2010年8月13日 (金)

『ジャズ喫茶論 戦後の日本文化を歩く』マイク・モラスキー(筑摩書房)その2


■先ほど読了した。この本はほんと面白かったなぁ。

普通、ジャズ喫茶の話となると、昔はよかったなぁっていう、単なるノスタルジーだけで語られた本がほとんどだったのに、この本は違った。第一に、著者が変な外人(セントルイス生まれのアメリカ人)で、しかも、一橋大学社会学研究科教授の肩書きで「日本語」で書かれた本である、ということが驚きだ。彼の書く日本語がじつによくこなれていて読み易いのだ。


第二に、各ジャズ喫茶が自慢するオーディオ・スペックや、ジャズレコード・コレクションを記載することを、意識的に排除したこと。これが意外だった。当時、ジャズ喫茶のスピーカーは「JBL派」と「アルティック派」とに分かれていた。それぞれの代表が、岩手県一関市の「ベイシー」と、東京は門前中町にあった「タカノ」だ。もちろん、この本には日本のジャズ喫茶のメッカであった、この2つの名店の記載はある。「タカノ」はマッチの写真も載っている。でも、著者は微妙に外して紹介しているのだ。そこに、モラスキー氏のポリシーを感じて面白かった。

第三に、著者が「ジャズ喫茶」体験をした時期と、ぼくが「ジャズ喫茶」体験をした時期とが、ぴったし一致すること。本書264ページによると、それは「ジャズ喫茶混迷期 --- 1973年頃〜1980年代初頭」に当たる。巻末に載っている、著者が全国旅して取材した各地の「ジャズ喫茶」リストを見ると、ぼくが大学生の頃に日本全国を旅して巡って実際に訪れた「ジャズ喫茶」が25店以上もあった(現在は営業していない店も含めると)。あのころ集めた「ジャズ喫茶のマッチ」を、たしか今でも取ってあったはずなのだが、納戸の奥の段ボール箱の中に仕舞われているみたいで、発見できなかった。残念。


■ぼくは「Web ちくま」に著者の連載が載ったときから、ずっと楽しみに読んできたのだが、1冊の本になって読み返してみると、実に見事に再構成されていて、すごく読み易くなっていることに感心した。


それから、読みながら「はっ!」とさせられる記載が随所にあったことも注目に値する。たとえば、

そして、あまり指摘されないようだが、ジャズ喫茶の店主たちの中に、社会の主流的価値体系に抵抗心は抱いていても、闘争や組織などに直接関わったりする人が少なかったように思える。つまり、個人レベルでは大まかな「反体制精神」は共有していても、基本的に「ノンポリ」の店主が圧倒的だった、ということは見逃せない。(p263)

たしかに、かつてジャズ喫茶の店主でもあった村上春樹は、まさにそうだった。

 基本的には店主がレコードを棚から選択し、ジャケットから盤を取り出し、ほこりをきれいに拭き落とし、ターンテーブルに置く前に表面の針の傷の有無を点検し、そしてターンテーブルに置いてから位置を慎重に定めながら針を落とす。どの行為もきわめて慎重に行われ、見ている客には、レコードとオーディオ装置の希少性が十分に伝わり、同時に店主自身のジャズに対する知識と愛情が披露される結末になる。

 私はこれらの行為を<パフォーマンス>と見なしたい。いわば、<通の演技>である。あるいは、演奏するという不在のミュージシャンの代理行為とでも見なせるかもしれない。(中略)

 ところで、LPに対するフェティシズムはあっても、CDに対するそのような態度をジャズ喫茶ではほとんど見かけない。(中略)

 ジャズ喫茶でCDがヒンシュクを買っているとしたら、その理由は単に音質や上記の具象性をめぐる問題だけに由来するのではないような気がする。店内の秩序を乱し、しかも店主や店員のパフォーマンス的表現の大事な一部を奪ってしまう、という効果も関係しているのではないかと思う。

■この本が、単なるノスタルジーに終わらない店を挙げるとしたら、


1)アメリカ軍基地がある街には「ジャズ喫茶」が数多く存在するに違いない、ということにこだわっているところ。彼はそのために沖縄を何度も訪問している。これは、日本のジャズに言及した評論の中で、欠落していた視点だと思った。


2)地方の、一般にはほとんど知られていない「ジャズ喫茶」にスポットを当てた功績は大きいな。特に、北海道は函館の「バップ」(ここは僕も行ったことがある)とか、海のない埼玉県にある「海」という名のジャズ喫茶とか。あとは、大阪阿倍野区(たぶん飛田遊郭の近く)にあった「マントヒヒ」や、若松プロダクションに所属していたマスターの店「ろくでなし」の紹介。

