2016年1月 3日 (日)

新年、あけましておめでとうございます。

あけましておめでとうございます。

暖かい穏やかな、お正月です。本年もどうぞよろしくお付き合いのほど、お願い申し上げます。

今年も、おせち料理は「弁いち」(浜松市)さんにお願いしました。12月31日の午前中に届きました。ありがとうございました。去年は写真を撮るのも忘れて食べてしまったので、今年はしっかりと記録に残しますよ。でも、iPad で撮ったらフォーカスがイマイチだ。ごめんなさい。

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■ほんとうに一品一品が店主の技と粋と真心の結晶で、どれもこれも、じつに美味しかったです。家族4人で、2日の夜までに完食でした。ごちそうさまでした。


YouTube: MC☆ニガリ a.k.a. 赤い稲妻【MV】「こんばんは」

■高校生ラップ選手権で2連覇を成し遂げた「MC☆ニガリ a.k.a.赤い稲妻」君のことを知ったのは、つい数日前のことだ。

12月29日の午前中、NHKラジオ第一で「すっぴん」を聴いていたら、宮沢章夫さんと高橋源一郎さんが「日本のラップ特集」をやっていて、そこに高校生ラップ選手権2年連続優勝した、MCニガリ赤い稲妻くんが生出演していた。なんと!長野県伊那市出身だって。

続き)ラジオでは、コンビニまでチャリで20分かかる田舎に住んでるって言ってた。年末に帰って来た長男に訊いてみたら、手良在住で伊那東部中の同学年。中学時代は何度も話したことあると言ってて、またビックリ。確かに、竜東線国道沿いのセブンイレブンまでおりてくれば、20分はかかるか。

続き)あ、伊那高遠線のセブンイレブンか。それなら確かにチャリで20分はかかるぞ。MCニガリa.k.a 赤い稲妻。 

■紹介したPVは、長野県伊那市高遠町にある長野県立高遠高校の空撮から始まる。MCニガリの母校だ。ほぼノーカット・ワンシーンで撮られていて、めちゃくちゃカッコイイ。PVの後半は、ニガリの実家がある、伊那市美篶手良の田園風景。これもワンシーン・ノーカットで撮られている。途中でニガリに帽子を渡すのが、HIP HOP 業界では何故か有名な「ニガリのおじいちゃん」だ。

都築さんも言っているが、地方のイケてない男子高校生が女子にモテようとするなら、まずはバンドだ。それには勿論、ギターが上手くなければならないし、他のバンドメンバーを揃えなければ、いくらギターが上手くても一人だけでは地方大会には出場できない。

つまり、いきなしハードルは高いのが現実だった。

ところがどうだ。ラップを始めて3ヵ月のニガリくん。いきなし全国大会出場の名誉を得る。楽器も弾けないし、バンドも組めない「たった一人きり」だったのに。

凄いな。



2015年12月30日 (水)

『ポップスで精神医学:大衆音楽を”診る”ための18の断章』(日本評論社)山登敬之、斉藤環、松本俊彦、井上祐紀、井原裕、春日武彦

「この本」は面白かったな。さすが手練れの文章家揃いで、一気に読まされてしまったよ。

もちろん、勉強にもなる。それに、信じられないような「花形人気精神科医夢の共演企画」であり、それがピタリと決まって、予想以上に執筆者たちがお互いに対抗意識丸出しで、みな結構本気の真剣勝負に挑んでいるのだ。手を抜いて軽くいなしたような文章が一つもないことに驚く。

山登敬之氏の「はしがき」によると、この本は『こころの科学』164〜181号に連載された、6人の精神科医による「この病、この一曲 --- 大衆音楽を“診る”ための18の断章 」を編み直し、一冊にまとめたもので、

企画の趣旨は、精神科医は自分のこだわりのある病気をひとつ選び、同時にそれを語る際のテーマとなる一曲を選んで思いの丈をぶつけてみようというもの。

内容的には、斎藤環の言葉を借りていうと、「精神疾患の隠喩として大衆音楽をサンプルに」とる手法を用い、ふだん馴染みの薄い精神科の病気を一般向けに解説しようと考えた

のだそうだ。いやぁ、これは「企画」の勝利だね。

【山登敬之】

・『天才バカボンアニメ主題歌 →「発達障害」

・『少女』五輪真弓 →「摂食障害」

・『DESIRE --情熱 --』中持明菜 →「性同一性障害」

【斎藤環】

・『トランジスタラジオ』RCサクセション(忌野清志郎)→「中心気質者」

・『失恋記念日』石野真子 →「解離(離人症)」

・『友達なんていらない死ね』神聖かまってちゃん →「いじめ」

【松本俊彦】

・『ステップUP↑』岡村靖幸 →「薬物依存」

・『ま、いいや』クレイジー・ケン・バンド →「うつ病・自殺予防」

・『サヨナラ COLOR』スーパー・バター・ドック →「アルコール依存症」

【井上祐紀】

・『タンゴむりすんな!』TVドラマ「あばれはっちゃく」主題歌→「ADHD」

・『Get Wild』TM NETWORK(小室哲哉)→「乳児のこころの安全基地」

・『Something Jobim 〜光る道〜』祐生カオル →「PTSD/ネガティブ体験」

【井原裕】

・『遠野物語』あんべ光俊 →「対象喪失後も人生は続く」

・『ANAK(息子)』杉田二郎 →「マザコン:親不孝息子から母へ」

・『風』はしだのりひことシューベルツ →「北山修を定義する」

【春日武彦】

・『昆虫ロック』ゆらゆら帝国 →「統合失調症」

・『ケッペキにいさん』吉田美奈子 →「強迫症状」

・『逃ガサナイ』あざらし →「ストーカー」

■さすが「あまのじゃく」な春日武彦氏だ。氏が選んだ「3曲」は、すべて聴いたことがなかった。取り上げられた18曲のうち、聴いたことがあるのは10曲。多いのか少ないのか、よく分からないけれど。

