読んだ本 Feed

2012年5月16日 (水)

『きつねのつき』北野勇作(河出書房新社)

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■昨年から、読もう読もうと思っていながら、なかなか手が伸びなかった「この本」を、ようやく読んだ。しまった、と思った。これはたいへんな傑作なんじゃないか?


もっと早く読めばよかった。


■主人公の長女は、春先に生まれた子だから「春子」と名付けられた。その娘が満2歳を迎え、急に口数が多くなってビックリしている主人公(父親)の呟きで「この小説」は始まる。それから1年が経って再び桜咲く季節を迎え、3歳になった娘が「おー、おはなみだねえ」と言った後の、その次のシーンで終わっている。


    「とお、ないてるの?」
     突然、春子が言った。(中略)
    「とお、わらってよ」


ぼくは最後のページで主人公といっしょに泣いてしまった。もう、ぽろぽろぼろぼろ。これは凄い小説だったなぁ。しみじみそう思ったよ。


■基本設定は、自営業の父親が2歳の娘を「子供館」へ(後半はその隣の保育園へ)送り迎えする日々の日常を、ほのぼのとした父娘の会話をベースに綴られていく、という話だ。


この父娘の会話が実にリアルなのだ。しかも、2歳の女の子は同年齢の男の子と比べて、言語能力が1年くらい早い。こまっしゃくれた生意気な大人勝りの発言をして、読者を笑かしてくれるし、何だかメチャクチャな「デタラメ歌」をよく歌う。そう、まさに宮崎駿の映画『となりのトトロ』の妹「めい」が「とうもころし」って言ってしまうアレね。


それから、2歳児の運動発達に関してもかなり正確な描写がなされていて感心してしまった。

2歳児は、階段はのぼれるが、上手には降りれないのだ。確かに。


 しかしまあそんな顔を見ると、この子のためにできることは、なんでもしてやろう、という気になり、それと同時に、そんなことを思っている自分自身が不思議で仕方ない。自分に子供ができるまでは、子供などただうるさいだけだとさえ思っていたのに。(8ページ)


■この「リアルな子育て描写」を読んでいて、思い浮かべた小説があった。そう、『なずな』堀江敏幸(集英社)だ。


『なずな』は、生後2〜3ヵ月の女児を突然預かって、男手一つで育てなければならなくなった中年男の顛末が描かれていた。ぼくは『きつねのつき』を読みながら、『なずな』の後日談なんじゃないかと勘ぐってしまったほど、両者の「イクメン度」は互角の先進性がある。


ポイントは「母親の不在」だ。


いや、正確には両者ともに「確かに母親は存在している」のだが、物理的、距離的に(『なずな』)、生物学的に死生学的に(『きつねのつき』)母親は不在なんだな。そこが(父親として)不憫で切ない点だ。


何故、母親が不在なのか?


まぁ、それは、そういう設定でないと母親を出し抜いて「父親が子育ての主役になれないから」という理由ではあるのだが。


■そうは言っても、そこは「北野勇作」であるから普通のイクメン小説であるワケがない。ある日突然、不条理なカタストロフィーに襲われた親子が住む下町は、シュールでグロテスクで奇々怪々な事象に満ちているのだ。


もう少し深く掘り進んでみると、古事記にある神話「イザナギとイザナミ夫婦の話」に行き着く。


ちょうど落語『地獄八景亡者戯』に登場する「人呑鬼(じんどんき)」のくだり、『風の谷のナウシカ』に登場する「巨人兵」が未熟のまま崩れ落ちたような「人工巨大人」の体内に、主人公が深く深く下って行って、iPS細胞(多分化能胚細胞)の肉塊を取りに行く場面が「それ」だ。この場面はやるせなくて切ない。


この小説には、他にも落語の演目が巧妙に仕組まれている。まずは『らくだ』。それから『あたま山』に『七度狐』かな。


■それから、こちらのブログ「十七段雑記 2011.8.28」に書かれた感想が興味深い。


ぼくも、ツイッターで北野勇作氏をフォローしているので、去年の4月に北野氏が確かに「そうつぶやいた」のを記憶している。それを読んだ河出の編集者がコンタクトを取って「この本」は晴れて日の目を見たわけだ。


この小説は「3.11」 後に書かれたと誰もが思うだろうが、実はその2年前にすでに書き上がっていて、でも本にはならずお蔵入りしていたという。いや、ほんと信じられないことだが。(つづく)

 


2012年5月13日 (日)

『創世の島』バーナード・ベケット(早川書房)

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■何故か、SFが読みたかったのだ。


で、『創世の島』バーナード・ベケット著、小野田和子・訳(早川書房)を手に取った。


松尾たいこさんのカヴァー・イラストに誘われて。彼女が描いた表紙を見て「おっ!」と思った本は、ほぼ間違いなく「当たり!」だからだ。例えば、シオドア・スタージョン『不思議のひと触れ』それから『輝く断片』(河出書房新社)。


『創世の島』の表紙には、岩場の海岸線を裸足の少女が一人、後ろ向きで描かれている。海の水平線は見えない。何故なら、諫早湾に作られた堤防と同じような、高さ30mにも及ぶ隔壁が島の全周を包囲しているから。


この「大海洋フェンス」が築かれたのは、2051年。「最終戦争」が始まってから11ヵ月後のことだった。2052年末にはじめて伝染病菌がばらまかれた頃には、アオテアロア(ニュージーランド)はすでに外界から隔絶された状態になっていた。外界からの最後の放送が受信されたのは 2053年6月。その頃には、大富豪プラトンがアオテアロアに建設した<共和国>は完成していたのだった。


2058年、共和国にとっての救世主となったアダム・フォードが生まれる。

このスーパースター「アダム・フォード」の生涯(2058 - 2077)とその業績に関して、主人公である少女アナックスは、共和国の最高機関である「アカデミー」への入学試験(4時間にわたる口頭試問)に臨むのだった。

■いやぁ、面白かった。短いから一晩で読めた。
でも、ぼくの評価は 3.75点かな。


だって、98ページまで読んだところで、主人公の置かれた状況が読めてしまったからだ。

たぶん、すれっからしのミステリ・ファンなら誰だって気が付くと思うよ。
それくらい「使い古されたネタ」ではあるからだ。

でも、この小説の優れているところは、ネタがばれたとしても最後まで予断を許さずに納得がいく結末に読者を導いてくれている点に尽きる。そうか、そういうことだったのか! ぼくは読み終わって十分に満足した。


■この小説でキーワードとなる言葉は「思考」だ。心や魂(たましい)も関係する。


免疫学でノーベル賞をとった、利根川進先生は、次は「脳」だとばかり、人間の記憶は遺伝子(RNA DNA)によって保存されているという仮説を立てた。しかし、それは間違いだった。


記憶は核酸でできた遺伝子ではなくて、シナプス「回路」だったのだ。

じゃぁ、意識とは何か? 思考とは? 心とは?


