)著者は「ジャズ喫茶」を決して「過去の遺産」もしくは「博物館」としてノスタルジックに懐古しているのではなくて、新しいタイプの「ジャズ喫茶」に期待している記述があること。

その、新しいタイプのジャズ喫茶とは、沖縄県ゴザにできた「スコット・ラファロ」と、井の頭公園の脇のビル7階にできた「ズミ」だ。それから、大阪にできた古本屋&ジャズ・カフェの「ワイルド・バンチ」も期待できるか。


4)日本人が、よくジャズを分類する時に使う「しろ(白人)」「くろ(黒人)」の表記はナンセンス! と著者が声高に主張している点。これは気付かなかったな。なるほど。ぼくも知らずとそういう分類をしたきたような気がする。女性ジャズ・ヴォーカルなら、やっぱり白人金髪とか。動機が不純だね。


5)ジャズ本来の楽しみ方である「ライヴ」と、ジャズ喫茶で再生される「レコード」での「ライヴ録音」の関係。その「リアルさ」を競うこと。それはそのまま、落語の再生記録は、DVDで見てもちっとも「リアル」には感じられないのに、CD(もしくはレコード)の音だけで目を閉じて聴けば、リアルな寄席の空間が体感できることと同じだ。

(もう少し続くかも)

2010年8月 9日 (月)

マイク・モラスキー著『ジャズ喫茶論』(筑摩書房)

■先日から、マイク・モラスキー著『ジャズ喫茶論』(筑摩書房)を読んでいる。じつに面白い。彼(モラスキー氏)が来日して初めて新宿アルタ近くの「ジャズ喫茶」体験をしたのは、1976年9月。その約半年後に、ぼくも同じジャズ喫茶で新宿デビューした。それは『びざーる』という名のジャズ喫茶だった。たしか『ディグ』よりも先だったように思う。

当時すでに、ぼくの故郷の伊那市にも「ジャズ喫茶」があった。サッチモの笑顔が白い線で黒地に描かれたマッチの「アップル・コア」だ。僕が高校生になった年(2年生じゃなくて)に伊那バスターミナル向かいから少し南へ下ったビルの2階にオープンした(いま『ジャズ批評別冊・ジャズ日本列島61年版』を調べたら、昭和49年5月21日オープンとある)。同級生だった小林君なんかは、さっそく常連になって昼間から(?)入り浸っていたみたいだが、当時ぼくはまだジャズを知らなかった。

だから、高校生の頃には「アップル・コア」の怪しい雰囲気が怖くて、とても足を踏み入れる勇気はなかったな。結局、この店に初めて入ったのは、1979年の夏だったか。この頃にはもう、タバコをすぱすぱ吸っていたなぁ。

それからさらに数年して、アップル・コアの名物美人ママが突如ニューヨークへ行ってしまい、JBLのオーディオ・システムも、ジャズ・レコードもそのまま居抜きで、この店は人手に渡ってしまった。その途端、客足は一気に減ったという。結局あの店はママさんの妖しい魅力で保っていたんだね。

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■読んでいて思わず笑ってしまったのは『ジャズ喫茶論』の55ページ。そうか、ジャズ喫茶のマスターって、じつは店主の意味じゃなくて、スターウォーズの「ジェダイ・マスター」と同じ意味の「師匠」だったんだ。なるほどなぁ。(つづくかも)

2010年8月 7日 (土)

「まっとうな芸人、圓生」色川武大

■自分で文章を綴るパワーが相変わらずないので、今日も他人の文章を勝手にアップするご無礼、どうかお許しください。


「まっとうな芸人、圓生」色川武大


 文楽、志ん生、圓生----、昔、寄席にかよいつめていた頃、私たちにとってこの三人が落語家の代名詞であった。金馬も底力があったし、三木助や現小さんも売出し中だったけれど、私どもにとって文楽、志ん生、圓生、がすべてだったといってもよい。(中略)


 文楽、志ん生にはそれぞれ明快な華があったが、圓生はいくらか陰な感じで、それが三本指には入っても、トップ一人を選ぶとなると、圓生とはいい難い理由だったろうか。
 けれども、だからといって他の二人に毫も劣る落語家とは思わない。特に、昭和二十年代後半から三十年代にかけての圓生は、私にとって”凄い落語家”であった。