でも、便利な時代になったもので、聴いたことのない曲も、本を読みながら「YouTube」で検索して聴くことができた。斎藤環氏オススメの「神聖かまってちゃん」。名前は知っていたが、ちゃんと聴いたのは初めて。衝撃的だった。ただし、春日武彦氏が選んだ『逃ガサナイ』あざらし だけは、どうしても見つからなかった(^^;; 「ケッペキにいさん」も、吉田美奈子のオリジナルじゃなくて、サーカスのヴァージョン。それにしても「いい曲」じゃないか! 大瀧詠一&細野晴臣の楽曲を彷彿とさせる名曲だ。


YouTube: CIRCUS Keppeki Niisan


ちょっと興味深いことは、これらの文章が「どういう順番で」連載されたのか? ということだ。

この本では、前掲の【もくじ】のように同じ著者ごとに載っているが、連載時は6人が順番で執筆していったはずだ。『こころの科学』は定期購読していないので、連載時の同誌で僕が持っているのは2冊のみ。166号「赤ちゃんの精神保健」と、170号「いじめ再考」だ。見てみると、前者(連載第3回)には松本先生の「岡村靖幸」が、後者(連載第7回)には山登先生の「少女:五輪真弓」が載っていた。

ということは、やはり本に収録された順番で執筆されたのか?

ただ、読みながら思ったことは、6人の執筆者がお互いの文章に影響されて、更なる「一篇」を編み出していることが手に取るように感じられたのだ。こういうのって、今までありそうでなかったよなぁ。

■巻頭が『天才バカボン』とは、山登先生の初球変化球攻めにほくそ笑む。五輪真弓『少女』は想定内だったけれど、新宿二丁目の「おかま」たちが、中森明菜『デザイアー』(ぼくの大好きな曲だ!)と結びつくとは思いも寄らなかった。恐れ入りました。

驚いたのは、斎藤環先生の「忌野清志郎愛」だ。いつも冷静な氏からは想像も出来ないような直球ど真ん中の熱い文章だった。そしたら、続く松本俊彦先生の「岡村靖彦愛」も、ぜんぜん負けていない熱烈な文章でほんと感動した。ところが、同じく著者自身の個人的音楽体験に根ざした昔から愛聴してきたお気に入りミュージシャンを取り上げているのに、何故かよそよそしい井上祐紀先生の「小室哲哉論」が実に対称的で興味深かった。

井原裕先生の「北山修愛」も相当なものだぞ。ぼくも最近ウイニコットを勉強していて、北山修先生にはお世話になっているのでした。

『ANAK(息子)』は、杉田二郎ヴァージョンでなく、オリジナル「タガログ語」のシングル盤を持っている。先日テレビで中居正広クンが落ち込んだとき「この曲」を聴いて元気を出すと言っていて驚いた。『ポップスで精神医学』(日本評論社)p212を読んでいる。この本は、ほんと面白いなあ。 2015年12月19日
■この本を読みながら疑問に思ったことがある。それぞれの文章には、取り上げられた楽曲の「歌詞」がほぼ全て転載されているというのに、著作権にうるさい「JASRAC(日本音楽著作権協会)」の「あのマーク」が、参考文献の欄にも、本の巻末にも載っていないということだ。歌詞の権利関係は、いったいどうなっているのか? たいへん興味深い。

2015年12月23日 (水)

今月のこの1曲。 タートルズ『Happy Together』


YouTube: Happy Together - Turtles

■この曲は、アメリカのロックバンド「タートルズ」が 1967年に全米ナンバーワンを獲得し、世界中で大ヒットを飛ばした曲で、僕も小学生の頃に聴いた憶えがある。先日、この曲がじつに印象的に使われている「お芝居」を観てきた。ケラリーノ・サンドロビッチ作・演出、ナイロン100℃公演『消失』だ。

■何処か知らない国の近未来。戦争の終わった片田舎で、仲よく慎ましく暮らす兄弟二人をめぐる、クリスマスから大晦日までの7日間のおはなし。

最初と最後に「この曲」が流れるのだが、開演時はガット・ギターでのカヴァー・ソロ演奏、ラストで舞台が暗転してスクリーンに出演者の名前が次々と映し出され、そのバックで流れるのが、このオリジナル版だった。

お芝居は、年末まで下北沢「本多劇場」にてもう数ステージ公演が続くので「ネタバレ」できないワケだけれど、3時間強の公演時間(前半2時間、休憩をはさんで、後半1時間)が、ぜんぜん長くは感じられなかった。やっぱり傑作だよ。でも、感動の涙というのとは正反対の、見終わった後に圧倒的な「虚無感、虚脱感」が襲ってくる舞台だったな。

ケラさんは、この芝居の脚本を執筆中に「小津安二郎」の映画を集中的に見ていたそうだ。で、映画『晩春』の最重要シーンから、原節子と笠智衆のセリフをそのまま4ページ拝借したのだという。え、どこに? と思ったら、休憩のあと第2幕が始まってすぐの、弟(スタン:みのすけ)と兄(チャズ:大倉孝二)の会話が「まさにそのまま」だったので、ゾクゾクっときた。

かたや「父と娘」、かたや「兄と弟」。あれ? でもちょっと変だよ。いっしょにいて楽しいのは、恋人同士の「男と女」なんじゃないか?

