日常 Feed

2011年10月15日 (土)

10月14日付、信濃毎日新聞夕刊コラム「今日の視角」姜尚中

先週土曜日の10月8日。「伊那弥生ヶ丘高校創立100周年記念式典」が伊那文化会館で開かれた。

記念講演の講師として招かれたのは、今をときめく姜尚中(カンサンジュン)氏だ。

こう言っては失礼かもしれないけれど、多忙で超売れっ子の姜尚中氏が、よくまあ講演依頼を承諾したものだ。すごいなあ、伊那弥生ヶ丘高校。って思った。


そしたら、昨日の信毎夕刊1面の『今日の視角』で、「見えない糸」と題するコラムを、金曜日担当の姜尚中氏が書いていて、なるほどそういう訳だったのか、とすっごく納得した次第です。

このコラム、以前はWeb上でも読めたのだが、いまはどうも信毎のサイトにはアップされていないみたいだ。仕方ないので、以下に無許可転載させていただきます。


<今日の視角> 見えない糸  姜尚中(2011.10.14)


 今月8日、私は伊那弥生ヶ丘高等学校の創立百周年を祝う記念講演の講師として招待された。校舎は東西駒ヶ岳と仙丈ヶ岳に囲まれ、天竜川の恵みを受けた豊かな伊那の沃野に佇んでいた。校門から続く銀杏並木を眺めていると、わたしは何か見えない糸で結ばれる人生の機微のようなものを感じざるをえなかった。


校長の窪田先生から、前身の伊那高等女学校の時代、金大中元韓国大統領の最初の伴侶であった車容愛(チャヨンエ)女史が学んでいたことを知らされていたからである。金大中先生の自伝『死刑囚から大統領へ』(岩波書店)には、妻の車女史を亡くした時の悲しみが切々と語られている。


 1973年の東京での金大中拉致事件以来、金大中先生の波乱に富んだ生涯は、韓国の激動の現代史と重なり、私もその波濤の飛沫を浴びながら青春時代を過ごした。そして晩年、父親と息子ほどの歳の差がありながらも、親しく先生の謦咳(けいがい)に接する機会に恵まれたのである。先生との見えない糸は今も切れずに続いているかと思うと、感無量であった。


そしてさらに驚いたのは、車女史をはじめ、伊那高等女学校の女学生たちが、敗戦間際の昭和19年から20年にかけて、学徒勤労動員で名古屋の軍需工場で海軍軍用機の生産に従事していたことである。実はこの頃、私の父も名古屋の軍需工場で働いていたのである。生前の父の話では、そこは海軍軍用機を生産する工場であったらしく、同じ工場であった可能性も考えられる。


名古屋空襲で一宮市に逃れた父と母は、一粒種の息子(長男)を亡くしており、父と母にとって名古屋での体験は終生、忘れることができなかったはずだ。

 こうして伊那の地での一日は、過去は死なず、今を生きる者たちと見えない糸で結びついていることを実感させることになったのである。 


■姜尚中氏の父親が、名古屋の軍需工場でゼロ戦を作っていた(たぶん同じ)工場で「ぼくの母親」も働いていた。母は伊那高等女学校の第33回生で、母が入学した同じ年、母と同じクラスメイトになったのが、金大中前夫人の車容愛女史(日本名は安田春美さん)だった。母が生前寄稿した、高遠町婦人会文集「やますそ」に『夫「金大中さん」をささえた我が友、安田さん』という文章が残っている。


(前略)韓国生まれだった彼女は、小学校時代を諏訪に住む親戚の家で過ごし、やがて昭和十六年四月伊那高女に入学、私たちと共に一年一組の生徒となりました。

 彼女は寄宿舎から通学しておりましたが、ふっくらとした頬、端正な顔立ち、しっとりとした落ち着きは私たちより少しお姉さんといった感じでした。いつもクリームの甘い良い匂いがして、何だかとてもうらやましかったような記憶が残っています。

 二年生くらいまでは、まだまだのんびりした学校生活でしたが、やがて授業らしい授業もほとんど行われなくなって、勤労奉仕に明け暮れる日々が続くようになりました。四年生になって間もなくだったでしょうか、米軍の本土爆撃を案じたお父さんが迎えにこられ、彼女は韓国へ帰って行ってしまったのです。

 私たちはその年の夏、学徒動員で名古屋へ出発、その後は彼女の消息もぱったりととだえて、戦後、同年会の度に彼女のことが話題となり、その安否が気遣われておりました。(後略)


■母の文章を読むと、姜尚中氏の記載は一部間違っている。金大中氏の前夫人は、ぼくの母といっしょに名古屋へ行ってはいないのだ。

2011年10月 7日 (金)

ありがとう! スティーヴ。

わが家の現役 Mac たちです。真ん中は初代の iPod。まだ現役。

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ただ、しばらく引退していたチタン・ボディの「PowerBook G4」を取り出してきて、Ethernet に繋いだのだが、インターネットの設定条件が変わってしまったので、ネットに繋がらず、従って「G4」だけ、アップル・トップページ画面でなくて、なぜか『ぐりとぐら』になってしまった。残念です。


