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2014年9月18日 (木)

太田省吾(その3)→ 鴻上尚史・宮沢章夫・岡田利規

■『水の希望 ドキュメント転形劇場』(弓立社/1989/8/5)86ページに、「転形劇場さんへ」と題された鴻上尚史さんの文章が載っている。その一部を抜粋。

 僕が、初めて転形劇場を見たのは、今から8年ほど前のことでした。T2スタジオは、もちろん、まだできていませんでしたから、民家を改造したスタジオで、僕は、『水の駅』を見たのです。

 ちょうど、その時、僕は、自分の劇団を作ったばかりで、まだ、早稲田の演劇研究会に在籍していました。

 観客席で、じっと舞台を見つめながら、僕は、自分がこれから作ろうとしている舞台との距離を確認していました。(中略)

 不遜な言い方をすれば、演劇という地平の中で、僕は、おそらく、ちょうど正反対の方向へ進むだろうと思っていました。つまり。それは、絶対値記号をつければ、同じ意味になるのではないかということでした。

 そぎ落とすことで、演劇の極北へと走り続けているのが、この舞台だとすれば、僕は、過剰になることで、演劇の極南(という言葉はヘンですが)、走りたいと思ったのです。

 それは、例えば、『水の駅』のラスト、歯ブラシで歯を磨く、あの異様とも感じてしまう速度からスタートしようと思ったということです。(中略)

 僕達は、スローモーションのかわりにダンスを、沈黙のかわりに饒舌を、静止のかわりに過剰な肉体を選びました。

 ですが、演技論としては、それは、リアリズムという名のナチュラリズムから真のリアリズムを目指しているという意味で、これまた不遜な言い方になりますが、転形劇場の方法と、同じだったと思っています。

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『演劇最強論』徳永京子、藤原ちから(飛鳥新社)p234〜p243 に載っている、チェルフィッチュ主宰:岡田利規氏のロング・インタビューを読むと、前掲した太田省吾氏の文章と同じことを言っていて大変興味深い。

岡田「(前略)あと、僕のどこに影響を受けるかというのがね、なんか、僕には偏っているように感じられるんですよ。ダラダラした文体とか、身体の用い方とか、反復という手法とか、そういうところに影響を受けてる人がいる感じはあるけど、例えば時間感覚については、僕のやってることはむしろ否定されてる気がします。

引き延ばすのは退屈なだけだからポップな時間感覚にすることをもってアップデート、みたいな。僕はそういうポップな時間感覚を演劇に求めることを面白がれないんですよね。」

岡田「僕が思ってる時間って、ふたつある。ひとつは時計で測れる時間。この時からこの時まで何秒でした、っていう。それとは別に、裸の時間っていうのがあるんですよ。秒数ではなくて体験としての時間。でそれは、退屈というのとニアイコールなんですよね。

退屈っていうのは、時間を直に体験しているということ、時間の裸の姿を目の当たりにしてるということ。だからそれって、ものすごく気持ちいいことなのかもしれない。苦痛が快感かもしれない。子供にとってビールって苦いだけで何が美味しいか分かんないけど、やがてそれが美味しいって分かってくる、みたいなのと似たことだと、僕は思うんですけどね。違うのかな。」

■あと、『演劇最強論』では、宮沢章夫氏へのロング・インタビューがいろいろと示唆に富んでいてとても面白い。宮沢氏はいま、毎週金曜日の夜11時からEテレで『ニッポン戦後サブカルチャー史』の講師を務めているが、その先駆けがこのインタビューの中にあるのだ。

徳永「平田(オリザ)さんに書けないものというと?」

宮沢「サブカルチャーだと思う。分かりやすい例が音楽で、平田くんが劇中でほとんど音楽を使わないのはなぜかというと、彼自身が言っていたけど、よく分からないからだと。

90年代、僕や岩松(了)さんや平田くんは、音楽について非常に慎重になったんです。前の時代の演劇の反動で。劇的な音楽を使えば、芝居は簡単に劇的になる。そういうことに疑いを持って、そうならないためにはどうしたらいいかと考えたんです。」

『演劇最強論』p282〜p283)

 

2014年9月16日 (火)

太田省吾『舞台の水』(五柳書院)つづき

■昨日のつづき。『舞台の水』太田省吾(五柳書院)より、76ページ「演劇とイベント」

                  ○

 企画の時代で、演劇の世界も企画の目を意識しないとやっていけなくなっている。(中略)

 だが、と私は演劇について思う。演劇もイベントにちがいないが、所謂イベントとどこかはっきり異なるところのあるものではないかと思うのだ。演劇は、それがどこかというところを見出さなくてはならない。なんだか、イベントと演劇の区別がつきづらくなっている。

「痛み、怖れ、ためらい、はじらい、おののきの基本要素がなければ、詩は生まれない」。リルケの言葉だが、私はこの「詩」を「演劇」と置きかえ、「どこか」とは結局のところここらあたりではないかと思っている。なんだと思われるかもしれないが、このリルケの言葉は、喜怒哀楽を除外しているところを注目しなければならない。

 喜怒哀楽を除外するとは、わかりやすく通じやすいところから詩は生まれないと考えることであり、詩を生むのは自分にとっても把えにくいところだとすることである。

 企画の目では、これがまどろっこしい。こういうところを棄てて進もうとする。この「詩」を「演劇」と読みかえれば、「演劇」を棄て、もっと通じやすいところ、いわば喜怒哀楽へ行こうとする。その方向をイベントというのではないか。

■p26〜p28 「<反復>と美」より

 演劇の稽古にはくりかえしが欠かせない。ほんの小さな一つの行動や台詞を半日くりかえしているなどということもよくあることだ。

 そんなとき、何をしているかといえば、多くの場合、たとえばコップに手をのばしコップを取って水を飲むという行動があるとすると、それが最も適確だと思われるやり方をみつけるため、あるいはそれが演技で充分表現できるようにするためである。(中略)

 しかし、私はこのくりかえしをもう少し別の目で見、気づいたことがあった。私には、それは一つの発見のように思えたのだった。

 適確さとは、その人物の設定やその人物が置かれている状況とその行動との関係で見出されていくものだが、そのときには、そんな関係をなしに、ただただその行動をくりかえしてみていたのだった。