動物にも意識はあるのか? 心はあるのか?  そういう話なのだ。

またしても、ネタバレなしには紹介できない本なので困ってしまったのでした。


2012年5月 2日 (水)

「小津の水平線」(『家郷のガラス絵』長谷川摂子)より

■先だって亡くなった長谷川摂子さんの大ファンだ。


『おっきょちゃんとかっぱ』『ぐやんよやん』『めっきらもっきらどおんどん』『きょだいなきょだいな』『うみやまがっせん』などなど、彼女が福音館で作った絵本はみんな好きだ。


それから、彼女の講演が好きだ。下伊那郡喬木村と、上伊那郡飯島町との2回、ぼくは講演を聴くことが出来た。ラッキーだった。彼女の「絵本読み聞かせ」が素晴らしいのだ。その実演を2回も聴けた。あの、ゆったりとした穏やかな声。こどもたちに寄り添った目線。あくまでも主役はこどもたちであることが判っている「大人」としての謙虚な態度。彼女から自然と滲み出でるそれらすべてが素晴らしかった。


あと、彼女の書いた本が素晴らしい。


『とんぼの目玉』の感想は、ここいらへんに書いたし、彼女が少女時代を過ごした、島根県平田市での日々を綴った『人形の旅立ち』は名作だ。


■そんな彼女の遺作が『家郷のガラス絵』長谷川摂子(未来社)なのだが、もったいないので、最初から一気に読むことはせず、後ろの方から少しずつ少しずつ読んでいる。


で、すごく面白かったのが4篇収録された「小津安二郎論」だ。まさか長谷川摂子さんから小津映画の魅力を聞かされるとは思わなかったな。最近読んで意外だった「小津論」に『うほほいシネクラブ・街場の映画論』内田樹(文春新書)があったが、内田先生よりも長谷川摂子さんのほうがずっとずっと深いぞ。


まず、「小津映画とフェルメール」が凄い。何カ所か引用してみる。


 小津映画を十年近くくり返し見てきて、毎回、胸のときめく場面があるのだが、それは部分的なシーンで、映画が始まったとたん、私を包むあの透明な空気、全体を流れている、五臓六腑がしーんとなっていくあの直接的な鎮静作用をどう表現したらいいのだろうか……。

 ここで、仮説としてずいぶん前から感じていることを、思い切って打ち出してもよいではないか、という気持ちが、私の中でだんだん昂じてくる。私は学者でも研究者でもない。ただどうしようもなく小津映画が好きなだけである。ここで言おうとしていることは私自身の仮説であり、比喩でもあることを前提にちょっと気息を整えて始めることにする。(中略)

 私はフェルメールの絵を見ていると小津映画を、小津映画を見ているとフェルメールを感じてしまう。この不思議な交互作用の体験の根拠はどこにあるのか、今回はそこを考えてみたい。(中略)


 大きく言えば、フェルメールの絵が伝統的な宗教画ではなく、普通の市民の暮らしの一瞬が室内で捉えられていることだと思う。小津の映画も圧倒的に室内の撮影が多い。
 室内 ---- これは大空や海や大地の広がりと違って、人間の身体を包囲する立体的な額縁がある、ということ。その額縁は部屋という立体空間の内側である。フェルメールの絵のほとんでは壁と壁が九十度に交わる部屋の隅が構図の中におさめられていて、それがあまり大きくない部屋の中であることが私たちに伝わる。


 たいてい左手に窓があって、そこから光が差し込んでいる。図版で示せないのが残念だが、この構図は、「ワイングラスを持つ娘」「中断されたレッスン」「ぶどう酒のグラス」「兵士と笑う娘」など、枚挙にいとまないほどだ。有名な「牛乳を注ぐ女」の部屋の窓などもそうで、窓には日本の障子のサンそっくりの縦横の格子が走っている。(中略)


 正面の壁には絵が一枚、あるいは数枚、あるいは大きな地図が置かれていることが多く、これが遠近法で先細りになっている窓とは対照的にばっちりと正面からの長方形で陣取っている。それ以外にも、楽器やいすの背や机など、ニュアンスの違う四角形がさりげなく、しかし、絶妙のバランスで置かれている。壁に囲まれた部屋の中の四角は大小さまざま、これまた幾何学的な音楽を奏でているように思える。(中略)


 この正面性のことを考えていたら、私は絵本作家ディック。ブルーナのことに思い至った。まっすぐことらを見ている「うさこちゃん」。ブルーナの絵本はまぎれもなく正面性がつらぬかれている。彼もオランダ人だ。(中略)


 小津映画の室内。あらためて『麦秋』を見て、いろいろ確かめた。廊下にしろ、部屋にしろ、人物は基本的に縦長の奥行きのある部屋の中に置かれている。その奥行きの遠近法に正面性が働いている。画面を正面から見つめる観客の目はそれにしたがってずれることがないのだ。二間続きの和室はあいだのふすまが、そして廊下と座敷の境の障子が、つねに開け放たれている。手前のふすまと次の間のふすまは短い距離を置いて大小の長方形の二重奏を奏で、まっすぐ遠近法を際立たせている。それに障子が重なれば、縦横のサンの美しい文様をもつ長方形がいちばん奥の左右にくる。


今回『麦秋』を見ていて初めて気づいたのだが、このふすまの下の角と接しながら、いくつかのたたみのヘリの線がつながって、遠近法そのままにまっすぐ中央への奥行きを示している。小津は座布団の柄の走りにも注意して、その置き方に神経を配った、といわれているが、それはこの部屋の中の正面性の秩序を乱すことがないように、という配慮だったのだと思う。そのほか日本家屋の欄間、箪笥などの家具、みんあフェルメールと同様、幾何学的な音楽の材料になっている。(『家郷のガラス絵』長谷川摂子より「小津映画とフェルメール」p157〜p160 より抜粋)


ぼくは「この文章」を読んで、どうしても「フェルメールの絵」が見たくなり、3月下旬『フェルメール光の王国』の著者、福岡伸一先生が監修した「フェルメール・センター銀座」へ行って実際に見てきたのだった。


福岡先生の著書に出てくる、フェルメールの親友レーウェンフックが発明した「シングルレンズの顕微鏡」とかもちゃんと展示してあって、なかなかに興味深かったのだが、如何せん「レプリカは贋物」なんだな。あぁ、ホンモノのフェルメールの絵、特に『真珠の首飾りの少女』が見たい! 行くぞ、国立西洋美術館。

2012年4月29日 (日)

