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2012年1月22日 (日)

伊那のパパズ絵本ライヴ(その87)飯島町「七久保保育園」

■今日は、上伊那郡飯島町「七久保保育園」の日曜参観日で、われわれ「伊那のパパズ」が呼ばれた。午前9時45分開演。早いな。ということは、わが家を8時半過ぎには出ないと間に合わない。でも、いろいろあってバタバタしながら自宅を後にしたのは 8時40分。ぶんぶん飛ばして 9時20分前になんとか到着。でも、入口が分からない、あちゃ。


■開演にはなんとか間に合ったよ。よかったよかった。

思ったよりも大きくてきれいな保育園。70数名の園児とその親御さん(おとうさんがいっぱい!)が150人近く集まってくれた。


<本日のメニュー>

1)『はじめまして』新沢としひこ・大和田 美鈴 (鈴木出版)

2)『コッケモーモー』徳間書店 (2001/11) →伊東

3)『あなのなか』森あさ子(岩崎書店) →北原

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倉科パパが、新しく購入したばかりの「スマホ」で、写真をを撮って送ってくれたのだ。


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4)『かえるをのんだととさん』日野 十成著、斎藤 隆夫絵(福音館書店) →坂本


5)『かごからとびだした』(アリス館)

6)『へんしんトイレ』あきやまただし(金の星社) →宮脇

7)『じごくのそうべえ』田島征彦・作(童心社) →倉科

8)『ふうせん』(アリス館)
9)『世界中のこどもたちが』(ポプラ社)

10) 『パンツのはきかた』岸田今日子・作、佐野洋子・絵(福音館書店) →アンコール。



2012年1月 7日 (土)

『なずな』堀江敏幸(集英社)を読む(その2)

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■毎日こどもと接している小児科医であるにも係わらず、この小説に登場する赤ちゃん「なずな」の描写を読みながら、ぼくの長男が2ヵ月半だった頃のことを妙にリアルに思い出していた。その息子も、いまや中学3年生。あっという間だったなぁ。


例えばこんな描写がある。


両手は顔の横に半開きの状態で置かれていた。指の一本一本が、指と指のあいだの影が、いつもよりくっきりと見えるのはなぜだろう。似ているようで似ていない。似ていないようで似ている。閉じられたまぶたの細い皺までが、なぜか胸を打った。赤ん坊というのは、こんなにやわらかく目を閉じられるものなのか。力が入っているのかいないのか。なにものをも拒まない閉じ方だ。光さえも、声さえも……。(『なずな』堀江敏幸・著、集英社 4ページより)


それから、ここ。

なずなは飲む。飲んでくれる。心配になるくらいに飲む。どんどん飲む。うどんどんどんだ。あっというまに飲み干したと思ったら、ぺんぺん草の手足からくたんと力が抜けて、もう目がとろとろしはじめている。ミルクのぶんだけ身体が重くなり、眠くなったぶんだけどこか大気中からもらったとしか思えない不可思議な重さが、こちらの肩に、腕にのしかかる。

哺乳瓶を置いてまっすぐ縦に抱きなおし、肩よりうえに顔が出るようにして、背中をそっと叩いた。励ますように、祈るように、静かに叩き続けた。(中略)五分、十分。なにも考えず、てのひらでなずなの背中に触れる。どんな顔をしているのだろう。こちらから彼女の表情を確かめることはできない。気持ちがいいのかよくないのか。起きているのか眠っているのか。反応のなさに不安になりかけた頃、耳もとで、がっ、と小さく湿った空気の抜ける音がした。(40〜41ページ)


あと、ここもいいな。

洗い終わったらガーゼケットで身体を包んで、いっしょに湯船につかる。なずなはまだこちらを見つめて、目をそらそうとしない。しばらくすると、丸く開いたさくらんぼのような口から、ほう、という声が漏れ出て、ユニットバスの壁に跳ね返った。ほう、と私も返事をする。もう一度。もう一度、ほう、と言ってくれないか。しかし彼女は、やわらかい肌だけでなく瞳まで湿らせて、満足そうに、ぼうんやりこちらを見あげるばかりである。(98ページ)