それから、熱海の遊郭街の外れで細々と営業を続ける「ゆしま」とか。常連は、結婚してもいい相手かどうか、ゆしまのママに鑑定してもらっていたという。


あとは、ジャズ喫茶といえば昔から敵対関係にあった「JASRAC」の著作権に対する取り立ての話も面白かった。断固許さず対決して裁判で負けた、新潟「スワン」のマスターの話をもっと聴きたいぞ。


3)著者は「ジャズ喫茶」を決して「過去の遺産」もしくは「博物館」としてノスタルジックに懐古しているのではなくて、新しいタイプの「ジャズ喫茶」に期待している記述があること。

その、新しいタイプのジャズ喫茶とは、沖縄県ゴザにできた「スコット・ラファロ」と、井の頭公園の脇のビル7階にできた「ズミ」だ。それから、大阪にできた古本屋&ジャズ・カフェの「ワイルド・バンチ」も期待できるか。


4)日本人が、よくジャズを分類する時に使う「しろ(白人)」「くろ(黒人)」の表記はナンセンス! と著者が声高に主張している点。これは気付かなかったな。なるほど。ぼくも知らずとそういう分類をしたきたような気がする。女性ジャズ・ヴォーカルなら、やっぱり白人金髪とか。動機が不純だね。


5)ジャズ本来の楽しみ方である「ライヴ」と、ジャズ喫茶で再生される「レコード」での「ライヴ録音」の関係。その「リアルさ」を競うこと。それはそのまま、落語の再生記録は、DVDで見てもちっとも「リアル」には感じられないのに、CD(もしくはレコード)の音だけで目を閉じて聴けば、リアルな寄席の空間が体感できることと同じだ。

(もう少し続くかも)

2010年8月 9日 (月)

マイク・モラスキー著『ジャズ喫茶論』(筑摩書房)

■先日から、マイク・モラスキー著『ジャズ喫茶論』(筑摩書房)を読んでいる。じつに面白い。彼(モラスキー氏)が来日して初めて新宿アルタ近くの「ジャズ喫茶」体験をしたのは、1976年9月。その約半年後に、ぼくも同じジャズ喫茶で新宿デビューした。それは『びざーる』という名のジャズ喫茶だった。たしか『ディグ』よりも先だったように思う。

当時すでに、ぼくの故郷の伊那市にも「ジャズ喫茶」があった。サッチモの笑顔が白い線で黒地に描かれたマッチの「アップル・コア」だ。僕が高校生になった年(2年生じゃなくて)に伊那バスターミナル向かいから少し南へ下ったビルの2階にオープンした(いま『ジャズ批評別冊・ジャズ日本列島61年版』を調べたら、昭和49年5月21日オープンとある)。同級生だった小林君なんかは、さっそく常連になって昼間から(?)入り浸っていたみたいだが、当時ぼくはまだジャズを知らなかった。

だから、高校生の頃には「アップル・コア」の怪しい雰囲気が怖くて、とても足を踏み入れる勇気はなかったな。結局、この店に初めて入ったのは、1979年の夏だったか。この頃にはもう、タバコをすぱすぱ吸っていたなぁ。

それからさらに数年して、アップル・コアの名物美人ママが突如ニューヨークへ行ってしまい、JBLのオーディオ・システムも、ジャズ・レコードもそのまま居抜きで、この店は人手に渡ってしまった。その途端、客足は一気に減ったという。結局あの店はママさんの妖しい魅力で保っていたんだね。

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■読んでいて思わず笑ってしまったのは『ジャズ喫茶論』の55ページ。そうか、ジャズ喫茶のマスターって、じつは店主の意味じゃなくて、スターウォーズの「ジェダイ・マスター」と同じ意味の「師匠」だったんだ。なるほどなぁ。(つづくかも)

2010年8月 7日 (土)

「まっとうな芸人、圓生」色川武大

■自分で文章を綴るパワーが相変わらずないので、今日も他人の文章を勝手にアップするご無礼、どうかお許しください。


「まっとうな芸人、圓生」色川武大


 文楽、志ん生、圓生----、昔、寄席にかよいつめていた頃、私たちにとってこの三人が落語家の代名詞であった。金馬も底力があったし、三木助や現小さんも売出し中だったけれど、私どもにとって文楽、志ん生、圓生、がすべてだったといってもよい。(中略)


 文楽、志ん生にはそれぞれ明快な華があったが、圓生はいくらか陰な感じで、それが三本指には入っても、トップ一人を選ぶとなると、圓生とはいい難い理由だったろうか。
 けれども、だからといって他の二人に毫も劣る落語家とは思わない。特に、昭和二十年代後半から三十年代にかけての圓生は、私にとって”凄い落語家”であった。

 私は、芸というものに対して、点を辛くするのが礼儀だと思う。聴いている者の心底に深く重く残るような芸でなければ拍手をしない。そのくらいに”芸”というものを尊敬したい。だからこの一文も、亡き圓生の霊にヨイショしているつもりはない。(中略)


