2010年9月15日 (水)

いまどきの中学2年生が享受する音楽環境とは

■夕食後、今日発売になったテニス雑誌を買いたいから TSUTAYAへ行こうと、おばあちゃんからもらった図書カードを手に小6の次男が言うので、中2の長男もいっしょに TSUTAYAへ行った。

次男は目的の雑誌を自分の図書カードで購入。ぼくは雑誌コーナーで立ち読み。長男はずっとレンタルCDコーナーにいて、暫くしてから5枚のCD(うち、シングル3枚)を手にやってきて「おとうさん、これ借りたいからよろしく」と当たり前のように言った。

「何だお前、とうさんが金払って借りるのかよ。」 確かに「Tカード」は僕のだが、借りたのは長男だ。しかも、先週末にも5枚1000円で借りてきたばかりじゃないか。なんか納得できないんだよなぁ。

帰宅するなり彼はパソコンに向かって借りてきたCDを早速コピーしている。続けて自分のウォークマンを接続して曲を転送。そんな作業を繰り返して、彼のウォークマンには既に100枚以上のCDが収録されているのだった。


■振り返ってみて、ぼくが中学2年生だった頃はどうだったか? 

『僕の音盤青春期』絵と文・牧野良幸(音楽出版社)という本が出ているが、同じ昭和33年生まれで学年は一つ上の著者とは、ぼくもほとんど同じ音楽変遷を経てきたのだった。

当時はまだラジカセなんてなかったから、FM放送をカセットテープにエアチェック録音することはできなかった。ただ、AMラジオはあったから、当時の中坊は洋楽のベストテン番組に耳を傾け、今週の洋楽チャートがどうなっているのか聞き入ったものだ。気に入った曲があれば、レコード屋さんでシングル盤(ドーナツ盤とも言ったな)を買った。LPなんて、高くてそうそう買えなかった。

ぼくが最初に買ったシングル盤は、サイモンとガーファンクルの「コンドルは飛んで行く」と仲雅美「ポーリュシカ・ポーレ」だったな。この曲は、1971年のTBSドラマ「木下恵介アワー」人間の歌シリーズ「冬の雲」のドラマ挿入歌だった。

そうして、初めて買ったポップスのLPレコードは、CBSソニー『ギフト・パック・シリーズ』の中の「映画音楽ベストヒット集」だった。前述の『僕の音盤青春期』絵と文・牧野良幸(音楽出版社)の中には、26ページにこんな記載があって笑ってしまったよ。

あの頃、小遣いだけが頼りの中学生がLPレコードを買うのは大変だった。せいぜい一枚1,000円のクラシック廉価盤が精いっぱい。ポップスはシングルで買うのが普通だった。でも、「いつかはポップスもLPで!」と思っていた。(中略)

71年暮れ。とうとう初めてのポップスのLPを買う時がきた。いつものように僕とYがレコード屋にひやかしに行ったときのこと、いちばん目立つ棚に、赤い箱がズラリと入っていた。まるで海から打ち上げられた貝殻のようにたくさん重なっている。

それはCBS・ソニーが創業3周年で発売した『ギフト・パック・シリーズ』。LP2枚が赤い箱に入ったベスト盤である。赤い箱はとても印象的で、クリスマス前のウキウキした気分にぴったりだった。『ギフト・パック・シリーズ』には、CBS・ソニーのアーティストがずらりと並んでいた。

その一番手は、やはりサイモンとガーファンクル。前にも書いたが、サイモンとガーファンクルは「ポップスを聴くなら、まずサイモンとガーファンクルを聴け!」と言われるくらい人気だったのだ。(中略)おまけにベスト盤だからさらに厳選された良い曲ばかりにちがいない。2枚組で3,000円という値段も買いやすかった。僕はサイモンとガーファンクルの『ギフト・パック・シリーズ』を買うことにした。自分へのクリスマス・プレゼントだ。


まったくおんなじだ。ぼくは買ったLPレコードを大切に胸に抱えて家に帰り、繰り返し繰り返し聞いた。気に入った曲が、例えばB面5曲目だったりすると、何度も訓練するうちに、曲の始めにぴったし針を落とせるようになったものだ。


■ぼくはこの本の著者と違って、その後は洋楽を離れて専ら国産フォークの世界へどっぷりと浸かることになる。2番目に買ったLPは、泉谷しげる『春夏秋冬』(エレック・レコード)で、3番目が加川良『親愛なるQに捧ぐ』(URCレコード)だった。来る日も来る日も、同じレコードの同じ曲を何度でも繰り返し繰り返し聴いた。加川良のレコードの場合は、やはりB面2曲目の「下宿屋」か。(つづく)


2010年9月11日 (土)

今月のこの一曲 「You've got to have freedom」 by Pharoah Sanders

■今月のこの一曲は、じつは以前にも取り上げたことがある曲だ。<ここ>の下の方へスクロールしてくと出てくる『 You've Got To Have Freedom 』。2003年10月14日に書いたものです。 数あるジャズの名曲の中でも、ぼくが一番好きな曲。もう大好きで、初めて聴いてから30年も経つのに今でも聴き続けている。落ち込んだ時、心が弱っている時、どうにもならない時、大音量で、何度も何度も繰り返し繰り返し聴いてきた。 ファラオ自身の演奏は5種類(5ヴァージョン)あって、レコードはみんな持っている。これだ。 100911 ■以前「YouTube」で検索してみた時には、2006年にファラオ・サンダースが来日した際に伊豆の修善寺で「sleep walker」と共演した時のライヴ映像がヒットしただけだった。 でも、先日久々に検索してみたら、いろいろいっぱいアップされていて驚いたのだ。 まずは、Theresa Records『Journey To The One』(2枚組)3面1曲目に収録された、1980年録音のオリジナル演奏がこれだ!


