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2015年4月26日 (日)

再読『風の歌を聴け』村上春樹(講談社文庫)

■村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』を読んだ。33年ぶりか。

どんな話だったのか、ぜんぜん憶えていなかった。

そういうものだ。

    ☆

どうして再読したのかって?

きっかけは、「ドーナツ」だ。

    ☆

『なんたってドーナツ』早川茉莉・編(ちくま文庫)第三章、167ページ。千早茜「解けない景色」というエッセイの中に、印象的なドーナツのシーンが出てくる。

    ☆

高校生の頃の彼女(千早茜さん)は非常に偏屈だった。だって、

読書においては「死んだ人しか読まない」というポリシーを貫いて純文学ばかり読んでいた(『なんたってドーナツ』172ページ)

からだ。

『風の歌を聴け』p22にも、鼠と僕との「こんな会話」がある。

    ☆

「何故本ばかり読む?」(中略)

「フローベルがもう死んじまった人間だからさ。」

「生きている作家の本は読まない?」

「生きてる作家になんてなんの価値もないよ。」

「何故?」

「死んだ人間に対しては大抵のことが許せそうな気がするんだな」

    ☆

不思議なシンクロニシティだ。

死んだ作家の文学しか読まない彼女が、どうして生きている村上春樹の文章と出会ったのか?

 ドーナツと聞くと、私はその景色をありありと思いだすことができる。正しくは私の頭の中の景色なのだが。私自身はその時、予備校の白く無機質な教室で模擬試験を受けていた。

 マークシート形式の国語の試験で、現代文の評論を終え、小説の項目を読んでいる時だった。(中略)

 その小説はさらりとしていた。

 幼い頃の主人公がカウンセラーの元に連れていかれる。主人公は応接室に通され、そこで出された二個のドーナツのうちひとつを、膝に砂糖をこぼさぬように注意しながら半分食べ、オレンジジュースを飲み干す。そして、カウンセラーと対話する。それだけの話だった。

 私はすらすらとそれを読み終え、問題文に向かい、愕然とした。

 答がなかった。

 五つの選択肢を指でなぞりながらもう一度読んだ。やはり、その中に答はなかった。

 そんなはずはない、おちつけ。自分にそう言い聞かせ、とりあえず小説は後回しにして古文と漢文を先に解くことにした。(中略)

 深呼吸して小説に戻り、本文を読み直した。

 そこで、はじめて私はその文章が今まで自分が読んだことのないタイプの文章であることに気付いた。文字で書かれていないことが頭の中に残っていた。シンプルなのに含みがあり、不可解な気配がある。それを振り払い、問題文に向かおうとするのだが、どうしても蘇ってくる。

 国語の解答というものは文脈にないことを書いてはいけない。それが基本中の基本であることはわかっていた。答の選択肢の中に、恐らく正解であろうものを見つけることもできた。けれど、私はどうしてもその円を塗りつぶすことができなかった。

この物語の答は文脈の中ではなくて、文と文との間の書かれていないところにあって、私にはそれをうまく言葉にすることができない。これは、そういう文章なのだ。。そう思った。

 結局、私は白紙で提出した、講師が驚いた顔で「どうした」と言った。

「この選択肢の中に答はありません」

 そう私は答え、講師は「おいおい」と困った顔で笑った。

 大学に入り、本の話ができる友人ができた。ある日、赤と緑の表紙の本を勧められた。ぱらぱらとめくり、息が止まりそうになった。あの試験の文章にそっくりだった。気付けば「この人、誰?」と大きな声で尋ねていた。私は「死んだ人しか読まない」というルールを止め、その作者の本を片端から読んだ。

 あの時の文章はすぐに見つかった。『風の歌を聴け』という本の一節で、今でも時々読み返す。

 私の中にあの景色は色濃く残っていて、壁時計のこちこちいう音も、少し開いた窓から入ってくる潮風の肌触りも、白い皿の上にこぼれたドーナツの黄色い欠片もありありと浮かぶのに、やはり、文章には書かれていない。問題文で問われていた主人公の気持ちも書かれてはいない。