水筒のお湯を使ってミルクを作る。口もとに持って行くまでの時間のほうが、ミルクの吸い込まれる時間よりもながくなった気がする。真っ白な顔にどんどん赤味が差し、満足したところで、爆音とともにまた一連の儀式がはじまる。すべてすっきりさせると、私も丁寧に手と顔を洗い、無精髭を剃り、つるつるにした状態で、なずなにそっと頬ずりした。

頬を寄せるなんて、人間にとっては最高の贅沢ではないか。向き合う努力と苦しみを乗り越え、真横に密着して、おなじ方向をながめることのできるたったひとつの姿勢。(322〜323ページ)


■この堀江敏幸氏の文章がじつに心地よい。不思議な懐かしさがある。それから、読者の五感を刺激するのだ。赤ちゃんの身体が発するミルクのにおい。下痢したときの、ちょっとすっぱいウンコの臭い。お尻のぷよぷよとした弾力。何かを訴えるように必死で泣き続けるその声と涙。


信州大学小児科学教室に入局させていただいた最初の日に、当時の医局長だった塚田先生からこう訓辞を受けた。「小児科医は、自分の子供を育ててみてはじめて一人前の小児科医になれるのです」と。


あの頃は、その言わんとする意味が、なんだかよく判らなかったが、富士見高原病院医局で夜遅くまで内科の先生と駄弁ってからようやく帰宅すると、夜泣きの酷い長男をおんぶした妻が、疲れ切った顔で暗く出迎えた「あの晩」のことを思い出すのだ。当時はまだ「父親としての自覚」がぜんぜんなかったなぁ。ごめんなさい。偉そうなこと言ってても、実は半人前の小児科医だったのだ。いや、いまだにそうかもしれない。


■こどもの親になる、ということはどういうことか? その解答が「この本」に書いてある。


 人は、親になると同時に、「ぼく」や「わたし」より先に、子どもが「いること」を基準に世界を眺めるようになるのではないか。この子が、ここにいるとき、ほかのどんな子も、かさなって、いることは、できない。そしてそれは、ほかの子を排除するのではなく、同時にすべての「この子」を受け入れることでもある。マメのような赤ん坊がミルクを飲み、ご飯を食べてどんどん成長し、小さなゾウのようになっていく。そのとき、それをいとおしく思う自分さえ消えて、世界は世界だけで、たくさんのなずなを抱えたまま大きくなっていくのではないか。(256〜257ページ)

「(前略)生後二ヶ月の子どもの肺なんてまっさらの消毒済みガーゼより清潔なんだから、どうせ汚すのならいい汚れにしてあげないと」

 いい汚れ、という言葉に心地よい驚きを感じて、震えがおさまっていくような気さえする。汚れにいいも悪いもない、汚れは汚れであって、落とせるものは落とし、落とせないものはそのまま放っておくか捨てるかのどちらかでいい。私はそんなふうにしか考えてこなかった。(7ページ)


おいしい弁当を食べ、珈琲を飲み、甘いものを食べて、赤ん坊の排泄物を処理する。世のお父さんお母さんは、みなこうして、きれいきたないの区別の無意味を悟るのだろう。なずなの発した芳香は杵元の私の部屋でのように籠もることもなく自然の風に流れていく。(436ページ)


■このあたりの感覚を、現役「イクメンパパ」である高橋源一郎氏がうまいこと「連続ツイート」してる。


それから、ジャズに詳しい方の「こちらの感想」もじつに要を得ているな。


こんなふうに考えると、この作品は映画にうってつけの
ような気がしてくる。
友栄さんは深津絵里、美津保のママは松坂慶子で
決まりでしょうね。
どなたかぜひ映画化を!


なるほど確かに友栄さんは深津絵里、美津保のママは松坂慶子だ。


■すごくリアルで私小説みたいに写実的な小説ではあるのだが、ぼくは正直、この小説世界は「ファンタジー」だと思う。その意味では、震災後に放送されたNHK朝ドラ『おひさま』に似ている。悪人は一人も登場しない。そうして、周囲の人々がヒロイン「陽子」と接することで幸せになるのだ。


それは「なずな」を囲む人々にも言える。


要するに、基本は「近くにいる」ということではないか。遠く離れていても、心と心がつながっていさえすればよいという人もいる。遠距離恋愛、単身赴任、別居婚。(中略)

 いつも近くにいて顔を見るだけで感じられることが、離れているとできない。電気信号ではなく、空気の振動で伝わる生の声や気配だけで、支えられることもあるのだ。(163ページ)