YouTube: Pharoah Sanders "You Got To Have Freedom"

この曲の一番烈しい熱狂的な演奏は、Theresa Records「Pharoah Sanders Live!」なのだが、長いからさすがに YouTube にはなかった。ベース以外は同じメンツで、オランダのタイムレス・レコードに録音された演奏がこれだ。これも熱いぞ。すっごく充実した密度の濃い演奏だ。ピアノのジョン・ヒックスがいいんだなぁ。


YouTube: YOU'VE GOT TO HAVE FREEDOM @ AFRICA PHAROAH SANDERS

他の人がカヴァーしたものも、いっぱいあるぞ。


YouTube: YOUVE GOTTA HAVE FREEDOM


YouTube: BOOGALOO / YOU GATTA HAVE FREEDOM


YouTube: You've Got To Have Freedom - Courtney Pine ft.Carroll Thompson


YouTube: Dj Cam - You got to have freedom (feat. Inlove)

■今年70歳になるファラオ・サンダースもさすがに寄る年には勝てない。最近の演奏にはかつてのパワーは期待できないが、まだまだ元気だぞ! 動いているファラオを見ることが出来るだけでもうれしいな。以下は、ごく最近の 2009年のライヴ映像。


YouTube: Pharoah Sanders @ Big Chill 2009 pt 3


YouTube: Pharoah Sanders - You Gotta Have Freedom @ Big Chill 2009

■なお、ファラオ・サンダースのCDに関しては、昨年の夏に再来日した時の「HMVでのインタビュー記事」が詳しいです。 iTunes でも、150円で買えます。


YouTube: Pharoah Sanders

■おまけ■ ニコニコ動画にあった「吉幾三 v.s ファラオ・サンダース」あはは! こいつはたまげた。

2010年9月 6日 (月)

外来小児科学会で、福岡に行ってきた(その3)

さてさて、無事ぼくが担当したWSも修了し、ランチョンセミナーは西村先生のオカルト・バクテレミアのはなし。西村先生は、いつも説得力のある講演をするなぁ。感心する。午後は、Meet the Expert #6「21世紀の子育て事情」を聴く。あきやま子どもクリニック院長の秋山千枝子先生の講演に感銘を受ける。すごく示唆に富んだ講演だった。それから「子どもの村・福岡」が誕生した経緯と意義がよく分かったこともよかったな。


土曜日の午後は、本当は総会から会頭講演、特別講演と聴いて、懇親会に出席する予定でいたのだが、日曜日の朝、福岡空港発 7:40 の飛行機に乗るとなると、お土産を買っている時間がない。それはマズい。


というワケで、MTE 終了後に歩いてホテルに戻り、天神の繁華街まで行って、デパ地下で美味しそうな「めんたいこ」を探す。本当は『極楽おいしい二泊三日』さとなお著(文藝春秋)の、215ページに載っていた「きよ味や」の「辛子めんたいこ」が欲しかったのだが、どこにも売っていない。あとで家に帰ってからネットで調べたら「こんなサービス」もあったんじゃん。福岡へはこの MacBookを持参しなかったので、ホテルフロントで「きよ味や」をネット検索してもらったのだが、この日のフロントの兄ちゃん、てんで要領をを得ない人で、検索ダメダメ人間だったのが実に残念だった。


で、仕方なく「岩田屋」で「福さ屋」の「辛子明太子のたたき」廉価版を購入し、クール宅急便で配送してもらうことにした(でもこれは正解で、先日食ったが実に旨かったぞ)。さて、夕食はどうするか? 今日も一人だ。となると、鮨だな。玄界灘の新鮮な魚が食べたい。福岡に来る前に調べた時には、博多駅前のビルの地下に「やま中」があって、ここにしようと考えていたのだが、先ほどの『極楽おいしい二泊三日』を紐解くと、212ページに「吉冨寿し」が載っていた。長浜生鮮市場の近くにある「この店」を、あの「さとなお」さんが絶賛していたのだ。


となると、ここに行ってみるしかないでしょう!
天神繁華街から北に向かって歩いて行き、RKB九州放送局の角を左折して、長浜方面へ延々と歩く。地図によると、この通り沿いの左側、福岡市立少年科学文化会館を通り過ぎて浜の町公園の手前にある。さんざん歩いてちょっと迷い、ようやく「吉冨寿し」を発見。ところが、店のカウンターはお客さんでいっぱいで、無情にも、入り口には「本日は閉店しました」の看板。やはり予約してこなければ無理だったんだなぁ。残念。


伊那に帰ってから、このあたりの地図をもう一度確認してみたら、例の「長浜ラーメン抗争」の3店は、浜の町公園を過ぎたあたりの、この通り沿いにあったのだな。でも、この日は挫けてしまって、そのままUターン。とぼとぼ歩きながらふと見上げると「長浜屋台 一心亭本店」の看板。鮨は諦めて、本場の長浜ラーメンでも食って帰るか、そう決めて店ののれんをくぐった。ひろい店内はすいていて、カウンターにタクシーの運ちゃんが一人。テーブル席には地元の家族連れが2組。客はそれだけ。観光客は一人もいなかった。


生ビールとAセット(ラーメン+餃子)600円を注文。ほどなくラーメンが運ばれてきた。熱々のスープはかなり濃厚な豚骨スープなのだが、変な「けもの臭さ」はまったくない。麺は堅めで好みの歯ごたえ。残念だったのは、高菜は別トッピングメニューになっていて有料だったことだ。紅ショウガは無料だったけどね。ここの長浜ラーメン、ぼくには十分美味かったぞ。替え玉は80円で、家族連れのお父さんは2人とも、替え玉を注文していたな。ぼくは、カロリー・オーバーになってしまうので、ぐっと我慢したが。


