絵本 Feed

2012年2月15日 (水)

『えをかく』谷川俊太郎、長新太 +湯浅学

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■『音楽が降りてくる』湯浅学(河出書房新社)が面白い。もったいないから、少しずつ少しずつ読んでいる。ちょうど、小西康陽のコラム本を読むような感じでね。で、先日ふと 177ページを開いて「かこうと思えば 長新太」を読んでみたのだ。いや、たまげた。音楽評論家の手による「絵本評論」というものを生まれて初めて読んだのだが、鋭すぎるぞ! 絵本関係者による「長新太論」はずいぶん読んできたけれど、こんな切り口、文章の組立方があったとは。ほんと驚きましたよ。(以下抜粋)


 毎晩寝るときに娘に本を読んで聞かせていた。娘が生まれるずっと前、所帯を持つ前から俺の本棚には長さんの本がたくさんあった。

今でもたくさんあり、その数は増え続けている。長女は長さんの本が好きである。『ゴムあたまポンたろう』は連続20夜読んだ後、二日おいてさらに10夜、その後も断続的に何回も何回もリクエストされた。

『つきよのかいじゅう』で長女は三歳のとき、シンクロナイズド・スイミングを知った。本の背がはがれてからも「ボコボコボコボコ ボコボコボン」と読まされた。

『おばけのいちにち』も『ちへいせんのみえるところ』も『わたし』も『おなら』も『やぶかのはなし』も読んだ。四年間、長さんの本を読まない日はなかった。

その中に『えをかく』があった。



娘は谷川俊太郎も好きだ。『これはあっこちゃん』を読んで俺がクタクタになる様を見て大よろこびし、「じゃあ次、『えをかく』」というオーダーは、音読という修行であった。本を開いて、

「まずはじめに、じめんをかく」

 と声に出してみると、いつでも、ねっころがって読んでいるにもかかわらず、背筋がしゃんと伸びた。読み進みながら、音読の速度は増した。リズムがいいとか、のりが快調とか、そういうのとはちょっとちがった。音楽でいうグルーヴというものではなく、言葉と絵に、自分で発している音が加わって、ぐにゃぐにゃどたどたすいすいと動き出して止まらなくなってしまう。目の前に風景が広がるのではなく、次々に登場するものが日によってまったく異なった動きで重なり合ったり、ポコッポコッと浮かび上がってはあたりに漂っていったりする

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 長さんの『えをかく』の絵は少しずつ、くぐもった発色になっていて、線のにじみが他の作品には見られない調子になっている。見開きごとに関連性のあるものが描かれているが、すべてがひとつの連鎖の中にある。

『えをかく』は、もともと一編の詩として、今江祥智さんの編集する<児童文学1973 / 1>に発表されました。それを絵本にしようと、いじわるなことを考えたのも今江さんですが、長さんは一言半句たがえず、詩のとおりに『えをかく』というはなれわざで、みごと難問に答えてくれました。(『えをかく』復刻版あとがき)

 と谷川俊太郎さんは記している。

 たとえば、長さんは「かぜをかく くもをかく くものかげを」かいてしまう。「かばもかく」がそのかばは薄い灰色の丸いにじみだ。このあっさりとした灰色のシミは、あまりにもあまりにもそこはかとなくかばなのだ。ああああシミジミと、かば。

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シミがシミジミしているのはあたりまえじゃないの、ばか。とおっしゃるかもしれませんが、その次の次のページを見てみなさいよ、あなた。 「めにみえない たくさんの プランクトンをかく」んですよ。かいてしまうんですよ長さんは。こんなにシミジミとしたプランクトンは、この世でもあの世でも長さんにしか、かけません。


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 ページの右の端に、薄い灰色と黄色いシミが点々とある、めにみえない、たくさんのプランクトン。その次に長さんは、ゆき、こおり、しも、ゆうだち、さみだれ、てんきあめ、ひさめ、はるさめ、おおあらし、それらをすべてかく。かいてしまっている。

 最初にこの本を読んだとき(二十七年前)は黙読だった。読んで聞かせる相手が俺にはいなかった。長さんはすごいなあ、と思った。子どもが生まれて、声に出して読みながら絵を見つめていたら