自著を売るのは、ほんと大変なのだ。

■ここ2年半「ツイッター」をやってみて、思ったことがある。 作家が「エゴサーチ」して、自著に好意的なツイートを軒並み「リツイート」していることに関して、正直、嫌らしいなって、見苦しいじゃないかって意見があること。

でも最近は(と言うか、当初より)ぼくは「いいんじゃないの」って思ってきた。 と言うのも、いまから5年前に『小児科医が見つけた えほん エホン 絵本』(医歯薬出版)を、ぼくら絵本好き小児科医の仲間が出版したときのことを思い出したのだ。 この本の編集者は、ほんと切れ者の才媛だった。彼女がいなければ「この本」は世に出なかっただろうと正直思う。それほど「編集者」の存在は重要なのだ。

■ところが、ここに大きな問題が出現した。出版社の編集者は、どんなに優秀でも、その本が出版販売されてしまえば「管轄外」となってしまう。つまり、「本を世に出す」のが編集者の役目であって、その本を売るのは営業部担当社員の役目なのだから。

ところで、医学系専門出版社の営業部って、あんまり宣伝する気がないんですね。そこそこ売れて、赤字が出さえしなければそれでよいワケです。 でも、「この本」は様々な事情が発生して、結局、一部刷り直して製本もやり直してから出版された。当初、出版社は初版5000部を刷ったのです。医学専門書出版社としては冒険だったと思う。それが諸般の事情で赤字必至となってしまったのだった。

■「この本」を書いたのは、8人の絵本好き小児科医でした。8人+名古屋千住区の絵本専門店「メリーゴーランド」の三輪さんによる共著本だったのですが、僕は自分が書いた文章が実際に本になった喜びで、個人的に「この本」を100冊購入して親戚や知り合いに配りました。ぼくが想像するに、他の7人の小児科医も同じようだったんじゃないかな。

しかも、この他にも原稿を依頼して書いて頂いた小児科の先生が何人もいる。 つまり、初版のうち全国各地の図書館へ納入された本以外の案外多くを「共著者自身」が購入して配っていたのですね。そういう事情を理解していない出版社は、思いのほか売れたんで、これは行けると思い切ってさらに増刷したのでした。 でも、著者たちが買わなければ、もうそうは売れませんよね。

しかも「この本」は、大型書店の児童書・絵本コーナーに置かれることはなく、たいていどこの本屋さんでも「医学書専門コーナー」に置かれていたのですから。

■ぼくは「この本」が発売されてしばらくして、販売促進プロモーションというものは「ぼく自身」がしなければ誰も売ってはくれないのだということに気付きました。で、新聞社各社に売り込んでみたのですが、結局記事を載せてくれたのは「信濃毎日新聞」だけでした。 あと、いわゆる「著者謹呈」の献本として(でも、書籍代+送料とも出版社に負担してもらうのではなくて、自分で買って自分で梱包して自分で送料も払った)ずいぶんいろんな人に送ったけど、結局、思ったほどの宣伝効果はまったく得られなかったのでした。

素人のぼくら「一回だけの」体験がそうでしたから、プロの作家さんは「自分の本」を出版するたびに、同じ思いを何度も何度も味わってきたのではないか? と、容易に想像がつきます。 出版者の営業部にはなんにも期待できない。そういうことをイヤと言うほど味わわされてきたと。

じゃぁ、自分で「ツイッター」で宣伝活動をするしかない。 そう思い至ってもしょうがない状況が、いまの出版界にあるのではないでしょうか。 ほんと、いまの世の中「本が売れない」のです。 しかも、新刊書があっという間に本屋さんの平台から本棚から消えてゆく。で、気が付けば在庫切れ→絶版の憂き目。

でも、ぼくらの本『小児科医が見つけた えほん エホン 絵本』は在庫があって、今でもちゃんと流通しているからほんとありがたいと思うのでした。

2012年4月17日 (火)

『極北』マーセル・セロー・著、村上春樹・訳(中央公論新社)

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■読み出したら途中で止められなくなって、一気に読了した。
『極北』マーセル・セロー著、村上春樹・訳(中央公論新社)だ。
読者を物語世界にのめり込ませるこのリーダビリティは『ジュノサイド』以来か。
ほんと、面白かったなぁ。もの凄く。


【注意!】以下の文章には、読書の喜びを奪うかもしれない記載が一部含まれていますので、一切の事前情報を目にせず「この本」を読みたい、楽しみたい、と感じた未読の方は読まないでください。配慮が足りずにすみませんでした。

短いチャプターで簡潔な文章のテンポがじつに心地よい。ぐいぐい読める。
しかも、読者の予想(期待)を次々と裏切って話の展開がまったく見えないのだ。だって、読み出して数十ページでいきなり「えっ!?」とビックリ仰天させられるのだから。それが終いまで続くのですよ。


読み始めた読者には状況が全く説明されない。まず大きな謎が提示される。 ここはどこ? いつの時代のはなし?
それが、ストーリーの合間合間に挿入される主人公の回想によって少しずつ明かされてゆく。そして、物語の前半でさりげなく蒔かれた伏線が次々と回収される終盤は圧巻だ。ただ、最後まで謎として残されるものもあるが。


これはやはり「純文学」と言うよりも「ミステリー」であり、近未来ハードボイルド冒険サバイバル小説の傑作だと思った。


タフでクールで、でも決して非情じゃない主人公「メイクピース」が、とにかくめちゃくちゃ格好良いのだ。射撃も得意ときている。


主人公は町の警察官だったのだが、警察学校の指導官ビル・エヴァンズの描写がシブくて好きだ。(たぶん、Bill Evans と綴るのだろうが、訳者は決して「ビル・エヴァンス」とは表記しない。スではなくて「ズ」なのだ。そんなこと、僕以外の人にとってはどうでもいい事なんだろうけどね)


あと、近未来設定のフィクションだけれど、細部が丁寧に描かれているので、読みながら映像がリアルにイメージできること。いや、このリアルさは別の大きな要因もある訳だけれど。

■上の写真を見て頂ければ判ることだが、「この本」は装丁が「イノチ」だ。
じつに美しい静謐な装丁。


そのことは、コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』黒原敏行・訳(早川書房)の装丁と比べてみてもらえば、自ずとわかることではある。


そう、「この本」は『ザ・ロード』と同じく、「世界の終わり」に立ち会う主人公の物語なのだった。


でも大切なことは、この2冊の本のジャケットが「白黒反転している」ことだ。
そこが重要。『極北』は『ザ・ロード』を反転させた物語だから。


『ザ・ロード』の主人公が、めったやたら「センチメンタル」だったのに対し、『極北』の主人公は、あくまでもクールでドライときている。それに、ザ・ロードの父親と息子は、ひたすら南を目指すのに対し『極北』では逆に北だ。極北だ。