中洲まで戻ると、川沿いの屋台では外来小児科学会の懇親会を終えた小児科の先生やスタッフの皆さんが大勢で盛り上がっていた。実はぼくはもう一軒、行くことに決めていた店があった。ジャズ喫茶「リバーサイド」だ。TSUTAYA が入る、Gate's の南側の川沿い2階に、店は確かにあった。うれしかったな。


じつは、30数年前にぼくはこの店を訪れている。学生時代、東京駅から鈍行列車を乗り継いで九州までやって来たことがあった。宿泊はユースホステル。でも、土曜日の夜だけオールナイトの映画館で朝まで眠ることにしていた。あのとき、大分、別府、臼杵と廻って福岡入りしたのは土曜日だった。当時、全国ジャズ喫茶巡り、というのもやっていたので『ジャズ批評・ジャズ日本列島55年版』を見て「リバーサイド」に辿り着いたのだ。記憶では店は2階にあって、ピアノが置かれていた。浅川マキを細くしたような、黒ずくめのママが一人で店にいた。たしか、ビル・エバンズが大きなスピーカーから流れていたな。


深夜まで粘ってから店を出て、結局泊まったのは中洲の映画館。日活ロマンポルノを上映していた。座席は硬いし、場内は異様な雰囲気だし、ぼくはぜんぜん眠れずに朝を迎えたのだった。そんなかんなを、つい昨日のことのように思い出していた。



2010年9月 2日 (木)

外来小児科学会で、福岡に行ってきた(その2)

■20回を迎えた外来小児科学会は、小児科開業医を中心にした学会で、その特色は、医師だけでなく、看護師、事務スタッフ、検査技師、薬剤師、さらには経理担当の院長夫人も参加する学会であることと、学会の中心をワークショップに置いていることにある。今回も、土曜日の午前午後、日曜日の午後と合わせて60以上のワークショップが開かれた。


ぼくが担当したWSは、土曜日の午前9時〜11時45分の時間帯で開かれた「あなたも絵本の読み聞かせに挑戦してみよう!」だ。事前登録の参加者はぼくを含めて21人(医師10人、看護師・受付事務・院長夫人が11人)北は北海道から南は九州、沖縄まで日本各地から参加して下さった。ほんと、ありがとうございました。


当初は、参加者同士で絵本の読み合いをして、経験者が初心者にアドバイスする形式を考えたのだが、大人だけを相手に絵本の読み聞かせをするのは正直かなりシンドイ。反応は悪いし、決して笑ってはくれない。だから、初心者はきっと萎縮してしまって、もう二度と読み聞かせなんかしたくない! そう思ってしまうかもしれない。それはではマズイ。


■ぼくが、自分の子以外の子供たちの前で初めて絵本を読んだのは、忘れもしない平成14年11月のことだった。園医をしている高遠第一保育園で、秋の内科健診が終わったあとに、園長先生に無理矢理お願いして年中組で絵本を読ませてもらったのだ。『さつまのおいも』中川ひろたか・文、村上康成・絵(童心社)と『でんしゃののって』とよたかずひこ(アリス館)の2冊。


もう、大受けだったな。読み終わるなり直ちに「もっかい読んで!」の大合唱となった。「じゃぁ、今日はこれでおしまい。また今度ね」そう言って帰ろうとすると、子供たちがワーっと集まってきて、握手やハイタッチの嵐。そのまま保育園の玄関まで移動。「ゴンズイ玉」ってご存じですか? まさに「あの」感じです。「せんせい! おもしろかったよ」「またきてね!」まるで、アイドル・スターにでもなったみたいな人気だった。うれしかったなぁ。夢のようだった。

あの時の成功体験が、いまのぼくを作っていると言ってもいい。


だから、ぼくらのWSでは是非とも保育園に行って子供たちの前で実際に絵本を読む体験が必要だ、そう思ったのです。そこで、学会会場の福岡国際会議場の近くにある保育園を、まずはネットで検索してみた。そしたら「みなと保育園」があった。幸いHPもあったので、今年の4月30日にメールしてみたのだ。これこれこういう訳でWSを行うのだが、みなと保育園の子供たちの前で絵本の読み聞かせ実践をさせていただけないか、と。そしたら、ラッキーにも園長先生から受け入れOKの返事がきたのだ。有り難かったなぁ。


みなと保育園は、定員60名の福岡市では一番小さな保育園だ。しかも、8月最後の週末だったので、8月28日(土)に登園してきた子供たちは少なかった。全部で25人(1歳児が8人、2〜3歳児が6人、4〜5歳児が10人)くらいだったかな。


■当日は、まずは学会WS会場に集まっていただき、3グループに分かれて(0〜1歳児、2〜3歳児、4〜5歳児)保育園で実際にどう読み聞かせするのか、各グループリーダーを中心に話し合ってもらい、午前9時50分に会場を出て、みんなで歩いてぞろぞろと「みなと保育園」へ移動。午前10時過ぎ〜10:40 まで、各グループごとに分かれて別々に絵本の読み聞かせを実践。


10:40〜11:00 には、年長組の部屋にみんなで集まって、住谷先生が『やさいのおなか』(福音館書店)を、ぼくが『どうぶつサーカスはじまるよ』西村敏雄(福音館書店)を読んで、沖縄県沖縄市で長年読み聞かせ活動を続けてきた石原さんが、縦1メートル、横7メール近くある『おおきなかぶ』の絵本絵巻を実演した。


