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2011年11月27日 (日)

『いまファンタジーにできること』グウィン(河出書房新社)

■昨日のつづきです。

先週の木曜日は、昼休み園医をしている竜東保育園に出向いて、年少組の内科健診。終了後、子供たちも保育士さんたちも、あっさりと健診終わりました、という雰囲気が漂う中で、ぼくは不自然にまだ園に残り、何となく去りがたそうな感じでいたら、仕方なく思ってくれたのか年配の保育士さんが「先生、もしかして絵本、読んでくれる時間あるんですか?」と言ってくれた。


そうそう、その一言を待っていたのだよ。


という訳で、午後3時のおやつを前に、3つある年少組の子供たちが全員、リズム室に集まってくれた。


<この日読んだ本>

1)『もけらもけら』山下洋輔・文、元永定正・絵(福音館書店)
2)『ちへいせんのみえるところ』長新太(ビリケン出版)
3)『ぼくのおじいちゃんのかお』天野祐吉、沼田早苗(福音館書店)
4)『なんでもパパといっしょだよ』フランク・アッシュ(評論社)
5)『ラーメンちゃん』長谷川義史(絵本館)


1)と2)は、子供たちに大受け!
5)のオヤジギャグは子供たちには全く受けず、保育士の先生方には大受けだったよ。

読み聞かせ終了後は、子供たちとハイタッチ!

■さて、いま僕は『ゲド戦記』(本は買ってあるのだが、実は未だ読んでないのです)の著者『いまファンタジーにできること』グウィン(河出書房新社)を読んでいるのだ。面白いなぁ、この本。


例えば、41ページ。『批評家たち、怪物たち、ファンタジーの紡ぎ手たち』の書き出しは、こうだ。


 ある時期、みんながわたしにしきりにこう言っていた。すばらしい本がある。絶対読むべきだ。魔法使いの学校の話で、すごく独創的だ。こういうのは今までなかった、と。


 初めてその言葉を聞いたときは、白状すると、わたし自身が書いた『影との戦い』を読めと言われているのだと思った。この本には魔法使いの学校のことが出てくる。そして、1969年の刊行以来、版を重ねている。だが、それはおめでたい勘違いで、ハリーについての話を延々と聞かされる羽目になった。


最初のうち、そういう経験はつらかった。いささか浅ましい羨望を感じた。けれど、ほどなく、さほど浅ましくはない、単純な驚きが大きくなった。書評家や批評家は、このローリングの本を、前例のない、独特の現象であるかのように語っていた。(中略)


 しかし、本について書くほどの人であれば、読むことについてもいくらかの経験を有しているはずではないのか。<ハリー・ポッター>の独創性を讃えた人々は、この作品が属している伝統にまったく無知であることをさらけだしたのだ。その伝統には、英国のサブジャンル、「学校もの」の伝統だけでなく、世界的な大きな伝統であるファンタジー文学の伝統も含まれる。

こんなにも多くの書評家や文芸評論家が、フィクションの大ジャンルについて、こんなにも知識が乏しく、素養がなく、比較の基準をほとんどもたないために、伝統を体現しているような作品、はっきり言えば紋切り型で、模倣的でさえある作品を、独創的な業績だと思い込む ---- どうしてそんなことになるのだろう? (p42)


それから、167ページ。『メッセージについてのメッセージ』にはこんなことが書いてある。



 子どもやティーンのためのフィクションの批評はたいていの場合、それらのフィクションがちょっとしたお説教を垂れるために存在するかのように書かれている。曰く、「成長することはつらいけれど、必ずやりとげられる」。曰く、「評判というのはあてにならないものだ」。曰く、「ドラッグは危険です」。

 物語の意味というのは、言語そのもの、読むにつれて物語が動いていく動きそのもの、言葉にできないような発見の驚きにあるのであって、ちっぽけな助言にあるのではない (p169)


 フィクションの書き手であるわたしは、メッセージを語ることはしない。わたしは「物語」を語る。(p170)


 フィクションは意味がないとか、役に立たないとか言いたいのではない。とんでもないことだ。わたしの考えでは。物語ることは、意味を獲得するための道具として、わたしたちがもっているものの中でもっとも有効な道具のひとつだ。物語を語ることは、わたしたちは何者なのかを問い、答えることによってわたしたちのコミュニティーをまとまらせるのに役立つ。

また、それは、わたしは何者なのか、人生はわたしに何を求め、わたしはどういうふうに応えられるのかという問いの答を知るのに、個人がもつ最強の道具のひとつだ。(p171)


 理解や知覚や感情という点でその物語からあなたが何を得るかは、部分的にはわたし次第だ。というのは、その物語は、わたしが情熱をこめて書いた、わたしにとって重要な意味を持つものだから(物語を語り終わって初めて、何の話だったかわかるにしても)。

けれども、それは読者であるあなた次第でもある。読書もまた、情熱をこめておこなう行為だ。ダンスを踊ったり、音楽を聴いたりするときと同じように、物語を頭だけでなく、心と体と魂で読むならば、その物語はあなたの物語になる。

そしてそれは、どんなメッセージよりもはるかに豊かなものを意味するだろう。それはあなたに美を提供するだろう。あなたに苦痛を経験させるだろう。自由を指し示すだろう。読み直すたびに、違うものを意味するだろう。


 小説そのほか、子どもたちのために真剣に書いたものを、書評家に、砂糖衣をまぶしたお説教のように扱われると、悲しみと憤りを覚える。もちろん、子どものために書かれた道徳的教育的な本はたくさんあり、そういうものならそういうふうに論じても失うものはない。

しかし、子どものために書かれた本物の文学作品、たとえば『なぜなぜ物語』の「ゾウの鼻はなぜ長い」や『ホビットの冒険』を芸術作品として扱わず、単に考えを運ぶ乗り物として教えたり、評したりするならば、それは重大な誤りだ。芸術はわたしたちを解放する。そして言葉の芸術は、わたしたちを言葉で言えるすべてを超えた高みに連れていくことができる。(p173〜p174)


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