 いわば裸のくりかえしだった。コップを見、コップへ手をのばし、水を飲む。コップを見、コップへ手をのばし、水を飲む。コップを見、コップへ手をのばし、水を飲む……。

 この反復の中で浮かびあがってくるものがあった。その動作が、いわば不定詞のように、つまり「人間がコップを見るということ」であり、「コップ(物)へ手をのばすということ」であり、「水を飲むということ」といったように際だって見えてくる。そして、その主語は個別性を越えていくように見えたのだった。

ある人物という主語、つまり<役>とは、ある住所氏名年齢職業性格、といった限定ををもち個別性をもつということだが、それらを失い、それらを越えていった。

 それらの動作の主語、主体は、ある俳優の身体を通じてであるが<類>へ近づいていったように思えた。ある俳優の身体が、人類、人間と溶け合うように思い、それを、私は美しいと感じたのだった。

 人間が物(コップ)を見るということ、人間が物に手をのばすということ、人間が水を飲むということ、ある一個の身体を通じて人間の動作をそんなふうに見ることのできるということ、そんなふうに見ることができる時間をもつことができるということは、演劇の大きな望みなのではないだろうか、そんなふうに思えた。自分の演劇への望みがそういうものだとわかったように思えたのだった。

 私の劇のテンポは遅い。かなり遅い。その遅さは、言ってみればどのような動作も、この、反復を含んだものとするためであり、そうしなければ見ることのできない人間の美を見ようとしていることなのかもしれない。

■p24 「舞台の水」より

「ドラマとは、人生の退屈な部分を削除したものである」という根強い考えがあるが、私はかならずしもそう考えない。そして、それは私だけの考えではなく、現代の表現が徐々に見直している中心のところだと言ってよいのではないだろうか。

 J・ケージは、サティの曲を「魅力的な退屈さ」と言い、サティに学んだことはこういうことだと述べている。

  音は音であり、人間が人間であることをそのまま受け入れて、

  秩序の観念とか感情表現とか、その他われわれが受け継いで

  きた美学上の空論に対する幻想を捨てなければならない。

2014年7月 6日 (日)

『クラバート』プロイスラー作、中村浩三・訳(偕成社)

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■『ボラード病』吉村萬壱(文藝春秋)を読んでいて思い出したのは、2つのマンガだった。『羊の木』と、それから『光る風』山上たつひこ(週刊少年マガジン連載 1970年4月26日〜11月15日)だ。奇遇にもどちらも作者は「山上たつひこ」だった。

『光る風』の表紙をめくってすぐの扉に書かれている言葉

過去、現在、未来 ------

この言葉はおもしろい

どのように並べかえても

その意味合いは

少しもかわることがないのだ

ほんとうにそのとおりだ。小学6年生のぼくは、この漫画が連載中の少年マガジンをリアルタイムで読んでいる。あれから44年も経って、この漫画がリアルすぎるくらい現実味を帯びてくるとは、思いも寄らなかった。

あと、気になったこの記事。「ハンナ・アーレントと"悪の凡庸さ"」 やっぱり「この映画」も見ないとダメだ。

それにしても、今すぐ読め!の「旬の小説」だよなぁ。『ボラード病』。

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■伊那のブックオフで 105円だった『クラバート』プロイスラー(偕成社)、入手後長らく積ん読状態だったのだが、少しずつ読み進んで一昨日読了した。いやぁ、これは深い本だな。読み終わってしばらく経った今も、ずっとこの本に囚われたままだ。いろいろと考えさせられる。

宮崎駿監督のお気に入り児童文学で『千と千尋の神隠し』にも取り入れられているという。なるほど、「湯婆婆」のモデルが「荒地の水車場」の親方だったのか。

14歳の主人公クラバートは、夢のお告げに導かれて荒野(あれの)の果ての人里離れた湿地帯のほとりに建つ一軒家の水車場(すいしゃば)の職人見習いになる。そこでは、片眼の親方と11人の先輩職人たちが働いていた。

ぼくが入手した旧版の表紙には、この荒地の水車場と12羽のカラスが描かれている。物語全体を覆う、このじめっとした暗さが何とも不気味で、親方や先輩職人たちの謎に満ちた行動も読んでいて意味が分からずただただ不安はつのるばかり。それが『一年目』(119ページまで)

そして物語は「二年目」「三年目」と同じ季節、同じ年間行事が「3回」繰り返される。これは「昔話」によくある物語構造で、『三匹のこぶた』『やまなしもぎ』『三びきのやぎのがらがらどん』と同じだ。これら絵本では3人は兄弟で別人なのだが、昔話の本来的な意義で考えると、クラバートのように同一人物が「3回繰り返す」ことによって、徐々に成長し最後の3回目には見事目的を達成する、というふうに出来ているのだ。

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■この水車場では、自由に魔法を操れる親方が絶対的権力を握っていて、職人たちはこの職場から逃げ出すことはできない。逃亡を試みても必ず失敗する。その代わり、腹一杯の食事と毎週金曜日の夜に親方から魔法を教わる講義がある。もちろん、簡単に憶えられる呪文はない。弟子それぞれの努力と力量にかかっている。

ただ、その絶対的「親方」にも実は「大親方」がいて、毎月新月の夜に馬車で乗り付け、親方を他の職人と同じにこき使うのだ。親方とて、その「闇のシステム」の中では歯車の一つに過ぎず、さらに圧倒的な巨大なものに支配されているのだった。

職人たちの中には、仲間を絶えず監視していて、怪しい行動をとると直ちに親方に告げ口する奴もいる。もちろん、後輩をかばって何かとクラバートの面倒をみてくれる先輩トンダのような信頼すべき奴も登場する。

こうした水車場での描写は、村上春樹氏のエルサレム講演「壁と卵」に象徴される「システムと個人」の問題、もっと平たく言って、我々がいま暮らしている日本の社会、職場にそのまま当てはまることばかりではないか?

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■この本は、チェコでアニメ映画化され、ドイツでは 2008年に『クラバート 闇の魔法学校』として実写版映画化された。魔法学校なんていうと、ハリー・ポッターみたいなストーリーを思い浮かべるかもしれないが、『クラバートでは魔法のあつかい方も復讐すべき敵も、ハリー・ポッターとはぜんぜん違う。ここが重要。

『クラバート』を突き詰めると、結局ギリシャ悲劇『オイディプス王』になるのではないか?