「ゆうべのゆめをかく しにかけた おとこ もぎとられた うで ながれつづける ちと くさりはじめた にくをかく つむられた めと かわいた なみだをかく」のあたりでだんだん胸がどきどきしてきて、「しわくちゃの おばあさんをかく いっぽんいっぽん しわをか」かれたおばあさんの上に四角いワクの中に「なまえ」と描いてあるのを見ながら「それから えのどこかに じぶんのなまえをかく」と読み上げるころには目が涙でいっぱいになっていた。

「そして もういちまい しろいかみを めのまえにおく」

 と最後のページを読みながら俺は泣いた。最後の最後で再び、

「まずはじめに じめんをかく」

 と読み終えて、俺は流れ落ちる鼻水を止めることができなかった。言葉と絵に乗せて俺の中の過去が渦を巻き、粒になって飛び散っていった。娘に知られぬよう素早く鼻をかみ、涙をぬぐった。


『長新太 こどものくにのあなきすと』(KAWADE道の手帖・河出書房新社)
 p152〜153「かこうと思えば」湯浅学 より抜粋。

(俺、この本持ってたのに、湯浅氏の文章を読んでなかったのだ。失敗失敗。)
『音楽が降りてくる』湯浅学・著(河出書房新社)p177〜183に再録


2012年1月22日 (日)

伊那のパパズ絵本ライヴ(その87)飯島町「七久保保育園」

■今日は、上伊那郡飯島町「七久保保育園」の日曜参観日で、われわれ「伊那のパパズ」が呼ばれた。午前9時45分開演。早いな。ということは、わが家を8時半過ぎには出ないと間に合わない。でも、いろいろあってバタバタしながら自宅を後にしたのは 8時40分。ぶんぶん飛ばして 9時20分前になんとか到着。でも、入口が分からない、あちゃ。


■開演にはなんとか間に合ったよ。よかったよかった。

思ったよりも大きくてきれいな保育園。70数名の園児とその親御さん(おとうさんがいっぱい!)が150人近く集まってくれた。


<本日のメニュー>

1)『はじめまして』新沢としひこ・大和田 美鈴 (鈴木出版)

2)『コッケモーモー』徳間書店 (2001/11) →伊東

3)『あなのなか』森あさ子(岩崎書店) →北原

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倉科パパが、新しく購入したばかりの「スマホ」で、写真をを撮って送ってくれたのだ。


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4)『かえるをのんだととさん』日野 十成著、斎藤 隆夫絵(福音館書店) →坂本


5)『かごからとびだした』(アリス館)

6)『へんしんトイレ』あきやまただし(金の星社) →宮脇

7)『じごくのそうべえ』田島征彦・作(童心社) →倉科

8)『ふうせん』(アリス館)
9)『世界中のこどもたちが』(ポプラ社)

10) 『パンツのはきかた』岸田今日子・作、佐野洋子・絵(福音館書店) →アンコール。



2012年1月 2日 (月)

『なずな』堀江敏幸(集英社)を読んでいる

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■年末から『なずな』堀江敏幸(集英社)を読んでいたら、124ページ、142ページに思いがけず僕の大好きな絵本のことがでてきた。うれしいじゃないか。


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このマンロー・リーフの『おっとあぶない』『けんこうだいいち』渡辺茂男・訳は、最初は学研から出ていて、ぼくもブックオフで見つけて購入したのだが、確かに「白い表紙」の絵本だった。先ほど、この絵本が置いているはずの待合室の本棚を探したのだが、どうしても見つからないので、しかたなく、フェリシモから復刻されたほうの絵本を写真に撮りました。


でも、絵本作家マンロー・リーフといえば、花の好きな牛「ふぇるじなんど」が主人公の『はなのすきなうし』(岩波子どもの本)でしょう。もしかして、このあと小説に出てくるのかな?


