読んだ本 Feed

2012年2月22日 (水)

『聴いたら危険! ジャズ入門』田中啓文(その2)

■本当は、オイラみたいなすれっからしのジャズファンが「この本」のことをどんなに誉めてみたところで、実はあまり意味はないんじゃないかと思ってしまうのだ。


だから、まったくのジャズ素人なのに「ジャズ入門」のタイトルに騙されて、間違って「この本」を買ってしまい、なんか面白そうじゃん! とさらに勘違いして、amazonで、ブロッツマンとか、ファラオ・サンダースとか、ローランド・カークとかの「著者オススメCD」を思わずポチッてしまい、送られてきたCDを何とはなしに聴いてみたら「案外いいじゃん!」と、その後どんどんフリー・ジャズの世界にのめり込んでしまいました!


っていうような感想を、著者の田中啓文氏は読みたかったんじゃないかな。
ただ、なかなかそれは難しいことだとは思うのだけれども、「へぇ〜、こんなのもジャズなんだ!」って興味を持ってくれる人は「この本」のおかげでずいぶん増えるんじゃないか。

■何なんだろうなぁ。とにかく、ぼくは田中啓文氏が書く小説が好きなのだ。


『落下する緑―永見緋太郎の事件簿』シリーズも、『笑酔亭梅寿謎解噺』シリーズも、ハードカバーで買って読んでいる。著者は、基本超マジメなのに、変に無理してサービス精神が旺盛すぎるのだ。


だから「この本」でも、変に読者に受けを狙いにいったミュージシャンの項目(ファラオ・サンダースとか、ジュゼッピ・ローガン、アーチ・シェップなど、ぼくも大笑いしたが……)よりも、真摯に真面目に書いている項目のほうが読み応えがある。例えば「アルバート・アイラー」の文章。


なんといっても、あの「音」である。朗々と鳴り響く、管楽器を吹く原始的な喜びにあふれた野太い、輝きに満ちた音。あれを聴くだけでも、彼の音楽の根源にあるものが何かわかるではないか。それ以外にも「ガーッ!」という割れた音、口のなかの容積を変化させることで得られる歪んだ音、しゃくりあげるように裏返っていくフラジオ、グロウルによるダーティーな音などを効果的に使っているアイラーは、サックスから獣の大腿骨を楽器がわりに吹いていた頃のような原初の音を引きずり出す。(p48)


これほど、アイラーの音色の本質に迫った文章を、ぼくは今まで読んだことがなかった。すごいぞ。


あとはそうだなぁ、エヴァン・パーカーの項。


 パーカーは、「こういう音が出したい」「こういう演奏がしたい」というところからはじめて、自分の楽器をじっくり見つめ、そしてこうした技法にたどり着いたにちがいない。(中略)なにしろ、サックスで世界で初めてこんなことを成し遂げたひとなのである。歴史の教科書に載ってもいいぐらいの偉人である。(中略)

 パーカーのソロにはある時期救われたことがある。会社務めが合わなかった私は、昼休みは食事もせずにCDウォークマンでずってこのアルバムを聴いていた。鬱陶しい現実の世界から浮遊できるひとときを、彼のソロは毎日あっという間に作り出してくれた。(p81)


この傾向は、日本人ミュージシャンの項目で顕著となる。


富樫雅彦、坂田明、阿部薫、林栄一、梅津和時、高柳昌行、大友良英、明田川荘之、片山広明などのパートを読むと、著者の真面目さが際立っているように思うぞ。


ぼくが特に注目したのが「阿部薫」だ。


 阿部薫のように「情念」に任せた即興は、空虚でひとりよがりなものになりがちだが、彼の演奏はそうではない。その理由は「間」と「音」にあると思う。阿部のソロは「間」が多い。ひとりで吹いているのだから当然、と思うかもしれないが、プレイヤーは無音状態を嫌うもので、それを埋めたくなる。エヴァン・パーカー、カン・テーファン、ミッシェル・ドネダなどが循環呼吸とハーモニクスによって途切れなく、空間を音で埋め尽くしているのに比べ、