「なずなちゃん、周りにいる人をみんな親戚にしちゃうみたいですね」(266ページ)


血のつながった家族であろうとなかろうと、人は人とつながって生きていくしかない(341ページ)


こんなふうに、彦端の親父の背中に触れたことがあっただろうか、と不意に思った。親父どころか母親の背中にも、肩にも、手にも、最後にいつ触れたのか思い出せない。人に触れるという感覚を、私はなずなのおかげではじめて知ったことになるのかもしれない。(352〜353ページ)


「(中略)離れているより、ひっついていたほうがいい。子どもでも女房でも、いっしょにいたほうがいいんだ。赤ん坊は人を集める。そういう力がある」(359ページ)


■何が言いたいのかというと、つまり「この主人公と赤ん坊のなずな」は、世間(世界)に対して「外に開いている」ということだ。彼らの周囲にには、危なっかしい主人公をほっておけない「他人」がいっぱいいる。ここが重要だと思う。


近々読む予定の『マザーズ』金原ひとみ(新潮社)とは、対極にあるような「この小説」は、こうあってほしいという著者の「希望」に満ちている。いや、もうほとんど「祈り」と言ってもいいかもしれない。


赤ちゃんて、可愛いよ。子育てって掛け替えのない経験だよ。作者は、まだ独身の子供にはぜんぜん興味のない男子や女子に、それからまた、子育てにちょっと疲れたお父さんお母さんに「そう」伝えたかったのではないか。

この小説が書かれたのは、3.11. の前だが、明日の見えない右肩下がりのいま、乳飲み子を抱えて「内に内にただ閉じてゆく」母親と父親にこそ読んで欲しいと切に願う。


2011年12月11日 (日)

伊那のパパズ絵本ライヴ(その86)箕輪町松島コミュニティセンター

■今日は午前10時半から、箕輪町松島コミュニティセンターにて「伊那のパパズ絵本ライヴ」。メンバーも5人全員がそろったよ。12月の絵本ライヴは、毎年恒例のクリスマス特別ヴァージョンだ。


  <本日のメニュー>

 1)『はじめまして』新沢としひこ(すずき出版)
 2)『でんせつの きょだいあんまんを はこべ』サトシン・作(講談社) →伊東

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 3)『たべてあげる』ふくべあきひろ文、おおのこうへい・絵(教育画劇)→北原
 4)『かごからとびだした』(アリス館)
 5)『やまあらしぼうやのクリスマス』ジョセフ・スレイト文(グランまま社)→倉科

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 6)『いろいろおんせん』増田裕子(そうえん社)

 7)『スモウマン』中川ひろたか・文、長谷川義史・絵(講談社)→宮脇

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 8)『メリークリスマスおおかみさん』宮西達也・作(女子パウロ会)→坂本

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 9)『ふうせん』(アリス館)
 10) 『世界中のこどもたちが』(ポプラ社)


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  左から、坂本    伊東    倉科     宮脇     北原。


              イイ写真だね!


■主催の、箕輪町こども未来課・支援センター 白鳥紀子さん、いつもいつも本当にありがとうございます。また呼んでくださいね(^^)

2011年12月 1日 (木)

木曽郡南木曽町の伝統防寒着「ねこ」

■どうも、木曽郡南木曾町で昔から冬場に着られている防寒着「ねこ」がブームらしい。

先だって、NHK長野ローカルのニュース(というのはどうも勘違いで、11月24日に放送された日テレ『秘密のケンミンSHOW』だったみたいだ。でないと、これほどの品切れ大騒動にはならないはずだし。)を見ていたら、何でも木曽で映画のロケに参加した俳優の役所広司さんが「ねこ」をいたく気に入って、50着だか100着だか注文して東京へのお土産にしたのだそうだ。


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ところで、その「ねこ」ってのは何かと言うと、「はんてん」と「チョッキ」との「あいのこ」みたいなもので、上記の写真のごとく、綿の軽い蒲団を背中に担いだ感じになる。でもこれが、本当に暖かいのだ。半天のボテっとした袖がないので邪魔にならず、しかも軽くて、ぜんぜん「蒲団」を背負っている感じがしない。とにかく、ぬくぬくとホント暖かいのです。


■で、この「ねこ」は何処に行ったら買えるかというと、ベルシャイン伊那店にあります。Lサイズが 2,980円、LLサイズで、3,280円と値段はけっこうします。でも、コストパフォーマンスは抜群! この冬一番の「おすすめ」ですぜ! 


