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2014年9月18日 (木)

太田省吾(その3)→ 鴻上尚史・宮沢章夫・岡田利規

■『水の希望 ドキュメント転形劇場』(弓立社/1989/8/5)86ページに、「転形劇場さんへ」と題された鴻上尚史さんの文章が載っている。その一部を抜粋。

 僕が、初めて転形劇場を見たのは、今から8年ほど前のことでした。T2スタジオは、もちろん、まだできていませんでしたから、民家を改造したスタジオで、僕は、『水の駅』を見たのです。

 ちょうど、その時、僕は、自分の劇団を作ったばかりで、まだ、早稲田の演劇研究会に在籍していました。

 観客席で、じっと舞台を見つめながら、僕は、自分がこれから作ろうとしている舞台との距離を確認していました。(中略)

 不遜な言い方をすれば、演劇という地平の中で、僕は、おそらく、ちょうど正反対の方向へ進むだろうと思っていました。つまり。それは、絶対値記号をつければ、同じ意味になるのではないかということでした。

 そぎ落とすことで、演劇の極北へと走り続けているのが、この舞台だとすれば、僕は、過剰になることで、演劇の極南(という言葉はヘンですが)、走りたいと思ったのです。

 それは、例えば、『水の駅』のラスト、歯ブラシで歯を磨く、あの異様とも感じてしまう速度からスタートしようと思ったということです。(中略)

 僕達は、スローモーションのかわりにダンスを、沈黙のかわりに饒舌を、静止のかわりに過剰な肉体を選びました。

 ですが、演技論としては、それは、リアリズムという名のナチュラリズムから真のリアリズムを目指しているという意味で、これまた不遜な言い方になりますが、転形劇場の方法と、同じだったと思っています。

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『演劇最強論』徳永京子、藤原ちから(飛鳥新社)p234〜p243 に載っている、チェルフィッチュ主宰:岡田利規氏のロング・インタビューを読むと、前掲した太田省吾氏の文章と同じことを言っていて大変興味深い。

岡田「(前略)あと、僕のどこに影響を受けるかというのがね、なんか、僕には偏っているように感じられるんですよ。ダラダラした文体とか、身体の用い方とか、反復という手法とか、そういうところに影響を受けてる人がいる感じはあるけど、例えば時間感覚については、僕のやってることはむしろ否定されてる気がします。

引き延ばすのは退屈なだけだからポップな時間感覚にすることをもってアップデート、みたいな。僕はそういうポップな時間感覚を演劇に求めることを面白がれないんですよね。」

岡田「僕が思ってる時間って、ふたつある。ひとつは時計で測れる時間。この時からこの時まで何秒でした、っていう。それとは別に、裸の時間っていうのがあるんですよ。秒数ではなくて体験としての時間。でそれは、退屈というのとニアイコールなんですよね。

退屈っていうのは、時間を直に体験しているということ、時間の裸の姿を目の当たりにしてるということ。だからそれって、ものすごく気持ちいいことなのかもしれない。苦痛が快感かもしれない。子供にとってビールって苦いだけで何が美味しいか分かんないけど、やがてそれが美味しいって分かってくる、みたいなのと似たことだと、僕は思うんですけどね。違うのかな。」

■あと、『演劇最強論』では、宮沢章夫氏へのロング・インタビューがいろいろと示唆に富んでいてとても面白い。宮沢氏はいま、毎週金曜日の夜11時からEテレで『ニッポン戦後サブカルチャー史』の講師を務めているが、その先駆けがこのインタビューの中にあるのだ。

徳永「平田(オリザ)さんに書けないものというと?」

宮沢「サブカルチャーだと思う。分かりやすい例が音楽で、平田くんが劇中でほとんど音楽を使わないのはなぜかというと、彼自身が言っていたけど、よく分からないからだと。

90年代、僕や岩松(了)さんや平田くんは、音楽について非常に慎重になったんです。前の時代の演劇の反動で。劇的な音楽を使えば、芝居は簡単に劇的になる。そういうことに疑いを持って、そうならないためにはどうしたらいいかと考えたんです。」

『演劇最強論』p282〜p283)

 

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