小説の舞台は「北シベリア」。


北氷洋に注ぐ大河「レナ川」河畔の都市ヤクーツクから東へ 1500km。バイカル湖畔に位置するイルクーツクよりもさらに遠く北東に位置する、世界で最も低い気温(零下70℃)を実際に記録したオイミャコンのあたりに建設された入植地「エヴァンジェリン」。


椎名誠の『冒険にでよう』(岩波ジュニア新書)『そらをみてます ないてます』(文藝春秋)、それに『マイナス50℃の世界』米原万里(角川ソフィア文庫)をすでに読んでいたから、その壮絶な環境は少しはイメージできた。あと、『脱出記』も単行本で読んでいたしね。


だから北シベリアの過酷な自然は、それなりに想像できるのだ。マイナス50℃にもなる冬の寒さも凄まじいが、夏のタイガの薮蚊の獰猛さときたら、そりゃぁもう人間が生活できるような環境じゃ全くない。


そんな凄まじい北シベリアの内陸部に、何故「英語を話す人々」が暮らす街ができたのか?  そして、何故いまやゴーストタウンと化してしまったのか?


物語の後半、さらにもの凄いゴーストタウンが登場する。でも、不思議と既視感が漂うのだ。


■ぼくが「この本」を読みながら頭の中で何度も流れていた曲がこれ。






YouTube: 渋さ知らズ ひこーき

「飛行機」ってさ、いつも宮崎駿の映画に出てくるみたいに、科学と文明の象徴なのだ。


絶対に無理だろうけれど、映画化してもらいたいな、クリント・イーストウッドに。「西部劇」みたいな雰囲気の映像でね。


■それにしても、『ジュノサイド』と同じく「この本」は、ほとんど「ネタバレ禁止」条例に触れてしまうので、どう読後感想を書いたらいいか判らないのですよ。


■いろいろ書きたくても書けないでいるのだけれど、これは「ネタバレ」になってしまうが、タルコフスキーの映画に関して、ぼくは以前「こんなこと」や、「こんなこと」を書いています。


2012年4月 3日 (火)

「当事者」について考える

■『「当事者」の時代』佐々木俊尚(光文社文庫)の感想をネットで検索して読んでいたら、「当事者の沈黙と経験者の苦しみをつなぐもの」にたどり着き、読んでみて「あっ!」と思った。


純粋ひきこもりの青年は、多くの場合自分のひきこもり体験について語らない。自分がどのようにしてひきこもり、ひきこもったあとどういう思いで生活しているか、それは僕や親御さんが知りたいことではあるが、当の青年は一向に語ることをしない。

最初は意図的に語らないのだろうと思っていた。だが長期的にかかわっていくうち、どうやら彼ら彼女らは語らないのではなくて「語ることがない」のだということに気がついた。


そう、この部分。当事者には実は「語る言葉がない」のだ。


そのことを感じたのは、実はこれが2度目で、『世界が決壊するまえに言葉を紡ぐ』中島岳志対談集(週刊金曜日)の中の「中島岳志 × 重松清」を読んでいたら、こんなフレーズがあったのだ。


重松:こういった事件があった時に、母親が過保護であるとか、教育ママであるとか、母親との関係が息子を犯行に至らしめたという、そういった物語にあてはめて理解しようという報道が、特にテレビのワイドショーや週刊誌では数多く見られました。


 中島さんも、この単純化された構図にのって『秋葉原事件』を書くことは可能だったと想います。母親に抑圧された言葉。特に作文が象徴していると思いますが、諸悪の根源は母親にありという物語のもっている強度や、そのわかりやすさの強度ということは意識されましたか。


中島:もちろん事件の背景に母親の存在があったことはものすごく感じました。裁判が、基本的にその方向で進んでいきましたよね。加藤自身もその物語に自分自身を回収させようとする再帰性が存在していた。僕は、この裁判で語られた物語を、当時の彼の生の声から解体していこうと思いました。(中略)


その物語に、事件から2年経った加藤が再帰的に入り込んでいる、という印象があったんです。でも、加藤が事件以前に発していた言葉はそんなところからは発せられていないんじゃないか、と。それを彼にぶつけたい思いがありました。

 だから、彼自身が、彼の物語の中に再構成していったことに、みんなが足を取られ、彼自身ものみ込まれているというか。(中略)


重松:『秋葉原事件』でもっともサスペンスを感じたのが、「現実」と「虚構」のかけがえのなさが加藤の中で反転してしまう瞬間です。そこが一番ドキンとくる。それと同時に、ウロボロスではありませんが、加藤を理解しようとして社会がつくり上げた物語に加藤自身がのみ込まれていくという、これもまた「現実」と「虚構」の反転ですよね。(中略)


中島:(中略)政府の発表する情報は信じられないし、東電はもっと信じられない。専門家も誰を信用していいかわからない。大手メディアも信じられない。そんな中で放射能の問題と対峙しなければならない。

 今、現前しているのは究極の自己責任社会です。科学に対する高度なリテラシーを持ち、常に情報収集を行ない、正しい情報か誤った情報かを区別しなければならない。そうしないと、もしかすると自分の子どもを守れないかもしれない。自分自身だってどんな症状が後から出てくるかわからない。そんな自己責任を要求される社会になっています。


 しかし、そんな毎日を送っていると、確実に疲弊します。一般国民がすべて高度な科学的判断を自分の責任で行う社会なんて、実現不可能です。(中略)


するとどうなるか。

何やってんだ東電は! 何やってんだ政府は! というイライラ感が募る。敵を見つけて、徹底的に叩きたくなる。そして、そのような中で「救世主待望論」が広がっていく。敵を叩き、単純化した断言を繰り返す政治家がヒーロー化する。みんなの不安や苛立ちが、断言に吸い寄せられていく。(中略)


そして、その攻撃的衝動がファシズムの吸引力へと転化していく。絶対的な正義と絶対的な悪という二分法なんて本当は成立しません。原発を支えてきたのは私たちです。東京の過剰な電力消費の中で疑問を持たずに生きてきたことを忘却してはならない。


問題の中心に、自己の日常があるはずです。だから、自己と対峙しないといけない。にもかかわらず、絶対的な敵を外にばかり求め、「あいつこそが悪なんだ」と不幸の元凶のようにバッシングしていると、朝日平吾的な人間が生み出される素地が出てくると思うんです。加藤も東電も、自己の問題のはずです。自己の中にある加藤や東電と向き合わなければならない。


重松: 当事者としての振るまい方をこれから見つけなければならないのかもしれません。10年前の 9.11 に象徴される「終わり」は、もはや僕たちの世界の外側での出来事ではない。(『世界が決壊するまえに言葉を紡ぐ』中島岳志対談集・金曜日刊 p149 〜 p209 より抜粋)