父親を殺して母親と結婚するオイディプス王。

実際、作者のプロイスラーが少年時代に読んだ、ヴェンド人に伝わる「クラバート伝説」では、「ソロを歌う娘」の役割をクラバートの母親が担っていたという。

少年から青年へ。そして大人へと成長する過程で対決しなければならない「父親」という存在。それから、人魚姫が足を得る代わりに「大切なもの」を失ったように、また、アリステア・マクラウドの短編『すべてのものに季節がある』の主人公が、ある年のクリスマスイヴの晩、父親から一人前の大人としての扱いを受けた思いがけない喜びと裏腹に、魔法の世界で暮らしていた幸福な「子供時代」の終わりに気づかされた、喪失という深い悲しみ。大人になるということは、そういうことだ。クラバートにはその覚悟ができていたのだろうか?

50歳代のオヤジは、変なことを心配してしまうのだった。

意外とあっさりとしたラストだが、昔ばなし風の味わいと余韻があって、ぼくはかえって好きだな。

2014年6月23日 (月)

『ボラード病』吉村萬壱(文藝春秋)と『羊の木 1〜5 』(講談社)

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■『ボラード病』吉村萬壱(文藝春秋)を読む。

この肌がぞわぞわする不穏で何とも嫌な感じは『羊の木』山上たつひこ作、いがらしみきお画(講談社)を読んでいる時の気持ち悪さといっしょだ。どっちも海辺の地方都市が舞台だし。

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■『ポラード病』の主人公「大栗恭子」は、11歳になったばかりの小学校5年生の女の子だ。B県にある海辺の地方都市、海塚(うみづか)に母親と二人だけで暮らしている。季節は5月。今の借家へは3ヵ月前に引っ越してきたばかりだが、小学校は転校しなくて済んだので、貧乏だけど頭のいい浩子ちゃんや、すごく太ったアケミちゃん、文房具屋の健くんと同じクラスのままだ。家では「うーちゃん」という目玉の黒い雌ウサギを飼っている。

そんな少女の日常が、部分的に「こだわり」をもってやたら詳しく綴られていくのだが、読んでいて「なんか変」なのだ。小学生が書く幼稚な文章のようでいてちょっと違う。「?」と思いながら読み進むと、35ページに以下のような一文が突然出てくる。

三十歳を越えた今では、ご覧のように文章を書くのが好きになっている私です。

以前、統合失調症の人の文章を読んだことがあるが、その感じによく似ている。『火星の人類学者』に登場する、高機能自閉症のテンプル・グランディンさんが書く文章の雰囲気もある。いずれにしても、主人公が感じている「世界観」が、ふつうの人とは明らかにズレているのだ。それが読んでいて「なんか変」と感じる原因なんだな。

「大栗、それは頭の中の虫ではなくて、錯覚というやつだ」

「さっかくですか」(中略)

私は錯覚を辞書で調べてみました。

「錯覚 ものをまちがって知覚すること。知覚がしげきの本当の性質といっちしないこと」

 私はこれは自分の秘密に属することだとピンと来ましたが、藤村先生に自分を晒すことに強い抵抗を感じました。(p11〜12)

「私は、先生に知らせた方がいいと思いました。クラスのきまり通りに、自分の感覚を大切にしただけです」と余計なことを付け加えました。その時、職員室にいた教頭先生と算数の都築先生が揃って顔を上げてこちらを見ました。(p55)

主人公は、周囲の他の人たちと異なり「世界を間違って知覚している」から、読んでいて何とも気持ち悪いのか。じゃぁ、彼女の母親はどうか? 母親はもっと変だ。明らかに何か強い被害妄想にとらわれている。

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■と、ここまでが前半の1/3までなのだが、じつはいま再読で64ページまで来たところ。

初読時と、読んでいてぜんぜん異なる印象に正直すごく驚いている。

それまで見えていなかったものが、くっきり見えるからだ。

「この本」は2度読まないとダメだ。

2014年6月15日 (日)

最近読んだ本(その2)

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『シークレット・レース/ツール・ド・フランスの知られざる内幕』

タイラー・ハミルトン&ダニエル・コイル 児島修・訳(小学館文庫)

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■この4月から、スカパーの「J Sports」視聴契約を止めてしまった。

「中日ドラゴンズ」のプロ野球中継を以前ほど熱心にフォローしなくなってしまったことと、毎年初夏の1ヶ月間、連夜の楽しみだった「ツール・ド・フランス」の生中継を、去年はとうとう一回も見なかったからだ。あれは、2013年1月18日のことだった。ツールで7連覇を遂げた超人、ランス・アームストロングが全米放送のテレビ対談番組で自らドーピングしていたことを告白した。

ランスの自伝『ただマイヨジョーヌのためでなく』を読んで、あれほど感動したというのに……。ショックが大きすぎた。

それ以後、ツール・ド・フランスに対して急速に興味を失っていったのだ。

ちょうどその頃、この本『シークレット・レース』が出版された。評判もかなり良かった。でも読む気になれなかった。あれから1年経って、ようやく手に取ったのだが、もっと早く読んでおけばよかったと、すっごく後悔した。めちゃくちゃ面白いじゃないか! ぐいぐい読ませる力がある。タイラー・ハミルトンが誠実に真摯に淡々と語る「自転車ロードレース」の実態が、テレビ中継を見ているだけでは決して分からない、初めて知る驚愕の事実ばかりだったからだ。

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■この本を読んでほんとうによかった。

著者のタイラー・ハミルトンが、ランス・アームストロングが、どうして「ドーピング」に手を染めていったのか? いかざろう得なかったのか、よーく判ったからだ。

自転車ロードレースの新興国だったアメリカから、100年以上の歴史を誇る本場ヨーロッパに乗り込んでいって頂点を極めようと殴り込みをかけたのがランスだった。最初はまったく相手にされなかった。次第に頭角を現してきたちょうどその時に、ランスは睾丸腫瘍になり現役復帰は絶望的と言われた。しかし、その後奇跡の復活を遂げ、ツール・ド・フランス7連覇(1998年〜2004年)という誰も成し得なかった偉業を達成する。

アマチュア時代に実力を認められ、アメリカのプロチーム「USポスタル」に入ったタイラー・ハミルトンは、1996年の初めてのヨーロッパ遠征で愕然とする。地元ヨーロッパの選手との実力差が半端なかったからだ。まったく勝負にならない。

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 最初からドーピングをしようと思っている選手はいない。僕たちは何より、サイクリングの純粋さを愛している。そこにあるのは、自分とバイク、道、レースだけだ。しかしロードレースの世界の内側に入った選手は、そこでドーピングが行われていることを察知する。