 
純粋無垢な人。それは、死者に花束を添えたネアンデルタール人だったのだろうか? 今日、本多劇場で『消失』を観てきた。今になって、じわじわとこみ上げてくるものが沢山あるな。(12月20日
『消失』を英語でいうと「disappearance」だから、見ている眼の前で消えて無くなるという意味になるな。だから、落とし物を紛失することとはぜんぜん違う。芝居を観ながら思い浮かべたものは、黒澤明『白痴』北野勇作『かめくん』それに、高田渡と加川良が唄ったローランサンの『鎮静剤』だった。
その昔「ウナセラディ東京」って歌があったけど、ナイロン100℃のお芝居『消失』を見終わって劇場を後にした自分の全てを支配していた感情は「やるせなさ」だった。映画監督成瀬巳喜男は「ヤルセナキオ」と呼ばれていたそうだが、これほどの脱力感と無力感に打ちのめされようとは予想だにしなかった。
『消失』ラストの、みのすけ氏のセリフ「あっ!鳥が鳴いた」は意味深だ。素直に取れば、青い鳥の希望を予感させるが、現実は「炭鉱のカナリア」なのだから、カナリアが鳴いたということは、そうとうにヤバイ状況が直近であるということだ。朝ドラ『あさが来た』でも、炭鉱落盤事故の直前にメジロが鳴いた。

■芝居の感想をもう少し。大倉孝二さんて、ひょろりと背が高いんだね。テレビでしか見たことなかったから、実寸大のデカさに驚いてしまったよ。あと、みのすけさんの声がよかったな。

それから、ケラさんの舞台といえば「プロジェクション・マッピング」の妙だ。松本で観た『グッドバイ』でも、WOWOWで見た『わが闇』でも、スタイリッシュで実にかっこよかったけれど、『消失』の舞台でも驚くほど効果的に機能していた。

後半、兄(チャズ)がずっと隠してきた事実が、皆の前であらわにされる場面で、突如、舞台セット全体がドロドロと溶解しはじめるのだ。今まで、確かな現実として、そこにあったものが、あれよあれよと溶けて無くなってゆく。いわゆる「現実崩壊感」っていうのは、こういう感じだったんだ。

不気味で居心地の悪い厭な気分に、観客はみなさらされたはずだ。

でも実際には、プロジェクターでイリュージョン映像がセットに重なって映し出されていただけで、本物のセットは溶け出したりはしてなかった。でも、あの時のぼくは、まるで統合失調症の患者さんの内面をリアルに体感しているみたいな気分だった。なんかこう、ぞわぞわと居心地の悪い、全てを消し去りたい気分。

■このお芝居を観ていて、登場人物6人の誰に一番感情移入したかというと、僕はやっぱり、犬山イヌ子さんが演じたホワイト・スワンレイクだな。弟のスタンより1歳若いとはいえ、もう40代の独身女性。過去にはいろいろとあった。でも、ネアンデルタルー人のことが好きで、果てしない宇宙のはなしが大好き。忘れ去られても、また、一から「二人の想い出」を作っていけばそれでいいのだ。記憶とはそういうものさ。

このお芝居の中では、彼女の孤独と哀しさが際だっていたように思う。


YouTube: "Happiness comes only through effort" - Late Spring (1949, Yasujiro Ozu)

■「おとうさんはもう、56だ。おとうさんの人生はもう終わりに近いんだよ。」と、笠智衆は言っているが、おいおい、57歳の俺より、実は若かったのかよ! ビックリぽんや。


YouTube: Yasujiro Ozu - (1962) Sanma no aji / Autumn Afternoon/ Il gusto del sakè [Scena del bar]

小津安二郎の『晩春』を YouTube で探していたら、『秋刀魚の味』で僕が一番好きなシーンが見つかった。

笠智衆:「けど、負けてよかったじゃぁないか」

加東大介:「そうですかね。ふーむ、そうかもしれねぇなぁ。バカな野郎が威張らなくなっただけでもね。館長、あんたのことじゃありませんよ。あんたは別だ。」


2015年12月12日 (土)

12月12日は、小津安二郎の誕生日&命日

■女優の原節子が亡くなった。

ただ、ぼくの中では「永遠の人」だから、彼女は決して死ぬことはないのだ。そら、映画『東京物語』の中でも言っていたでしょ。「わたし、年をとらないことに決めてるんです」ってね。

今週号の「週刊文春」12月17日号の、小林信彦の連載「本音を申せば」のタイトルは、「原節子という大きな星」だった。読んでいて気になったのは、小林氏が

「戦時下での原節子の映画でハッとするのは一本だ。(中略)『望郷の決死隊』と同じ43年、山本薩夫の『熱風』である。」

と書いていることだ。この『熱風』は見たことがない。見たい。ぜひ見たい!

それから、小林さんが「木下恵介の映画の中で、ぼくがもっとも好きな作品だ」と言って、紹介しているのが『お嬢さん乾杯!』(昭和24年公開。木下恵介監督作品、佐野周二、原節子主演)だったこと。なんだか、うれしくなっちゃったな。

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原節子というと、戦前の映画『河内山宗俊』『新しい土』での、まだ10代だった彼女の笑顔と、ぼくが大学病院で受け持った高校生の女の子、Hさんの笑顔がそっくりだったことを思い出す。夏目雅子と同じ病気で美人だったHさんは、原節子さんの一生の6倍の速さで人生を終えた。

■彼女のことは、ずいぶんと以前に書いたような気がする。小津安二郎・生誕100年 そして、原節子のこと。(2003/12/12)(クリックして、下のほうへスクロールしてゆくと出てきます)

ぼくの一番の原節子は、やっぱり『東京物語』だけれど、『麦秋』の台所で一人「お茶漬けさらさら」の場面と、ラスト前の藤沢「鵠沼海岸」でのシーンも好き。あと、木下恵介『お嬢さん乾杯!』と、成瀬巳喜男『めし』も。小津安二郎『秋日和』の喪服姿も案外好きだったりする。合掌。(2015年11月26日

2015年12月 6日 (日)

伊那のパパズ絵本ライヴ(その121)伊那市役所1階多目的ホール

■12月になって、いよいよ寒くなってきました。今朝も風が冷たかった。

今日は、午前10時30分から「伊那市子育て支援課」主催のパパズです。市役所1階の多目的ホールには、この寒空のなか「70組もの親子連れ」が集まってくれました。トータルでは、160人以上だったそうです。ほんと、ありがとうございました。