ぼくは事前のコーディネートと当日の記録係が担当だったのだが、今回もつくづく感じたことは、絵本というものは大人になっても読んでもらうとほんと楽しい。特に子供たちといっしょにいると、彼らの反応に触発されて、知らずと自分も子供時代に戻ってしまったかのように楽しくなるのだ。


保育園をあとに、学会場に戻って各グループごとに反省会とまとめの作業。はたして、参加者のみなさんはどのような感触を得たのだろうか? 楽しんでもらえたらうれしいな。

2010年8月30日 (月)

外来小児科学会で、福岡に行ってきた

8月27日(金)28日(土)29日(日)と、福岡で日本外来小児科学会があって、一人で九州まで行ってきた。


当初、高速バスで名古屋へ出て、あとは新幹線という行程を考えていたのだが、23日(月)の深夜、暑くてぜんぜん眠れないので仕方なく起き出してきて、ネットで新幹線の運賃とか調べてみたら思いのほか結構かかる。それなら、飛行機は? と、松本空港(13:35 発)→ 福岡空港(15:05 着)FDA (Fuji Dream Airlines) を調べてみたら、まだ割引チケットで空席があって、片道 24,400円とのこと。それなら、割高でも飛行機の方が楽だなと、深夜の2時半過ぎに「ぽちっ」とチケット購入ボタンを押してしまったのでした。


ただ難点があって、帰りの便が日曜日の早朝、福岡発(07:40)→ 松本着(09:05)1日1便しかないのだ。車で行って松本空港の無料駐車場に駐めておくので、帰りは新幹線という訳にはいかない。月曜日の朝着では、診療に間に合わないので、日曜日も午後の市民講演会まで聴いて帰るつもりだったのだが、あきらめて日曜日の予定をすべて止めにした次第。


28日(土)の午前9時から、ぼくがリーダを勤めるWS「あなたも絵本の読み聞かせに挑戦してみよう!」があるので、金曜日は朝から1日臨時休診としてあったのだが、ゆっくりと午前11時過ぎに家を出て、途中塩尻のブックオフへ寄り道。諸星大二郎のコミックスを4冊と堀晃『遺跡の声』(創元SF文庫)を購入。それでも、フライトの1時間以上前に松本空港へ到着した。この6月から就航したFDA機は、80人乗りの小さなピンクの機体がかわいいジェット機だったよ。


松本空港は山里の谷間の空港なので、離陸後高度を上げるために松本平を2回ぐるぐると旋回して高度を稼ぐ。でも、小さいながらもジェット機は快適だ。ドリンクとシャトレーゼのお菓子のサービス、キャンディも配ってくれた。で、午後 2:55 には福岡空港着。地下鉄で10分も乗らないうちにJR博多駅に到着した。


JR博多駅中央改札前で、WSサブリーダーの住谷先生と待ち合わせ、バスで移動して福岡国際会議場5階のWS会場と、子供たちの前で絵本の読み聞かせ実践をさせていただく、学会会場から徒歩10分の所にある「みなと保育園」の下見。まずは酒瀬川園長先生にご挨拶。きれいな保育園で、全館クーラーが効いている。子供たちもみな人懐っこい。これならいけるな、大丈夫だ! ぼくはそう確信した。


夜は先輩と約束があるという住谷先生と別れて、宿泊先のデュークスホテル中洲へ。福岡の歓楽街、中洲の北の外れにある。この日の夕飯はすでに決めてあった。「さとなお」さんのサイトで知った、居酒屋「久米」だ。場所がよく判らなかったので、ホテルのフロントで調べてもらって、タクシーに乗り込む。天神から国体道路を西へ進んで、警固(けご)小学校の通り(大正通り)に左折。しばらく行って秋本病院を通り越してすぐの左手にあった。ほとんど目立たない小さな古い店なので、タクシーの運ちゃんは見逃して通り過ぎてしまったよ。


一人きりだったので、店に入るのに勇気がいった。予約なしだったが、ラッキーにもカウンター席が空いていた。ぜんぜん気取ったところがない店で、女将さんも人懐っこい下町のおばちゃんといった感じで、ひとりの一見さんにもかかわらず優しく親切に応対してくれて助かったな、ほんと。

食べたものは、石鯛刺身の昆布じめ、牛テールの塩焼き、しいたけ、おでん(だいこん、いわし団子)、それに、〆の「中華そば」。いやぁ、本当にどれもこれもしみじみ旨かったなぁ。牛テール肉のとろける柔らかさ、薄めの上品な出汁が効いた大根、焼き椎茸にはだし汁をかけて一味唐辛子が少量ふってあって、噛みつくと口の中にじゅわ〜っとだし汁が沁みだしてくるのだ。たまりませんね。

そうして、小ぶりのお椀に入った中華そば。これが絶品でしたよ。きれいに澄んだスープに極細縮れ麺。福岡なのに、豚骨スープじゃありません。このスープが、今までどこのラーメン屋でも味わったことのない、こくと深みのあるスープでほんと、感動してしまったな。ぜひもう一度行きたい!