ところで、あまり注目されていないのが不思議なのだが、この『なずな』の装丁は、なんと著者の堀江敏幸さんなのだ。クレヨンで子供がいたずら書きしたみたいな感じなのだが、すっごくいい。


この「著者自装」って、案外ありそうでいてそうはない。


ぼくが知っているのは、村上春樹『ノルウェーの森』(上・下巻)ぐらいかな。


■この小説『なずな』は、読みだしていきなり事件で始まる。状況が判らない読者はええっ?とビックリする。というのも、40代半ばの独身中年男が、ある日突然、生後2ヵ月半の乳児(女の子。名前は「なずな」)を一人で預かって育てるはめに陥るのだ。つまり、今で言うところの「イクメン」小説なのですね。


主人公が、どうして「そういう」境遇に陥ったのかは、読み進むうちに少しずつ少しずつ明かされてゆく。


現役小児科医が読者として読みながら注目した点は、ヒロイン「なずな」の年齢を、2ヵ月半に設定したことだと思う。これは絶妙だな。生まれて1ヵ月以内の赤ちゃんは、正直いって人間というようりも「うんち、おしっこ、おっぱい、ねる、泣く」を繰り返す動物だ。しかも、天上天下唯我独尊の世界で、おっぱいを与えるお母さんは、ほとんど一方的に奉仕させられるだけの召使いみたいなものだ。


でも、首がすわって、3〜4ヵ月健診に来る頃の赤ちゃんは全然ちがう。「母と子」の関係性が出来上がっていて、親子の愛着の絆の基礎がすでに出来上がっているのだ。


それまでの中間点である「2ヵ月半」というのは、微妙な月例だ。体重は5〜6キロとどんどん大きくなるが、夜中も3〜4時間ごとにおなかを空かせて泣くし、まだまだ新生児に近いんだけれど、母親の顔をじっと見つめて「にこっ」と笑ったりもする。つまりは、コミュニケーションの基礎である「応答」を求めているのだ。


■ところで、この主人公が暮らす地方都市「伊都川市」というのはたぶん、著者が生まれ育った岐阜県多治見市か、それとも中津川市のことだろうか。そうなると、高速道路から分岐する環状線とは、土岐ジャンクションから伸びる「東海環状自動車道」のことを指す。となると、インターチェンジ近くの巨大ショッピングモールとは、「土岐アウトレット」のことに違いない。


そうなると、風力発電の建設予定地はどこになるのか、いろいろと想像するのも楽しい小説だな。


読みながら感じることは、なんかとっても心地よいということだ。主人公を取り巻く人間関係が、なんかほのぼのとしていて暖かい。前に読んだ同じ著者の本『いつか王子駅で』(新潮文庫)と共通する懐かしさ、居心地のよさがある。悪人は誰一人登場しない。読みながら、そういう確信はある。


主人公と赤ちゃんを支える、小児科開業医も登場する。ジンゴロ先生だ。これまた愛すべきキャラに描かれていて、なんかうれしい。


2011年12月23日 (金)

『津波 TSUNAMI! 』キミコ・カジカワ再話、エド・ヤング絵(グランまま社)

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■長年お世話になっている「グランまま社」の田中尚人さんから、12月はじめに1冊の絵本が送られてきた。それがこの『津波 TSUNAMI! 』キミコ・カジカワ再話、エド・ヤング絵(グランまま社)だ。

ぼくは絵本の表紙とそのタイトルを見て、度肝を抜かれた。

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画家のエド・ヤングは中国系アメリカ人で、天津に生まれ上海で育った。今年は、同じく中華の血が流れる絵本作家、ショーン・タン(『アライバル』の著者)が注目を集めたが、絵本界におけるオリエンタリズムの本家は、何といってもこのエド・ヤングだ。


その卓越したセンスの画法が僕も大好きで、翻訳本が出ている『ロンポポ』と『七ひきのねずみ』は以前から持っていた。

だから、この絵本に「エド・ヤング」の名前を見つけてさらに「おおっ!」と思ったんだ。


上の写真を見ていただければ判るが、この本、かなりの大型の絵本だ。それには訳がある。作者には、このサイズがどうしても必要だったのだ。


このサイズで、さらに見開き一面となるとそうとうに大きい。しかも、全てが見開き一面の絵だ。まるで、映画館でワイドスクリーンを見ている感じ。エド・ヤングは様々な材質の色紙、写真、和紙などを切ってちぎって張って、コラージュのようにして画面を構成する。その圧倒的な迫力を、ぜひ本屋さんで実際にこの「絵本」を手にとって、実物大の絵をめくってみて欲しい。ほんとうに、ほんとうに凄いぞ。 特に、第10場面〜第12場面。