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■ぼくが初めて自分のコンピュータ(Macintosh LC)を手にいれたのは、1990年のことだ。当時ぼくは、飯山日赤小児科の一人医長で、確かあれは2年目の秋だったんじゃないかな。その前年に、飯山駅前のヤマダ電機でパナソニックのワープロを購入した記憶があるから、うん、たぶんそうだ。それ以来20年以上、浮気をすることもなく、ぼくはアップルに操を捧げてきた。


・Macintosh LC → Duo230c & DuoDock → iMac → PowerBook G4
 → iMac & MacBook 


ただ、何故アップル・コンピュータを選択したのかはよく憶えていない。それまで、Macintosh SE/30 を代表とする、パーソナル・コンピュータ界のポルシェの異名をとっていたアップルが、路線変更して低価格の「Macintosh LC」を発表したのがこの年で、ようやくぼくの手にも届くモノになったんじゃないか。


当時、長野県下でアップル・コンピュータを扱っているところは少なく、ぼくは塩尻市広岡にあった、何て言ったっけ? 中村さんから購入した。ただ、安くなったとはいえ、13インチモニターと4Mメモリー増設。30Mの外付けHDに、HPのインクジェット・プリンタを付けて、60万以上払ったんじゃなかったっけ。当時は、独身貴族だったのだ。


あの時の飯山日赤には、マック伝道師で脳外科医の大嶋先生がいたので、ずいぶんといろいろ教えてもらって、ほんと助かったな。Macintosh LCを購入してすぐに、小児科学会甲信地方会があって、ぼくは「当院におけるMRSA感染症の実態」という演題をだしていたので、マックを使って初めてスライド原稿を作った。

活躍したのが「マック・ドロー」と「マック・ペイント」だ。マウスで絵を描くのは難しかったが、「消しゴム」がモニター画面上で本当に消してくれること、それから失敗しても「undo」すれば、何度でもやり直しができることが驚きの機能だった。



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■でも、ぼくがマックを触ってみて一番感動したソフトが「ハイパーカード」だ。と言っても、いまのマックでは動かないソフトだし、いったいどれくらいの人が憶えてくれているのか。


初めて『コスミック・オズモ』のスタックで遊んだ日のことは、今でも忘れない。画面のどこかをクリックですと、次々とイベントが起こる。すっごく楽しい!


こういうものを、何も専門のコンピュータ言語を知らなくとも、自分で簡単にプログラミングできるということが画期的だったのだ。


そうして15年ほど前に、ぼくが作ったハイパーカードの「スタック」が、ご覧の『富士見高原病院医局』なワケです。

井上院長。似てるでしょ。それから、次は富士見高原病院・循環器内科医長の岩村先生の似顔絵。岩村先生はね、ジャズ・ピアニストでもあるのだ。(つづく)


2011年10月 2日 (日)

荻原魚雷『本と怠け者』(ちくま文庫)を読んでいる

いま読んでいる『本と怠け者』荻原雷魚(ちくま文庫)が、とにかく面白い。


この著者の名前はずいぶん前から知ってはいたのだが、じつは「この本」で僕は初めて彼の文章を目にした。で、1ページ目からすっかり絡め取られてしまったのだった。巧いな。芸がある文章とはこういうのを言うのか。そう思ったのは、西村賢太『どうで死ぬ身の一踊り』(講談社文庫)以来だ。


表カバー裏の「著者近影」写真を見ると、眼力の無くなった「佐藤泰志」みたいで、思わず笑ってしまった。ごめんなさい。それにしても、荻原魚雷氏の文章は読み進むうちに知らずと僕の体を蝕んでいくのがリアルに感じられる危険な書物だ。あぶない。実にあぶない。オイラも怠け者の仲間だからか?


この人、まだ若いのに病弱なジジイみたいだ。ちょうど、つげ義春のマンガ『無能の人』に登場する古本屋店主、山井を思い出した。彼は、江戸末期に伊那谷を放浪して野垂れ死にした俳人「井上井月」の生き方に傾倒していたっけ。


希望をいえば、好きなだけ本を読んで、好きなだけ寝ていたい。
欲をいえば、酒も飲みたい。
もっと欲をいえば、なるべくやりたくないことをやらず、ぐずぐず、だらだらしていたい。

「怠け者の読書癖 ---- 序にかえて」(『本と怠け者』9ページ)


そうして彼は、しょっちゅう体調を崩し「あまり調子がよくない」と言いつつ「原稿を書いている時間以外は、ひたすら横になり、体力と気力を温存する(p112)」ねたり起きたりの毎日だ。


ここだけ読むと、なんだかとんでもなく無気力でやる気のない、単なる怠惰なダメダメ男かと思うかもしれないが、いや、それは違う。彼は確固たる信念でもって、かたくなに「こういう生き方」を実践しているのであり、そのための「理論武装」として、古書をあたり自分と同じような「怠け者」を過去の文士のなかから次々と見つけ出してくるのだ。


