『昭和の爆笑王 三遊亭歌笑』岡本和明(その2)
■ちっとも「この本」の感想にたどり着かないのだが、
家に歌笑さんのことが書かれた本が他にもないかどうか探してみたら
もう1冊見つかった。『高座奇人伝』小島貞二(ちくま文庫)だ。
この本は、買ったきり読んでなかったな。
歌笑は、戦後の暗い、あのやるせない時代に、”笑い”という灯を、国民の胸に灯してくれた点、”歌”を与えてくれた笠置シズ子とともに、忘れることが出来ない。
文中にもふれたようないきさつで、私と彼は親しい友人だった。そんな縁でその没後、彼のいとこの当代歌笑とも親しくしているし、二二子未亡人とも折にふれて、お目にかかることが多かった。現に「純情詩集」などの作品群も、そのご好意で紹介させていただいたものである。この『爆笑王歌笑純情伝』を書いたのは、昭和43年であった。(中略)
そして、年が改まって53年の2月。
歌笑の長兄で、五日市の高水家を襲いでいた照政氏がなくなった。享年68。歌笑が育ったこの生家は、大きな製糸工場だったが、その後、工場は閉鎖となり、広い土地を開拓して、うらの秋川渓谷にのぞむあたりに、宿泊も出来る「黒茶屋」を建て、一帯を観光センターにした。数年前、私も行ったことがあるが、夏のキャンプ地として、若者で賑わっていた。
町の名士だけに、その葬儀は盛大をきわめ、ひっきりなしに来る悔やみの客のために、仏壇の電気は、一週間以上も消すことを忘れた。その仏壇の漏電から出火、母屋はアッという間に全焼した。黒茶屋までは火が及ばなかったのは、不幸中の幸いであったというほかない。一方、五日市町では、町が生んだ英雄として、歌笑のための顕彰碑を建てる議が進み、準備に入っていた。そのため、歌笑ゆかりの遺品などが、東京から生家に運ばれていた。それも、ほとんど持ち出すひまもなく灰となったという。
その中に、歌笑自筆のノートや、新聞なののスクラップ・ブックがあった。「純情歌集」などの作品群の載ったものである。『高座奇人伝』小島貞二・著(ちくま文庫)「爆笑王歌笑純情伝・余滴」p321〜p324
コメント