しかし、ネットで見ると先日のテレビ放送以来の大人気で、生産が追いつかず、現在は入手困難の状態らしい。


■さて、昨日の水曜日の午後は、高遠第一保育園で内科健診。みんな元気でよかったよかった。


健診終了後は、園児全員がホールに集まってくれて、ぼくの「絵本タイム」。


<この日読んだ本>

1)『もけらもけら』山下洋輔・文、元永定正・絵(福音館書店)
2)『ちへいせんのみえるところ』長新太(ビリケン出版)
3)『さんにんサンタ』いとうひろし(絵本館)
4)『ウラパン・オコサ』谷川晃一(童心社)
5)『ラーメンちゃん』長谷川義史(絵本館)


■そうして、今日の午後は竜東保育園年長組の内科健診。やはりみんな元気。その後、年長組の部屋へ行って絵本を読ませていただく。

<この日読んだ本>

1)『もけらもけら』山下洋輔・文、元永定正・絵(福音館書店)
2)『ウラパン・オコサ』谷川晃一(童心社)
3)『子うさぎましろのお話』佐々木たづ・文(ポプラ社)
4)『ラーメンちゃん』長谷川義史(絵本館)


ぼくのトラウマ絵本『ウラパン・オコサ』を読んだ時には、ほんと驚いた!

子供たちって、スゴイね。


最初の説明だけで、瞬時に「その法則」を理解して、ぼくがリードしなくても勝手に数えて「オコサ・オコサ・オコサ・ウラパン」と大きな声で答えてくれなのだ。これにはビックリ!

2011年11月27日 (日)

『いまファンタジーにできること』グウィン(河出書房新社)

■昨日のつづきです。

先週の木曜日は、昼休み園医をしている竜東保育園に出向いて、年少組の内科健診。終了後、子供たちも保育士さんたちも、あっさりと健診終わりました、という雰囲気が漂う中で、ぼくは不自然にまだ園に残り、何となく去りがたそうな感じでいたら、仕方なく思ってくれたのか年配の保育士さんが「先生、もしかして絵本、読んでくれる時間あるんですか?」と言ってくれた。


そうそう、その一言を待っていたのだよ。


という訳で、午後3時のおやつを前に、3つある年少組の子供たちが全員、リズム室に集まってくれた。


<この日読んだ本>

1)『もけらもけら』山下洋輔・文、元永定正・絵(福音館書店)
2)『ちへいせんのみえるところ』長新太(ビリケン出版)
3)『ぼくのおじいちゃんのかお』天野祐吉、沼田早苗(福音館書店)
4)『なんでもパパといっしょだよ』フランク・アッシュ(評論社)
5)『ラーメンちゃん』長谷川義史(絵本館)


1)と2)は、子供たちに大受け!
5)のオヤジギャグは子供たちには全く受けず、保育士の先生方には大受けだったよ。

読み聞かせ終了後は、子供たちとハイタッチ!

■さて、いま僕は『ゲド戦記』(本は買ってあるのだが、実は未だ読んでないのです)の著者『いまファンタジーにできること』グウィン(河出書房新社)を読んでいるのだ。面白いなぁ、この本。


例えば、41ページ。『批評家たち、怪物たち、ファンタジーの紡ぎ手たち』の書き出しは、こうだ。


 ある時期、みんながわたしにしきりにこう言っていた。すばらしい本がある。絶対読むべきだ。魔法使いの学校の話で、すごく独創的だ。こういうのは今までなかった、と。


 初めてその言葉を聞いたときは、白状すると、わたし自身が書いた『影との戦い』を読めと言われているのだと思った。この本には魔法使いの学校のことが出てくる。そして、1969年の刊行以来、版を重ねている。だが、それはおめでたい勘違いで、ハリーについての話を延々と聞かされる羽目になった。


最初のうち、そういう経験はつらかった。いささか浅ましい羨望を感じた。けれど、ほどなく、さほど浅ましくはない、単純な驚きが大きくなった。書評家や批評家は、このローリングの本を、前例のない、独特の現象であるかのように語っていた。(中略)