この本『本と怠け者』を読みながら、「正しい古本の楽しみ方」を初めて教えてもらった気がする。なるほどそうか。天変地異や想定外の人災。僕らが生きる時代や環境は目まぐるしく変わっていき、どう生きていったらいいのか分からなくなってしまっているのが現状だ。そういう時、僕らはどうしても「いま」のオピニオン・リーダーの言説に期待する。例えば、中沢新一氏が「緑の党」宣言をしたとか。


でも、荻原魚雷氏は違う。文明や科学がどんなに進歩したって、その中で生きている「人間」は、何万年も前から脳味噌の構造も変わらないままなのだから、考えることは昔の人も今の人も変わらないに違いない。とすれば、案外、古書をあたって昔の人の言説の中にこそ、現代を生き抜く英知が秘められているに違いない。たぶん、彼はそう考えているのではないか。(つづく)

2011年9月 9日 (金)

伊那市で撮影された映画のこと

■映画『大鹿村騒動記』は、長野県下伊那郡大鹿村でオールロケされた。この映画に限らず、最近立て続けに伊那谷で映画のロケがあったそうだ。なぜそれほど東京から3時間以上もかかる「この田舎」に映画のロケ隊がやって来るのか? それは、

「伊那市フィルムコミッション」があるからです。

ここのブログには載っていませんが、このほかに、


・三谷幸喜監督作品『ステキな金縛り』で、主演の落ちこぼれ弁護士役の深津絵里と落ち武者幽霊役の西田敏行が高遠町にある「山室鉱泉」でロケしたそうです。この撮影で、すっかり高遠が気に入った? 三谷幸喜さんは、この8月に再び高遠を訪れ、WOWOW開局20周年記念ドラマ『ショートカット』を撮影したとのこと。主演は、中井貴一と鈴木京香。助演に、NHK朝ドラ「ゲゲゲの女房」で、貧乏なマンガ編集者を好演した、梶原善


・さらには、来年初頭に公開予定の、山崎貴監督作品『Always 3丁目の夕日 '64』で、吉岡秀隆クンが実家(長野県出身という設定だった)を訪れるシーンが高遠町で撮影されたとのことです。


ツイッターで拾った「いろんな噂」によると、天竜町の飲み屋街のバーのカウンターで吉岡秀隆が飲んでいたとか、高遠町の居酒屋で三谷幸喜が飲んでいたとか、高遠町の西澤ショッパーズで鈴木京香が買い物していたとか、ナイスロード沿いの雑貨屋「グラスオニオン」に、ふらりと梶原善が訪れたとか……

なんか、楽しいね。


今度、高遠にはキャイーン!の「ウドちゃん」が一遍上人役で来るらしいし。


■でも、この伊那谷でロケされた映画は過去にもいっぱいあったのです。


有名なところでは、鶴田浩二主演『聖職の碑』。三浦友和、大竹しのぶも箕輪町に来たみたいです。

そうして、佐分利信、岸恵子主演『化石』小林正樹監督作品で、高遠城趾公園の満開の桜のシーンが撮られた。


それから、市川崑監督作品『股旅』。主演:萩原健一。共演:小倉一郎、尾藤イサオ。長谷村の廃屋を使ってロケされたそうだ。この映画のナレーションは、佐藤慶じゃなかったっけ。あ、違うみたいだごめんなさい。でも、この映画は傑作だったなぁ。時代劇としても画期的だったし、なによりも青春映画として素晴らしかった。結局、尾藤イサオは切られた刀傷から破傷風に感染して、痙笑しながら死んでいったのだったよ。(ネタバレ御免)

最近の映画では、妻夫木聡主演の『さよならクロ』のラスト近くのアルプスの遠景は、北アルプスじゃなくって、伊那市西箕輪から見た南アルプス仙丈ヶ岳だ。


マイナーなところでは、ホラー映画『ひぐらしのなく頃に・誓』が、旧高遠町役場、鉾持神社、山室鉱泉、竜東線沿いのレストラン「アルハンブラ」などで撮影されたもよう。


■テレビドラマだと、まだまだあるぞ。


『思えば遠くへ来たもんだ』(TBS・1981年)主演:古谷一行 は、高遠町でロケされた(天女橋あたり)。

『坊さんが行く』(NHK・1998年)主演:竹中直人、沢口靖子では、確か高遠町勝間のしだれ桜でロケされたように記憶している。


ちょっと古いところでは、


『怪奇大作戦』(TBS・1968年)「第12話 霧の童話」は、高遠町旧河南小学校、建福寺、蓮華寺ほかでロケされた。

これは以前にも書いた記憶があるが、当時小学生だったぼくは、高遠町の竹松旅館に泊まっていた勝呂誉、松山省二を見に行った。ただこの時は、岸田森は高遠には来ていなかった。残念だ。暗くなっても1時間近く竹松旅館の前で友達の中嶋達朗くんといっしょに待っていたら、勝呂誉さんが一人わざわざ外へ出て来てくれて、ぼくらにサインしてくれたのだ。うれしかったなぁ。テレビに登場するスター(大空真弓の元夫)を直に見たのは、この時が初めてだったと思う。