■こちらの「花のある風景(438)」を読むと、この時の地震と津波は、1854年12月23日に起こった安政東海南海大地震で、実際に和歌山であった話がもとになっているようだ。それを、小泉八雲が『生神様(A LIVING GOD)』という作品に残したのだ。


さらにそれを、キミコ・カジカワ(日本人の母とアメリカ人の父を持つアメリカ在住の作家)が、ある日の図書館で発見し感動して絵本用の原稿を書き上げる。絵はぜひエド・ヤングに描いて欲しいと、彼のもとに原稿を送ったのが「いま仕事がおしていて無理だし、あまり興味もないね」との冷たい返事が。それから10年経って、失望しすっかり諦めていた彼女のもとになんとエド・ヤングの「この絵」が届き、2009年2月、出版のはこびとなった。


そう、この絵本は 3.11 の「あの日」から2年も前にアメリカで出版されていたのだ。驚くべきことにね。


その翌年、日本での出版権を取った「グランまま社」の田中さんは悩んだ。そのあたりのことは「このインタビュー」に詳しい。


■なぜ、宮城県石巻市立「大川小学校」の子供たちに犠牲者が多かったのか?  「釜石の奇蹟」が、単なる奇蹟ではなく「必然的」だったのは、つね日頃どんな準備がなされていたからか?


人間は忘れやすいように出来ている。そうでないと、辛くて生きてゆけないから。


だからこそ、繰り返し繰り返し、しつこすぎるくらい日々繰り返し語り継ぐことが重要なのだな。しみじみそう思った。



2011年12月11日 (日)

伊那のパパズ絵本ライヴ(その86)箕輪町松島コミュニティセンター

■今日は午前10時半から、箕輪町松島コミュニティセンターにて「伊那のパパズ絵本ライヴ」。メンバーも5人全員がそろったよ。12月の絵本ライヴは、毎年恒例のクリスマス特別ヴァージョンだ。


  <本日のメニュー>

 1)『はじめまして』新沢としひこ(すずき出版)
 2)『でんせつの きょだいあんまんを はこべ』サトシン・作(講談社) →伊東

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 3)『たべてあげる』ふくべあきひろ文、おおのこうへい・絵(教育画劇)→北原
 4)『かごからとびだした』(アリス館)
 5)『やまあらしぼうやのクリスマス』ジョセフ・スレイト文(グランまま社)→倉科

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 6)『いろいろおんせん』増田裕子(そうえん社)

 7)『スモウマン』中川ひろたか・文、長谷川義史・絵(講談社)→宮脇

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 8)『メリークリスマスおおかみさん』宮西達也・作(女子パウロ会)→坂本

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 9)『ふうせん』(アリス館)
 10) 『世界中のこどもたちが』(ポプラ社)


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  左から、坂本    伊東    倉科     宮脇     北原。


              イイ写真だね!


■主催の、箕輪町こども未来課・支援センター 白鳥紀子さん、いつもいつも本当にありがとうございます。また呼んでくださいね(^^)

2011年12月 1日 (木)

木曽郡南木曽町の伝統防寒着「ねこ」

■どうも、木曽郡南木曾町で昔から冬場に着られている防寒着「ねこ」がブームらしい。

先だって、NHK長野ローカルのニュース(というのはどうも勘違いで、11月24日に放送された日テレ『秘密のケンミンSHOW』だったみたいだ。でないと、これほどの品切れ大騒動にはならないはずだし。)を見ていたら、何でも木曽で映画のロケに参加した俳優の役所広司さんが「ねこ」をいたく気に入って、50着だか100着だか注文して東京へのお土産にしたのだそうだ。


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ところで、その「ねこ」ってのは何かと言うと、「はんてん」と「チョッキ」との「あいのこ」みたいなもので、上記の写真のごとく、綿の軽い蒲団を背中に担いだ感じになる。でもこれが、本当に暖かいのだ。半天のボテっとした袖がないので邪魔にならず、しかも軽くて、ぜんぜん「蒲団」を背負っている感じがしない。とにかく、ぬくぬくとホント暖かいのです。


■で、この「ねこ」は何処に行ったら買えるかというと、ベルシャイン伊那店にあります。Lサイズが 2,980円、LLサイズで、3,280円と値段はけっこうします。でも、コストパフォーマンスは抜群! この冬一番の「おすすめ」ですぜ! 