■それから、もう一つ。

最近読んで「当事者」に関して考えさせられた文章があった。これだ。


「森達也 リアル共同幻想論」 【第52回】 自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と書いた人に訊きたい


■森達也氏は、1956/05/10 生まれ。


あと、小田嶋隆氏は、1956/11/12 生まれ。
それから、宮沢章夫さんが、1956/12/09 生まれだ。


小田嶋さんて、もっと団塊世代の「末尾の人」のような雰囲気があったのだが、なんだ僕の2学年上なだけなんだ。それにしてはビートルズに煩いのが不思議だな。というのも、少なくとも僕の世代ではリアルタイムでビートルズに熱狂していた友人はいない。みな、高田渡、加川良、友部正人、吉田拓郎、泉谷しげる、井上陽水、かぐや姫、小室等と六文銭、岡林信康など、日本のフォークを聴いていたし、当時ラジオから流れていたのはビートルズではなくて、カーペンターズだったし、ボブ・ディランだった。あと、ミッシェル・プルナレフね。


それから、ジェイムス・テイラー。そうして、キャロル・キングだな。少なくとも僕はそうだった。


同い年で、大学の同級生だった菊池はこうだ。中学生の頃にサイモン&ガーファンクルにはまって、仙台二高時代に、レッド・ツェッペリン、キング・クリムゾン、イエス、ピンク・フロイド、EL&P、ディープ・パープル に出会う。当時はプログレ全盛期だったよなぁ。少なくとも、ビートルズは既に「過去の人」だったように思うのだ。


で、その小田嶋隆氏が揶揄した、いまの内閣総理大臣である野田佳彦氏は、1957年5月20日生まれだ。


この、ぼくより「1〜2学年上の人たち」の中には、例えばほかにこんな人がいる。


・氷室冴子 1957/01/11
・柴門ふみ 1957/01/19
・ラモス・瑠偉 1957/02/09
・浅田彰  1957/03/23
・石原伸晃 1957/04/19
・鈴木光司 1957/05/13・
・山崎ハコ 1957/05/18
・山下泰裕 1957/06/01
・松居一代 1957/06/25
・大竹しのぶ1957/07/17
・神足裕司 1957/08/10

・孫正義  1957/08/11
・東国原英夫1957/09/16
・増田恵子 1957/09/02(ピンクレディ)
・綾戸智絵 1957/09/10
・夏目雅子 1957/12/17

・宮本亜門 1958/01/04
・石川さゆり1958/01/30
・みうらじゅん1958/02/01
・時任三郎 1958/02/04
・東野圭吾 1958/02/04
・北尾トロ 1958/


2012年4月 1日 (日)

同じ年生まれの人が気になるのだ

『「当事者」の時代』佐々木俊尚(光文社新書)を読み終わった。


新書にしては、ずいぶんと分厚い本だったが、途中で厭きることなく一気に読めた。すっごく面白かったからだ。

著者は元毎日新聞社会部記者で、なぜ記者を辞めてしまったのかは、こちらの「糸井重里さんとの対談」に載っている。そうだったのか。ぜんぜん知らなかった。


この本の最初の2章は、著者が新聞記者だった時の実体験が描かれていて、これがじつに面白い。夜討ち朝駆けとはまさに新聞記者の日常なのだな。小説とかテレビドラマとか映画で見る、特ダネ記事を狙う新聞記者そのものじゃないですか。でも、この本を読んで初めて知ったのは、その花形新聞記者たちの赤裸々な心の内だった。なるほどなぁ。


この第2章〜第4章は、1960年代末から1970年代初頭にかけての大学紛争と、その思想的バックボーン。その栄光と挫折の歴史が分かり易く書かれていて、この本の読みどころとなっている。


ところで、著者の佐々木俊尚氏は 1961年生まれ。僕が 1958年生まれだから、連合赤軍の浅間山荘事件まで含めても、当時の事柄をリアルタイムで切実に記憶している世代ではないはずだ。なのに、何なんだ!? このリアルな描写は。


■僕が高校生だった頃は、本多勝一はまだ、朝日新聞のスター記者だった。


僕は読まなかったが、たしか、同級生のA君が『ニューギニア高地人』とかを、担任の先生から借りて読んでいたように思う。でも僕だって小田実の『何でも見てやろう』は読んだし、埴谷雄高や高橋和巳は読んで少しは分かった気がしたが、吉本隆明の『共同幻想論』はぜんぜん歯が立たなかったな。で探してみたら、いまわが家の書庫にある本多勝一(飯田市出身)の本は1冊のみ。『日本語の作文技術 』(朝日文庫) だ。でも、この本すらちゃんと読んでない。ごめんなさい。


■今年54歳になる僕でさえそんなんだから、いまの若者は「本多勝一って誰? 小田実って何者?」って感じなんじゃないかな?


今日、テルメで5キロ走った後に寄った「ブックオフ」で、『一九七二』坪内祐三(文春文庫)を見つけて買ってきた。1970年の大阪万博を小6の時に見に行った僕は、この年、中学2年生だった。ところで、坪内祐三氏は僕と同じ1958年(昭和33年)生まれだ。この翌年に山口百恵がブレイクし、森昌子、桜田淳子、山口百恵(昭和34年早生まれ)の「中3トリオ」が誕生する。


面白いことに、坪内祐三氏は以前から「同い年生まれの有名人」に異様にこだわる人だった。で、それが高じて『慶応三年生まれ 七人の旋毛曲り―漱石・外骨・熊楠・露伴・子規・紅葉・緑雨とその時代』 (新潮文庫) が生まれることになる。


■その他、「昭和33年(1958年)生まれ」の僕が気になる人には、例えばこんな人がいる。


・森岡正博(大阪府立大学人間社会学部教授)
・マイケル・ジャクソン
・マドンナ
・プリンス
・原辰徳
・鴻上尚史
・山田五郎
・中村正人(ドリカム)
・東 雅夫 (幻想小説愛好家)
・穂積ペペ(確か捕まったのでは?)
・永江 朗 (ライター)
・久保田早紀(異邦人)
・西川峰子
・伊藤咲子(ひまわり娘)


・吉野仁(書評家)
・岡田斗司夫
・大塚英志
・大澤昌幸
・武田徹
・久本雅美
・久住昌之(漫画家)
・ウォン=カーウァイ 〈王 家衛〉(映画監督)
・高泉淳子(女優)
・業田良家(漫画家)
・サエキ けんぞう
・日垣 隆
・宮下一郎
・江川紹子
・陣内孝則(俳優)


・日比野克彦
・阪本順治(映画監督)
・喜国雅彦(漫画家・古本愛好家)
・ジョン・カビラ
・岩崎宏美
・安藤優子
・小室哲哉
・宮崎美子
・樋口可南子
・早乙女愛


■1959年の早生まれの人は、山口百恵の他に、


・藤沢 周(作家)
・ダンカン
・シャーデー
・京本政樹
・北野 誠
・小西康陽
・岡田奈々
・吉野朔実(漫画家)
・飯田譲治
・宮台真司
・大月隆寛
・マキ上田(ビューティ・ペア)
・やく みつる
・嘉門達夫
・原田宗典


などなど。けっこういるなぁ。

■こういう過去の記憶をお互いに懐かしむ「世代論」は、たぶんこの著者が最も嫌う事項なんじゃないかと思うのだが、でも、たぶん「この本」を読む読者にとっては重要なポイントとなるように感じた。


あと、僕より 8〜9 歳年上の、1950年、1949年生まれの人たちに結構キーマンとなる人がいるような気がする。


彼らは、あの「1968年」年に、まだ18歳ないしは、19歳だったのだ。
彼らは団塊世代にくくられるのだが、ちょっとだけ「遅れてきた青年」だったのではないか?