そのとき僕たちがまず本能的に取ろうとする反応は、目を閉じ、耳で手を塞いで、ひたすら練習に打ち込むことだ。その拠り所になるのは、自転車レースに古くから存在し、半ば迷信のように信じられてきた「日々、限界に挑み、努力を続けることで、いつの日にか優れたライダーになれる」という考えだ。(p64)

 興味深い数字がある。"1000" という数字だ。それはいささか乱暴に数えて、僕がプロになった日から、初めてドーピングを使った日までの日数だ。

この時代の他の選手と話したり、彼らについての記事を読むなかで、僕はあるパターンに気づいた。ドーピングをした選手のほとんどは、プロ三年目に初めてドーピングに手を染めている。プロ一年目は、希望に満ちあふれたフレッシュな新人だ。二年目に現実を知る --- この世界で、ドーピングが横行していることを。そして三年目に悟る。(p87)

 世間では、ドーピングは厳しい練習を嫌う怠け者のすることだと見なされている。たしかに、それが当てはまる場合もある。でも僕たち選手に言わせればそれは逆だ。EPOは選手に、「苦しみに耐える能力」を与える。トレーニングやレースで、想像もできなかったレベルまで遠くに、厳しく自分を前に押し出せる能力だ。(p109)

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1998年。ランス・アームストロングはタイラーが所属する「USポスタル」に合流し、チーム・リーダーとなる。

ランスは、みんなが当たり前にドーピングしているなら、最も効率的に有効に体を作るべく、イタリア人医師ミケーレ・フェラーリの指導のもと、ドラッグを併用しつつ、スポーツ医学に基づいた科学的トレーニングに打ち込んだ。それはそれは厳しい地獄のようなトレーニングだったとタイラーは言っている。

 なぜ、ドーピングがツール・ド・フランスのように三週間もかけて行われるロードレースで多く使われるのかという疑問を持つ人は多い。その答えは簡単だ。レースが長くなるほど、ドーピング、特にEPOが効果を発揮するからだ。原理はこうだ。

三週間のレース期間、一度もドーピングを使わなければ、ヘマトクリット値は週に約2ポイント、合計約6ポイント低下する。これは「スポーツ貧血」と呼ばれる作用だ。ヘマトクリット値が1%低下すると、パワーも1%低下する。つまり、(中略)パワーは3週目には約6%低下する。ロードレースでは、1%未満の差が勝敗を分ける。6%の差がいかに大きいかがわかるはずだ。(p112)

■練習中も EPOを打つことが日常化し当たり前になってゆく。抜き打ち検査で陽性が出ないような様々な工夫も重ねられて行く。EPOを皮下注射でなく、連日少量静注するとか、検査前に生理食塩水を点滴して濃度を薄めるとか、さらには、夜尿症の治療に使う抗利尿ホルモン製剤「ミニリンメルト」を飲んで、尿量を減らしわざと「水中毒」状態にして検査陽性を免れるとか。イタチごっこで、このあたりの描写はスリリングで読んでいてドキドキした。

しかし、ランスのドーピングは他のトップ選手たち(ウルリッヒほか)の「2年先」を行っていた。さらにランスは、ライバルたちがどんなドーピングやトレーニングをしているのか、何でも知っていた。凄い情報収集力だったのだ。

■1998年のツールは、ランスとタイラー・ハミルトンの蜜月期間だった。ただ、その期間は長くは続かなかった。ハミルトンが次第に実力をつけてくると、ランスは自分の地位を脅かす脅威の存在と見なし、彼を切り捨てたのだ。

ハミルトンは言う。ランスは世の中の人々の期待、欲望(勝ち続け、自分たちが望む英雄であり続けること)にずっと応え続けて行かなければならないという、罠に捕らわれていたと。

 

2014年6月11日 (水)

『世界が終わってしまったあとの世界で(上・下)』ニック・ハーカウェイ著、黒原敏行訳(ハヤカワ文庫)

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昨夜、『世界が終わってしまったあとの世界で』ニック・ハーカウェイ著、黒原敏行・訳(ハヤカワ文庫)読み終わった。いやぁ、面白かった! 満足した。ラストでは泣いてしまったよ。じつに久しぶりで読書のカタルシスを味わった。

とにかく、下巻の半分まで読み進んでも話がどう展開して行くのか全く見当がつかず、読者は翻弄されっぱなし。それがまた何とも楽しいのだけれど。

■「翻訳ミステリー大賞シンジケート」の「書評七福神の四月度ベスト発表!」で、書評家の杉江松恋氏が「この小説」を絶賛していたので、ここまで滅多に褒めない人だから買ったのだ。杉江氏を信頼して正解だったな。杉江氏のもう少し詳しい紹介文は「本の雑誌」【今週はこれを読め!ミステリー編】でも読める。

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■この本を読んでみようと思った「もう一つ」の理由は、翻訳があのコーマック・マッカーシーの小説をみな訳している黒原敏行氏だったこともある。

ところが、上巻の「第1章」を読み始めておったまげてしまった。

主人公の語りがあまりに饒舌で猥雑で、しかも寄り道ばかり。ちっとも話が進まない。文章もブッ飛んでいて、とてもマッカーシーの訳者の文章とは思えない。「こりゃぁ、ハズレだな。読むの止めよう」正直そう思った。

我慢して「第2章」に入った。場面はいきなり過去に逆戻りして、5歳の主人公「ぼく」と同い年で彼の無二の親友「ゴンゾー」との出会いの場面から始まる。あれっ? なんか雰囲気変わったぞ。イギリス正統派「児童文学」の感じじゃないか。そして「ウー老師」の登場。<声なき龍>という流儀の中国拳法の師範。この爺さんがめちゃくちゃユニークなのだ。彼の命を付け狙う「敵」も出てくる。悪の集団<時計じかけの手>に属する「ニンジャ」たちだ。

このあたりから、一気に物語りに引き込まれていったな。読みながら、この作者、イギリスの「いしいしんじ」なんじゃないかと思った。そう、『ぶらんこ乗り』とか『麦ふみクーツェ』『プラネタリウムのふたご』『ポーの話』の頃の「いしいしんじ」ね。