久米を後にしたぼくは、満腹で満足しきっていたので、そのまま歩いてホテルまで。途中、天神のブックオフに寄って絵本を物色。なんだ、九州福岡まで来て BookOff かよ。


2010年8月26日 (木)

島村利正の小説に登場する、古きよき高遠の人と街並み

■『奈良登大路町』島村利正(新潮社)に収録されている「庭の千草」がよい。『島村利正全集・第二巻』(未地谷)では、p109〜p164に収録。この小説は、昭和44年2月「新潮」誌上に発表された。

島村氏は「あとがき」の中で、こう書いている。

 私はながい間、私小説風の作品が書けませんでした。確たる材料をもとに、虚構を組立てる苦しみと喜びのなかに、自分の小説があると、いつも考えていましたが、私は私小説も好きでした。この小説集のなかには、はじめての、私風の私小説も何篇かあります。いちばんながい「庭の千草」は、瀧井孝作先生と「新潮」編集部の激励と叱咤がなければ、できなかったかも知れません。


「庭の千草」は、四季折々の高遠の祭りと街並みの風景を織り込みつつ、高遠でも屈指の富裕な家の一人娘として生まれながら、大正・昭和(戦前・戦中・戦後)の大半を、ただただ悲しみと苦しみの中で生きた島村氏の叔母の数奇な半生が描かれている。


 私の家は横町をくだってきた突き当たり、本町の丁字路のところにあった。屋号が杉村屋という魚屋だった。魚屋といっても東京風の魚屋でなく、塩物、乾物類を扱う店といった方が当たっているかも知れなかった。魚の量より氷の量が多いような樽詰、箱詰で、他国からはいってくる生物の鮪類は貴重品で、その他はほとんど塩物、乾物類が多かった。


 この「杉村屋」は、江戸時代は高遠藩の御用商人としてずいぶん繁盛した老舗なのだが、明治になって店を継いだ一人息子の亀太郎は、いわゆる二代目の若旦那で身上を潰しかけた(詳しくは『仙醉島』参照)。島村氏の祖父母にあたる、この亀太郎とウメには子供がなかったので、横町の「高遠でも屈指の富裕な家」から養子を迎えた。それが、島村氏の父親だ。だから、この小説の主人公の叔母は父の実の妹に当たる。


■小説は、島村氏が生まれ故郷の高遠へ帰って来た場面で始まる。

 

 車の行手には仙丈ヶ岳が見えていた。木曾駒とは反対に、重厚な肩からしぼられたような山頂は高く鋭くそびえ、やはり頂きに初雪をのせた黒っぽい巨大な山容は見事であった。私は伊那市から八キロの道をはしりながら、いつもこのふたつの岳を眺め、帰って来たな、と思うのだった。

 やがて、むかしは鉾持桟道とよばれ、古戦場のひとつであり難所であった町の入口までくると、私は新宿を発つときから考えていたように、そこで車を降りた。荷物はショルダーバッグひとつであった。そこに立って眺めると、故郷の町、高遠は、晩秋の陽ざしのなかで、屋根、屋根が肩をよせ合い、周囲の山々の、燃えるような紅葉の色につつまれながら、こぢんまりとくすんだ表情をして沈んでいた。大きな洋館は役場のほか一、二軒しかなく、むかし風に屋根の上に石を載せた家も何軒か見えて、私はあらためて、変わらない町だな、と思った。

この後もうしばらく続く、鉾持桟道から見た高遠の街並みの描写がすばらしい。見事な導入部だ。


■島村利正は女性の心理描写が実にうまい。様々なタイプの女性が登場するが、みな鮮やかに描き分けてみせる。そうして、もうひとつの特徴。島村氏の文章からは、読みながら「その景色」がまざまざとリアルに目の前に立ち上がってくるのだ。すごく視覚的な文章。もちろん、ぼくが高遠町の出身だから当然なのかもしれないが、でも、ぼくの目の前に浮かぶその景色は、ぼくが生まれる30年も40年も前の高遠の街並みなのだった。


明るく子供好きな(でも子供がいない)叔母さんが、その夫、藤田とサーカスを見に肩寄せ合って天女橋を渡って来る場面がいい。その藤田が、桜町の芸者の鶴代をお行馬橋(おやらいばし)の向こうに妾として囲う。四月、鉾持神社の祭礼。御輿行列の先頭には、大なたを持ったお面の赤天狗が露払いに立った。その役を担った「安さ」が、鶴代の家の庭仕事をしていて、著者と従兄弟とが鶴代の家に石を投げ入れたところを、その「安さ」に捕まってしまうのだった。


四月下旬になると、城趾公園の桜が満開になる。その夜桜見物のシーンが、まるで映画のようだ。偶然、小学性の著者と叔母が、向こうからやって来る鶴代一行とすれ違う場面。すごい緊迫感。読みながら匂いがしてくる。女の人の淫靡な匂いが。


そのつぎは、秋の「灯籠祭り」のシーン。鶴代の次に藤田は花柳界の仕込みっ娘だった素朴な田舎娘「お兼」を囲って子供を作る。


 燈籠祭りは、伊那谷でも珍しい風雅な祭りだった。その日はどの家でも、丈の高い孟宗竹を一本ずつ切取ってきて、家の前にすこし前かがみに立て、それに小さな滑車で動く麻縄をつけ、その縄に赤い提燈を上から下まで十くらい吊して、夕刻から一斉に燈を入れるのだった。
 青竹に赤提燈のならんだ町通りは、ながい夢のトンネルのようで、その夜の本町、仲町、霜町とつづくながい通りは、不思議なひかりで彩られる。(中略)

 本町通りのなかほどに、桜町の方からあがってきた暗い路地の口があった。片方は黒弁という醤油屋の蔵と塀で、反対側は伊吹屋という料理屋の板壁になっていた。

 叔母はそこまできて、人通りのなかでふと立停り、路地の入口から通りの賑わいを珍しそうに見ている、四、五歳の女の子に気づいた。紅い小綺麗な着物をきて、切下げ髪にしていた。叔母は色の白い、眼鼻立ちの美しいその子を見てハッとした。お兼の囲われている家が、その路地をくだっていった裏通りにあることも、頭のなかにあったかもしれない。叔母は瞬間的に、藤田の子だ、お兼の子に違いないと思った。