 私は、芸というものに対して、点を辛くするのが礼儀だと思う。聴いている者の心底に深く重く残るような芸でなければ拍手をしない。そのくらいに”芸”というものを尊敬したい。だからこの一文も、亡き圓生の霊にヨイショしているつもりはない。(中略)


 私にとって圓生のどこが凄かったか。


 まず、第一に映画でいう屋外シーンの巧さである。たとえば『鰍沢』の、半分しびれたようになった旅人が、こけつまろびつ、雪の中を逃げていくところ。あるいは『三十石』の淀川の夜気。『乳房榎』の落合の川辺に蛍飛びかう闇の深さ。例にあげればまだたくさんある。いかにも私たち自身がそこに居て、風の気配、空気の味まで存分に浸ることができる。

 落語は、扇子と手拭いだけで、さまざまの人物を演じわけるという概念を、圓生はもうひとまわりワイドにしてくれた。私の知る範囲では、人物の喜怒哀楽の表現にとどまらず、あたふたする人間たちと対比させるように大きな自然までを描いて生彩を発揮した落語家を他に知らない。(中略)

 
 第二に、これも大きなことだが、圓生の描く女の味わいである。圓生を聴くひとつの楽しみは、女の描出が深いことであった。

 文楽も、志ん生も、個性は違うが、男の演じ手であったと思う。主題はたとえ女の話であっても、文楽も、志ん生も、いつも我が身の命題みたいなものをひっさげていた。男の哀しさ、世間の主流からはずれた男たちの、奇態にしか生きられない哀しさ、そうしたものを落語の形を借りていつもむんむんと発散していた。それが気魄となり、濃厚な説得力をうんでも居たと思う。(中略)


 これに対して圓生は、彼等ほど自分の命題に執着していないように見受けられる。内心深く、叫びたいことはあったかもしれないが、落語に対する姿勢は微妙にちがう。
 圓生は、前二者よりもずっとまっとうに、話芸そのものに深く入りこもうとしたように思う。だから、ポイントは、何を演じるか、ではなかった。如何に演じるか、という人であった。

 当然のことながら、眼の人、描写の人になる。万象をどう眺め、感じとった物をどう演じるか。
 文楽や志ん生にとって、女は、話の中でも他人であった。いうならばオブジェで、主体は男の側にある。が、圓生にとっては、脇人物だからオブジェで方づけるというわけにはいかない。話全体が主人公なのである。だから人物のみならず、花鳥風月、樹立ちや闇や空気の揺れまでも等分に眼を配らなければならないことになる。(中略)

 その意味では圓生は辛い。自分の方に話をひっぱることをしないで、無限に完璧化していかねばならない。
 その辛い作業をよくやったと思う。圓生はよりよく演じるためにまず無限に近い気配りを持って万象を眺めなければならなかったろう。そうして掬いとったものは、それが真実であるという理由でどうしても削除するわけにはいかない。(中略)


 数多い圓生の極めつけの中で一つ選ぶとすれば、私は『包丁』をあげたいが、この不逞な男女の心情を美化など少しもせず。それでいて話芸の持つ美しさ快さに深くひきずりこまれること、おどろくばかりである。
 その他、『お若伊之助』『乳房榎』『累ヶ淵』『火事息子』など描写の要素の濃い人情噺系がどうしても主になるが、『豊竹屋』だの『一人酒盛』だの軽いものにも好ましいものがたくさんある。


 考えてみると、私は圓生と個人的面識はない。ただ寄席の隅で高座を眺めていただけで、それも烈しく聴いたのは人形町の独演の頃の前後十年ほどである。けれども子供の頃から、その声に親しみ、その所作、その話法が血肉化するほどになっていて、お新香や味噌汁と一緒に自分の一生に当然いつまでもついてまわるのだと思っていた落語家たちが、今はもう皆亡い。それが信じられない。

 眼をつぶると、清々とした圓生の出の姿が浮かんでくる。文楽も清々としていたが、練り固めて身構えているような静けさだった。小腰を折って出てくる柳好は芸人というより幇間的だし、顎を突き出してくる志ん生、ズカズカッとくる金馬、現小さんのノソノソ歩き、とこう考えてくると、圓生の出はスッキリと、しかも柔らかくあれが本当の芸人という感じがする。


 圓生はまっとうな、という点でまちがいなしに巨きな芸人であった。


(雪渓書房『六代目三遊亭圓生写真集』1981年刊) →『色川武大・阿佐田哲也エッセイズ2 芸能』(ちくま文庫)p150〜p157 より。


2010年8月 4日 (水)