阿部のソロは、静寂が延々と続き、これで終わり?と思った頃に、ぺ……と音が鳴ったりする。常人なら耐え難い長尺の静寂をあえて選択し、無音と無音を組み合わせて、あいだに音を挟んでいく。ここまで大胆に静寂を押し出した即興演奏家はいなかった。(p142)


ぼくも阿部薫の『なしくずしの死』が大好きなのだが、彼の「無音の魅力」には気が付かなかったな、まったく。さすがだ。

田中氏が書いた文章は、どれもこれも「そのミュージシャン」に対する「ひたむきで敬虔な愛とリスペクト」に満ちている。それが、読んでいて実にすがすがしいのだ。


だから逆に、田中氏以外の人が書いた文章が妙に浮いてしまっている。これらはいらなかったんじゃないか? 田中氏だけの文章で埋め尽くせばよかったのに、何故だ? たぶん、自信がなかったのだろう。だからあのまどろっこしい、言い訳がましい「はじめに」と「おわりに」になってしまったのではないか。


そんなこと言わなくてもいいのになぁ。


後半に載っている、カヒール・エルサバー、ハミッド・ドレイク、ポール・ニルセン・ラヴ、芳垣安洋、大原裕とかは、ぼくも「この本」で初めて知った。どんな音を出すのか、ぜひ聴いてみたいぞ。

2012年2月20日 (月)

『聴いたら危険! ジャズ入門』田中啓文(アスキー新書)

■ Twitterに、ペーター・ブロッツマンのLPを10枚は持っていると書いてしまったから、出してきたのだ。


なぜこんなに「ブロッツマン」のレコードを持っているのかというと、ある時期すっごく好きだったのだ、ブロッツマンのサックス。特に、ブロッツマン、ヴァン・ホーヴ、ハン・ベニンク、アルバート・マンゲルスドルフのベルリンでのライヴ盤(1971/08/27/28)録音の「3枚組」のうちの黒色ジャケット「エレメンツ」は、今でもときどき無性に聴きたくなる。


いま思うと、ブロッツマンって、案外聴きやすいのだね。だからこそ、「この本」ではいの一番に取りあげられているワケなんだな。なるほど。

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■今から30数年前だったかなぁ。東北旅行をした時だった。ブロッツマンを聴け! エヴァン・パーカーを聴け! デレク・ベイリーを聴け! って、仙台市一番町のビルの3階?にあったジャズ喫茶「Jazz& Now」で、マスターの中村さんににそう言われたのだ。それまで、ぜんぜん聞いたこともないミュージシャンの名前だった。


「じゃぁ、マスターが『これを聴け!』っていうレコードを一生懸命聴きますから、毎月おすすめレコードを送って下さい。通販で買います」ぼくはそう言った。だから、それから1年間だったか2年に及んだか、毎月毎月仙台から「ヨーロッパのフリー・インプロビゼーションのレコード」が届いた。中でも、一番多かったレコードがブロッツマンだったのだ。そういうワケなのです。



2012年2月15日 (水)

『えをかく』谷川俊太郎、長新太 +湯浅学

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■『音楽が降りてくる』湯浅学(河出書房新社)が面白い。もったいないから、少しずつ少しずつ読んでいる。ちょうど、小西康陽のコラム本を読むような感じでね。で、先日ふと 177ページを開いて「かこうと思えば 長新太」を読んでみたのだ。いや、たまげた。音楽評論家の手による「絵本評論」というものを生まれて初めて読んだのだが、鋭すぎるぞ! 絵本関係者による「長新太論」はずいぶん読んできたけれど、こんな切り口、文章の組立方があったとは。ほんと驚きましたよ。(以下抜粋)


 毎晩寝るときに娘に本を読んで聞かせていた。娘が生まれるずっと前、所帯を持つ前から俺の本棚には長さんの本がたくさんあった。

今でもたくさんあり、その数は増え続けている。長女は長さんの本が好きである。『ゴムあたまポンたろう』は連続20夜読んだ後、二日おいてさらに10夜、その後も断続的に何回も何回もリクエストされた。