 私にとって圓生のどこが凄かったか。


 まず、第一に映画でいう屋外シーンの巧さである。たとえば『鰍沢』の、半分しびれたようになった旅人が、こけつまろびつ、雪の中を逃げていくところ。あるいは『三十石』の淀川の夜気。『乳房榎』の落合の川辺に蛍飛びかう闇の深さ。例にあげればまだたくさんある。いかにも私たち自身がそこに居て、風の気配、空気の味まで存分に浸ることができる。

 落語は、扇子と手拭いだけで、さまざまの人物を演じわけるという概念を、圓生はもうひとまわりワイドにしてくれた。私の知る範囲では、人物の喜怒哀楽の表現にとどまらず、あたふたする人間たちと対比させるように大きな自然までを描いて生彩を発揮した落語家を他に知らない。(中略)

 
 第二に、これも大きなことだが、圓生の描く女の味わいである。圓生を聴くひとつの楽しみは、女の描出が深いことであった。

 文楽も、志ん生も、個性は違うが、男の演じ手であったと思う。主題はたとえ女の話であっても、文楽も、志ん生も、いつも我が身の命題みたいなものをひっさげていた。男の哀しさ、世間の主流からはずれた男たちの、奇態にしか生きられない哀しさ、そうしたものを落語の形を借りていつもむんむんと発散していた。それが気魄となり、濃厚な説得力をうんでも居たと思う。(中略)


 これに対して圓生は、彼等ほど自分の命題に執着していないように見受けられる。内心深く、叫びたいことはあったかもしれないが、落語に対する姿勢は微妙にちがう。
 圓生は、前二者よりもずっとまっとうに、話芸そのものに深く入りこもうとしたように思う。だから、ポイントは、何を演じるか、ではなかった。如何に演じるか、という人であった。

 当然のことながら、眼の人、描写の人になる。万象をどう眺め、感じとった物をどう演じるか。
 文楽や志ん生にとって、女は、話の中でも他人であった。いうならばオブジェで、主体は男の側にある。が、圓生にとっては、脇人物だからオブジェで方づけるというわけにはいかない。話全体が主人公なのである。だから人物のみならず、花鳥風月、樹立ちや闇や空気の揺れまでも等分に眼を配らなければならないことになる。(中略)

 その意味では圓生は辛い。自分の方に話をひっぱることをしないで、無限に完璧化していかねばならない。
 その辛い作業をよくやったと思う。圓生はよりよく演じるためにまず無限に近い気配りを持って万象を眺めなければならなかったろう。そうして掬いとったものは、それが真実であるという理由でどうしても削除するわけにはいかない。(中略)


 数多い圓生の極めつけの中で一つ選ぶとすれば、私は『包丁』をあげたいが、この不逞な男女の心情を美化など少しもせず。それでいて話芸の持つ美しさ快さに深くひきずりこまれること、おどろくばかりである。
 その他、『お若伊之助』『乳房榎』『累ヶ淵』『火事息子』など描写の要素の濃い人情噺系がどうしても主になるが、『豊竹屋』だの『一人酒盛』だの軽いものにも好ましいものがたくさんある。


 考えてみると、私は圓生と個人的面識はない。ただ寄席の隅で高座を眺めていただけで、それも烈しく聴いたのは人形町の独演の頃の前後十年ほどである。けれども子供の頃から、その声に親しみ、その所作、その話法が血肉化するほどになっていて、お新香や味噌汁と一緒に自分の一生に当然いつまでもついてまわるのだと思っていた落語家たちが、今はもう皆亡い。それが信じられない。

 眼をつぶると、清々とした圓生の出の姿が浮かんでくる。文楽も清々としていたが、練り固めて身構えているような静けさだった。小腰を折って出てくる柳好は芸人というより幇間的だし、顎を突き出してくる志ん生、ズカズカッとくる金馬、現小さんのノソノソ歩き、とこう考えてくると、圓生の出はスッキリと、しかも柔らかくあれが本当の芸人という感じがする。


 圓生はまっとうな、という点でまちがいなしに巨きな芸人であった。


(雪渓書房『六代目三遊亭圓生写真集』1981年刊) →『色川武大・阿佐田哲也エッセイズ2 芸能』(ちくま文庫)p150〜p157 より。


2010年8月 4日 (水)

『ひそやかな花園』角田光代(毎日新聞社)

■この小説の面白さを、ネタバレなしで紹介することは不可能です。


だから、もし興味を持ったなら、何の前情報もなく「この小説」を読み始めてみて下さい。そうして、あなたが最終章を読み終わった時、得も言われぬ満足感にひたれたなら、何よりもうれしい。