・山田正紀 1950/01/16
・伊集院静 1950/02/09
・志村けん 1950/02/20
・カレン・カーペンター 1950/03/02
・佐々木譲 1950/03/16
・和田アキ子1950/04/10
・友部正人 1950/05/25
・中沢新一 1950/05/28
・矢作俊彦 1950/07/18
・池上 彰  1950/08/09
・内田 樹   1950/09/30
・平川克美 1950/07/19
・高橋源一郎1951/01/01


・大滝詠一 1948/07/28
・糸井重里 1948/11/10
・村上春樹 1949/01/12
・佐藤泰志 1949/04/26
・鹿島茂  1949/11/30
・関川夏央 1949/11/25
・亀和田武 1949/01/30
・大竹まこと1949/05/22
・松田優作 1949/09/21  

2012年3月23日 (金)

一年ぶりの『上伊那医師会報・巻頭言』

■「上伊那医師会報 2012年/ 3月号」の「巻頭言」を書く当番がまた廻ってきた。医師会事務局の稲垣さんから「北原先生、次号の巻頭言、3月16日が締切ですから宜しくお願いします」というメールがきたのだ。あれは、2月24日のこと。


医師会報の「巻頭言」は、上伊那医師会の理事が持ち回りで書くことになっている。前回ぼくが書いたのは、ちょうど1年前の「3月号」だった。それが、「この文章」だ。


タイムリーな話題であったこともあり、この文章は『長野医報』に転載され、さらには『千葉県医師会雑誌』にも載せていただいた。たいへん光栄なことであった。そこで、2匹目のドジョウではないが、今回も「ツイッター」のはなしで行くことに決めた。タイトルは、「当事者の時代」だ。


何故かというと、前回の文章の中で佐々木俊尚氏の『キュレーションの時代』(ちくま新書)を取りあげていたので、今回も、佐々木氏の1年ぶりの新刊『「当事者」の時代』佐々木俊尚(光文社新書)から「いただく」ことにしたのだ。勝手に盗用ごめんなさい。


ただ一番の問題は、この巻頭言の締切が『「当事者」の時代』佐々木俊尚・著の発売日である 3月16日(金)であったことだ。タイトルを戴くことは決めていたものの、さすがに本文も読まずに使ったのでは気が引ける。で、当日の夜に「いなっせ」西澤書店で「この新書」を見つけて買って帰った。ところが、ぺらぺら捲ってみたら、ぼくが予想した内容の本とはどうもちょっと違う本であるらしい。困ったぞ。


というワケで、「この本」からは単にタイトルだけを戴いて、内容は以下の本、ネット上の文章、などを参考にして書き上げました。ですので、どこかで読んだことあるような主張だなぁ、と思われてもしかたありません。ぼくオリジナルの考えではないのですから。それから、以下の文章は上伊那医師会報に投稿したものを、さらに改稿増補したものです。


<参考文献>

『世界が決壊するまえに言葉を紡ぐ』中島岳志・対談集(金曜日)
『瓦礫の中から言葉を わたしの<死者>へ』辺見庸(NHK出版新書)

・ほぼ日「しがらみを科学してみた」
・ほぼ日「メディアと私 糸井重里 × 佐々木俊尚」

・小田嶋隆「ア・ピース・オブ・警句」 より「メディア陰謀論を共有する人たち」
・小田嶋隆「ア・ピース・オブ・警句」 より「レッテルとしてのフクシマ」


          当事者の時代           北原文徳

 ちょうど1年前に「Twitter」のはなしを書かせていただいたのだが、今回もその続きです。ネットを見ていたら「やるだけ損? 芸能人のTwitter利用の是非」という記事があった。雨上がり決死隊の宮迫博之の呟きがもとで炎上状態になったとのこと。で、実際のツイートを読みに行ったら、過大広告も甚だしい、たわいのない内容のボヤでお終いじゃないか。なんだ、つまらない。


 ところで、宮迫のフォロワーの数は618,409人、NHK朝の連続テレビ小説『カーネーション』の北村役でブレイクした「ほっしゃん。」が130,535人、それから、文化人だと糸井重里氏のフォロワーは479,748人もいる。ちなみに僕のフォロワーは231で、そのうちの2/3は営業アカウントだから読者じゃない。つまり、Twitterというツールは、あくまで有名人の個人ラジオのリスナーとして一般人の多くが参加するプラットホームなのだ。そういう意味ではフォロワーの少ない無名人が情報発信するツールではない。


 ところが、Twitterの面白いところは「メンション(言及)」を飛ばすと言って、@アカウントで直接その有名人に関して誰でも呟けるので、運良く彼(彼女)がそのツイートを目にして気に入り「リツイート」すれば、彼のフォロワー数十万人が瞬時に自分の発言を読むことになるのだ。


しかも、あからさまなヨイショ発言よりも攻撃的で批判的な発言のほうが感情的になった有名人は「晒し」の意味合いを込めてリツイートすることが多い。そうまでして有名になりたい悪意に満ちたバカな輩がネット上には多いからほんとウンザリしてしまうし、そういう事態すら予測できずに、ただ単に有名人の悪口を気軽な気持ちで呟いただけなのに、いきなし「その有名人」のファンから猛烈な非難の攻撃を受けてしどろもどろになり、「有名人が僕のような無名人を晒してイジメるのは卑怯だ」みたいな最後っ屁を残して自分のアカウントを削除するアホがいっぱいいることがほんと情けない。


 さらに厄介なのは、悪意のかけらもなく自らは善意と正義の使者の如き輩がネット上を徘徊しながら、まるで旧東ドイツの秘密警察気取りで、他人の発言の揚げ足取りや吊し上げに躍起になっている無名人がいることだ。彼らは、あの 3.11 後に一気に勢力を拡大した。被災した人々に対して不謹慎な発言だというのが彼らの論理だったが、さらに問題を複雑にしてしまったのが福島第一原発による放射能被害だ。


 彼らは「弱者」を勝手に代弁する人々だ。自らは安全地帯に身を置きながら、東京電力や原子力ムラを絶対的な悪として徹底的にバッシングした。これは一面正しい。僕も基本「脱原発」だから。


ただ問題は「私は加害者とは何にも関係ありません」という正義の味方的な態度にある。じゃぁ、あんたは福島第一原発が放射能を撒き散らす前から「原発反対」の旗頭を上げていたのか? 当たり前のように福島第一原発で作られた「電気」を利用していたのではないか? となれば、あんただって「加害者」という「当事者」なのではないか?