日ごろ、当院の外来でよく見る子供たち、お母さんも多くて、なんか恥ずかしいような嬉しいような。お父さんの姿も多数見受けられましたよ。子育てには、いい時代になってきたのかなぁ。今日は恒例の「サンタさんの衣装」での登場だ。

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<写真をクリックすると大きくなります。倉科さんのFBより、勝手に写真を拝借いたしました。ごめんなさい。>

< 本日のメニュー >

 1)『はじめまして』新沢としひこ(ひさかたチャイルド)

 2)『このすしなあに』塚本やすし(ポプラ社)→伊東

 3)『しろくまのパンツ』tuperatupera(ブロンズ新社)→北原

     「安心してください。 はいてますよ!」

 4)『かごからとびだした』(アリス館)

 5)『メリークリスマスおおかみさん』宮西達也(女子パウロ会)→坂本

 6)『うんこしりとり』tuperatupera(白泉社)

 7)『すもうまん』長谷川義史(講談社)→宮脇

     「内掛け〜 上手投げ〜 猫だまし〜 五郎丸〜」

 9)『すてきなぼうしやさん』増田裕子・歌、市居みか・絵(そうえん社)

 10)『オニのサラリーマン』富安陽子・文、大島妙子・絵(福音館書店)→倉科

 11)『ふうせん』(アリス館)

 12)『世界中のこどもたちが』新沢としひこ&中川ひろたか(ポプラ社)


YouTube: ようちえんのブルース

■これはですね、2014年9月7日(日)「飯田市立上郷図書館」での、われわれの「絵本ライヴ」から、倉科パパと、絵本作家:飯野和好さんとのジョイント即興セッションを伊東パパがアップしてくれたものなんです。これは、ホントよかったなぁ。

■次回「伊那のパパズ」は、2016年1月16日(土)午前11時から、山梨県笛吹市石和町「山梨英和プレストンこども園」(クローズドの会です)と、

■2016年1月17日(日)午後1時半 から、山梨県北杜市須玉町「須玉ふれあい館ホール」(こちらは、参加オープンだと思いますが、あらためて確認いたします。)


2015年11月29日 (日)

浜田真理子「のこされし者のうた」を聴く


YouTube: 教訓Ⅰ-浜田真理子

浜田真理子「のこされし者のうた」を聴く

 

 

 「これは!?」と思う歌は、いつだってラジオから流れてくるようにできているんだ。

 数ヶ月前、祝日の午前中だったか、NHKラジオ第一を聴いていたら、知らない女の人が、加川良の「教訓 Ⅰ」をピアノで弾き語りしていた。スローなテンポで囁くように訥々と歌っていて、原曲とは全く異なるイメージの曲に生まれ変わっており、たまげてしまった。

 そういえば、今でも大好きな加川良を初めて聴いたのもラジオだった。中学1年生の冬、東海ラジオの深夜放送「ミッドナイト東海」(チェリッシュの二人か、森本レオがDJだった)から流れてきたのが、加川良の「下宿屋」で、歌わない歌にほんと衝撃を受けた。当時は、吉田拓郎と肩を並べる人気者だった彼の代表作が「教訓 Ⅰ」なのです。

 NHKのラジオ番組は、「あまちゃん」の音楽監督を務めた大友良英氏の『音楽とコトバ』で、この日のゲストは、島根県松江市在住のシンガー・ソングライター、浜田真理子さんだった。誰? 20年くらい前にヒット曲を出したJポップ人気アイドルか? あ、それは永井真理子だ。浜田麻里とも高橋真梨子とも違うらしいぞ。謎は深まるばかりだ。

 しかし、便利な時代になったもので、Google と YouTube で検索すれば、たちどころに答えが出る。どうもピアノの弾き語りをする人らしい。

 聴いてみると、じつに澄んだ伸びのある歌声。きれいな発音で英語の歌も唄い、しかも凛とした女性の気高さがある。でも、ジャズ・ヴォーカルではないようだし、ピアノも決してスウィングしない。西田佐知子や島倉千代子の昭和歌謡もカヴァーするし、浅川マキが好きで、中島みゆきのような女の怨念が込められたオリジナル曲「ミシン」も唄う。

ネットで聴いていたのでは物足りないから、結局CDを4枚購入し、2014年末に出た彼女の自叙伝『胸の小箱』浜田真理子(本の雑誌社)も買ってきて読んだ。いやぁ、波瀾万丈の人生だなぁ。またまた、たまげてしまったよ。

 彼女は、1964年生まれの51歳。父親は水商売の人で、早い夕食のあと、そそくさと出雲で経営するスナックに行く父母を幼い妹と見送った小学生の彼女は、深夜眠れぬ夜に裸電球ひとつ灯る階段の上のほうに腰かけて、未だ帰らぬ父母を待つ日々。淋しい。でも、長女だから泣いちゃいけないんだ。

 ピアノと歌が上手かった彼女は、島根大学4年生の時に温泉芸者の置屋に住み込み、父親が玉造温泉でやっていたピアノ・バーで弾き語りを始める。酔っぱらいのリクエストに応えて昭和歌謡も歌わされた。当時つきあっていた社会人の彼氏に、初めてジャズ・ピアノを教わる。ビル・エヴァンズにバド・パウエル。未知の世界が広がる。本格的にジャズを勉強したい。そうだ!大学を卒業したら東京へ行こう。

 しかし、彼女の夢は叶うことはなかった。駆け落ちのようにして彼が住む鳥取のアパートに転がり込み新婚生活が始まる。ナイトクラブでピアノを弾き、年増のホステスに意地悪されながらも我慢してお金を貯め、東京進出を夢見ていた。そんな時に両親が離婚。バタバタするうちに、東京行きどころではなくなり、娘も生まれて松江へ転居。娘の名前は「美音子」と名付けた。