そういう小説です。

あと、検索で先頭にでてくる「サンデーらいぶらりぃ」青柳いづみこさんの『ひそやかな花園』書評。1行目から完全ネタバレなので、未読の方は読んじゃだめです。


でも、作者の「連載を終えて」は読んでも大丈夫かも。

ついでに、忌野清志郎の大ファンであった、角田光代さんの「追悼文」も発見した。


<以下、少しネタバレあり> 

ぼくは読み始めて10ページも行かないうちに、ははぁ、この小説は、角田光代版『わたしを離さないで』なんだなって、瞬時に理解した。

そして読み終わったいま、その「予感」が、まんざら間違いではなかったと感じている。
ほぼ同世代の(でも、微妙に年齢の異なる)男の子3人と女の子4人。

この子供たちは、毎年夏休みの数日間を家族といっしょに高原のウッドハウスで過ごす。サマーキャンプと称して。子供たちは、彼らがどういう間柄なのかは知らされていない。いっしょに参加した大人たちは、どうも何か隠しているらしい。


彼らは、運命を超えた宿命で結ばれた子供たち7人だったのだ。


その宿命とは、本来なら「生まれてくる必要がなかったかもしれない子供たち」という共通点があること。
でも、彼ら彼女らの母親はみな「無敵な気分」でもって、彼ら彼女らの誕生を心から望み、そして産み育ててきた。
そのことが果たして正しかったのか? それとも。


この小説は、あの傑作『八日目の蝉』のネガ・ヴァージョンだと思う。
血縁のある実の親子でも、乳幼児期という子供にとって一番大切な時期をいっしょに過ごせなかったなら、決して親子の愛着関係は結べないし、全くの赤の他人でも、お互いに愛着関係が形成されれば、確かに「親子」になれる。『八日目の蝉』は、そういう小説だった。


ところが、『ひそやかな花園』では逆に、オギャーと生まれてきた子供自身にはどうしようもない「自分の出自」に焦点があたるのだ。遺伝子学的、生物学的な自分の出自は、果たして「どうしようもない宿命」なのか?

この小説の中で、この問いが何度も提示される。


小説を読みながら、いろんな思いが自分にはね返ってくる。
「ぼくはどこから来たのか、ぼくは何者か、ぼくは何処へ行くのか?」

でも、歩まねばならぬ。そう思う。だって人間だから。


地球上に存在する生き物の中で、人間(ホモサピエンス)は特異な生物だ。
世界中のありとあらゆる土地で、人間は生活しているからだ。
動物でも、植物でも、そんな生物はひとつもない。
自分に合った環境の土地にずっと定住して動かない。


ところが現世人類は、今から約7万年前にアフリカ大陸を出て、あれよあれよとヨーロッパからユーラシア大陸を移動し、またあるグループは中近東からインド、東南アジアを経てオーストラリアへ渡った。さらにマンモスを追って北上したグループは、アリューシャン列島を越えアラスカに至り、さらにたった数百年で北アメリカから南アメリカ最南端まで一気に縦断したという。

人間はなぜ、そうまでして移動して行ったのか?
それは、人間だけが持つ「好奇心」のたまものだと思う。
「ここよりほかの場所」への好奇心。

あの山の向こうには、いったい何があるんだろう?
どんな人たちが住んでいるんだろう?

そういう「旅する心」が本質的に備わっているんだと思う。
人生も旅だ。当たり前のようだけれども、この本を読み終わって、
あらためてしみじみそう思った。


最終章がいい。とってもいい。この章の書き手(私)が、あの、紗有美であることに、すごく「ほっ」とした。角田光代は、こういう女の子を描くのが実にうまい。

ふと読み返すと、プロローグも実は紗有美の「一人語り」だ。
なるほど、そういうことか。


ところで、この小説に登場する「ハル」と、『キッドナップ・ツアー』の主人公「ハル」とは明らかに別人なのだが、作者の中では、どこかでつながっているのだろうか?


2010年8月 1日 (日)

可楽の一瞬の精気『寄席放浪記』色川武大

■再び、色川武大『寄席放浪記』(河出文庫)からの抜粋

「可楽の一瞬の精気」

 私は小さいころから寄席にかよっていたわりに、可楽との出会いはおそかった。空襲直前の大塚鈴本ではじめてその高座を見たのだと思う。当時私は中学生で、大塚はすの中学のお膝元だったから、教師の眼が怖くて、そこに寄席があることを知っていながらほとんど立ち寄らなかった。(中略)

 たしか日曜の昼席で、なんだか特殊な催しだったと思う。まだ春風亭小柳枝といっていた時分の可楽が、後年と同じく、「にらみ返し」という落語に出てくる借金取り撃退業の男を地で行くような顔つきで(着流しだったような印象がある)、ぬっと出て来た。

 中入前くらいの出番だったがたっぷり時間をとり、「らくだ」を演じた。小さく会釈をして、すぐに暗い悲しい独特の眼つきになり、「クズウいー」久六がおずおずと長屋に入ってくる、もうそのへんで私は圧倒されていた。陰気、といってもしょぼしょぼしたものでなく、もっと構築された派手な(?)陰気さに見えた。(中略)


 あとで知ったが、可楽は、文楽や志ん生とほぼ同じキャリアの持ち主だった由。長い不遇のうちに、あの暗く煮立ったような顔ができあがったのか。(中略)
 