『つきよのかいじゅう』で長女は三歳のとき、シンクロナイズド・スイミングを知った。本の背がはがれてからも「ボコボコボコボコ ボコボコボン」と読まされた。

『おばけのいちにち』も『ちへいせんのみえるところ』も『わたし』も『おなら』も『やぶかのはなし』も読んだ。四年間、長さんの本を読まない日はなかった。

その中に『えをかく』があった。



娘は谷川俊太郎も好きだ。『これはあっこちゃん』を読んで俺がクタクタになる様を見て大よろこびし、「じゃあ次、『えをかく』」というオーダーは、音読という修行であった。本を開いて、

「まずはじめに、じめんをかく」

 と声に出してみると、いつでも、ねっころがって読んでいるにもかかわらず、背筋がしゃんと伸びた。読み進みながら、音読の速度は増した。リズムがいいとか、のりが快調とか、そういうのとはちょっとちがった。音楽でいうグルーヴというものではなく、言葉と絵に、自分で発している音が加わって、ぐにゃぐにゃどたどたすいすいと動き出して止まらなくなってしまう。目の前に風景が広がるのではなく、次々に登場するものが日によってまったく異なった動きで重なり合ったり、ポコッポコッと浮かび上がってはあたりに漂っていったりする

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 長さんの『えをかく』の絵は少しずつ、くぐもった発色になっていて、線のにじみが他の作品には見られない調子になっている。見開きごとに関連性のあるものが描かれているが、すべてがひとつの連鎖の中にある。

『えをかく』は、もともと一編の詩として、今江祥智さんの編集する<児童文学1973 / 1>に発表されました。それを絵本にしようと、いじわるなことを考えたのも今江さんですが、長さんは一言半句たがえず、詩のとおりに『えをかく』というはなれわざで、みごと難問に答えてくれました。(『えをかく』復刻版あとがき)

 と谷川俊太郎さんは記している。

 たとえば、長さんは「かぜをかく くもをかく くものかげを」かいてしまう。「かばもかく」がそのかばは薄い灰色の丸いにじみだ。このあっさりとした灰色のシミは、あまりにもあまりにもそこはかとなくかばなのだ。ああああシミジミと、かば。

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シミがシミジミしているのはあたりまえじゃないの、ばか。とおっしゃるかもしれませんが、その次の次のページを見てみなさいよ、あなた。 「めにみえない たくさんの プランクトンをかく」んですよ。かいてしまうんですよ長さんは。こんなにシミジミとしたプランクトンは、この世でもあの世でも長さんにしか、かけません。


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 ページの右の端に、薄い灰色と黄色いシミが点々とある、めにみえない、たくさんのプランクトン。その次に長さんは、ゆき、こおり、しも、ゆうだち、さみだれ、てんきあめ、ひさめ、はるさめ、おおあらし、それらをすべてかく。かいてしまっている。

 最初にこの本を読んだとき(二十七年前)は黙読だった。読んで聞かせる相手が俺にはいなかった。長さんはすごいなあ、と思った。子どもが生まれて、声に出して読みながら絵を見つめていたら

「ゆうべのゆめをかく しにかけた おとこ もぎとられた うで ながれつづける ちと くさりはじめた にくをかく つむられた めと かわいた なみだをかく」のあたりでだんだん胸がどきどきしてきて、「しわくちゃの おばあさんをかく いっぽんいっぽん しわをか」かれたおばあさんの上に四角いワクの中に「なまえ」と描いてあるのを見ながら「それから えのどこかに じぶんのなまえをかく」と読み上げるころには目が涙でいっぱいになっていた。

「そして もういちまい しろいかみを めのまえにおく」

 と最後のページを読みながら俺は泣いた。最後の最後で再び、

「まずはじめに じめんをかく」

 と読み終えて、俺は流れ落ちる鼻水を止めることができなかった。言葉と絵に乗せて俺の中の過去が渦を巻き、粒になって飛び散っていった。娘に知られぬよう素早く鼻をかみ、涙をぬぐった。