そのあたりの傍ら痛い感覚を、下諏訪町在住の樽川通子さんは信濃毎日新聞「私の声」に投書したのだ。


だから、彼らの東電バッシングは、反面多大な危険性を秘めることとなる。われわれ日本医師会を含め過去の既得権にしがみつく者たちを悪の根源として徹底的に批判してきたのが自民党小泉政権であり、いまの橋下大阪市長なのだ。敵を断定し、ズバッと切ってくれる政治家を今の大衆は渇望している。そこには微かにファシズムの足音が忍び寄っているのではないか?


 『瓦礫の中から言葉を わたしの<死者>へ』辺見庸(NHK出版新書)のあとがきを読むと、この本のテーマは「言葉と言葉の間に屍がある」がひとつ。もうひとつは「人間存在というものの根源的な無責任さ」である。と書いてあった。この言葉は重い。当事者のみが語ることができるということは、3.11 一番の当事者は、2万人にもおよぶ死者たちなのだから。     


2012年2月24日 (金)

椎名誠『そらをみてます ないてます』(文藝春秋)読了

■椎名誠氏が書く「私小説」が好きだ。

特に好きなのが、集英社から出ている『岳物語』『続岳物語』。
最近のものでは、椎名氏にしては妙に暗い印象の『かえっていく場所』が、すっごくよかった。


でも、何と言っても一番いいのは『パタゴニア あるいは風とタンポポの物語り』(集英社文庫)だ。本来は、南極と南米最南端、地の果ての町、プンタアレナスを挟むドレイク海峡(一年中荒れ狂う恐怖の海)に浮かぶ小っちゃな島「ディエゴ・ラミレス」に向かうチリ軍艦に同乗した「最果て紀行的冒険記本」なのだが、椎名氏の古くからの友人で「本の雑誌」をいっしょに立ち上げた目黒考二(北上次郎)氏はこう言った。「これは、椎名誠の私小説として傑作である!」と。


これは世間一般的評価としてよいと思うのだが、椎名誠氏の代表作を挙げよと言ったら、まず筆頭に上がるのが『哀愁の町に霧が降るのだ 上・中・下』(情報センター出版局刊)と『岳物語』。それからこの『パタゴニア』だと思う。ただ、ぼく個人的には、椎名氏のSF作品が大好きなので、『アド・バード』『水域』『武装島田倉庫』の三部作が最高傑作であると今も信じている。


で、この最新作『そらをみてます ないてます』(なんてキャッチーなタイトルなんだ!)は、傑作『哀愁の町に霧が降るのだ』と『パタゴニア』を、現在の椎名誠氏の立場でフォーカスを絞って新に書き直した小説なのであった。だからたぶん、相当に作者の力が入った作品であることは読む前から判っていたし、実際、読了したいま、すっごく満足している。あぁ、いい小説を読んだなぁ。それにしても、何と言ってもやはり「事実は小説よりも奇なり」だ。ほんと面白かった。


いや、「私小説」とはいえ、しょせん小説とうたっているのだから、どこまでが事実かそれは作者にしか判らない。実際、この小説と『哀愁の町に霧が降るのだ』には「同じ場面」が何度も登場するのだが、設定が微妙に変えられている。どちらが事実に近いかと言ったら、『哀愁…』のほうであろう、たぶん。椎名誠氏の奥さん、渡辺一枝さんは、克美荘の同居人であった木村晋介氏の高校の同級生であったというのが真実らしいのだが、『哀愁の町に霧が降るのだ』では「羽生理恵子」、この本『そらをみてます ないてます』では「原田海」とされている渡辺一枝さんとのエピソードは、どのあたりが創作で、どのあたりが真実なのかが妙に気になってしまう。それにしても、「ダッタン人ふうの別れの挨拶」はよかったなぁ。


さらに気がかりなことは、著者が東京新聞のインタビューに答えて「こう言っている」ことだ。


そうか。椎名氏は、いままで封印していた女性「イスズミ」のことを、この小説で初めて「正直」にセキララに書いたのか。


■健全なアウトドア系作家として、大人になっても男仲間とワイワイガヤガヤ、焚火とキャンプの日々のイメージが定着した椎名氏ではあったが、そうしたイメージ先行の虚像と椎名氏自身の実像とが、どんどんかけ離れてゆくことを、椎名氏自身はたぶん半面楽しみつつ上手に利用し、その反面ギャップに次第に苦しめられていったのではないか。


体育会系で、マッチョで、日々スクワッドと腹筋と腕立て伏せを欠かさない椎名氏は、無駄な贅肉が全くない。そんな「いい男」を女どもがほっておくワケがないし、女房ひとすじというストイックさは無理というもだよなぁ、そうだよなあ、と思った。いいよ、それで。肉食系男子は。


■それはともかく、椎名誠氏の生きてきた道を愛読者として併走してみて思うことは、つくづく予測不可能な「人生の不思議さ」ってものが実際にあるのだなぁ、ということだ。それは、テレビで「タモリ」を見ていても(希望や野望を持たない人である点はぜんぜん違うが)同じように思う。

渡辺一枝さんは、もう何十回もチベットに行っている。カイラス山へも行った。彼女も、長年の夢を叶えたのだ。最近では、南相馬市にボランティアで出向いているらしい(『青春と読書』集英社での連載による)

椎名氏が小学性のころから抱いていた夢。探検家ヘディンがたどり着いた楼蘭とロプノール。それから、ジュール・ベルヌの『十五少年漂流記』の島へ行くこと。「夢をあきらめないで」っていうのは、何かの歌詞の一部だったか。でも、ほんとうにそうなんだなぁ、ってことがあるし、本当に好きな人を見つけて、決してあきらめないことも、同じくらい大切なのだなぁと、しみじみ思った次第です。


■<以下、先日のぼくのツイートから>

・私小説という分野がどうもよく判らない。西村賢太氏はリアルに赤裸々に書いている気がするが、それでも「小説」なので事実ではないのだろうなと納得して読んでいる。で、いま『そらをみてますないてます』椎名誠(文藝春秋)後半を読んでいるのだが、『哀愁の町に霧が降るのだ』との異同に悩んでしまう。


