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2010年7月27日 (火)

名人文楽

■先日書いた、桂文楽の「区役所〜ぉ!」は、どの落語に出てくるかというと「王子の幇間」に登場するフレーズなのだった。神田の平助という野太鼓が主人公の落語。もう、ほとんどコイツの一人語りだ。ホントやな奴。それを八代目桂文楽は滑稽に、自虐的に、悲哀に満ちてしかも諧謔的に演じてみせる。こうなるともう、桂文楽の独断場だな。

旦那の家に来た平助。もう「よいしょ」のしまくり。でも、めちゃくちゃ毒がある。お手伝いさんから始まって、奥さん、子供たち。はては飼い猫に至るまで。今日、久々に聴いたが、思ったよりもテンポが速い。集中力が欠けると何言ってるか分からなくなってしまう。文楽は難しいぞ。よし、明日は「よかちょろ」を聴いてみよう。


■昨日の月曜の夜は、伊那中央病院の小児科一次救急当番だった。よる7時から9時までの2時間。でも、週の始めなので気分的にはけっこうキツイ。「とびひ」の4歳男児と、喘息の5歳児の2人を診ただけで終わった。ラッキー。おかげで本が読めた。『なつかしい芸人たち』色川武大(新潮文庫)の「歌笑ノート」。三遊亭歌笑は、三代目三遊亭金馬の弟子だった。

 右目は雲がかかって全く見えず、左目には星があって天気予報みたいだね、といわれた。(中略)なにしろ、極端な斜視で、口がばか大きくて、その間の鼻が豆粒のよう、ホームベースみたいにエラの張った顔の輪郭、これ以上ないという奇怪なご面相だ。醜男は愛嬌になるが、ここまで極端だと暗い見世物を見ているようで、笑うよりびっくりしてしまうのである。誰よりも当の本人が陰気で、一席終わるとしょんぼりという恰好でおりていった。立ってもチンチクリンの小男で、がりがりに痩せていた。

 それからしばらくして、二度目に出会った歌笑は、別人のように自分のペースを作っていた。登場すると、奇顔を見ていくらかどようめいている客席を見おろすようにして、歯肉までむきだして笑って見せる。それだけでドッと来た。プロになったな、と思ったものだ。『なつかしい芸人たち』色川武大(新潮文庫)p184


■同じく色川武大氏の落語エッセイには、こんなのもあった。

 暑いにつけ寒いにつけ、桂文楽を思い出す。(中略) つくづく思うけれども、昭和の落語家では文楽と志ん生が抜き出た存在だな。そのもっとも大きな理由は、二人ともそれぞれのやり方で、自分の落語を創りあげたことにあると思う。古典の方に自分から寄っていってしがみつくのではなく、自分の方に古典落語をひっぱり寄せた。

 古典というものは(落語に限らず)前代の口跡をただ継承しているだけでは、古典の伝承にはならない。前代のコピーでは必ずいつか死滅するか、無形文化財のようなものと化して烈しい命脈を失ってしまう。リレーというものはそうではないので、その時代に応じて新しい演者が、それぞれの個性、それぞれの感性で活かし直していく、それではじめて古典が伝承されていくのである。

 志ん生は天衣無縫の個性で、たくまずして新装した。志ん生の演じる「火焔太鼓」や「ずっこけ」や「風呂敷」や「お直し」は、それ以前の演者からは聞けなかった。私はあれは新作といっていいと思う。そうして志ん生自身がどう思っていたか知らないが、志ん生の口跡に残っている前代のコピー的部分は、どちらかといえば邪魔な部分だった。

 桂文楽は典型的な古典と思われているようだけれども、あれはコピーではないのである。速記本で前代の演者が同じ演目を演じているのを見ると、そのちがいがわかる。
 たとえば「寝床」は、往年は、周辺を辟易させる旦那の素人義太夫の方に力点がかかっていた。文楽のは旦那と長屋衆の心理のおかしさが見せ場になっている。「素人鰻」も、鰻をあやつるおかしさよりも、職人の酒癖と武家の主人の対応の話に主点が移されている。「鰻の幇間」や「つるつる」の主人公たちのわびしさ、「干物箱」の善公、「愛宕山」の一八、「明烏」の遊治郎ご両人、その他いずれの登場人物たちも前代のそれより陰影が濃くなっている。それはただワザの練達だけではない。

 権力機構からはずれた庶民、特に街の底辺に下積みで暮らさざるを得ない下層庶民の口惜しさ、切なさが、どの演目にもみなぎっている。その切なさの極が形式に昇華されて笑いになっている。「厩火事」のおしまいのちょっとしか出てこない髪結いの亭主だって、その影を話の上に大きく落としている。


 文楽の落語はいつも(女性が大役で出てきても)男の(彼自身)呟きだ。それが文楽の命題であったろう。
 
 そういえば志ん生の落語も男の語りである。ひと口に個性といっても、彼の個性は庶民のはずれ者に共通する広がりがある。落語は代々こうした男たちの呟きが形式化されたものなのであろうが、文楽と志ん生は、大正から昭和にかけてこうした男たちの代弁者になった。特に文楽は、命題に沿って意識的にアングルを変え、ディテールを変えている。古典落語と綱引をやるように互いに引っ張り合い、膂力で自分の命題の方に引き寄せてしまった。そうして結果的に古典落語を衰亡から守った。そこがすごい。

 落語はジャズに似ている。特に古典はジャズにおけるスタンダードのようなものか。もはや原曲のままでは通用しない。同じ材料から、各人各様の命題により、或いは個性により、独特の旋律を生みだす。それが、なによりも古典落語というものである。

 文楽は、演目がすくなかった。本質的には不器用の人ともいわれた。そうして、絢爛たるワザの人ともいわれている。もちろん、すばらしい表現力に感嘆するけれども、その手前に、古い話をどうやって自分の命題に沿った形に造り直すかという問題があったはずである。私はむしろ、その点が演目のすくない理由だったと思う。自分の命題に沿えない話は演じない。そのうえ、ジャズがあくまでジャズであるように、あくまで古典落語として造り直すのである。

 いったん造り直した落語を、形式的に昇華するまで練る。これにも時間がかかったろう。そうしてそんな命題を表面にはケも見せない。

 ワザだけの伝承者ならば、才のある人はまだ他にもい居る。いったん命題化し、それに沿って形象化するというむずかしい作業をやっている落語家が他に居るだろうか。不器用といわれ、たしかに時間がかかり、苦闘もしてけれど、それは当然のことではあるまいか。

 たとえば円生は、芸界の家に生まれ、芸に生きることを当然として育った。円生の芸は、芸の道を本筋として考える人の芸だったと思う。文楽や志ん生は、ただの庶民の子で、自分流の生き方をつかむまでじたばたし、手探りで芸の道に来た。せんかたないことながらそこがちがう。彼らはもともと特殊人ではなくて、普通人のはずれ者なのである。この点、当代の志ん朝と談志にはめると、どんなことがいえるだろうか。

『寄席放浪記』色川武大(河出文庫)p51〜54。


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