 しかし可楽を継いでからはほぼ順調に、特異な定着を示した。私は「らくだ」には最初のときほど驚かなくなったが、そのかわり、「二番煎じ」「味噌蔵」「反魂香」この三本を演じる可楽の大のファンになった。まったく可楽のエッセンスは、「らくだ」を含めたこの四本に尽きると思う。他にもよく演じるネタはあったが、大方はつまらない。

 調子でまくしたてる話が迫力が出ず、くすぐりだくさんが似合わず、感情の変化を深く見せる話がいけない。もっとも可楽に中毒すると、ぼそぼそして退屈なところが、実に捨て難くおかしいのであるが。(中略)


可楽の可楽たるところはこういう一瞬の切れ味にあったと思う。「反魂香」の枕で、物の陰陽に触れて、陽気な宗旨、陰気な宗旨を小噺にして寄席を沸かせたあとで、

「ーー淋しいにはなにかてェますと、夜中の一つ鐘で」と口調が改まり、ふっと間があって、「カーン、ーー」ここでまた絶妙な間があって、「南無や南無南無ーー」と主人公島田重三郎の夜更けの読経の声につながっていく、ああいうところの、凜烈とでもいうのか、暗く豪壮な中にどこか甘さを含んだものを一瞬の精気で打ち出すのが独特で、短くはしょった口説の中に飛躍が快く重なり、他のどの落語家にもない味わいがあった。

 可楽の精髄を示す演目の中には、こうしたすぐれた一瞬がいくつも重なっていて、それは何十度、何百度聴いてもあきることがない。まことに不思議な落語家であった。(p41〜p44)

■八代目三笑亭可楽の不思議な魅力に関して、これほど的確に鋭く分析してみせた人は、色川氏以外にはいまい。

     Karaku

2010年7月31日 (土)

小鳩園で絵本を読む。それから、板橋文夫のこと

■今週の水曜の午後は、園医をしている「小鳩園」に出向く日だった。小鳩園は、発達障害児や重度心身障害児が母親とともに通う伊那市の母子通所施設だ。ぼくは夏と冬の2回行って、お母さん方に話をしてくる。 この日は、手足口病などの「夏かぜ」の話と、Hibワクチン、7価肺炎球菌ワクチン(プレベナー)の話をした。そのあと、子供たちと園の先生方もいっしょになっての「絵本タイム」。ぼくが読んだ絵本は、  1)『どうぶつサーカスはじまるよ』西村敏雄・作(福音館書店)  2)『ぐやんよやん』長谷川摂子・ぶん、ながさわまさこ・え(福音館書店)  3)『まるまるまるのほん』エルヴェ・テュレ作、谷川俊太郎・訳(ポプラ社) 『ぐやんよやん』を読み始めたら、すっごく反応のいい子が一人いて、ぼくがページをめくって「じんじ じんじ ずー」とか言うたびにキャッキャ言って喜んでくれた。それ見て、その子のお母さんと先生方がちょっと驚いたような反応を示した。しめしめ、やったね! 『まるまるまるのほん』は、子供たちに絵本をクリックさせたりタッチさせると「ぼくも私も!」と、みんな寄ってきて収集がつかなくなる。それがこの絵本の唯一の欠点だな。でも、幼い子も年長児も、障害のある子も関係なく、子供たちを夢中にさせる魅力がこの絵本には確かにある。 ■ナマの色川武大さんを一度だけ目撃したことがある。あれは何時だったか? 1978年〜1982年ころか。 場所は新宿ピットイン。板橋文夫トリオが出演した夜だった。周りの人は誰も特別視することなく、色川氏は一般客とごく自然に混ざって板橋文夫のピアノを聴いていたな。 板橋文夫と言えば、今年の2月に、東京FMのホールでクラシック・ピアノのソロコンサートを催したのだけれど、その日に演奏された「渡良瀬」の映像がネットにアップされている。これだ。 これは凄いな。数ある「渡良瀬」ソロ・ヴァージョンの中でも屈指の演奏なのではないか。 久々に板橋さんらしい演奏が見れてほんとうれしい。

2010年7月27日 (火)

名人文楽

■先日書いた、桂文楽の「区役所〜ぉ!」は、どの落語に出てくるかというと「王子の幇間」に登場するフレーズなのだった。神田の平助という野太鼓が主人公の落語。もう、ほとんどコイツの一人語りだ。ホントやな奴。それを八代目桂文楽は滑稽に、自虐的に、悲哀に満ちてしかも諧謔的に演じてみせる。こうなるともう、桂文楽の独断場だな。

旦那の家に来た平助。もう「よいしょ」のしまくり。でも、めちゃくちゃ毒がある。お手伝いさんから始まって、奥さん、子供たち。はては飼い猫に至るまで。今日、久々に聴いたが、思ったよりもテンポが速い。集中力が欠けると何言ってるか分からなくなってしまう。文楽は難しいぞ。よし、明日は「よかちょろ」を聴いてみよう。