ぼくは、このシーンが一番好きだ。「その路地」とは、今で言えば「牛山文房具店」と「にんべん酒店」の間の路地に違いない。通りを挟んで反対側には、酒造「仙醸」の蔵元がある。


■登場人物たちが交わす会話も、読みながらしみじみしてしまう。

「そうだに」 「〜だなえ」 いまではあまり聞かれない言い回しだ。意外と「ずら」を使っていないことが面白い。


■著者が小学性のころ、深夜近くになって、高砂町から嫁入り行列がやってくる場面、同じく、新内流しが三味線を弾きながら、高砂町から横町に曲がって、新町、袋町の料亭方面へ向かっていく夜の闇の暗さ。まだ寂れ行く前の、大正時代の高遠の町の賑わい。そういった諸々が、じつに見事に描かれている。ほんとうに美しい小説だ。


ラストシーンは、著者が月蔵山に登って、頂上から遙か夕暮れの高遠の町を見下ろす場面で終わる。実に、しみじみと美しい描写だ。


■せっかく「高遠ブックフェスティバル」が開催されるなら、高遠が生んだ偉大なる「昭和の文士」島村利正氏の「この小説」もしくは他の小説『城趾のある町』『仙醉島』などに描かれた「高遠の各地・場所」を巡るツアーみたいな企画が、あってもいいのではないかな? ふとそう思った。 


2010年8月25日 (水)

「島村利正」がなぜかマイブーム

■このところ、このブログもずっとワンパターンの本の感想文のみ。
すみません、今日もそうです。しかも、Twitter からのコピペ。


高遠の実家で『奈良登大路町』島村利正(新潮社)のハードカバー本を見つけ、巻頭の「庭の千草」を読み始める。あぁ、これはいいなぁ。島村利正氏は高遠町の出身。氏の生家は本町の「カネニ嶋村商店」だ。長男であった島村氏は何故か家を継がなかった。「庭の千草」は氏の叔母さんの話。(つづく)
11:13 PM Aug 13th webから


すっかり忘れられた作家であった島村利正氏に、思いがけず再びスポットが当たった。それは、堀江敏幸氏が『いつか王子駅で』の中で、作家・島村利正を紹介したからだ。曰く、「このひとの行文から漂ってくる気韻に似たものはいったいなんだろう(中略) ああ、これは、檜の香りだな、と思い到った。」
11:30 PM Aug 13th webから


母の「お新盆」の祭壇を片付けに、今日夕方、高遠の実家へ行った。お新盆はほんと大変だったが、何とか無事のりきってホントよかった。帰りに高遠町図書館に寄って、『島村利正全集・第一巻、第二巻』を借りる。第二巻に収録の「庭の千草」が、戦前戦後の高遠の町を見事に活写していて、たまげたからだ
2010年8月19日 00:00:15JST webから


で、今日借りてきた第二巻には、同じく島村氏の故郷「高遠」を題材とした『城趾のある町』が収録されている。先ほどから読み始めたのだが、p377にある記載「本町には問屋門を構えた本陣が遺っていて、その家がそのまま、南原という医院になっていた。先生は可怕い人であった。」とあるが僕の祖父だ
2010年8月19日 00:06:58JST webから


島村利正、昭和19年の短編『仙醉島』を読む。『庭の千草』『城趾のある町』に先駆けて書かれた、高遠の祖母の話。明治時代、夜昼となく様々な物資を載せた駄馬が街道に五百頭、高遠の町内に五百頭動いていたという。遙か昔の高遠の町が目に浮かぶようだ。
2010年8月23日 23:18:36JST webから


島村利正『仙醉島』は、この10月にポプラ社から刊行される「百年文庫」50巻の第10巻(季)に、円地文子、井上靖の短編といっしょに収録されるらしい。堀江敏幸『いつか王子駅で』には、38ページに記載がある。
2010年8月23日 23:58:25JST webから


毎日少しずつ島村利正の短編小説を読んでいる。今日は昭和18年に書かれた『暁雲』。この小説は芥川賞候補になった。この小説もいい。じつにいい。新しい撚糸の開発に昼夜心血を注ぐ若き夫をそっと支える妻の話。でも、ゲゲゲの女房とはぜんぜん違う妻と夫。『いつか王子駅で』では35ページ。
2010年8月25日 21:55 webから

2010年8月22日 (日)

『昭和の爆笑王 三遊亭歌笑』岡本和明(その3)

さて、ようやく『昭和の爆笑王 三遊亭歌笑』岡本和明(新潮社)の感想。


・ちょうど、NHK朝の連続テレビ小説『ゲゲゲの女房』と同じ感じ、とでも言えばよいか、400ページ近い本の全体の 2/3近くが、売れる前の下積み時代の話が続く。これが読ませるのだ。

・歌笑は、他の貧乏な落語家の幼少時代とは異なり、いいとこのお坊ちゃんだった。東京の西の外れ五日市で、歌笑の父親は女工50人以上も抱える製糸工場の社長で、地元でも屈指の裕福な家だった。

・本来なら、御曹司として(次男ではあったが)父母の元で愛情に満ちた幼少時代を送るはずだったのだが、生来の斜視と弱視と出っ歯による特異な顔貌のために、母親からは「何であの子だけがあんな顔で生まれたのか……」と嫌われ、すぐに里子に出されてしまう。だから彼は、ほんとうの「母の愛」を知らない。母親との愛着形成ができなかったのだ。