・小説だからね、シンプルに構成し直したのだろうなとは思った。例えば、楼蘭到達の話も、極寒のシベリア行の話も、椎名誠氏の別の本で何度も取りあげているので、事実との違いが「私小説」には「あり」ということは納得している。でも、「考える人・メルマガ」を読むと、何か違うんじゃないかと思ってしまうのだ。


・椎名誠『そらをみてます ないてます』(文藝春秋)を、高遠町福祉センター「やますそ」1Fのペレット・ストーブの前で、長男が通うアンドレア先生の英語教室が終わるのを待ちながら今晩読了。これは「いい小説」だなぁ。しみじみいい。私小説でありながら、小説としての結構とカタルシスが、綿密に計算されている。


・(続き)本の装丁がいいのだ。表紙は東京オリンピックを目前にした、1964年夏の東京の夕焼け。左側に出来たばかりの首都高速、正面には 1958年に完成した東京タワーが描かれている。そして裏表紙は、1988年タクラマカン砂漠を横断して遂に楼蘭のストゥーパに一番乗りした椎名氏ら3人が描かれている。


・(続き)そうして、絵本の読み聞かせをしていてよくやる動作なのだが、その絵本を読み終わったあとに、子供たちに向けて、背表紙を真ん中に「表表紙」と「裏表紙」を180度広げて、パノラマみたいに見せるのだ。『そらをみてますないてます』を「そうやる」と「そら」でつながっているんだな、これが。


2012年2月22日 (水)

『聴いたら危険! ジャズ入門』田中啓文(その2)

■本当は、オイラみたいなすれっからしのジャズファンが「この本」のことをどんなに誉めてみたところで、実はあまり意味はないんじゃないかと思ってしまうのだ。


だから、まったくのジャズ素人なのに「ジャズ入門」のタイトルに騙されて、間違って「この本」を買ってしまい、なんか面白そうじゃん! とさらに勘違いして、amazonで、ブロッツマンとか、ファラオ・サンダースとか、ローランド・カークとかの「著者オススメCD」を思わずポチッてしまい、送られてきたCDを何とはなしに聴いてみたら「案外いいじゃん!」と、その後どんどんフリー・ジャズの世界にのめり込んでしまいました!


っていうような感想を、著者の田中啓文氏は読みたかったんじゃないかな。
ただ、なかなかそれは難しいことだとは思うのだけれども、「へぇ〜、こんなのもジャズなんだ!」って興味を持ってくれる人は「この本」のおかげでずいぶん増えるんじゃないか。

■何なんだろうなぁ。とにかく、ぼくは田中啓文氏が書く小説が好きなのだ。


『落下する緑―永見緋太郎の事件簿』シリーズも、『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズも、ハードカバーで買って読んでいる。著者は、基本超マジメなのに、変に無理してサービス精神が旺盛すぎるのだ。


だから「この本」でも、変に読者に受けを狙いにいったミュージシャンの項目(ファラオ・サンダースとか、ジュゼッピ・ローガン、アーチ・シェップなど、ぼくも大笑いしたが……)よりも、真摯に真面目に書いている項目のほうが読み応えがある。例えば「アルバート・アイラー」の文章。


なんといっても、あの「音」である。朗々と鳴り響く、管楽器を吹く原始的な喜びにあふれた野太い、輝きに満ちた音。あれを聴くだけでも、彼の音楽の根源にあるものが何かわかるではないか。それ以外にも「ガーッ!」という割れた音、口のなかの容積を変化させることで得られる歪んだ音、しゃくりあげるように裏返っていくフラジオ、グロウルによるダーティーな音などを効果的に使っているアイラーは、サックスから獣の大腿骨を楽器がわりに吹いていた頃のような原初の音を引きずり出す。(p48)


これほど、アイラーの音色の本質に迫った文章を、ぼくは今まで読んだことがなかった。すごいぞ。


あとはそうだなぁ、エヴァン・パーカーの項。


 パーカーは、「こういう音が出したい」「こういう演奏がしたい」というところからはじめて、自分の楽器をじっくり見つめ、そしてこうした技法にたどり着いたにちがいない。(中略)なにしろ、サックスで世界で初めてこんなことを成し遂げたひとなのである。歴史の教科書に載ってもいいぐらいの偉人である。(中略)

 パーカーのソロにはある時期救われたことがある。会社務めが合わなかった私は、昼休みは食事もせずにCDウォークマンでずってこのアルバムを聴いていた。鬱陶しい現実の世界から浮遊できるひとときを、彼のソロは毎日あっという間に作り出してくれた。(p81)


この傾向は、日本人ミュージシャンの項目で顕著となる。


富樫雅彦、坂田明、阿部薫、林栄一、梅津和時、高柳昌行、大友良英、明田川荘之、片山広明などのパートを読むと、著者の真面目さが際立っているように思うぞ。


ぼくが特に注目したのが「阿部薫」だ。


 阿部薫のように「情念」に任せた即興は、空虚でひとりよがりなものになりがちだが、彼の演奏はそうではない。その理由は「間」と「音」にあると思う。阿部のソロは「間」が多い。ひとりで吹いているのだから当然、と思うかもしれないが、プレイヤーは無音状態を嫌うもので、それを埋めたくなる。エヴァン・パーカー、カン・テーファン、ミッシェル・ドネダなどが循環呼吸とハーモニクスによって途切れなく、空間を音で埋め尽くしているのに比べ、

阿部のソロは、静寂が延々と続き、これで終わり?と思った頃に、ぺ……と音が鳴ったりする。常人なら耐え難い長尺の静寂をあえて選択し、無音と無音を組み合わせて、あいだに音を挟んでいく。ここまで大胆に静寂を押し出した即興演奏家はいなかった。(p142)


ぼくも阿部薫の『なしくずしの死』が大好きなのだが、彼の「無音の魅力」には気が付かなかったな、まったく。さすがだ。

田中氏が書いた文章は、どれもこれも「そのミュージシャン」に対する「ひたむきで敬虔な愛とリスペクト」に満ちている。それが、読んでいて実にすがすがしいのだ。


だから逆に、田中氏以外の人が書いた文章が妙に浮いてしまっている。これらはいらなかったんじゃないか? 田中氏だけの文章で埋め尽くせばよかったのに、何故だ? たぶん、自信がなかったのだろう。だからあのまどろっこしい、言い訳がましい「はじめに」と「おわりに」になってしまったのではないか。


そんなこと言わなくてもいいのになぁ。


後半に載っている、カヒール・エルサバー、ハミッド・ドレイク、ポール・ニルセン・ラヴ、芳垣安洋、大原裕とかは、ぼくも「この本」で初めて知った。どんな音を出すのか、ぜひ聴いてみたいぞ。

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