『長新太 こどものくにのあなきすと』(KAWADE道の手帖・河出書房新社)
 p152〜153「かこうと思えば」湯浅学 より抜粋。

(俺、この本持ってたのに、湯浅氏の文章を読んでなかったのだ。失敗失敗。)
『音楽が降りてくる』湯浅学・著(河出書房新社)p177〜183に再録


2012年2月10日 (金)

続「宮沢章夫のエッセイ」は、どこが面白いのか?

■今夜もしつこく「この問題」を考えてみたい。

いろいろとググって、ずいぶんと宮沢さんの『牛への道』の感想を読んでみたのだが、どれもこれも似たり寄ったりで、どうも納得がいかない。ぼくが言いたいことは、そうじゃないのだ。


ならば、自分で言えよ!ってか。でも、それができないから歯がゆいのだよ。


昨夜、西春近の「テルメリゾート」3Fのトレッドミルで8km走ってお風呂で汗を流し、夜10時半過ぎ。久々に閉店直前の「ブックオフ」へ立ち寄った。今日の狙い目は、あくまで 105円コーナーのみ。まずは、最近マイブームの高峰秀子。このところずっと探している『わたしの渡世日記 上・下』は残念ながらなかった。でも、『コットンが好き』高峰秀子(文春文庫)を見つけた。¥400だ。カラー写真満載のこの本は、たしか「さとなお」さんも褒めていたぞ。というワケで、400円出して購入。


このところ探している作家さんは、今野敏『奏者水滸伝シリーズ』、堀江敏幸の文庫本、マイクル・コナリーの講談社未読文庫本、それから、宮沢章夫のエッセイ本だ。


そしたらなんと、105円の雑学本のコーナーに、宮沢章夫の新潮文庫から出ているエッセイが(しかも美本!)2冊もあったのだ。ラッキー! これだから定期的なブックオフ巡回は欠かせないな。


で、買った本はというと、『わからなくなってきました』宮沢章夫(新潮文庫)と『よくわからないねじ』宮沢章夫(新潮文庫)。後者はね、高遠町図書館で借りた『百年目の青空』と同じ本で、すでに一度読んだことがあったのだ。って、買ってから気が付くなよな!


■ところで、文庫『わからなくなってきました』の解説を、超ベテラン劇作家である「別役実」が書いていて、ぼくはまず「あとがき」や「解説」から本を読む癖があるから、読んでみたワケです。別役実。


そしたら、別役氏は見事に「宮沢章夫のエッセイは、どこが面白いのか?」を言語化して見せてくれたのです。なるほどなぁ、そうだったんだ。「ホップ・ステップ・ジャンプ」か! うまいこと言うなぁ。


なんか、1週間くらい便秘していたオバサンの排便後みたいな気分。 


ちょっといい加減な言い回しで、ごめんなさい。


2012年2月 5日 (日)

『牛への道』宮沢章夫(新潮文庫)の、どこが面白いのか。

■とにかく、このところのインフルエンザ大流行のせいで、物理的に自由になる時間が極端に減ったことに加え、昼休みも取れず午前からほぼ連チャンの午後の診療がようやく終わって、夜8時過ぎに遅い夕食を取れば、もうテルメに走りに行く元気もなく、血糖値が上がったところで睡魔に襲われ、午後9時半前にはベッドで朝まで寝てしまうという有様。

昨夜がまさにそんな一日であった。


だから、ブログなど更新している間がないのだ。 スミマセン。


■あと、もう一つ更新を怠った理由がじつはある。


『牛への道』宮沢章夫(新潮文庫)の、いったいどこが面白いのか、納得がいく説明ができるのかどうかずっと考えていたのだ。


■例えば、伊丹十三『女たちよ!』の場合、以前に読んだのは何十年も前なのに、それでもタイトルを見れば所々少しは記憶に留めていた。ところが『牛への道』の場合、エッセイのタイトルを見ても「どんな話」だったのか、全く記憶に残っていないのだ。あの有名な「崖下のイラン人」ですら、もう4〜5回は読んで、その度に笑っているはずなのに、いまこうして書きながらも何だったのかよく思い出せない。