それらはすべて読んだ人それぞれの心の中にある。小説というものに答えなどないのだということを、私ははじめて実感した。(ちくま文庫『なんたってドーナツ』千早茜「解けない景色」p171〜p174

■ところで、村上春樹と言えば「ドーナツ・ホール・パラドックス」問題である。

ドーナツの穴を空白として捉えるか、あるいは存在として捉えるかはあくまで形而上学的な問題であって、それでドーナツの味が少しなりとも変るわけではないのだ。

『羊をめぐる冒険(上)』111ページ

ただ、「ドーナツの穴」問題の初出は『羊をめぐる冒険』ではなくて、この「スヌーピーのゲッツ」のラーナーノーツ。以前にも何度かリンクさせてもらった。

   ☆

■村上春樹がこだわる「ドーナツの穴」の意味とは?

その答えを明解に解説してくれるのは、やっぱり内田樹センセイだ。『もういちど村上春樹にご用心』(文春文庫)34〜37ページ「トラウマとその『総括』」には、こんなふうに書いてある。

   ☆

作家はどこかで一回、自分のことをまじめに書き切るということが重要みたいです。とことん書き切ることで、そして、それでは「書けない」ことがあるということを思い知って、そうして、ようやく自分自身に取り憑いていた文体上の定型から解き放たれる。

 村上さんの場合、『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』の初期三部作は同じテーマをめぐっています。実際にそういう出来事があったかどうかは別にして、村上さんの個人史に即したトラウマ的経験をめぐって小説が書かれている。(中略)

「トラウマ」が問題なのは、傷口が痛むということよりも、その外傷的経験については「語ることができない」という不能そのものが、人格の骨格をなしているということです。奇妙なことですが、私たちが他人がどんな人間であるかを判断するのは、その人がぺらぺらしゃべることによってではなく、その人が何については語らないか、どのような話題を神経症的に忌避するかなのです。(中略)「トラウマ的経験」とはそのことです。(中略)

でも、作家がローカルな読者圏で「愛される作家」であり続けることを諦めて、「世界」に出て行くためには、いつかはトラウマから離脱しなければならない。(中略)

トラウマというのは「虚空」のようなものです。それは「私はそれをうまく言語化することができない」という不能の様態でしか存立しない。さらさらと言語化できるようなら、そんなものは「トラウマ」とは言われません。

 だから、「トラウマについて言い切る」と言っても、それは「私は実はこのような経験を抑圧していたのでした」というカミングアウトをすることではありません。私たちにできるのは、ある種の欠落や欠如について、取り返しのつかない仕方で何かを喪失し、深く損なわれた私について語ることだけです。

それは「ドーナツの穴」について語ることに似ています。「ドーナツの穴」そのものを直接に「これ」と名指すことはできません。まずドーナツを作って、それを食べてみなければ、「ドーナツの穴」の「味」や機能について理解することはできない。トラウマ的な経験について物語るというのは、「ドーナツの穴を含んだドーナツを作る」作業に似ています。

内田センセイの凄いところは、作家自身が発言するずっと以前の段階で、まったく同じことをすでに代弁してしまっていることだ。例えば、同じ『もういちど村上春樹にご用心』(文春文庫)30ページ。

僕が村上春樹の作家的スケールの大きさに気がついたのは『羊をめぐる冒険』を読んだときです。あの小説には、ご飯を作って食べるシーンと家の中を掃除しているシーンが妙に多いでしょう。それが印象的でした。そんな文学作品て、あまりないから。

 でも、村上作品の中では、ご飯を作ったり、お掃除をしたり、アイロンをかけたりという行為は非常に重要な役割を果たしている。それは生きる上での基本ができていないと、美味しいご飯を作ったり、ていねいにお掃除をしたりすることはできない、ということを村上さんは経験的に確信しているからだと思います。