しかし、ネットで見ると先日のテレビ放送以来の大人気で、生産が追いつかず、現在は入手困難の状態らしい。


■さて、昨日の水曜日の午後は、高遠第一保育園で内科健診。みんな元気でよかったよかった。


健診終了後は、園児全員がホールに集まってくれて、ぼくの「絵本タイム」。


<この日読んだ本>

1)『もけらもけら』山下洋輔・文、元永定正・絵(福音館書店)
2)『ちへいせんのみえるところ』長新太(ビリケン出版)
3)『さんにんサンタ』いとうひろし(絵本館)
4)『ウラパン・オコサ』谷川晃一(童心社)
5)『ラーメンちゃん』長谷川義史(絵本館)


■そうして、今日の午後は竜東保育園年長組の内科健診。やはりみんな元気。その後、年長組の部屋へ行って絵本を読ませていただく。

<この日読んだ本>

1)『もけらもけら』山下洋輔・文、元永定正・絵(福音館書店)
2)『ウラパン・オコサ』谷川晃一(童心社)
3)『子うさぎましろのお話』佐々木たづ・文(ポプラ社)
4)『ラーメンちゃん』長谷川義史(絵本館)


ぼくのトラウマ絵本『ウラパン・オコサ』を読んだ時には、ほんと驚いた!

子供たちって、スゴイね。


最初の説明だけで、瞬時に「その法則」を理解して、ぼくがリードしなくても勝手に数えて「オコサ・オコサ・オコサ・ウラパン」と大きな声で答えてくれなのだ。これにはビックリ!

2011年11月27日 (日)

『いまファンタジーにできること』グウィン(河出書房新社)

■昨日のつづきです。

先週の木曜日は、昼休み園医をしている竜東保育園に出向いて、年少組の内科健診。終了後、子供たちも保育士さんたちも、あっさりと健診終わりました、という雰囲気が漂う中で、ぼくは不自然にまだ園に残り、何となく去りがたそうな感じでいたら、仕方なく思ってくれたのか年配の保育士さんが「先生、もしかして絵本、読んでくれる時間あるんですか?」と言ってくれた。


そうそう、その一言を待っていたのだよ。


という訳で、午後3時のおやつを前に、3つある年少組の子供たちが全員、リズム室に集まってくれた。


<この日読んだ本>

1)『もけらもけら』山下洋輔・文、元永定正・絵(福音館書店)
2)『ちへいせんのみえるところ』長新太(ビリケン出版)
3)『ぼくのおじいちゃんのかお』天野祐吉、沼田早苗(福音館書店)
4)『なんでもパパといっしょだよ』フランク・アッシュ(評論社)
5)『ラーメンちゃん』長谷川義史(絵本館)


1)と2)は、子供たちに大受け!
5)のオヤジギャグは子供たちには全く受けず、保育士の先生方には大受けだったよ。

読み聞かせ終了後は、子供たちとハイタッチ!

■さて、いま僕は『ゲド戦記』(本は買ってあるのだが、実は未だ読んでないのです)の著者『いまファンタジーにできること』グウィン(河出書房新社)を読んでいるのだ。面白いなぁ、この本。


例えば、41ページ。『批評家たち、怪物たち、ファンタジーの紡ぎ手たち』の書き出しは、こうだ。


 ある時期、みんながわたしにしきりにこう言っていた。すばらしい本がある。絶対読むべきだ。魔法使いの学校の話で、すごく独創的だ。こういうのは今までなかった、と。


 初めてその言葉を聞いたときは、白状すると、わたし自身が書いた『影との戦い』を読めと言われているのだと思った。この本には魔法使いの学校のことが出てくる。そして、1969年の刊行以来、版を重ねている。だが、それはおめでたい勘違いで、ハリーについての話を延々と聞かされる羽目になった。


最初のうち、そういう経験はつらかった。いささか浅ましい羨望を感じた。けれど、ほどなく、さほど浅ましくはない、単純な驚きが大きくなった。書評家や批評家は、このローリングの本を、前例のない、独特の現象であるかのように語っていた。(中略)