伊丹十三の場合、男のダンディズムとか「こだわり」とか「うんちく」とか、こうでなければいけないという主義主張に満ちていた。それが、単なるキザとか、鼻持ちならぬ嫌らしさにならないところが伊丹十三の伊丹十三たる所以なワケで。


ところが、宮沢章夫氏はアプローチがぜんぜん違う。「だからなんだ?」という「どうでもいいこと」に一人こだわって、こだわって、考えて考えて文章にしている、その過程の文章が「そこはかとなく」面白いので、どんな話だったのかうまく要約できないのだ。だからたぶん僕の記憶に定着しないのだと思う。


逆に言うと、何度読んでもその度に初めて読んだ感覚で新鮮に大笑いすることができる、という全くもって稀有な本なワケです。こんな本ないぜ! あと、いろんな人が忠告しているけど、「この本」を通勤電車の中で読んではいけない。トイレでこそ読むのが正しいのデス。


■この本の「第三章」までは以前にも何度か読んでいたのだが、第四章「読むという病」は今回初めて読んだ。いや、面白いじゃないか!


宮沢氏が読んで面白かった本を紹介しているのだが、不思議なことに「その本」を読んでみたいとは決して思わないのだ。面白いのは「その本」に興味を持った宮沢氏の文章なのであって「その本」ではないのだな。


それと正反対なのが、『第二図書係補佐』又吉直樹(幻冬舎よしもと文庫)だ。読書好き芸人の又吉が読んで好きな本を紹介しているのだが、「その本」のことはラスト3行になってようやく言及されるだけなのに、それなのに、読んでいて「その本」がどうにも読みたくてしかたなくなっているのだった。不思議だ。

又吉は凄いぞ!


ぼくが好きなのは、古井由吉『杳子』を紹介しているページ。


2012年1月28日 (土)

『女たちよ!』伊丹十三(新潮文庫)

■(前回の続き)『牛への道』宮沢章夫(新潮文庫)も、『女たちよ!』伊丹十三(新潮文庫)も、今回再読だったのだが、再読に耐える(いや、再読する価値のある)エッセイ本て、実はそう多くはない。


伊丹十三『女たちよ!』は、文春文庫版(初版発行:1975年01月25日)が出てすぐ買って読んだ記憶があるから、僕はたぶんまだ高校生だったワケで、当時はその書かれている内容の半分も理解できなかったのではないかと今は思う。


それでも、37年ぶりに読んでみて、スパゲッティの茹で方は「アル・デンテ」で、矢作俊彦『スズキさんの休息と遍歴』にも登場する「シトロエン2CV」は「ドゥシーボー」で、ジャガーでなくて「ジャグア」だとか、二日酔の虫を「こめかみ」からサナダムシみたいに引っ張り出す話、「床屋の満足」のはなし。それから「目玉焼きの正しい食べ方」のことは確かに憶えていた。


つい最近、「清水ミチ子さんのブログ」で「目玉焼きの一番おいしい食べ方」に関して北山修氏が書いていた文章に感心したとの記載を読んだけど、その本当の原典は「伊丹十三」ですよ!