・彼は家族からも疎まれ、近所の子供たちから虐められ、それはそれは惨めな子供時代だったのだが、里子に出された先の「ヒサ」を母のように姉のように慕って育った。ヒサとの間には、確かに愛着形成ができたのが彼には幸いだったと思う。戦後人気者になった歌笑は、実の母親とは最後まで疎遠だったという。その代わり、育ての親のヒサには何度も会いに行ったし、師匠の三代目三遊亭金馬の女将さんや、妻となった二二子さんには、まるで幼児に戻ってしまったような感じで甘えていたという。


・この本に載っているさまざまな面白いエピソードは、前述の『なつかしい芸人たち』色川武大(新潮文庫)や『高座奇人伝』小島貞二(ちくま文庫)にも載っている。でも、三者それぞれ微妙に違っていて、いったいどれが真実なのかよく判らないところが面白い。もちろん、最後に出版された「この本」が一番正確なのであろうが、必ずしもそうじゃないかもしれない? と読者に思わせてしまうところが、「この本」の一番の弱みだと思った。

・というのは、「この本」は読んでいて、まったく暗くないのだ。とにかく美談やいい話に満ちている。しかも、悪人が一人も登場しない。みんないい人。そんな訳ないだろ! 読んでいて、そう思ってしまうのだな。もしも、歌笑の評伝を色川武大が書いていたとしたならば、きっと、もっと主人公に対しての「毒」があったんじゃないかと思う。この本には、その「毒」がないのだ。そこが不満だ。

・でもたぶん、こんな時代(平成22年夏)だからこそ、著者は殺伐とした戦争末期から敗戦後の未来も希望もない時代であった「たった5年間」に、パッと花開いて瞬く間に散っていった、奇跡の「あだ花」歌笑のことを、努めて明るく描ききったのかもしれないな。


・他の本にはない記載で特筆すべきことは、歌笑がどんなに同じ噺家仲間からバカにされ虐められても、彼のことを認めて支えた人たちがいた、ということだ。まずは、彼の師匠、三代目三遊亭金馬。弟子にはもの凄く厳しくて「このバカヤロウ!」と絶えず拳骨を飛ばしていたと言われた師匠だが、この本を読んでみて、大好きな金馬の落語以上に、この人のことが好きになったよ。本当に弟子思いでいい人だ。歌笑がしくじった、愛犬「寿限無」のくだりには、ほんと泣けてしまったな。


・それから、五代目・柳家小さん。歌笑より1つ年上の小さんとの友情も泣かせる。本に書かれている彼の口調が、まさに「小さん」そのものなのでリアリティがあるのだ。桂三木助との兄弟愛といい、歌笑との友情といい、小さんていう人は本当にいい人だったんだなぁ。泣かせるぜぃ。


・あと、歌笑が師匠をしくじって「お前は破門だぁ!」と金馬に言われる度に、実家の五日市に帰り、長兄の照政氏が同行して金馬師匠に詫びを入れたという。不出来ながらも、弟の才能を信じてずっと援助してきた兄、照政。彼なくしては、あの歌笑の絶頂時代はなかったであろう。

・それからもう一つ。歌笑の弟弟子。二代目桂小南との関係。これは、他の本には書かれていない。著者は、生前の桂小南師匠に取材しているという。だからの記載なのだ。これは貴重だったな。歌笑は弟弟子・金太郎(桂小南)と本当に仲が良かったようだ。

・これも有名な話だが、三遊亭金馬の三番弟子、桂小南はずいぶんと苦労した人だ。京都出身で、上京したあと日本橋の呉服問屋に丁稚小僧として修行に入り、みるみる商才を示して頭角を現し、わずか17歳で番頭に抜擢されるほどの実力があった。店主から上野の店を任せられるほどになっていたのに、その全てをなげうって、彼は好きな落語の道に入ることを決意し、金馬の門を叩く。金馬の家にいたのは、当時内弟子であった歌笑だ。

歌笑も「なまり」に苦労したが、桂小南はその京都弁のためにもっと苦労した。ただそれはまた別のはなし。


・ところで、三遊亭歌笑の肉声が、ネット上で聴けるのです。

昭和24年に録音されたSPレコードの復刻盤。


<こちらのサイト>の下のほうにある、「三遊亭歌笑・音楽花電車」をクリックしてみて下さい。そうすると、前編・後編が聴けます。

2010年8月21日 (土)

『昭和の爆笑王 三遊亭歌笑』岡本和明(その2)

ちっとも「この本」の感想にたどり着かないのだが、
家に歌笑さんのことが書かれた本が他にもないかどうか探してみたら
もう1冊見つかった。『高座奇人伝』小島貞二(ちくま文庫)だ。
この本は、買ったきり読んでなかったな。


 歌笑は、戦後の暗い、あのやるせない時代に、”笑い”という灯を、国民の胸に灯してくれた点、”歌”を与えてくれた笠置シズ子とともに、忘れることが出来ない。
 文中にもふれたようないきさつで、私と彼は親しい友人だった。そんな縁でその没後、彼のいとこの当代歌笑とも親しくしているし、二二子未亡人とも折にふれて、お目にかかることが多かった。現に「純情詩集」などの作品群も、そのご好意で紹介させていただいたものである。

 この『爆笑王歌笑純情伝』を書いたのは、昭和43年であった。(中略)

 そして、年が改まって53年の2月。
 歌笑の長兄で、五日市の高水家を襲いでいた照政氏がなくなった。享年68。歌笑が育ったこの生家は、大きな製糸工場だったが、その後、工場は閉鎖となり、広い土地を開拓して、うらの秋川渓谷にのぞむあたりに、宿泊も出来る「黒茶屋」を建て、一帯を観光センターにした。