どこか懐かしい不思議なおはなし。そして、主人公が胸の裡に抱える「深い哀しみ」。

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■ただ、第3章、第4章になると、またちょっと変わる。

著者は 1972年生まれだから、今年42歳か。それなのに、1970年代のB級映画にやたら詳しい。ブルース・リーやジャッキー・チェンの「カンフー映画」や、大学闘争を描いた『いちご白書』。『マラソンマン』の拷問場面。戦争映画では『M★A★S★H/マッシュ』に『フルメタルジャケット』。ボガートとローレン・バコールの『三つ数えろ』に「007 シリーズ」。『七人の侍』にイヴ・モンタン『恐怖の報酬』、絵本『ぐりとぐら』の「あのシーン」まで出てくるぞ。

さらには、懐かしいプロレスラー、アンドレ・ザ・ジャイアントの名前や、『スタートレック』初期シリーズでは「赤いシャツ」を着た乗組員は殺されやすいとかいう記載もある。(上巻440ページ)

それから「下巻」の最初に登場する、<パイパー90>。キャタピラーで自走する巨大な移動式機械で、地上に延々と「パイプ」を設置して行く。このイメージは『ハウルの動く城』というよりも、クリストファー・プリーストの『逆転世界』(創元SF文庫)に登場した「可動式都市」を連想させる。

斯様に、どこかで見たことのある設定のごちゃ混ぜ、てんこ盛り小説なのだった。

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■この小説の「キーワード」は、人間と機械(マシーン)、機構(メカニズム)、そして<システム>の問題だ。そう、村上春樹氏が2009年2月にエルサレムでスピーチした「壁(システム)と卵(人間)」のはなし。

でも、親友「ゴンゾー」の陰でいつも存在感の薄かった主人公の「ぼく」が挫折を乗り越え再生してゆく、恋と友情にあふれた王道の青春小説であることが一番大切だと思う。

ただし、ちょっと読者を選ぶ本かもしれないな。

■宮崎駿『風立ちぬ』を見終わったあとに、岡田斗司夫氏の解説を聴いて「なるほど!」と感心したみたいに、読了後に発見した「杉江松恋氏の解説」を聴いて、1時間「ネタバレなし」で語り尽くすとは、さすがに凄いなぁと思ったのでした。(おわり)

2014年5月 3日 (土)

『どーなつ』北野勇作(ハヤカワ文庫)読了

■おとといの夜、『どーなつ』北野勇作/著(ハヤカワ文庫)を読み終わった。面白かった。別に謎解きを期待してなかったので、読者のために何とか辻褄を合わせようと作者が気を使った「その十:溝のなかに落ちたヒトの話」は、なくても僕はよかったかな。じゅうにぶんに、その世界観を堪能させていただいた。

ちょっと時間をかけすぎて、ゆっくり少しずつ読んできたので、冒頭の(その1)(その2)など、どんな話だったかすっかり忘れてしまった。もったいない。

ただ、読み始めから読み終わるまで、ずっと感じていたことは「既視感」だ。

「爆心地」の描写は、タルコフスキーの映画『ストーカー』の「ゾーン」のイメージに違いない。

「電気熊」の設定は、去年見て萌えた映画『パシフィック・リム』とそっくり同じだし、連作短編が「土星の輪」のように連なって、「海馬」とか「シモフリ課長」とか「田宮麻美」とか「おれ」とか「ぼく」とか。それぞれの短編は独立しているのだけれど、共通する(らしい)登場人物が何度も出てくる。

ただ、さっきの話では死んだはずなのに、次の話では元気で生きていたりと、物語の順番の時系列も怪しいし、その場所も、地球上なのか火星なのか、それとも全くの未知の惑星なのか、読んでいて判別がつかない。

で、これら関連する(であろう)収録された10篇の短編を整理して、推理小説の解答編みたいな整合性を極めようとすると、たちまちワケがわからなくなってしまうのだった。ジグゾー・パズルの最後のピースを見つけてはめ込もうとすると、ぜんぜん形が合わない! こういう感じの小説を最近読んだよなぁ、って思ったら、そうそう『夢幻諸島から』クリストファー・プリースト著、古沢嘉通・訳(ハヤカワ・SFシリーズ)じゃないか。設定が、すっごく似てるぞ。

いや、待てよ? 『どーなつ』が出版されたのは、2002年4月のことだ。いまから12年も前。当然、映画『パシフィック・リム』も、小説『夢幻諸島から』も、この世に生まれでるずっとずっと前の話。この、シンクロニシティって何だ?

さっき、「土星の輪」のように短編が連作されてゆくと書いたが、最後までたどり着くと、物語の中心に「大きな深いあな」があることに気付かされる仕組みの小説なのだった。何故、小説のタイトルが「どーなつ」なのか? 本編の中では「どーなつ」に関する記載はまったくない。唯一「作者あとがき」の中でだけ触れられているだけだ。(もう少し続く)

2014年3月18日 (火)

『昭和・東京・ジャズ喫茶』シュート・アロー著(DU BOOKS)

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■『昭和・東京・ジャズ喫茶』シュート・アロー読了。なんか、おいらのために書かれたんじゃないかと錯覚してしまうくらい、ピンポイントでツボにはまったストライク本。面白かった。今度の日曜日、宮沢章夫氏の芝居『ヒネミの商人』を観に久々に上京するので、歌舞伎町の『ナルシス』には行ってみたい。

確か、以前に一度行ったことがあるような気がした店『ナルシス』だが、僕の記憶では1階にあった。じゃあ違う店だったのか? でも、行って『モノケロス』エヴァン・パーカーA面をリクエストしてみたいぞ!

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■それにしても、なんなんだろうなあ、著者の尋常でない「場末感」へのこだわり。『東京ジャズメモリー』でも最初に紹介されていたのは、渋谷道玄坂百軒店の奥の小路にあったジャズ喫茶「ブレイキー」だったしね。

ただし、前著と一番異なる点は、今回紹介されている「ジャズ喫茶」がすべて、今現在も現役で営業中であるということだ。ここ重要!