『ひそやかな花園』角田光代(毎日新聞社)

■この小説の面白さを、ネタバレなしで紹介することは不可能です。


だから、もし興味を持ったなら、何の前情報もなく「この小説」を読み始めてみて下さい。そうして、あなたが最終章を読み終わった時、得も言われぬ満足感にひたれたなら、何よりもうれしい。

そういう小説です。

あと、検索で先頭にでてくる「サンデーらいぶらりぃ」青柳いづみこさんの『ひそやかな花園』書評。1行目から完全ネタバレなので、未読の方は読んじゃだめです。


でも、作者の「連載を終えて」は読んでも大丈夫かも。

ついでに、忌野清志郎の大ファンであった、角田光代さんの「追悼文」も発見した。


<以下、少しネタバレあり> 

ぼくは読み始めて10ページも行かないうちに、ははぁ、この小説は、角田光代版『わたしを離さないで』なんだなって、瞬時に理解した。

そして読み終わったいま、その「予感」が、まんざら間違いではなかったと感じている。
ほぼ同世代の(でも、微妙に年齢の異なる)男の子3人と女の子4人。

この子供たちは、毎年夏休みの数日間を家族といっしょに高原のウッドハウスで過ごす。サマーキャンプと称して。子供たちは、彼らがどういう間柄なのかは知らされていない。いっしょに参加した大人たちは、どうも何か隠しているらしい。


彼らは、運命を超えた宿命で結ばれた子供たち7人だったのだ。


その宿命とは、本来なら「生まれてくる必要がなかったかもしれない子供たち」という共通点があること。
でも、彼ら彼女らの母親はみな「無敵な気分」でもって、彼ら彼女らの誕生を心から望み、そして産み育ててきた。
そのことが果たして正しかったのか? それとも。


この小説は、あの傑作『八日目の蝉』のネガ・ヴァージョンだと思う。
血縁のある実の親子でも、乳幼児期という子供にとって一番大切な時期をいっしょに過ごせなかったなら、決して親子の愛着関係は結べないし、全くの赤の他人でも、お互いに愛着関係が形成されれば、確かに「親子」になれる。『八日目の蝉』は、そういう小説だった。


ところが、『ひそやかな花園』では逆に、オギャーと生まれてきた子供自身にはどうしようもない「自分の出自」に焦点があたるのだ。遺伝子学的、生物学的な自分の出自は、果たして「どうしようもない宿命」なのか?

この小説の中で、この問いが何度も提示される。


小説を読みながら、いろんな思いが自分にはね返ってくる。
「ぼくはどこから来たのか、ぼくは何者か、ぼくは何処へ行くのか?」

でも、歩まねばならぬ。そう思う。だって人間だから。


地球上に存在する生き物の中で、人間(ホモサピエンス)は特異な生物だ。
世界中のありとあらゆる土地で、人間は生活しているからだ。
動物でも、植物でも、そんな生物はひとつもない。
自分に合った環境の土地にずっと定住して動かない。


ところが現世人類は、今から約7万年前にアフリカ大陸を出て、あれよあれよとヨーロッパからユーラシア大陸を移動し、またあるグループは中近東からインド、東南アジアを経てオーストラリアへ渡った。さらにマンモスを追って北上したグループは、アリューシャン列島を越えアラスカに至り、さらにたった数百年で北アメリカから南アメリカ最南端まで一気に縦断したという。

人間はなぜ、そうまでして移動して行ったのか?
それは、人間だけが持つ「好奇心」のたまものだと思う。
「ここよりほかの場所」への好奇心。

あの山の向こうには、いったい何があるんだろう?
どんな人たちが住んでいるんだろう?

そういう「旅する心」が本質的に備わっているんだと思う。
人生も旅だ。当たり前のようだけれども、この本を読み終わって、
あらためてしみじみそう思った。


最終章がいい。とってもいい。この章の書き手(私)が、あの、紗有美であることに、すごく「ほっ」とした。角田光代は、こういう女の子を描くのが実にうまい。

ふと読み返すと、プロローグも実は紗有美の「一人語り」だ。
なるほど、そういうことか。


ところで、この小説に登場する「ハル」と、『キッドナップ・ツアー』の主人公「ハル」とは明らかに別人なのだが、作者の中では、どこかでつながっているのだろうか?


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