2011年8月 5日 (金)

最近のこと(健忘録としての覚え書き)

■医学書院の看護師のためのWebサイト「かんかん」で連載されている平川克美氏の『俺に似た人について知っていること ---- 老人の発見』が、しみじみ読ませる。


平川克美氏は 1950年生まれで、内田樹先生とは小学校で同級生になった時からずっと親友なのだそうで『東京ファイティングキッズ』を読んでから、ぼくは平川氏の事を知った。『東京ファイティングキッズ・リターンズ』も買ったし、『ビジネスに「戦略」なんていらない』も買った。『移行期的混乱―経済成長神話の終わり』(筑摩書房)も、少しだけ読んだが積ん読中。あと、平川氏がやっている『ラジオデイズ』からもよく落語をダウンロードさせてもらっているのだった。


そんな訳で、彼のブログやツイッターは暫く前からずっとフォローさせてもらっていて、ご母堂が亡くなられた後くらいからの様子は、断片的にではあるがリアルタイムで聞いてきてはいた。しかし、こうして「団塊世代・後期」である人が自分の父親を介護する話を読むと、二番手である我々にもあまりに身近で普遍的で、近々我が身(1950年代後半生まれ)に迫る必然的な問題であるだけに、こんなふうに淡々と語られるとかえって、リアルに迫ってくるのだと思う。

実際、ぼくの同級生にも最近親を看取った友人が何人かいる。子育てもまだ終わらないというのにだ。平川氏のこの連載は、「そういう」覚悟を、ぼくらの世代にどうしようもなく確認させる、強い力がある文章なのだだと思った。


ぼくは父親を16年前に、母親を2年前に亡くした。しかし、父も母もその看病と介護に当たったのは、昭和24年1月生まれの兄貴(平川氏より学年は2つ上)に任せっきりだった。仙台市在住の平川氏の弟さんと違って、ぼくはすぐそばに住んでいたにもかかわらずにだ。その点に忸怩たる思いがある。兄貴、本当にごめんなさい。


いや、もちろんぼくの妻は嫁として彼女のできる限りの最善を尽くしてくれたよ。ぼくの父や、母に対して。本当によく看病と介護をしてくれたと思う。素直に本当に感謝している。よくやってくれたと。

でもだ。実の息子であるぼく自身はどうだったのか?


今となっては仕方ないことではあるが、9月にある母親の三回忌の時には、ちゃんと兄貴に謝ろうと思っている。


  (閑話休題)


■■ 落語の演題『替り目』は、寄席に行くと結構頻回にかかるネタだ。


時間が押していて、持ち時間が7分ぐらいしかなく、トリの2つ前とか、中入り前に上がった大御所、中堅の噺家がよくやっている印象がある。ぼく自身、新宿末廣亭で柳家さん喬師の「替り目」を聴いたし、浅草演芸ホールで古今亭菊之丞の「替り目」を聴いた記憶がある。いや待てよ。「片棒」だったかもしれないなぁ。「片棒」はさん喬師の十八番だしね。


「替り目」はサラッと流せて、いくらでも時間調整ができる噺で、しかも落ちでしんみりさせることができるという、寄席ではたいへん重宝する噺なのだな。


ま、ぼくは「この噺」を、その程度に理解していたのだ。


ところが先日、偶然にも「古今亭志ん生の『替り目』」を初めて聴いたのだ。
驚いた! 前半を聴きながら、大笑いの連続で、自分自身が「この噺」の主人公とまったく同じ酔っぱらいのダメダメ亭主だから、余計に心情移入してしまうのだな。

外で飲んで帰って、どんなに酔っぱらっていたとしても、仕上げに家でもうちょっと飲みたい。でも女房は言う。「あんた! それだけ飲んできたのに、まだ飲むの? 今まで何度も約束したでしょ。ダメよ!」って。


志ん生の落語を聴いていたら、なんだわが家の日常「そのまま」じゃん! って思ってしまって大笑いしたあと、例のサゲまできて何だか急に泣けてきてしまったのだ。


いや、本当に泣けるのだ、志ん生の『替り目』は。ダメな亭主はしっかり者の女房のことを本当に愛しているのだよ。でも、志ん生の『替り目』は特別なんだろうなぁ。この噺がこんなにイイとは思わなかった。

でも、この落語を女房に聴かせても、絶対に判ってはくれないのだろうなぁ。酔っぱらいの気持ちは。悲しいなぁ。しみじみ。

 
(閑話休題)

■■ なんだろうあやしげ氏のツイッターで知ったのだが、四コマ漫画「根暗トピア」以来大好きで、「ぼのぼの」も「Sink」もフォローしてきた天才漫画家、いがらしみきお氏の新作漫画単行本が7月末に発売されたのだという。


この漫画は、現在も月刊漫画雑誌「IKKI」(小学館)連載中だ。


昨日の晩、伊那のTSUTAYA へ行って『 i【アイ】』いがらしみきお(小学館)を買って帰った。で、その「第1回」を読んだ。おったまげた!! すんげぇ〜じゃないか!!