■今回この本を再読してみて、ひたすら驚くことの連続だった。初版は 1968年08月01日。今から45年近くも前の大昔に書かれたエッセイなのに、ぜんぜん古くない。ていうか、今でこそ誰もが知っている「当たり前」の事実(パスタの茹で方はアルデンテで、ボンゴレもカルボナーラもよく知ったメニュー)を、伊丹十三氏は当時すでに「当たり前」のこととして実際に味わって体験していた、という事実に驚くのだ。


それから「クルマ」の話。今なら、伊那市西春近の「テルメリゾート」第二駐車場に車を停めれば、必ず色違いで2台は目にする「ミニ・クーパー」。文字で目にした最初が「この本」だったな。そうして、ぼくが映画の中で初めて「この車」を見たのが、映画『お葬式』。烈しい雨が降る深夜の東名高速を、山崎努のマネージャーである財津一郎がぶんぶんワイパー回しながら、地を這うように運転する車が「ミニクーパー」だった。なるほどカッコイイじゃないか。そう思った。


(追記:書きながらちょっと気になって検索してみたら、財津一郎が運転してたのは、HONDA CITY TURBO II で、山崎努が運転していた方がミニクーパーだったらしい。ごめんなさい。いま手元にビデオもDVDもないので確認はできないが……)


あと、ミニバン流行の日本では、シートの倒し方次第でどれだけ沢山の荷物を積むことができるかを競っているワケだが、そんなことずっと昔から伊丹氏は「ルノー16」を評して既に看破しているのだな。もうビックリ!


で、かなわないのは、やっぱりファッションの話かな。シックではなくて、彼にとっては「シィク」なんだ。シックの発音だと病気になっちゃうからね。


ピーター・オトゥールが気楽に話せる友達だったという、伊丹十三という日本人。本当に凄い人だったのだなぁ、としみじみ感じる今日この頃のワケで。

2012年1月26日 (木)

トイレで読むための本について

■前回は「この話題」まで行き着けなかった。よくあるのだ、こういうこと。タイトルに偽りありってね。ごめんなさい。


2年前、本格的にダイエットすることを目指して、まず始めたのは「ツムラ防風通聖散」を飲むことだった。高血圧ぎみだったし、メタボで腹位が増し、内蔵脂肪がパンパンだったからだ。


ただ、防風通聖散を飲むと便がゆるくなる。しかも、日に2度3度と排便したくなる。決して下痢にはならないので苦にはならないが、それだけトイレの個室で過ごす時間が増えるのだった。そうなると、妙に退屈なのだ、トイレの中というのは。


となれば本でも読むしかあるまい。でも、長編小説をトイレで読むのは向かない。排便してスッキリした気分になったのと同時に読み終わる長さのエッセイが一番よい。できれば1〜2ページで終わって、短いのに芳醇なワインの味わいのごとき読後感が得られるもの。となると、おのずから限られてくるな。

で、ぼくの経験からの「オススメ」はというと、


1)『牛への道』宮沢章夫(新潮文庫)トイレで読むための全ての条件を備えたスグレ本
2)『女たちよ』伊丹十三(文藝春秋)この人は50年先を生きていたことがよくわかる
3)『第2図書係補佐』又吉直樹(幻冬舎よしもと文庫)巧い。ほんと。たいしたもんだ
4)『ポケットに名言を』寺山修司(角川文庫)寺山さんも凄い読書家だったのだ!


なのだが、2)を読み終わり、いま読んでいるのは、『にんげん住所録』高峰秀子(文春文庫)だ。


この人も、ほんと文章が巧い。ほれぼれする。

でも、はたして排便しながら読んだのでは、高峰秀子さんに失礼なような気がしてならないのだった。

2012年1月24日 (火)

トイレで読む本と、SHURE/ SE215 を買ったこと。

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■この2年半使ってきたイヤホン「SHURE/ SE115」が、とうとう断線して接触不良を来すようになってしまった。これだけハードに使ってきたのに、それにしてもよく耐えて保ってくれたものだ。このイヤホンにしてから、本体の iPod Shuffle のほうは4機替わった。コイツの前に使っていたのがやはり「SHURE/ E3」。1万円前後のイヤホンの中では一番評判がよかったのだ。


仕方ないので、新しいイヤホンを購入することにした。となれば、後継機種もやはり SHURE かな。というワケで、ネットを検索したら1万円前後の価格帯で昨年「SHURE/ SE215」ってのが出ていることが分かった。しかも、なかなか評判もいいじゃないか。思わず何も考えずに amazon のボタンを「ポチ」っと押してしまったら、今日の午前中にもう届いた。