■昨日の月曜の夜は、伊那中央病院の小児科一次救急当番だった。よる7時から9時までの2時間。でも、週の始めなので気分的にはけっこうキツイ。「とびひ」の4歳男児と、喘息の5歳児の2人を診ただけで終わった。ラッキー。おかげで本が読めた。『なつかしい芸人たち』色川武大(新潮文庫)の「歌笑ノート」。三遊亭歌笑は、三代目三遊亭金馬の弟子だった。

 右目は雲がかかって全く見えず、左目には星があって天気予報みたいだね、といわれた。(中略)なにしろ、極端な斜視で、口がばか大きくて、その間の鼻が豆粒のよう、ホームベースみたいにエラの張った顔の輪郭、これ以上ないという奇怪なご面相だ。醜男は愛嬌になるが、ここまで極端だと暗い見世物を見ているようで、笑うよりびっくりしてしまうのである。誰よりも当の本人が陰気で、一席終わるとしょんぼりという恰好でおりていった。立ってもチンチクリンの小男で、がりがりに痩せていた。

 それからしばらくして、二度目に出会った歌笑は、別人のように自分のペースを作っていた。登場すると、奇顔を見ていくらかどようめいている客席を見おろすようにして、歯肉までむきだして笑って見せる。それだけでドッと来た。プロになったな、と思ったものだ。『なつかしい芸人たち』色川武大(新潮文庫)p184


■同じく色川武大氏の落語エッセイには、こんなのもあった。

 暑いにつけ寒いにつけ、桂文楽を思い出す。(中略) つくづく思うけれども、昭和の落語家では文楽と志ん生が抜き出た存在だな。そのもっとも大きな理由は、二人ともそれぞれのやり方で、自分の落語を創りあげたことにあると思う。古典の方に自分から寄っていってしがみつくのではなく、自分の方に古典落語をひっぱり寄せた。

 古典というものは(落語に限らず)前代の口跡をただ継承しているだけでは、古典の伝承にはならない。前代のコピーでは必ずいつか死滅するか、無形文化財のようなものと化して烈しい命脈を失ってしまう。リレーというものはそうではないので、その時代に応じて新しい演者が、それぞれの個性、それぞれの感性で活かし直していく、それではじめて古典が伝承されていくのである。

 志ん生は天衣無縫の個性で、たくまずして新装した。志ん生の演じる「火焔太鼓」や「ずっこけ」や「風呂敷」や「お直し」は、それ以前の演者からは聞けなかった。私はあれは新作といっていいと思う。そうして志ん生自身がどう思っていたか知らないが、志ん生の口跡に残っている前代のコピー的部分は、どちらかといえば邪魔な部分だった。

 桂文楽は典型的な古典と思われているようだけれども、あれはコピーではないのである。速記本で前代の演者が同じ演目を演じているのを見ると、そのちがいがわかる。
 たとえば「寝床」は、往年は、周辺を辟易させる旦那の素人義太夫の方に力点がかかっていた。文楽のは旦那と長屋衆の心理のおかしさが見せ場になっている。「素人鰻」も、鰻をあやつるおかしさよりも、職人の酒癖と武家の主人の対応の話に主点が移されている。「鰻の幇間」や「つるつる」の主人公たちのわびしさ、「干物箱」の善公、「愛宕山」の一八、「明烏」の遊治郎ご両人、その他いずれの登場人物たちも前代のそれより陰影が濃くなっている。それはただワザの練達だけではない。

 権力機構からはずれた庶民、特に街の底辺に下積みで暮らさざるを得ない下層庶民の口惜しさ、切なさが、どの演目にもみなぎっている。その切なさの極が形式に昇華されて笑いになっている。「厩火事」のおしまいのちょっとしか出てこない髪結いの亭主だって、その影を話の上に大きく落としている。


 文楽の落語はいつも(女性が大役で出てきても)男の(彼自身)呟きだ。それが文楽の命題であったろう。
 
 そういえば志ん生の落語も男の語りである。ひと口に個性といっても、彼の個性は庶民のはずれ者に共通する広がりがある。落語は代々こうした男たちの呟きが形式化されたものなのであろうが、文楽と志ん生は、大正から昭和にかけてこうした男たちの代弁者になった。特に文楽は、命題に沿って意識的にアングルを変え、ディテールを変えている。古典落語と綱引をやるように互いに引っ張り合い、膂力で自分の命題の方に引き寄せてしまった。そうして結果的に古典落語を衰亡から守った。そこがすごい。

 落語はジャズに似ている。特に古典はジャズにおけるスタンダードのようなものか。もはや原曲のままでは通用しない。同じ材料から、各人各様の命題により、或いは個性により、独特の旋律を生みだす。それが、なによりも古典落語というものである。