でも、いがらしみきお氏は「この漫画の連載中」に、「3.11」を迎えたのだな。いったいどうするんだこの後。心配してしまうよ。物語はどう展開してゆくのだろうか?


で、久々に「いがらしみきお氏のブログ」を見にいった。


なんか、読んでマジでしみじみしちゃったじゃないか。

がんばれ! いがらし先生。

2011年7月30日 (土)

連日の訃報は悲しすぎる

■原田芳雄さん

・原田芳雄さんと言えばぼくはやっぱり、TBSラジオの深夜放送「林美雄ミドリブタ・パック」で聴いた「リンゴ追分」や「プカプカ」だ。松田優作さん(歌声がよく似ていた)とのデュオも聴いた。好きなのは『祭りの準備』『竜馬暗殺』。テレビで最後に見たのは、日テレ『高校生レストラン』か。『赤い鳥逃げた』は未見だが、何故かCDは持っている。


・おっと忘れちゃいけない『ツィゴイネルワイゼン』があった。鈴木清順監督の。映画館で見てLDも持ってる。幽玄で妖艶で何故か懐かしい不思議な感覚の映画であった。

『大鹿村騒動記』は映画館へ見にいきたいな。合掌。


■中村とうよう氏

・初めて読んだのは、矢崎泰久編集長の『話の特集』でだったと記憶している。ジャンルにこだわらず、ワールド・ワイドにいろんな音楽をぼくが聴くようになったのは、間違いなく中村とうよう氏の影響だ。


・『なんだかんだでルンバにマンボ』『大衆音楽の真実』『ポピュラー音楽の世紀』を読んで、キューバ音楽やブラジル音楽の勉強をしたっけ。キャブ・キャロウェイや、アストル・ピアソラ。それに、ヌスラット・ファテ・アリ・ハーンのことを教えてくれたのも中村とうよう氏だった。あと、ナイジェリアのサニー・アデや、パンクジャズのギタリスト、ジェイムズ・ブラッド・ウルマーを絶賛していたっけ。


・ジャズもサンバもキューバ音楽も、アフリカの強烈なリズムと西洋音楽とが「混血」して新たな生命力を持った音楽となったのだなぁ。もう一度『ポピュラー音楽の世紀』(岩波新書)を読み直してみよう。

  とうようさん、本当にありがとうございました。


■小松左京氏

・最初に読んだのが『継ぐのは誰か』で、次が『果てしなき流れの果に』だった。中学生のときだったか。どこか、想像もつかないような遙か遠くへ連れて行かれたような感覚を初めて味わった。短篇では『くだんのはは』は怖かったなあ。


・小松左京氏は京都大学の学生時代、『わが解体』の高橋和巳氏と親友であった。天国で再会して、いったいどんな話をしているのだろうか?  合掌。


■大阪の有名なジャズ専門店「ミムラ」店主、三村晃夫さん


SF作家の堀晃氏のサイトによく登場するジャズ専門店「ミムラ」。一度も行ったことないのだが、こまめにブログが更新されていて、独特のノリの良さから最近よくチェックしていた。そして、今日も見にいったら、えっ! うそでしょ?


三村さんは昭和34年の早生まれだから、山口百恵といっしょで、ぼくと同学年じゃないか。ショックだ。本当にショックだ。つつしんでご冥福をお祈りいたします。

2011年6月27日 (月)

信濃毎日新聞朝刊(6月27日付)9面投稿欄「私の声」

■今日の「信濃毎日新聞」くらし欄(9面)に載った「私の声」はズシリと重くぼくの胸に響いた。

「原発事故でうずく心」と題されたその投稿は、下諏訪町在住の樽川通子さん(82歳)によるものだった。この記事を読むまで僕は知らなかったのだが、樽川さんは地元では大変有名な人で、下諏訪町の町会議員を4期務め「女性議員をふやすネットワークしなの」代表として活躍し、現在もお元気で地元で活動を続けているそうだ。


82歳ということは、一昨年の秋に他界した僕の母親と同い年なのではないか? ちょうど、NHK朝の連続テレビ小説『おひさま』のヒロイン陽子より6歳年下になる。詩人の茨木のり子さんもそうだけれど、母が入院中に遠くからお見舞いに来てくださった母の女学校時代の同級生の皆さんにお会いして感じたことは、皆さんお元気でパワフルで、凛とした力強さがあることだ。それは、大変な時代を必死で生き抜いてきた人間としての本質的な強さによるに違いない。