 しかし、本について書くほどの人であれば、読むことについてもいくらかの経験を有しているはずではないのか。<ハリー・ポッター>の独創性を讃えた人々は、この作品が属している伝統にまったく無知であることをさらけだしたのだ。その伝統には、英国のサブジャンル、「学校もの」の伝統だけでなく、世界的な大きな伝統であるファンタジー文学の伝統も含まれる。

こんなにも多くの書評家や文芸評論家が、フィクションの大ジャンルについて、こんなにも知識が乏しく、素養がなく、比較の基準をほとんどもたないために、伝統を体現しているような作品、はっきり言えば紋切り型で、模倣的でさえある作品を、独創的な業績だと思い込む ---- どうしてそんなことになるのだろう? (p42)


それから、167ページ。『メッセージについてのメッセージ』にはこんなことが書いてある。



 子どもやティーンのためのフィクションの批評はたいていの場合、それらのフィクションがちょっとしたお説教を垂れるために存在するかのように書かれている。曰く、「成長することはつらいけれど、必ずやりとげられる」。曰く、「評判というのはあてにならないものだ」。曰く、「ドラッグは危険です」。

 物語の意味というのは、言語そのもの、読むにつれて物語が動いていく動きそのもの、言葉にできないような発見の驚きにあるのであって、ちっぽけな助言にあるのではない (p169)


 フィクションの書き手であるわたしは、メッセージを語ることはしない。わたしは「物語」を語る。(p170)


 フィクションは意味がないとか、役に立たないとか言いたいのではない。とんでもないことだ。わたしの考えでは。物語ることは、意味を獲得するための道具として、わたしたちがもっているものの中でもっとも有効な道具のひとつだ。物語を語ることは、わたしたちは何者なのかを問い、答えることによってわたしたちのコミュニティーをまとまらせるのに役立つ。

また、それは、わたしは何者なのか、人生はわたしに何を求め、わたしはどういうふうに応えられるのかという問いの答を知るのに、個人がもつ最強の道具のひとつだ。(p171)


 理解や知覚や感情という点でその物語からあなたが何を得るかは、部分的にはわたし次第だ。というのは、その物語は、わたしが情熱をこめて書いた、わたしにとって重要な意味を持つものだから(物語を語り終わって初めて、何の話だったかわかるにしても)。

けれども、それは読者であるあなた次第でもある。読書もまた、情熱をこめておこなう行為だ。ダンスを踊ったり、音楽を聴いたりするときと同じように、物語を頭だけでなく、心と体と魂で読むならば、その物語はあなたの物語になる。

そしてそれは、どんなメッセージよりもはるかに豊かなものを意味するだろう。それはあなたに美を提供するだろう。あなたに苦痛を経験させるだろう。自由を指し示すだろう。読み直すたびに、違うものを意味するだろう。


 小説そのほか、子どもたちのために真剣に書いたものを、書評家に、砂糖衣をまぶしたお説教のように扱われると、悲しみと憤りを覚える。もちろん、子どものために書かれた道徳的教育的な本はたくさんあり、そういうものならそういうふうに論じても失うものはない。

しかし、子どものために書かれた本物の文学作品、たとえば『なぜなぜ物語』の「ゾウの鼻はなぜ長い」や『ホビットの冒険』を芸術作品として扱わず、単に考えを運ぶ乗り物として教えたり、評したりするならば、それは重大な誤りだ。芸術はわたしたちを解放する。そして言葉の芸術は、わたしたちを言葉で言えるすべてを超えた高みに連れていくことができる。(p173〜p174)


2011年11月13日 (日)

伊那のパパズ絵本ライヴ(その85)山梨県甲府市立図書館

■息づまる「日本シリーズ」第2戦をずっと見ていたので、アップが遅くなってしまいました。それにしても、熱烈な中日ファンだって(いや、ファンこそ)あの超強力打線のソフトバンク相手に、しかも敵地で、まさか2連勝するとは思ってなかったよなぁ。


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■今日は、久々に県外での「伊那のパパズ」。甲府市立図書館で僕らを呼んでくださったのだ。ありがたいねぇ。ところが、われわれ伊那のパパズメンバー5人のうち、坂本さんは会議で東京に行ってて欠席。伊東パパは文科省から直に来る研究授業の準備に追われていて残念ながらの欠席。というワケで、今日は宮脇、北原、倉科の3人での「絵本ライブ」となった。