 文楽は、演目がすくなかった。本質的には不器用の人ともいわれた。そうして、絢爛たるワザの人ともいわれている。もちろん、すばらしい表現力に感嘆するけれども、その手前に、古い話をどうやって自分の命題に沿った形に造り直すかという問題があったはずである。私はむしろ、その点が演目のすくない理由だったと思う。自分の命題に沿えない話は演じない。そのうえ、ジャズがあくまでジャズであるように、あくまで古典落語として造り直すのである。

 いったん造り直した落語を、形式的に昇華するまで練る。これにも時間がかかったろう。そうしてそんな命題を表面にはケも見せない。

 ワザだけの伝承者ならば、才のある人はまだ他にもい居る。いったん命題化し、それに沿って形象化するというむずかしい作業をやっている落語家が他に居るだろうか。不器用といわれ、たしかに時間がかかり、苦闘もしてけれど、それは当然のことではあるまいか。

 たとえば円生は、芸界の家に生まれ、芸に生きることを当然として育った。円生の芸は、芸の道を本筋として考える人の芸だったと思う。文楽や志ん生は、ただの庶民の子で、自分流の生き方をつかむまでじたばたし、手探りで芸の道に来た。せんかたないことながらそこがちがう。彼らはもともと特殊人ではなくて、普通人のはずれ者なのである。この点、当代の志ん朝と談志にはめると、どんなことがいえるだろうか。

『寄席放浪記』色川武大(河出文庫)p51〜54。


2010年7月24日 (土)

落語のフレーズ。その魅力とは?

■いろいろと、うまくいかない日々は続いている。
ストレスフルな毎日だ。


こういう場合、たいていみな「不眠症」に悩まされることになるのだが、
幸いなことに、ぼくには「その悩み」がない。


だから、こういう場合の常套手段であるところの「入眠導入剤」や本格的な「睡眠薬」のお世話になったことがない。


その代わり常用しているのが、八代目三笑亭可楽の落語CDだ(七代目じゃなくて八代目でしたスミマセン)。
もう効果絶大。さっきまで、あれやこれや細かいことに気を病んで後悔ばかりしてたのに、例えば、三笑亭可楽の夏の定番「たちきり線香」をポータブル・DVDプレーヤーで流せば、前半1/3 くらい聞いたところで、いつも意識がなくなってしまう。つまり、寝てしまうのですね。


だから、八代目三笑亭可楽の落語CDで、最後までちゃんと聴いて憶えているものは案外少ないかも。ごめんなさい。たしか、あの堀井憲一郎氏も寝る前に「子守歌」代わりに三笑亭可楽の「らくだ」をかけていると言ってたぞ。だから、堀井氏も、可楽の「らくだ」を仕舞までちゃんと聴いたことがないのだ。


これは、よく聞く話だが、上手い噺家の落語を聞いているうちに、なんだか心地よくなってきて、知らず知らずと寝てしまった、なんてことがよくあるらしい。


実際、8代目三笑亭可楽の落語は、聴いていて実に心地よいのだ。
リズム、テンポ。そして、お決まりの「フレーズ」。


人間、あまりにリラックスすると、寝てしまうのだね。


■お決まりの「フレーズ」と言えば、小さな子供たちが「同じ絵本」を何度でも繰り返し読んでもらいたがるのは、お気に入りの場面、お気に入りのフレーズが「その絵本」の中にあるからだ。長谷川摂子さんの講演会で聴いた話だが、長谷川さんが年少児に『どろにんぎょう』内田 莉莎子・著、井上洋介・絵(福音館書店)を何度も読んであげていて、子供たちは、物語の後半にヤギの角で「どろにんぎょう」のおなかが「ぱ〜ん!」て割れる場面がくるのをじっと待っているのだそうだ。そして、長谷川さんといっしょになって、大きな声で「ぱ〜ん!」と言って、とても満足そうな顔をするという。


ぼくはこの話を聴いて、落語も同じだなぁと思った。
同じ噺を何回聴いても、落語は面白い。飽きることがない。
桂文楽の「区役所〜ぉ!」が有名だが、落語も「フレーズ」で聴かせる芸なんじゃないかな。
そんなことを思ったのでした。

2010年7月19日 (月)

今月のこの一曲 「Hide and Seek」 by Imogen Heap

■この、アントワン・デュフォールの最新CDは、ある種の「カヴァー曲集」となっている。オリジナル曲も、誰それにインスパイアーされて作った曲だと紹介されていた。で、このCDに収録された楽曲のうち、ひときわ異彩を放っているバラードがあった。それが「Hide and Seek」だ。


YouTube: Hide and Seek (Imogen Heap) Solo Guitar by Antoine Dufour

彼はCDライナーノートの中で「この曲」をこう紹介している。

7. "Hide and Seek" Song by Imogen Heap. She's a Huge influence on my Music. Lately and is such an Amazing Composer. "Hide and Seek" is One-of-A-Kind. There's Nothing's like it. This Song is Pretty Deep and Intense. With a very Unique Sound.