 彼女が3歳になった時、今度は自分が離婚。古本屋の店番をしながら、週末は松江のライヴハウス「ビーハイブ」に通って自作曲をピアノで弾き語りをする。そんな頃に出会ったのが、アメリカ人のウディだ。誠実な彼に心底惚れてしまった彼女は、ビザが切れて本国へ帰ってしまった彼を追ってアメリカへ。

 優柔不断な彼氏は、両親や前妻との間に生まれた娘とも会わせ、彼女のことを自分の家族に認知させておきながら、彼女がアメリカを離れるその日に「実は結婚できないんだ」と切り出す。卑怯じゃないか! そんなの。

 失意のうちに帰国した彼女を待っていたのが地元の仲間たちだった。本来楽天的で前向きな彼女は、さすがにこの時ばかりは落ち込んで、パニック障害の症状に悩ませれていたのだが、ただ歌い続けることでリハビリに励んだ。娘のためにも定職に就かなければと職業訓練学校に通い、パソコン技術を学んで初めてOLとなる。日勤が終われば、小学校に通っている娘を迎える。そんな母と子の平凡な日々が続いた。

 「ビーハイブ」の常連「修ちゃん」が、1997年のある日こう言った。「真理子、おまえのアルバムを作るぞ」。地元出雲市の公民館や松江市のホールを借りて、週末に1曲づつ録音されていって出来上がったのが、浜田真理子ファースト・アルバム『mariko』だ。出雲市のインディーズ・レーベルから、1998年に500枚だけ売り出された。

 2001年になって、再プレスされた「このCD」が、東京のタワーレコード・ジャズフロアーで注目される。誰も知らない歌手。誰?この人。噂は噂を呼んで、口コミで静かにそっと売れ続ける。直ちにマスコミも注目した。2004年には、TBSテレビ『情熱大陸』で彼女が取り上げられたのだ。たちまち彼女は全国区となる。

 あれから10年以上が経って、いまや浜田真理子は有名人だ。でも、ぼくが知ったのは、ほんの数ヶ月前。不思議だなぁ。

 YouTube を検索すれば、浜田真理子でいっぱい楽曲が上がっていると思います。個人的には、YouTubeで全曲フルで聴ける最新CD『Live. La solitude』が一番のオススメなのだが、やっぱり、デビューアルバムから「のこされし者のうた」を、是非とも聴いて欲しい。

 よく、デビューアルバムには「そのミュージシャンの全てがある」といわれる。そりゃそうでしょう。CDを出すまでには、十数年の下積み生活と書き溜めた自作曲があるのだから。

 例えば、同じくピアノの弾き語りをする綾戸智恵のCDは最初から3枚までが一番いい。乳癌を患っていた彼女は、幼い息子を残したまま死ぬかも知れないと当時真剣に悩んでいたので、なんて言うかな、歌声に凄味があるのだ。まるで、遺言状みたいな感じでね。

 それは浜田真理子の『mariko』でも同じで、音に声に、もの凄い気迫と覚悟が込められていて、聴いていてその迫力に圧倒されてしまうのだ。山陰の地方都市のナイトクラブで、『あまちゃん』に登場した「ユイちゃん」と同じように、憧れていた東京行きも結局叶うことなく田舎にくすぶり続け、さらにはシングルマザーとなって誰も頼る者もなく、ただ日々の生活の安寧と娘の幸せだけを願ってピアノを弾いていた彼女の心の叫びが、このCDには確かに録音されていたのだった。

 そんな彼女も、当初は勤めていた会社の有給休暇を取っては東京まで出て行き、ライヴ活動をしていたのだけれど、40歳を過ぎて会社も辞め、ようやくプロ歌手として認知されるようになったのだった。しかし、東京の大手レコード会社からの執拗な誘いも断り、未だに故郷の松江市を頑なに離れようとはしない。

 ところで、女手ひとつで育て上げた娘さんにも子供が生まれて、今や彼女もおばあちゃん。しかも、双子の女の子なんだって。ほんと「びっくりぽん」や。


YouTube: のこされし者のうた-浜田真理子


2015年11月22日 (日)

菊地成孔は、やっぱ天才だな。

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< 写真をクリックすると、もう少し大きくなります。>

■『時事ネタ嫌い』を読み終わって、著者の絶望と諦観が直に伝染してしまい、めちゃくちゃブルーな気分に陥ってしまった。

『時事ネタ嫌い』菊地成孔(文庫ぎんが堂)。今からたった5年前のことだというのに、その当時の雰囲気をすっかり忘れてしまっている自分に驚く。例えば、東日本大震災が起こる少し前の日本のことを、あなた、憶えていますか? ぼくは「この本」を読んで思い出しました。当時の日本国民のほとんどが、民主党政権に飽き飽きしていたことに。鳩山(宇宙人)首相が辞任した後を継いだのが、そうそう、菅直人だった。

彼は、財務省官僚に刷り込まれた消費税アップを公言してしまう。おいおい、官僚の言いなりロボットにだけはなるまいと誓って政権についたんじゃなかったっけ。民主党政権が失敗した原因は簡単だ。戦後日本がアメリカの属国であることを知らない鳩山さんが沖縄で発言した内容に、アメリカ本国が激怒し、鉄槌をくらわしたことと、長妻元厚生労働大臣が東大卒エリート官僚を鼻からバカにしきって、政治主導の名の下に突っ走ろうとし、部下の官僚からまんまと足下をすくわれたこと。

つまりは、霞ヶ関は政治家が動かしていると勘違いしてしまった民主党議員たちが、幼稚園児ほどの知性と経験もなかったことによるワケだ。アメリカと官僚に逆らっちゃぁ、ダメでしょ。政治をやろうとするなら。

■じゃぁ、アメリカ従属で言われるままに政治をすれば、それで上手くいくのかというと、今やとんでもない事態に陥ってしまっているわけで、『戦後入門』加藤典洋(ちくま新書)を読みながら、これからわれわれはどうしていったらよいのか勉強しているところです。