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<本日のメニュー>

1)『はじめまして』(すずき出版)

2)『もけらもけら』山下洋輔・文、元永定正・絵(福音館書店) → 北原
3)『ながいいぬのかいかた』 矢玉四郎(ポプラ社) → 宮脇
4)『山んばあさんむじな』いとうじゅんいち(徳間書店) → 倉科

5)『かごからとびだした』(アリス館)

6)『どうぶつサーカスはじまるよ』西村敏雄・作(福音館書店) → 北原
7)『へんしんマンザイ』あきやまただし・作(金の星社) → 宮脇
8)『さつまのおいも』中川ひろたか・文、村上康成・絵(童心社) → 倉科

9)『ふうせん』(アリス館)
10)『世界中のこどもたちが』(ポプラ社)


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甲府市立図書館の白木さん、輿水さん。たくさんお土産まで頂戴してしまって、本当にありがとうございました。


■それにしても、終演後に見に来てくれた親子づれの方から「いっしょに写真を撮らせてください」とのリクエストがあるとは思わなかったな。なんか有名人にでもなった気分。初めての経験だよ。あと、『小児科医が見つけた えほんエホン絵本』を持参された、長年地元甲府で絵本の読み聞かせ活動をされてきたベテランの近藤さんから「ご著書にサインを」とリクエスト。いやぁ、まいったなぁ。共著ではあるけれど、下手な字で大きくサインさせていただきました。ほんと、ありがとうございました。


2011年10月30日 (日)

伊那のパパズ絵本ライヴ(その84)箕輪町上古田保育園

■今日は、箕輪町上古田保育園の父親参観での「伊那のパパズ絵本ライヴ」。

上古田地区は天竜川から見て西の端に位置し、中央アルプス山麓に広がる「赤そばの里」で有名なところだ。午前10時現地集合ということだったので、ぼくはちょいと早めに家を出た。車に荷物を積んでエンジンをかけ、ナビに「箕輪町おごち保育園」を登録。


あれ? 実はすっかり勘違いしていて、今日行くのは「おごち保育園」だと勝手に思い込んでいたのだ。同じ箕輪町にある保育園だが、場所は天竜川を挟んで東と西で極端に離れている。


午前10時前、ゴールのずいぶん手前で「目的地周辺です。気をつけて御走行下さい」とナビが言ったきり黙ってしまったので、結局は道を何回か間違えたすえ、ようやく「おごち保育園」に到着。でも、やけに静かだ。車が一台も停まっていないぞ。なんか変だな? あれ?? そこで初めて会場を間違えたことを理解した。

ときどき、こうゆう間違いをやらかすんだよなぁ、俺。


あわててUターンし坂を下って天竜川を渡り、今度はずんずん坂を上って山際まで。開演10分前になって上古田保育園に到着。よかった間に合った。ふぅ、あぶないあぶない。


<本日のメニュー>

1)『はじめまして』(すずき出版)

2)『くだものなんだ』きうちかつ(福音館書店) → 伊東
3)『ラーメンちゃん』長谷川義史(絵本館) → 北原
4)『わがはいはのっぺらぼう』富安陽子・文、 飯野和好・絵(童心社) → 坂本(〜のであーる。が楽しい!)

5)『かごからとびだした』(アリス館)

6)『ながいいぬのかいかた』 矢玉四郎(ポプラ社) → 宮脇
7)『山んばあさんむじな』いとうじゅんいち(徳間書店) → 倉科(逆に小さめの声で読む倉科さんに、子供たちは身を乗り出してずんずん集中して行ったんで驚いたぞ)


8)『ふうせん』(アリス館)
9)『世界中のこどもたちが』(ポプラ社)


おとうさんたちへの刺激になってくれたかな。だったらいいな。

2011年10月21日 (金)

ぼくのトラウマ絵本『ウラパン・オコサ』

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■昨日の木曜日の昼休み。近くの竜東保育園で年中組と未満児さんの内科健診。半年経つとずいぶんと違うなぁ、子供たち。自分の診察の番が来るまできちんと整列して体育坐りしてる。もちろん隣の子との私語もなく、静かにちゃんといい子で待つことができる。凄いなぁ、こどもたち。この世に生を受けてまだ4〜5年だというのに。