この本の巻頭に載ってる店は、神楽坂「コーナーポケット」(僕は行ったことがない)で、2軒目に登場するのが、たぶん誰も知らない、大井町の「超場末」飲み屋街の端っこにひっそりと営業している「Impro.」という名のジャズバー。ここは凄いな! 載ってる写真からして凄すぎる。めちゃくちゃディープだ。よくこんな店見つけてきたよなあ。ぜひ行ってみたいぞ!。

映画『時代屋の女房』で、夏目雅子が降りてきた「歩道橋」も見てみたいし。

それから、シュート・アロー氏にはぜひ、次回作で「日本全国各地でいまも営業を続けている、地方の場末のジャズ喫茶」を行脚した本を出して欲しいぞ。古本屋に関しては『古本屋ツアー・イン・ジャパン』という本が最近出版されている。

当地「伊那市」にも、宇佐見マスターが経営する『Kanoya』があるし、箕輪町には『JAZZ&ART CAFE  PLAT』があるよ。

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でも、ほんと面白かった。
この本に紹介されている「ジャズ喫茶」。ぼくが行ったことがあったのは、渋谷「デュエット」と新宿「DUG」、そして、陸前高田「ジョニー」の旧店舗だけです。歌舞伎町「ナルシス」は一度行った記憶があったのだが、どうも自信ない。
そして、今回も感心したのは、ネット上によくある「単なる店紹介」で終わるのではなく、著者は各章で「その街・その店」に関わる、極めてパーソナルなオリジナリティにこだわった「物語」を紡ぐことに尽力していることだ。村上春樹の『ノルウェーの森』は、確かぼくも出てすぐ読んだはずんなんだけど、ストーリーをぜんぜん憶えていないことに、新宿「DUG」の章を読んでいてショックを受けてしまった。
とにかく「その街」の雰囲気がリアルに味わえる文章が、ほんと、いいと思った。大井町、蒲田、新宿歌舞伎町、そして渋谷。ぜったい行ってみたくなるもの。

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   【以下、3月2日のツイートから】

■昭和・東京・ジャズ喫茶』シュート・アロー(DU BOOKS)を読んでいる。面白い!『東京ジャズメモリー』に続いて、今度はこう来たか。この本では、エリック・ドルフィーがフィーチャーされていて嬉しいぞ。1960年前後、ニューヨークに存在した伝説のライヴハウス「ファイブ・スポット」と、新宿歌舞伎町にある不思議なジャズ喫茶「ナルシス」のこと(p213)

続き)『昭和・東京・ジャズ喫茶』シュート・アロー(DU BOOKS)の表紙の絵は、なんと和田誠なんだけれど、手に取って『週刊文春』の表紙みたいだなあって、思った。既視感があったのだ。そしたら、「みたい」じゃなくて「まさにそれ」だったんだね。原宿にあったジャズ喫茶「ボロンテール」。

と言うのも、以前、週刊文春の表紙に和田誠氏が描いた『ボロンテール』が、そのまま「この本の表紙」になっているのだな。それを見たんだ。

続き)それから、懐かしい渋谷道玄坂から東急本店通りへ抜ける小径(確か、恋文横町)の右側の地下にあった、ジャズ喫茶「ジニアス」のこと。ジャズ批評の広告に載った「ジニアスおじさん」の由来。知らなかったよ。おじさんに奥さんと息子までいたとは!

■『昭和・東京・ジャズ喫茶』というタイトルでありながら、何故か最終章で取り上げられているのは岩手県陸前高田市にある「ジャズ喫茶ジョニー」のこと。3年前のあの日。店のレコードもオーディオも椅子も机もお皿もコーヒー茶碗も建物すべて、なにもかも津波に流された。でも、どっこい生きてる

2014年2月 2日 (日)

最近読んだ本、いま読んでいる本

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■ブログ更新用にずっと使ってきた「MacBook」が突如変調を来たし、アップロードできなくなってしまった。困った。ひじょうに困った。PRAM解除とか、やってみたがダメだ。

仕方なく、診察室で使っている「MacBook Pro」で更新できるように設定し直した。なんだか上手くいかなくて、その設定に10日以上を要してしまった。なので、このブログの更新が遅れてしまったという訳です。ごめんなさい。

■ツイッター上では発言を続けてきたので、Twitter 読書感想文関係を、まとめてアップしておきます。

【2月2日

伊藤比呂美著『犬心』(文藝春秋)を読んでいる。14歳の老犬介護の話だ。『良いおっぱい・悪いおっぱい』『伊藤ふきげん製作所』に登場した娘さんたちも出てくる。椎名誠さんが『岳物語』を書き継いでいるのと同じで、しみじみと家族の在り方を感じる。http://pet.benesse.ne.jp/antiaging/shibainu_vol7.html?p=1 …

続き)伊藤比呂美『犬心』を読んでいて面白いのは、「犬あるある」だ。犬種は違っても、その習性はほとんど同じなんだな。犬はくさい「すかしっ屁」をすることも確認できた。わが家の犬も「おなら」をする。人のオナラも好きだ。僕や息子がブッとすると、すぐさま寄ってきて股間に鼻をすりつけ盛んにクンクンする。

    『皆勤の徒』

【1月27日

『皆勤の徒』酉島伝法(東京創元社)を読んでいる。いま、102ページ。もしかして「この本」大傑作かもしれない。最初の「皆勤の徒」は一度読んで、ほとんどお手上げ状態だったのだが、次の『洞の街』は比較的「視覚イメージ」が可能な話だ。ほとんど解読不能な奇妙奇天烈な漢字の羅列にも慣れたしね。

SFで最も大切なことは、その小説の根本となる世界観を、如何に読者の脳味噌にリアルなイメージを持って再現できるかにかかっていると思うのだが、『皆勤の徒』は確かに成功していると思う。ねちょねちょ、ぬめぬめの世界観。椎名誠『武装島田倉庫』を数百倍も凌駕した驚異の世界観を!

 

■日本ではアメリカと違って、トム・クルーズみたいな「難読症:ディスレクシア」は少ない。何故なら、英語だとアルファベットという記号の羅列でしかないワケだが、日本語は「漢字」をメインに構成されている。漢字は、その佇まいそのもので絵的イメージを醸し出す。つまり読者は「その漢字の字面」を見ただけで「その意味するところ」を瞬時に視覚的にイメージできるのだ。

『皆勤の徒』を読んでいて感じたことは「そのこと」だ。やたらと難しい漢字をわざと使っている。でもそれには深い意味があったのだ。その漢字を「当て」なければならないという作者の意志が。しかも、その裏の意味(「遮断胞人・媒収・外廻り・社長」など、ほとんどオヤジギャグの言葉遊びに過ぎないのだけれど)もあって、笑えるのだ。

【1月29日

『皆勤の徒』酉島伝法(東京創元社)より「泥海の浮き城」を読む。マット・スカダーみたいな私立探偵が主人公のハードボイルド小説でたまげた。しかも檀蜜みたいな「いい女」が登場する。昆虫なのに、妙にエロチックなんだ。外観は三角頭のカマキリみたいなんだけれどね。