 しかし、本について書くほどの人であれば、読むことについてもいくらかの経験を有しているはずではないのか。<ハリー・ポッター>の独創性を讃えた人々は、この作品が属している伝統にまったく無知であることをさらけだしたのだ。その伝統には、英国のサブジャンル、「学校もの」の伝統だけでなく、世界的な大きな伝統であるファンタジー文学の伝統も含まれる。

こんなにも多くの書評家や文芸評論家が、フィクションの大ジャンルについて、こんなにも知識が乏しく、素養がなく、比較の基準をほとんどもたないために、伝統を体現しているような作品、はっきり言えば紋切り型で、模倣的でさえある作品を、独創的な業績だと思い込む ---- どうしてそんなことになるのだろう? (p42)


それから、167ページ。『メッセージについてのメッセージ』にはこんなことが書いてある。



 子どもやティーンのためのフィクションの批評はたいていの場合、それらのフィクションがちょっとしたお説教を垂れるために存在するかのように書かれている。曰く、「成長することはつらいけれど、必ずやりとげられる」。曰く、「評判というのはあてにならないものだ」。曰く、「ドラッグは危険です」。

 物語の意味というのは、言語そのもの、読むにつれて物語が動いていく動きそのもの、言葉にできないような発見の驚きにあるのであって、ちっぽけな助言にあるのではない (p169)


 フィクションの書き手であるわたしは、メッセージを語ることはしない。わたしは「物語」を語る。(p170)


 フィクションは意味がないとか、役に立たないとか言いたいのではない。とんでもないことだ。わたしの考えでは。物語ることは、意味を獲得するための道具として、わたしたちがもっているものの中でもっとも有効な道具のひとつだ。物語を語ることは、わたしたちは何者なのかを問い、答えることによってわたしたちのコミュニティーをまとまらせるのに役立つ。

また、それは、わたしは何者なのか、人生はわたしに何を求め、わたしはどういうふうに応えられるのかという問いの答を知るのに、個人がもつ最強の道具のひとつだ。(p171)


 理解や知覚や感情という点でその物語からあなたが何を得るかは、部分的にはわたし次第だ。というのは、その物語は、わたしが情熱をこめて書いた、わたしにとって重要な意味を持つものだから(物語を語り終わって初めて、何の話だったかわかるにしても)。

けれども、それは読者であるあなた次第でもある。読書もまた、情熱をこめておこなう行為だ。ダンスを踊ったり、音楽を聴いたりするときと同じように、物語を頭だけでなく、心と体と魂で読むならば、その物語はあなたの物語になる。

そしてそれは、どんなメッセージよりもはるかに豊かなものを意味するだろう。それはあなたに美を提供するだろう。あなたに苦痛を経験させるだろう。自由を指し示すだろう。読み直すたびに、違うものを意味するだろう。


 小説そのほか、子どもたちのために真剣に書いたものを、書評家に、砂糖衣をまぶしたお説教のように扱われると、悲しみと憤りを覚える。もちろん、子どものために書かれた道徳的教育的な本はたくさんあり、そういうものならそういうふうに論じても失うものはない。

しかし、子どものために書かれた本物の文学作品、たとえば『なぜなぜ物語』の「ゾウの鼻はなぜ長い」や『ホビットの冒険』を芸術作品として扱わず、単に考えを運ぶ乗り物として教えたり、評したりするならば、それは重大な誤りだ。芸術はわたしたちを解放する。そして言葉の芸術は、わたしたちを言葉で言えるすべてを超えた高みに連れていくことができる。(p173〜p174)


2011年11月13日 (日)

伊那のパパズ絵本ライヴ(その85)山梨県甲府市立図書館

■息づまる「日本シリーズ」第2戦をずっと見ていたので、アップが遅くなってしまいました。それにしても、熱烈な中日ファンだって(いや、ファンこそ)あの超強力打線のソフトバンク相手に、しかも敵地で、まさか2連勝するとは思ってなかったよなぁ。


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■今日は、久々に県外での「伊那のパパズ」。甲府市立図書館で僕らを呼んでくださったのだ。ありがたいねぇ。ところが、われわれ伊那のパパズメンバー5人のうち、坂本さんは会議で東京に行ってて欠席。伊東パパは文科省から直に来る研究授業の準備に追われていて残念ながらの欠席。というワケで、今日は宮脇、北原、倉科の3人での「絵本ライブ」となった。