■「私の声」は、樽川さんが昭和52年(1977)に地元の婦人会長になった頃のはなしから始まる。


その時はまだ、彼女は町議会議員ではなかったはずだ。一番近い原発である中部電力の浜岡原発でさえ数百キロも離れている(でも、静岡から南アルプス山麓を北上する高圧送電線によって、われわれ長野県民のほとんどの電力は賄われている訳だが)信州のとある田舎町の、たかが一婦人会会長が、信毎の取材を受けて原発に関する否定的な発言を1回だけしただけで、直ちに電力会社の地元幹部が彼女に自宅に来て「婦人会長という立場にある者の発言としては、いかがなものか」と、脅したという。怖ろしい話だ。ちょうど僕が大学に入った年だから、今から34年も前のこと。


でも、この話が怪談じみて本当に怖いのは、その後のくだりだ。

 少し時が流れて、電力会社は地元還元という大儀を揚げ、女性に学習の場を提供するための組織を県内でも各地につくりたいので、相談に乗ってほしいと要請してきた。その時すでに諏訪地域の女性たちを対象とした会員名簿が作成されていて驚いたが、初代会長を私にという話しにはさらに驚かされた。

「口封じ策だ」「懐柔策だ」と私は反発したが、辛抱強く説得され、受諾した。その瞬間、なぜか全身の力が抜け落ちた。

 高名な講師を中央から迎えて講演会を開催した。ダム湖の視察もした。原発の見学には大型バスが用意されていた。料理教室も開かれ、会報まで発行した。会長が何人か交代するころ、原発に関する記事が新聞に載ることも少なくなり、豊富な電力の恩恵を社会が受け入れたころ、気が付いたらその組織は消えていた。

 あの時は私なりに精いっぱい原発のことを考え、行動したという自負がある。だが、このたびの東京電力福島第1原発の事故を受け、懺愧(ざんき)とも悔恨ともつかない、罪悪感にも似た奇妙な思いが、心の深いところでうずいている自分を持て余している今日このごろである。(信濃毎日新聞朝刊6月27日付、9面投稿欄「私の声」より)


■これは、中部電力の管轄地域内で起きた話ではあるのだが、たぶん30年40年、いやもっとずっと前から日本全国で(何も原発が直接建てられた地域に限らず)繰り返し行われてきた「飴と鞭」政策(脅しと懐柔)だと思うと、本当にゾッとするな。しかも、今現在でも全く同じ手口でわれわれ国民を「消費電力がオーバーすれば停電になるぞ!」と脅かし、情報を後から小出しにすることで、国民の感覚を完全に麻痺させている。


電力会社の誰が、いや、旧通産省(経済産業省)の頭の良い官僚の誰かが、先輩から代々引き継がれてきた「地元住民をだます」有効な手段として、いまも脈々と垂れ流され、しかも、確かに有効に機能しているという事実に、驚かざろうえない。なんとまぁ、われわれ国民はてんでバカにされ、なめられたものよ。


■いま、前福島県知事であった佐藤栄佐久氏が書いた『福島原発の真実』(平凡社新書)を読んでいるところだが、国(与党政治家&通産省の役人)がやること、東京電力のやること、ほんと地元無視の騙し討ちで酷いな。まだ87ページだが、これは読み応えがあるぞ。

2011年6月20日 (月)

『復興の精神』(新潮新書)を買った。

■信濃毎日新聞、毎週水曜日の朝刊で連載されている『怪しいTV欄』町山広美さんのファンだ。連載当初から読んでいるから、もう数年来の愛読者なのだが、放送作家「町山広美」さんと映画評論家「町山智浩」氏が、実の兄妹であることを知ったのはつい最近のことだ。


町山智浩氏は、最近ツイッター上で日垣隆氏をおちょくって遊んでいるが、けっして陰湿でないところが凄い。あくまでも紳士的に客観的にみて事実と異なる点だけを指摘する。日垣氏がこてんぱんにやりこめられて痛快ですらある。でも、日垣氏は長野高校出身だから、あまりいじめないでね。


■ところで、先週の水曜日に載った町山広美さんの『怪しいTV欄』のタイトルは「はしゃぐ政治家たち」。彼女はこう言っている。


首相退陣を求めるここ3週間ほどの動き。ニュースを見るたびに、あきれてしまった人がほとんでではないかと思います。


自民党の谷垣総裁を筆頭とする、政治家の皆さんのはしゃぎぶりはすごかった。「そんなことしてる場合か」と非難を浴びることを想像できない不思議。

なにが彼らをあそこまではしゃがせたのか。

菅首相が脱原発の方向へ傾斜してきたから、原発の恩恵を受けている人たちが騒ぎだしたち見る向きも多いようです。(中略)

私が感じたのは、とてもあいまいな話になってしまいますが、気分です。はしゃぐ政治家たちを見ていて、この人たちの気分は「戦後」なのだと思いました。

復旧、復興でお金が動く。その恩恵にあずかりたい。見事に立ち回ってみたい。自分たちの先輩たちがやったようなことを、やってみたいなあ。(中略)


しかし、事は起きました。震災の膨大な被害、解決の光明が見えない原発事故。
そして色めき立つ人たちがいます。戦後をうまく生きた先輩たちのように、よっしゃ!俺も、と。