【2月1日

『皆勤の徒』酉島伝法(東京創元社)より、「百々似隊商」を読む。面白い! 村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』みたいな構成だ。十代の少女「宇毬」のパートは、樋口明雄『弾頭』みたいな、大陸冒険歴史活劇で、久内のパートは北野勇作『きつねのつき』『かめくん』の世界観。

続き)でも、大森望さんの解説を読んで初めて「あ、そういう話だったのか!」て判った。いや、疑問点は尽きないぞ。土師部が神社から持ち出した黒い器に入った「神器」って何? それが「洞の街」最下層にある神社のご神体になったワケ? 土師部は再生知性のサイボーグなのか?「洞の街」で生まれた惑星の嬰児は、禦の円盤に収納されて地球に行ったの? わからん。

    『演劇最強論』

【1月22日

徳永京子「宮沢(章夫)さんと平田(オリザ)さんと岩松(了)さんは『静かな演劇』をスタートさせた三人ということで、当時から一括りにされがちでしたが、客席にいた者の実感から言うと、まさに語り口も、向いている方向も異なっている印象でした。」(『演劇最強論』p287 より)

続き)徳永「当時、私が思ったのは、ドーナツの真ん中の空洞を説明しているのが宮沢さん、ドーナツそのものを扱っているのが平田さん、ドーナツの外側を描いているのが岩松さんだと。」宮沢「それ、すごくいいたとえだね。分かったような気がするもの、まったく分からないけど(笑)。」『演劇最強論』

続き)ドーナツのはなしが好きなのは、SF作家の北野勇作さんと、村上春樹氏だけだと思ってたのだが、この「ドーナツ理論」いろんなものに応用できそうだぞ。

【1月23日

昨日から「ドーナツの穴」のことを、ずっと考えているのだ。オリジナルは、どうやら村上春樹『羊をめぐる冒険』に出てくるらしい。ただ僕が知ってるのは、村上氏が初めて「その穴」に言及したのが、スタン・ゲッツの『スヌーピーのゲッツ』だ。http://scherzo111.blog122.fc2.com/blog-entry-60.html …

【1月23日

『演劇最強論・反服とパッチワークの漂流者たち』徳永京子、藤原ちから・共著(飛鳥新社)を読んでいるのだが、この本は面白いなぁ。特に、演出家へのインタビュー記事が充実している。あと「Backyard」に載っている、演劇人40人への「好きな本、映画、音楽」というアンケート記事。

続き)彼らの「好きな映画」6選とか読むと、僕より20~30年以上後に生まれた彼らが、僕が好きだった映画と同じ映画を挙げていることに驚く。あと、松尾スズキ氏がヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を挙げていることの意味と、宮沢章夫氏が、大島渚『儀式』を挙げている意味を、ちょっと考えている。

    『殺人犯はそこにいる』

【1月20日

で、今日は『殺人犯はそこにいる』清水潔(新潮社)を読んでいる。昨日から読み始めて、もう2/3を読んだ。これまたメチャクチャ面白いし、しかも怖い。間違いなくキング以上だ。だって、ノンフィクションなのだから。この衝撃度は、あの『ヤノマミ』と同等。いや、それ以上か。凄いぞ!今すぐ読め!

続き)「無罪」と「無実」はぜんぜん違うということを、僕は知っている。『リーガル・ハイ』を2シーズン見てきたからね。DNA型判定という、まるで水戸黄門の紋所みたいなモノにまんまと騙されてしまったのか。刑事小説につきものの、地道な捜査によってでしか得られない貴重な証拠を捨ててまで。

【1月21日

『殺人犯はそこにいる』清水潔(新潮社)読了。凄い本を読んでしまった。読書という単なる経験ではない、たぶん初めて味わう異様な体験だった。著者のどうにもやるせない思い、憤りが、びしびしと僕の胸に突き刺さってくる。悔しい。本当に悔しい。真犯人は野放しのまま、のうのうと今日も生きている日本という国に対して。

続き)ひとつだけ、よく判らないのは、アマゾンのカスタマーレビューで、一人だけ星一つの評を書いている「名無し」さん。「飯塚事件の記述があまりにひどい」と書くその根拠を読むと、捜査関係者なのか? でも、本書を正しく読めば、著者が「飯塚事件」を決して冤罪であると決めつけていない事は判る

続き)ぼくは、ネットで知った『殺人犯はそこにいる』を是非読みたいと思い、伊那の平安堂へ行った。でも、一冊も置いてなかった。売れてしまったのか。そう思った。で、先日長野へ行った際、帰りに平安堂本店に寄って購入した。本店では平積みされた本書が数十冊はあった。平安堂伊那店よ!ダメじゃん。

・キング『11/22/63』

【12月24日

スティーヴン・キング『11/22/63上』(文藝春秋)を読み始めて1週間以上経つのに、まだ86ページ。いや、つまらないんじゃないんだ。忙し過ぎて本を読んでる時間がないのだ。キモはやはりオズワルドだな。主人公のJFKの知識が、オリバー・ストーンから仕入れたのが全てなんで、同じじゃん

【1月3日

キング『11/22/63(上)』302ページまで読んだ。よくできた話だ。うまいなあ、キングは。ただ、1958年にカーラジオから流れる曲が分からない。雰囲気だけ味わいたくて『James Taylor / COVERS』を出してきて聴いているところ。

【1月4日

スティーヴン・キング『11/22/63』に登場する、イエロー・カード・マン。小林信彦『唐獅子株式会社』のブルドッグみたいじゃん! て、思ったのは僕だけだはあるまい。たぶん、小林信彦氏も「マネしたな、キング」って思ったに違いない。

【1月14日

伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』を読んで、堺雅人主演の映画も見たから、どうしてもオズワルドには悪意を感じられなかったのだが、キング『11/22/63』下巻 142ページまで読んできたが、なんて嫌な奴なんだ! リー・オズワルド。

【1月15日

キング『11/22/63』下巻。277ページまで読了。一刻も早く先を読み進みたい気持ちと、残りページが少なくなってゆく淋しさのせめぎ合いに悩む。僕は主人公といっしょになって、1958年9月から1963年8月まで生きてきたからだ。

【1月20日

昨日、スティーヴン・キング『11/22/63(下)』を読了した。ラストで泣いた。そう来たか。ほんとキングは凄いぞ。結局読み終わるのに1ヵ月もかかったのだが、著者は2009年1月2日に書き始めて2010年12月18日に書き終わっている。まる2年近くかけているんだね。

続き)2段組で上下巻合計で1000ページ以上。でも、苦もなく読めた。ものすごく面白かった。これなら、同じくらいの文字数で、しかもハード・カバーの『ザ・スタンド』上下巻。実は買ったまま未読だったのだが、そのままの勢いで読み通せるんじゃないか?