■例によって、健診の後に先生に頼んで絵本を読ませてもらう。最近入手した絵本を数冊持ち込んで、こどもたちの実際の反応を試してみる貴重な機会なのだ。この日読んだ絵本は、

1)『じゃがいもポテトくん』長谷川義史(小学館)
2)『ちんころりん』こどものとも年少版 / 2011年10月号(福音館書店)
3)『ウラパン・オコサ』谷川晃一(童心社)
4)『ラーメンちゃん』長谷川義史(絵本館)


とにかくこの日は、最後に『ラーメンちゃん』を読むことだけを決めて行った。
『ラーメンちゃん』。これはいい絵本だなぁ。しみじみそう思うよ。


最後の、「こどもたち Go!」は、こどもたちといっしょになって、ぼくも先生方も、大きな声で右手を振り上げて3回、言ったよ。「こどもたち Go!」って。気持ちよかったなぁ。読み終わったあと、こどもたちが口々に「ラ、ラ、ラ、ラーメンちゃん!」て、呪文のように繰り返し繰り返し言ってた。耳から離れなくなっちゃったんだね。あはっ!


■ところでこの日の試読絵本の中で、ぼくが一番にこども達の反応を見てみたかった絵本が『ウラパン・オコサ』なのだ。


年中さんには、ちょっと無理だよなぁ。数学だもんなぁ。
でも、さっきまで「2進法の絵本」だと確信していたのだが、よーく考えてみたら2進法は(0,1)だけだから「オコサ」がない。ていうことは、この絵本は「3進法」なのか! これは4歳児には無理だよ。やっぱり。


じつはこの絵本、ぼくは大嫌いだった。個人的トラウマがあるからです。


そのことは、「2006年12月28日の日記」にも書いた。以前参加した「絵本の読み聞かせ講習会」で、ぼくは初めて『ウラパン・オコサ』を見た。その日会場に集まった100人近くの人たちは、読み聞かせ経験豊富な女性(多くはオバサンたち。ゴメンナサイ)がほとんどで、男は僕をふくめて2人だけだった。オバサンたちは「この絵本」のことを既によく知っているみたいで、講師の越高さんの音頭に合わせ声をそろえてお経のお題目のように「オコサ、オコサ、ウラパン」と絵を見ながら楽しそうに即座に答えていた。


ぼくは、何がウラパンで、何がオコサなんだかか、訳が分からなかった。みんな分かっているのに僕一人だけ何も理解できない。何がなんだかさっぱり分からなくて、一人だけ仲間外れにされたようで、何とも言えない淋しさと恐怖感を味わされたのだった。いま思い返してみても、あれは不気味な雰囲気だったよなぁ。


それ以来、『ウラパン・オコサ』が苦手になってしまったのだ。
あの、悪夢のような『ウラパン・ドコサ』。


でも、ぼくはあの「トラウマ」を乗り越えない限り、こどもたちに絵本を読むことができないと、ずっと感じてきたのだった。


■保育園で絵本を読み始めてもう、10年が過ぎた。そろそろ「あれ」に挑戦してもいいんじゃないか? そう思ったんだ。たまたま、伊那のブックオフに『ウラパン・ドコサ』の新古絵本が出ていたのだ。500円だった。ぼくは「あっ!」と驚いて一瞬後ずさったのだが、その5秒後には躊躇なく「この絵本」をレジに持って行った。だからいま、ぼくの手元にあるのです。


僕が初めて「この絵本」に出会った時には、ちんぷんかんぷんで、何が進行しているのか「その場」に参加できずに、すっごく寂しい思いをした。でも、こどもたちは違うんじゃないか。そういう希望があった。


で、実際に読んでみて安心したのは、ぼくみたいに「意味不明」で、ついて行けなかった子供が 2/3ぐらいだったかな。でも、残りの 1/3 の子は驚くべきことに、ちゃんと絵本の内容を理解して「オコサ、オコサ、ウラパン」と大きな声で答えてくれたのだ。

これには驚いたなぁ。


「この絵本」。他の保育園、他の年代のこども達にも読んでみて実験してみよう。



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