ブルーな気分のところに、『小田嶋隆の ア・ピース・オブ・警句』より、11月13日(金)の「安倍政権支持率回復の理由」を読んだら、ますます暗くなってしまった。小田嶋さんは「そこ」まではっきりと言っていないけれど、安倍さんは戦争も始めちゃえば国民は仕方なくついてくると思っているんじゃないか。

■それにしても、菊地成孔氏の文章は麻薬的中毒性がある。いつまでもずっと読んでいたくなるのだ。村上春樹氏のエッセイを読んでいる時にも同じように感じるから、文章のリズムがジャズ的グルーヴ感にあふれているってことなのだろう。

続けて、最近出たばかりの『レクイエムの名手』(亜紀書房)を入手し、さっそく読み始めた。追悼されている人々がみな、ぼくも良く知る人たちばかりだから堪らない。我慢できなくて、まえがきを読んですぐ「あとがきにかえて」を読む。濃いなぁ、菊地さん。凄すぎるぞ!

菊地成孔『レクイエムの名手』(亜紀書房)を読み始める。めちゃくちゃ面白い。追悼文集に対して「面白い」は失礼かもしれないが、本当のことだから仕方がない。スイングジャーナル元編集長、中山康樹氏の項に登場する『かんちがい音楽評論』中山康樹(彩流社)が未読のまま手元にあって笑った。

続き)巻頭の「二つの訃報」が、とにかく濃い。菊地さんの他を圧倒する文章を久々に読んで感嘆の溜息をついた。だが、待てよ。これ読んだことあるぞって思ったら、『歌舞伎町のミッドナイト・フットボール』菊地成孔(小学館文庫)からの再録だった。

2015年11月15日 (日)

伊那のパパズ絵本ライヴ(その120)箕輪町松島コミュニティセンター

■パパズもこのところ出番が多い。ありがたいことです。

今日は、久々にフルメンバーでの登場だ。お父さん、おかあさん、こども達の親子連れが30組くらいは集まってくれたかな。楽しんでくれたらいいな。

ほんと、ありがとね!

          <本日のメニュー>

 1)『はじめまして』新沢としひこ(ひさかたチャイルド)

 2)『あー・あー』 三浦太郎 →伊東

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 3)『ぼうしとったら』tupera tupera(Gakken)→北原

 4)『かごからとびだした』(アリス館)

 5)『かめ(甕)』飯野和好(ビリケン出版)→坂本

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 6)『へぇこいたのだれだ?平田昌弘・作、野村たかあき・絵(くもん出版)→宮脇

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 7)『うんこしりとり』tupera tupera(白泉社)

 8)『3びきのかわいいおおかみ』ユージーン・トリビサス作、ヘレン・オクセンバリー絵(冨山房)→倉科

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 9)『ふうせん』(アリス館)

 10)『世界中のこどもたちが』(ポプラ社)

倉科さんの『3びきのかわいいおおかみ』は、けっこう長いおはなしだったけれど、みな倉科パパの巧みな読み聞かせに引き込まれて大笑いしたかと思ったら、次には直ちに集中して、一言も聞き漏らさないように最後までちゃんと聞いていた。

「こんな時」だからこそ、みな「この絵本」が心に沁み入ったんじゃないかな。

絵本の読み聞かせの醍醐味を、久々に実感させられた瞬間でした。

恐れ入りました。

■次回「パパズ」は、12月6日(日)午前10時半より、伊那市役所1F「多目的ホール」です。

2015年11月12日 (木)

今月のこの1曲。 小坂忠『機関車』

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■先週の土曜日の夕方 WOWOW でやっていた「ALFA MUSIC LIVE」を録画して、もう一度見ているところなのだが、これ、いいなぁ。ほんとにいい。

昨日の夕方、WOWOWでアルファレコードの創設者である村井邦彦の古希を豪華ミュージシャン総出で祝うライヴを見ていて、なんともいい気分になった。だって、知ってる曲ばかりなんだもの。それに、ハウスバンドはキャラメルママ(正しくは、ティン・パン・アレイ)だし、小坂忠「機関車」は聴けるし。

■村井邦彦は、赤い鳥の代表曲「翼をください」の作曲者としても有名な人だ。この日は、当時の赤い鳥メンバーのうち「紙ふうせん」の2人だけが登場し、ハイファイセットの山本潤子は欠席だった(現在は完全に活動停止状態とのこと)。彼女の夫でもあった山本俊彦は昨年3月突然他界し、大川茂はたしか悪事に手を貸し、ずいぶん前に芸能界から消えた。

「赤い鳥」は伊那市民会館へ労音のコンサートに来て、当時中学2年生だったぼくは聴きに行った記憶がある。1972年のことだ。その翌年、ガロの「学生街の喫茶店」がヒット。ガロのメンバーも、3人のうち2人がすでに故人だ。この年、中3の冬に、TBSラジオのアナウンサー「林美雄」のパック・イン・ミュージックで、はじめて荒井由実の「ベルベット・イースター」を聴き大変な衝撃を受ける。

ただ、あの当時まだ誰も、ぼくのまわりで荒井由実のことを知る人はいなかった。

そして、1975年2月。高1でスキー教室に参加した車山スキー場で盛んに流れていた、キャッチーで実にかっこいい曲が、小坂忠の「しらけちまうぜ」だった。そのことも、少し前に書いた覚えがある

スキー場といえば、原田知世主演の映画『私をスキーに連れてって』が公開されたのが、1987年11月。松任谷由実の「サーフ天国・スキー天国」と「恋人はサンタクロース」が、映画の印象的なシーンで使われていた。映画ロケ地は、西武のプリンスホテルがある、志賀高原焼額山スキー場と万座温泉スキー場。

当時は、猫も杓子もスキースキーのバブル隆盛期で、週末明け方の国道18号線(上越道はまだなかった)には、百台以上のスキーバス(志賀高原行き・野沢温泉行き・斑尾高原行き)が列をなしていたな。いい時代だった。しみじみ。