続き)おんなじ時間を何度も繰り返し生き直す話は『リプレイ』ケン・グリムウッド(新潮文庫)があった。どんな話だったかすっかり忘れてしまったが、確か面白かった。タイムトラベル小説といえば思い出すのは、広瀬正『マイナス・ゼロ』と、フィリッパ・ピアス『トムは真夜中の庭で』が印象的か。

2014年1月 3日 (金)

12月31日の出来事(大瀧詠一氏を偲んで)

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

さて、

【昨日から今日にかけての、ぼくのツイートのまとめ(一部改変あり)】

■ぼくが初めて大瀧詠一さんの歌を聴いたレコードは『中津川フォークジャンボリー'71』(ビクター)のB面ラストに収録されていた、はっぴいえんど「12月の雨の日」だった。加川良と吉田拓郎の「人間なんて」が聴きたくて買ったんだけどね。


だから、快晴の大晦日の午後、追悼を込めて「12月の雨の日」→「春よこい」「空とぶくじら」「恋の汽車ポッポ」→「ウララカ」「さよならアメリカ・さよならニッポン」の順番で聴こうとCDを準備していた。そしたら、高2の長男が来て「深呼吸すると右胸が痛いんだ」と言った。


僕は嫌な予感がした。実は朝から彼は右胸上背部の違和感を訴えていたのだ。「息苦しくはない」と言っていたから、その時は「大丈夫だよ」と軽く受け流した。しかし、やはりこれはマズいよな。で、慌てて聴診器を当ててみた。ちょっとだけ右肺の呼吸音が弱いような気もするが、自信がない。仕方ないのでレントゲンの電源を入れて胸部写真を撮った。


■医者というものは、自分自身と家族や身内に関しては客観的な医学的評価ができない。いつも良い方に無理矢理解釈してしまう。そういうものだ。今回もまさにそうだった。モニター画面に映った胸部写真を見ると、まぎれもなく右自然気胸だった。あっちゃぁ〜。ぼくは慌てて紹介状を書き伊那中央病院へ電話をした。


12月31日の午後4時前だったか。新しくなった伊那中央病院の救急部待合室にぼくはいた。幸い思いのほか待合室は混雑していなかった。少し待って、息子を診察してくださった畑谷先生に呼ばれた。「いま呼吸器外科の先生が来てくれますので」。

という訳で、息子は即入院となり、病棟でトロッカー・チューブを胸腔に挿入された。

伊那中央病院の呼吸器外科の先生の迅速な対応が、ほんとありがたかった。夜になって、息子は妻が届けたおせち料理と「こやぶ」の年越し蕎麦を食ったあと、NHK紅白歌合戦の「あまちゃん最終回」と「ゆく年くる年」まで病棟のベッドの上で見たらしい。


1月2日の晩、家族で泊まる予定だった温泉旅館は当然キャンセルされた。仕方ない。お正月で、しかも宿泊2日前という直前キャンセルにも関わらず「ご子息が入院されたとお聞きしましたので、キャンセル料は20%でいいです。」電話の向こうで女将はそう言ってくれた。ほんとうに有り難かった。

そういう訳で、今ようやく大瀧詠一追悼のため、ラジカセにCDをセットして例の「ウララカ」が鳴っているという次第。

■佐野史郎さんの追悼文が泣ける。「大瀧詠一さん、ありがとうございました」

清水ミチ子さんの追悼文も泣けた。

■申し訳ないが、ぼくは内田樹先生と違って「ナイアガラー」ではない。大瀧さんはあくまでも「はっぴいえんど」の人なのだ。ただ、内田先生や平川克美さんが羨ましいのは、大瀧さんから成瀬巳喜男の映画の魅力を直接たっぷりと聴いていることだ。


いまこうして、URCやベルウッドの「ベスト盤」聴いていると、何かほんとしみじみしてしまう。いま鳴っているのは「僕のしあわせ」はちみつぱい。その次が、西岡恭蔵「プカプカ」で、最後は「生活の柄」高田渡の予定。


でも何故か、いま鳴っているのは『土手の向こうに』はちみつぱい。あ、そうだ。この曲の別ヴァージョンを持っていたんだよ。

201413


あっ! 間違えた。収録されてたのは『塀の上で』だった。次の曲が、奥田民生『さすらい』。こうなったら、矢野顕子の『ラーメンたべたい』奥田民生ヴァージョンでも聴こうか。


このCDは凄いぞ! いま鳴ってるのは『横顔』大貫妙子・矢野顕子。次はやっぱり『突然の贈りもの』大貫妙子かな。

■スティーヴン・キング『11/22/63(上)』302ページまで読んだ。よくできた話だ。うまいなあ、キングは。ただ、1958年にカーラジオから流れる曲が分からない(週刊文春最新号で、小林信彦氏は「みんな判る」と書いているのにね)。雰囲気だけ味わいたくて『James Taylor / COVERS』を出してきて聴いているところ。 


■伊那の TSURUYAで前に買ってあった、GABAN「手作りカレー粉セット(各種スパイス20種詰)」と、フランス al badia社製「クスクス」を、今日の午後作ってみた。混ぜたカレー粉を炒めすぎて焦がしてしまったので、何だか焦げ臭くて漢方か薬膳料理みたく苦くなってしまった。それとカレーにはクスクスよりも、やっぱりご飯の方が相性がいいことが判った。午後からずっと時間かけて台所に居たのにイマイチだったな、残念。


でもカレーは、マンゴーチャツネを入れてゆで卵の輪切りを添えたら、渋谷道玄坂百軒店『ムルギー』の「玉子入り」みたいな色と、あの不思議な懐かしい味がちょっとだけした。いつも真っ白な割烹着で、江戸っ子口調の威勢がいい短髪(永六輔みたいな髪型)のおばあちゃん。それから、僕が注文する前に「ムルギー玉子入りですね!」と勝手に決めつけて去って行く店主のあの無表情を、ふと思い出した。

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