政治家、権力に近い人たちはそうかもしれません。でもそれ以外の人は違う、と私は感じています。これからが厳しい。そのことがちゃんとわかっている。戦後ではなく、むしろ戦前。長く苦しい戦いが始まったのだと、しっっかり感じている多くの人たちと、はしゃぐ政治家。そこには、目のくらむような落差が。(信濃毎日新聞朝刊・6月15日付より引用)


ほんと、そのとおりだよなぁ、と思う。だって、どう考えても、日本の、3.11 以前と同等、いやそれ以上の復興、復旧は「絶対不可能」だと思うから。もう、以前の経済発展は望めまい。これからはどんどん「右肩下がり」になってゆくだろう。国民皆が自分の生活水準を「ダウン・サイジング」してゆく必要に迫られているのだった。


昨日買ってきた『復興の精神』から、しばらく病床にあったという橋本治氏の論考「無用な不安はお捨てなさい」を読んだ。

 

 太平洋戦争後の日本の復興は、ある意味で単純だった。戦争中の長い耐乏生活があって、廃墟の戦後がやって来た。足りないものを作り出し、増やす --- この一直線の道筋を辿って、日本は廃墟から復興し、繁栄へと至った。しかし、今度の復興はそんなに単純なものではない。繁栄を達成してしまった後の飽和状態 --- それが下り坂になっているところからスタートする。(中略)


 1995年の一月に起こった阪神淡路大震災は、「バブルがはじけた」と言われてから数年後の災害だった。「右肩上がりの経済成長はもうない」ということを、どれだけの人が呑み込んでいたかは分からない。しかもこの災害は、大都市神戸を中心とする都市の災害でもあった。「他の都市が健在である中で、神戸だけが転落してよいものか」という思いが、復興へのモチベーションとしてはあったはずだ。こういう言い方をしてもいいかどうかは分からないが、だからこそ、神戸は簡単に甦った。(『復興の精神』新潮新書 p163)


なんか、町山広美さんと橋本治氏が言いたいことは同じなんじゃないかと思ったよ。

2011年6月 9日 (木)

ヘネシー澄子さんの講演会

■毎週水曜日の午後は休診にしている。
ただ6月は、水曜日の午後に保育園や幼稚園の内科健診が必ず入ってくる。


今週もそうだった。午後1時から「天使幼稚園」の内科健診。
出迎えてくれた高橋園長先生が言った。

「北原先生、なんかこのあたり(顎のラインを撫でる)ずいぶんとスッキリしたんじゃないですか?」


いやぁ、そう言っていただけると実にうれしいのでした。
テルメに通って一生懸命走っている成果が少しは認められたというもんだ。
ありがとうございました。高橋園長先生。

4月から入園したばかりの「ゆり組」の子たちは、なんかメチャクチャ元気だなぁ。これぞ由緒正しき「天使幼稚園」の園児たちってもんだ。よしよし。

健診終了後に、例によって年長組「アネモネ」で絵本を読ませてもらう。


1)『どうぶつサーカースはじまるよ』西村敏雄(福音館書店)
2)『ぶたのたね』佐々木マキ(絵本館)
3)『つきよのくじら』戸田和代・作、沢田としき・絵(すずき出版)


■天使幼稚園での健診が終わったのは午後2時半。
あわてて、東春近「ふれあい館」へ向かう。


この日、ヘネシー澄子先生の講演会が、午前・午後通しで行われているのだ。
しかも、水曜日の午後を休診にしている僕のために?講演会を水曜日に設定してくれたのだった。「ヘネシー澄子先生を伊那へ呼ぶ会」の新山の北原さん、メイ助産所の鹿野さん、本当にありがとうございました。それなのに、ぼくは忘れていて午後健診を入れてしまった。ごめんなさい。

■ぼくが初めて伊那でヘネシー澄子先生の講演を聴いたのは、2年前のことだ。
その時の感想は「ここの、2009/11/20」に書いた。

この時は「乳児期」のはなしだった。

そうして、去年は「幼児期」のはなしだった(この講演は聴けなかった)。でも、その時の「講演録」が「こちら」にアップされている。ありがたい。すばらしい。ぜひ、ダウンロードして読んでみて下さい。


その続きである今年は、午前中に「学童期」のはなし。
午後は「思春期」のはなしとなった。


ぼくが会場に着いた時にはすでにヘネシー先生の講演は終板で、でも、熱心な聴衆が200人近く会場いっぱいを埋め尽くしていて座る場所もなかった。これには驚いたな。ヘネシー先生、伊那でも有名じゃん!