■WOWOW の番組を見ながら、アルファレコードの歩みと、ぼくが中学・高校・大学と過ごしてきた時代が、リアルタイムでぴったり一致していることに気が付いた。だからみんな懐かしい知ってる曲ばかりなんだ。

見ていて一番うれしかったのは、細野晴臣の紹介で小坂忠が登場し、ティン・パン・アレイ(鈴木茂・細野晴臣・林立夫・松任谷正隆)をバックに「ほうろう」「機関車」の2曲を熱唱してくれたことだ。


YouTube: 小坂忠 Chu Kosaka: 機関車 La locomotive

 

■小坂忠に関しては、ずっと以前の「今月のこの一曲」(2001/12/23)に書いた。(下までスクロールしていくと、綾戸智恵の上に、小坂忠『People』の記事があります)

「機関車」の初演は、アルファレコードから 1971年10月にでた、小坂忠ソロ・デビューアルバム『ありがとう』に収録されている。細野晴臣が全面バックアップして完成したこのレコードのタイトル曲では、細野さんがジェイムス・テイラーまっ蒼のアコースティック・ギターを弾いているぞ。


YouTube: ありがとう _ 細野晴臣&小坂忠.mpg

■この映像は、1970年代初頭、狭山市アメリカ村に隣同士で住んでいた細野晴臣と小坂忠の、狭山市の野外会場で催された再会セッションでの記録だ。

■アルバム『ありがとう』に収録された「機関車」と、1975年に出た『ほうろう』A面2曲目に再収録された「機関車」とでは、歌詞は同じなのに、曲の感じがぜんぜん違っている。前者は、ほのぼのとしたカントリー調の楽曲で、サビの「目がつぶれ/耳も聞こえなくなって/それに手まで縛られても」の部分が、「Aメロ」と同じままなのに対し、後者のヴァージョンでは、サビはR&B調の「Bメロ」に変えられているからだ。

「機関車」は、曲もいいが、やはり歌詞だ。特に2番。

   JASRAC からの通告のため、歌詞を削除しました(2019/08/06)

■CD『Early Days』のライナーノーツで、北中正和氏は小坂忠にインタビューしてこう書いている。

「機関車」は当時の世相を背景に生まれた曲でした曲でした。「ぼくらの学生時代は、大学がロックアウトされて、デモに行く奴や、音楽や芝居をやってる奴がたくさんいた。みんな既成のものに収まらない表現を作り出したいというエネルギーを持っていた。70年代になって、そういう連中が就職していくのを見ていて、複雑な気持ちだった」

「当時の世相」のというよりも、いや、むしろ「いま」の時代、これからの時代を生きてゆく「僕ら」そのままじゃないのか?

すでに決められたレールの上に乗せられ「あい色した嘘の煙をはきながら」皆といっしょに前へ前へと走らされることへの諦観。

だけど、「僕は君を愛しているんだ」っていう「本当の気持ち」を決して失わずに、それでも生きてゆくんだという決意、覚悟の表明なのだ。


YouTube: 機関車-浜田真理子

■大友良英さんのラジオを聴いていて、最近偶然に知った、ピアノの弾き語りをするキャリアの長いシンガー・ソング・ライター浜田真理子さん。いまも島根県松江市在住で、1964年生まれのシングルマザー。娘さんにも子どもが生まれて(双子の女の子!)今や、おばあちゃんなのだそうだ。

それで、あわてていま CDを集めているところなのだが、つい先日届いた 2013年東京渋谷でのライヴ録音盤、『Live. La solitude』(2014年/美音堂/SFS-017)にも、なんと、この「機関車」が収録されていた。何故かワザと感情の昂ぶりを押さえ淡々と唱っていて、これが思いのほかよいのですよ。このCDには、下田逸郎やレナード・コーエンの「ハレルヤ」。それに浅川マキの渋い曲「夕凪の時」もカヴァーされていて、しかも! 全曲フルで YouTube 上で試聴できるのです。ぜひ、ちょっと聴いてみて下さい。

■浜田真理子さんに関しては、もうちょっといろいろと書きたいので、また次回に「今月のもう1曲」とでもして取り上げる予定です。



2015年11月 7日 (土)

宮沢章夫 × ケラリーノ・サンドロヴィッチ(その2)

■「小劇場ブーム」に関して検索してみたら、一番上に載っている「小劇場演劇の流れと最新動向」が、コンパクトによくまとまっていた。リンク先の劇作家インタビューも大変充実している。

それから、1988年〜1992年にかけての演劇界をリアルタイムで批評してきた『考える水、その他の石』宮沢章夫(白水社)が、とにかく読ませる。

1985年に、シティボーイズ(大竹まこと・斉木しげる・きたろう)、竹中直人、中村ゆうじ、いとうせいこう等と共に「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」を結成した宮沢章夫は、「モンティ・パイソン」や「スネークマンショー」のビジョンを舞台でカッコよくスタイリッシュに表現することを目指した。そのために、コントとコントの合間に映されるスライド映像や音楽にも、かなりこだわった。その舞台を客席から見ていて「ガツン」とやられたのが、ケラリーノ・サンドロヴィッチと松尾スズキだった。たまらず、この二人も舞台を始めることに。以下、『考える水、その他の石』(白水社)より抜粋。

というのも、かつて「舞台」の上でなんらかの行為をすることによる表現を選択し、それを実行するにあたって私が第一に考えたのが、「演劇」でないものをやろうということだったし、それはとりも直さず「演劇」の存在そのものが制度的だと感じていたからであって、舞台で何かする目的、そこに実現しようと私が欲したもの、ラジカル・ガジベリンバ・システムという集団を通じてやろうとしたものは、「芝居」ではなく、無論「演劇」ではないし、では何かと言えばひどく愚鈍な「制度をぐらつかす事」以外になく、そこで最も制度的なもの、もはや「新劇」なんかどうでもよく、小劇場が「新劇」へのカウンターとして登場したことなんかも知ったこっちゃなくて、私の感じ方としてはただ漠然とした印象でしかありえぬ曖昧な「演劇」の中心に位置するものこそが「アングラっぽい」であったし、制度を代表する姿だったとすれば、それを今になって、面白いと魅力を感じているとは何ごとかという疑義が、「アングラっぽい」をあらためて思考しようとする契機になったのだった。(死んだ記号の廃墟から --- 「アングラっぽい」とは何か 『考える水、その他の石』p135)