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<本日のメニュー>

1)『はじめまして』(すずき出版)

2)『もけらもけら』山下洋輔・文、元永定正・絵(福音館書店) → 北原
3)『ながいいぬのかいかた』 矢玉四郎(ポプラ社) → 宮脇
4)『山んばあさんむじな』いとうじゅんいち(徳間書店) → 倉科

5)『かごからとびだした』(アリス館)

6)『どうぶつサーカスはじまるよ』西村敏雄・作(福音館書店) → 北原
7)『へんしんマンザイ』あきやまただし・作(金の星社) → 宮脇
8)『さつまのおいも』中川ひろたか・文、村上康成・絵(童心社) → 倉科

9)『ふうせん』(アリス館)
10)『世界中のこどもたちが』(ポプラ社)


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甲府市立図書館の白木さん、輿水さん。たくさんお土産まで頂戴してしまって、本当にありがとうございました。


■それにしても、終演後に見に来てくれた親子づれの方から「いっしょに写真を撮らせてください」とのリクエストがあるとは思わなかったな。なんか有名人にでもなった気分。初めての経験だよ。あと、『小児科医が見つけた えほんエホン絵本』を持参された、長年地元甲府で絵本の読み聞かせ活動をされてきたベテランの近藤さんから「ご著書にサインを」とリクエスト。いやぁ、まいったなぁ。共著ではあるけれど、下手な字で大きくサインさせていただきました。ほんと、ありがとうございました。


2011年10月30日 (日)

伊那のパパズ絵本ライヴ(その84)箕輪町上古田保育園

■今日は、箕輪町上古田保育園の父親参観での「伊那のパパズ絵本ライヴ」。

上古田地区は天竜川から見て西の端に位置し、中央アルプス山麓に広がる「赤そばの里」で有名なところだ。午前10時現地集合ということだったので、ぼくはちょいと早めに家を出た。車に荷物を積んでエンジンをかけ、ナビに「箕輪町おごち保育園」を登録。


あれ? 実はすっかり勘違いしていて、今日行くのは「おごち保育園」だと勝手に思い込んでいたのだ。同じ箕輪町にある保育園だが、場所は天竜川を挟んで東と西で極端に離れている。


午前10時前、ゴールのずいぶん手前で「目的地周辺です。気をつけて御走行下さい」とナビが言ったきり黙ってしまったので、結局は道を何回か間違えたすえ、ようやく「おごち保育園」に到着。でも、やけに静かだ。車が一台も停まっていないぞ。なんか変だな? あれ?? そこで初めて会場を間違えたことを理解した。

ときどき、こうゆう間違いをやらかすんだよなぁ、俺。


あわててUターンし坂を下って天竜川を渡り、今度はずんずん坂を上って山際まで。開演10分前になって上古田保育園に到着。よかった間に合った。ふぅ、あぶないあぶない。


<本日のメニュー>

1)『はじめまして』(すずき出版)

2)『くだものなんだ』きうちかつ(福音館書店) → 伊東
3)『ラーメンちゃん』長谷川義史(絵本館) → 北原
4)『わがはいはのっぺらぼう』富安陽子・文、 飯野和好・絵(童心社) → 坂本(〜のであーる。が楽しい!)

5)『かごからとびだした』(アリス館)

6)『ながいいぬのかいかた』 矢玉四郎(ポプラ社) → 宮脇
7)『山んばあさんむじな』いとうじゅんいち(徳間書店) → 倉科(逆に小さめの声で読む倉科さんに、子供たちは身を乗り出してずんずん集中して行ったんで驚いたぞ)


8)『ふうせん』(アリス館)
9)『世界中のこどもたちが』(ポプラ社)


おとうさんたちへの刺激になってくれたかな。だったらいいな。

2011年8月 6日 (土)

伊那のパパズ番外勝負(中沢小学校親子文庫)7月13日

先月の7月13日(水)の夜、駒ヶ根市中沢小学校の親子文庫のみなさんに呼ばれて、絵本と児童書、そして福島の話をさせてもらってきた。中沢小学校には、伊那養護学校駒ヶ根分校が併設されていて、パパズのメンバーである伊東先生が赴任しているのだった。その縁で昨年に続いて再び呼んでもらえたのだ。