■講演の主要部分は聴けなかったのだが、妻が「午後の部」を聴きに来ていたことと、メイ助産所の鹿野さんが、パワーポイントの配付資料に口述をメモ書きしたものを僕にくださったので、大凡の感じが分かった。


いま現在、中学生の男子を2人も抱える妻は、何故彼らが日々意味もなくイライラしているのかが、よーく判ってすっごく安心したという。この反抗期は、前頭葉の脳細胞が活発にネットワークを広げている証拠なのだと納得すればいいのね! って。


あと、脳梁の太さが男と女で違うことから、マルチタスクで同時に複数のことを処理できる女と、シングルタスクで一つずつ順番に処理することしかできない男の脳の違いがよく分かったという。そうなんだよ、オレの脳はそういうふうに出来ているのだから、あなたの要求に応えることが出来ないのですよ。仕方ないのです。脳梁が細いのだから(^^;;

2011年5月23日 (月)

「フクシマ」を予言するもの


■長野県小児科医会雑誌に載せる文章を書いている。ようやく書き上がったので、ここにも載せます。

「フクシマ」を予言するもの                     北原文徳


 文化人類学者の中沢新一氏は、私たちが生きる生態圏には本来存在しない「外部」が持ち込まれたテクノロジー、思想システムとして、原発と一神教の「神」とを挙げる。どちらも人間にとって実は同じものであると。だから、外国の原子力発電所はどこも巨大な神殿のような外観をしているのだと言う。でも、福島第一原発の原子炉建屋は、まるで映画セットの張りぼてのように簡単に破壊されてしまった。本当は人間の手に負えない「神の火」を、日本政府も、産業界も、われわれ国民も、その神に対する畏怖の念をすっかり忘れてしまって、ただ便利に利用してきたのだ。怖ろしいことだ。


 先日NHK教育テレビで放送された「ETV特集・ネットワークでつくる放射能汚染地図 ~福島原発事故から2か月~」は衝撃的だった。放射能は目に見えない。しかも、それをいま浴びていたとしても痛くも痒くもないのだ。番組のラストは、まるでガブリエル・バンサンの絵本『アンジュール』のようだった。翌日から立入禁止区域となる自宅に残された愛犬を見に帰った老夫婦の車を、いつまでも追いかけてくる黒犬。悲しかった。切なかった。どうしてこんなことになってしまったのだろう?


 ぼくはこの番組を見ながら不思議な既視感に囚われていた。20数年前に観た映画『ストーカー』にそっくりだと。エイゼンシュテインと並び称されるソ連の映画監督アンドレイ・タルコフスキーが1979年に撮ったSF映画だ。反体制の寓意に満ちた映画だったために、このあとタルコフスキーは亡命を余儀なくされる。原作は、ストルガツキー兄弟のSF小説『路傍のピクニック』だが、映画は 1957年9月29日、ソ連ウラル地方チェリヤビンスク核施設にあった放射性廃棄物貯蔵タンクが爆発し、広範囲に放射能汚染が発生した「ウラル核惨事」(ずっと隠蔽されていた)を題材としているようだ。


そうして、映画が公開された7年後にチェルノブイリの原発事故が起きた。


ところで、映画のストーリーはこうだ。ロシアの片田舎に巨大な隕石が落下したという政府発表があり、その周囲は危険な放射能が満ちているために周辺地域住民は強制退去させられ「ゾーン」と呼ばれる立ち入り禁止区域となった。


しかし、その「ゾーン」内には人間の一番切実な望みをかなえる「部屋」があるという噂があり、そこへ行きたいと願う作家と教授の2人を秘密裏に案内するのが、主人公のストーカー(密猟者・案内人という意味)の役目だった。彼らが落ち合うバーの向こうに、川を挟んで巨大な原子力発電所が見えている。


映画では「ゾーン」の外はモノクロ、ゾーン内に入るとカラーになるという仕掛けがあった。ゾーン内には「目に見えない」危険な区域がいっぱいあって、案内人のストーカーは「それ」を巧妙に回避しながらゴールの「部屋」へと向かう。



その「部屋」へと至る彼らの行程(滝のように水が流れ落ちる「乾燥室」から「肉挽き機」と呼ばれる恐ろしいトンネルをくぐり抜けハッチを開けると、体育館みたいな建物内に砂丘が広がる。そしてついに「部屋」の入口にたどりつくのだ)は、福島第一原発の原子炉がメルトダウンし、放水を浴びながら、地下に汚染された水が何万トンと貯まった原子炉建屋の中へ、防御服を着た東電の下請け作業員が向かう状況とそっくり同じだ。ほんと怖ろしいほどに。どちらも徹底的に「水びたし」じゃないか。


つまりは、あの「部屋」は、原子炉であり、神なのだった。タルコフスキーが言いたかったことと、中沢新一氏が言いたいことは結局は同じだったのだな。この部屋の前で、ストーカーは言う。「なんだ、結局だれもこの部屋を必要としていないじゃないか!」と。これはダブル・ミーニングで、神も原発も、人間は必要としていないという意味だとぼくは思う。


映画のラストシーンは鮮烈だった。

行って帰って来たストーカー一行を妻と娘がバーで待っている。その娘は、ゾーン内の放射能の影響を受けて歩行できないハンディキャップを負っている。でも、それと引き替えに彼女は、新たな別の力を得たのだった。このラストシーンで何故か画面はカラーに変わる。そこに微かな希望が見えたような気がした。


ところで、「フクシマ」の子供たちはどうか? それがいま、一番の問題だ。


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