このことに関連して、村上春樹氏は共同通信のインタビュアーからの質問に答えてこう言っている。

   ☆

 ◇羅針盤

 −−そんな中で、今、村上春樹作品が世界中で読まれているわけです。

 村上 僕の小説はある意味では「ロジックの拡散」という現象に併走しているんじゃないかと思う。僕は小説を書くにあたって意識上の世界よりも意識下の世界を重視しています。意識上の世界はロジックの世界。僕が追究しているのはロジックの地下にある世界なんです。

 −−その作品の特徴は?

 村上 ロジックという枠を外してしまうと、何が善で、何が悪かがだんだん規定できなくなる。善悪が固定された価値観からしたらある種の危険性を感じるかもしれないですが、そのような善悪を簡単に規定できない世界を乗り越えていくことが大切なのです。でもそれには自分の無意識の中にある羅針盤を信じるしかないんです。

 −−村上さんの物語はその闇のような世界から必ず開かれた世界に抜け出てきます。その善い方向を示す羅針盤はどこから生まれてくるのですか?

 村上 体を鍛えて健康にいいものを食べ、深酒をせずに早寝早起きする。これが意外と効きます。一言でいえば日常を丁寧に生きることです。すごく単純ですが。

■それから、39ページには、こんなことが書いてある。

札幌の街のことを書こうと思っても(ギリシャの孤島ではどうしようもないから)手元には何の資料もない。そうすると、自分の頭の中にある記憶のストックから引き出して書くしかない。でも、この「自分の頭の中にある記憶のストック」から情報を引き出すしかないという状況ほど人間の脳が活性化することって、実はないんです。(中略)

 きっと村上さんは、作家的成熟のどこかの段階でそれに気付いたんだと思います。自分の記憶の中には巨大な「アーカイブ」がある。

そうして、季刊誌『MONKEY vol.4』に連載されている、村上春樹私的講演録『職業としての小説家』第4回「さて、何を書けばいいのか?」を読むと、「小説家になろうという人にとって重要なのは、とりあえず本をたくさん読むことでしょう」という文章に続いて、こんなふうに言っている。

 その次に ---おそらく実際に手を動かして文章を書くより先に---来るのは、自分が目にする事物や事象を、とにかく子細に観察する習慣をつけることじゃないでしょうか。まわりにいる人々や、周囲で起こるいろんなものごとを何はともあれ丁寧に、注意深く観察する。

そしてそれについてあれこれ考えをめぐらせる。しかし「考えをめぐらせる」といっても、ものごとの是非や価値について早急に判断を下す必要はありません。結論みたいなものはできるだけ保留し、先送りするように心がけます。

大事なのは明瞭な結論を出すことではなく、そのものごとのありようを、素材=マテリアルとして、なるたけ現状に近い形で頭にありありと留めておくことです。(中略)

 多くの場合、僕が進んで記憶に留めるのは、ある事実の(ある人物の、ある事象の)興味深いいくつかの細部です。全体をそっくりそのまま記憶するのはむずかしいから(というか、記憶したところでたぶんすぐに忘れてしまうから)、そこにある個別の具体的なディテールをいくつか抜き出し、それを思い出しやすいかたちで頭に保管しておくように心がけます。(中略)

 いずれにせよ、小説を書くときに重宝するのは、そういう具体的細部の豊富なコレクションです。僕の経験から言って、スマートでコンパクトな判断や、ロジカルな結論づけみたいなものは、小説を書く人間にとってそんなに役には立ちません。むしろ足を引っ張り、物語の自然な流れを阻害することが少なくありません。

ところが脳内キャビネットに保管しておいた様々な未整理のディテールを、必要に応じて小説の中にそのまま組み入れていくと、そこにある物語が自分でも驚くくらいナチュラルに、生き生きしてきます。(p169〜p174)

   ☆

   ☆

この項、もう少し続く予定。

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