 数年前、私も行ったことがあるが、夏のキャンプ地として、若者で賑わっていた。
 町の名士だけに、その葬儀は盛大をきわめ、ひっきりなしに来る悔やみの客のために、仏壇の電気は、一週間以上も消すことを忘れた。その仏壇の漏電から出火、母屋はアッという間に全焼した。黒茶屋までは火が及ばなかったのは、不幸中の幸いであったというほかない。

 一方、五日市町では、町が生んだ英雄として、歌笑のための顕彰碑を建てる議が進み、準備に入っていた。そのため、歌笑ゆかりの遺品などが、東京から生家に運ばれていた。それも、ほとんど持ち出すひまもなく灰となったという。
 その中に、歌笑自筆のノートや、新聞なののスクラップ・ブックがあった。「純情歌集」などの作品群の載ったものである。

『高座奇人伝』小島貞二・著(ちくま文庫)「爆笑王歌笑純情伝・余滴」p321〜p324

2010年8月20日 (金)

『昭和の爆笑王 三遊亭歌笑』岡本和明(新潮社)

■今夜の『うぬぼれ刑事』は面白かったなぁ。小泉今日子が思いのほか良かったのだ。続いて『熱海の捜査官』が始まる。さて、こちらはどんな展開が待っているのか。楽しみ。


■『昭和の爆笑王 三遊亭歌笑』岡本和明(新潮社)読了。面白くて一気に読んだ。

芸人さんの評伝はみな面白い。春風亭柳朝の評伝『江戸前の男』吉川潮(新潮文庫)、同じく吉川潮氏の二代広澤虎造一代記『江戸っ子だってねぇ』は読んだ。柳家三亀松の評伝『浮かれ三亀松』は未読。吉川潮氏が書く評伝は、まるで落語の人情噺みたいで、笑って泣いてまた泣いて読み終わる頃には、その芸人さんがまだ売れない昔からのファンだったような錯覚に陥ってしまうのだった。

ただ、本を読む前に広澤虎造はCDで「清水次郎長伝」を聴いていたし、春風亭柳朝は小中学生のころ、テレビやラジオで落語を聞いた覚えがある。

しかし、この「三遊亭歌笑」という人は「歌笑・純情詩集」という言葉だけは知っていたが、どんな落語家さんだったのか全く知らなかった。以下の文章を読むまでは。

 十一人兄弟の次男として東京都下西多摩郡五日市の製糸工場に誕生。幼時、眼を患って右眼はくもがかかりまったく見えず、左眼には星があって、天気予報みたいだね、といわれた。(中略)

 戦時中、中学生のころ、神楽坂の寄席ではじめて彼を見た。歌笑というめくりがあったから、もう二つ目だったか。十人くらいの客の前で「高砂屋」をやったが笑い声ひとつたたない。なにしろ、極端な斜視で、口がばか大きくて、その間の鼻が豆粒のよう、ホームベースみたいにエラの張った顔の輪郭、これ以上ないという奇怪なご面相だ。醜男は愛嬌になるが、ここまで極端だと暗い見世物を見ているようで、笑うよりびっくりしてしまうのである。誰よりも当の本人が陰気で、一席終わるとしょんぼりという恰好でおりていった。立ってもチンチクリンの小男で、がりがりに痩せていた。

 それからしばらくして、二度目に出会った歌笑は、別人のように自分のペースを作っていた。登場すると、奇顔を見ていくらかどようめいている客席を見おろすようにして、歯肉までむきだして笑って見せる。それだけでドッと来た。プロになったな、と思ったものだ。(中略)

 そうして終戦。本人もびっくりするくらいのスピードで、超売れっ子になる。(中略)

 歌笑は師匠の金馬以外の当時の寄席関係者から、ゲテ物、異端、というあつかいしか受けていないけれど、まぎれもなく当時の誰よりもモダンであり、前衛であった。(中略)

 ずっと以前、歌笑のことを小説にしようと思って、ずっと取材を重ねていたことがある。歌笑が端的にかわいそうで、小説にする気にならず、材料は山ほどあったのだが放棄した。(中略)

 昭和25年5月30日、夫婦生活誌の大宅壮一氏との対談をすませて、急ぎ足で昭和通りを渡ろうとして、進駐軍のジープにはねられた。内臓破裂で、即死だった。マネージャーは出演予定の映画の打合せで居らず、ジープは逃げ去ったまま。目撃者はたくさん居たが、うやむやのままだ。新居完成祝いが一転して葬式になってしまった。享年三十三。

『なつかしい芸人たち』色川武大(新潮文庫)p182〜p188「歌笑ノート」より

それからもう一冊。『現代落語論』立川談志(三一書房)82ページ。

ラジオはNHKだけなので、落語が聞けるのは日曜日夜のラジオ寄席、金曜日の第二放送の放送演芸会、時折劇場中継としての寄席中継ぐらいのものだった。さらにくわえれば、第二放送の若手演芸会ぐらい。この若手演芸会には、馬生、小金馬(腹話術)、貞鳳、人見明とスイングボーイズなどといった人たちがやっていた。中で何といっても三遊亭歌笑の全盛時代、それと楽しかったのは、当時ちょうど油の乗り切った感じの三木トリローの日曜娯楽版。

 ところがある朝、目がさめるとおふくろに、
 ”お前、歌笑が死んだョ”
 と、新聞をみせてくれた。

 三面に小さく、”歌笑師禍死”と書いてあった。腹が立った。信じられなかった。あの歌笑が死ぬなんて、いやだった。悲しくて口惜しくてたまらなくなり、そんな馬鹿なことがこの世にあるもんかと、涙がこぼれた。

 他人が死んでこんな気持ちになったのは、歌笑と和田信賢が死んだ時ぐらいで、あとにも先にもこの二つぐらいしか思いだせない。



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