当日は、伊東先生はもちろん、親子文庫所属のお父さんお母さん方(中沢小学校では、何故か父親の絵本の読み手が何人もいるのだ!凄いね)に加えて、図書館司書の先生、それにPTA会長さん、校長先生まで待っていてくださった。有り難いじゃありませんか。


・まずは、伊東先生と二人で代わり番こに絵本を読む。


1)『でんしゃはうたう』三宮麻由子・作(福音館書店) →伊東
2)『ひまわり』 和歌山静子・作画(福音館書店)   →北原
3)『かあちゃんのせんたくキック』(文化出版局)   →伊東
4)『ぜつぼうの濁点』原田宗典・作(教育画劇)    →北原


・つづいて、ぼくがパワーポイントを使って絵本『やこうれっしゃ』西村繁男(福音館書店)を解説。この絵本のパスティーシュである『がたごとがたごと』内田麟太郎・作、西村繁男・画(童心社)さらにその続編『おばけでんしゃ』も紹介した。


「字のない絵本」を、子供たちとどう読み合えばいいのか? そういう話をしてみたかったのだ。

・そうして、おもむろに僕がとりだした絵本が『アライバル』ショーン・タン(河出書房新社)だった。この厚いモノクロの絵本には「文字」が全く載っていない。でも読者には、それぞれの個人的な思いに触発されながら、同じ絵を見ながらも微妙に別々のストーリーが浮かび上がってくるような仕掛けがしてある絵本なのだ。


ぼく自身がこの絵本を購入したのは2月のうちだったが、その後何度も目を通すうちに、この絵本は福島県に長年暮らしてきて、ある日突然故郷を強制的に退去させられ、しかもたぶん一生、わが家にには帰ることができない人たちのことを思った。

どうか、どうか、この絵本の主人公家族のように新天地で新たな幸せな暮らしができますように。そう祈るしかない。


・つぎに紹介したのはマンガだ。『月刊フラワーズ8月号』(小学館)に載った、萩尾望都『なのはな』のこと。それから、『小説新潮5月号』に載った、綾瀬まる『川と星』のはなしに移った。(つづく)



2011年7月24日 (日)

「子どもたちの脳は疲れている」三池輝久先生の講演会

■毎年7月恒例のツール・ド・フランス。3週間の熱戦を繰り広げて今日が最終日。いまパリ・シャンゼリゼの周回コースに入ったところ。今年は最後まで混戦続きで面白かったな。あぁ、今日で終わってしまうのか。


■そんな訳で、ここ3週間はツールTV観戦に忙しくてブログの更新がおろそかになってしまった。すみません。


忘れないうちに、覚え書きとして、先だって7月16日(土)の午後、伊那文化会館小ホールで開催された「子ども・若者支援地域ネットワーク形成のための研修会・第1回公開講座」での、「「子どもたちの脳は疲れている」と題された、「小児慢性疲労症候群」に関する日本における第一人者、兵庫県子供の睡眠と発達医療センター長、三池輝久先生の講演会を聴いてきたことを書いておかねばならない。

「上伊那子どもサポートセンター」代表の戸枝さんから、今回の連続講座開催のことを、この5月下旬にメールと電話でお話をうかがった際、戸枝さんから「最近話題になっている、小児慢性疲労症候群のことについて北原先生に連続講座の中で話して欲しい」との依頼があった。ちょうどその時、ぼくも所属する「外来小児科フリートーク・メーリングリスト」で、三池輝久先生が「小児慢性疲労症候群」の子供たちを治療した報告が話題になっていて、三池先生が提唱する「その疾患」と、われわれ一般小児科医がこの時期(春から夏にかけての)よく遭遇する「起立性調節障害」との異動が、メーリングリストで議論されていたのだった。

だから正にタイムリーな話題であったのだが、専門知識に欠けるぼくには到底「小児慢性疲労症候群」の話はできません、無理です。と、戸枝さんにお断りしたのだった。でも、戸枝さんは凄かった! 「小児慢性疲労症候群」と「小児の睡眠障害」に関するエキスパートの、三池輝久先生に直接講演依頼をし、なんと、三池先生の講演会が伊那市で実現することになってしまったのだから。いやはや驚いた。


■そんな訳で、当日ぼくは外来を午後1時で終了して伊那文化会館へと向かったのだ。

三池輝久先生は大変才気溢れる先生で、頭が良すぎる上に言いたいことがいっぱいありすぎて、われわれ一般的聴衆の理解度の低さを最初から諦めているような感じさえあったが、いやいやどうして、大変示唆に富む面白いご講演であった。