 二十代のころ、演劇をどう壊そうか、そればかりを考えていたが、「壊そう」と考えているあいだ、それはすなわち「演劇」から逃れられないと自覚したのは、おそらく、この『考える水、その他の石』に掲載された文章をいくつもの雑誌に求められ発表してから間もないころではなかっただろうか。

 だったら、「演劇」をやろうと考えた。そのことでようやく、「演劇」から私は自由になれたと思ったのだ。だから、また「演劇」についてはもっと考えを深めようと思う。

(「おわりに」264ページ 改定新版『考える水、その他の石』)

■まだ誰も「大人計画」とその主宰者である松尾スズキの名を知らなかった、1988年。宮沢章夫は、当時マガジンハウスの雑誌『TARZAN』で連載していた劇評に2つの新米劇団の劇評を載せた。「劇団健康『カラフル・メリィでオハヨ』/大人計画『手塚治虫の生涯』」(考える水、その他の石』p108〜p109)だ。奥ゆかしい宮沢氏は、この二人のことを後輩とか弟子とか言わずに、こう書き始める。

 知人が出演、あるいは演出する舞台を同じ時期に二つ観た。ひとつがあのケラが主宰する劇団健康で、知名度も高く、一定の評価も与えられているが、もうひとつは、私の舞台にも出演してくれた松尾スズキの、そんな名前を聞いても、誰だそいつはと言われるだろうけど、まるで無名の大人計画である。

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■ケラさんは、有頂天というニューウェイヴ・バンドのリーダーで、その単なる余興から舞台を始めたように思われていたし、松尾さんにいたっては、北九州の大学で、野沢那智の劇団薔薇座に憧れて芝居を始めただけの、単なる素人の地方出身者に過ぎなかった。2人とも、東京の小劇場演劇ブームの王道からは全く関係の無い辺境の地に「ぽっ」と咲いた「あだ花」だったワケだ。

「その芽」を直ちに見つけ、当初から高く評価してきたのが宮沢章夫だった。考える水、その他の石』に載っている索引を見ると、「大人計画」は 14ページ、劇団「健康」は 3ページ、ケラが 4ページ、松尾スズキは、11ページにわたって取り上げられている。これらは「この本」でも破格の扱いだ。

 あれはたしか90年のころだったと思うが、いまはなき渋谷のシードホールを使い、まだ演劇の世界では認知されていなかった何人かと、「エンゲキ」とカタカナの言葉を使った演劇の催しに参加した。それを見ていたある批評家にある雑誌で事実誤認を含む、意味不明な批評をされた。

それに対して私は、批評家の書いた文章とまったく同じ文章を、少しずつ言葉を変えてそのまま批評家に対する反論とした。自分で書くのもなんだが、私にはそれが、ベストな文章だったと考えている。相手の言葉を使って、相手を罵倒する。こんなに小気味のいいことはない。

批評家は、催しに参加しトークした私や、松尾スズキ、ケラリーノ・サンドロヴィッチに対して、「演劇界で相手にされない者らがルサンチマンのようなものをかかえこんな場所で語りあっているのは醜悪だ」とでもいう意味の、よくわからないおかどちがいな批評をした。

演劇界に相手にされようがどうしようが、どうだってよかった私たちは、その文章の意味がほとんど理解できなかったが、なんの縁か、批評家の思惑とは裏腹に、その後、三人とも岸田國士戯曲賞を受賞してしまい、演劇界から相手にされたとき、批評家に対して私は、「ざまあみろ」と言ってやりたかった。(おわりに『考える水、その他の石』p261)

■この話は、ラジオでも宮沢さんがしていたな。よっぽど悔しかったのだろう。

ラジオでは、ケラさんが次回の舞台『消失』の紹介をしていた。ケラさん主宰の劇団「ナイロン100℃」が、2004年12月に紀伊國屋ホールで初演した芝居を、当時のオリジナル出演者のままで再演するからだ。これは観たいな。

それから、ラジオを聴いていて個人的に一番盛り上がったのは、ケラさんが(気を遣って)この12月15日から東急文化村シアターコクーンで初演される「ひょっこりひょうたん島」の脚本を宮沢章夫氏が書いている話を、「なんか大変みたいですね」と振ったところ、宮沢さんがいきなり絶句してしまったことだ。3秒間くらいの沈黙が確かにあった。

重症の肩凝りに苛まれながらも、苦労して何とか書き上げた脚本を、演出家の串田和美はなんと!いとも簡単に却下してしまったからだ。

それにしても、かなり集中して台本を書いたあと、10日間ぐらい肩から背中がガチガチになった。なんせ痛くてマウスが動かさなかったんだよ。その台本は没になったというか、役者には見せないと演出家。演出家って偉いんだなあ。ともあれ、あの痛みを返してくれ。

 

ほんと、大丈夫か? 舞台の幕が上がるまで、もうあと一月しかないぞ。ぼくも、1月の松本市民芸術館での公演チケットを既に入手しているのだぞ。

どうする 宮沢さん。エチュードだけでつなげてゆくのか?

■ところで、ミシェル・ウエルベック『服従』(河出書房新社)のことだが、11月8日(日)付、朝日新聞朝刊「読書欄」で、なんと、宮沢章夫氏が書評を載せている。1週間後にはネット上でも読めるようになるだろうが、これは読まなきゃだな。

 
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