220719 ■ところで、"Hide and Seek" とは「かくれんぼ」のことだ。つい最近知ったことだが、日本のかくれんぼとイギリス(ほか海外)の「かくれんぼ」はルールが違うらしい。外国の「かくれんぼ」では、隠れるのは「一人きり」で、残り全員が「おに」になるのだという。こっちの方が怖いんじゃないか。何か、ゾンビか吸血鬼に追われるみたいで。 ■この、イモージェン・ヒープという女性をぜんぜん知らなかったのだが、あのジェフ・ベックがプッシュしている英国の新人らしい。エフェクターを駆使して、多重録音「ひとりアカペラ」で歌った「この曲」は凄いぞ! 歌詞がなんだか全く理解できない。癒し系と勘違いしている人も多いみたいだが、かなり「刺々しい単語」が連なって、繊細で孤独ですっごく内省的な曲だと思うぞ。歌詞が載った YouTube がこれだ。


YouTube: Imogen Heap - Hide and Seek (With Lyrics)

イモージェン・ヒープが、ライヴで歌ったヴァージョンもいいね。 "


YouTube: Imogen Heap - "Hide And Seek"

同じライヴで歌った「この曲」も凄いな。


YouTube: Imogen Heap - "Just For Now"

■この「Hide and Seek」は、スコアーが出版されているみたいで、合唱グループがアカペラでいろいろとコーラスしている。


YouTube: Achordants - Hide and Seek

2010年7月15日 (木)

『ヤノマミ』国分拓(NHK出版) その2

■医師会の仕事が忙しくて、更新せずにそのままになっていたのだが、ずっと気にはなっていた。

医院の方はこのとこころ暇で患者さんが少ないから、昨日も午前11時半前には待合室に誰もいなくなったので、自宅リビングに戻って水出しアイスコーヒーを飲みながらテレビを付ける。チャンネルが、何故かCSになっていて、画像にに映し出されたのは、日本映画専門チャンネルで放送中の『台風クラブ』相米慎二監督作品だった。

封切り当時から、相米監督の最高傑作と言われながら、ぼくは今日まで「この映画」を観たことがなかった。でも、ふとオンしたチャンネルから映し出されたこの「映画」に吸い込まれるように、ぼくは思わず見入ってしまったのだ。なるほど傑作だ。映像にとてつもなく勢いがある。

映画はすでに終盤に達していた。台風が通過するという、中学生たちの「非日常」の興奮が、見事にフイルムに焼きつけられていたな。相米監督の不自然な「長まわし」が、いつもはすっごく気になるのに、この映画では全く気にならないのだ。もう一度最初からちゃんと見てみよう『台風クラブ』。


■ところで、NHKのドキュメンタリー映像「ヤノマミ」を見ただけでは、全くわからなかったことが、「この本」にはいっぱい書かれている。そのことが、すっごく重要だと思う。

1)この番組のディレクター、国分拓氏が、帰国後に嘔吐や下痢、夜尿症などの心身不調に長らく悩まされたこと。(ある種のカルチャー・ショックのためか?)


2)取材したヤノマミの集落では、当たり前のように「嬰児殺し」が実の母親の手(足)によってなされているが、重要なことがテレビカメラからは全く伝わってこなかった。というのは、他の集落に比べて、NHKが取材したこの集落での「嬰児殺し率」が際だって高いこと(本書にはその記載がある。197ページ)は、テレビ番組では全く触れられなかったからだ。

たぶん、以前は「嬰児殺し」の必要性はそうはなかったのではないか。でも、村の近くにブラジル政府が支援する「保健所」ができて、生まれた子供たちには必要な予防接種が全て行われるようになった。その結果、それまでは早死にしていた子供たちが生き延びる確率が飛躍的に伸びてしまったのだ。だから、文明人が介入する以前には、何も「人為的な作為」は必要なく、子供たちを育てることができた「ヤノマミ」だったのに、集団生活を行う仲間たちの生活を守るためには、新たに「人為的な作為」を「正しいこと」として、彼らの文化に組み込まれていったに違いないのだ。

そのことを思うと、ぼくは何とも複雑な気持ちになってしまう。


3)国分氏が滞在した集落ワトリキの酋長(村長)は、シャボリ・バタという老人だ。皆から尊敬されている偉大なるシャーマン。彼は30年以上も前からわれわれの文明と既に接触しているのだが、他のヤマノミと違って便利で楽な文明の力に溺れることなく、家族や仲間たちを率いて1万年以上前から続く伝統的な彼らの生活・文化を守り続けてきた。

ワトリキ集落の精神的支えであるシャボリ・バタが死んだとき、扇の要が外れたように皆バラバラになってしまうのではないか。そう国分氏は危惧していた。はたして、いま現在のワトリキ集落はどうなっているのだろうか?

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