■「人はなぜ眠る必要があるのか?」「睡眠は子供の脳の発達にどう係わっているのか?」 という話から講演は始まった。


・睡眠は子供の脳の発達に必要欠くべからずものだ。睡眠は「脳を創り、育て、そして守っている」のだと。REM睡眠は覚醒を促す。眠っている間に海馬が働き記憶を整理する(長期記憶)。そして、眠っている間にシナプスの点検整備(メインテナンス)が行われている。


・人はなぜ眠る必要があるのか? それは、ヒトの脳内のシナプスを守る3つの重要な働きがあるから。

1)活動している時に使用した、神経伝達物質残渣をクリーンにする(シナプスの清掃とメインテナンス)
2)神経突起からミトコンドリアが細胞内に移動しそこで複製がおこる(エネルギー生産を守る)
3)神経伝達物質の脳幹調節機構やその他の部位での再分配がおこる。(神経伝達物質の供給)


だから、脳が発展途上にある子供たちにとって「睡眠」はとっても大事!


・小学4年生までは、最低10時間の睡眠が必要。
・小学5〜6年生では9時間の睡眠。
・中学生でも、7〜8時間は睡眠が必要。


子供が起床しなければならない時間、そこから逆算して、ベッドに入る時間を決めればよい。例えば、朝6時には起きなければならない中学1年生は、夜10時台には入眠する必要があるということ。


しかし、今の日本の子供たちは、大人の都合でどんどん「夜更かし」となり、「慢性的睡眠不足状態」に陥っているのだった。そうなるとヒトの体はどうなるか?


・ミトコンドリアの機能が低下する
・糖代謝が落ちる → 肥満
・脳幹部にある「視床下部」の機能が落ちる
・そうすると、認知機能が落ちる(集中力・持久力・意欲の低下)
・朝はテンションが上がらず、疲労度は増すばかり。でも夕方になって急に元気がでてくる(別人28号)
・そうなると、逆に10時間以上の過眠状態に逆転してくる
・つまりは、脳内にある「体内時計」が壊れてしまうのだ
・体内時計が壊れると、体温・血圧調節(自律神経機能)が壊れ、
 ホルモン分泌バランスが崩れる。

これらの症状が「小児慢性疲労症候群」なのだった。
その結果、朝起きられず、何時しか昼夜逆転した子供たちは不登校となってしまう。


■こうなってしまったら、どうしたらよいか?


このことに関して、三池先生は決してバラ色の話はしなかった。


焦らず、不足した睡眠時間を十分に確保して(平日不足した睡眠時間を土日で補充するなど)、無理せず然るべき時期が来るまで、できる範囲で学業の準備しつつ「じっとチャンスを待つ」その時期とは、高校入学の頃のことが多い。とのことでした。

2011年7月17日 (日)

伊那のパパズ絵本ライヴ(その81)箕輪町長岡保育園・夕涼み会

■7月15日金曜日の夜は、箕輪町長岡保育園へ行って絵本を読んできた。保護者会主催?の夏祭り(夕涼み会)に呼ばれたのだ。

平日の夜に「絵本ライヴ」を行うのは初めて。都合で欠席の坂本さん以外のメンバーは、一日の仕事を早めに切り上げて長岡保育園に集結したのだった。開演は夜7時半。園児数が全部で50人未満の小さな保育園だけれど、かえってアットホームで先生方もお父さんおかあさん方も、地域のみんなで子供たちを見守っている雰囲気がよく感じられたよ。


  <本日のメニュー>

 1)『はじめまして』
 2)『かあちゃんのせんたくキック』平田昌広・文、井上洋介・絵(文化出版局)→伊東
 3)『たちねぶたくん』中川ひろたか・文、村上康成・絵(角川学芸出版)→北原
 4)「たちねぶた音頭」

  





YouTube: 中川ひろたか / たちねぶた音頭


 5)『かごからとびだした』(アリス館)

 6)『へんしんオバケ』あきやまただし(金の星社)→宮脇
 7)『うみじじい』菅 瞭三 (こどものとも・1999年8月号)→倉科

 8)『ふうせん』
 9)『世界中のこどもたちが』


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