さっそく聴いてみる。もちろん、エイジングしてからでないと本当の実力は分からないのだが、 SE115 よりもずいぶんとダイナミック・レンジが広い。左右ワイドに音が横に広がる感じがする。低音もよく出ているし、高音の切れもいい感じだ。ただ、まだちょっと耳にキツイかな。もう少し慣らせば良い感じになるような気がする。


耳へのフィット感は、この SE215 が一番いいんじゃないか。


ただ、やたらとコードが長いのが困る。これはちょっと邪魔になるな。巻き取り器がやはり必要だ。

2012年1月21日 (土)

あぁ、芥川賞を取らない「いしいしんじ」さんは凄いな。


YouTube: 「よんとも」いしいしんじさん&豊崎由美さんトークイベント


■この、トヨザキ社長と「いしいしんじ」氏との年末の京都での対談は、ものすごく面白い。いしいさんて、こういう声してたのか。それにしても早口だな。


何よりも驚くのは、いしいさん話が面白すぎる! 話が上手すぎることだ。あと、作家と読者の関係のとらえかた。そうなんだよなぁ。煙がたなびく感じなんだなぁ。作家の感じ方と読者の感じ方の違いの感覚を、じつにうまく例えている。


いしいさんが高校生の時にアメリカ留学した話が、まずは面白い。日本人が一人もいないアメリカ中西部の田舎、チャールストンに行った時の話。本当はシカゴに迎えに来てくれている人がいなくて、7時間待っても関係者は来なくて、しかたなくカウンターに行って黒人のオバチャンに訊いたら、郵便飛行機が飛ぶから、あんた郵便物になれば乗れるわよ、って。


すごい話だよなぁ。英語もろくに喋れない高校生が、日本を旅立ち17時間。ようやくシカゴに着いたかと思ったら、このありさま。で、さらに面白いのは、リチャード・ブローティガンの訳者として名高い藤本和子さんが当時、いしい青年が郵便物として到着した町、シャンペーンに住んでいたということ。高校生の彼は、アメリカ中西部イリノイ州の田舎を舞台にしたレイ・ブラッドベリやシャーウッド・アンダーソンの『ワインズバーグ・オハイオ』に感動していたんだって。そう、今でいえば佐藤泰志の『海炭市叙景』(小学館文庫)は、文庫解説の川本三郎氏によれば『ワインズバーグ・オハイオ』の日本版なのだという。気になるではないか。


■それから、ぼくの好きな小説『みずうみ』について語るうちに、いしいさんが実はその昔に読んだ『ドリトル先生と秘密の湖』から、ぜんぜん気付かずに『みずうみ』を書くことになったことを、ただいま、トヨザキ社長と対談しながら発見した場面が見物だ。

■NHKBS2『週刊ブックレビュー』の、宮崎での公開収録のはなしが面白い。司会は児玉清さんで、その少し前に娘さんを癌で亡くしたばかりだった。いしいさんも、松本の丸の内病院で奥さんが妊娠5ヵ月で死産したばかりだった。放送では、そうしたお互いの個人的な事情は一切話さなかった。


いしいしんじさんが紹介した一冊は『さりながら』フィリップ・フォレスト著・澤田直訳(白水社)

「この小説は、ある種の悲しみは絶対に乗り越えることができないことを書いてますよね。じゃ、それはどうすればいいのか、ということを児玉さんと延々とこう話をして、じゃ、乗り越えられない悲しみをどうすればいいのかということを、二人で探っていった感じがあるんですけど、結論が出たんですよ。」


「それは何かと言ったら、忘れないことだ。その出来事を。すごく大切にすることだ。それしかない」(開始1時間15分ぐらい)このあたりの会話はほんと深いぞ。

2012年1月11日 (水)

渋谷道玄坂「ムルギー」追補と『なずな』の追補

■いまから30年以上前に、ずいぶんと通ったのだ、渋谷道玄坂『ムルギー』。


その当時のことと、久し振りに再訪した時のことは「2003/03/02 ~03/08 の日記」に書いてあります。あの、『行きそで行かないとこへ行こう』大槻ケンヂ(学研版)は、高遠「本の家」で見つけて 100円で入手したはずなのだが、いまちょっと見つからないのが残念。


文庫では「カレー屋Q」の「ゴルドー玉子入り」となっているが、学研版では確かに「カレー屋M」の「ムルギー玉子入り」と書かれていたよ。


探してたら、あった、あった。学研版。


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 ■上の写真をクリックすると、拡大されて読み易くなります。


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■写真はダメだが、文章だけまだ残っている、島田荘司氏 の「道玄坂ムルギー」はいいなぁ。

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■『なずな』堀江敏幸(集英社)に関しては、「まどみちお」の詩に触れない訳にはいくまい。


254ページに載っている『ぼくはここに』という詩は、わが家にある「ハルキ文庫版」と「理論社ダイジェスト版」には載っていなかった。たしかに、この詩は深いなぁ。


次の「コオロギ」(p323)もすごいけど、ぼくは「ミズスマシ」(p380)に一番驚いた。

ミズスマシと言えば、その昔、長野オリンピックの時に当時の長野県知事吉村午良氏が、ショートトラック競技を評して「ミズスマシ」が回ってるみたいなもんだ、と言ったことが印象に残っている。

そう、ミズスマシはあくまで平面の二次元世界に生きている。普通はそう考える。


ところが、詩人は違うのだな。


「点の中心」は、タイムトンネルの中心みたいに、三次元的に、宇宙のビッグバン的に、どんどんどんどん自分から遠ざかっているのだ。これは、思いも寄らなかった視点だ。


著者の堀江敏幸氏も、東京新聞のインタビューに答えて「こう言っている」


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■それから、以下は『なずな』に関してツイッターのほうに断続的に呟いたことを一部改編して、facebookのほうにまとめたものです。多重投稿でごめんなさい。


堀江敏幸『なずな』(集英社)を読んでいる。いま、388ページ。もうじき終わってしまう。それが切ない。ただ繰り返し繰り返しの単調な毎日なのだが、掛け替えのない「時・人・場所・関係性」を、確かに僕らにもたらした。それが「子育て」だったな。ほんと、子供はあれよあれよと大きくなる。特に、おとうさん! この瞬間を大切にしてほしいと、切に願うのだった。


小説『なずな』を読みながら、不思議と、ありありと目に浮かぶし、おっぱいやウンチの甘酸っぱい臭いもリアルに感じることができる。例えばp40。そうそう、赤ちゃんて眠りに落ちて脱力すると、突然、重くなるのだ。すっかり忘れていたよ。


小説『なずな』を読んでいて、ビックリしたところがある。主人公は、ジャズ好きの弟に頼まれて、生後2ヵ月半の赤ちゃんに、コルトレーンの「コートにすみれを」「わがレディーの眠るとき」を子守歌として聴かせる(p302)。さらに「あの」スティーヴ・レイシーを聴かせているのだ。(p60、p302、p389) しかも、驚くべきことに、案外これが「うまくいっている」というのだ。驚いたな。なに聴かせたのだろ? 


すっごく久し振りに「スティーヴ・レイシー」のレコードを集中して聴いてるが『REFLECTIONS steve lacy plays thelonious monk』(new jazz 8206) が一番いいんじゃないか、やっぱり。でもまだ『森と動物園』を聴いてないのだが。


で、いま、ハットハット・レーベルの『Prospectus』LPA面を聴いているのだが、少なくとも僕は、いや、日本全国各地に住むお父さん誰一人として、自分の赤ちゃんに「スティーヴ・レイシー」を聴かせようとは思わないだろう。


だから、なぜ、今どき「スティーヴ・レイシー」なんだ??
ぼくには判らない。直接作者の堀江敏幸氏に訊くしかないのか。



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